麻田藩
(麻田県から転送)
麻田藩︵あさだはん︶は、江戸時代、摂津国豊島郡・川辺郡などを領有した藩。藩庁は豊島郡麻田村︵現在の大阪府豊中市蛍池︶の麻田陣屋。藩主は外様大名の青木家。初代藩主は青木一重。表高は元和元年︵1615年︶の立藩時には1万2千石で、元和3年︵1617年︶の分知後は1万石である。
概略[編集]
麻田藩立藩[編集]
初代藩主青木一重の父重直は美濃国出身で、当初は美濃の守護大名土岐頼芸に仕えていた[1]。 その子一重は当初今川家に仕え、今川家没落後は徳川家康に仕えた。三方ヶ原の戦いでは実弟の重経が討死し、その翌年の天正元年︵1573年︶に徳川氏の元を出奔し、織田信長の家臣である丹羽長秀に仕えていた父重直を頼り、長秀の家臣となる[1]。長秀の死後は重直とともに羽柴秀吉の家臣となった。 慶長19年︵1614年︶大坂冬の陣で一重は豊臣方の和議の使者として駿府に下向したが、その帰途京都で拘禁され徳川方の捕虜となった後、旧主家康の軍門に下り、摂津国豊島郡・菟原郡および備中国と伊予国に所領を与えられて麻田藩を立藩した[1]。青木家の治世[編集]
元和元年︵1615年︶、摂津豊島郡川辺郡の一部1万2千石で青木一重を藩主として成立した。元和3年︵1617年︶までに一重は旗本で弟の可直に2千石を分知したため1万石となった[1]。 元和5年︵1619年︶、一重は可直の子の重兼を養嗣子にして跡を継がせた。同じく一重の養子で廃嫡された青木正重は寛永年間、重兼を補佐している。寛永3年︵1626年︶には菟原郡および伊予国の所領は摂津国豊島郡・川辺郡に移された。 重兼には娘しかおらず、寛文12年︵1672年︶に徳川家最古参の譜代筆頭である酒井家と越前朝倉家の血をひく重正を養嗣子︵婿養子︶とした。重正は大番頭や側衆を務め、将軍徳川綱吉から厚い信任を受けた。元禄6年︵1693年︶8月15日に69歳で亡くなったが、この時も綱吉から侍医の森雲仙らを派遣されている。 以後、麻田藩は江戸時代を通じて青木家が治めたが、寛文年間に黄檗宗仏日寺の伽藍建築を行ったため、藩財政は窮乏した。酒や油などの必需品の領内生産の奨励、藩札の発行等の策を講じたが効果がなく、のちに藩札の管理は領民に委ねられた[1]。 明治4年︵1871年︶に廃藩置県を迎え、麻田藩は麻田県となった。藩主青木家は華族に列し、1884年︵明治17年︶の華族令でに子爵に叙爵された。歴代藩主[編集]
青木家[編集]
外様1万2千石 ︵元和元年︵1615年︶ - 1871年︵明治4年︶︶- 一重(かずしげ)〔従五位下・民部少輔〕
- 重兼(しげかね)〔従五位下・甲斐守〕
- 重正(しげまさ)〔従五位下・甲斐守〕
- 重矩(しげのり)〔従五位下・甲斐守〕
- 一典(かづつね)〔従五位下・甲斐守〕
- 一都(かづくに)〔従五位下・出羽守〕
- 見典(ちかつね)〔従五位下・内膳正〕
- 一新(かづよし)〔従五位下・美濃守〕
- 一貫(かづつら)〔従五位下・甲斐守〕
- 一貞(かづさだ)〔従五位下・甲斐守〕
- 重龍(しげたつ)〔従五位下・駿河守〕
- 一興(かづおき)〔従五位下・美濃守〕
- 一咸(かづひろ)〔従五位下・甲斐守〕
- 重義(しげよし)〔従五位下・民部少輔〕
幕末の領地[編集]
脚注[編集]
先代 (摂津国) |
行政区の変遷 1615年 - 1871年 (麻田藩 → 麻田県) |
次代 大阪府 兵庫県 |