「インドの歴史」の版間の差分
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インドの歴史におけるヨーガについては、読みにくいので別節に移動 |
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これらの文化が滅亡した要因として環境問題(紀元前1628年から紀元前1626年までの気候変動の原因となった[[ギリシャ]]・[[サントリーニ島]]の[[ミノア噴火]])などが指摘されているが、[[インダス文字]]が未解読なこともあり、詳細ははっきりとしていない。 |
これらの文化が滅亡した要因として環境問題(紀元前1628年から紀元前1626年までの気候変動の原因となった[[ギリシャ]]・[[サントリーニ島]]の[[ミノア噴火]])などが指摘されているが、[[インダス文字]]が未解読なこともあり、詳細ははっきりとしていない。 |
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(インドの歴史におけるヨーガについては後述) |
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⚫ | インダス文明が後世のインド文明に与えた影響として、[[沐浴]]の習慣や[[リンガ]]信仰などが挙げられるほか、彼らの神像がシヴァ神の原型でありヨーガの源流になったと考えられてきていた。 |
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⚫ | [[File:Yogi. Mold of Seal, Indus valley civilization.jpg|upright|thumb|200px|紀元前2500-1500年頃の彫像]] |
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⚫ | これは、1921年に[[モヘンジョダロ|モエンジョ・ダーロ]]と[[ハラッパー]]の遺跡を発掘した[[考古学|考古学者]]のジョン・マーシャルらによって、発掘された印章に彫られた図像を、[[坐法]]を行っている[[シヴァ|シヴァ神]]の原型であると解釈したものである{{sfn|シングルトン|2014|p=33}}。そこから宗教学者[[ミルチャ・エリアーデ|エリアーデ]]も、これを「塑造された最初期のヨーガ行者の表象」であるとした{{sfn|シングルトン|2014|p=33}}。 |
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⚫ | 近代に至る[[ヨーガ]]の歴史を研究したマーク・シングルトンは、この印章がのちにヨーガと呼ばれたものであるかは、かなり疑わしいものであったが、古代のヨーガの起源としてたびたび引用されるようになった、と述べている{{sfn|シングルトン|2014|p=33}}。 |
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⚫ | また、インド学者のドリス・スリニヴァサンも、この印章に彫られた像をシヴァ神とすることには無理があり、これをヨーガ行法の源流と解することに否定的であるとしている{{sfn|シングルトン|2014|pp=33-34}}。 |
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⚫ | 近年、このようなヨーガのインダス文明起源説に終止符を打とうとした宗教人類学者のジェフリー・サミュエルは、このような遺物からインダス文明の人々の宗教的実践がどのようなものであったかを知る手がかりはほとんど無いとし、現代に行われているヨーガ実践を見る眼で過去の遺物を見ているのであり、考古学的な遺物のなかに過去の行法実践を読み解くことはできないとしており{{sfn|シングルトン|2014|p=34}}、具体的証拠に全く欠ける研究の難しさを物語っている。 |
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=== 前期ヴェーダ時代 === |
=== 前期ヴェーダ時代 === |
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バラタ族は、軍事力において先住民を圧倒する一方で、先住民から農耕文化の諸技術を学んだ。こうして、前期ヴェーダ時代後半には、牧畜生活から農耕生活への移行が進んでいった。また、バラタ族と先住民族の[[プール族]]の混血も進んでいった︵[[クル族]]の誕生︶。﹃[[リグ・ヴェーダ]]﹄において、先住民に由来する発音が用いられていることも、こうした裏付けになっている。彼らの神々への讃歌と祭式をまとめたものが[[ヴェーダ]]である。司祭者[[バラモン]]がヴェーダの神々をまつり、ここに[[ヴェーダの宗教]]が初期[[バラモン教]]としてインド化していった。
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バラタ族は、軍事力において先住民を圧倒する一方で、先住民から農耕文化の諸技術を学んだ。こうして、前期ヴェーダ時代後半には、牧畜生活から農耕生活への移行が進んでいった。また、バラタ族と先住民族の[[プール族]]の混血も進んでいった︵[[クル族]]の誕生︶。﹃[[リグ・ヴェーダ]]﹄において、先住民に由来する発音が用いられていることも、こうした裏付けになっている。彼らの神々への讃歌と祭式をまとめたものが[[ヴェーダ]]である。司祭者[[バラモン]]がヴェーダの神々をまつり、ここに[[ヴェーダの宗教]]が初期[[バラモン教]]としてインド化していった。
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(インドの歴史におけるヨーガについては後述) |
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=== 後期ヴェーダ時代とガンジス文明 === |
=== 後期ヴェーダ時代とガンジス文明 === |
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紀元前5世紀になると、4大ヴェーダが完成し、バラモン教が宗教として完成した。ガンジス川流域で諸国の抗争が続く中で[[バラモン]]が凋落すると、それに代わり[[クシャトリヤ]]や[[ヴァイシャ]]が勢力を伸ばすようになった。こうした変化を背景にウパニシャッド哲学がおこり、その影響下に[[マハーヴィーラ]](ヴァルダマーナ)によって[[ジャイナ教]]が、[[マッカリ・ゴーサーラ]]によって[[アージーヴィカ教]]が、[[釈迦]](シャカ、ガウタマ・シッダールタ)によって[[初期仏教]]が、それぞれ創始され当時の'''インド四大宗教'''はほぼ同時期にそろって誕生し、「[[六師外道]]」とも呼称された自由思想家たちが活躍した。 |
紀元前5世紀になると、4大ヴェーダが完成し、バラモン教が宗教として完成した。ガンジス川流域で諸国の抗争が続く中で[[バラモン]]が凋落すると、それに代わり[[クシャトリヤ]]や[[ヴァイシャ]]が勢力を伸ばすようになった。こうした変化を背景にウパニシャッド哲学がおこり、その影響下に[[マハーヴィーラ]](ヴァルダマーナ)によって[[ジャイナ教]]が、[[マッカリ・ゴーサーラ]]によって[[アージーヴィカ教]]が、[[釈迦]](シャカ、ガウタマ・シッダールタ)によって[[初期仏教]]が、それぞれ創始され当時の'''インド四大宗教'''はほぼ同時期にそろって誕生し、「[[六師外道]]」とも呼称された自由思想家たちが活躍した。 |
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(インドの歴史におけるヨーガについては後述) |
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ウパニシャッドの時代では、単語としての﹁ヨーガ﹂が見出される最も古い書物は、[[紀元前500年]] - [[紀元前400年]]の﹁古[[ウパニシャッド]]初期﹂に成立した﹃[[タイッティリーヤ・ウパニシャッド]]﹄である{{sfn|山下|2009|p=71}}。この書では、ヨーガという語は﹁ヨーガ・アートマー﹂という複合語として記述されているが、そのヨーガの意味は﹁不明﹂であるという{{sfn|山下|2009|p=71}}。[[紀元前350年]] - [[紀元前300年]]頃に成立したのではないかとされる﹁中期ウパニシャッド﹂の﹃[[カタ・ウパニシャッド]]﹄にはヨーガの最古の説明が見い出せる{{sfn|佐保田|1973|p=27}}。
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=== ペルシャとギリシャの征服 === |
=== ペルシャとギリシャの征服 === |
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仏像彫刻では、上述の[[ガンダーラ]]のほか、[[マトゥラー]]ではインド様式による製作がなされるようになった。 |
仏像彫刻では、上述の[[ガンダーラ]]のほか、[[マトゥラー]]ではインド様式による製作がなされるようになった。 |
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(インドの歴史におけるヨーガについては後述) |
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⚫ | 紀元後4-5世紀頃には、『[[ヨーガ・スートラ]]』が編纂された{{sfn|山下|2009|p=105}}<ref>{{Cite book|和書|title=世界宗教百科事典 |publisher=丸善出版 |year=2012}}p.522</ref>。この書の成立を紀元後3世紀以前に遡らせることは、文献学的な証拠から困難であるという{{sfn|山下|2009|p=105}}。『ヨーガ・スートラ』の思想は、[[仏教]]思想からの影響や刺激も大きく受けている{{sfn|佐保田|1973|p=36}}{{sfn|シングルトン|2014|p=279}}。 |
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⚫ | 国内外の[[ヨーガ]]研究者や実践者のなかには、この『ヨーガ・スートラ』をヨーガの「基本教典」であるとするものがあるが、ヨーガの歴史を研究したマーク・シングルトンはこのような理解に注意を促している。『ヨーガ・スートラ』は当時数多くあった修行書のひとつに過ぎないのであって、かならずしもヨーガに関する「唯一」の「聖典」のような種類のものではないからである{{sfn|シングルトン|2014|p=35}}。サーンキヤ・ヨーガの思想を伝えるためのテキストや教典は、同じ時期に多くの支派の師家の手で作られており、そのなかでたまたま今日に伝えられているのが『ヨーガ・スートラ』である{{sfn|佐保田|1973|p=35}}。『ヨーガ・スートラ』は、ヨーロッパ人研究者の知見に影響を受けながら、20世紀になって英語圏のヨーガ実践者たちによって、また、ヴィヴェーカーナンダやH・P・ブラヴァツキーなどの近代ヨーガの推進者たちによって、「基本教典」としての権威を与えられていった{{sfn|シングルトン|2014|p=35}}。 |
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=== 二大叙事詩と『マヌ法典』 === |
=== 二大叙事詩と『マヌ法典』 === |
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一方で[[南インド]]では、10世紀後半ころから[[タミル]]系のヒンドゥー王国[[チョーラ朝]]がインド洋貿易で繁栄した。11世紀前半には、商業上の覇権をめぐって東南アジアの[[シュリーヴィジャヤ王国]]まで遠征を敢行した。チョーラ朝は12世紀末に再建された[[パーンディヤ朝]]︵後期パーンディヤ朝︶によって13世紀後半に滅ぼされた。
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一方で[[南インド]]では、10世紀後半ころから[[タミル]]系のヒンドゥー王国[[チョーラ朝]]がインド洋貿易で繁栄した。11世紀前半には、商業上の覇権をめぐって東南アジアの[[シュリーヴィジャヤ王国]]まで遠征を敢行した。チョーラ朝は12世紀末に再建された[[パーンディヤ朝]]︵後期パーンディヤ朝︶によって13世紀後半に滅ぼされた。
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(インドの歴史におけるヨーガについては後述) |
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⚫ | [[12世紀]]-[[13世紀]]には、[[タントラ]]的な身体観を基礎として、動的な[[ヨーガ]]が出現した。これは[[ハタ・ヨーガ]](力〔ちから〕ヨーガ)と呼ばれている。内容としては印相(ムドラー)や調気法(プラーナーヤーマ)などを重視し、[[超能力]]や三昧を追求する傾向もある。教典としては『[[ハタ・ヨーガ・プラディーピカー]]』、『[[ゲーランダ・サンヒター]]』、『[[シヴァ・サンヒター]]』がある。 |
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⚫ | ヨーガの歴史的研究を行ったマーク・シングルトンによれば、近代インドの傾向において、ハタ・ヨーガは望ましくない、危険なものとして避けられてきたという{{sfn|シングルトン|2014|p=99}}。ヴィヴェーカーナンダやシュリ・オーロビンド、ラマナ・マハルシら近代の聖者である指導者たちは、ラージャ・ヨーガやバクティ・ヨーガ、ジュニャーナ・ヨーガなどのみを語っていて、高度に精神的な働きや鍛錬のことだけを対象としており、ハタ・ヨーガは危険か浅薄なものとして扱われた{{sfn|シングルトン|2014|p=99}}{{refn|group=†|name="あるがままに1"|例えば、近代インドを代表する聖者である[[ラマナ・マハルシ]]<ref>{{Cite book|和書|author=ポール・ブラントン |translator=日本ヴェーダーンタ協会 |year=2016 |origyear=1982 |title=秘められたインド 改訂版 |publisher=日本ヴェーダーンタ協会 |isbn=978-4-931148-58-1}}{{要ページ番号|date=yyyy年m月}}</ref> は、修練方法としてジュニャーナ・ヨーガ、バクティ・ヨーガ、ラージャ・ヨーガを勧めている。ラマナは、霊性の向上は「心」そのものを扱うことで解決ができるという基本的前提から、ハタ・ヨーガには否定的であった。また、クンダリニー・ヨーガは、潜在的に危険であり必要もないものであり、クンダリニーがサハスラーラに到達したとしても真我の実現は起こらないと発言している<ref name="あるがままに2">{{Cite book|和書|author=デーヴィッド・ゴッドマン編 |translator=福間巖 |year=2005 |title=あるがままに - ラマナ・マハルシの教え |publisher=ナチュラルスピリット |isbn=4-931449-77-8 |pages=249-267}}</ref>。}}。ヨーロッパの人々は、現在ではラージャ・ヨーガと呼ばれる古典ヨーガやヴェーダーンタなどの思想には東洋の深遠な知の体系として高い評価を与えたが、行法としてのヨーガとヨーガ行者には不審の眼を向けた。それは、17世紀以降インドを訪れた欧州の人々が遭遇した現実のハタ・ヨーガの行者等が、不潔と奇妙なふるまい、悪しき行為、時には暴力的な行為におよんだことなどが要因であるという{{sfn|シングルトン|2014|pp=45-52}}{{refn|group=†|{{harvnb|シングルトン|2014}}によれば、これらの行者のなかには、実際にかなり暴力的な方法で物乞いをする者達もいて、一般の人々から恐れられていたらしい。武装したハタ・ヨーガ行者たちは略奪行為を働くこともあった。略奪行為が統治者から禁止されるようになると、行者らはヨーガを見世物とするようになり、正統的なヒンドゥー教徒たちからは社会の寄生虫として蔑視されていた{{sfn|シングルトン|2014|pp=45-52}}。}}。 |
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=== ヴィジャヤナガル王国 === |
=== ヴィジャヤナガル王国 === |
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[[第二次世界大戦]]では、国民会議派から決裂した急進派の[[スバス・チャンドラ・ボース|チャンドラ・ボース]]が日本の援助によって[[インド国民軍]]を結成し、独立をめざす動きも生まれた。インド国民軍は、日本軍が[[1942年]]に[[英領マラヤ]]や[[シンガポール]]を占領した後、捕虜となった[[英印軍]]将兵の中から志願者を募ったのがはじまりであった。[[エリック・ホブズボーム]]は、インドの独立を、ガンジー・ネルーらの国民会議派による独立運動よりも、日本軍とチャンドラ・ボースが率いるインド国民軍 (INA) が協同して、英国領インドへ進攻した[[インパール作戦]]に依ってもたらされたとしている<ref>河合秀和訳﹃20世紀の歴史――極端な時代︵上・下︶﹄︵三省堂、1996年︶{{要ページ番号|date=yyyy年m月}}</ref>。また、日本に亡命していた[[A.M.ナイル]]や[[ラース・ビハーリー・ボース]]ら独立運動家の存在もあり、イギリスに代わってインドを占領した日本軍はインド人を{{誰範囲2|丁重に扱ったという|date=2018年8月}}。
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[[第二次世界大戦]]では、国民会議派から決裂した急進派の[[スバス・チャンドラ・ボース|チャンドラ・ボース]]が日本の援助によって[[インド国民軍]]を結成し、独立をめざす動きも生まれた。インド国民軍は、日本軍が[[1942年]]に[[英領マラヤ]]や[[シンガポール]]を占領した後、捕虜となった[[英印軍]]将兵の中から志願者を募ったのがはじまりであった。[[エリック・ホブズボーム]]は、インドの独立を、ガンジー・ネルーらの国民会議派による独立運動よりも、日本軍とチャンドラ・ボースが率いるインド国民軍 (INA) が協同して、英国領インドへ進攻した[[インパール作戦]]に依ってもたらされたとしている<ref>河合秀和訳﹃20世紀の歴史――極端な時代︵上・下︶﹄︵三省堂、1996年︶{{要ページ番号|date=yyyy年m月}}</ref>。また、日本に亡命していた[[A.M.ナイル]]や[[ラース・ビハーリー・ボース]]ら独立運動家の存在もあり、イギリスに代わってインドを占領した日本軍はインド人を{{誰範囲2|丁重に扱ったという|date=2018年8月}}。
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(インドの歴史におけるヨーガについては後述) |
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19世紀後半から20世紀前半に発達した西洋の{{仮リンク|身体鍛錬|en|Physical culture}}運動に由来するさまざまなポーズ︵[[アーサナ]]︶が、インド独自のものとして﹁ハタ・ヨーガ﹂の名によって体系化され、このヨーガ体操が近現代の[[ヨーガ]]のベースとなった。現在、世界中に普及しているヨーガは、この新しい﹁現代のハタ・ヨーガ﹂である。現代ヨーガの立役者のひとりである{{仮リンク|ティルマライ・クリシュナマチャーリヤ|en|Tirumalai Krishnamacharya}}︵1888年 - 1989年︶も、西洋式[[体操]]を取り入れてハタ・ヨーガの技法としてアレンジした<ref name="伊藤">{{Cite journal|和書|author=伊藤雅之 |date=2011-03-30 |title=現代ヨーガの系譜 : スピリチュアリティ文化との融合に着目して |journal=宗教研究 |volume=84(4) |publisher=日本宗教学会 |naid=110008514008 |pages=417-418}}</ref>{{refn|group=†|[[伊藤雅之]]はこれを1920年代から1930年代のこととしているが、{{harvnb|シングルトン|2014}}によれば、少なくともクリシュナマチャーリヤに関して言えば1930年代以降のことである。伊藤論文では西洋式体操から編み出された近代ハタ・ヨーガをひとりクリシュナマチャーリヤのみに帰しているような記述となっているが<ref name="伊藤"/>、シングルトンによれば同時代のスワーミー・クヴァラヤーナンダとシュリー・ヨーゲーンドラも重要であり、クヴァラヤーナンダの活動はクリシュナマチャーリヤに先行している。また、伊藤は近代ハタ・ヨーガにはインド伝統武術に由来する要素もあるとしているが、シングルトンの著書にはそれを示唆する記述はない。}}。
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⚫ | インド伝統のエクササイズ(健康体操)と喧伝されることで、アーサナが中心となったハタ・ヨーガの名前が近現代に復権することになった{{sfn|シングルトン|2014|p=5}}。 |
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⚫ | 2016年、[[ユネスコ]]が推進する[[無形文化遺産]]にインド申請枠で登録された<ref>[http://www.unesco.org/culture/ich/en/RL/yoga-01163 Yoga India Inscribed in 2016 (11.COM) on the Representative List of the Intangible Cultural Heritage of Humanity] Intangible Heritage UNWSCO</ref>。 |
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== 第二次世界大戦後 == |
== 第二次世界大戦後 == |
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その一方では、広大な国土に対する[[インフラ]]整備が進んでいないことがしばしば指摘される。2006年8月10日、モンスーンによる洪水の被害者は、東部の[[グジャラート]]、南東部の[[アーンドラ・プラデーシュ]]の2州だけで約1300万人に上る惨事となった。 |
その一方では、広大な国土に対する[[インフラ]]整備が進んでいないことがしばしば指摘される。2006年8月10日、モンスーンによる洪水の被害者は、東部の[[グジャラート]]、南東部の[[アーンドラ・プラデーシュ]]の2州だけで約1300万人に上る惨事となった。 |
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== インドにおけるヨーガの歴史 == |
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=== インダス文明 === |
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⚫ | インダス文明が後世のインド文明に与えた影響として、[[沐浴]]の習慣や[[リンガ]]信仰などが挙げられるほか、彼らの神像がシヴァ神の原型でありヨーガの源流になったと考えられてきていた。 |
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⚫ | [[File:Yogi. Mold of Seal, Indus valley civilization.jpg|upright|thumb|200px|紀元前2500-1500年頃の彫像]] |
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⚫ | これは、1921年に[[モヘンジョダロ|モエンジョ・ダーロ]]と[[ハラッパー]]の遺跡を発掘した[[考古学|考古学者]]のジョン・マーシャルらによって、発掘された印章に彫られた図像を、[[坐法]]を行っている[[シヴァ|シヴァ神]]の原型であると解釈したものである{{sfn|シングルトン|2014|p=33}}。そこから宗教学者[[ミルチャ・エリアーデ|エリアーデ]]も、これを「塑造された最初期のヨーガ行者の表象」であるとした{{sfn|シングルトン|2014|p=33}}。 |
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⚫ | 近代に至る[[ヨーガ]]の歴史を研究したマーク・シングルトンは、この印章がのちにヨーガと呼ばれたものであるかは、かなり疑わしいものであったが、古代のヨーガの起源としてたびたび引用されるようになった、と述べている{{sfn|シングルトン|2014|p=33}}。 |
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⚫ | また、インド学者のドリス・スリニヴァサンも、この印章に彫られた像をシヴァ神とすることには無理があり、これをヨーガ行法の源流と解することに否定的であるとしている{{sfn|シングルトン|2014|pp=33-34}}。 |
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⚫ | 近年、このようなヨーガのインダス文明起源説に終止符を打とうとした宗教人類学者のジェフリー・サミュエルは、このような遺物からインダス文明の人々の宗教的実践がどのようなものであったかを知る手がかりはほとんど無いとし、現代に行われているヨーガ実践を見る眼で過去の遺物を見ているのであり、考古学的な遺物のなかに過去の行法実践を読み解くことはできないとしており{{sfn|シングルトン|2014|p=34}}、具体的証拠に全く欠ける研究の難しさを物語っている。 |
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=== 前期ヴェーダ時代 === |
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=== ウパニシャッドの時代 === |
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ウパニシャッドの時代では、単語としての﹁ヨーガ﹂が見出される最も古い書物は、[[紀元前500年]] - [[紀元前400年]]の﹁古[[ウパニシャッド]]初期﹂に成立した﹃[[タイッティリーヤ・ウパニシャッド]]﹄である{{sfn|山下|2009|p=71}}。この書では、ヨーガという語は﹁ヨーガ・アートマー﹂という複合語として記述されているが、そのヨーガの意味は﹁不明﹂であるという{{sfn|山下|2009|p=71}}。[[紀元前350年]] - [[紀元前300年]]頃に成立したのではないかとされる﹁中期ウパニシャッド﹂の﹃[[カタ・ウパニシャッド]]﹄にはヨーガの最古の説明が見い出せる{{sfn|佐保田|1973|p=27}}。
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⚫ | 紀元後4-5世紀頃には、『[[ヨーガ・スートラ]]』が編纂された{{sfn|山下|2009|p=105}}<ref>{{Cite book|和書|title=世界宗教百科事典 |publisher=丸善出版 |year=2012}}p.522</ref>。この書の成立を紀元後3世紀以前に遡らせることは、文献学的な証拠から困難であるという{{sfn|山下|2009|p=105}}。『ヨーガ・スートラ』の思想は、[[仏教]]思想からの影響や刺激も大きく受けている{{sfn|佐保田|1973|p=36}}{{sfn|シングルトン|2014|p=279}}。 |
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⚫ | 国内外の[[ヨーガ]]研究者や実践者のなかには、この『ヨーガ・スートラ』をヨーガの「基本教典」であるとするものがあるが、ヨーガの歴史を研究したマーク・シングルトンはこのような理解に注意を促している。『ヨーガ・スートラ』は当時数多くあった修行書のひとつに過ぎないのであって、かならずしもヨーガに関する「唯一」の「聖典」のような種類のものではないからである{{sfn|シングルトン|2014|p=35}}。サーンキヤ・ヨーガの思想を伝えるためのテキストや教典は、同じ時期に多くの支派の師家の手で作られており、そのなかでたまたま今日に伝えられているのが『ヨーガ・スートラ』である{{sfn|佐保田|1973|p=35}}。『ヨーガ・スートラ』は、ヨーロッパ人研究者の知見に影響を受けながら、20世紀になって英語圏のヨーガ実践者たちによって、また、ヴィヴェーカーナンダやH・P・ブラヴァツキーなどの近代ヨーガの推進者たちによって、「基本教典」としての権威を与えられていった{{sfn|シングルトン|2014|p=35}}。 |
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⚫ | [[12世紀]]-[[13世紀]]には、[[タントラ]]的な身体観を基礎として、動的な[[ヨーガ]]が出現した。これは[[ハタ・ヨーガ]](力〔ちから〕ヨーガ)と呼ばれている。内容としては印相(ムドラー)や調気法(プラーナーヤーマ)などを重視し、[[超能力]]や三昧を追求する傾向もある。教典としては『[[ハタ・ヨーガ・プラディーピカー]]』、『[[ゲーランダ・サンヒター]]』、『[[シヴァ・サンヒター]]』がある。 |
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⚫ | ヨーガの歴史的研究を行ったマーク・シングルトンによれば、近代インドの傾向において、ハタ・ヨーガは望ましくない、危険なものとして避けられてきたという{{sfn|シングルトン|2014|p=99}}。ヴィヴェーカーナンダやシュリ・オーロビンド、ラマナ・マハルシら近代の聖者である指導者たちは、ラージャ・ヨーガやバクティ・ヨーガ、ジュニャーナ・ヨーガなどのみを語っていて、高度に精神的な働きや鍛錬のことだけを対象としており、ハタ・ヨーガは危険か浅薄なものとして扱われた{{sfn|シングルトン|2014|p=99}}{{refn|group=†|name="あるがままに1"|例えば、近代インドを代表する聖者である[[ラマナ・マハルシ]]<ref>{{Cite book|和書|author=ポール・ブラントン |translator=日本ヴェーダーンタ協会 |year=2016 |origyear=1982 |title=秘められたインド 改訂版 |publisher=日本ヴェーダーンタ協会 |isbn=978-4-931148-58-1}}{{要ページ番号|date=yyyy年m月}}</ref> は、修練方法としてジュニャーナ・ヨーガ、バクティ・ヨーガ、ラージャ・ヨーガを勧めている。ラマナは、霊性の向上は「心」そのものを扱うことで解決ができるという基本的前提から、ハタ・ヨーガには否定的であった。また、クンダリニー・ヨーガは、潜在的に危険であり必要もないものであり、クンダリニーがサハスラーラに到達したとしても真我の実現は起こらないと発言している<ref name="あるがままに2">{{Cite book|和書|author=デーヴィッド・ゴッドマン編 |translator=福間巖 |year=2005 |title=あるがままに - ラマナ・マハルシの教え |publisher=ナチュラルスピリット |isbn=4-931449-77-8 |pages=249-267}}</ref>。}}。ヨーロッパの人々は、現在ではラージャ・ヨーガと呼ばれる古典ヨーガやヴェーダーンタなどの思想には東洋の深遠な知の体系として高い評価を与えたが、行法としてのヨーガとヨーガ行者には不審の眼を向けた。それは、17世紀以降インドを訪れた欧州の人々が遭遇した現実のハタ・ヨーガの行者等が、不潔と奇妙なふるまい、悪しき行為、時には暴力的な行為におよんだことなどが要因であるという{{sfn|シングルトン|2014|pp=45-52}}{{refn|group=†|{{harvnb|シングルトン|2014}}によれば、これらの行者のなかには、実際にかなり暴力的な方法で物乞いをする者達もいて、一般の人々から恐れられていたらしい。武装したハタ・ヨーガ行者たちは略奪行為を働くこともあった。略奪行為が統治者から禁止されるようになると、行者らはヨーガを見世物とするようになり、正統的なヒンドゥー教徒たちからは社会の寄生虫として蔑視されていた{{sfn|シングルトン|2014|pp=45-52}}。}}。 |
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19世紀後半から20世紀前半に発達した西洋の{{仮リンク|身体鍛錬|en|Physical culture}}運動に由来するさまざまなポーズ︵[[アーサナ]]︶が、インド独自のものとして﹁ハタ・ヨーガ﹂の名によって体系化され、このヨーガ体操が近現代の[[ヨーガ]]のベースとなった。現在、世界中に普及しているヨーガは、この新しい﹁現代のハタ・ヨーガ﹂である。現代ヨーガの立役者のひとりである{{仮リンク|ティルマライ・クリシュナマチャーリヤ|en|Tirumalai Krishnamacharya}}︵1888年 - 1989年︶も、西洋式[[体操]]を取り入れてハタ・ヨーガの技法としてアレンジした<ref name="伊藤">{{Cite journal|和書|author=伊藤雅之 |date=2011-03-30 |title=現代ヨーガの系譜 : スピリチュアリティ文化との融合に着目して |journal=宗教研究 |volume=84(4) |publisher=日本宗教学会 |naid=110008514008 |pages=417-418}}</ref>{{refn|group=†|[[伊藤雅之]]はこれを1920年代から1930年代のこととしているが、{{harvnb|シングルトン|2014}}によれば、少なくともクリシュナマチャーリヤに関して言えば1930年代以降のことである。伊藤論文では西洋式体操から編み出された近代ハタ・ヨーガをひとりクリシュナマチャーリヤのみに帰しているような記述となっているが<ref name="伊藤"/>、シングルトンによれば同時代のスワーミー・クヴァラヤーナンダとシュリー・ヨーゲーンドラも重要であり、クヴァラヤーナンダの活動はクリシュナマチャーリヤに先行している。また、伊藤は近代ハタ・ヨーガにはインド伝統武術に由来する要素もあるとしているが、シングルトンの著書にはそれを示唆する記述はない。}}。
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⚫ | インド伝統のエクササイズ(健康体操)と喧伝されることで、アーサナが中心となったハタ・ヨーガの名前が近現代に復権することになった{{sfn|シングルトン|2014|p=5}}。 |
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⚫ | 2016年、[[ユネスコ]]が推進する[[無形文化遺産]]にインド申請枠で登録された<ref>[http://www.unesco.org/culture/ich/en/RL/yoga-01163 Yoga India Inscribed in 2016 (11.COM) on the Representative List of the Intangible Cultural Heritage of Humanity] Intangible Heritage UNWSCO</ref>。 |
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== インドの歴史の史料 == |
== インドの歴史の史料 == |
2022年5月11日 (水) 05:57時点における版
インドの歴史(インドのれきし、History of India)では、インダス文明以来のインドの歴史について略述する。
インダス文明・ガンジス文明
インダス文明
前期ヴェーダ時代
後期ヴェーダ時代とガンジス文明
十六大国
ウパニシャッド哲学と新宗教
ペルシャとギリシャの征服
紀元前330年頃には、インド北西部にマケドニア王国のアレクサンドロス3世(大王)が進出していた。
古代インドの諸王朝
マウリヤ朝マガダ国のインド統一
クシャーナ朝
サータヴァーハナ朝と古代交易網
大乗仏教のおこり
二大叙事詩と『マヌ法典』
インド古典文化の完成
グプタ朝の成立とヒンドゥー教の確立
ヴァルダナ朝とラージプート時代の到来
南インドの諸王朝
北インドのイスラーム化と南インド
ガズナ朝・ゴール朝の侵入
デリー・スルターン朝
南インドのヒンドゥー諸王国
ヴィジャヤナガル王国
デカンの諸王国
北インドのイスラーム支配は14世紀にはデカン高原にもおよび、1347年トゥグルク朝の臣下であった地方長官が自立し、バフマニー朝を建国して、ムスリム政権を成立させた。 その後、バフマニー朝は2世紀近く存続したのち1527年に滅び、その領土にはベラール王国︵イマード・シャーヒー朝︶、ビーダル王国︵バリード・シャーヒー朝︶、アフマドナガル王国︵ニザーム・シャーヒー朝︶、ビジャープル王国︵アーディル・シャーヒー朝︶、ゴールコンダ王国︵クトゥブ・シャーヒー朝︶の5つの王国が割拠する形となり、これらはデカン・スルターン朝と呼ばれる。 デカン・スルターン朝は当初互いに他国と領土を争い、南のヴィジャヤナガル王国もこれらに関与したが、やがて5王国は同盟を結んで、1565年ターリコータの戦いで連合軍はヴィジャヤナガル王国の軍を破った。 しかし、その後は再び争うようになり、ベラール王国、ビーダル王国は他国に滅ぼされ、アフマドナガル王国、ビジャープル王国、ゴールコンダ王国はムガル帝国に滅ぼされた。バクティ信仰とシク教の創始
ポルトガルとスペイン
1498年にはヴァスコ・ダ・ガマがカリカット︵コーリコード︶へ来訪したことを契機に、ポルトガル海上帝国も沿岸部に拠点を築いた。ゴアは1510年以降、インドにおけるポルトガルの拠点として東洋におけるキリスト教布教の中心となった。 しかし、1580年スペイン王フェリペ2世によりポルトガルはスペインに併合され、その海上の覇権と領土はスペインに継承された。ムガル帝国
1526年から1858年までの332年間は、バーブル以来の王朝が統治するムガル帝国の時代であった。
ムガル帝国の成立と隆盛
ムガル帝国の衰退
英蘭の南インド進出
英仏の進出と植民地抗争
イギリスによる蚕食とインドの貧困化
イギリス植民地時代
1858年から1947年まで、イギリスによる植民地化からインド・パキスタン分離独立までの89年間は、イギリス人総督を機軸とするイギリス領インド帝国の時代である。
インド大反乱と英領インド帝国の成立
インド国民会議派の成立
国民会議派の急進化と全インド・ムスリム連盟
2度の世界大戦とインド
ローラット法とアムリットサル事件
ガンディーの登場
プールナ・スワラージと塩の行進
チャンドラ・ボースとインド国民軍
第二次世界大戦後
分離独立と戦後インド憲法の制定
非同盟主義
印パ戦争と中印国境紛争
核大国化
中ソ対立によって中華人民共和国が核武装すると、国境紛争を抱える戦後インドも、1974年に地下核実験を行って核保有を宣言、世界で6番目の核保有国となった。 2006年7月9日、核弾頭搭載可能な中距離弾道ミサイル﹁アグニ3﹂︵射程3,500キロメートル︶の初の発射実験を行った。当局は当初、発射は成功したとしたが、その後上空でミサイル下部の切り離しが出来ず、目標落下地点には到達しなかったと発表した。国内政局の変換
BRICsの一角
インドにおけるヨーガの歴史
インダス文明
インダス文明が後世のインド文明に与えた影響として、沐浴の習慣やリンガ信仰などが挙げられるほか、彼らの神像がシヴァ神の原型でありヨーガの源流になったと考えられてきていた。前期ヴェーダ時代
紀元前12世紀頃に編纂されたリグ・ヴェーダなどのヴェーダの時代には﹁ヨーガ﹂やその動詞形の﹁ユジュ﹂といった単語がよく登場するが、これは﹁結合する﹂﹁家畜を繋ぐ﹂といった即物的な意味で、行法としてのヨーガを指す用例はない[9]。比較宗教学者のマッソン・ウルセルは、﹁ヴェーダにはヨーガはなく、ヨーガにはヴェーダはない﹂︵狭義のヴェーダの時代︶と述べている[10]。ウパニシャッドの時代
ウパニシャッドの時代では、単語としての﹁ヨーガ﹂が見出される最も古い書物は、紀元前500年 - 紀元前400年の﹁古ウパニシャッド初期﹂に成立した﹃タイッティリーヤ・ウパニシャッド﹄である[11]。この書では、ヨーガという語は﹁ヨーガ・アートマー﹂という複合語として記述されているが、そのヨーガの意味は﹁不明﹂であるという[11]。紀元前350年 - 紀元前300年頃に成立したのではないかとされる﹁中期ウパニシャッド﹂の﹃カタ・ウパニシャッド﹄にはヨーガの最古の説明が見い出せる[12]。古典ヨーガ
後期ヨーガ
近現代のヨーガ
インドの歴史の史料
脚注
補注
出典
参考文献
●佐保田鶴治﹃ヨーガ根本教典﹄平河出版社、1973年。ISBN 4-89203-019-8。 ●マーク・シングルトン﹃ヨガ・ボディ - ポーズ練習の起源﹄喜多千草訳、大隅書店、2014年。ISBN 978-4-905328-06-3。 ●山下博司﹃ヨーガの思想﹄講談社︿講談社選書メチエ﹀、2009年。ISBN 978-4-06-258432-6。 ●伊藤武﹃図説 ヨーガ大全﹄佼成出版社、2011年。ISBN 978-4-333-02471-1。 ●川崎信定﹃インドの思想﹄放送大学教育振興会、1993年。ISBN 4-595-21344-1。- 辛島昇・前田専学・江島惠教他監修『南アジアを知る事典』平凡社、1992年10月、ISBN 4-582-12634-0
- 辛島昇監修『世界の歴史と文化 インド』新潮社、1992年11月、ISBN 4-10-601836-5
- ルシル・シュルバーグ原著『ライフ人間世界史18 インド―Historic India』タイム・ライフ・ブックス(日本語版編集: 座右宝刊行会)、1973年
- 近藤治『インドの歴史 多様の統一世界』講談社現代新書、1977年1月、ISBN 4061158562
- R.S.シャルマ『古代インドの歴史』山崎利男・山崎元一訳、山川出版社、1985年8月、ISBN 4634650908