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インドの歴史におけるヨーガについては、読みにくいので別節に移動
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これらの文化が滅亡した要因として環境問題(紀元前1628年から紀元前1626年までの気候変動の原因となった[[ギリシャ]]・[[サントリーニ島]]の[[ミノア噴火]])などが指摘されているが、[[インダス文字]]が未解読なこともあり、詳細ははっきりとしていない。

これらの文化が滅亡した要因として環境問題(紀元前1628年から紀元前1626年までの気候変動の原因となった[[ギリシャ]]・[[サントリーニ島]]の[[ミノア噴火]])などが指摘されているが、[[インダス文字]]が未解読なこともあり、詳細ははっきりとしていない。



(インドの歴史におけるヨーガについては後述)

インダス文明が後世のインド文明に与えた影響として、[[沐浴]]の習慣や[[リンガ]]信仰などが挙げられるほか、彼らの神像がシヴァ神の原型でありヨーガの源流になったと考えられてきていた。


[[File:Yogi. Mold of Seal, Indus valley civilization.jpg|upright|thumb|200px|紀元前2500-1500年頃の彫像]]

これは、1921年に[[モヘンジョダロ|モエンジョ・ダーロ]]と[[ハラッパー]]の遺跡を発掘した[[考古学|考古学者]]のジョン・マーシャルらによって、発掘された印章に彫られた図像を、[[坐法]]を行っている[[シヴァ|シヴァ神]]の原型であると解釈したものである{{sfn|シングルトン|2014|p=33}}。そこから宗教学者[[ミルチャ・エリアーデ|エリアーデ]]も、これを「塑造された最初期のヨーガ行者の表象」であるとした{{sfn|シングルトン|2014|p=33}}。


近代に至る[[ヨーガ]]の歴史を研究したマーク・シングルトンは、この印章がのちにヨーガと呼ばれたものであるかは、かなり疑わしいものであったが、古代のヨーガの起源としてたびたび引用されるようになった、と述べている{{sfn|シングルトン|2014|p=33}}。



[[]]{{sfn||1973|p=23}}{{sfn||1973|p=23}}

また、インド学者のドリス・スリニヴァサンも、この印章に彫られた像をシヴァ神とすることには無理があり、これをヨーガ行法の源流と解することに否定的であるとしている{{sfn|シングルトン|2014|pp=33-34}}。


近年、このようなヨーガのインダス文明起源説に終止符を打とうとした宗教人類学者のジェフリー・サミュエルは、このような遺物からインダス文明の人々の宗教的実践がどのようなものであったかを知る手がかりはほとんど無いとし、現代に行われているヨーガ実践を見る眼で過去の遺物を見ているのであり、考古学的な遺物のなかに過去の行法実践を読み解くことはできないとしており{{sfn|シングルトン|2014|p=34}}、具体的証拠に全く欠ける研究の難しさを物語っている。



=== 前期ヴェーダ時代 ===

=== 前期ヴェーダ時代 ===

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[[]][[]][[]][[]][[]][[]][[]]

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(インドの歴史におけるヨーガについては後述)


[[12]][[]]{{sfn||2009|p=69}}{{sfn||2009|p=68}}


=== 後期ヴェーダ時代とガンジス文明 ===

=== 後期ヴェーダ時代とガンジス文明 ===

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紀元前5世紀になると、4大ヴェーダが完成し、バラモン教が宗教として完成した。ガンジス川流域で諸国の抗争が続く中で[[バラモン]]が凋落すると、それに代わり[[クシャトリヤ]]や[[ヴァイシャ]]が勢力を伸ばすようになった。こうした変化を背景にウパニシャッド哲学がおこり、その影響下に[[マハーヴィーラ]](ヴァルダマーナ)によって[[ジャイナ教]]が、[[マッカリ・ゴーサーラ]]によって[[アージーヴィカ教]]が、[[釈迦]](シャカ、ガウタマ・シッダールタ)によって[[初期仏教]]が、それぞれ創始され当時の'''インド四大宗教'''はほぼ同時期にそろって誕生し、「[[六師外道]]」とも呼称された自由思想家たちが活躍した。

紀元前5世紀になると、4大ヴェーダが完成し、バラモン教が宗教として完成した。ガンジス川流域で諸国の抗争が続く中で[[バラモン]]が凋落すると、それに代わり[[クシャトリヤ]]や[[ヴァイシャ]]が勢力を伸ばすようになった。こうした変化を背景にウパニシャッド哲学がおこり、その影響下に[[マハーヴィーラ]](ヴァルダマーナ)によって[[ジャイナ教]]が、[[マッカリ・ゴーサーラ]]によって[[アージーヴィカ教]]が、[[釈迦]](シャカ、ガウタマ・シッダールタ)によって[[初期仏教]]が、それぞれ創始され当時の'''インド四大宗教'''はほぼ同時期にそろって誕生し、「[[六師外道]]」とも呼称された自由思想家たちが活躍した。



(インドの歴史におけるヨーガについては後述)


[[500]] - [[400]][[]][[]]{{sfn||2009|p=71}}{{sfn||2009|p=71}}[[350]] - [[300]][[]]{{sfn||1973|p=27}}


=== ペルシャとギリシャの征服 ===

=== ペルシャとギリシャの征服 ===

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仏像彫刻では、上述の[[ガンダーラ]]のほか、[[マトゥラー]]ではインド様式による製作がなされるようになった。

仏像彫刻では、上述の[[ガンダーラ]]のほか、[[マトゥラー]]ではインド様式による製作がなされるようになった。



(インドの歴史におけるヨーガについては後述)

=== 古典ヨーガ ===

{{see also|ヨーガ|ヨーガ学派}}

[[File:Patanjali.jpg|thumb|180px|パタンジャリの典型的な像]]

紀元後4-5世紀頃には、『[[ヨーガ・スートラ]]』が編纂された{{sfn|山下|2009|p=105}}<ref>{{Cite book|和書|title=世界宗教百科事典 |publisher=丸善出版 |year=2012}}p.522</ref>。この書の成立を紀元後3世紀以前に遡らせることは、文献学的な証拠から困難であるという{{sfn|山下|2009|p=105}}。『ヨーガ・スートラ』の思想は、[[仏教]]思想からの影響や刺激も大きく受けている{{sfn|佐保田|1973|p=36}}{{sfn|シングルトン|2014|p=279}}。


国内外の[[ヨーガ]]研究者や実践者のなかには、この『ヨーガ・スートラ』をヨーガの「基本教典」であるとするものがあるが、ヨーガの歴史を研究したマーク・シングルトンはこのような理解に注意を促している。『ヨーガ・スートラ』は当時数多くあった修行書のひとつに過ぎないのであって、かならずしもヨーガに関する「唯一」の「聖典」のような種類のものではないからである{{sfn|シングルトン|2014|p=35}}。サーンキヤ・ヨーガの思想を伝えるためのテキストや教典は、同じ時期に多くの支派の師家の手で作られており、そのなかでたまたま今日に伝えられているのが『ヨーガ・スートラ』である{{sfn|佐保田|1973|p=35}}。『ヨーガ・スートラ』は、ヨーロッパ人研究者の知見に影響を受けながら、20世紀になって英語圏のヨーガ実践者たちによって、また、ヴィヴェーカーナンダやH・P・ブラヴァツキーなどの近代ヨーガの推進者たちによって、「基本教典」としての権威を与えられていった{{sfn|シングルトン|2014|p=35}}。



[[]][[]][[]]{{sfn||1993|p={{|date=yyyym}}}}[[]][[]](


=== 二大叙事詩と『マヌ法典』 ===

=== 二大叙事詩と『マヌ法典』 ===

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[[]]10[[]][[]]貿11[[]]12[[]]13

[[]]10[[]][[]]貿11[[]]12[[]]13


(インドの歴史におけるヨーガについては後述)

=== 後期ヨーガ ===

{{see also|ハタ・ヨーガ}}

[[12世紀]]-[[13世紀]]には、[[タントラ]]的な身体観を基礎として、動的な[[ヨーガ]]が出現した。これは[[ハタ・ヨーガ]](力〔ちから〕ヨーガ)と呼ばれている。内容としては印相(ムドラー)や調気法(プラーナーヤーマ)などを重視し、[[超能力]]や三昧を追求する傾向もある。教典としては『[[ハタ・ヨーガ・プラディーピカー]]』、『[[ゲーランダ・サンヒター]]』、『[[シヴァ・サンヒター]]』がある。


[[File:Swami_Vivekananda_1896.jpg|thumb|180px|ヴィヴェーカーナンダ]]


{{sfn||1973|p=37}}19[[]][[]]{{sfn||2011|p=96}}

ヨーガの歴史的研究を行ったマーク・シングルトンによれば、近代インドの傾向において、ハタ・ヨーガは望ましくない、危険なものとして避けられてきたという{{sfn|シングルトン|2014|p=99}}。ヴィヴェーカーナンダやシュリ・オーロビンド、ラマナ・マハルシら近代の聖者である指導者たちは、ラージャ・ヨーガやバクティ・ヨーガ、ジュニャーナ・ヨーガなどのみを語っていて、高度に精神的な働きや鍛錬のことだけを対象としており、ハタ・ヨーガは危険か浅薄なものとして扱われた{{sfn|シングルトン|2014|p=99}}{{refn|group=†|name="あるがままに1"|例えば、近代インドを代表する聖者である[[ラマナ・マハルシ]]<ref>{{Cite book|和書|author=ポール・ブラントン |translator=日本ヴェーダーンタ協会 |year=2016 |origyear=1982 |title=秘められたインド 改訂版 |publisher=日本ヴェーダーンタ協会 |isbn=978-4-931148-58-1}}{{要ページ番号|date=yyyy年m月}}</ref> は、修練方法としてジュニャーナ・ヨーガ、バクティ・ヨーガ、ラージャ・ヨーガを勧めている。ラマナは、霊性の向上は「心」そのものを扱うことで解決ができるという基本的前提から、ハタ・ヨーガには否定的であった。また、クンダリニー・ヨーガは、潜在的に危険であり必要もないものであり、クンダリニーがサハスラーラに到達したとしても真我の実現は起こらないと発言している<ref name="あるがままに2">{{Cite book|和書|author=デーヴィッド・ゴッドマン編 |translator=福間巖 |year=2005 |title=あるがままに - ラマナ・マハルシの教え |publisher=ナチュラルスピリット |isbn=4-931449-77-8 |pages=249-267}}</ref>。}}。ヨーロッパの人々は、現在ではラージャ・ヨーガと呼ばれる古典ヨーガやヴェーダーンタなどの思想には東洋の深遠な知の体系として高い評価を与えたが、行法としてのヨーガとヨーガ行者には不審の眼を向けた。それは、17世紀以降インドを訪れた欧州の人々が遭遇した現実のハタ・ヨーガの行者等が、不潔と奇妙なふるまい、悪しき行為、時には暴力的な行為におよんだことなどが要因であるという{{sfn|シングルトン|2014|pp=45-52}}{{refn|group=†|{{harvnb|シングルトン|2014}}によれば、これらの行者のなかには、実際にかなり暴力的な方法で物乞いをする者達もいて、一般の人々から恐れられていたらしい。武装したハタ・ヨーガ行者たちは略奪行為を働くこともあった。略奪行為が統治者から禁止されるようになると、行者らはヨーガを見世物とするようになり、正統的なヒンドゥー教徒たちからは社会の寄生虫として蔑視されていた{{sfn|シングルトン|2014|pp=45-52}}。}}。



=== ヴィジャヤナガル王国 ===

=== ヴィジャヤナガル王国 ===

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[[]][[|]][[]][[1942]][[]][[]][[]][[]] (INA) [[]]<ref>201996{{|date=yyyym}}</ref>[[A.M.]][[]]{{2||date=20188}}

[[]][[|]][[]][[1942]][[]][[]][[]][[]] (INA) [[]]<ref>201996{{|date=yyyym}}</ref>[[A.M.]][[]]{{2||date=20188}}


(インドの歴史におけるヨーガについては後述)

=== 近現代のヨーガ ===

{{see also|ハタ・ヨーガ#現代のハタ・ヨーガ}}


1920西{{||en|Physical culture}}[[]][[]]{{||en|Tirumalai Krishnamacharya}}1888 - 1989西[[]]<ref name="">{{Cite journal||author= |date=2011-03-30 |title= :  |journal= |volume=84(4) |publisher= |naid=110008514008 |pages=417-418}}</ref>{{refn|group=|[[]]19201930{{harvnb||2014}}1930西<ref name=""/>}}

インド伝統のエクササイズ(健康体操)と喧伝されることで、アーサナが中心となったハタ・ヨーガの名前が近現代に復権することになった{{sfn|シングルトン|2014|p=5}}。


2016年、[[ユネスコ]]が推進する[[無形文化遺産]]にインド申請枠で登録された<ref>[http://www.unesco.org/culture/ich/en/RL/yoga-01163 Yoga India Inscribed in 2016 (11.COM) on the Representative List of the Intangible Cultural Heritage of Humanity] Intangible Heritage UNWSCO</ref>。



== 第二次世界大戦後 ==

== 第二次世界大戦後 ==

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その一方では、広大な国土に対する[[インフラ]]整備が進んでいないことがしばしば指摘される。2006年8月10日、モンスーンによる洪水の被害者は、東部の[[グジャラート]]、南東部の[[アーンドラ・プラデーシュ]]の2州だけで約1300万人に上る惨事となった。

その一方では、広大な国土に対する[[インフラ]]整備が進んでいないことがしばしば指摘される。2006年8月10日、モンスーンによる洪水の被害者は、東部の[[グジャラート]]、南東部の[[アーンドラ・プラデーシュ]]の2州だけで約1300万人に上る惨事となった。


== インドにおけるヨーガの歴史 ==

=== インダス文明 ===

インダス文明が後世のインド文明に与えた影響として、[[沐浴]]の習慣や[[リンガ]]信仰などが挙げられるほか、彼らの神像がシヴァ神の原型でありヨーガの源流になったと考えられてきていた。


[[File:Yogi. Mold of Seal, Indus valley civilization.jpg|upright|thumb|200px|紀元前2500-1500年頃の彫像]]

これは、1921年に[[モヘンジョダロ|モエンジョ・ダーロ]]と[[ハラッパー]]の遺跡を発掘した[[考古学|考古学者]]のジョン・マーシャルらによって、発掘された印章に彫られた図像を、[[坐法]]を行っている[[シヴァ|シヴァ神]]の原型であると解釈したものである{{sfn|シングルトン|2014|p=33}}。そこから宗教学者[[ミルチャ・エリアーデ|エリアーデ]]も、これを「塑造された最初期のヨーガ行者の表象」であるとした{{sfn|シングルトン|2014|p=33}}。


近代に至る[[ヨーガ]]の歴史を研究したマーク・シングルトンは、この印章がのちにヨーガと呼ばれたものであるかは、かなり疑わしいものであったが、古代のヨーガの起源としてたびたび引用されるようになった、と述べている{{sfn|シングルトン|2014|p=33}}。



[[]]{{sfn||1973|p=23}}{{sfn||1973|p=23}}

また、インド学者のドリス・スリニヴァサンも、この印章に彫られた像をシヴァ神とすることには無理があり、これをヨーガ行法の源流と解することに否定的であるとしている{{sfn|シングルトン|2014|pp=33-34}}。


近年、このようなヨーガのインダス文明起源説に終止符を打とうとした宗教人類学者のジェフリー・サミュエルは、このような遺物からインダス文明の人々の宗教的実践がどのようなものであったかを知る手がかりはほとんど無いとし、現代に行われているヨーガ実践を見る眼で過去の遺物を見ているのであり、考古学的な遺物のなかに過去の行法実践を読み解くことはできないとしており{{sfn|シングルトン|2014|p=34}}、具体的証拠に全く欠ける研究の難しさを物語っている。


=== 前期ヴェーダ時代 ===


[[12]][[]]{{sfn||2009|p=69}}{{sfn||2009|p=68}}

=== ウパニシャッドの時代 ===


[[500]] - [[400]][[]][[]]{{sfn||2009|p=71}}{{sfn||2009|p=71}}[[350]] - [[300]][[]]{{sfn||1973|p=27}}

=== 古典ヨーガ ===

{{see also|ヨーガ|ヨーガ学派}}

[[File:Patanjali.jpg|thumb|180px|パタンジャリの典型的な像]]

紀元後4-5世紀頃には、『[[ヨーガ・スートラ]]』が編纂された{{sfn|山下|2009|p=105}}<ref>{{Cite book|和書|title=世界宗教百科事典 |publisher=丸善出版 |year=2012}}p.522</ref>。この書の成立を紀元後3世紀以前に遡らせることは、文献学的な証拠から困難であるという{{sfn|山下|2009|p=105}}。『ヨーガ・スートラ』の思想は、[[仏教]]思想からの影響や刺激も大きく受けている{{sfn|佐保田|1973|p=36}}{{sfn|シングルトン|2014|p=279}}。


国内外の[[ヨーガ]]研究者や実践者のなかには、この『ヨーガ・スートラ』をヨーガの「基本教典」であるとするものがあるが、ヨーガの歴史を研究したマーク・シングルトンはこのような理解に注意を促している。『ヨーガ・スートラ』は当時数多くあった修行書のひとつに過ぎないのであって、かならずしもヨーガに関する「唯一」の「聖典」のような種類のものではないからである{{sfn|シングルトン|2014|p=35}}。サーンキヤ・ヨーガの思想を伝えるためのテキストや教典は、同じ時期に多くの支派の師家の手で作られており、そのなかでたまたま今日に伝えられているのが『ヨーガ・スートラ』である{{sfn|佐保田|1973|p=35}}。『ヨーガ・スートラ』は、ヨーロッパ人研究者の知見に影響を受けながら、20世紀になって英語圏のヨーガ実践者たちによって、また、ヴィヴェーカーナンダやH・P・ブラヴァツキーなどの近代ヨーガの推進者たちによって、「基本教典」としての権威を与えられていった{{sfn|シングルトン|2014|p=35}}。



[[]][[]][[]]{{sfn||1993|p={{|date=yyyym}}}}[[]][[]](

=== 後期ヨーガ ===

{{see also|ハタ・ヨーガ}}

[[12世紀]]-[[13世紀]]には、[[タントラ]]的な身体観を基礎として、動的な[[ヨーガ]]が出現した。これは[[ハタ・ヨーガ]](力〔ちから〕ヨーガ)と呼ばれている。内容としては印相(ムドラー)や調気法(プラーナーヤーマ)などを重視し、[[超能力]]や三昧を追求する傾向もある。教典としては『[[ハタ・ヨーガ・プラディーピカー]]』、『[[ゲーランダ・サンヒター]]』、『[[シヴァ・サンヒター]]』がある。


[[File:Swami_Vivekananda_1896.jpg|thumb|180px|ヴィヴェーカーナンダ]]


{{sfn||1973|p=37}}19[[]][[]]{{sfn||2011|p=96}}

ヨーガの歴史的研究を行ったマーク・シングルトンによれば、近代インドの傾向において、ハタ・ヨーガは望ましくない、危険なものとして避けられてきたという{{sfn|シングルトン|2014|p=99}}。ヴィヴェーカーナンダやシュリ・オーロビンド、ラマナ・マハルシら近代の聖者である指導者たちは、ラージャ・ヨーガやバクティ・ヨーガ、ジュニャーナ・ヨーガなどのみを語っていて、高度に精神的な働きや鍛錬のことだけを対象としており、ハタ・ヨーガは危険か浅薄なものとして扱われた{{sfn|シングルトン|2014|p=99}}{{refn|group=†|name="あるがままに1"|例えば、近代インドを代表する聖者である[[ラマナ・マハルシ]]<ref>{{Cite book|和書|author=ポール・ブラントン |translator=日本ヴェーダーンタ協会 |year=2016 |origyear=1982 |title=秘められたインド 改訂版 |publisher=日本ヴェーダーンタ協会 |isbn=978-4-931148-58-1}}{{要ページ番号|date=yyyy年m月}}</ref> は、修練方法としてジュニャーナ・ヨーガ、バクティ・ヨーガ、ラージャ・ヨーガを勧めている。ラマナは、霊性の向上は「心」そのものを扱うことで解決ができるという基本的前提から、ハタ・ヨーガには否定的であった。また、クンダリニー・ヨーガは、潜在的に危険であり必要もないものであり、クンダリニーがサハスラーラに到達したとしても真我の実現は起こらないと発言している<ref name="あるがままに2">{{Cite book|和書|author=デーヴィッド・ゴッドマン編 |translator=福間巖 |year=2005 |title=あるがままに - ラマナ・マハルシの教え |publisher=ナチュラルスピリット |isbn=4-931449-77-8 |pages=249-267}}</ref>。}}。ヨーロッパの人々は、現在ではラージャ・ヨーガと呼ばれる古典ヨーガやヴェーダーンタなどの思想には東洋の深遠な知の体系として高い評価を与えたが、行法としてのヨーガとヨーガ行者には不審の眼を向けた。それは、17世紀以降インドを訪れた欧州の人々が遭遇した現実のハタ・ヨーガの行者等が、不潔と奇妙なふるまい、悪しき行為、時には暴力的な行為におよんだことなどが要因であるという{{sfn|シングルトン|2014|pp=45-52}}{{refn|group=†|{{harvnb|シングルトン|2014}}によれば、これらの行者のなかには、実際にかなり暴力的な方法で物乞いをする者達もいて、一般の人々から恐れられていたらしい。武装したハタ・ヨーガ行者たちは略奪行為を働くこともあった。略奪行為が統治者から禁止されるようになると、行者らはヨーガを見世物とするようになり、正統的なヒンドゥー教徒たちからは社会の寄生虫として蔑視されていた{{sfn|シングルトン|2014|pp=45-52}}。}}。


=== 近現代のヨーガ ===

{{see also|ハタ・ヨーガ#現代のハタ・ヨーガ}}


1920西{{||en|Physical culture}}[[]][[]]{{||en|Tirumalai Krishnamacharya}}1888 - 1989西[[]]<ref name="">{{Cite journal||author= |date=2011-03-30 |title= :  |journal= |volume=84(4) |publisher= |naid=110008514008 |pages=417-418}}</ref>{{refn|group=|[[]]19201930{{harvnb||2014}}1930西<ref name=""/>}}

インド伝統のエクササイズ(健康体操)と喧伝されることで、アーサナが中心となったハタ・ヨーガの名前が近現代に復権することになった{{sfn|シングルトン|2014|p=5}}。


2016年、[[ユネスコ]]が推進する[[無形文化遺産]]にインド申請枠で登録された<ref>[http://www.unesco.org/culture/ich/en/RL/yoga-01163 Yoga India Inscribed in 2016 (11.COM) on the Representative List of the Intangible Cultural Heritage of Humanity] Intangible Heritage UNWSCO</ref>。



== インドの歴史の史料 ==

== インドの歴史の史料 ==


2022年5月11日 (水) 05:57時点における版

モエンジョ・ダーロ遺跡

インドの歴史(インドのれきし、History of India)では、インダス文明以来のインドの歴史について略述する。

インダス文明・ガンジス文明

インダス文明

インダス文明

2600Iravatham Mahadevan3500西Dravidian hypothesisRajesh P. N. Rao[1]

沿

2000退 (Ahar-Banas culture) (Malava Kingdom, Malwa culture) (Jorwe culture) 

16281626


前期ヴェーダ時代

カイバル峠

1500西[2]




後期ヴェーダ時代とガンジス文明

十六大国

十六大国の位置

1000950退61 (en:Iranian invasion of Indus Valley) 

ウパニシャッド哲学と新宗教


54


ペルシャとギリシャの征服

紀元前330年頃には、インド北西部にマケドニア王国アレクサンドロス3世(大王)が進出していた。

古代インドの諸王朝

マウリヤ朝マガダ国のインド統一


4

32西4

クシャーナ朝

ガンダーラの仏頭(2世紀

1231退

サータヴァーハナ朝と古代交易網


2西貿綿

貿

大乗仏教のおこり

頭上にナーガをいただくナーガールジュナ(龍樹)
マトゥラー出土の弥勒菩薩像(2世紀、ギメ東洋美術館



西12




二大叙事詩と『マヌ法典』

マハーバーラタ』より「クルクシェートラの戦い英語版



24

インド古典文化の完成

グプタ朝の成立とヒンドゥー教の確立

アジャンター石窟寺院の壁画

4452

45



5



56

ヴァルダナ朝とラージプート時代の到来

ナーランダ僧院跡

67

7西111012


南インドの諸王朝

マハーバリプラムの「石彫寺院」(ラタ)、7世紀

6872822

121

北インドのイスラーム化と南インド

ガズナ朝・ゴール朝の侵入


10


13

12063005

5

514141398


南インドのヒンドゥー諸王国


10貿111213


ヴィジャヤナガル王国

ハンピのヴィルーパークシャ寺院

1336

14171336 - 14861486 - 15051505 - 15691569 - 16494

15655退

21614


141347

215275

51565


バクティ信仰とシク教の創始

アムリトサルの黄金寺院

15


1498沿1510

15802

ムガル帝国

タージ・マハルアーグラ

1526年から1858年までの332年間は、バーブル以来の王朝が統治するムガル帝国の時代であった。

ムガル帝国の成立と隆盛


161526

3

175

使

ムガル帝国の衰退


1761674



1707退1719

17081737

英蘭の南インド進出

マドラスのセント・ジョージ要塞(18世紀末ころ)

1716121623

1639164016511663

英仏の進出と植民地抗争

プラッシーの戦い

綿貿31661169016731674

181757

イギリスによる蚕食とインドの貧困化

対英戦争に一生を費やし『マイソールの虎』と怖れられたティプー・スルターン

1817631765

1813貿綿綿退19綿100綿綿綿綿179319

19貿19

イギリス植民地時代

1858年から1947年まで、イギリスによる植民地化からインド・パキスタン分離独立までの89年間は、イギリス人総督を機軸とするイギリス領インド帝国の時代である。

インド大反乱と英領インド帝国の成立

『インドのジャンヌ・ダルク』ラクシュミー・バーイー

1857

1877

インド国民会議派の成立


18854

国民会議派の急進化と全インド・ムスリム連盟

全インド・ムスリム連盟初代総裁アーガー・ハーン3世

1905190641911

2度の世界大戦とインド

ローラット法とアムリットサル事件


19072100西[]1919191934

ガンディーの登場


19194

プールナ・スワラージと塩の行進

塩の行進

1929: 

19303360 km2921935

チャンドラ・ボースとインド国民軍


1942 (INA) [3]A.M.[?]


第二次世界大戦後


219471950

1920

194592

1947815

19481

1950194612194911261950126

126815

"Indian Sovereign Socialist Secular Democratic Republic"



[4]

非同盟主義


51954

印パ戦争と中印国境紛争


1947 - 19481965 - 196619711999

19591962


19746

20067933,500

国内政局の変換

インディラ・ガンディーとニクソン米大統領

196419661977

19801984

1997

199019982004

2004

BRICsの一角

アジア最古の歴史をもつボンベイ証券取引所

19801997

21BRICsIT

200681021300



2500-1500

1921[5][5]

[5]

[6][6]

[7]

[8]


12[9][10]


500 - 400[11][11]350 - 300[12]

古典ヨーガ

パタンジャリの典型的な像

4-5[13][14]3[13][15][16]

[17][18]20HP[17]

[19](

後期ヨーガ


12-13調

[20]19[21]

[22][22][ 1]17[25][ 2]

近現代のヨーガ


1920西1888 - 1989西[26][ 3] [27]

2016[28]

インドの歴史の史料








712

脚注

補注



(一)^ [23] [24]

(二)^  2014[25]

(三)^ 19201930 20141930西[26]

出典



(一)^  (WIRED.jp)[]

(二)^ Masica, Colin P (1993) [1991]. The Indo-Aryan languages (paperback ed.). Cambridge University Press. p. 36. ISBN 0521299446 

(三)^ 201996[]

(四)^  -- --2006p.204

(五)^ abc 2014, p. 33.

(六)^ ab 1973, p. 23.

(七)^  2014, pp. 3334.

(八)^  2014, p. 34.

(九)^  2009, p. 69.

(十)^  2009, p. 68.

(11)^ ab 2009, p. 71.

(12)^  1973, p. 27.

(13)^ ab 2009, p. 105.

(14)^ 2012 p.522

(15)^  1973, p. 36.

(16)^  2014, p. 279.

(17)^ ab 2014, p. 35.

(18)^  1973, p. 35.

(19)^  1993, p. [].

(20)^  1973, p. 37.

(21)^  2011, p. 96.

(22)^ ab 2014, p. 99.

(23)^    20161982ISBN 978-4-931148-58-1 []

(24)^    - 2005249-267ISBN 4-931449-77-8 

(25)^ ab 2014, pp. 4552.

(26)^ ab : 84(4)2011330417-418NAID 110008514008 

(27)^  2014, p. 5.

(28)^ Yoga India Inscribed in 2016 (11.COM) on the Representative List of the Intangible Cultural Heritage of Humanity Intangible Heritage UNWSCO


1973ISBN 4-89203-019-8 

 - 2014ISBN 978-4-905328-06-3 

︿2009ISBN 978-4-06-258432-6 

 2011ISBN 978-4-333-02471-1 

1993ISBN 4-595-21344-1 

関連項目