フランクフルト・アム・マイン
フランクフルト・アム・マイン Frankfurt am Main | |||
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北緯50度6分38秒 東経8度40分56秒 / 北緯50.11056度 東経8.68222度座標: 北緯50度6分38秒 東経8度40分56秒 / 北緯50.11056度 東経8.68222度 | |||
国 | ドイツ | ||
州 | ヘッセン州 | ||
行政管区 | ダルムシュタット行政管区 | ||
郡 | 郡独立市 | ||
行政区域 | 46区 | ||
政府 | |||
• 上級市長 | マイク・ヨーゼフ(SPD) | ||
• 市議会会派 |
ドイツ社会民主党、 同盟90/緑の党 | ||
面積 | |||
• 合計 | 248.31 km2 | ||
標高 | 112 m | ||
人口 (2020年12月31日) | |||
• 合計 | 764,104人 | ||
• 密度 | 3,100人/km2 | ||
郵便番号 |
60306–60599, 65929–65936 | ||
市外局番 | 069, 06101, 06109 | ||
ナンバープレート | F | ||
市コード | 06 4 12 000 | ||
ウェブサイト | www.frankfurt.de | ||
地名
地理
位置
フランクフルト・アム・マイン市は、南西ドイツのタウヌス山地南東麓マイン川下流の両岸に位置し、ドイツで最も重要な経済圏を形成している。市域の約1/3がフランクフルト緑地帯景観保護地域に指定されている。これにはドイツ最大の都市林であるフランクフルター・シュタットヴァルトが含まれる。市域は東西23.4km、南北23.3kmの広がりを持つ。 自然構造物で最も高い地点は、ゼックバッハ市区ベルガー・リュッケンのベルガー・ヴァルテ︵直訳すると﹁山の監視所﹂︶のある位置で、海抜 212.6 m である。一方最低地点は、ジンドリンゲン市区のマイン川の河原で、海抜 88 m である。本市は、バーゼルからライン=マイン地域にいたるオーバーライン地溝の北端にあたる。 現在の市域の地理上の重心、すなわち地理的中心点は、ボッケンハイム区のフランクフルト西駅付近で、歴史的市街地の外側にある[9]。地質
フランクフルトの市域は、大部分がウンターマインエーベネ︵マイン川下流域盆地︶西部に属す。市の東部はハーナウ=ゼーリゲンシュタット盆地、最北部はヴェッテラウである[10]。地質学的には、本市の市域内には鮮新世後期から更新世に形成されたマイン川とニッダ川の4つの段丘が見られる。最も高い段丘は、タウヌス山地の岩石で構成されており、市内ではベルガー・リュッケンでのみ見られる。高さ 170 m から 120 m の上の段丘には、市北部から北東部の市区が存在している。ここから北西はニッダ川へ、南はボルンハイマー・ハングやレーダーベルク付近を急斜面で下る。ザクセンハウゼン南のミュールベルクやザクセンホイザー・ベルクもこの段丘にあたる。中央の段丘は 100 m から 115 m の高さにある。これは、市域内ではたとえばケルスターバッハ川の川岸や、ヘーヒスト旧市街の断崖状の川岸がこれにあたる。高さ 95 m から 90 m の下の段丘は、完新世になって形成された。これは、マイン川の両岸に沿っている。ここには、街の歴史の出発点となったドームヒューゲル︵聖堂の丘︶やカルメリッターヒューゲル︵カルメル会の丘︶がある。ボッケンハイム区︵バザルト通り︶やシュタットヴァルトといった市内の限られた場所に、中新世のフォーゲルスベルク玄武岩でできた下の地層を見ることができる。この層の厚さは 14 m 程度である。気候
最も古い気温の測定値は1695年12月のもので、アヒレス・アウグストゥス・フォン・レルスナーの年代記に記録されている。1826年以後は、異なる測候所での継続的な測定値が存在している[11]。現在フランクフルトには、ドイツ気象庁の測候所が多くある。これには、フランクフルト空港の測候所も含まれており、その測定記録は1949年にまで遡る。 フランクフルトおよびライン=マイン地域は、ドイツで最も温暖な気候に属するオーバーライン地溝の北端に位置する。 このためフランクフルトの気候は総じて穏やか。11月から1月までの時期には平均1から2時間しか晴天にならない。冬の時期における1日の最高気温の平均値は、1月で約5.1 ℃、夜間の最低気温は、平均-0.6 ℃︵1991年から2020年の統計値︶。雪は1月に平均7日間。積雪が10 cmを超えることは滅多になく、ほとんどはすぐに消える。しかし市の北西部のタウヌス山地だけはしばしば雪が積もる。 夏の最高気温は26℃~27℃︵30℃を超える日は平均年間10日である︶と暖かい。にわか雨や突然の豪雨でやや変わりやすいものの、毎日7時間から8時間の日照が得られる時期。夏は、特に市内中心部では蒸し暑くなる。 最も気温が高い月は7月から8月で平均気温は20.5 ℃から 20.0 ℃、最も寒いのは12月から2月で平均気温は 2.3 ℃から3.1 ℃。観測史上最低気温は1940年1月の -23.8 ℃、最高気温は 2019年7月の 40.1 ℃。 1991年から2020年までの平均気温は 11.1℃、年間降水量は平均 584.4 mm。市内中心部では、環境の違いにより気温はフルークハーフェン区︵空港付近︶よりも約 0.6 ℃高いが、降水量はタウヌス山地の陰になるため周辺よりも少ない。 風向きは主に西風。1991年から2020年の統計で最も降水量が多いのは7月で 63.1 mm、最も少ないのは4月で 36.3 mm。フランクフルト・アム・マイン(1991~2020)の気候 | |||||||||||||
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月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
最高気温記録 °C (°F) | 16.2 (61.2) |
19.1 (66.4) |
24.7 (76.5) |
30.3 (86.5) |
34.8 (94.6) |
39.3 (102.7) |
40.1 (104.2) |
38.7 (101.7) |
34.6 (94.3) |
28.0 (82.4) |
20.0 (68) |
16.5 (61.7) |
40.1 (104.2) |
平均最高気温 °C (°F) | 5.1 (41.2) |
6.8 (44.2) |
11.7 (53.1) |
16.9 (62.4) |
20.8 (69.4) |
24.3 (75.7) |
26.6 (79.9) |
26.1 (79) |
21.0 (69.8) |
15.0 (59) |
9.1 (48.4) |
5.7 (42.3) |
15.8 (60.4) |
日平均気温 °C (°F) | 2.3 (36.1) |
3.1 (37.6) |
6.8 (44.2) |
11.1 (52) |
15.1 (59.2) |
18.5 (65.3) |
20.5 (68.9) |
20.0 (68) |
15.5 (59.9) |
10.7 (51.3) |
6.1 (43) |
3.1 (37.6) |
11.1 (52) |
平均最低気温 °C (°F) | −0.6 (30.9) |
−0.4 (31.3) |
2.2 (36) |
5.4 (41.7) |
9.4 (48.9) |
12.9 (55.2) |
14.9 (58.8) |
14.5 (58.1) |
10.6 (51.1) |
6.8 (44.2) |
3.2 (37.8) |
0.4 (32.7) |
6.6 (43.9) |
最低気温記録 °C (°F) | −23.8 (−10.8) |
−21.5 (−6.7) |
−13.0 (8.6) |
−7.1 (19.2) |
−2.8 (27) |
0.1 (32.2) |
2.8 (37) |
2.5 (36.5) |
−0.3 (31.5) |
−6.3 (20.7) |
−12.7 (9.1) |
−18.7 (−1.7) |
−23.8 (−10.8) |
雨量 mm (inch) | 43.1 (1.697) |
36.4 (1.433) |
37.4 (1.472) |
36.3 (1.429) |
59.5 (2.343) |
54.3 (2.138) |
63.1 (2.484) |
59.9 (2.358) |
46.7 (1.839) |
48.5 (1.909) |
46.8 (1.843) |
52.4 (2.063) |
584.4 (23.008) |
出典:http://www.pogodaiklimat.ru/climate2.php?id=10637 |
地域
行政区画
フランクフルト・アム・マイン市は、46のシュタットタイル(市区)に分割されるが、市区の番号は 47 まである(23は技術的な理由から欠番となっているのだが、プラウンハイム区に充てられることもある)。これらはさらに 121 のシュタットベツィルク(市街区)、448のヴァールベツィルク(選挙区)、6,130のブロックで構成されている[12]。
行政上、市は 16のオルツベツィルク(管区)に分けられ、それぞれに代表者としての地区長を有する地区議会がある。1970年代に合併した旧町村は、それぞれ合併前の領域がそれぞれの管区を形成している。
人口が最も少ない市区はフルークハーフェン区、面積が一番狭い市区はアルトシュタット区である。最も大きな市区は面積、人口ともにザクセンハウゼン区であり、人口で見るとこれにノルトエント区、ボッケンハイム区が続く。
No. |
市区 |
管区 | 面積 (km²)[13] |
人口(人)[14] |
外国人数[14] |
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1 | アルトシュタット | 01 イネンシュタット I | 0.51 | 4,255 | 1,551 |
2 | イネンシュタット | 01 イネンシュタット I | 1.52 | 6,550 | 2,983 |
3 | バーンホーフスフィアテル | 01 イネンシュタット I | 0.53 | 3,703 | 1,851 |
4 | ヴェストエント南 | 02 イネンシュタット II | 2.47 | 19,318 | 5,272 |
5 | ヴェストエント北 | 02 イネンシュタット II | 1.67 | 10.330 | 2,974 |
6 | ノルトエント西 | 03 イネンシュタット III | 3.07 | 30,975 | 6,614 |
7 | ノルトエント東 | 03 イネンシュタット III [表注 1] | 1.69 | 23,135 | 5,150 |
8 | オストエント | 04 イネンシュタット IV | 5.40 | 29,704 | 8,476 |
9 | ボルンハイム | 04 イネンシュタット IV | 2.66 | 30,761 | 7,314 |
10 | グートロイトフィアテル | 01 イネンシュタット I | 2.20 | 6,786 | 2,876 |
11 | ガルス | 01 イネンシュタット I | 4.22 | 42,012 | 17,072 |
12 | ボッケンハイム | 02 イネンシュタット II [表注 2] | 8.04 | 42,140 | 13,970 |
13 | ザクセンハウゼン北 | 05 ジュート | 4.24 | 32,824 | 8,058 |
14 | ザクセンハウゼン南 | 05 ジュート | 34.91 | 29,163 | 7,078 |
15 | フルークハーフェン | 05 ジュート | 20.00 | 人口はザクセンハウゼン南に合算されている | |
16 | オーバーラート | 05 ジュート | 2.74 | 13,648 | 4,604 |
17 | ニーダーラート | 05 ジュート | 2.93 | 27,043 | 9,801 |
18 | シュヴァーンハイム | 06 ヴェスト [表注 3] | 17.73 | 20,576 | 5,065 |
19 | グリースハイム | 06 ヴェスト | 4.90 | 23,569 | 9,968 |
20 | レーデルハイム | 07 ミッテ=ヴェスト | 5.15 | 19,253 | 6,494 |
21 | ハウゼン | 07 ミッテ=ヴェスト | 1.26 | 7,349 | 2,541 |
22 (23) |
プラウンハイム | 07 ミッテ=ヴェスト [表注 4] | 4.55 | 16,729 | 4,702 |
24 | ヘデルンハイム | 08 ノルト=ヴェスト | 2.49 | 17,073 | 4,278 |
25 | ニーダーウルゼル | 08 ノルト=ヴェスト | 7.22 | 16,611 | 4,958 |
26 | ギンハイム | 09 ミッテ=ノルト | 2.73 | 16,826 | 4,384 |
27 | ドルンブッシュ | 09 ミッテ=ノルト | 2.38 | 18,715 | 4,164 |
28 | エッシャースハイム | 09 ミッテ=ノルト | 3.34 | 15,323 | 3,345 |
29 | エッケンハイム | 10 ノルト=オスト | 2.23 | 14,405 | 4,304 |
30 | プロインゲスハイム | 10 ノルト=オスト | 3.74 | 15,775 | 4,481 |
31 | ボナメス | 10 ノルト=オスト | 1.24 | 6,450 | 1,853 |
32 | ベルカースハイム | 10 ノルト=オスト | 3.18 | 3,881 | 823 |
33 | リーダーヴァルト | 11 オスト | 1.04 | 5,000 | 1,451 |
34 | ゼックバッハ | 11 オスト | 8.04 | 10,473 | 3,062 |
35 | フェッヒェンハイム | 11 オスト | 7.18 | 17,843 | 7,852 |
36 | ヘーヒスト | 06 ヴェスト | 4.73 | 16,103 | 6,687 |
37 | ニート | 06 ヴェスト | 3.82 | 19,785 | 7,486 |
38 | ジンドリンゲン | 06 ヴェスト | 3.98 | 9,095 | 3,048 |
39 | ツァイルスハイム | 06 ヴェスト | 5.47 | 12,515 | 3,911 |
40 | ウンターリーダーバッハ | 06 ヴェスト | 5.85 | 17,151 | 5,629 |
41 | ゾッセンハイム | 06 ヴェスト | 5.97 | 16,175 | 6,005 |
42 | ニーダー=エルレンバッハ | 13 ニーダー=エルレンバッハ | 8.34 | 4,686 | 645 |
43 | カルバッハ=リートベルク | 12 カルバッハ=リートベルク | 6.90 | 22,170 | 5,240 |
44 | ハルハイム | 14 ハルハイム | 5.02 | 5,294 | 855 |
45 | ニーダー=エシュバッハ | 15 ニーダー=エッシュバッハ | 6.35 | 11,462 | 2,746 |
46 | ベルゲン=エンクハイム | 16 ベルゲン=エンクハイム | 12.54 | 17,988 | 3,616 |
47 | フランクフルター・ベルク | 10 ノルト=オスト | 2.16 | 8,225 | 2,249 |
フランクフルト・アム・マイン市 | 248.33 | 758,847 | 222,786 | ||
- 表注
人口
国別の海外出身者の人口[15] | |
出身国 | 人口 (2022) |
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トルコ | 25,300 |
クロアチア | 16,770 |
イタリア | 15,120 |
ポーランド | 12,180 |
ルーマニア | 10,450 |
ウクライナ | 10,260 |
セルビア | 9,405 |
ブルガリア | 8,510 |
インド | 7,620 |
モロッコ | 7,370 |
スペイン | 7,140 |
ギリシャ | 6,590 |
ボスニア・ヘルツェゴビナ | 6,350 |
アフガニスタン | 5,130 |
フランス | 4,720 |
中国 | 4,640 |
アルジェリア | 4,090 |
ポルトガル | 4,000 |
日本 | 3,670 |
エリトリア | 3,380 |
人口推移
隣接自治体
●西‥マイン=タウヌス郡︵ハッタースハイム・アム・マイン、クリフテル、ホーフハイム・アム・タウヌス、ケルクハイム (タウヌス)、リーダーバッハ・アム・タウヌス、ズルツバッハ (タウヌス)、シュヴァルバッハ・アム・タウヌス、エシュボルン︶ ●北西‥ホーホタウヌス郡︵シュタインバッハ (タウヌス)、オーバーウルゼル (タウヌス)、バート・ホムブルク・フォア・デア・ヘーエ︶ ●北‥ヴェッテラウ郡︵カルベン、バート・フィルベル︶ ●北東‥マイン=キンツィヒ郡︵ニーダードルフェルデン、マインタール︶ ●南東‥オッフェンバッハ・アム・マイン ●南‥オッフェンバッハ郡︵ノイ=イーゼンブルク︶ ●南西‥グロース=ゲーラウ郡︵メルフェルデン=ヴァルドルフ、リュッセルスハイム・アム・マイン、ラウンハイム、ケルスターバッハ︶歴史
フランク王国
フランクフルト・アム・マインは、794年2月22日にカール大帝がレーゲンスブルクの聖エメラム修道院宛に発した文書に初めて記述されている。この文書にはラテン語で次のように書かれている "… actum super fluvium Moin in loco nuncupante Franconofurd"﹁マイン川の畔にフランクフルトと名付けられた村がある﹂ すなわち、ドームヒューゲルの集落は新石器時代から継続的に存続していることが証明されている。 この村は、おそらくローマの軍事基地となり、メロヴィング朝時代にフランク王国の王宮所在地となった。 カール大帝はこの地に長期間滞在したが、以後1378年までに王・皇帝のここでの滞在は約300回に及んだ。カールの時代には国王荘館︵Königlicher Wirtschaftshof︶があったと推測される。続くルートヴィヒ1世︵敬虔王︶の治世には26,5m x 12mの広間を擁する王宮︵Königspfalz︶があった。特にルートヴィヒ2世︵ドイツ王︶にとってはお気に入りの滞在地で︵833年10月から876年8月までに33回︶、フランクフルトは、876年にプリュムのレギノに﹁東国王の主要居住地﹂︵principalis sedes regni orientalis︶と呼ばれ、ほとんど国王居城地的性格︵Residenzcharakter︶を持っていた。カロリング朝歴代の王はこの地で頻繁に宮廷会議︵Hoftage︶や帝国会議︵Reichsversammlungen︶を開催し、広大な御料林︵Reichsforst︶﹁ドライアイヒ﹂︵Dreieich︶で狩りを行った[19]。こうして、この﹁王宮は都市形成の過程における旧市区的核﹂となった[20]。神聖ローマ帝国時代
ザクセン朝︵オットー朝︶においてもフランクフルトの王室・帝室にとっての重要性は維持され、クリスマスの祝祭が頻繁に催されたが、ザーリアー朝にいたると、帝室にとってこの市の役割は後退した。ロタール3世時代は、行幸が一度もなかった。しかし、ホーエンシュタウフェン朝においては再び王・皇帝の滞在が頻繁になり、宮廷会議がこの地で開かれた[21]。 1241年の帝国租税表︵Reichssteuerverzeichnis︶に挙げられた都市の中でフランクフルトは最高額250マルク/年の税を納付している︵都市以外の租税納付単位を含め、租税全額7100マルク︶[22]。 中世、フランクフルト市政にとって決定的だったのは、都市君主としての王の無制限の支配権︵Stadtherrschaft︶であった。1200年ころの フリードリヒ2世によるライヒスフォークタイ︵Reichsvogtei︶撤廃の後、1184年/ 1185年以降記録にあるシュルトハイス︵Schultheiß︶が王権の最高代理統治権者︵der oberste königliche Amtsträger︶として市の行政と司法をリードした。それに当初任命されたのは帝国ミニステリアーレ︵Reichsministerialität︶出身者であった。判決発見の役割︵Urteilsfinder︶は市民側の参審団︵Schöffenkolleg︶が担ったが、それから参事会︵Rat︶が発展していった。1311年には市長︵Bürgermeister︶が置かれ、参事会と市長が市の行政を担い、シュルトハイスの機能を制限していった[23]。 13世紀から14世紀にかけて、周辺領邦君主の圧迫に対抗して商業の安全を確保するために近隣諸都市と同盟を結んだ。すなわちヴェッテルアウ帝国都市同盟︵der Bund wetterauischen Reichsstädte︶とライン中流地域ラント平和組織︵Mittelrheinische Landfriedenorganisation︶においてフランクフルトは指導的役割を演じた[24]。 1147年 ドイツ王コンラート3世はこの地の選挙で﹁息子ハインリヒを国王に当選させた﹂[25]。その後、1152年3月5日、﹁帝国の世俗諸侯と聖職者諸侯の全員が﹂フランクフルトに集まり、シュヴァーベン大公フリードリヒ︵フリードリヒ2世バルバロッサ︶を﹁満場一致でドイツ王に選んだ﹂[26]。以後ほとんどの国王選挙はこの地で行われ、国王選挙地としてのフランクフルトは1356年の金印勅書において規定されたが、このことはこの地に帝国法上、傑出した地位を与えた[23]。国王選挙は神聖ローマ帝国終焉の1806年に至るまでの間ほとんど毎回この地で行われたが、戴冠式も1563年からフランクフルトで催された[27]。1792年の最後の神聖ローマ皇帝フランツ2世の戴冠式とともに、当市の特別な地位も消滅した。なお、ゲーテはその自伝﹃詩と真実﹄第5章︵Dichtung und Wahrheit, Erster Teil, Fünftes Buch︶において、1764年4月に挙行された皇帝フランツ1世と帝妃 マリア・テレジアの息子 ヨーゼフ2世のローマ王戴冠式の盛儀を生き生きと描写している[28]。 フランクフルトは1074年Zollstätte︵仮訳﹁関税地﹂︶として記録されている。フランクフルトの商人の免税が記録されている最初の文書は、ヴォルムス 1184年と伝えている。1170年ころから貨幣が鋳造されている。1160年ころには初めて大市︵Messe︶が開催された。1180年にはフランクフルトの商人の特権︵Rechte und Freiheiten︶がヴェッツラーの特権︵Privilegierung︶のモデルになった。1240年 神聖ローマ皇帝 フリードリヒ2世はフランクフルトの大市︵Messe︶を訪れる者に対して特別な保護を保証した。1330年 ルートヴィヒ4世はフランクフルトに春と秋、年2回の大市︵Messe︶を開催することを許可した。14世紀初めの シャンパーニュの大市︵Messe︶の衰退によって利益を得、神聖ローマ帝国の経済的中心地の一つになった。商品交換において重要な商品は、ワイン、鰊、毛皮等であったが、特に重要だったのは毛織物で、フランクフルトは14世紀毛織物工業の中核地域となった。当時、手工業者は17個のツンフト︵同職組合︶に組織されていた。 活版印刷術の発明以後、書籍取引が新たに重要な地位を占めたが、16世紀以降はライプツィヒ の大市︵Messe︶と競うことになった[29]。 13世紀前期に市壁が完成したが、市壁内の面積は約40haであった。1222年に市と郊外のザクセンハウゼンとをつなぐ石造の橋が架けられた。1405年には市庁舎︵レーマー︶が建てられた。1387年の住民台帳によれば、市の人口は約9600人であった。13世紀初頭ユダヤ人の人口は約200人であったが、1241年と 1349年の迫害︵1348年のペスト流行を機縁︶によりユダヤ人の姿は市内に見えなくなった。その後再びユダヤ人の移住がみられたが、1462年には収容所に隔離された。13世紀前半には ベギン会の会員もいた[30]。 ●フランクフルトは1220年に帝国自由都市となった。 ●1806年、旧帝国の滅亡に伴い、フランクフルトは領主司教カール・テオドール・フォン・ダールベルクの支配下に置かれ、自らの領邦であったレーゲンスブルクおよびアシャッフェンブルクとともにライン同盟内で独立領邦を形成した。 ●1810年にダールベルクはレーゲンスブルクをバイエルン公に割譲し、これと交換にハーナウとフルダを得た。これらとフランクフルト市やアシャッフェンブルク地方を併せて、1810年から1813年までの短期間ではあるがフランクフルト大公国を創設した。ナポレオン体制後
普墺戦争
●1866年の普墺戦争では、フランクフルトは連邦に忠実であった。公式な立場はオーストリアや皇帝の側であったが、経済や外交的理由からプロイセン王国との連携を支持するべきだとの意見が古くからあった。この街は7月18日にプロイセンのライン軍によって占領され、重い軍税を課された。10月2日にプロイセンはこの都市を併合し、これによりこの都市の独立は失われた。フランクフルトはヘッセン=ナッサウ州ヴィースバーデン県に編入され、軍税の支払いはその後免除された。 ●1868年にプロイセンは、上級市長を市の代表者とする市参事会制度をフランクフルトに布いた。 ●1871年、普仏戦争はフランクフルト講和条約をもって公式に終結した。ドイツ帝国
プロイセンによる併合は、市の急速な人口増加を伴う工業都市への発展にとって有利であった。フランクフルトは、1877年から1910年までの間に何段階にもわたって周辺の町村を合併し、その面積を 70 km2 から 135 km2 に拡大した。これによりフランクフルトは20世紀の初めには、短い期間ではあったが、ドイツで最も広い都市となった。 急速な人口増加に伴い市は公的なインフラストラクチャーを整備していった: 多くの学校やマイン川の橋、上水道、下水道、近代的な職業消防隊、屠殺場および食肉加工場、マルクトハレ、路面電車、駅、港などが含まれる。 工業化はまず、ボッケンハイム区や、マインツァー・ラントシュトラーセあるいはザクセンハウゼン・ラントシュトラーセといった街道沿いで進行し、1909年から1912年に工業地域を伴う東港が整備された。 新たに開発されたこの工業地区の面積は、19世紀末時点でのマイン川北岸の全市域面積に匹敵するほど広大なものであった。フランクフルトの伝統的な産業である鋳造や金属加工あるいは活字鋳造や印刷業の他に、化学工場や、1891年の国際電子博覧会以降は電子産業もこの街に進出した。 ●1914年、フランクフルト市民の寄附によって総合大学が創設された。国家社会主義からWW2
国家社会主義の時代には、11,134人のユダヤ人がフランクフルトから追放され、殺害された。 ●第二次世界大戦では、連合国によるフランクフルト空襲によって市域の約70%、特にアルトシュタット及びインネンシュタットはほぼ完全に破壊された。これにより、密集した中世の街並みは1944年までに失われ、1950年代の復興において古い街並みが復元されることはなかった。アルトシュタットの多くの部分には、この時代に建設された簡潔で近代的な合目的建造物や合理的道路配置が今日も残っている。戦後
●1945年初頭には連合国遠征軍最高司令部 (SHAEF) がベルサイユ宮殿から移動し、フランクフルトに司令部を置いた。 ●終戦後、アメリカ合衆国の軍事政府はこの街を本拠地とした。その後、フランクフルトにトリゾーン︵米英仏管理地域︶の統治機関が置かれた。 ●1949年5月10日、連邦の首都を定める選挙でフランクフルトは、コンラート・アデナウアーが推すボンに敗れた[注釈 2]。だが、フランクフルトには既に国会議事堂が建てられていた。この建物は現在ヘッセン放送が使用している。戦後、フランクフルトは経済の中心地となり、1998年には欧州中央銀行の所在地となった。沿革
市町村合併
●1866年までフランクフルト・アム・マインの市域は、現在の市区でアルトシュタット、インネンシュタット、バーンホーフスフィアテル、グートロイトフィアテル、ガルス、ヴェストエント、ノルトエント、オストエント、リーダーヴァルトおよびザクセンハウゼン︵都市林﹁フランクフルター・シュタットヴァルト﹂を含む︶の﹁シュタットベツィルク﹂︵都市管区︶と、ボルンハイム、ハウゼン、ニーダーウルゼル︵ヘッセン大公と折半︶、ボナメス、ニーダー=エルレンバッハ、ドルテルヴァイル、オーバーラート、ニーダーラートの8つの村からなる﹁ラントベツィルク﹂︵周辺管区︶で構成されていた。 ●プロイセン王国による自由都市フランクフルト併合後は、フラクフルト都市クライスが形成された。 ●1877年から都市クライスの町村が合併。 ●1910年からは1855年に形成されたフランクフルト郡の町村も、徐々にフランクフルト市に合併されていった。 ●1977年を最後に合併が完了。かつてフランクフルトに属していた8つの村のうち、ドルテルヴァイルだけは、市域から外れた。政治
行政
市長
フランクフルトは、2013年現在、CDUとGrüneの連立野党と上級市長ペーター・フェルトマンによって運営されている。2012年7月1日にそれまでの上級市長ペトラ・ロートが引退を宣言し、ペーター・フェルトマンがこの職に就任した。SPDの候補者であったフェルトマンはCDUの候補者でヘッセン州内務大臣のボリス・ラインに対して、2012年3月15日の決選投票で 57.4 % の過半数を獲得し、当選を果たした。ラインは、3月11日の一次選挙の時点ではフェルトマンの票を上回っていた[31][32]。紋章
財政
フランクフルトは、1980年代のCDUの上級市長ヴァルター・ヴァルマンおよびヴォルフラム・ブリュックの下で行った大規模な公共建設政策により、市の負債は8億4千万ユーロ︵1977年︶から22億5千万ユーロ︵1989年︶に増加した[34]。さらにSPDと緑の党の連合からなる市当局はこの負債を1993年に最大の34億ユーロにまで膨れあがらせた。これにより、フランクフルトはドイツの大都市︵都市州を除く︶の中で最も高額な負債を抱えた街となった。このため、市の監査局は負債をこれ以上増大することを禁じ、市は1994年から予算の強化を開始した。その後、営業税の大幅増税、支出の削減、そして当面の良好な経済発展により、負債は明らかに減少した。 フランクフルトの2006年の年間負債額は人口1人あたり約2,200ユーロでドイツの15大都市の中で6位︵ブレーメン約17,000、ベルリン約16,000、ハンブルク約13,000、ケルン約3,800、ミュンヘン約2,700︶である。良好な税収と財政黒字によって負債は2010年末までに9億8300万ユーロに減少した。 2008年6月13日に市は、2007年1月1日の開始貸借対照表を公開した。それによれば、フランクフルト市は125億2千万ユーロの資産があるが、そのうち118億ユーロが固定資産である。市はその所有物として1,145 kmの道路、44,266の土地、約1,800棟の建物、58.6kmのUバーン路線、椰子庭園の約 2500種の植物、動物園の約580種4500頭の動物、4902haシュタットヴァルトを挙げている。すべての建物の中で最も簿価が高いのは5800万ユーロの大聖堂である。市の自己資本は82億9000万ユーロで、自己資本率は66.2% に相当する。債務は18億ユーロで、これは主として年金に充当するための引当金︵12億ユーロ︶である[35]。 2007年と2008年に市は、年間の黒字を5億ユーロ以上とする目標を達成した。しかしその後、金融危機のために税収は年間4億ユーロ以上減少した。市は2009年にわずかながら黒字に転じた製造業の2010年、2011年に期待をしたが、少なくとも翌2013年まではネガティブな結果を予測している[36]。 主な理由は、フランクフルト市の最も重要な財源である営業税の伸びである。2008年の営業税は史上最高額の16億4千万ユーロであった。これによりフランクフルトはミュンヘン︵19億ユーロ︶に次いでドイツで最も営業税収入の多い都市となったが、ミュンヘンの人口はフランクフルトのほぼ2倍ある。フランクフルトと同規模の都市であるシュトゥットガルトやドルトムントの営業税収入は、フランクフルトの半分から 1/5 程度にとどまっている[37]。2010年の営業税収入は13億ユーロ、2011年の予算では11億ユーロと推定されている[38]。議会
市議会
フランクフルト市の市議会は、93議席からなる。2021年3月の市議会議員選挙結果とこれに基づく政党別議席数は以下の通りである[39]。政党名 | 得票率 | 議席数 |
---|---|---|
CDU | 21.9 | 20 |
Grüne | 24.6 | 23 |
SPD | 17.0 | 16 |
AfD | 4.5 | 4 |
FDP | 7.6 | 7 |
Die Linke | 7.9 | 7 |
Bürger für Frankfurt | 2.0 | 2 |
ÖkoLinX-ARL | 1.8 | 2 |
Die PARTEI | 1.8 | 2 |
ELF | 1.3 | 1 |
Piraten | 0.6 | 1 |
FREIE WÄHLER | 0.8 | 1 |
Gartenpartei Ffm | 0.6 | 1 |
BIG | 0.6 | 1 |
IBF | 0.8 | 1 |
Volt | 3.7 | 4 |
その他 | 2.5 | 0 |
計 | 100.0 | 93 |
投票率 | 45.1 % |
治安
国家機関
財務
フランクフルトは、ヘッセン州財務局の所在地である。また、ヘッセン州社会生活保護庁もフランクフルトにある。裁判所
司法機関では、ヘッセン州を管轄するフランクフルト高等裁判所、ヘッセン州労働裁判所、フランクフルト・アム・マイン地方裁判所、フランクフルト・アム・マイン社会裁判所、フランクフルト・アム・マイン労働裁判所、フランクフルト・アム・マイン行政裁判所、フランクフルト・アム・マイン区裁判所がある。また、2003年末に廃止されるまで連邦懲罰裁判所があった。中央銀行
●ドイツ連邦銀行 ●1957年からドイツ連邦銀行はフランクフルトに本部を置いている。 ●ドイツ復興金融公庫銀行︵KfW銀行グループ︶施設
警察
フランクフルト・アム・マイン警察本部は、ヘッセン州に7つある警察本部の1つである。街の安全や治安維持の業務はフランクフルト市警察︵ヘッセン州安全治安維持条令 § 99 の補助警察にあたる︶が担っている。消防
1874年に創設された職業消防庁と28の自衛消防団からなるフランクフルト消防隊は、10箇所の消防署に別れて所属している。医療
病院 フランクフルト・アム・マインには、27の病院がある。図書館
国立図書館 フランクフルトはまた、ドイツ国立図書館の所在地である。対外関係
姉妹都市・提携都市
姉妹都市
フランクフルト・アム・マインは、以下の都市と姉妹都市関係を結んでいる[47]。 リヨン︵フランス、ローヌ県︶1960年 バーミンガム︵イギリス、ウェスト・ミッドランズ︶1966年 ミラノ︵イタリア、ロンバルディア州︶1970年 広州市︵中華人民共和国、広東省︶1988年 ブダペスト︵ハンガリー︶1990年 プラハ︵チェコ︶1990年 グラナダ︵ニカラグア、グラナダ県︶1991年 クラクフ︵ポーランド、マウォポルスカ県︶1991年 横浜市︵日本、神奈川県︶2011年 エスキシェヒル︵トルコ︶2012年 フィラデルフィア︵アメリカ合衆国、ペンシルベニア州︶2015年 また、1967年に当時は独立した自治体であったニーダー=エシュバッハとフランスのドゥイユ=ラ=バールとの間で姉妹自治体協定が結ばれた。提携都市
友好都市は以下の都市がある。 カイロ︵エジプト、カーヒラ県︶1979年 テルアビブ︵イスラエル、テルアビブ地区︶1980年 トロント︵カナダ、オンタリオ州︶1989年 ライプツィヒ︵ドイツ、ザクセン州︶1990年 ドバイ︵アラブ首長国連邦、ドバイ首長国︶2005年 2006年から中国南部の都市深圳市との間で経済協力振興がなされている。2007年からは天津市、北京市もこれに加わっている。国際機関
●国際金融公社事務所︵世界銀行の一部︶欧州連合機関
●欧州中央銀行 ●1998年から、EU加盟国でユーロ圏に属す国々の金融政策に責任を持つ欧州中央銀行がこの街に置かれた。 ●欧州保険・企業年金監督局︵EIOPA︶ ●2004年からヨーロッパの保険を監督する機関︵2004年から2011年までは CEIOPS、それ以後は EIOPA︶の本部がこの街にある[48]。領事館
フランクフルトには、日本︵在フランクフルト日本国総領事館︶を含めて92の領事館がある[49]。各国の首都を除けば、これ以上の外国公館を有する都市はニューヨークとハンブルクだけである。中国とロシアはフランクフルトに総領事館を開設した。エッケンハイム地区のアメリカ合衆国総領事館は世界最大のアメリカ合衆国領事館である。経済
購買力
構造変化にもかかわらず、2006年から2007年の住民1人あたり、あるいは就業者1人あたりの GDP は、ドイツの大都市の中でその地位を保ち続けている。生活の質や移住誘引力も上述の通り高い状態にある[54]。古典的な産業の衰退は、フラポートやドイツ取引所といったサービス業の進展や、自動車産業・IT産業分野の国外大企業のヨーロッパ本部あるいはドイツ本部設置によって相殺されている。一方、この街は金融分野とは全く異なる、バイオテクノロジーの研究都市として発展しようと努力している。人口増加、失業率、住民あるいは就業者1人あたりのGDPといった指標において、フランクフルトは強力な地位を占めている。収入はドイツで最も高い水準にある[55]。高所得の労働者は、主にフランクフルトに隣接する、住宅密度の高いフォルダータウヌス地方の郡部︵特に、ケーニヒシュタイン・イム・タウヌス、クロンベルク・イム・タウヌス、バート・ゾーデン・アム・タウヌス︶に住んでいる[56]。それにもかかわらず、フランクフルトの2012年現在の購買力指標は 117.5 と平均よりも高い値を示している︵ホーホタウヌス郡およびマイン=タウヌス郡のそれは、それぞれ 137.7、146.3、ヘッセン州全体では 107.4 である︶[57]。労働者
フランクフルトには622,600人の就労者がおり[58]、このうち約49万人が社会保険を義務づけられた被雇用者である。フランクフルトはドイツで最も労働密度が高く、通勤者の多い街である。2010年現在のこの街への通勤者は1日あたり325,485人で、この街から他の街に通う通勤者は68,080人であった[58]。500社以上約75,000人がフランクフルト空港で働いており、この空港はドイツ最大の職場となっている[59]。業種別では金融・保険業が最大の業種で、約72,800人が勤めている[58]。 社会保険を義務づけられた全日制労働者の平均月額給与は、2010年現在3,619ユーロで、2000年よりも約600ユーロ上昇している。報酬は職種によって明らかに異なっている。接客業や単純なサービス業の給与は2,000ユーロ以下であるのに対し、IT関連では4,500ユーロ、金融関連では5,400ユーロを超える[58]。こうした高額給与所得者はわずかに約 46,700人ほどである。一方、約26,000人の失業者がいる。 この街の高い経済力は、平均を超える収入をフランクフルトで稼いだ通勤者を通して、近隣、特にフォルダータウヌス地方の市町村の金庫も潤沢にしている。このためドイツの豊かな郡トップ5の中に隣接する郡が2つランクされている。バート・ホルンブルク・フォア・デア・ヘーエを郡庁所在地とするホーホタウヌス郡とホーフハイム・アム・タウヌスを郡庁所在地とするマイン=タウヌス郡である。 さらにフランクフルトは、人口1人あたりもしくは就労者1人あたりの粗付加価値及び GDP がドイツの大都市の中で最も高い街である︵2007年現在︶[60]。見本市
フランクフルトは見本市で世界的に知られており、その起源は﹁メッセ︵Messe︶﹂と呼ばれる大規模な定期市にある。メッセは日本では大市とも呼ばれ、年市︵Jahrmarkt︶と呼ばれる定期市の中で最大規模の催しを指す[61]。当初のメッセは商品を直接売買する現物市であった。この地のメッセが初めて文献に見られるのは1160年ころのことである[62]。皇帝フリードリヒ2世がこの街にメッセ開催の特権を与えた。その保護の下でフランクフルトには毎年ヨーロッパ各地の交易品が集まり、1330年には秋だけではなく春のメッセも開催された。神聖ローマ帝国内で2番目に大きなメッセ開催都市であるライプツィヒとフランクフルトとの間は、ヴィア・レギアという広域幹線道路で結ばれていた。 18世紀以降に衰退した時代があったが、19世紀にはドイツ各地で工業博覧会が開催され、メッセという語は見本市も指すようになり、第二次世界大戦後には市の伝統と再び結びついた。これに加えて、フランクフルト書籍見本市、国際モーターショー、アヘムやアンビエンテが開催されている。一方、近年は﹁テンデンス﹂と呼ばれている伝統的な秋の見本市は、その重要性を失いつつある。-
メッセ・フランクフルトの入口
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トーアハウスとメッセ会場
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フランクフルト書籍見本市(2005年)
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フランクフルトモーターショー(2005年)
新たな経済発展
経済組織
業界団体、規制委員会
化学工業連合会 (VCI)、光学工業連合会、ドイツ機械・設備製造連合会 (VDMA)、電子技術規制委員会を有する電気技術・電子・情報技術連合会、ドイツ調理師連合会、ドイツ通信販売連合会、自動車工業連合会 (VDA) といった業界団体がフランクフルトにある。VDA は、2年毎に国際モーターショーをフランクフルトで開催している。書籍見本市を組織しているドイツ書籍協会もフランクフルトに本部がある。公益科学技術協会である DECHEM科学技術、バイオテクノロジー協会 e.V. は、数多くの賞を授与し、メッセ・フランクフルトとともに科学技術、環境保護、バイオテクノロジーの世界最大の見本市︵アヘマ︶を3年に1度開催している。労働組合
ドイツ労働組合連合会に属す金属業界労働組合、農業環境業界組合、教育・研究者組合 (GEW) の本部がフランクフルトにある。この他、機関車運転手労働組合もフランクフルトに本部を持つ。第二次産業
工業
自動車産業 フランクフルトには多くの外国自動車メーカーのヨーロッパ本部やドイツ本部がある。たとえば、フィアット︵アルファロメオやランチアを含む︶や起亜自動車などである。隣接する市町村では、リュッセルスハイム・アム・マインにはオペルやサーブがあり、シュヴァルバッハ・アム・タウヌスにはジャガーがある。さらに近隣のヴァイターシュタットにはシュコダやセアト・ドイチュラント本社がある。日本の自動車メーカーであるマツダは、オーバーウルゼルにデザインセンターを有している。オッフェンバッハ・アム・マインにはホンダの北ヨーロッパ本部と開発デザイン部門や、ヒュンダイのヨーロッパ販売センターがある。 さらに自動車部品製造業も盛んである。コンチネンタルAGは、生産、管理、開発の拠点をフランクフルト、エシュボルン、シュヴァルバッハ、カルベン、バーベンハウゼン、フリートベルクに有している。これらの自動車メーカーおよび自動車部品製造業者は、ライン・マイン・ネッカー自動車クラスターに参画している。第三次産業
金融業
フランクフルト・アム・マインは、重要な金融都市・証券取引の街であり、ヨーロッパの代表的な金融センターの一つに数えられている。2021年3月版の発表によると、世界9位の金融センターと評価されている[66]。2016年に発表された﹁世界の都市総合力ランキング﹂では、世界11位と評価された[67]。 フランクフルトには、欧州中央銀行およびドイツ連邦銀行の他に、ドイツの4大銀行[68] が本社を構えている。ドイツ銀行、コメルツ銀行、KfW銀行グループ︵ドイツ復興金融公庫銀行︶、DZ銀行である。 ドイツ銀行[69] とコメルツ銀行[70] はユニバーサルバンクであり、世界中に支店を有している。KfW銀行グループの主業務は中産階級やベンチャー企業の支援であり[71]、DB銀行は信用協同組合の中心となる存在である[72]。DB銀行の子会社であるウニオーン・インヴェストメント、DVB銀行、ライゼ銀行もフランクフルトに本社があり、さらにドイツで2番目に大きな信用協同組合であるフランクフルター・フォルクスバンクもこの街を本拠地としている。 公立あるいは半公立の金融機関では、ヘッセン=テューリンゲン州立銀行 (ヘラバ︶、Deka銀行、レンテン銀行、フランクフルト貯蓄銀行がフランクフルトに本店を置いている[73]。 ドイツ最大のネット銀行 ING-DiBa もフランクフルトに本社がある。これに加えて、SEB AG、バンクハウス・メッツラー、ハウク・ウント・アウフホイザー、デルブリュック・ベトマン・マッファイ、BHF銀行、コーリアルクレジット銀行といった重要な民営銀行のいくつかが本社やドイツ本部をフランクフルトに置いている。また、エシカルバンク︵社会貢献度の高い企業に低金利で長期の融資を行う銀行︶のトリオドス銀行やGLSゲマインシャフツ銀行の支店もフランクフルトにある。 2010年末現在、154行の外国銀行がフランクフルトにドイツ本部を置き、さらに40行が事務所を構えている。 ドイツ取引所が運営する証券市場、フランクフルト証券取引所とクセトラを有するフランクフルトはヨーロッパで2番目に大きな証券市場であり、ドイツの証券取引の大部分を担っている。時価総額で見た市場規模では、ドイツ取引所は世界最大の証券取引所運営企業である[74]。 さらに国際的な格付け機関であるスタンダード・アンド・プアーズ、ムーディーズ、フィッチ・レーティングスの3社はフランクフルトにドイツ本部を置いている。この3社はこの業界の﹁ビッグ・スリー﹂と称される機関である[75][76][77]。 国際金融センターとしてのフランクフルトの重要性は近年さらに高まっている。欧州保険・企業年金監督局 (EIOPA)[78] や、EU金融市場のシステミックリスクを早期発見、予防、撲滅を目的とする欧州システミックリスク理事会 (ESRB) [79] をはじめ、数多くの超国家的金融機関がフランクフルトで設立されている。さらに2013年からは、欧州中央銀行内の欧州銀行監督機構が、ユーロ圏の 6000以上の銀行を統括して監督する。商業
- 小売業
第四次産業
建築・不動産業 フランクフルトには約 11,300社の建築・不動産業者があり、29,900人が働いている︵2008年現在︶。1999年には 36,000人以上がこの職種に就いていた。大手企業としては、DTZツァーデルホーフ、Jones LangLaSalle、BNPパーリバス・レアル・エステイト、ビルフィンガー・ベルガー、ホーホティーフ、ポル・ドイチュラント、テケム、ナッサウイシェ・ハイムシュテッテ、ABGフランクフルト・ホールディングス、ワイス・ウント・フライターク、ヴィザク、Ed. チュープリン、アルバート・スペアー・アンド・パートナーがある[83]。不動産所得税の課税対象となる取引の売上高は、2008年現在で40億ユーロを上回った。 ITおよびテレコミュニケーション産業 ITおよびテレコミュニケーション部門の企業もフランクフルトには多くある。大資本と連携している企業として、T-システムズ、フィナンツ・インフォマティーク、DBシステル、ルフトハンザ・システムズがある。テレコミュニケーションサービスのコルト・テクノロジーサービスやレベル3コミュニケーションズ、テレコミュニケーション設備のアバイアは、フランクフルトにドイツ本部を置いている。ドイツのドメインネームは、フランクフルトにある DENIC が管理している。オイローパトゥルム︵ヨーロッパタワー︶にある国際ネットマネジメントセンター (INMC) は、ドイツテレコムの国際電話および国際データネットワークの運営、保守を行っている。フランクフルトに本社を構えるデック13インタラクティヴ、ケーン・ゲームス、Crytek︵クライテック︶は、いずれも評判の高いコンピュータ・ゲームの開発会社であり、アタリ・ドイチュラントやコナミ・ヨーロッパの本社もこの街にある。IT系企業が特に多く集まっているのが、ハーナウアー・ラントシュトラーセ、マインツァー・ラントシュトラーセ、グートロイト通り沿いの旧工業地域である。より広域のフランクフルト大都市圏では、バート・ホムブルク、エシュボルン、クロンベルク、ランゲン、ノイ=イーゼンブルクに集まっている。フランクフルトは、ライン=マイン=ネッカーITクラスターの一部をなしている。拠点を置く企業
フランクフルトほど様々な分野︵化学コンツェルン、広告代理店︵たとえばサーチ・アンド・サーチのドイツ本部やJWTの支社など︶、ソフトウェア会社、コールセンターなど︶の国際的リーディングカンパニーが数多く集まっている街は、ドイツでは他にほとんどない。DBレギオAG、DBフェルンフェアケールAG、その他のドイツ鉄道の主要部門や子会社のDBネッツAGといった旅客交通の中枢がガルスのDBセンターに集まっている。また、フランクフルトはヘキストAGを擁し、長年にわたって﹁世界の薬局﹂として重要視されてきた。このヨーロッパ3大化学・医薬品企業の1つの所在地がインドゥストリーパーク・ヘーヒストである。食品コンツェルンのネスレやフェレロのドイツセンターやドイツ最大のブルワリー・グループであるラーデベルガーグループの本社もフランクフルトにある。さらに4大会計監査会社の1つであるKPMGは、ヨーロッパ本部をフランクフルトに置いている。プライスウォーターハウスクーパースはドイツセンターをフランクフルトに置いており、デロイト・トウシュ・トーマツは支店を、アーンスト・アンド・ヤングは下部組織をエシュボルン区の市境付近︵フランクフルト市外︶に有している。この他にも大規模な経営コンサルタントや国際法律事務所のいくつかがフランクフルトを拠点としている。情報・通信
マスメディア
新聞社
通信社
フランクフルトには通信社ロイター・ドイチュラント︵メッセタワー内︶やアソシエイテッド・プレス・ドイチュラントの本部もある。ドイツ通信社は研修センターをフランクフルトに置いている。放送局
テレビ生活基盤
マーシュ・アンド・マクレナンの2012年の調査によれば、フランクフルトは生活の質が高い世界の都市ランキングで7位に位置づけられた[84]。ドイツでフランクフルトよりも上位であったのは、ミュンヘンの4位とデュッセルドルフで6位であった。エコノミストの同種の調査︵2011年︶では、フランクフルトは18位で、ドイツでこれよりも上位だったのはハンブルクの14位だけであった[85]。Wealth Report︵2013年︶は Quality of Life 部門でフランクフルトを5位に挙げている[86]。 2010年12月のフランクフルト市の住民アンケート[87] では、フランクフルト市民の66%がこの街を﹁満足﹂または﹁大変満足﹂と回答しており、﹁不満足﹂の回答は6%であった。1993年から﹁満足﹂の割合は約22%増加し、﹁不満足﹂は約8% 減少した。84%のフランクフルト市民がこの街に住み続けたいと答え、13%が別の場所で暮らしたいと回答した。フランクフルトの安全性について満足しているのは37%︵1993年はわずか9%であった︶、不満足なのは22%︵1993年は64%︶であった。ライフライン
上下水道
下水道 フランクフルトの下水道の配管システムは、道路の地下を約 1,600 kmにわたって張り巡らされている。1877年に、アルテ・オーパーに最初の下水道が設けられ、1897年に最初の下水処理場が稼働を開始した。フランクフルトとハンブルクが、こうした方法で伝染病の危険を克服しようと試みた大陸で最初の2つの街である。電信・通信
電子的コミュニケーション インターネットについてもフランクフルトは重要な街である。ドイツ最大のインターネットエクスチェンジ DE-CIX とトップレベルドメイン .de に対するドメインを管理する DENICがこの街にある。トータルの平均データ量で、DE-CIX は世界1位である[88]。教育・研究機関
大学
フランクフルト・アム・マインには、2つの総合大学と数多くの専門単科大学がある。この街で最も有名で、最も古い大学が、ヨハン・ヴォルフガング・ゲーテ大学フランクフルト・アム・マイン︵フランクフルト大学︶である。この大学はボッケンハイム、ヴェストエント、リートベルク、ニーダーラート大学病院の4つのキャンパスからなる。 1971年にいくつかの先行機関から設立されたフランクフルト・アム・マイン専門大学は、応用工学と経済学を重点分野とする大学である。 ザンクト・ゲオルゲン哲学・神学大学は、フランクフルトで最も古い私立大学である。この大学はイエズス会ドイツ支部によって運営されており、1926年からザクセンハウゼンにある。この他に多くの単科大学がある。フランクフルト金融・マネジメントスクールは、かつての銀行アカデミーと銀行学単科大学から創設された大学で、フランクフルト=オストエントにキャンパスがある。2001年に開校した FOM経済・マネジメント大学 (FOM) はヴェストエントに学習センターを有している。2003年に設立されたプロヴァディス国際経営およびテクノロジースクールはインドゥストリーパーク・ヘーヒストにある。マネジメント国際スクールは2007年からザクセンハウゼンに学舎を有する。 芸術分野では、国立造形芸術大学︵シュテーデルシューレ︶がある。この大学は、1817年にヨハン・フリードリヒ・シュテーデルによって創設され、その後、市の所有を経て、1942年に国立の造形芸術大学に昇格した。他の高名な芸術大学としては、1878年に創設された私立の学校 Dr. ホーホのコンセルヴァトリウム︵音楽アカデミー︶を起源とするフランクフルト音楽・舞台芸術大学がある。 2003年9月までは、図書館学の専門単科大学であるフランクフルト・アム・マイン図書館学学校もあった。これは学問の場としての図書館で高度なサービスを行うための実務に関する教育・研究を行う専門単科大学であった。この大学は、2003年9月に閉鎖された。日本人学校
1985年の4月にフランクフルト日本人国際学校が開校している[89]。研究機関
フランクフルトには、マックス・プランク学術振興協会の欧州法制史研究所、生物物理学研究所、脳研究所などがある。総合大学を緊密な関係にあるフランクフルト先端学問研究所は、物理学、化学、生物学、神経学、情報学の論理的基礎研究に対する研究所で、民間がスポンサーになっている。 フランクフルト市民大学は、私企業としてフランクフルト市が組織しているもので、フランクフルト=オストエントに本部を置いている。 カトリック成人教育 ― ヘッセン州共同作業体は、リンブルク司教区の教育機関であり[90]、フランクフルト、マイン=タウヌス、ホーホタウヌス校の本部がハウス・アム・ドームにある。 ゲームス・アカデミーも、フランクフルトに下部組織を有している。交通
フランクフルト・アム・マイン市はヨーロッパの中央に位置することから、ヨーロッパで最も重要な交通の中継地点の一つとなっている。鉄道、道路交通、内陸水運、航空が、ここで互いに交差している。マーシュ・アンド・マクレナン・カンパニーズの調査︵2009年︶によれば、フランクフルトは世界で8番目に社会資本︵航空、公共旅客交通、渋滞状況を含む︶が豊かな都市であった[84]。これは、ロンドン、パリ、シドニー、東京、ニューヨークといった国際都市よりも上位である。ドイツではミュンヘン︵2位︶、デュッセルドルフ︵6位︶が上位にいる。空路
世界初の航空会社 DELAG は、1909年にフランクフルトで設立された。空港
この街は世界最大級の空港の1つであるフランクフルト空港を有している。乗降客数は、ロンドンのヒースロー空港、パリのシャルル・ド・ゴール国際空港に次いで3番目に多い。2010年には 5,300万人の乗降客と 220万トンの貨物がこの空港を通過した。 フランクフルト=ハーン空港は、その名称から勘違いされるが、フランクフルトにあるわけではなく、西に約 120 km離れたラウツェンハウゼン︵ラインラント=プファルツ州︶にある。ドイツで11番目に乗降客数が多いこの空港は、2007年に 400万人が利用した。 フランクフルト=エーゲルスバッハ飛行場もフランクフルトではなく、17 km南のエーゲルスバッハにある。鉄道
公共近距離交通
フランクフルトおよび周辺地域の公共近距離交通は、Sバーン、一部が Uバーン化された市電、路面電車、市バスおよび多くのレギオナルバーンからなる。Sバーンの全ての系統が、インネンシュタットの地下を通るシティー・トンネルを通過し、中心市街地と郊外各方面を結んでいる。中央駅、ハウプトヴァッヘ、コンスタープラーヴァッヘおよび南駅は、SバーンおよびUバーンがともに乗り入れており、相互に乗り換えることができる。 この街のローカルな交通機関の運行会社で最大なのが、フランクフルト交通会社 (VGF) である。ローカルな交通運行会社 traffiQ GmbH は、近郊交通機関のコーディネイトを行っている。この会社は、地域交通と統一料金の管理を行うライン=マイン交通連盟のパートナーである。 フランクフルト空港に、1994年に全長 3.8 kmの全自動交通システム﹁スカイライン﹂が設けられた。この路線は、2つのターミナルを結んでおり、遠距離交通駅と将来できる第3ターミナルとの間に新しい路線が造られる予定である。バス
都市間バス
道路
高速道路
フランクフルト空港に近いフランクフルト・ジャンクションで連邦アウトバーン A5号線︵ハッテンバッハ・ジャンクション - バーゼル︶と A3号線︵アーネム - リンツ︶が交差している。このジャンクションは1日に約32万台が通行するドイツで最も通行量の多いアウトバーン・ジャンクションである。 この他のアウトバーンとしては、西のヴィースバーデンから東のフルダに至る A66号線が通り、短いがメッセ会場やインネンシュタットへの連絡路として重要な A648号線、オーバーウルゼルからエーゲルスバッハへ南北に貫く A661号線がある。西のA5号線、北東のA661号線、南のA3号線が、フランクフルトを取り巻くアウトバーン・リングを形成している。このアウトバーン・リングは2008年10月1日に制定されたウムヴェルトツォーネ︵都市環境整備地区︶の境界をなしている[91]。都市間道路
この街に通じる連邦道は、ドイツ連邦道路3号線、B8号線、B43号線、B44号線がある。市道
市が所有する道路は 1145 kmに及ぶ。フランクフルトには人口 1,000人あたり 715台の自動車があり、ドイツの大都市の中で最も自動車密度の高い街である。都市アウトバーン︵一部は連邦アウトバーン、あるいはアウトバーン風に拡張された連邦道や州道である︶が、市内を通っている。自転車道
マインの川岸には多くの自転車道が通っている。 ●ヘッセン自転車道 R3号線︵ライン=マイン=キンツィヒ自転車道︶は、﹁シュペートレーゼライターの轍﹂のモットーの下、ライン川、マイン川、キンツィヒ川に沿ってフルダを経由してレーン山地のタンに至る。 ●マイン自転車道は、白マイン川および赤マイン川の水源からマイン川がライン川に注ぐ合流地点のマインツまで延びている。 ●D-ルート5︵ザール=モーゼル=マイン︶は、ザールブリュッケンから、トリーア、コブレンツ、マインツ、フランクフルト・アム・マイン、ヴュルツブルク、バイロイトを経てチェコとの国境までたどる︵全長 1,021 km︶航路
内陸水運
フランクフルトは、内陸水運では、ライン川を経由して重要な工業地域であるノルトライン=ヴェストファーレン州やオランダと結ばれている。また、マイン=ドナウ運河を経由して中央ヨーロッパ南東部とも結ばれている。 フランクフルトには、西港を住宅・オフィス地区に転換した後も、東港、フルスハーフェン︵=川港︶・グートロイト通り、インドゥストリーパーク・ヘーヒスト港がある。都市景観
旧市街と新都心
古典主義・産業革命
グリュンダーツァイト地区 1830年頃から、堡塁施設の外側にヴェストエント、ノルトエント、オストエント︵直訳するとそれぞれ﹁西側﹂﹁北側﹂﹁東側﹂︶といった市区が建設された。中央駅の建設後、堡塁施設のすぐ西側に接してそれ以前にあった3つの駅︵ヴェストバーンヘーフェ=西︵諸︶駅と総称されていた︶の敷地跡に、1890年代にバーンホーフスフィアテルが建設された。 この3つの市区およびマイン川対岸に位置するザクセンハウゼンが住宅地として大きく発展した。フランクフルト市民は新鮮な空気を欲したのであった。建設はまず、エッシャースハイマー・ラントシュトラーセやボッケンハイマー・ラントシュトラーセといった郊外へ通じる道路沿いから行われた。1866年までの開発は、無計画に行われた。堡塁施設付近の曲がりくねった道路からその様子が現在も見て取れる。プロイセン時代になって初めて製図板の上で格子状の道路網が設計されるようになった。この時代に典型的な多角形の広場が建設され、視界を広く取るために障害となる教会の建物などが壊された。 建物は通常、5階から6階建ての密集したブロックの形式で建設され、それ以前の古典主義建築はその大部分が破壊され、建て替えられた。しかし地域的な特徴として、1880年になっても多くの場所で控えめな後期古典主義建築が優勢であり、ヴィースバーデン、ライプツィヒ、ベルリンといった同じ頃に発展した都市でこの時代以降に流行した過度に﹁ヴィルヘルム風﹂趣味の住居は流行しなかった。 1877年と1895年に合併したボルンハイムとボッケンハイムはこの都市景観の中に組み込まれ、新しい道路が造られ、フランクフルト市電がつながった。その特徴は今日に至るまで遺されている。20世紀の初めに建築責任者フランツ・アディッケスの下で、現在も通行量の多いフランクフルト・アレーリングが造られた。この道路は泡沫会社乱立時代︵1870年代︶に発展した地区間を緊密に連結している。この道路はおおむねフランクフルトの古い領邦境界線に沿って通っている。 この時代に典型的なのが、建物の質や機能の東西格差であった。19世紀から20世紀への転換期に、バーンホーフスフィアテルは贅沢なオフィス街、ヴェストエントは上品な富裕層の住宅地であったのに対して、ノルトエントからボルンハイムを経てオストエント一帯は中産階級や労働者たちの地域になっていた。こうした関係は第二次世界大戦以後逆転した。特に1960年代、70年代にオフィスを建設するためにバーンホーフスフィアテルやヴェストエントの帝国時代の建物が取り壊され、建て替えられるようになってから、中心地は徐々に東に移動していった。とりわけノルトエントやボルンハイムは、﹁スツェーネフィアテル﹂︵先端の地域︶としてジェントリフィケーションにさらされている。オストエントでの欧州中央銀行新庁舎建設やガルス市区付近でのオイローパフィアテルおよびスカイライン・プラザの建設は、泡沫会社乱立時代に開発された地区のさらなる発展を予見させるものである。 この街には、堡塁施設跡の他にも多くの庭園が造られた。ノルトエント東区には、たとえば、ヒムリッシェン・フリーデンスの中国風庭園を含むベトマン公園がある。ノルトエントには、ホルツハウゼン公園やギュンタースブルク公園がある。また、ヴェストエント北区の西部にはグリューネブルク公園がある。この公園内にはギリシア正教の教会や韓国風庭園がある。パルメンガルテン︵椰子庭園︶は1871年に設立された熱帯・温帯植物園である。約 2500 種類の植物が栽培されており、パパゲーノ音楽劇場やパルメン=エクスプレス公園鉄道などのアトラクションがある。そのすぐ隣には大学の植物園がある。これら3つの互いに隣り合った庭園は、フランクフルト中心街に近接した広大な緑地を形成している。オストエントのオスト公園は1907年に造られたフランクフルト初の市民公園で、隣接する工業地域の労働者たち住民の憩いの場となっている。郊外
ヘーヒストと周辺市区 20世紀の初めまで、市は何段階にもわたってイネンシュタットの北に位置する地区を合併していった。いくつかの市区は 1866年までにすでに自由都市フランクフルトの領邦内に組み込まれていたが、以前にはフランクフルトと関わりのない地域も合併の対象とされていた。1914年頃にフランクフルトはドイツで最も面積が広い都市となった。エルンスト・マイは、1920年代にアレーリングの外側に位置する新しい地区に広大なジードルング︵住宅地︶を建設した。北部のプラウンハイム住宅地、レーマーシュタット住宅地、ヴェストハウゼン住宅地、東部のボルンハイマー・ハング住宅地、南部のヘラーホーフジードルングやハイマートジードルングがこれにあたる。 市域は1928年にさらに拡大した。ヘーヒスト・アム・マイン市の合併は、フランクフルト市を文化的に豊かにした。ヘーヒストの旧市街は現在も大変良好に保存されており、1972年からは保護文化財に指定されている。フランクフルト市で最も古い建物であるユスティヌス教会はここにある。最後の合併は1972年と1977年に市の北東部について行われた。これらの市区の一部は、現在も田舎風の特徴を残している︵カルバッハ、ハルハイム、ニーダー=エシュバッハ、ニーダー=エルレンバッハ、さらに東部のベルゲン=エンクハイム︶。緑地帯
- グリーンベルト
観光
アルトシュタット
この街で最も重要な3つの見所がアルトシュタットに集まっている。カイザードーム︵大聖堂︶、レーマーベルク、パウルス教会である。 特徴的な後期ゴシック様式の西塔を持つカトリックの聖バルトロメウス大聖堂は、皇帝の選挙と戴冠が行われた場所である。この大聖堂からレーマー︵市庁舎︶に通じる道はケーニヒスヴェーク︵王の径︶と名付けられている。新たに戴冠した皇帝が、市庁舎への宴のために行列を連ねた通りである。現在︵2013年︶、大聖堂前には、ローマ時代やカロリング朝時代の出土品が発掘された考古学の庭がある。 レーマーベルクは、アルトシュタットの中心となっている広場で、14世紀の市庁舎︵レーマー︶、初期ゴシック様式の旧ニコライ教会、戦争で破壊された後に再建された広場東側の一連の建造物などがある。地元クラブ︵アイントラハト・フランクフルトやフランクフルト・ライオンズ︶がタイトルを獲得した際には、市庁舎バルコニーで祝勝イベントが開かれる。サッカーワールドカップの際にも、ファンとともにこれを祝った。 パウルス教会は、1786年に取り壊された中世の跣足教会に替えて、1789年から1833年に建設された教会で、1944年までプロテスタントの中央教会として使用された。ヨハン・ゲオルク・クリスティアン・ヘスによるこの古典主義様式の円形建造物内で、1848 / 49年のフランクフルト国民議会が開催された。パウルス広場はオープンカフェで賑わう。 レーマーベルクとリープフラウエンベルクとの間にノイエ・クレーメ通りがある。リープフラウエンベルクには、14世紀に建立されたリープフラウエン教会︵聖母教会︶、1770年建造のリープフラウエンブルネン︵聖母の泉︶、フランクフルトに残る数少ないバロック建築の1つである1775年建造の家屋﹁ツム・パラディース/グリムフォーゲル﹂がある。 1944年に破壊された後、1954年に新設されたクラインマルクトハレ︵訳は﹁小市場﹂。屋内市場︶は、平日には150以上のテナントであらゆる種類の食材が売られている。この他に、アルトシュタット西部にはゲーテの生家がある。現在では閑静な通りのコルンマルクト︵訳﹁穀物市場﹂︶は、中世にはこの市のメインストリートであった。マイン川沿岸
マイン川の両岸は、フランクフルト市内で最も魅力的な地域に発展してきている。ムゼウムスウーファー(博物館堤)の拡張、川岸施設の刷新、旧フランクフルト西港の住宅・産業地域への改変といったプロジェクトが行われ、建築上見所の多いマイン川の橋などがある。アルテ・ブリュッケ(直訳すると「古い橋」、1222年にはすでに文献に記録されている)は、何世紀もの間、この町で最も重要な建造物であった。2006年にマイン川の中州に展示ホール「ポルティクス」が建設された。1869年に開通した歩行者専用橋のアイゼルナー・シュテークは、この街の象徴的建造物の1つである。この橋の北詰にあるザールホーフとカトリックのレオンハルツ教会はシュタウフェン朝にまで遡る文化財建築である。
イネンシュタット東部のマイン川の橋から見たアルトシュタットとスカイラインは、フランクフルトを表現する画像としてよく用いられる。イネンシュタットの東側、マイン川の両岸にそれぞれ大きなビーチ・クラブが設けられた。ゲーテとマリアンネ・フォン・ヴィレマーがデートした場所として文学史に名を遺すゲルバーミューレは現在、行楽地のレストランとなっている。
自然保護地域「シュヴァンハイマー砂丘」は、ヨーロッパで数少ない内陸砂丘の1つで、シュヴァーンハイム区西部のマイン川近くにある。総面積は 58.5 haで、絶滅の危機に瀕した珍しい種を含め多くの動植物が棲息している。
ザクセンハウゼン
ヤーコプスヴェーク
建築
ザ・スクワイア
摩天楼
中央駅とバーンホーフスフィアテル
1888年にオープンした中央駅は長距離列車の本数や乗降客数で、ヨーロッパ最大級の駅の1つである。巨大な5つのトレイン・シェッド、様式を留めて保存された駅舎、見切れないほどの地上および地下施設は、見応えのある強い印象を示す構造物である。 バーンホーフスフィアテル︵訳﹁駅周辺地区﹂︶は、文化のるつぼである。ここにはオフィスや異なる文化圏の様々な種類のレストランが混在している。タウヌス通りをはじめとする歓楽街だけでなく、それ以外でもバーンホーフスフィアテルは24時間活動している街である。この地区は国際的な交通の要衝であることが都市にもたらす問題点の典型例でもある。通勤客や銀行員、国際的なメッセ参加者、日帰り客が作る人の流れのすぐ傍らに、物乞い、アルコール中毒者、薬物中毒者がたむろしている。中央駅の出入り口から直接目にできるカイザー通りは、市のブールバールで、多彩な文化の小売店、泡沫会社乱立時代の古い建物からなる歓楽街のすぐ隣に近代的な銀行の高層ビルが建っている。文化施設
- 博物館とギャラリー
-
リービークハウス美術館の外観
-
コミュニケーション博物館の展示物
-
ドイツ建築博物館
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ドイツ映画博物館
-
世界文化博物館の本館
-
実用芸術博物館の展示物、ヨハン・ヨアヒム・ケンドラーの『パルナス山のアポロンとミューズ』
-
近代芸術美術館の内部
-
シルン芸術ホール
-
考古学博物館
-
歴史博物館に展示されている戦前の旧市街の模型
-
ユダヤ博物館
-
軽便鉄道博物館の機関車
-
交通博物館
-
フランクフルト歴史鉄道協会が運行する保存鉄道
-
ホーホフート技術コレクションに展示されているベンツのモーターワゴン
-
EXPLORA の展示室
-
ゼンケンベルク自然博物館に展示されているトリケラトプスの化石(オリジナル)
-
芸術協会が入居しているシュタイナーネスハウス
-
シュテーデルシューレ
娯楽施設
- ナイトライフ
- バッチュカップ(ロッククラブ)
- スヴェン・フェートのコクーン・クラブ(テクノクラブ)
- ギブソン・クラブ
- ジャズケラー・フランクフルト(ジャズクラブ)
- キング・カメハメハ・クラブ(ディスコ)
- リビング XXL
- U60311(ディスコ)
- ヴェルヴェット・クラブ
文化・名物
祭事・催事
祭事
- 年中行事
催事
- 見本市
- フランクフルト書籍見本市
名産・特産
宗教
芸能
音楽
音楽団体・音楽家 2つの対照的なオーケストラ、フランクフルト・ムゼウム管弦楽団とhr交響楽団がフランクフルト市を拠点に活動している。アンサンブル・モデルンとユンゲ・ドイツ・フィルハーモニーもフランクフルトに本拠地がある。合唱団では1818年に創設されたフランクフルト・チェチーリア合唱団、フランクフルター・ジングアカデミー、フランクフルター・カントライが知られる。 ラッパーのモーゼス・ペルハム、ピアニストのトム・シュリューター、メタルバンドのタンカード、ハードロックバンドのベーゼ・オンケルツ、テクノポップDJのスヴェン・フェートやクリス・リービング、ユーロダンスグループのSnap!もフランクフルトで結成された。 オペラ、コンサート、ステージスポーツ
- コメルツバンク・アレーナ(サッカー競技場)、元は「ヴァルトシュタディオン」という名前であった。「FIFA WM シュタディオン・フランクフルト・アム・マイン」という名称で2006年FIFAワールドカップおよび2011年FIFA女子ワールドカップの会場として使用された。
- ボルンハイマー・ハングのフランクフルター・フォルクスバンク・シュタディオン(サッカーおよび陸上競技)
- シュタディオン・アム・ブレンターノバート(サッカー)
- フラポート・アレーナ(バスケットボール、ハンドボール)2011年までは「バルシュポルトハレ」が公式名称であった。
- アイスシュポルトハレ・フランクフルト(アイスホッケー)
- フランクフルト競馬場(競馬)
フランクフルトの名前を持つもの
出身関連著名人
その他
多くの隣接する街の間がそうであるように、フランクフルト・アム・マインとオッフェンバッハ・アム・マインとの間にも緊密なライバル関係が存在する。それはお互いの街を揶揄する数多くのジョークに現れている。 両市のライバル関係は歴史に根ざしている。中世には既に、帝国都市フランクフルトと近隣の都市との間で領土争いが起きていた。三十年戦争では、スウェーデン王グスタフ・アドルフはオッフェンバッハのイーゼンブルク城を居所とした。彼はここからフランクフルトの降伏を宣言した。宗教改革後はルター派のフランクフルトと改革派のオッフェンバッハとの間で宗教争議が起こった。さらに18世紀以降イーゼンブルク伯は、ブルジョア的なフランクフルトが望まなかった工業の導入を奨励した。19世紀になってもフランクフルトは純粋な商業都市であり、オッフェンバッハは工業への転換を一層進めた。プロイセンによる併合後、フランクフルトも工業化が進展し、ライバル関係を強めていった。20世紀にフランクフルトはプロイセン領の衛星都市を合併し、北や西方向へ拡大していった。一方、オッフェンバッハが拡大することはなかった。1945年までは両市の市境は、州境でもあった。 長年のスポーツにおけるライバル関係は、両市のサッカークラブ、キッカーズ・オッフェンバッハとアイントラハト・フランクフルトおよびそのファンたちを育てた。やがて両者の試合は﹁ダービー﹂と呼ばれるようになった。特に激しかったのは、1950年代︵たとえば、1959年のドイツ・サッカー選手権決勝戦︶、DFBポカール︵最後の対戦は2009年︶、キッカーズ・オッフェンバッハが陥落するまでのサッカー・ブンデスリーガなどである。 フランクフルト市は1969年にドイツ考古学研究所 (DAI) のヴィンケルマン=メダルを授与されている。脚注
注釈
- ^ たとえば、15世紀半ばに作成された金印勅書の表記は "Frankinfurd uf den Meyn" となっている。Näheres zur Namensgebung in Der Name Frankfurt. In: Wolfgang Klötzer: Keine liebere Stadt als Frankfurt. Studien zur Frankfurter Geschichte 45. Verlag Waldemar Kramer, Frankfurt am Main, ISBN 3-7829-0509-1, pp. 10–15.
- ^ 基本法制定会議で 33 : 29、1949年11月3日の連邦議会投票では 200 : 176 であった。
出典
参考文献
歴史
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建造物
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- Bernd Kalusche, Wolf-Christian Setzepfand: Architekturführer Frankfurt am Main. Reimer, Berlin 1992, ISBN 3-496-01100-9.
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- Ulf Jonak: Die Frankfurter Skyline. Campus, Frankfurt am Main – New York 1997, ISBN 3-593-35822-0. (Kritische Betrachtung des Hochhausbaus)
- Clemens Jöckle: 100 Bauwerke in Frankfurt am Main, Regensburg, Schnell & Steiner, 1998, ISBN 3-7954-1166-1
- Hugo Müller-Vogg: Hochhäuser in Frankfurt. Societäts-Verl., Frankfurt am Main 1999, ISBN 3-7973-0721-7. (Vorstellung aller Hochhäuser in Frankfurt)
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- Heinz Schohmann: Frankfurt am Main und Umgebung. Von der Pfalzsiedlung zum Bankenzentrum. Dumont Kunstreiseführer. Dumont, Köln 2003, ISBN 3-7701-6305-2. (mit Schwerpunkt Architektur)
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その他
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- Matthias Alexander, Gerd Kittel: Hochhäuser in Frankfurt. Societäts-Verlag, Frankfurt am Main 2006, ISBN 3-7973-1000-5.
- Christian Setzepfandt: Geheimnisvolles Frankfurt am Main. Wartberg, Gudensberg-Gleichen 2003, ISBN 3-8313-1347-4.
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- Benno Reifenberg: Das Einzigartige von Frankfurt. Verlag Waldemar Kramer, Frankfurt am Main 1979, ISBN 3-7829-0220-3.
- Ausgewählte Frankfurter Mundartdichtung. Verlag Waldemar Kramer, Frankfurt am Main 1966, ISBN 3-7829-0067-7.
- Helmut Bode: Frankfurter Sagenschatz. 100 Sagen und sagenhafte Geschichten, nach den Quellen und älteren Sammlungen sowie der Lersnerschen Chronik neu erzählt. Verlag Waldemar Kramer, Frankfurt am Main 1978, ISBN 3-7829-0209-2.
- Alice Selinger: Frankfurt am Main. Stadtführer Geschichte Kultur. Verlag Waldemar Kramer/Marix Verlag, Wiesbaden 2011, ISBN 978-3-86539-683-9.
- Anja Zeller: Frankfurt to go. Der Stadtwanderführer für Frankfurt! 978-3940874436, Verlag archimappublishers, Berlin 2012
これらの文献は、翻訳元であるドイツ語版の参考文献として挙げられていたものであり、日本語版作成に際し直接参照してはおりません。