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慶長8年︵[[1603年]]︶に征夷大将軍に就いて[[幕府]]を開いた家康は、[[徳川氏]]による将軍職世襲を確実にするため、慶長10年︵[[1605年]]︶にわずか2年で秀忠に将軍職を譲った。秀忠は[[江戸城]]に居住し、[[駿府城]]に住む[[大御所]]家康との間の二元政治体制になるが、[[本多正信]]らの補佐により家康の意を汲んだ政治を執った。[[大坂の役]]にも家康とともに参戦して総大将となり、慶長20年︵[[1615年]]︶の戦で、豊臣家重臣・[[大野治房]]によって本陣を脅かされた。結局、豊臣家は滅亡し、[[豊臣秀頼]]に嫁がせていた娘の[[千姫]]は助け出された。その後、家康とともに[[武家諸法度]]・[[禁中並公家諸法度]]などの制定につとめた。
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慶長8年︵[[1603年]]︶に征夷大将軍に就いて[[幕府]]を開いた家康は、[[徳川氏]]による将軍職世襲を確実にするため、慶長10年︵[[1605年]]︶にわずか2年で秀忠に将軍職を譲った。秀忠は[[江戸城]]に居住し、[[駿府城]]に住む[[大御所]]家康との間の二元政治体制になるが、[[本多正信]]らの補佐により家康の意を汲んだ政治を執った。[[大坂の役]]にも家康とともに参戦して総大将となり、慶長20年︵[[1615年]]︶の戦で、豊臣家重臣・[[大野治房]]によって本陣を脅かされた。結局、豊臣家は滅亡し、[[豊臣秀頼]]に嫁がせていた娘の[[千姫]]は助け出された。その後、家康とともに[[武家諸法度]]・[[禁中並公家諸法度]]などの制定につとめた。
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なお将軍襲職の際、[[源氏長者]]、[[奨学院別当]]は譲られなかったとする説がある︵岡野友彦﹃源氏と日本国王﹄︶。﹃徳川実紀﹄にはなったと書いてあるが、これは没後さかのぼってなったのだというのである。これが事実なら、徳川将軍で唯一源氏長者にならなかった将軍ということになる。
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[[元和 (日本)|元和]]2年︵[[1616年]]︶に家康が死去したのちは、将軍親政を開始し[[酒井忠世]]、[[土井利勝]]らを[[老中]]として幕府の中枢を自身の側近で固め、自らリーダーシップを発揮する。[[大名]]統制を強化して[[福島正則]]ら多くの[[外様大名]]を改易し、[[徳川御三家|御三家]]を[[尾張藩|尾張]]・[[紀伊藩|紀伊]]・[[水戸藩|水戸]]に配置し、自身の子[[徳川忠長|忠長]]に[[駿河国|駿河]]・[[遠江国|遠江]]・[[甲斐国|甲斐]]を与えた。また、弟の[[松平忠輝]]・娘婿の[[松平忠直]]や家康の謀臣・[[本多正純]]を[[改易]]・[[配流]]にしている。また[[朝廷]]に対しても厳しい引き締めを行う一方で、娘の一人[[徳川和子|和子]]を[[後水尾天皇]]に入内させた。また[[鎖国]]政策の布石として、外国船寄港を[[平戸港|平戸]]・[[長崎港|長崎]]に限定させている。
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[[元和 (日本)|元和]]2年︵[[1616年]]︶に家康が死去したのちは、将軍親政を開始し[[酒井忠世]]、[[土井利勝]]らを[[老中]]として幕府の中枢を自身の側近で固め、自らリーダーシップを発揮する。[[大名]]統制を強化して[[福島正則]]ら多くの[[外様大名]]を改易し、[[徳川御三家|御三家]]を[[尾張藩|尾張]]・[[紀伊藩|紀伊]]・[[水戸藩|水戸]]に配置し、自身の子[[徳川忠長|忠長]]に[[駿河国|駿河]]・[[遠江国|遠江]]・[[甲斐国|甲斐]]を与えた。また、弟の[[松平忠輝]]・娘婿の[[松平忠直]]や家康の謀臣・[[本多正純]]を[[改易]]・[[配流]]にしている。また[[朝廷]]に対しても厳しい引き締めを行う一方で、娘の一人[[徳川和子|和子]]を[[後水尾天皇]]に入内させた。また[[鎖国]]政策の布石として、外国船寄港を[[平戸港|平戸]]・[[長崎港|長崎]]に限定させている。
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2008年1月21日 (月) 03:13時点における版
徳川秀忠︵とくがわ ひでただ︶は、江戸幕府第二代将軍。
生涯
後継者争い
徳川家康の三男として、遠江・浜松に生まれ、乳母・大姥局によって養育される。母は側室の西郷局、実家の西郷氏は、九州の菊池氏一族で、室町初期には守護代をつとめたこともある三河の有力な国人であった。同母弟に家康の四男松平忠吉がいる。長兄・信康は秀忠の生まれた年に死亡、庶兄の秀康は豊臣秀吉の養子に出されて、後に結城氏を継いだので、母親が三河の名家である秀忠が実質的な世子として処遇されて14歳で中納言に任官し、江戸中納言と呼ばれる。天正18年︵1590年︶、織田信雄の娘・小姫︵春昌院︶と祝言を挙げたが、秀吉と信雄が仲違いして信雄が除封された事により破談となる。文禄4年︵1595年︶には信長の姪で豊臣秀吉の養女の於江与︵父は浅井長政、母は織田信長の妹・お市︶と結婚。慶長5年︵1600年︶の関ヶ原の戦いでは、東海道を進む家康本隊に対して中山道を進む別働隊を率いる役割を与えられたが、信濃国上田城攻めで、真田昌幸の激しい抵抗に時間を奪われて9月15日︵新暦10月21日︶の関ヶ原の戦いには参加できなかった。︵ただ、この件に関してはあえて兵を関ヶ原に遅参させることで徳川軍の兵力を温存させるという家康の策略だったのではないかという説もある。また、家康の当初の命令が信州平定であり︵このときの命令書が残っている︶秀忠はそれに忠実に従っていただけで、その後の家康からの本隊への合流命令が豪雨による川の氾濫のため届いたのが9月9日であり9月15日の関ヶ原にはすでに間に合わない状況だったという説もある。︶
近年の研究では、このことで軍事面に於いてその無能振りを全国に示した秀忠及び自分の死後の徳川家の将来を悲観した家康が、もともとは秀吉の遺言に従い、徳川・豊臣両家共存の意向だったのを取り止めて、後顧の憂いを絶つべく豊臣家廃絶の道を選んだのではないかとする考えが示されている。
そのように軍事面での才能には疑問が持たれる秀忠だが、それでも後継者となったのは家康が秀忠を﹁守成の時代﹂の君主に相応しいと考えていたからだと言われている︵家康は唐の太宗の治世について記した﹃貞観政要﹄を読んでおり、当然その中の﹁守成は創業より難し﹂という一文も読んでいたと思われる︶。律儀に父の路線を守り、出来て間もない江戸幕府の基盤を強固にすることを期待されたのであり、結果として秀忠もそれによく応えたと言えるだろう。ただ、秀忠自身は武将として汚名が付いたことを気にしていたらしく、大坂冬の陣では家康に対して豊臣方への強攻策を主張しており、この戦いに勝利することで汚名を返上しようとしていたのではないか、とする説もある。
征夷大将軍
慶長8年︵1603年︶に征夷大将軍に就いて幕府を開いた家康は、徳川氏による将軍職世襲を確実にするため、慶長10年︵1605年︶にわずか2年で秀忠に将軍職を譲った。秀忠は江戸城に居住し、駿府城に住む大御所家康との間の二元政治体制になるが、本多正信らの補佐により家康の意を汲んだ政治を執った。大坂の役にも家康とともに参戦して総大将となり、慶長20年︵1615年︶の戦で、豊臣家重臣・大野治房によって本陣を脅かされた。結局、豊臣家は滅亡し、豊臣秀頼に嫁がせていた娘の千姫は助け出された。その後、家康とともに武家諸法度・禁中並公家諸法度などの制定につとめた。
なお将軍襲職の際、源氏長者、奨学院別当は譲られなかったとする説がある︵岡野友彦﹃源氏と日本国王﹄︶。﹃徳川実紀﹄にはなったと書いてあるが、これは没後さかのぼってなったのだというのである。これが事実なら、徳川将軍で唯一源氏長者にならなかった将軍ということになる。
元和2年︵1616年︶に家康が死去したのちは、将軍親政を開始し酒井忠世、土井利勝らを老中として幕府の中枢を自身の側近で固め、自らリーダーシップを発揮する。大名統制を強化して福島正則ら多くの外様大名を改易し、御三家を尾張・紀伊・水戸に配置し、自身の子忠長に駿河・遠江・甲斐を与えた。また、弟の松平忠輝・娘婿の松平忠直や家康の謀臣・本多正純を改易・配流にしている。また朝廷に対しても厳しい引き締めを行う一方で、娘の一人和子を後水尾天皇に入内させた。また鎖国政策の布石として、外国船寄港を平戸・長崎に限定させている。
隠居
元和9年︵1623年︶に将軍職を嫡男家光に譲る。父家康に倣って、引退後も実権は手放さず、大御所として二元政治を行った。当初、駿府に引退した家康に倣い、自身は小田原城で政務を執ることを考えていたようだが、結局は江戸城西の丸︵現在の皇居︶に移った。晩年の寛永6年︵1629年︶に紫衣事件を起こして朝廷・寺社統制の徹底を示した。寛永8年︵1631年︶には忠長の領地を召し上げて蟄居を命じるが、このころから体調を崩し、翌寛永9年︵1632年︶年初めに亡くなった。
徳川家綱︵第4代将軍︶、徳川綱重、徳川綱吉︵第5代将軍︶は孫。徳川家宣︵第6代将軍︶・松平清武は曾孫。徳川家継︵第7代将軍︶は玄孫にあたる。
官歴
※日付=旧暦
●1587年︵天正15年︶8月8日、従五位下に叙し、侍従に任官。蔵人頭を兼帯。
●1588年︵天正16年︶1月5日、正五位下に昇叙し、武蔵守を兼任。侍従如元。蔵人頭を去る。
●1590年︵天正18年︶1月5日、元服。12月29日、従四位下に昇叙し、侍従如元。
●1591年︵天正19年︶、正四位下に昇叙し、右近衛権少将に転任。11月8日、参議に補任し、右近衛権中将を兼帯。
●1592年︵文禄元年︶5月9日、従三位に昇叙し、権中納言に転任。
●1594年︵文禄3年︶2月13日、権中納言を辞任。
●1601年︵慶長6年︶3月28日、権大納言に転任。
●1602年︵慶長7年︶1月8日、従二位に昇叙。権大納言如元。
●1603年︵慶長8年︶4月16日、右近衛大将を兼任。
●1605年︵慶長10年︶4月16日、正二位に昇叙し、内大臣に転任。右近衛大将兼任如元。5月1日、征夷大将軍宣下。
●1606年︵慶長11年︶、内大臣と右近衛大将を辞任。
●1614年︵慶長19年︶3月9日、従一位に昇叙し、右大臣に転任。
●1623年︵元和9年︶7月27日、右大臣を辞任
●1626年︵寛永3年︶8月19日、太政大臣に転任。
●1632年︵寛永9年︶1月24日、薨去。2月10日、贈正一位。
墓所・遺骸について
法名は台徳院殿興蓮社徳譽入西大居士。墓所は、東京都港区の一角にあった台徳院霊廟であったが戦災で焼失し、1958年に台徳院霊廟が増上寺本堂近くに移転改築された際、土葬されていた秀忠の遺骸も荼毘に付されて改葬された。尚、この際に秀忠の遺体の調査が行われたが、その遺体は、棺の蓋や地中の小石等の重みにより、その衣服等とともに圧迫されつぶれていた。また、秀忠の血液型はO型であった。この調査については、鈴木尚の﹃骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと﹄、﹃増上寺徳川将軍家墓とその遺品・遺体﹄を参照のこと。
人物
●関ヶ原の戦いの前、家康が﹃この歳になってこんな大戦︵おおいくさ︶をしなければならないとは難儀な事だ。せめてセガレがいれば少しは楽ができるのに﹄とこぼした。そばにいた家臣が、﹁殿には秀忠様がおられるではありませぬか?﹂と聞くと、﹁あのセガレではない、信康︵切腹した家康の長男︶の事を言っておるのだ﹂と答えた。[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を﹁date=yyyy年m月﹂形式で記入してください。間違えて﹁date=﹂を﹁data=﹂等と記入していないかも確認してください。
●秀忠は関ヶ原の戦いのとき、3万8,000人の大軍を率いていながら、わずか2,000人が籠城する信州上田城を攻め、真田昌幸の前に大敗を喫した。このときの惨敗ぶりを、﹁我が軍大いに敗れ、死傷算なし﹂︵﹃烈祖成蹟﹄︶と記されている。このため家康は関ヶ原の後、秀忠としばらくの間は面会すら許さず、面会したときには手ひどく叱責を加えたとまで言われている。
●慶長19年︵1614年︶の大坂冬の陣出陣のとき、秀忠は10月23日に軍勢を率いて江戸城を出発した。24日に藤沢、26日に三島、27日に清水、28日に掛川、29日には吉田にまで到着するという強行軍を続けて秀忠が伏見城に到着したのは11月10日で、江戸から伏見まで17日間で到着するという強行軍を重ねた。このため、秀忠軍の将兵は疲労困憊し、とても戦えるような状況ではなかった。
●このときのことを、﹃当代記﹄では、次のように記している。
﹁廿六日三島。廿七日清水。廿八日掛川。廿九日吉田御着。路次依急給、供衆一円不相続、況哉武具・荷物己下曾て無持参﹂︵供廻衆を置き去りにして、武具や荷物も持たずに駆けに駆け、清水に着いたときには徒士240人、騎馬34人ほどだった︶。
●これを知った家康は激怒し、秀忠に軍勢を休ませて徐行して進軍するように命じている。当代記では11月1日に秀忠が岡崎に着いたとき、﹁揃人数、急度上洛可有儀を、路次中急給故、供奉輩不相揃、軽々敷上給事、不可然﹂と叱責する使者を出したとまで言われている。ところが秀忠は家康の命令を無視して11月2日には名古屋、5日には佐和山にまで到着するという強行軍を続けた。このため家康は﹁大軍数里の行程然るべからざる由、甚だ御腹立﹂であったと﹃駿府記﹄には記されている。︵葵徳川三代では家康が﹃たわけうつけ間抜け!﹄と秀忠を叱責していた。︶
●徳川秀忠の人物を、﹃徳川実紀﹄では次のように評価している。
﹁東照公︵家康︶の公達あまたおはしましける中に。岡崎三郎君︵松平信康︶はじめ、越前黄門︵結城秀康︶、薩摩中将︵松平忠吉︶等は、おづれも父君の神武の御性を稟させられ。御武功雄略おおしく世にいちじるしかりし中に。独り台徳院︵秀忠︶殿には、御幼齢より仁孝恭謙の徳備はらせ給ひ。何事も父君の御庭訓をかしこみ守らせられ。萬ず御旨に露違はせ給はで。いささかも縦覗の御挙動おはしまさざりき﹂
●このように、兄の信康や秀康、弟の忠吉などは、武勇や知略に恵まれた名将と評価されている。事実、信康は武勇に優れ、秀康も豊臣秀吉にその人物を評価され、忠吉も関ヶ原の本戦で島津豊久を討つという武功を挙げている。それに対して秀忠には、武勇や知略での評価は乏しい。ただし、秀忠は2代将軍だったため、後半部分で秀忠は温厚な人物だったと弁護している。しかし、当の徳川氏による史書でさえ、秀忠の武将としての評価は低かった。
●一方で公家諸法度、武家諸法度などの法を整備し、徳川幕府の基礎を固めた為政者としての手腕を、高く評価する意見もある。秀忠に将軍職を譲った後の家康がそうであったように、家光に将軍職を譲った後の秀忠も、大御所として全面的に政務を見ている。海音寺潮五郎は、﹁家康は全て自分で決めた。秀忠はそれには及ばなかったが半分は自分で決めた。家光は全て重臣任せであった。﹂と評している。
●秀忠は恐妻家であり、正室の於江与の方には頭が上がらなかったとされている。気性の荒い妻の影響で側室を持つことが許されなかったという俗説が一般的だが、秀忠は於江与の方を愛し敬い、彼女もそれだけの魅力のある女性ではあったようだ。一度だけ江戸城の女中だったお静の方に手を出した際も、正室からの追求を恐れて、お静を正式の側室にはしなかった。生まれた子供︵保科正之︶にも一切面会せず、そのまま保科家に養子に出し、於江与の存命中は正之を実子として認知することもなかった。
秀忠の室と子女
於江与の方︵崇源院︶‥正室
●長女・千姫︵天樹院︶‥豊臣秀頼室、のちに本多忠刻室
●次女・珠姫︵天徳院︶‥前田利常室
●三女・勝姫︵天崇院︶‥松平忠直室
●四女・初姫︵興安院︶‥京極忠高室
●次男・徳川家光‥江戸幕府将軍
●三男・徳川忠長‥駿府城主
●五女・徳川和子︵東福門院︶‥後水尾天皇中宮
お静の方︵浄光院︶‥側室
●四男・保科正之‥会津松平家初代
名前不明‥家女
●長男・長丸‥生後9ヶ月で夭折
●秀忠の養子
●喜佐姫︵龍昌院︶‥結城秀康娘、毛利秀就室
●千代姫︵保寿院︶‥小笠原秀政娘、細川忠利室
●ビン姫︵雲松院︶‥奥平家昌娘、堀尾忠晴室
●振姫︵孝勝院︶‥池田輝政娘、伊達忠宗室
●亀姫︵宝珠院︶‥松平忠直娘、高松宮好仁親王室
●勝姫︵円盛院︶‥本多忠刻娘、池田光政室
●鶴姫︵福正院︶‥榊原康政娘、池田利隆室
●久姫︵梅渓院︶‥松平忠良娘、黒田忠之室
●崇法院‥蒲生秀行娘、加藤忠広室
●完子‥豊臣秀勝娘、九条幸家室
偏諱を受けた人物
●蒲生忠郷
●加藤忠広
●伊達忠宗
●松平忠直
関連項目
●徳川氏
●NHK大河ドラマで秀忠を演じた人物
●﹁樅の木は残った﹂ 二代目中村又五郎
●﹁春の坂道﹂ 青山哲也
●﹁おんな太閤記﹂ 佐藤佑介
●﹁徳川家康﹂ 田遠実→勝野洋
●﹁独眼竜政宗﹂ 勝野洋
●﹁春日局﹂ 中村雅俊
●﹁琉球の風﹂ 岸谷五朗
●﹁葵徳川三代﹂ 西田敏行
●﹁武蔵 MUSASHI﹂ 二代目中村獅童
●﹁功名が辻﹂ 二代目中村梅雀