藤原安子
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藤原 安子 | |
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第62代天皇后 | |
皇后 |
天徳2年10月27日(958年12月10日) (中宮) |
皇太后 |
康保4年11月29日(968年1月1日) (追贈) |
太皇太后 |
安和2年8月25日(969年10月9日) (追贈) |
誕生 | 延長5年(927年) |
崩御 |
応和4年4月29日(964年6月11日) 主殿寮 |
陵所 | 宇治陵(京都府宇治市木幡中村) |
諱 | 安子 |
氏族 | 藤原氏(北家・九条流) |
父親 | 藤原師輔 |
母親 | 藤原盛子 |
配偶者 | 村上天皇 |
結婚 | 天慶3年4月19日(940年5月28日) |
子女 |
承子内親王 冷泉天皇 為平親王 輔子内親王 資子内親王 円融天皇 選子内親王 |
女御宣下 | 天慶9年5月27日(946年6月28日) |
立后前位階 | 従二位 |
藤原 安子︵ふじわら の あんし︵やすこ︶、927年︿延長5年﹀- 964年6月11日︿応和4年4月29日﹀︶は、右大臣藤原師輔の長女。母は武蔵守藤原経邦の女盛子。第62代村上天皇中宮。第63代冷泉天皇・第64代円融天皇らの生母。
生涯[編集]
摂関家の次男にあたる藤原師輔の家︵九条流︶に生まれる。 天慶3年︵940年︶4月19日、成明親王︵村上天皇︶と結婚。内裏の飛香舎で婚儀を挙げる。同7年︵944年︶成明親王が立坊、皇太子妃となる。同8年︵945年︶、従五位上。同9年︵946年︶従四位下に進み、村上天皇即位で従三位・女御となり昭陽舎に局を賜る︵のち飛香舎︶。 天暦4年︵950年︶5月24日、皇子憲平親王︵冷泉天皇︶を出産。皇子は生後2ヶ月で皇太子に立てられ、生家の九条流が師輔の兄・実頼の家系︵小野宮流︶との外戚争いをしのいで繁栄する基となる[1]。同10年︵956年︶従二位に進み、天徳2年︵958年︶10月27日、中宮に冊立。 安子は、村上天皇との間に三男四女をなしたが、応和4年︵964年︶、選子内親王を出産後間もなく主殿寮にて崩御。享年38。陵墓は宇治陵︵京都府宇治市木幡中村︶。 安子自身は若くして亡くなったが、のち康保4年︵967年︶11月、冷泉天皇即位で皇太后を、さらに安和2年︵969年︶8月25日に円融天皇即位で太皇太后を追贈される。安子所生の両天皇の即位は九条流摂関家発展の元となり、やがて安子の甥道長を頂点とする全盛期へ至ることになる。- 安子所生の皇子女
- 皇女: 承子内親王(948年 - 951年)
- 皇子: 憲平親王(冷泉天皇)(950年 - 1011年)
- 皇子: 為平親王(952年 - 1010年)- 一品式部卿
- 皇女: 輔子内親王(953年 - 992年)- 伊勢斎宮
- 皇女: 資子内親王(955年 - 1015年) - 一品准三宮
- 皇子: 守平親王(円融天皇)(959年 - 991年)
- 皇女: 選子内親王(大斎院)(964年 - 1035年) - 賀茂斎院
- 略系図
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| 藤原忠平 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 実頼 |
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| 師輔 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 〔小野宮流〕 |
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| 伊尹 |
| 兼通 |
| 村上天皇中宮安子 |
| 兼家 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 冷泉天皇憲平親王 |
| 円融天皇守平親王 |
| 〔九条流〕 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 〔現皇室〕 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
人物[編集]
村上天皇即位前に入内した最初の妃であり、また皇太子憲平親王を始めとして妃のうちで最も多い三男四女をもうけたことから、天皇に非常に重んじられた。しかし﹃大鏡﹄によれば非常に嫉妬深い性格で、後に天皇の寵愛を受けた宣耀殿女御藤原芳子︵安子の従姉妹︶の姿を垣間見したときにはあまりの美しさに妬心やみがたく、壁の穴から土器︵かわらけ︶の欠片を投げつけるという暴挙に出たという。しかもそれに立腹した天皇が安子の兄弟らに謹慎を命じると、天皇に詰めよってついに撤回させてしまったというから、話半分としても気性の激しい女性だったようであり、また、皇太子の生母としての彼女の影響力の大きさが窺える。
また、円融天皇も母親であった安子を死後も慕っていたことが知られ、摂政藤原伊尹の死後には伊尹の没後に三弟の藤原兼家の関白就任が有力視されていたものの、次弟の藤原兼通が生前に安子が書いた﹁関白は兄弟順に﹂という書付を見せると直ちに兼通を次の関白としたという故事︵﹃大鏡﹄、ただしこの事件の経緯を詳しく記した﹃親信卿記﹄︵天禄3年11月26日条︶には彼女の遺命があったことを記すのみで内容は記されていない︶や、同母兄弟の資子内親王や為平親王が一品に叙せられた︵ただし、為平叙任は円融譲位後︶のは、円融が亡き母に代わって同母兄弟を庇護しようとした意欲の表れと言われている。栗山圭子は安子の遺命の内容を伊尹や兼家に庇護された冷泉以外の皇子女の後見を中宮権大夫でもあった兼通に依頼したものであったと推測し、その結果として成長した円融が自身の唯一の後見になった兼通を関白に任じたと推測している[2]。
脚注[編集]
- ^ 藤原安子 | コトバンク
- ^ 栗山圭子「兼通政権の前提-外戚と後見」服藤早苗 編『平安朝の女性と政治文化 宮廷・生活・ジェンダー』(明石書店、2017年) ISBN 978-4-7503-4481-2