日本思想
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日本思想︵にほんしそう、英: Japanese philosophy︶は、日本の哲学・思想のこと。日本哲学とも言う[注 1]。太古にはアニミズム・シャーマニズムとしての神道があったが、仏教、儒教、西洋思想の伝来[注 2]によって習合・混合し、日本特有の思想風土が出来上がっていった。
研究史[編集]
﹁日本思想史﹂の形成[編集]
日本思想が学術的な考察の対象に上ったのは明治時代以降のことである。戦前の代表的な思想史家として津田左右吉、村岡典嗣、和辻哲郎などがいる。 以下、﹃日本思想史講座﹄シリーズ︵ぺりかん社︶の各巻﹁総説﹂を参考に記述する。儒教と国民道徳論[編集]
﹁文明開化﹂に伴って、明六社の福沢諭吉や西周らによって西洋思想、西洋哲学の輸入が盛んに行われた。その中で、欧化主義に対して日本の伝統思想を回顧する動きも現れ、国粋主義・国家主義者たちは国民道徳論を唱えた。東京帝国大学で西洋哲学の普及に努めた井上哲次郎は、朱子学、陽明学、古学といった日本儒教・江戸儒学の研究を始め、西村茂樹も西洋哲学と伝統思想を融合した﹃日本道徳論﹄を著した。エドマンド・スペンサーの社会進化論を紹介した加藤弘之らは啓蒙思想を批判する国権主義に走った。元田永孚は儒教と天皇崇拝を一体化させた﹁教育勅語﹂を起草した。ナショナリズム[編集]
歴史学者の津田左右吉は、日本古代史や﹃論語﹄の文献研究で知られるが、﹃文学に現はれたるわが国民思想の研究﹄を著して、初となる本格的な日本思想の通史的叙述を行った。自由主義的なナショナリストであった津田には﹃支那思想と日本﹄の著作もあり、中国が日本思想に与えた影響を否定することに力点を置いていた。村岡典嗣は﹃日本思想史研究﹄や﹃本居宣長﹄の著作があり、日本思想の文献学的研究を行った。村岡は宗教哲学者者の波多野精一から大きな影響を受けており、日本思想の中の宗教哲学の探求を動機として、江戸時代後期の国学者平田篤胤に日本伝統思想における宗教哲学の完成を見出していた。村岡典嗣の活躍した東北帝国大学では、西田直二郎の﹁文化史学﹂が興隆し、石田一良、佐藤弘夫らを輩出した。昭和戦前期の状況[編集]
哲学者の西田幾多郎は﹃日本文化の問題﹄で、伝統思想を媒介とした西洋哲学の刷新を説いている。また、倫理学者の和辻哲郎は﹃人間の学としての倫理学﹄や﹃倫理学﹄で知られるが、彼もまた日本精神の研究を行った。和辻はドイツの解釈学を学び、それを思想史叙述に利用した。﹃日本精神史研究﹄は日本美術や芸能の中に日本精神を探る著作である。戦前に出版した﹃尊皇思想とその伝統﹄は、古代から近世の日本思想を尊皇思想という観点から渉猟し、戦争を控えて執筆が急がれた和辻倫理学の大きな目的の一つである、民衆を国家のために動員可能にする国家主義の完成を目的としていた。戦後にはこれを元にした完全版の﹃日本倫理思想史﹄が出版された。和辻門下には相良亨、源了圓、湯浅泰雄らがおり、現在では第三世代として佐藤正英などがいる。大川周明はイスラーム哲学の研究者であり、アジア主義の代表的人物だが、人物評伝の﹃日本精神研究﹄や文明史の﹃日本二千六百年史﹄を著した[2]。皇国史観によって日本史を論じた平泉澄もこの時期の代表的な思想史家である。唯物史観の立場からの日本思想史研究では、三枝博音や、﹃日本における近代思想の前提﹄の羽仁五郎らがいる。日本仏教史[編集]
仏教の研究は古くから寺院の檀林・学寮などで行われていたが、近代的な仏教学研究は、サンスクリットやパーリ語を研究していたフランスやドイツの東洋学者の元に留学した僧侶たちにより始められた。マックス・ミュラーに学んだ南条文雄や高楠順次郎、エルンスト・ロイマンに学んだ荻原雲来、渡辺海旭、渡辺照宏らがいる。また、河口慧海や能海寛らチベットに直接渡って原典を研究した人物もいる。東京帝国大学では高楠が梵語、村上専精がインド哲学の講座を設けて、鷲尾順敬や境野哲が仏教史研究を開始した。私立大学としては井上円了が哲学館︵のちの東洋大学︶を設立、龍谷大学や大谷大学といった仏教系大学も林立した。鈴木大拙は禅を海外に紹介し、清沢満之は浄土真宗から精神主義の哲学を創出した。高楠に教えを受けた宇井伯寿の弟子には中村元、木村泰賢らがいる。田村芳朗は東京大学に日本仏教史講座を設け、弟子に末木文美士らがいる。戦後の日本思想史研究[編集]
戦前には西洋哲学者や東洋史学者などが副次的に研究していた日本思想史だが、戦後には日本思想史専門の研究者が登場するようになった。また、研究分野が細分化し、政治思想史や仏教史などのほかに、研究者は古代・中世・近世・近代の時代区分ごとの専門を持つようになっていった。丸山政治思想史学の登場と批判[編集]
政治哲学者の南原繁の勧めで日本政治思想史を始めた丸山眞男の﹃日本政治思想史研究﹄は、敗戦後の日本で学生たちを中心に広く読まれ、﹃現代政治の思想と行動﹄と共に戦後民主主義の普及に一役買っていた。丸山は朱子学に代表される政治秩序を﹁自然﹂と見なす前近代的思惟様式に対して、荻生徂徠が政治秩序は﹁作為﹂的であると考えたとし、近代的思惟様式の幕開けと論じ、日本人の思想の中に近代西洋思想を受け入れる素地があったと主張した。しかし、安保闘争を機に丸山の依っていた講座派理論のいう半封建的な社会が一向に民主化へ向かわない政治情勢に絶望して、﹁歴史意識の﹃古層﹄﹂が収められた﹃忠誠と反逆﹄以降は、古代から流れる﹁つぎつぎとなりゆくいきおひ﹂という日本人の思考方法がある限り近代化は不可能であるという結論に至った。丸山は藤田省三、植手通有、松本三之介、渡辺浩など多くの後進を育てた。狩野亨吉の発掘した安藤昌益は、エドガートン・ハーバート・ノーマンの﹃忘れられた思想家﹄で再度取り上げられ、封建制批判の先駆者として称賛された。 尾藤正英は﹃日本封建思想史研究﹄で朱子学と封建制を直接結びつける丸山を批判し、日本朱子学の中にも幕府の支配体制を擁護する山崎闇斎と批判する中江藤樹・熊沢蕃山という二つの流派が存在することを主張した[注 3]。吉川幸次郎や加地伸行らの中国文学者や中国哲学者は、丸山の漢文読解に誤りが多いことを指摘している。安丸良夫は﹃日本の近代化と民衆思想﹄を著し、大思想家ばかりを取り上げるのでなく、民衆史の視点から幕末から近代にかけての民衆思想を研究した。子安宣邦は﹃﹁事件﹂としての徂徠学﹄で丸山の﹁自然と作為﹂という見方を批判し、丸山は自身の近代主義的な歴史哲学に合わせて荻生徂徠をはじめとする思想家たちを実際のあり方から変形させてしまったとする。渡辺浩は﹃近世日本社会と宋学﹄で、中国近世と日本近世で同じ儒学用語でも意味が異なることを指摘した。新しい日本思想史研究[編集]
若尾政希は﹃太平記読みの時代﹄で安藤昌益を始めとする思想家や藩主たちが朱子学よりも﹃太平記理尽抄﹄から学んで政治思想を形成したことを論じている。国際的な日本思想史研究[編集]
日本学の研究は欧米やアジアの大学で行われており、アメリカのシカゴ大学ではテツオ・ナジタ、ハリー・ハルトゥーニアン、ヴィクター・コシュマンが日本思想史の﹁シカゴ学派﹂を作り出した。各時代の思想[編集]
古代・中世[編集]
「日本の仏教」も参照
封建制が定着する以前の日本では仏教が日本思想の本流を占めた。聖徳太子によって政治的に導入された仏教文化は奈良時代に﹁国家鎮護﹂の思想として完成された。平安時代が始まると、﹁国家鎮護の思想﹂の代わりに密教が一般的になった。しかし後に、﹁末法思想﹂によって悲観主義が一般的になった有名な時代に、この世界での命をなげうって未来の声明を強く称揚する浄土思想が広がった。武士が政権を握る鎌倉時代が始まると、新しく起こってきた社会階級︵武士︶のための﹁新﹂仏教が現れた。
日本への仏教の到来と初期の影響[編集]
古代の日本では、仏教の到来は国家の建設や中央集権化と密接に関連していた。聖徳太子と蘇我氏は古代日本の宗教を牛耳っていた物部氏を戦争で打ち倒し、体系的な法典と仏教に基づいた国家統治の計画を起草した。推古天皇の摂政である聖徳太子は蘇我氏と協力しながら﹁外国の﹂仏教に深い理解を示し[注 4]、仏教によって国の政治を安定させようとした。仏教の力で国の平和と安全を得ようとする思想は﹁国家鎮護﹂思想と呼ばれる。奈良時代に、特に聖武天皇の時代に、国分寺・国分尼寺が全国に建てられ、東大寺と大仏が奈良に作られた。唐の鑑真が東大寺の戒壇をもたらした時期に、国家による仏教政策が頂点に達した。 奈良仏教が﹁国家鎮護﹂思想の面を強く持っている一方で、平安仏教は国の平和と安全だけでなく個人の現世利益ももたらした。それらが強く禁欲主義的な実践、つまり山中での加持祈祷を行ったため、これらの仏教は密教と呼ばれる。空海は中国の秘密仏教を学び、真言宗を開いた。最澄は中国の天台宗を学び、法華経の精神こそが仏教の神髄であると固く信じた ﹁罪深い時代﹂である平安時代に現世を信じる可能性は否定され、死後に仏教の楽園に転生することを求めることが流行した。﹁後世にこの世界で仏教が廃れる﹂という考えとともに、仏教の楽園へ連れて行ってもらうという﹁浄土﹂思想が広がった。空也が諸国行脚して阿弥陀如来への帰依を説いた。鎌倉仏教[編集]
「鎌倉仏教」も参照
浄土信仰は平安時代末期に浄土宗によって始められたもので、浄土宗を開いた法然は、他の禁欲的な実践を完全に廃し、阿弥陀如来の力による救済を説いた。彼は弟子に﹁阿弥陀如来を信仰し熱心に﹁南無阿弥陀仏﹂と唱えれば極楽往生できる﹂と主張した︵専修念仏︶。彼の弟子の親鸞は新たに浄土系の宗派を開き、法然の教えを果たしぬいて、阿弥陀如来の力に完全に頼ることを説いた︵他力本願︶。そして﹁阿弥陀如来による往生の対象者は俗世の自ら自分の罪を自覚したがっている悪人である﹂と主張した︵悪人正機︶。時宗を開いた一遍は﹁踊念仏﹂を始めた。
浄土信仰とは対照的に、禅宗は坐禅による自己覚醒を試みた。栄西は中国の臨済宗を学んだ。彼は弟子に﹁公案﹂(難題)を与えてそれを解かせ、それによって弟子たちは自己啓蒙した。臨済禅は鎌倉時代の上流武士階級から広い支持を集めた。道元は中国の曹洞宗を学んだ。栄西に対して、彼は弟子に﹁只管打坐︵しかんたざ︶﹂(ひたすら坐禅すること)による覚醒を説いた。曹洞禅は地方の武士から支持を得た。
日蓮ははじめ天台の思想の影響を受けていたが、やがてその思想を発展させ独特の思想へとたどりついた。日蓮が生きた鎌倉時代、日本は戦乱状態で、政治は民の幸福を目指しているとはとても言えない状態で、民は貧しく不幸な状態におかれたままになっていたが、そうした政治の状況を目の当たりにし、また仏教界にもすでに諸宗があるにもかかわらず、そのどれも民の悲惨な状況を十分に改善する力になっていない状況をふまえて、日蓮は﹁諸宗は本尊に迷えり[注 5]﹂と指摘し、﹁︵もともと平安時代には日本に届いていて、もともとは知られていた︶法華経こそが正しい教えである﹂と説き、﹁南無妙法蓮華経﹂[注 6]と唱えることを広めた。日蓮によると﹁法華経以外の経典では、この世で人の行動や社会を改善することは半ばあきらめているものも多く、この世以外に空間を思い描かせること[注 7]で人々に悪い行動を思いとどまらせたり、心理的な救いをもたらそうとするが、法華経という経典の教えが目指す方向はそれとは異なっていて、人々にこの世で境涯︵価値観や生き様︶を変え、︿この世をたくましく生きるための教え﹀や︿人々がこの世で生きている間に互いを幸せにするための教え﹀が含まれている﹂という。日蓮は政治の実態を見たり、様々な経典の内容を学んだ後に、﹁民を救うためには他の経典ではなく法華経を選ぶべきだ﹂と見定めたのである。そして日蓮は﹁信心の目的というのは︵死んでからではなく︶一生のうち︵つまり生きているうちに︶に﹁仏に成る﹂こと︵=正しい境涯を得ること︶︵=﹁一生成仏﹂︶﹂と説き、また自身も社会の問題を解決すべく具体的に行動し、当時の権力者︵幕府・将軍︶に対しても、﹁︵権力者のためではなく︶民の幸福のために政治を行うという正しい思想を立てるべきこと﹂を説き、また﹁汝 須く一身の安堵を思わば 先ず四表の静謐を祷らん者か[注 8]﹂と説き、そうすれば結果として国も平和になるといった内容の手紙を届け︵﹃立正安国論﹄︶、結局は﹁皆が﹁南無妙法蓮華経﹂と唱え法華経の教えを実践することで︵様々な働きによって︶やがて国の平和が実現されてゆく﹂とした。なお、日蓮の教えには西洋のキリスト教の﹁受難﹂思想とも相通ずるような面があり[注 9]、︽受難︾を予期しつつも、むしろそこにも人生の意味を見出す思想が含まれていることは、様々な学者から指摘されている[注 10]。日蓮が広めた教えは日蓮宗となった。上述のような内容の教えなので、本尊︵=祈る対象︶が法華経以外になることを好まず、また積極的に他の宗派の信者にも働きかけて、他の本尊を捨てさせ法華経に向かわせ︵=﹁破折﹂︶ようとする傾向があり、既存の仏教宗派とは緊張関係が生まれた。
近世[編集]
「江戸時代」も参照
日本の古代・中世思想は仏教と強く結びついていたが、近世では豊臣秀吉の朝鮮出兵の際連れ帰られた姜沆が朱子学を日本に広め、儒教︵宋学︶が盛んになった。林家の朱子学は江戸幕府の老中松平定信の時代に公認され、昌平坂学問所での朱子学以外の講義を禁ずる寛政異学の禁が制定された。また、江戸中期以降に国学、蘭学、その他民衆思想が合理主義的な儒教に刺激されて興ってきた。
朱子学の興隆、貝原益軒らからの朱子学批判、山鹿素行の聖学、伊藤仁斎の古義学、荻生徂徠の古文辞学、懐徳堂の徂徠批判、本居宣長の国学、水戸学、佐久間象山や横井小楠の明治維新
儒教[編集]
江戸時代には、儒教が盛んになった。中国の朱子学︵宋明理学︶が主流になり、その批判から古学派や国学など新しい思想が現れた。
朱子学は家族的な封建制の社会的地位の秩序を尊重した。中世以来五山文学の中で学ばれてきた朱子学は、藤原惺窩や弟子林羅山により復興し、江戸幕府の将軍により重宝された。孔子を祀る湯島聖堂が建てられた。寛政異学の禁により朱子学は権威を増した。さらに、朱子学の思想は江戸幕府末期に尊王攘夷を唱える社会的運動に大きな影響を与えた[要出典]。
朱子学とは対照的に、実践的な倫理を尊重する陽明学は江戸幕府によって一貫して監視・抑圧された、というのは江戸幕府の下での社会・政治的状態を批判していたからである。
古学派は孔子や孟子の原典の本来の意図を考慮に入れた。山鹿素行は儒教的倫理学に基づいた武士道を打ち立て、武士を最も高貴な階級だと強く信じた。伊藤仁斎は儒教の﹁仁﹂に注意を払い、﹁仁﹂を他の人に対する愛、そして純粋な思考としての真理であるとしてこれを尊重した。また、古代中国の古典に対する重要な研究によって、荻生徂徠は本来の儒教の精髄は世界を支配し民草を守ることであると主張した。
国学[編集]
「国学」も参照
江戸時代中期に、仏教や儒教のような外国の思想に対抗して、国学と呼ばれる日本の古代文学や思想、文化の研究が盛んになった。江戸幕府の鎖国政策によって江戸の知識人は西洋文明と積極的な交流を持てなかったため、蘭学、つまりオランダの研究が唯一の西洋を覗き見る窓であった。
江戸時代中期に、国学は背景としてナショナリズムおよび、大坂懐徳堂などの実証的な儒学の影響を受けながら広まった。国学は、﹃古事記﹄、﹃日本書紀﹄、﹃万葉集﹄を含む古代日本の思想・文化を実証的に研究した。国学は仏教や儒教と異なる日本の本来の道徳文化を発掘することを狙いとしていた。賀茂真淵は﹃万葉集﹄の研究に取り組み、男性らしく寛容な様式を﹁益荒男ぶり﹂と呼び、蔵書を純粋かつ簡潔に評価した。古事記の研究を通じて、本居宣長は、日本文学の本質は、物事に接した時に自然に起こってくる感情である﹁もののあはれ﹂から生まれてくると主張した。彼は中国の(儒教・仏教の)﹁からごころ﹂に代えて﹁やまとごころ﹂を尊重した。彼によれば、国学は神道という日本の古い流儀を追究するべきであるという。国学の研究を通じて、平田篤胤は国粋的な復古神道、天皇への服従、儒教及び仏教の廃止を唱えた。これが江戸幕府の崩壊と明治維新の駆動力となった。
蘭学[編集]
「蘭学」も参照
﹁鎖国﹂により、オランダ貿易を除いて西洋との直接交流はなかったが、享保の改革の頃に中国からの漢訳された西洋の書籍の輸入を奨励することで蘭学が流行した。前野良沢と杉田玄白はターヘル・アナトミアを和訳し、﹃解体新書﹄を著した。蘭学は江戸幕府末期までにはイギリス、フランス、アメリカ合衆国といった他の西洋の国々の研究にまで展開していた。﹁和魂洋才﹂という思想は佐久間象山の直接的な表現﹁東洋道徳、西洋芸術︵技術の意︶﹂に完成された。林子平は﹁三国通覧図説﹂を出版して取り締まられ、蘭学者の高野長英と渡辺崋山は鎖国政策を厳しく批判して弾圧された︵蛮社の獄︶。
民衆思想[編集]
江戸時代には、私塾が実際的な側面で働く武士、商人、学者らに開かれていた。彼らの中には封建秩序による支配に対する批判を行うものもあった。 石田梅岩は儒教、仏教、神道を統合して大衆のための実践的な哲学を創始した。彼は誠実さと倹約による効果として商業に精を出すことを奨励した。安藤昌益は自然の世界をそこで人間が農業に従事して不自然なものなしに自給自足的に生きる理想的な世界であるとした。彼は、封建的な階級差別や貧富の差が存在するとして法治的な社会を批判した。二宮尊徳は、人は徳に報いなければならず、そのことがその人個人の徳とともにその人の存在を支持すると主張した。近代[編集]
明治維新から自由民権運動まで[編集]
近世日本思想が儒教と仏教の中で発展したのに対して、急速に西洋思想に影響を受けた明治維新の後にイギリスの啓蒙やフランスの人権が流行した。これは、横井小楠と福沢諭吉の近代主義に代表されて現出した[3]。日清戦争及び日露戦争の時期から、日本の資本主義がよく発展した。キリスト教と社会主義が発展し、様々な社会運動と結びついた。また、ナショナリズム的な思想・学問が外国の学問に反発しつつ形成された。
啓蒙と人権[編集]
明治維新において、イギリスとフランスの市民社会、特にイギリスの功利主義および社会的ダーウィニズム、フランスの国民主権とジャン=ジャック・ルソーが紹介された。 明治初期の思想家は西洋の市民社会の中でもイギリス的な啓蒙を唱えた。彼らは日本の伝統的な権力や封建社会を批判しようとした。しかし、彼らは結局政府と迎合して抜本的でない上からの近代化を受け入れた。1873年に、森有礼が明六社を結成した。この文化的会合に参加する人々は実学重視、人間の特徴を実践的につかむこと、国情に合った政府の形成を理想とすることといった点を共有していた。森有礼は文部卿として国民教育の普及に努めた。横井小楠は、幕末に実学党を結成して門閥制度に代わる能力主義や共和思想を反映し、儒学・朱子学の流派に影響された実学を提唱した。 福沢諭吉は科学技術やアレクシ・ド・トクヴィル、英国文明論を日本に紹介して、自然権は当然人権が天賦のものであることであると唱えた。彼は文明の発展は人間の精神の発展であり、人の独立は国家の独立を導くと考えた[4]。﹁便宜のために﹂政府は存在し、その出現は文化に見合ったものであると福沢は考えた。政府の唯一の理想的な形など存在しないと彼は言った。また、日本は列強に対抗して大陸へと対外進出するべきだと彼は主張した[5]。西周は人の振る舞いはその人の持つ関心に基づくと断言した。加藤弘之は社会的ダーウィニズムの影響のもとで自然権を放棄し、代わりに適者生存を唱えた。 明六社のメンバーは結局政府と人民の調和を唱えたが、民主思想家はフランスの基本的人権を吸収し、西南戦争後に明治寡頭制に対して言論によって国民が反抗・革命を起こすことを支持した。1874年に、板垣退助が民選議院設立建白書を提出した。このことが自由民権運動として日本中に広まった。植木枝盛は板垣を支持して基本的な草稿を作成した。ルソーに強く影響されて、中江兆民が主権在民と個人の自由を主張した。しかし、日本の状況を考慮して、彼は立憲君主制の重要性に言及している。彼によれば、大日本帝国憲法は議会によって徐々に改正されるのが望ましいということであった。大正デモクラシーと社会主義[編集]
明治後期から大正期にかけて、ブルジョア階級の政治意識の背景として民主主義運動が広がった。この流れは護憲と普通選挙を求める政治運動を導いた。吉野作造は政党内閣制と普通選挙を主張した。彼は誰に主権があるかは深く追究しなかったが国民の幸福を狙った政治的目的と国民の意思を狙った政治的決定を主張した。美濃部達吉は主権を天皇ではなく国家に帰するものと解釈した。彼によれば、大日本帝国憲法のもとでは天皇はただ最上位の機関として自身の政治的権能を取り持つに過ぎない。彼の理論は初め広く認められたが、後には軍人や国粋主義者によって政治的に抑圧されることになる。 1911年に、平塚らいてうが青鞜社を立ち上げた。彼女は女性自身の目覚めとフェミニスト運動の発展を求めた。与謝野晶子はジェンダーの違いを否定したが、らいてうは子を育てる母性を強調し、女性が女性としての能力を説明するための公的な援助を認めた。1920年に、らいてうは市川房枝や奥むめおらと新婦人協会を結成した。彼女らの活動が女性が政治的演説に参加することに成功してすぐに、協会は内部分裂によって解散した。その後、市川が女性参政権運動を続けるため新しく団体を設立した。キリスト教と社会主義[編集]
「日本のキリスト教史」および「アナキズム#日本におけるアナキズム」も参照
日本において近代化による社会矛盾と戦ったのはキリスト教徒と社会主義者である。資本主義と資本主義による矛盾を日本にもたらした日清戦争や日露戦争の後にキリスト教社会主義運動が活発となった。多くの日本の社会主義者はキリスト教的人間中心主義に影響を受けており、この点で彼らはキリスト教と強く関連している。
キリスト教は江戸幕府によって禁じられたが明治の知識人に影響した。内村鑑三は﹁二つのJ﹂の思想を発展させて伝統的な武士道とキリスト教を統合した。自分の天職は﹁日本(Japan)﹂と﹁イエス(Jesus)﹂に奉仕することだと彼は信じていた。彼は無教会運動を提唱した。彼は教育勅語に挑戦して日露戦争に反対した[6]。新渡戸稲造はクェーカー教徒で日本文化とキリスト教の融合に努めた。彼は日本文化を海外に紹介した。また、彼は国際連盟事務次長になった。新島襄は渡米して神学を学び、京都に同志社英学校︵のちの同志社大学︶を設立してキリスト教による人格陶冶に従事した。
日清・日露戦争期には、日本が産業革命を通じて資本化に成功するとともに資本主義に対抗する社会主義が広がっていた。しかし、社会運動は1900年に制定された治安警察法によって抑圧され、ついには1910年の大逆事件で社会主義者たちは軍隊及びファシスト政府によって根絶やしにされた。河上肇は新聞で困窮について記事を書いている。彼は、初めは個人の変革によって貧困を解決することを強調したが、後にマルクス主義者になって社会的強制による社会変革を主張した。幸徳秋水はもともと議会を通じての社会主義の実現を模索していたが、ユニオニストとなってゼネラル・ストライキによる直接的行動を訴えた。彼は1910年の大逆事件の首謀者として処刑された。大杉栄はアナーキズムとユニオニズムを利用して個人的自由を主張した。彼は政府によって脅威とみなされ、関東大震災の後の混乱の中で秘密警察に暗殺された。
1925年に、元軍人で新聞記者の夢野久作は九州日報連載﹁東京人の堕落時代﹂の中で、﹁田舎の人々が東京へ集まる傾向が強まり、世間が世智辛くなっていった。日本の教育は忠孝仁義を説きながら、実は物質万能、智識万能を教えており、日本の若者はことごとく物質万能主義者となっている。﹂﹁上流社会が平民的になってきて、風紀頽廃していった﹂と述べている。また、﹁無産階級の人々が目標とし、規準とする生活が、東京人の生活と同様の意味の文化生活を夢見るものであったならば、それ等の人々の覚醒と運動とは、将来に於て無価値のものとなり終るべき可能性を、充分に持っていはしまいかと疑い得られる﹂として都会人による社会主義にも警告を発しているほか、﹁農民文化が尊重される傾向が出来つつある﹂﹁新たに天下を取る者は常に田舎者である﹂﹁今日の如く、東京を憧憬する人々、東京の文化を本当の文化と信ずる人々が無暗に殖えて行ったならば、今に日本人全体が東京人のようになってしまいはしまいか﹂として地方の人々による警鐘が必要ではないかとした。
戦争まで[編集]
啓蒙時代、キリスト教、そして社会主義が明治維新以降の日本思想に影響を与えてきた。日本における政治文化と国家の伝統の強調は西洋化に対する反応として起こった。この流れは帝国主義と軍国主義︵ファシズム︶を正当化するというイデオロギー的な側面を持っている[注 11]。
徳富蘇峰は雑誌を出版し、その中で日本の西洋化に反対して自由民主主義とポピュリズムを主張したが、政治的な役割を演じるべきブルジョワに彼は幻滅した。陸羯南は日本の政治文化と国家の伝統を非常に優れたものとみなし、彼は国民感情の回復と強化を狙ったが、決して心の狭い国粋主義者ではなく、軍隊を批判して政府の議院内閣制と参政権の拡大を唱えた。竹越与三郎は南進論を唱えて南洋諸島への植民地主義を唱え、一方近衛篤麿は北進論を唱えた。北進論は関東軍における大東亜共栄圏確立の思想と結びついた。
明治維新の後、日本の政府は神道を保護して、それをしばしば単なる一個の宗教ではなく国家神道として扱った。政府は神道を天皇と密接に関連させ、神道を国家運営の道具として利用した。国家神道は明らかに民間的な神道の教派とは区別される。国家神道を組織して教育勅語を公布することはイデオロギー的な国家運営のモデルであった。明治国家主義は日清戦争・日露戦争を通じて国家主権を回復して帝国主義・植民地主義を追究しようとした。しかし、その軍国主義的な流れが極端なナショナリズムへ発展した。北一輝は財閥、元老、政党の排除と、天皇と国民が直接的に結びついた政府の設立を唱えた[注 12]。
柳田國男は日本の民俗学を創設し、﹃遠野物語﹄などで稲作民と全く異なる生態系を持つ﹁山人﹂の存在を紹介した。その後、﹁常民﹂と呼ばれる一般人に論点を移し、最終的には﹁海の道﹂を通じ日本民族のルーツを﹁海の道﹂を通じて南方に求めるようになった。他の民俗学者には淫祠邪教と呼ばれる民間信仰の保存を求め国家神道に反対した南方熊楠、民芸品の美を論じた柳宗悦、日本古来の宗教と国文学の発生を論じた折口信夫がいる。井筒俊彦と大川周明はクルアーンに基づくイスラム主義を研究した。
戦前の日本では、ドイツ哲学が熱心に研究・紹介された。しかし、明治後期から大正時代にかけて、京都学派が西洋思想と禅宗のような東洋思想を融合しようと試みた。西田幾多郎は禅と西洋思想の融合により独自の思想を打ち立てた。彼の思想は西田哲学と呼ばれる。純粋経験の中では主観と客観の間の対立は存在しないと彼は主張した[7]。彼の存在論は絶対無に由来する。和辻哲郎は西洋の利己的な個人主義を批判した[8]。彼の倫理学では人間は独立した存在ではなく関係的存在であると説かれる。個人的・社会的存在は自身が個人であることと社会の成員であることの両方を自覚すべきだと彼は主張した。彼は﹃風土﹄で自然環境と地域的生活様式の関係を研究した。
焼け跡からの出発[編集]
終戦とその混乱[編集]
連合国軍最高司令官総司令部︵GHQ︶により戦前の思想犯は解放され、占領統治を批判しない限りでの言論の自由が復活した︵しかし、三木清などは戦後獄中死した︶。戦没した学生の手記を編纂した﹃きけ わだつみのこえ﹄が発刊された。大岡昇平は﹃俘虜記﹄など戦記文学を発表。﹃真空地帯﹄の野間宏は﹃崩解感覚﹄で戦争終結による意識の変化を描き、無頼派の坂口安吾は﹃堕落論﹄で敗戦した日本は落ちきった先に新たな道を求めるべきであるとした。アメリカ哲学研究者の鶴見俊輔らは思想の科学を創立し、市民の立場から民衆の思想を研究し、また、共産党員幹部の獄中転向の問題を﹃共同研究 転向﹄で論じた。 一方で、柳田國男は﹃先祖の話﹄を著し、天皇の権威が失墜したあと、イエ制度がそれに代わる国民統合の支柱になると考え、和辻哲郎は戦中から国家主義の立場で書き続けていた﹃倫理学﹄や﹃日本倫理思想史﹄を完成させ、また、古代以来受け継がれてきた天皇制と連続するものとして象徴天皇制を肯定した。戦後民主主義[編集]
南原繁に教えを受け、戦前には﹃日本政治思想史研究﹄で朱子学や荻生徂徠、安藤昌益、本居宣長らの研究を行った丸山眞男は、戦後﹃世界﹄誌上で﹁超国家主義の論理と心理﹂を発表し、注目を集めた。丸山は戦後民主主義の立役者として活躍し、これらの論考は﹁大日本帝国の実在より戦後民主主義の虚妄に賭ける﹂という言葉で名高い﹃現代政治の思想と行動﹄にまとめられた。その後も、﹃日本の思想﹄や問題作﹁歴史意識の﹃古層﹄﹂︵﹃忠誠と反逆﹄︶などを発表した。カール・マルクスとマックス・ヴェーバーに影響を受けた西洋経済史学者の大塚久雄や法社会学者川島武宜、文芸評論家の加藤周一ら、朝日新聞や吉野源三郎社長の岩波書店に依った進歩的文化人の思想は近代主義と呼ばれる。清水幾太郎は論壇の寵児であったが、後年保守に転向し、日本核武装論を唱えた。戦後民主主義への懐疑と新左翼運動[編集]
魯迅の研究で知られる中国文学者の竹内好は、日本が維新以来採ってきた近代主義を批判し、﹁方法としてのアジア﹂などでアジア主義を説いた。政治思想史家の橋川文三は、﹃日本浪曼派批判序説﹄や﹃昭和維新試論﹄などで、忘却されてきた日本近代の右翼思想を再考した。英文学者の福田恆存は﹃中央公論﹄に﹁平和論の進め方に対する疑問﹂を発表し、新現実主義の高坂正堯や永井陽之助らも﹃正論﹄などで絶対平和主義を批判した。経済学者の小泉信三、政治学者の猪木正道、哲学者の田中美知太郎、数学者の岡潔らは保守論客として知られた。今西錦司は主体性進化論、梅棹忠夫は生態史観を唱えた。 スターリン批判とハンガリー動乱、六全協、60年安保闘争を機に日本共産党は威信を失い、谷川雁、吉本隆明、埴谷雄高、黒田寛一など多くの人物が新左翼運動に参加した。主体性論で知られるジャン=ポール・サルトルをはじめとするフランスの反体制知識人は彼らに大きな影響を与えた。また、文化大革命の内実が知れ渡るまでは毛沢東も大いに評価されていた。戦後最大の思想家と呼ばれた詩人・評論家の吉本隆明は丸山らを批判し、﹁自立主義﹂を唱えた。﹁転向論﹂から出発した吉本は、古事記や柳田國男の遠野物語を参照した﹃共同幻想論﹄や、三浦つとむの言語論を応用する﹃言語にとって美とはなにか﹄などで独自の思想を展開した。大江健三郎は﹃ヒロシマ・ノート﹄﹃沖縄ノート﹄を著し、高橋和巳は﹃憂鬱なる党派﹄を著した。廣松渉は疎外論的なマルクス読解を批判し、物象化論を主張、﹃マルクス主義の地平﹄や﹃存在と意味﹄を著し、先駆的にポストモダン哲学への橋渡しを行った。後年、﹃<近代の超克>論﹄を著し、﹁東亜﹂の連帯による北東アジア共同体を提唱して物議を醸した。彼らの思想は全学連・全共闘といった学生運動に受け入れられていった。学費高騰、商業主義とマスプロ教育による質の低下が問題化していた日本大学などでは﹁大学解体﹂の実践が一定の支持を集めた。しかし、国立の東京大学では﹁自己否定﹂などの空虚な標語のもと観念論化が進み、安田講堂事件を機に終息し、その後は過激派による内ゲバやテロが相次いだ。その中で金嬉老事件や華青闘告発などを契機に、新左翼の中でも在日差別が行われていることが明らかになり、太田竜は﹁辺境へ向けて退却せよ﹂と唱え、日本のナショナリズムを批判し、階級闘争史観の中で忘却されていたマイノリティの思考への転換を主張した。学術の世界でもマイノリティに着目した研究が始まり、山口昌男の﹁中心と周縁﹂理論や色川大吉や安丸良夫の民衆史研究などが現れた。また、ウーマン・リブ、第二波フェミニズムもこの頃始まった。保守論壇と歴史観の相克[編集]
東大全共闘の心情に理解を示し﹁諸君が一言天皇と言えば私はよろこんで手をつなぐ﹂と言った小説家の三島由紀夫は楯の会を組織し、1970年自主憲法制定のため自衛隊の決起を呼びかけ、自刃する三島事件を起こした。唐木順三は﹁現代史への試み﹂で新たな歴史観を示し、評論家の江藤淳はGHQ-WGIPを主張した。進歩派の歴史家・家永三郎は教科書検定制度を検閲とみなし、廃止を求めて教科書裁判を起こした。一方で、教育学者の藤岡信勝や哲学者の西尾幹二らは戦後の歴史教育を自虐史観と批判し、自由主義史観を唱え新しい歴史教科書をつくる会を立ち上げた。しかし、内紛が相次ぎ西尾をはじめ保守系評論家の西部邁や漫画家の小林よしのりらも脱退した。思想の現在[編集]
ポストモダンブーム[編集]
すでにフランス哲学研究者によりフランス現代思想の輸入がされており[注 13]、﹃マルクスその可能性の中心﹄の柄谷行人や﹃反=日本語論﹄の蓮實重彦などが論壇で活躍していたが、浅田彰は﹃構造と力﹄で日本にフランス現代思想を一般向けに紹介し、ニュー・アカデミズム︵ニューアカ︶の端緒を開いた。浅田は企業や大学に偏執するパラノ︵パラノイア︶から逃走し、スキゾ︵統合失調症︶として振る舞うことを説き︵﹃逃走論﹄︶、ポストモダニズムを﹁ノリつつシラけ、シラけつつノる﹂こととしている。その後も彼や栗本慎一郎らニューアカの代表者たちは三浦雅士が編集長を務めた思想誌﹃現代思想﹄を拠点に活動した。宗教学者の中沢新一は現地での修行を通じて体験的にチベット仏教や人類学を論じており、彼の東大教養学部教授就任は教授陣により拒否され、賛成に回った西部邁は辞職した︵東大駒場騒動︶。中沢らは結果的にではあるものの、オウム真理教の宗教活動を評価してしまい、その後起こったオウム事件に際し批判を受けた[注 14]。80年代以降[編集]
柄谷行人は﹃日本文学の起源﹄や﹃探究Ⅰ・Ⅱ﹄、﹃批評とポストモダン﹄、﹃隠喩としての建築﹄など多数の著作があるほかスラヴォイ・ジジェク等との親交もあり、﹃トランスクリティーク﹄や﹃世界史の構造﹄は世界に紹介されている。また、西部忠とともに資本主義も社会主義も越えた第四の経済体制であるアソシエーション運動︵NAM︶を展開したが、失敗に終わった。柄谷に見いだされた東浩紀は﹃存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて﹄によって、ポストモダンの知の更新を図った。2010年にゲンロン株式会社を設立し、日本の文化面での知のあり方の変革を実践している。千葉雅也は、﹃動きすぎてはいけない: ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学﹄を出版し、浅田彰、東浩紀に続き、日本現代思想の代表的論者となっている。哲学では大森荘蔵に学んだ、野家啓一、野矢茂樹、中島義道らや、鷲田清一、永井均などが活躍している。脚注[編集]
注釈[編集]
(一)^ この場合は﹁近現代の日本人による哲学﹂を指すことが多い。
(二)^ 和辻哲郎はこのことを、日本思想の歴史は単線的ではなく、いくつかの山が重なった形で表現されると述べている[1]。
(三)^ この山崎闇斎観はヘルマン・オームスが﹃徳川イデオロギー﹄と呼んだことに繋がる。
(四)^ 三経義疏と十七条憲法を参照。
(五)^ ﹁心や意識を向けたり祈る対象となる仏や仏典を選ぶ段階ですでに問題がある﹂という意味。
(六)^ ﹁法華経に帰依します﹂という意味を含む言葉。﹁題目﹂。それまでの仏教用語で言えば﹁マントラ﹂に当たるようなもの。例えば真言密教では、祈る対象となる仏が非常に多数あり、その時々に意識を向ける仏ごとにマントラが設定されていて、それを繰り返し唱えることで唱える者に結果として様々なことが起きることを意図している。それに対して、日蓮の題目はただひとつで、法華経に焦点を当てている言葉であり、︵ちょうど密教の﹁マントラ﹂が繰り返し唱えることで行者に様々なことが起きることを意図しているように︶題目を繰り返し唱えることで、結果として、それを唱える人の心や行動に様々なことが起きることを意図している。
(七)^ 例えば、地の下に﹁地獄﹂を描いたり、はるかかなたに﹁清らかな浄土﹂があると思い描かせること
(八)^ ﹁あなたが自分の安泰を願っているのなら、まず周囲︵世界︶の平安・平和を祈るべきです﹂ということ。
(九)^ 例えば日蓮の﹃開目抄﹄は、旧約聖書の﹃ヨブ記﹄と並ぶ、受難思想を記した作品の白眉と言われることがある。
(十)^ 日蓮の受難とその思想の関係に言及している文献は非常に多数あるが、一例を挙げるとたとえば﹃法華經と日蓮聖人﹄大東出版社、1985、﹁仏教の思想﹂ 第2巻 梅原猛執筆記事 等々でも受難に対する日蓮の考え方に関する記述がある。
(11)^ 全面戦争と汎アジア主義も参照。
(12)^ 二・二六事件を参照。
(13)^ フランス現代思想の翻訳・研究者として、今村仁司︵ルイ・アルチュセール、ボードリヤール︶、塚原史︵ジャン・ボードリヤール︶、宇波彰︵ジル・ドゥルーズ、ボードリヤール︶、足立和浩︵ジャック・デリダ︶、渡辺一民︵ミシェル・フーコー︶、沢崎浩平︵ロラン・バルト︶らが知られていた。
(14)^ 大澤真幸や宮台真司は社会学的にオウム事件の分析を行っている。