ローマ哲学
ローマ哲学 (ローマてつがく、英: Roman philosophy)[3] すなわち古代ローマにおける哲学は、ギリシア哲学・ヘレニズム哲学の諸派を継承または折衷する形でおこなわれた。
言い換えれば、ローマ哲学はギリシアからの﹁輸入学問﹂に過ぎず[4]、﹁ローマ自家製の哲学﹂は無きに等しかった[2]。また内容についても﹁独創性を欠いた折衷主義﹂などの低評価が与えられてきた[4]。
しかし20世紀末から、ローマ哲学は徐々に再評価されている[4]。例えばキケロ、ルクレティウス、セネカ、セクストス・エンペイリコス、プロティノスらの著作は、ルネサンス期に再発見され、近世哲学の発展を促した。ディオゲネス・ラエルティオス﹃ギリシア哲学者列伝﹄などの主要な学説誌や、最初のプラトン全集とアリストテレス全集、キリスト教哲学が生まれたのも、ローマ哲学においてだった。哲学用語のラテン語への翻訳は、元来ギリシアのローカルな学問に過ぎなかった哲学が、世界的な学問となる一つの契機になった[4]。
特徴[編集]
低評価と再評価[編集]
旧来の哲学史において、ローマ哲学は﹁独創性を欠いた折衷主義﹂﹁実践の偏重と理論の欠如﹂﹁内面に引きこもることによる心の平静の希求[注釈 1]﹂などのイメージによる低評価が与えられてきた[4]。これらはみな根拠がないわけではないが、実態はより複雑とされる[4]。 ローマ哲学に対する低評価は、19世紀ドイツのヘーゲル学派の哲学史家ツェラーやシュベーグラーにより醸成され、ニーチェやハイデガーにも受け継がれた[5]。 一方、ローマ哲学再評価の例として、20世紀末にオックスフォード大学出版局から刊行された論文集 Philosophia togata︵﹃トガを着た哲学﹄、ミリアム・グリフィンとジョナサン・バーンズ編著、1989年・1997年︶がある[4]。また、ケンブリッジ大学出版局刊行の叢書﹃ケンブリッジ・コンパニオン﹄では、ヘレニズム哲学再評価の旗手として知られるA・A・ロング[6]が、ローマ哲学の章を担当している︵2003年︶[7]。その他、セクストス・エンペイリコスの受容史を扱ったリチャード・ポプキン﹃懐疑 近世哲学の源流﹄︵1960年︶[8]や、ルクレティウスの受容史を扱ったスティーヴン・グリーンブラット﹃一四一七年、その一冊がすべてを変えた﹄︵2011年、ピューリッツァー賞・全米図書賞受賞︶[9][10]などがある。学説誌[編集]
ローマ哲学の文献の多くは学説誌の役割も担う[11]。つまり例えば、ヘレニズム期の初期ストア派の学説は、ローマ期のディオゲネス・ラエルティオス、セクストス・エンペイリコス、ガレノス、プルタルコスらの引用や言及のおかげで現代に伝わっている[12]。キケロの著作の数々も、ストア派、アカデメイア派、エピクロス派などの資料になっている[13]。アレクサンドリアのクレメンス﹃ストロマテイス﹄[14]、エウセビオス﹃福音の準備﹄、ラクタンティウス﹃神的教理﹄など、キリスト教哲学者の著作も同様である。ラテン語[編集]
使用言語はギリシア語とラテン語が併存していた[4]。例えば、マルクス・アウレリウスやプルタルコスはギリシア語で、ルクレティウスやキケロはラテン語で哲学書を著した。 しかし、主流はあくまでギリシア語でありラテン語は傍流に過ぎなかった[4]。ルクレティウスは、ラテン語の哲学詩﹃事物の本性について﹄のなかで、ラテン語の哲学語彙の乏しさに言及している[2][15]。キケロは、ラテン語は哲学に不向きであるとする当時の通説に反論し[16]、﹁哲学にラテン語を教え、哲学にローマ市民権を贈る﹂ことを理想に掲げた[17][18]。 キケロはあたかも日本の西周のように、自作の造語を訳語とすることもあった[19]。キケロの訳語のいくつかは、後世のラテン世界の諸言語に継承された。例: ギリシア語の﹁ポイオテース﹂︵ποιότης︶→ キケロのラテン語訳﹁クアリタス﹂︵qualitas︶→ 英語の﹁クオリティ﹂︵quality︶[2][20][21]。なかでも、ギリシア語の﹁ピラントローピアー﹂︵φιλανθρωπία、人間愛︶や﹁パイデイアー﹂︵παιδεία、教育︶からキケロが作り出した﹁フマニタス﹂︵humanitas︶は、彼の思想の核に位置付けられる[22]。これはテレンティウスの格言﹁ホモー・スム﹂︵Homo sum. Humani nil a me alienum puto. 私は人間だ。人間的なもので、私と無関係なものなどないと思う。︶の影響を受けたと思われ、後世の﹁ヒューマニズム﹂の元になったとされる[23]。 プラトンやアリストテレスのラテン語訳が、キケロ、アプレイウス、マリウス・ウィクトリヌス、ボエティウスらにより作られたが[19]、その大半は現存しない。わずかな現存例として、カルキディウス﹃ティマイオス注解﹄やボエティウス﹃命題論注解﹄がある。文献学[編集]
ローマ期には、プラトンやアリストテレスの全集編纂・校訂・注解などの営み、すなわち文献学︵当時は文法学に属する[24]︶も発達した[25]。その背景には、ヘレニズム期以来アレクサンドリアで栄えたアレクサンドリア文献学の存在もあった[26]。 前88年から東方でおこなわれたミトリダテス戦争の戦利品として、スラが持ち帰ったアテナイの富豪アペリコンの蔵書には、アリストテレスの﹃形而上学﹄をはじめとする当時未公開の講義草稿が含まれていた[13][注釈 2]。これを文法学者のテュラニオンが整理した後、ペリパトス派のロドスのアンドロニコスが、最初のアリストテレス全集として編纂した[13]。一方、1世紀初頭のティベリウスに仕えた文法学者アレクサンドリアのトラシュロスは、最初のプラトン全集を編纂した[28]。 3世紀以降の古代末期には、アフロディシアスのアレクサンドロスや上記のカルキディウスらにより、アリストテレス注解・プラトン注解の伝統が確立された[29][30]。歴史[編集]
前2世紀: 哲学伝来[編集]
伝説では、前8世紀の王政ローマ第2代王ヌマが、ピタゴラス︵南イタリアのクロトンを拠点とした︶の教えを学んだとされる[31][32][注釈 3]。しかし年代的に矛盾するため︵ピタゴラスは前6世紀の人物︶、この伝説は古代から疑問視されていた[32]。 哲学が明確に伝来したのは、共和政ローマ後期・ヘレニズム期後期の前155年、アテナイから外交使節として3人の哲学者がローマに来訪したときである[33][34][注釈 4]。その3人とは、アカデメイア派のカルネアデス、ペリパトス派のクリトラオス、ストア派のバビロニアのディオゲネスであり、3人とも当代きっての哲学者だった[33]。とくにカルネアデスは懐疑主義の立場から、正義論を演説した翌日に反正義論を演説する、というパフォーマンスをしてローマ人に衝撃を与えた[35]。これを受けた大カトーは、哲学がローマの若者を堕落させるとして[36]、哲学者の追放を企てた[37][注釈 5]。しかし結局哲学はローマに浸透した[37]。 哲学の浸透を促したのは、前150年代から前130年代頃の小スキピオを中心とする知識人サークル﹁スキピオ・サークル﹂だった[37]。このサークルにはストア派のパナイティオスも属した[37]。前1世紀: 共和政末期[編集]
前88年から東方でおこなわれたミトリダテス戦争の戦火を避けて、ストア派のポセイドニオス︵パナイティオスの弟子︶、アカデメイア派のラリッサのピロン、エピクロス派のピロデモスらがローマに移った[40][41]。同じ頃、キケロとその友人の小カトー、アッティクス、ウァロらが[注釈 6]、ローマや留学先のアテナイで、中期プラトン主義者のアンティオコス︵ラリッサのピロンの弟子︶、ストア派のディオドトス、ペリパトス派のクラティッポスらと交流した[36][43]。キケロの友人ニギディウス・フィグルスは新ピタゴラス主義を興した[31]。 キケロは﹁ローマ最大の哲学者﹂と評される[1]。キケロは特定の学派に属さず、穏健な懐疑主義、あるいはアカデメイア派やストア派を取捨選択する折衷主義の立場をとったが[21][44]、プラトンへの讃美とエピクロス派への批判は一貫していた[44]。キケロは哲学を修辞学や政治実践と統合させることを目指していた[1][45]。キケロの哲学著作に﹃国家について﹄﹃ストア派のパラドックス﹄﹃アカデミカ﹄﹃ホルテンシウス﹄﹃善と悪の究極について﹄﹃トゥスクルム荘対談集﹄﹃神々の本性について﹄﹃運命について﹄﹃老年について﹄﹃友情について﹄﹃義務について﹄などがある。 共和政末期は、ローマにおけるエピクロス派の最盛期でもあった[42]。ルクレティウス[46]、ピロデモス[46]、アマフィニウス[46]、エピクロス派のシロンらがエピクロス派の教説を伝え、キケロの友人アッティクス[42]や、﹁パピルス荘﹂の主人と推定されるカエサルの義父ピソ[42]らに信奉された。 前44年のカエサル暗殺の首謀者たちのなかでも、ブルトゥスがストア派を信奉したのに対し、カッシウスはエピクロス派を信奉していた[47]。カエサル自身もおそらくエピクロス派の教説に通じていた[42]。1-2世紀: 帝政前期[編集]
1世紀から2世紀には、﹁ローマ哲学の代名詞[48]﹂とも言える3人のストア派哲学者、セネカ、エピクテトス、マルクス・アウレリウスが活動した[48][49]。 1世紀には、ネロやドミティアヌスの専政に反対した政治家トラセア・パエトゥスやヘルウィディウス・プリスクスもストア派を信奉した[50]。ネロはセネカを自殺に追いやり、ドミティアヌスはエピクテトス含む哲学者たちに追放令を発したことでも知られる[51]。 この時代はキュニコス派の再燃期でもあり[52]、ペレグリノスやデモナクスが活動した。またキュニコス派とストア派が互いに接近した時期でもあり[53]、セネカに称賛されたキュニコス派のデメトリオスや[53]、エピクテトスの師であるストア派のムソニウス・ルフス[54]、第二次ソフィストのディオン・クリュソストモス[53]にその傾向が見られる。 セネカ﹃倫理書簡集﹄などに言及のあるクイントゥス・セクスティウスやソティオンは、ストア派の倫理学と新ピタゴラス派の菜食主義を折衷したような﹁セクスティウス派﹂を形成した。この学派は唯一﹁ローマ自家製の学派﹂と言い得るが、活動期間が短く、注意を惹くような学派でもない[36]。 マルクス・アウレリウスは皇帝として哲学を庇護し、176年にはプラトン派・ペリパトス派・ストア派・エピクロス派の4学派の教授職をアテナイに設置した[55]。 その他、﹃英雄伝︵対比列伝︶﹄でも知られる中期プラトン主義者のプルタルコスや[48]、﹃食卓の賢人たち﹄のアテナイオス、風刺作家のルキアノス[42]、ラテン語著作家のゲッリウス[36]、ラテン語修辞学者のクインティリアヌスらも、哲学に言及している。3-6世紀: 古代末期・中世初期[編集]
3世紀前期、セウェルス朝の皇后ユリア・ドムナが、新ピタゴラス主義者の伝記﹃テュアナのアポロニオス伝﹄を、第二次ソフィストのピロストラトスに書かせた。ユリア・ドムナは、一説には同時代のディオゲネス・ラエルティオス﹃ギリシア哲学者列伝﹄の献呈相手とされる[56]。
3世紀中期、軍人皇帝ガッリエヌスの寵愛を受けたプロティノスが、新プラトン主義を興した。以降のローマ哲学は、新プラトン主義に収斂していく[57]。ポルピュリオスの﹃反キリスト教論﹄に顕著なように、新プラトン主義は﹁異教の哲学﹂として古代末期のキリスト教と対立したが、一方ではキリスト教と交わることもあった︵新プラトン主義とキリスト教︶。新プラトン主義では、プラトン・アリストテレス・ストア派が折衷された。また、イアンブリコスの﹃エジプト人の秘儀について﹄や﹃ピタゴラス伝﹄に顕著なように、オリエントの思想風土や新ピタゴラス主義も折衷された[57]。イアンブリコス派新プラトン主義には、背教者ユリアヌスや[58]、代表的な女性哲学者ヒュパティアも属した︵古代の女性哲学者自体は他にもいた︶[59]。
4世紀、キリスト教を保護したコンスタンティヌス1世やテオドシウス1世が﹁哲人王﹂と呼ばれる場合もあった[60]。
529年、ユスティニアヌス1世がアテナイの4学派の学園を﹁異教の哲学﹂として閉鎖した[61]。その一つアカデメイアの学頭だった新プラトン主義者ダマスキオスとその弟子シンプリキオスらは、ホスロー1世の庇護を求めてササン朝ペルシアに移ったが、やがてそこからも去り離散した[62]。
6世紀前期、ラテン語で新プラトン主義を伝えたボエティウスは、古来﹁最後のローマ人にして最初のスコラ哲学者﹂と呼ばれる[63]。
ローマ哲学の後は、中世哲学、あるいはビザンツ哲学、イスラム哲学に続く。
後世の影響[編集]
キケロの著作は、古代から近代までラテン世界に影響を与え続けた[64]。とくに﹃義務について﹄は、倫理学の古典としてのみならず、ラテン散文の模範としても受容された[65]。カントの義務論を代表する著作の一つ﹃道徳形而上学原論﹄は、カントと﹃義務について﹄との対話により生まれた著作とも言える[66]。 ラテン世界の中世哲学では、ギリシア語文献よりも、古代末期のラテン語文献が受容された。その例として、カルキディウス﹃ティマイオス注解﹄、マクロビウス﹃スキピオの夢注解﹄、ボエティウス﹃哲学の慰め﹄、ポルピュリオス著・ボエティウス訳﹃エイサゴーゲー﹄などがある。なかでも﹃エイサゴーゲー﹄は、普遍論争の発端となった文献とされる[67]。その他、偽ディオニュシオス文書や、プロクロスに由来する﹃原因論﹄が受容された。 ルネサンス期には、ギリシア語文献とラテン語文献の双方が多く再発見され、近世哲学の発展を促した。例えば、ルクレティウスの﹃事物の本性について﹄は、ポッジョ・ブラッチョリーニによって発見され、ガッサンディらに受容された。セネカの﹃倫理書簡集﹄や﹃怒りについて﹄は、モンテーニュやリプシウスに受容された。セクストス・エンペイリコスの﹃ピュロン主義哲学の概要﹄は、モンテーニュやデカルト、ヒュームに受容された[68]。プロティノス﹃エネアデス﹄やイアンブリコス﹃エジプト人の秘儀について﹄などの新プラトン主義文献は、プラトン・アカデミーやケンブリッジ・プラトン学派に受容された。他分野との関わり[編集]
宗教[編集]
ユダヤ教哲学では、1世紀にアレクサンドリアのピロンが、アレクサンドリア文献学と中期プラトン主義により、ヘブライ語聖書を寓意的に解釈した[69]。 キリスト教哲学では、1世紀に使徒パウロが、アテナイのアレオパゴスでストア派やエピクロス派と討論したとされる︵﹃使徒言行録﹄17:16以下︶[70][71]など、哲学を批判しつつも活用する態度をとった[72]。ギリシア教父やラテン教父もパウロと同様の態度をとり、教父哲学を構築した[72]。 キケロ、セネカ、エピクテトスは、異教の哲学者でありながら、キリスト教徒にも好意的に受容された。とくにセネカは、使徒パウロとの往復書簡が偽作されるほどだった[61]︵セネカとパウロの往復書簡︶。 代表的なラテン教父アウグスティヌスは、キケロ﹃ホルテンシウス﹄を読んで哲学を志し、晩年の﹃アカデメイア派論駁﹄でそのキケロに反駁した[73]。またアウグスティヌスは、マリウス・ウィクトリヌスがラテン語に訳した新プラトン主義の書物を読んで回心への一歩を踏み出した[19]。 グノーシス主義は、中期プラトン主義の影響のもとに形成された[69]。ラテン文学[編集]
ラテン文学は元々、哲学が伝来する前の前3世紀からギリシア文学の影響を受けていた[34]。前168年または前159年には、哲学者で文法学者のマロスのクラテスが、ローマで文学や文法学を講義した[74]。 キケロの著作は後世ラテン散文の模範とされ、セネカの著作はラテン文学白銀期の典型とされた。セネカ﹃倫理書簡集﹄は、ラテン文学において栄えたジャンル﹁書簡文学﹂にも位置付けられる[75]。ルクレティウス﹃事物の本性について﹄は、ラテン文学における最初の﹁教訓叙事詩﹂にも位置付けられ、ウェルギリウス﹃農耕詩﹄にも影響を与えた[76]。 ウェルギリウスとホラティウスは、エピクロス派やストア派からの題材を詩に取り入れている[36]。ペルシウスの﹃風刺詩﹄や、ルカヌスの叙事詩﹃内乱について﹄には、ストア派の影響が見られる[36]。ローマ法[編集]
ローマ法史において、共和政後期の法学は﹁ヘレニズム法学﹂と呼ばれ、正義の概念や演繹・分類の手法などでギリシア哲学から影響を受けたとされる[77]。例えば、鳥占官のスカエウォラ、神官のスカエウォラ、トゥベロらはストア派の影響、セルウィウス・スルピキウス・ルフス、ガイウス・アクィッリウス・ガッルスらはアカデメイア派の影響のもとに法学を扱った[77]。 キケロは﹃法律について﹄で、ストア派の影響を受けつつ、慣習法的な十二表法や不文法的な父祖の遺風を、自然法と一致させることを目指した[78]。その他の分野[編集]
ローマ建築は哲学と関わる。パピルス荘にはエピクロスの庭園、キケロのトゥスクルム荘やハドリアヌスのヴィッラ・アドリアーナにはアカデメイアなどを模した空間が設けられていた[79]。ウィトルウィウス﹃建築書﹄にも哲学への言及がある[80]。 ローマ医学も哲学と関わる。アレクサンドリアからローマに移った医師アスクレピアデスは、エピクロス派の原子論を踏まえた医学を展開した[81]。ガレノスは中期プラトン主義の影響を受けつつ、そのアスクレピアデスやストア派を批判した[81]。ピュロン主義者のセクストス・エンペイリコスは、方法主義学派に対する経験主義学派に所属の医学者でもあった。 ローマ天文学も哲学と関わる。マニリウスの天文学詩﹃アストロノミカ﹄には、ストア派の影響が見られる[76][36]。プトレマイオスは、新ピタゴラス派の同時代人でありながら、ピタゴラス派を批判的に継承して自説を構築した[82]。 新プラトン主義者のプロクロスは、エウクレイデス﹃原論﹄の注釈書や、天文学書﹃天文学的諸理論の概要﹄を著した[83]。関連項目[編集]
- Category:古代ローマの哲学者
- イタリア学派 (ギリシア哲学)
- 時は飛ぶ
- その日を摘め
- メメント・モリ
- ニヒル・アドミラリ
- アルスロンガ、ウィータブレウィス
- リベラル・アーツ
- ウーシア
- ヘルメス主義
- ローマ神話
- 古代ギリシャ・ローマ世界
脚注[編集]
注釈[編集]
(一)^ ストア派の﹁アパテイア﹂、エピクロス派の﹁アタラクシア﹂、ピュロン主義の﹁エポケー﹂などを指す。
(二)^ それまでアリストテレスの著作は、﹃哲学のすすめ﹄などの﹁公開的著作﹂の方が読まれていた。キケロのアリストテレス受容もそのような状況でおこなわれた[27]。
(三)^ キケロ﹃トゥスクルム荘対談集﹄第4巻では、他にも様々なローマ文化にピタゴラス派の影響を見出している[31]。
(四)^ この使節来訪については、キケロ、プルタルコス、ポリュビオスなど多くの資料がある[35]。使節の目的は、アテナイとオロポスの紛争をめぐってローマがアテナイに課した罰金を、減免させることにあった[35]。
(五)^ 当の大カトー自身は、アテナイへの留学経験があり[38]、ギリシア文化全般の教養があった[38]。大カトーが戒めていたのは、ローマ文化を捨ててギリシア文化に盲従してしまうことだった[39]。
(六)^ 小カトーはストア派を信奉[36]、アッティクスはエピクロス派を信奉[42]、ウァロはアンティオコスを信奉した[36]。またウァロの文法学書﹃ラテン語について﹄には、ストア派の音声論の影響も見られる[36]。
出典[編集]
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(77)^ abウルリッヒ・マンテ 著、田中実‥瀧澤栄治 訳﹃ローマ法の歴史﹄ミネルヴァ書房、2008年。ISBN 978-4623052400。59f頁。
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(79)^ 川本悠紀子 著﹁キケロの書簡にみるアテナイの哲学学校と古代ローマの別荘﹂、周藤芳幸 編﹃古代地中海世界と文化的記憶﹄山川出版社、2022年。ISBN 978-4-634-67255-0。351;362f頁。
(80)^ 瀬口昌久﹁建築倫理とウィトルウィウスの3原則﹂﹃技術倫理研究﹄第18号、名古屋工業大学技術倫理研究会、2021年。15-17頁。
(81)^ ab内山2007 &35, p. 35.
(82)^ ファーガソン, キティ 著、柴田裕之 訳﹃ピュタゴラスの音楽﹄白水社、2011年。ISBN 9784560081631。262頁。
(83)^ 田中美知太郎‥水地宗明 著﹁新プラトン主義の成立と展開﹂、田中美知太郎 編﹃世界の名著 続2﹄中央公論社、1976年。61頁。NDLJP:2932126