「フィンセント・ファン・ゴッホ」の版間の差分
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| 被影響芸術家 = [[アントン・モーヴ]]、[[ウジェーヌ・ドラクロワ|ドラクロワ]]、[[アドルフ・モンティセリ|モンティセリ]]、[[ジャン=フランソワ・ミレー|ミレー]]、[[印象派]]、[[ジャポネズリー]]([[浮世絵]]) |
| 被影響芸術家 = [[アントン・モーヴ]]、[[ウジェーヌ・ドラクロワ|ドラクロワ]]、[[アドルフ・モンティセリ|モンティセリ]]、[[ジャン=フランソワ・ミレー|ミレー]]、[[印象派]]、[[ジャポネズリー]]([[浮世絵]]) |
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| 与影響芸術家 = [[ポスト印象派]]、[[世紀末芸術]]、[[フォーヴィスム]]、[[ドイツ表現主義]]、[[アントナン・アルトー]]、[[芥正彦]]など多数 |
| 与影響芸術家 = [[ポスト印象派]]、[[世紀末芸術]]、[[フォーヴィスム]]、[[ドイツ表現主義]]、[[アントナン・アルトー]]、[[芥正彦]]など多数 |
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|name=お夏優子}} |
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'''フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホ'''<ref group="注釈">[[ファン (前置詞)|ファン/ヴァン]]は姓の一部である。ヨーロッパ諸語における発音は様々であり、日本語表記もバリエーションがある。[[オランダ語]]では{{IPA-nl|vɑŋ ˈɣɔχ|lang|Vincent_willem_van_gogh.ogg}}。オランダ・[[ホラント州]]の方言では、vanの"v"が無声化して{{IPA-nl|ˈvɪnsɛnt fɑŋˈxɔx||Nl-Vincent_van_Gogh.ogg}}となる。ゴッホはブラバント地方で育ちブラバント方言で文章を書いていたため、彼自身は、自分の名前をブラバント・アクセントで"V"を有声化し、"G"と"gh"を[[無声硬口蓋摩擦音]]化して{{IPA-nl|vɑɲˈʝɔç|}}と発音していた可能性がある。イギリス英語では{{IPAc-en|ˌ|v|æ|n|_|ˈ|ɡ|ɒ|x}}、場合によって{{IPAc-en|ˌ|v|æ|n|_|ˈ|ɡ|ɒ|f}}と発音し、アメリカ英語では{{IPAc-en|ˌ|v|æ|n|_|ˈ|ɡ|oʊ}}(ヴァンゴウ)とghを発音しないのが一般的である。彼が作品の多くを制作したフランスでは、{{IPA-fr|vɑ̃ ɡɔɡ<sup>ə</sup>|}}(ヴァンサン・ヴァン・ゴーグ)となる。日本語では英語風のヴィンセント・ヴァン・ゴッホという表記も多く見られる。</ref>({{Lang-nl|Vincent Willem van Gogh}}、[[1853年]][[3月30日]] - [[1890年]][[7月29日]])は、[[オランダ]]の[[ポスト印象派]]の[[画家]]。 |
'''フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホ'''<ref group="注釈">[[ファン (前置詞)|ファン/ヴァン]]は姓の一部である。ヨーロッパ諸語における発音は様々であり、日本語表記もバリエーションがある。[[オランダ語]]では{{IPA-nl|vɑŋ ˈɣɔχ|lang|Vincent_willem_van_gogh.ogg}}。オランダ・[[ホラント州]]の方言では、vanの"v"が無声化して{{IPA-nl|ˈvɪnsɛnt fɑŋˈxɔx||Nl-Vincent_van_Gogh.ogg}}となる。ゴッホはブラバント地方で育ちブラバント方言で文章を書いていたため、彼自身は、自分の名前をブラバント・アクセントで"V"を有声化し、"G"と"gh"を[[無声硬口蓋摩擦音]]化して{{IPA-nl|vɑɲˈʝɔç|}}と発音していた可能性がある。イギリス英語では{{IPAc-en|ˌ|v|æ|n|_|ˈ|ɡ|ɒ|x}}、場合によって{{IPAc-en|ˌ|v|æ|n|_|ˈ|ɡ|ɒ|f}}と発音し、アメリカ英語では{{IPAc-en|ˌ|v|æ|n|_|ˈ|ɡ|oʊ}}(ヴァンゴウ)とghを発音しないのが一般的である。彼が作品の多くを制作したフランスでは、{{IPA-fr|vɑ̃ ɡɔɡ<sup>ə</sup>|}}(ヴァンサン・ヴァン・ゴーグ)となる。日本語では英語風のヴィンセント・ヴァン・ゴッホという表記も多く見られる。</ref>({{Lang-nl|Vincent Willem van Gogh}}、[[1853年]][[3月30日]] - [[1890年]][[7月29日]])は、[[オランダ]]の[[ポスト印象派]]の[[画家]]。 |
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なお、オランダ人名の[[ファン (前置詞)|ファン]](van)はミドルネームではなく姓の一部であるため省略しない。 |
なお、オランダ人名の[[ファン (前置詞)|ファン]](van)はミドルネームではなく姓の一部であるため省略しない。 |
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生涯、独身であった<ref>{{Cite news|url=https://president.jp/articles/-/53566?page=1|title=芸術も恋も極端すぎる…結婚願望のあったゴッホの恋愛が悉く失敗に終わった理由|newspaper=PRESIDENT Online|date=2022-01-13|accessdate=2024-03-11}}</ref>。
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== 概要 == |
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ファイル: Vincent Willem van Gogh 076.jpg |『[[夜のカフェ]]』1888年9月、アルル。油彩、キャンバス、70 × 89 cm。[[イェール大学]]美術館([[アメリカ合衆国|米]][[コネチカット州]][[ニューヘイブン (コネチカット州)|ニューヘイブン]])<sup>F 463, JH 1575</sup>。 |
ファイル: Vincent Willem van Gogh 076.jpg |『[[夜のカフェ]]』1888年9月、アルル。油彩、キャンバス、70 × 89 cm。[[イェール大学]]美術館([[アメリカ合衆国|米]][[コネチカット州]][[ニューヘイブン (コネチカット州)|ニューヘイブン]])<sup>F 463, JH 1575</sup>。 |
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ファイル: Gogh4.jpg |『[[夜のカフェテラス]]』1888年9月、アルル。油彩、キャンバス、81 × 65.5 cm。クレラー・ミュラー美術館<ref>{{Cite web |url=https://krollermuller.nl/en/vincent-van-gogh-terrace-of-a-cafe-at-night-place-du-forum-1 |title=Caféterras bij nacht (Place du Forum) |publisher=Kröller-Müller Museum |accessdate=2017-12-14}}</ref><sup>F 467, JH 1580</sup>。 |
ファイル: Gogh4.jpg |『[[夜のカフェテラス]]』1888年9月、アルル。油彩、キャンバス、81 × 65.5 cm。クレラー・ミュラー美術館<ref>{{Cite web |url=https://krollermuller.nl/en/vincent-van-gogh-terrace-of-a-cafe-at-night-place-du-forum-1 |title=Caféterras bij nacht (Place du Forum) |publisher=Kröller-Müller Museum |accessdate=2017-12-14}}</ref><sup>F 467, JH 1580</sup>。 |
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ファイル:Starry Night Over the Rhone.jpg|﹃ |
ファイル:Starry Night Over the Rhone.jpg|﹃[[ローヌ川の星月夜]]﹄1888年9月、アルル。油彩、キャンバス、73 × 92 cm。[[オルセー美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/en/collections/index-of-works/notice.html?no_cache=1&nnumid=078696&cHash=cb71019294 |title=La nuit étoilée |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2017-12-14}}</ref><sup>F 474, JH 1592</sup>。
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ファイル: Van Gogh - Das gelbe Haus (Vincents Haus)2.jpeg |『[[黄色い家]]』1888年9月、アルル。油彩、キャンバス、72 × 91.5 cm。ゴッホ美術館<ref>{{Cite web |url=https://www.vangoghmuseum.nl/en/collection/s0032V1962 |title=The Yellow House (The Street) |publisher=Van Gogh Museum |accessdate=2017-12-14}}</ref><sup>F 464, JH 1589</sup>。 |
ファイル: Van Gogh - Das gelbe Haus (Vincents Haus)2.jpeg |『[[黄色い家]]』1888年9月、アルル。油彩、キャンバス、72 × 91.5 cm。ゴッホ美術館<ref>{{Cite web |url=https://www.vangoghmuseum.nl/en/collection/s0032V1962 |title=The Yellow House (The Street) |publisher=Van Gogh Museum |accessdate=2017-12-14}}</ref><sup>F 464, JH 1589</sup>。 |
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ファイル: VanGogh Bedroom Arles1.jpg |『[[ファンゴッホの寝室|アルルの寝室]]』1888年10月、アルル。油彩、キャンバス、72.4 × 91.3 cm。ゴッホ美術館<ref>{{Cite web |url=https://www.vangoghmuseum.nl/en/collection/s0047V1962 |title=The Bedroom |publisher=Van Gogh Museum |accessdate=2017-12-14}}</ref><sup>F 482, JH 1608</sup>。 |
ファイル: VanGogh Bedroom Arles1.jpg |『[[ファンゴッホの寝室|アルルの寝室]]』1888年10月、アルル。油彩、キャンバス、72.4 × 91.3 cm。ゴッホ美術館<ref>{{Cite web |url=https://www.vangoghmuseum.nl/en/collection/s0047V1962 |title=The Bedroom |publisher=Van Gogh Museum |accessdate=2017-12-14}}</ref><sup>F 482, JH 1608</sup>。 |
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* [https://www.vangoghmuseum.nl/en ゴッホ美術館公式サイト] - {{nl icon}}、{{en icon}}(一部に日本語ページあり) |
* [https://www.vangoghmuseum.nl/en ゴッホ美術館公式サイト] - {{nl icon}}、{{en icon}}(一部に日本語ページあり) |
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* [https://www.routevangogheurope.eu/ja/ フィンセントの人生と作品を発見しよう(ファン・ゴッホ・ヨーロッパ財団)](日本語版へのリンク) |
* [https://www.routevangogheurope.eu/ja/ フィンセントの人生と作品を発見しよう(ファン・ゴッホ・ヨーロッパ財団)](日本語版へのリンク) |
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* {{青空文庫著作者|2126|ファン・ゴッホ フィンセント}} |
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* [https://www.project-archive.org/0/040.html フィンセント・ファン・ゴッホ「若き日の手紙」(式場隆三郎訳)] - ARCHIVE |
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* {{Kotobank|ゴッホ}} |
* {{Kotobank|ゴッホ}} |
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2024年4月22日 (月) 17:28時点における最新版
フィンセント・ファン・ゴッホ Vincent van Gogh | |
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誕生日 | 1853年3月30日 |
出生地 | オランダ・北ブラバント州フロート・ズンデルト |
死没年 | 1890年7月29日(37歳没) |
死没地 | フランス共和国・ヴァル=ドワーズ県オーヴェル=シュル=オワーズ |
墓地 | フランス・ヴァル=ドワーズ県オーヴェル=シュル=オワーズ共同墓地[1] |
墓地座標 | 北緯49度4分30.8秒 東経2度10分43.8秒 / 北緯49.075222度 東経2.178833度 |
国籍 | オランダ |
運動・動向 | ポスト印象派(後期印象派) |
芸術分野 | 絵画 |
教育 |
ブリュッセル王立美術アカデミー(1880年末一時在籍) アントウェルペン王立芸術学院(1886年初頭一時在籍) フェルナン・コルモン画塾(1886年) |
代表作 | 『ジャガイモを食べる人々』、『ひまわり』、『糸杉と星の見える道』、『星月夜』、『カラスのいる麦畑』など |
後援者 | テオドルス(弟) |
影響を受けた 芸術家 | アントン・モーヴ、ドラクロワ、モンティセリ、ミレー、印象派、ジャポネズリー(浮世絵) |
影響を与えた 芸術家 | ポスト印象派、世紀末芸術、フォーヴィスム、ドイツ表現主義、アントナン・アルトー、芥正彦など多数 |
概要[編集]
生涯[編集]
出生、少年時代︵1853年-1869年︶[編集]
グーピル商会(1869年-1876年)[編集]
ハーグ支店[編集]
ロンドン支店[編集]
1873年5月、ファン・ゴッホはロンドン支店に転勤となった[29]。表向きは栄転であったが、実際にはテルステーフやセント伯父との関係悪化、彼の娼館通いなどの不品行が理由でハーグを追い出されたものともいわれている[30]。8月末からロワイエ家の下宿に移った[31]。ヨーの回想録によれば、ファン・ゴッホは下宿先の娘ユルシュラ・ロワイエに恋をし、思いを告白したが、彼女は実は以前下宿していた男と婚約していると言って断られたという。そして、その後彼はますます孤独になり、宗教的情熱を強めることになったという[32]。しかし、この物語には最近の研究で疑問が投げかけられており、ユルシュラは下宿先の娘ではなくその母親の名前であることが分かっている[注釈 8]。ファン・ゴッホ自身は、1881年のテオ宛書簡で﹁僕が20歳のときの恋はどんなものだったか……僕はある娘をあきらめた。彼女は別の男と結婚した。﹂と書いているが[手紙 4]、その相手は、ハーグで親交のあった遠い親戚のカロリーナ・ファン・ストックム=ハーネベーク︵カロリーン︶ではないかという説がある[34]。いずれにしても、彼は、ロワイエ家の下宿を出た後、1874年冬頃から、チャールズ・スポルジョンの説教を聞きに行ったり、ジュール・ミシュレ、イポリット・テーヌの著作、またエルネスト・ルナンの﹃イエス伝﹄などを読み進めたりするうちに、キリスト教への関心を急速に深めていった[35]。パリ本店、解雇[編集]
聖職者への志望(1876年-1880年)[編集]
イギリスの寄宿学校[編集]
ドルトレヒトの書店[編集]
アムステルダムでの受験勉強[編集]
ファン・ゴッホは、ますます聖職者になりたいという希望を募らせ、受験勉強に耐えることを約束して父を説得した[50]。同年3月、アムステルダムのコル叔父や、母の姉の夫ヨハネス・ストリッケル牧師を訪ねて、相談した。コル叔父の仲介で、アムステルダム海軍造船所長官のヤン伯父が、ファン・ゴッホの神学部受験のため、彼を迎え入れてくれることになった。そして、同年5月、ファン・ゴッホはエッテンからアムステルダムに向かい、ヤン伯父の家に下宿し、ストリッケル牧師と相談しながら、王立大学での神学教育を目指して勉学に励むことになった[51]。ストリッケル牧師の世話で、2歳年上のメンデス・ダ・コスタからギリシャ語とラテン語を習った。しかし、その複雑な文法や、代数、幾何、歴史、地理、オランダ語文法など受験科目の多さに挫折を味わった[52]。精神的に追い詰められたファン・ゴッホは、パンしか口にしない、わざと屋外で夜を明かす、杖で自分の背中を打つというような自罰的行動に走った[53]。1878年2月、習熟度のチェックのために訪れた父からは、勉強が進んでいないことを厳しく指摘され、学資も自分で稼ぐように言い渡された[54]。ファン・ゴッホはますます勉強から遠ざかり、アムステルダムでユダヤ人にキリスト教を布教しようとしているチャールズ・アドラー牧師らと交わるうちに、貧しい人々に聖書を説く伝道師になりたいという思いを固めた[55]。ラーケンの伝道師養成学校[編集]
ボリナージュ[編集]
同年︵1878年︶12月、彼はベルギーの炭鉱地帯、ボリナージュ地方︵モンス近郊︶に赴き、プティ=ヴァムの村で、パン屋ジャン=バティスト・ドゥニの家に下宿しながら伝道活動を始めた。1879年1月から、熱意を認められて半年の間は伝道師としての仮免許と月額50フランの俸給が与えられることになった。彼は貧しい人々に説教を行い、病人・けが人に献身的に尽くすとともに、自分自身も貧しい坑夫らの生活に合わせて同じような生活を送るようになり、着るものもみすぼらしくなった[57][58]。しかし、苛酷な労働条件や賃金の大幅カットで労働者が死に、抑圧され、労働争議が巻き起こる炭鉱の町において、社会的不正義に憤るというよりも、﹃キリストに倣いて﹄が教えるように、苦しみの中に神の癒しを見出すことを説いたオランダ人伝道師は、人々の理解を得られなかった[59]。教会の伝道委員会も、ファン・ゴッホの常軌を逸した自罰的行動を伝道師の威厳を損なうものとして否定し、ファン・ゴッホがその警告に従うことを拒絶すると、伝道師の仮免許と俸給は打ち切られた[60]。ブリュッセル[編集]
同年︵1880年︶10月、絵を勉強しようとして突然ブリュッセルに出て行った。そして、運搬夫、労働者、少年、兵隊などをモデルにデッサンを続けた。また、この時、ブリュッセル王立美術アカデミーに在籍していた画家アントン・ファン・ラッパルトと交友を持つようになった[68]。ファン・ゴッホ自身も、ハーグ派の画家ヴィレム・ルーロフスから、本格的に画家を目指すのであればアカデミーに進むよう勧められた[69]。同年11月第1週から、同アカデミーの﹁アンティーク作品からの素描﹂というコースに登録した記録が残っており、実際に短期間出席したものと見られている[70]。また、名前は不明だが、ある画家から短期間、遠近法や解剖学のレッスンを受けていた[71]。オランダ時代[編集]
エッテン︵1881年︶[編集]
ハーグ︵1882年-1883年︶[編集]
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『屋根、ハーグのアトリエからの眺め』1882年、ハーグ。水彩、39 × 55 cm。個人コレクションF 943, JH 156。
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シーンを描いた『悲しみ』1882年4月、ハーグ。素描(黒チョーク)。
ニューネン(1883年末-1885年)[編集]
アントウェルペン(1885年末-1886年初頭)[編集]
パリ(1886年-1888年初頭)[編集]
アルル(1888年-1889年5月)[編集]
ゴーギャン到着まで[編集]
ゴーギャンとの共同生活[編集]
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ゴーギャン『ぶどうの収穫――人間の悲哀』1888年11月。ファン・ゴッホの『赤い葡萄畑』と同時期の作品。
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アルル市立病院[編集]
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﹃包帯をしてパイプをくわえた自画像﹄1889年1月、アルル。油彩、キャンバス、51 × 45 cm。個人コレクションF 529, JH 1658。退院後に担当医らのために描かれた2枚の自画像のうち1枚[218]。
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サン=レミ(1889年5月-1890年5月)[編集]
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『二本の糸杉』1889年6月、サン=レミ。油彩、キャンバス、93.4 × 74 cm。メトロポリタン美術館[233]F 613, JH 1746。
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『オリーブ畑』1889年6月、サン=レミ。油彩、キャンバス、72 × 92 cm。クレラー・ミュラー美術館[234]F 585, JH 1758。
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『プラタナス並木通りの道路工事』1889年12月、サン=レミ。油彩、キャンバス、73.4 × 91.8 cm。クリーブランド美術館[236]F 658, JH 1861。
オーヴェル=シュル=オワーズ(1890年5月-7月)[編集]
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『ピアノを弾くマルグリット・ガシェ』1890年6月、オーヴェル。油彩、キャンバス、102.6 × 50 cm。バーゼル市立美術館F 772, JH 2048。
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死︵1890年7月︶[編集]
ファン・ゴッホの死を報ずる新聞記事︵1890年8月7日︶ ガシェ医師による死の床のファン・ゴッホのスケッチ︵1890年7月 29日︶。﹃木の根と幹﹄、1890年7月、オーヴェル、油彩、キャンバス、5 0 × 100 cm。ファン・ゴッホ美術館 F 816, JH 2113 。 本作をファン・ゴッホの絶筆とする説がある[271]。浮世絵に関心の高いヴァン・ゴッホは最晩年、オーストラリア生まれの画家エドムンド・ウォルポール・ブルックと知り合った。エドムンドはイギリス人の父ジョン・ヘンリー・ブルックがジャパン・デイリー・ヘラルドのディレクター︵1867年から︶で、日本で活動していた[272][注釈 23]。 7月27日の日曜日の夕方、オーヴェルのラヴー旅館に、怪我を負ったファン・ゴッホが帰り着いた。旅館の主人に呼ばれて彼の容態を見たガシェは、同地に滞在中だった医師マズリとともに傷を検討した。傷は銃創であり、左乳首の下、3、4 cmの辺で紫がかったのと青みがかったのと二重の暈に囲まれた暗い赤の傷穴から弾が体内に入り、既に外への出血はなかったという。両名は、弾丸が心臓をそれて左の下肋部に達しており、移送も外科手術も無理と考え、絶対安静で見守ることとした[274]。ガシェは、この日のうちにテオ宛に﹁本日、日曜日、夜の9時、使いの者が見えて、令兄フィンセントがすぐ来てほしいとのこと。彼のもとに着き、見るとひどく悪い状態でした。彼は自分で傷を負ったのです。﹂という手紙を書いた[275]。翌28日の朝、パリで手紙を受け取ったテオは兄のもとに急行した。彼が着いた時点ではファン・ゴッホはまだ意識があり話すことが出来たものの、29日午前1時半に死亡した。37歳没[276]。7月30日、葬儀が行われ、テオのほかガシェ、ベルナール、その仲間シャルル・ラヴァルや、ジュリアン・フランソワ・タンギーなど、12名ほどが参列した[277]。 テオは8月1日、パリに戻ってから妻ヨー宛の手紙に﹁オーヴェルに着いた時、幸い彼は生きていて、事切れるまで私は彼のそばを離れなかった。……兄と最期に交わした言葉の一つは、﹃このまま死んでゆけたらいいのだが﹄だった。﹂と書いている[278]。オーヴェルにあるファン・ゴッホ︵左︶とテオの墓 テオは、同年︵1890年︶8月、兄の回顧展を実現しようと画商ポール・デュラン=リュエルに協力を求めたが、断られたため画廊での展示会は実現せず、9月22日から24日までテオの自宅アパルトマンでの展示に終わった[279][280]一方、9月12日頃、テオはめまいがするなどと体調不良を訴え、同月のある日、突然麻痺の発作に襲われて入院した。10月14日、精神病院に移り、そこでは梅毒の最終段階、麻痺性痴呆と診断されている。11月18日、ユトレヒト近郊の診療所に移送され療養を続けたが、1891年1月25日、兄の後を追うように亡くなり、ユトレヒトの市営墓地に埋葬された[281]。なお、ファン・ゴッホの当初の墓地︵正確な位置は現在は不明︶は15年契約であったため、1905年6月13日、ヨー、ガシェらによって、同じオーヴェルの今の場所に改葬された[282][283]。1914年4月、ヨーがテオの遺骨をこの墓地に移し、兄弟の墓石が並ぶことになった[284]。 ファン・ゴッホはオーヴェルの麦畑付近で拳銃を用いて自殺を図ったとするのが定説だが、現場を目撃した者はおらず、また、自らを撃ったにしては銃創や弾の入射角が不自然な位置にあるという主張もある。2011年にファン・ゴッホの伝記を刊行したスティーヴン・ネイフとグレゴリー・ホワイト・スミスは、地元の少年達との小競り合いの末に、彼らが持っていた銃が暴発し、ファン・ゴッホを誤射してしまったとする説を唱えた。ファン・ゴッホ美術館は﹁新説は興味深いが依然疑問が残る﹂とコメントしている[285][注釈 24]。2016年7月、ファン・ゴッホが自殺に用いたとされる、1960年にオーヴェルの農地から発見された拳銃がファン・ゴッホ美術館にて展示された[288]。病因[編集]
ファン・ゴッホが起こした﹁耳切り事件﹂や、その後も引き続いた発作の原因については、次のようなものを含め、数多くの仮説がある︵数え方により100を超える[289]︶。このうち、てんかんもしくは統合失調症とする説が最も有力である[290]。しかし、医学的・精神医学的見解は混沌としており、確定的診断を下すには慎重であるべきとの指摘がされている[291]。 てんかん説 アルルの病院の上層部による診断は﹁全般的せん妄を伴う急性躁病﹂であったが、若いフェリクス・レー医師だけが﹁一種のてんかん﹂と考え、ファン・ゴッホもその説明に納得している。当時、伝統的に認められてきたてんかんとは別に、発作と発作の間に長い安定期間があり比較的普通の生活を送ることができる類型があること、日光、アルコール、精神的動揺などが発作の引き金となり得ることなどが分かってきていた。ペロン医師も、レーの診断を支持した[292]。 統合失調症説 カール・ヤスパースは、てんかんのうち強直間代発作における典型的症状である強直痙攣が見られないことから、てんかん説に疑問を呈し、統合失調症か麻痺であるとした上で、2年間も発作に苦しみながら判断能力を失わなかったことから見て統合失調症との判定に傾いている[293]。 梅毒性麻痺説 ファン・ゴッホは、アントウェルペン滞在中に梅毒と診断されて水銀剤治療と座浴療法を受けている。ランゲ・アイヒバウムは、﹁急性梅毒性分裂・てんかん様障害﹂との診断を下している[294]。 メニエール病説 メニエール病とは内耳の病気で、ひどい目まい、吐き気、強い耳鳴り、難聴を伴うものである。ファン・ゴッホは﹁目まいに襲われている間、痛みと苦しみの前に自分が臆病者になってしまった思いだ﹂と書いており、こうした手紙の詳細な調査からメニエール病の症状に当てはまるとする研究がある[295]。 アブサン中毒説 ファン・ゴッホはアントウェルペンないしパリ時代からアブサンを多飲していたが、アブサンには原料のニガヨモギに含まれるツジョンという有毒成分があり、振戦せん妄、てんかん性痙攣、幻聴を主症状とするアルコール中毒を引き起こす[296]。サン=レミの精神病院に入院中、ファン・ゴッホが絵具のチューブの中身を飲み込んだことがあるが、これは絵具の溶剤であるテレビン油がツジョンと性質が似ているためであるという意見も発表されている。しかしこれを﹁耳切り事件﹂のような行動と結びつけるには難点もある[297]。ゴッホの手紙の中にアブサンを飲んだという記録はないし、アルルではアブサンはほとんど売られていなかったという指摘もある[298]。 急性間欠性ポルフィリン症説 ポルフィリン誘導体の代謝異常により、間欠的な腹痛、悪心、嘔吐を伴い、光過敏症となり、神経症状を引き起こすとされている、まれな病気である。この説に対しては、遺伝的な説明が不十分との意見もある[299][300]。 孤独な社会的行動、狭い興味関心などの特徴を指摘して、アスペルガー症候群であったとする見解もある[301]。彼の病気と芸術との関係については、発作の合間には極めて冷静に制作していたことから、彼の芸術が﹁狂気﹂の所産であるとはいえないという意見が多い[290]。後世[編集]
1890年代の評価[編集]
ファン・ゴッホの作品については、晩年の1890年1月に﹃メルキュール・ド・フランス﹄誌に発表されたアルベール・オーリエの評論で、既に高く評価されていた。オーリエは、﹁フィンセント・ファン・ゴッホは実際、自らの芸術、自らのパレット、自然を熱烈に愛する偉大な画家というだけではなく、夢想家、熱狂的な信者、美しき理想郷に全身全霊を捧げる者、観念と夢とによって生きる者なのだ。﹂と賞賛している[303]。同時期の他の評論家らによるアンデパンダン展についての記事も、比較的ファン・ゴッホに好意的なものであった[304]。他方、ファン・ゴッホの絵が生前売れたのは、友人の姉アンナ・ボックが400フランで買い取った﹃赤い葡萄畑﹄だけであるとされ、これは一般的に生前の不遇を象徴する事実とみなされている[305][注釈 25]。ただし、これについては、ファン・ゴッホが絵を描いたのは10年に満たず、ちょうど展覧会に出品し始めた時に若くしてこの世を去ったことを考えれば、彼の絵画が成熟してから批評家によって承認されるまでの期間はむしろ短いとの指摘もある[307]。1892年、アムステルダムでのファン・ゴッホ回顧展で、リシャルト ・ロラント=ホルストが描いたカタログの表紙。沈む太陽と、萎れゆくひまわりを通じ、聖人・殉教者としてのゴッホを表現している[308][309]。 ゴッホ死後の1891年2月、ブリュッセルの20人展で遺作の油絵8点と素描7点が展示された。同年3月、パリのアンデパンダン展では油絵10点が展示された。オクターヴ・ミルボーは、このアンデパンダン展について、﹃エコー・ド・パリ﹄紙に﹁かくも素晴らしい天分に恵まれ、誠に直情と幻視の画家がもはやこの世にいないと思えば、大きな悲しみに襲われる。﹂と、ファン・ゴッホを賞賛する文章を描いている[310]。オーリエや他の評論家からもファン・ゴッホへの賞賛が続いた。オーリエは、ファン・ゴッホを同時代における美術の潮流の中に位置付けながら、﹁写実主義者﹂であると同時に﹁象徴主義者﹂であり、﹁理想主義的な傾向﹂を持った﹁自然主義の美術﹂を実践しているという、逆説的な評価を述べている[311]。唯一、シャルル・メルキが1893年に、印象派ら﹁現在の絵画﹂を批判する論文を発表し、その中でファン・ゴッホについて﹁こてに山と盛った黄、赤、茶、緑、橙、青の絵具が、5階から投げ落としたかごの中の卵のように、花火となって飛び散った。……何かを表しているように見えるが、きっと単なる偶然であろう。﹂と皮肉った批評を行ったが、同調する評論家はいなかった[312]。 ヨーは、1892年、アムステルダムでの素描展やハーグでの展覧会を開いたり、画商に絵を送ったりして、ファン・ゴッホの作品を世に紹介する努力を重ね、12月には、アムステルダムの芸術ホール・パノラマで122点の回顧展を実現した[313]。北欧ではファン・ゴッホの受容が比較的早く、1893年3月、コペンハーゲンでゴーギャンとゴッホの展覧会が開かれ、リベラルな新聞に好評を博した[314]。パリの新興の画商アンブロワーズ・ヴォラールも、1895年と1896年に、ゴッホの展覧会を開き、知名度の向上に寄与した[315][316]。 1893年、ベルナールが﹃メルキュール・ド・フランス﹄誌上でゴッホの書簡の一部を公表し、ファン・ゴッホの伝記的事実を伝え始めると、人々の関心が作品だけでなくファン・ゴッホという人物の個性に向かうようになった。1894年、ゴーギャンもファン・ゴッホに関する個人的な回想を発表し、その中で﹁全く、どう考えても、フィンセントは既に気が狂っていた。﹂と書いている[317]。こうして、フランスのファン・ゴッホ批評においては、彼の芸術的な特異性、次いで伝記的な特異性が作り上げられ、賛美されるという風潮が確立した[318]。社会的受容と伝説の流布︵20世紀前半︶[編集]
1900年頃から、今までルノワール、ピサロといった印象派の大家の陰で売れなかったシスレー、セザンヌ、ゴッホらの作品が市場で急騰し始めた。1900年にはファン・ゴッホの﹃立葵﹄が1100フランで買い取られ、1913年には﹃静物﹄が3万5200フランで取引された。さらに1932年にはファン・ゴッホ1点が36万1000フランで落札されるに至った。また、作品の価値の高まりを反映して、1918年頃には既に偽作が氾濫する状態であった。このように、批評家や美術史家のグループを超えて、ファン・ゴッホの絵画は大衆に受け入れられていった。それを助長したのは、彼の伝記の広まり、作品の複製図版の増殖、展覧会や美術館への公衆のアクセスであった[319]。展覧会[編集]
1901年3月には、パリのベルネーム=ジューヌ画廊で65点の油絵が展示され、この展覧会はアンリ・マティス、アンドレ・ドラン、モーリス・ド・ヴラマンクというフォーヴィスムの主要な画家たちに大きな影響を与えた。1905年3月から4月のアンデパンダン展で行われた回顧展も、フォーヴィスム形成に大きく寄与した︵→絵画史的意義︶。 オランダでも、ドルドレヒト、レイデン、ハーグ、アムステルダム、ロッテルダムなど、各地で展覧会が開催され、1905年にはアムステルダム市立美術館で474点という大規模の回顧展が開催された[320]。ヨーはこれらの展覧会について、作品の貸出しや売却を取り仕切った[321]。 ドイツでは、ベルリンの画商パウル・カッシーラーが、フランスの画商らやヨーとのコネクションを築いてファン・ゴッホ作品を取り扱っており、1905年9月以降、ハンブルク、ドレスデン、ベルリン、ウィーンと、各都市を回ってファン・ゴッホ展を開催した[322][280]。ドイツでのファン・ゴッホ人気は他国をしのぎ、第1次世界大戦開戦期には、ドイツは油彩画120点・素描36点という、オランダに次ぐ数の公的・私的コレクションを抱えるに至った[323]。もっとも、ファン・ゴッホを﹁フランス絵画﹂と見て批判する声もあった[324]。1928年にはカッシーラー画廊がベルリンで大規模なファン・ゴッホ展を行ったが、この時、数点の油彩画が偽作であることが判明し、ヴァッカー・スキャンダルが明るみに出た[325]︵→#真贋・来歴をめぐる問題︶。 ロンドンでは、ロジャー・フライが1910年11月、﹁マネとポスト印象派の画家たち﹂と題する展覧会を開き、ファン・ゴッホの油彩画22点も展示したが、イギリスの新聞はこれを冷笑した[326]。 1937年には、パリ万国博覧会の一環として大規模な回顧展が開かれた[327]。 アメリカ合衆国では、1929年、ニューヨーク近代美術館のこけら落とし展覧会で、セザンヌ、ゴーギャン、スーラ、ゴッホの4人のポスト印象派の画家が取り上げられた。後述のストーンの小説でファン・ゴッホの知名度は一気に上がり、1935年に同美術館をはじめとするアメリカ国内5都市でアメリカ最初のファン・ゴッホ回顧展が開催され、合計87万8709人の観客を呼んだ[328]。第1次世界大戦後、世界経済の中心がヨーロッパからアメリカに移るにつれ、アメリカ国内では新しい美術館が次々生まれ、ゴッホ作品を含むヨーロッパ美術が大量に流入していった。ナチス・ドイツの退廃芸術押収から逃れた作品の受入先ともなった[329]。書簡集と伝記の出版[編集]
回顧展の開催、書簡集の出版などファン・ゴッホの知名度向上に努めた、 テオの妻ヨー。しかし、兄弟の物語を美化して広めたとの批判も受ける[330]。 1911年、ベルナールが自分宛のファン・ゴッホの書簡集を出版した。1914年、ヨーが3巻の﹃ファン・ゴッホ書簡集﹄を出版し、その冒頭に﹁フィンセント・ファン・ゴッホの思い出――彼の義妹による﹂を掲載した[331][332][334]。 書簡集の出版後、それを追うように、数多くの伝記、回想録、精神医学的な研究が発表された。そこでは、ファン・ゴッホの人生について、理想化され、精神性を付与され、英雄化されたイメージが作り上げられていった[335]。すなわち、﹁強い使命感﹂、﹁並外れた天才﹂、﹁孤立と実際的・社会的な生活への不適合﹂、﹁禁欲と貧困﹂、﹁無私﹂、﹁金銭的・現世的な安楽への無関心と高貴な精神﹂、﹁同時代人からの無理解・誤解﹂、﹁苦痛に耐えての死︵殉教のイメージ︶﹂、﹁後世における成就﹂といったモチーフが伝記の中で繰り返され、強調されている。これらのモチーフは、キリスト教の聖人伝を構成する要素と同じであることが指摘されている[336]。こうした伝説は、ファン・ゴッホ自身の書簡に記されたキリスト教的信念や、テオの貢献、﹁耳切り事件﹂、自殺といった多彩なエピソードによって強められた[337]。1934年にはアーヴィング・ストーンがLust for Lifeと題する伝記小説︵邦訳﹃炎の人ゴッホ﹄︶を発表し、全米のトップセラーとなった[338]。精神医学的研究[編集]
1920年のビルンバウム︵ドイツ︶による論考に引き続き、1924年フランスで精神医学者ジャン・ヴァンションが、ファン・ゴッホの事例に言及した論文を発表すると、ゴッホの﹁狂気﹂に関する同様の研究が次々発表されるようになった。1940年代初頭までに、1ダースもの異なった診断が提示されるに至った[339]。他方、アントナン・アルトーは、1947年に小冊子﹃ファン・ゴッホ――社会が自殺させし者﹄を発表し、ファン・ゴッホが命を捨てたのは彼自身の狂気の発作のせいではないとした上で、ガシェ医師がゴッホに加えた圧迫、テオが兄のもとを訪れようとしなかったこと、ペロン医師の無能力、ガシェ医師がファン・ゴッホ自傷後に手術をしなかったこと、そしてファン・ゴッホを死に追いやった社会全体を告発している[340]。大衆文化への取込み︵20世紀後半︶[編集]
第2次世界大戦後、ファン・ゴッホは大部数の伝記、映画、芝居、バレエ、オペラ、歌謡曲、広告、あらゆるイメージ︵作品の複製、模作、ポスター、絵葉書、Tシャツ、テレフォンカード等︶で取り上げられ、大衆文化に取り込まれていった[341]。他方で、L.ローランドは、1959年の著作の中で、テオの妻ヨーが、ゴッホ書簡集を出版した際、テオのフィンセントへの愛情と献身という物語にとって不都合な部分は削るなどの作為を加えていることを明らかにし、アルトーに引き続いて、ファン・ゴッホをめぐる伝説に疑問を投げかけた[330]。 1970年代、ヤン・フルスケルがファン・ゴッホの日付のない手紙の配列について研究を進め、今まで伝えられてきた多くのエピソードに疑問を投げかけた[342]。1984年、ニューヨークのメトロポリタン美術館が、﹁アルルのファン・ゴッホ﹂展を開催し、学芸員ロナルド・ピックヴァンスによる徹底的な研究に基づいたカタログを刊行した。1987年には、続編となる﹁サン=レミとオーヴェルのファン・ゴッホ﹂展を開催した。これらは、不遇と精神病のイメージに彩られた伝説を排除し、歴史的に正確なファン・ゴッホ像を確立しようとする動きの到達点を示すものであった[343]。同様のゴッホ展は各国で開催され、没後100年に当たる1990年には、ファン・ゴッホ美術館が回顧展を開催した[344]。映画[編集]
映画﹃炎の人ゴッホ﹄を主演した時のカーク・ダグラス︵1955年︶。 1990年のカタログによれば、1948年から1990年までの間にファン・ゴッホを題材としたドキュメンタリーおよびフィクションの映像作品は合計82本に上り、近年では年間10本も制作されている[345]。劇場公開された代表的な作品としては次のようなものがある。 ●﹃ファン・ゴッホ﹄︵1948年、フランス︶ アラン・レネ監督の短編映画︵日本では劇場未公開︶。 ●﹃炎の人ゴッホ﹄︵Lust for Life, 1955年、アメリカ︶ 監督ヴィンセント・ミネリ、出演カーク・ダグラス。ゴッホの伝記映画の中では最も有名な作品で﹁周囲の無理解にもかかわらず情熱をもって独自の芸術を追求した狂気の天才画家﹂という通俗的なファン・ゴッホのイメージを定着させるのに決定的な役割を果たした。ゴーギャンを演じたアンソニー・クインがアカデミー助演男優賞を受賞。 ●﹃ゴッホ﹄︵Vincent & Theo, 1990年、アメリカ︶ 監督ロバート・アルトマン、出演ティム・ロス。神話化されたファン・ゴッホの物語の脱構築を目指した作品で、いくぶん脚色されているとはいえ比較的史実に近い。画家は、他の作品に比べれば感情を抑えた冷静で分析的な性格として描かれている。原題が示すように弟のテオにもスポットが当てられている。 ●﹃夢﹄︵Dreams, 1990年、日本・アメリカ︶ 監督黒澤明。八つのエピソードのうちの一つ﹁鴉﹂が、主人公の日本人がファン・ゴッホの絵画世界の中に入り込んで本人に出会う夢話となっている。ファン・ゴッホを演じたのは映画監督のマーティン・スコセッシ。 ●﹃ヴァン・ゴッホ ﹄︵Van Gogh, 1991年、フランス︶ 監督モーリス・ピアラ。ゴッホの最晩年、オーヴェル=シュル=オワーズにおける2カ月の生活を描く。医師ガシェの娘マルグリットとの関係なども描かれ、快活で人間味のあるゴッホが描かれている。 ●﹃ゴッホ 最期の手紙﹄︵Loving Vincent, 2017年、イギリス・ポーランド合作︶ 監督ドロタ・コビエラ、ヒュー・ウェルチマン。全編が、ゴッホの油絵タッチで描かれたアニメーション映画。俳優の演じた実写映像をもとにしている。ゴッホの死後に周囲の人物が自分たちのゴッホ像を語る形式なのでそのキャラクターは判然としない。第30回ヨーロッパ映画賞長編アニメ映画賞受賞。 ●﹃永遠の門 ゴッホの見た未来﹄︵At Eternity's Gate, 2018年、アメリカ合衆国、イギリス、フランス合作︶ 監督ジュリアン・シュナーベル。ゴッホをウィレム・デフォーが演じている。デフォーは本作の演技でヴェネツィア国際映画祭男優賞を受賞した。本作のゴッホは浮世離れした感性の鋭い芸術家として描かれている。作品の高騰[編集]
第一次世界大戦後には、前述のようにファン・ゴッホ作品の評価が確立し、1920年代から1930年代の最高価格は4000ポンド台となり、ルノワールに肉薄するものとなった。第二次世界大戦後は、近代絵画全体の価格水準が高騰するとともに、ファン・ゴッホ作品も従来の10倍ないし100倍となり、ルノワールと肩を並べた[346]。1970年には﹃糸杉と花咲く木﹄が130万ドルで取引されるなど100万ドルを超えるものが出て、1970年代には美術市場に君臨するようになった。1980年、﹃詩人の庭﹄がクリスティーズで520万ドル︵約12億円︶という、30号の作品としては異例の高額で落札された[347]。この時期は、記録破りの落札価格が普通になり、サザビーズやクリスティーズといったオークション・ハウスが美術市場を支配することがはっきりした時代であった[348]。 さらに1980年代にはオークションの高値記録が次々更新されるようになった[349]。1988年2月4日付﹁リベラシオン﹂紙は、﹁昨年︵1987年︶3月30日、ロンドンのクリスティーズにて日本の安田火災︵安田火災海上、現損害保険ジャパン︶がひまわりを3630万ドル[注釈 26]︵約58億円︶で落札した[注釈 27]瞬間、心理的な地震のようなものが記録された。……またアイリスは、︵同年︶11月11日に、ニューヨークのサザビーズで5390万ドルで落札された。﹂と取り上げている[352]。日本のバブル景気であふれたマネーが円高に支えられて欧米美術品市場に流入し、特に﹃ひまわり﹄の売立ては、市場の構造を根本から変化させ、印象派以降の近代美術品の価格を高騰させた[353]。 さらに、1990年5月15日には、ニューヨークのクリスティーズで齊藤了英が﹃医師ガシェの肖像﹄を8250万ドル︵約124億5000万円︶で落札し[354][注釈 28]、各紙で大々的に報じられた[349]。この作品は、ヨーによって1898年頃にわずか300フランで売却されたと伝えられるものである[356]。この落札は、1980年代末から90年代初頭にかけての日本人バイヤーブームを象徴する高額落札となった[357]。反面、こうした動きに欧米メディアは批判的で、齊藤が作品を﹁死んだら棺桶に入れて燃やすように言っている﹂と発言したことも非難を浴びた[358]。 ファン・ゴッホの油絵作品は約800点であるが、パリ以前と以後では価格に少なからぬ差異があり、主題によっても異なる。高い人気に対して名品が比較的少ないことが高値の原因となっている[359]。 ファン・ゴッホの作品のうち、特に高額な取引として有名な例は次のとおりである[354]。作品名 画像 F JH 競売日 価格(米ドル) ひまわり(15本のひまわり) 457 1666 1987年3月30日 3950万ドル[注釈 26] アイリス 608 1691 1987年11月11日 5390万ドル 医師ガシェの肖像 753 2007 1990年5月15日 8250万ドル[注釈 28] 自画像(あごひげのないもの) 525 1665 1998年11月19日 7150万ドル アルルの女 (ジヌー夫人) 543 1895 2006年5月2日 4030万ドル[360] 日本での受容[編集]
1910年︵明治43年︶、森鷗外が﹃スバル﹄誌上の﹁むく鳥通信﹂でファン・ゴッホの名前に触れたのが、日本の公刊物では最初の例であるが[361]、ファン・ゴッホを日本に本格的に紹介したのは、武者小路実篤らの白樺派であった。1910年に創刊された﹃白樺﹄は、文学雑誌ではあったが、西洋美術の紹介に情熱を燃やし、マネ、セザンヌ、ゴーギャン、ファン・ゴッホ、ロダン、マティスなど、印象派からポスト印象派、フォーヴィスムまでの芸術を、順序もなく一気に取り上げた[362]。第1年︵1910年︶11月号には斎藤与里による最初の評論が掲載[363]、第2年︵1911年︶2月号からは児島喜久雄訳の﹁ヴィンツェント・ヴァン・ゴォホの手紙﹂が掲載され、第3年︵1912年︶11月号には﹁ゴオホ特集﹂が掲載された[362]。特集号には、多くの作品の写真版、阿部次郎の訳したヨーによる回想録、武者小路や柳宗悦の寄稿などが掲載された[364][注釈 29]。そして、1920年︵大正10年︶3月には、白樺美術館第1回展が開催され、大阪の実業家山本顧彌太に購入してもらったファン・ゴッホの﹃ひまわり﹄が展示された[366][367][注釈 30]。白樺派は、西欧よりも早く、かつ全面的にゴッホ神話を作り上げたが、彼らはファン・ゴッホの画業を語ることはなく、専らその人間的偉大さを賛美していたことが特徴的である[370][注釈 31]。他方、画壇でも、1912年︵大正2年︶に第1回ヒュウザン会展を開催した岸田劉生ら若手画家たちが、ファン・ゴッホやセザンヌに傾倒していた[372]。もっとも、岸田は間もなくファン・ゴッホと決別し、他の多くの画家も同じ道をたどった[373]。 1925年、日本美術協会主催でフランス現代美術展覧会が開催。出品作にはゴッホの﹃裸体﹄︵出典ママ︶が含まれていたが、警視庁による事前検閲で﹁善良な風紀を紊す恐れがある﹂との指摘を受け、公開は控えられた[374]。 以降、第2次世界大戦前の日本で、海外からのファン・ゴッホの展覧会はなかったが、多くのファン・ゴッホ関連出版物が出され[注釈 32]、ゴッホ熱は高まった。1920年代から1930年代にかけてパリに留学する画家等が急増すると、佐伯祐三や高田博厚らはゴッホ作品を見るべくオーヴェルのガシェ家を続々と訪問し、その芳名帳に名を連ねている[375][注釈 33]。1927年から1930年代にかけて、斎藤茂吉や式場隆三郎がゴッホの病理についての医学的分析を発表した[377]。 戦後は、ファン・ゴッホ複製画の展覧会を見て衝撃を受けたという小林秀雄が、1948年﹁ゴッホの手紙﹂を著した[378]。劇団民藝代表の滝沢修が、1951年から生涯にわたり、世間の無理解と戦う悲劇的な人生を描いた新劇作品﹃炎の人 ヴァン・ゴッホの生涯﹄︵三好十郎脚本︶を公演したことも、日本でのファン・ゴッホの認識に大きな影響を与えた[379]。1958年に初めて東京国立博物館と京都市美術館で素描70点、油彩60点から成る本格的なファン・ゴッホ展が開催され、日本のゴッホ熱はさらに高まった。2011年現在、27点の油彩・水彩作品が日本に収蔵されているとされる[380]。手紙[編集]
詳細は「フィンセント・ファン・ゴッホの手紙」を参照画家としてのファン・ゴッホを知る上で最も包括的な一次資料が、自身による多数の手紙である。手紙は、作品の制作時期、制作意図などを知るための重要な資料ともなっている[381]。ゴッホ美術館によれば、現存するファン・ゴッホの手紙は、弟テオ宛のものが651通、その妻ヨー宛のものが7通あり、画家アントン・ファン・ラッパルト、エミール・ベルナール、妹ヴィレミーナ・ファン・ゴッホ︵通称ヴィル︶などに宛てたものを合わせると819通になる。一方、ファン・ゴッホに宛てられた手紙で現存するものが83通あり、そのうちテオあるいはテオとヨー連名のものが41通ある[382]。 テオ宛の書簡は、ヨーにより1914年に﹁書簡集﹂が刊行され、この﹁書簡集﹂およびヨーが巻頭に記した回想解説をもとに、あらゆる伝記、小説、伝記映画でのゴッホ像は形成された。ただしこの﹁書簡集﹂は、手紙の順序や日付が間違っている場合があることが研究者によって指摘されており、ヨーが人名をイニシャルに変えたり、都合の悪い箇所を飛ばしたり、インクで塗りつぶしたりした形跡もある[383]。 1952年から1954年にかけ、ヨーの息子フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホが、テオ宛の書簡だけでなく、ベルナールやラッパルト宛のものや、ファン・ゴッホが受け取ったものも網羅した完全版﹁書簡全集﹂をオランダで出版し、日本語訳も含め各国で翻訳された[384]。 2009年秋ゴッホ美術館が15年をかけ、決定版といえる﹁書簡全集﹂を刊行した。ここでは、天候の記録や郵便配達日数などあらゆる情報をもとに、日付の書かれていない手紙の日付の特定が行われ、旧版の誤りが訂正されている。また、手紙で触れられている作品、人物、出来事に詳細な注が付されている。同時にウェブ版も無料公開されている[383][385]。作品[編集]
カタログ[編集]
「フィンセント・ファン・ゴッホの作品一覧」も参照ファン・ゴッホは、1881年11月から死を迎える1890年7月まで、約860点の油絵を制作した[386]。生前はほとんど評価されなかったが、死後、﹃星月夜﹄、﹃ひまわり﹄、﹃アイリス﹄、﹃アルルの寝室﹄など、多くの油絵の名作が人気を博することになった[387]。油絵のほか、水彩画150点近くがあるが、多くは油絵のための習作として描かれたものである[388][389]。素描は1877年から1890年まで1000点以上が知られている。鉛筆、黒チョーク、赤チョーク、青チョーク、葦ペン、木炭などが用いられ、これらが混用されることもある[390][391]。 今日、ファン・ゴッホの作品は世界中の美術館で見ることができる。その中でもアムステルダムのゴッホ美術館には﹃ジャガイモを食べる人々﹄、﹃花咲くアーモンドの木の枝﹄、﹃カラスのいる麦畑﹄などの大作を含む200点以上の油絵に加え、多くの素描、手紙が集まっている[392]。これは、ヨーがテオから受け継いで1891年4月にパリからアムステルダムに持ち帰った作品270点が元になっている[393]。アムステルダム近郊のオッテルローには、熱心なコレクター、ヘレーネ・クレラー=ミュラーが1938年オランダ政府に寄贈して設立されたクレラー・ミュラー美術館があり、﹃夜のカフェテラス﹄などの名作を含む油彩画91点、素描180点超が収蔵されている[394][395]。 ファン・ゴッホ作品のカタログ・レゾネ︵作品総目録︶を最初にまとめたのがジャコブ=バート・ド・ラ・ファイユであり、1928年、全4巻をパリとブリュッセルで刊行した。ド・ラ・ファイユは、その後の真贋問題を経て附録や1939年補訂版を出すなど、1959年に亡くなるまで補訂作業を続けた。1962年、オランダ教育芸術科学省の諮問によってド・ラ・ファイユの原稿の完成版を刊行するため委員会が組織され、10年をかけて決定版が刊行された[396]。ここでは作品にF番号が付けられている。また、1980年代にヤン・フルスケルが全作品カタログを編纂し、1996年に改訂された。こちらにはJH番号が付されている。F番号は最初に油絵、次いで素描と水彩画を並べているのに対し、JH番号は全ての作品を年代順に並べている。F番号の末尾にrとある場合は、1枚のキャンバス・紙の両面に描かれている場合の表面、vとあるのは裏側の絵を指す。JH番号は表・裏のそれぞれに固有の番号が付されている[397]。 フルスケルのカタログに掲載された油絵を時期とジャンルで分けると、概ね次のようになる[398][注釈 34]。時期 人物画 自画像 風景画 静物画 模写 その他 合計 エッテン 0 0 0 1 0 0 1 ハーグ 9 0 14 0 0 2 25 ドレンテ 2 0 5 0 0 0 7 ニューネン 97 0 48 41 0 2 188 アントウェルペン 4 0 2 0 0 1 7 パリ 22 28 79 80 3 13 225 アルル 49 6 105 29 0 0 189 サン=レミ 13 3 78 9 20 2 125 オーヴェル 15 0 52 13 0 1 81 合計 211 37 383 173 23 21 848 真贋・来歴をめぐる問題[編集]
前述のようにファン・ゴッホが死後有名になるにつれ、贋作も氾濫するようになった。ファン・ゴッホの作品の多くは、彼の死後テオが受け継ぎ、その後ヨー、そして子ヴィレムに相続された。しかし、ファン・ゴッホが人に譲ったり転居の際に置き去りにしたりして記録に残っていない作品があること、ファン・ゴッホ自身が同じ構図で何度も複製︵レプリカ︶を制作していることなどが、真偽の判断を難しくしている[399]。1927年、ベルリンのオットー・ヴァッカー画廊が33点のファン・ゴッホ作品を展示し、これらはド・ラ・ファイユの1928年のカタログにも収録されたが、その後、偽作であることが判明し、ヴァッカーは有罪判決を受けるというスキャンダルが起こった[400]。この裁判ではX線鑑定が証拠とされたが、1880年代と同じキャンバス、絵具等を入手可能だった20世紀初頭の贋作に対しては決め手とならない場合もある[399]。ほかにも初期の収集家だったエミール・シェフネッケルやガシェ医師が贋作に関与したとの疑いもあり、1997年にロンドンの美術雑誌が行った特集によれば、著名なものも含め100点以上の作品に偽作の疑いが投げかけられているという[401]。他方、長年偽作とされていた﹃モンマジュールの夕暮れ﹄は、2013年、ファン・ゴッホ美術館の鑑定で真作と判定された[402]。 また、史上最高価格で落札された﹃医師ガシェの肖像﹄については、1999年の調査で、ナチス・ドイツのヘルマン・ゲーリングが1937年にフランクフルトのシュテーデル美術館から略奪し売却したものであることが明らかになった。このような来歴を隠したままオークションにかけられていたことは、美術市場に大きな問題を投げかけた[403]。作風[編集]
初期[編集]
ファン・ゴッホは、画家を志した最初期は、版画やデッサン教本を模写するなど、専ら素描を練習していたが、1882年にハーグに移ってからアントン・モーヴの手ほどきで本格的に水彩画を描くようになり、さらに油絵も描き始めた[404]。初期︵ニューネン時代︶の作品は、暗い色調のもので、貧農たちの汚れた格好を描くことに関心が寄せられていた[405]。特にジャン=フランソワ・ミレーの影響が大きく、ゴッホはミレーの﹃種まく人﹄や﹃麦刈る人﹄の模写を終生描き続けた[406]。 当初から早描きが特徴であり、生乾きの絵具の上から重ね塗りするため、下地の色と混ざっている。伝統的な油絵の技法から見れば稚拙だが、このことが逆に独特の生命感を生んでいる。夕暮れに急かされ、絵具をチューブから直接画面に絞り出すこともあった[407]。印象派と浮世絵の影響︵パリ︶[編集]
﹃アニエールのレストラン﹄1887年夏、パリ。印象派の強い影響が 見られる[408]。 しかし、1886年、パリに移り住むと、ファン・ゴッホの絵画に一気に新しい要素が流れ込み始めた。当時のパリは印象派や新印象派が花ざかりであり、ファン・ゴッホは画商のテオを通じて多くの画家と親交を結びながら、多大な影響を受けた[409]。自分の暗いパレットが時代遅れであると感じるようになり、明るい色調を取り入れながら独自の画風を作り上げていった[405]。パリ時代には、新印象派風の点描による作品も描いている。もっとも、ファン・ゴッホが明るい色調を取り入れて描いた印象派風作品においても、印象派の作品のような澄んだ色彩はない。クロード・モネが﹃ルーアン大聖堂﹄の連作で示したように、印象派がうつろいゆく光の効果をキャンバスにとらえることを目指したのに対し、ファン・ゴッホは﹁僕はカテドラルよりは人々の眼を描きたい。カテドラルがどれほど荘厳で堂々としていようと、そこにない何かが眼の中にはあるからだ。﹂と書いたとおり、印象派とは描こうとしたものが異なっていた[410][手紙 39]。﹃種まく人﹄1888年11月、アルル。前景の木と遠景の対比は、パリ 時代に模写した広重の﹁亀戸梅屋舗﹂の影響が見られる[411][412]。 また、ゴッホはパリ時代に数百枚に上る浮世絵を収集し、3点の油彩による模写を残している。日本趣味︵ジャポネズリー︶はマネ、モネ、ドガから世紀末までの印象派・ポスト印象派の画家たちに共通する傾向であり、背景には日本の開国に見られるように、活発な海外貿易や植民地政策により、西欧社会にとっての世界が急速に拡大したという時代状況があった。その中でもファン・ゴッホやゴーギャンの場合は、異国的なものへの憧れと、新しい造形表現の手がかりとしての意味が一つになっていた点に特徴がある[413]。ファン・ゴッホは、﹁僕らは因習的な世界で教育され働いているが、自然に立ち返らなければならないと思う。﹂と書き、その理想を日本や日本人に置いていた[414][手紙 40]。このように、制度や組織に縛られないユートピアへの憧憬を抱き、特定の﹁黄金時代﹂や﹁地上の楽園﹂に投影する態度は、ナザレ派、ラファエル前派、バルビゾン派、ポン=タヴァン派、ナビ派と続く19世紀のプリミティヴィスムの系譜に属するものといえる[415]。一方、造形的な面においては、ファン・ゴッホは、浮世絵から、色と形と線の単純化という手法を学び、アルル時代の果樹園のシリーズや﹁種まく人﹂などに独特の遠近法を応用している[416]。1888年9月の﹃夜のカフェ﹄では、全ての線が消失点に向かって収束していたのに対し、10月の﹃アルルの寝室﹄では、テーブルが画面全体の遠近法に則っていないほか、明暗差も抑えられるなど、立体感が排除され、奥行きが減退している[417]。アルル時代前半に見られる明確な輪郭線と平坦な色面による装飾性は、同じく浮世絵に学んだベルナールらのクロワゾニスムとも軌を一にしている[418]。激しいタッチと色彩(アルル)[編集]
単純で平坦な色面を用いて空間を表現しようとする手法は、クロー平野を描いた安定感のある﹃収穫﹄などの作品に結実した。しかし、同じアルル時代の1888年夏以降は、後述の補色の使用とともに荒いタッチの厚塗りの作品が増え、印象派からの脱却とバロック的・ロマン主義的な感情表出に向かっている[419]。ファン・ゴッホは、﹁結局、無意識のうちにモンティセリ風の厚塗りになってしまう。時には本当にモンティセリの後継者のような気がしてしまう。﹂と書き、敬愛するモンティセリの影響に言及している[420][手紙 41]。図柄だけではなく、マティエール︵絵肌︶の美しさにこだわるのはファン・ゴッホの作品の特徴である[421]。色相環 ファン・ゴッホの表現を支えるもう一つの要素が、補色に関する色彩理論であった。赤と緑、紫と黄のように、色相環で反対の位置にある補色は、並べると互いの色を引き立て合う効果がある。ファン・ゴッホは、既にオランダ時代にシャルル・ブランの著書を通じて補色の理論を理解していた[422][注釈 35]。アルル時代には、補色を、何らかの象徴的意味を表現するために使うようになった。例えば、﹁二つの補色の結婚によって二人の恋人たちの愛を表現すること﹂[手紙 42] を目指したと書いたり、﹃夜のカフェ﹄において、﹁赤と緑によって人間の恐ろしい情念を表現しよう﹂[手紙 43] と考えたりしている[424]。同じアルル時代の﹃夜のカフェテラス﹄では、黄色系と青色系の対比が美しい効果を生んでいる[425]。渦巻くタッチ︵サン=レミ︶[編集]
サン=レミ時代の﹃自画像﹄背景に現れる渦巻くタッチ。 サン=レミ時代には、さらにバロック的傾向が顕著になり、﹁麦刈る人﹂のような死のイメージをはらんだモチーフが選ばれるとともに、自然の中に引きずり込まれる興奮が表現される。その筆触には、点描に近い平行する短い棒線︵ミレー、レンブラント、ドラクロワの模写や麦畑、オリーブ畑の作品に見られる︶と、柔らかい絵具の曲線が渦巻くように波打つもの︵糸杉、麦刈り、山の風景などに見られる︶という二つの手法が使われている。色彩の面では、補色よりも、同一系統の色彩の中での微妙な色差のハーモニーが追求されている[426]。渦巻くタッチは、ファン・ゴッホ自身の揺れ動く心理を反映するものといえる。また、一つ一つのタッチが寸断されて短くなっているのは、早描きを維持しながら混色を避けるために必要だったと考えられる[427]。キャンバスの布地が見えるほど薄塗りの箇所も見られるようになる[428]。絵画史的意義[編集]
「西洋美術史」も参照ファン・ゴッホは、ゴーギャン、セザンヌ︵後期︶、オディロン・ルドンらとともに、ポスト印象派︵後期印象派︶に位置付けられている。ポスト印象派のメンバーは、多かれ少なかれ印象派の美学の影響の下に育った画家たちではあるが、その芸術観はむしろ反印象派というべきものであった[429]。 ルノワールやモネといった印象派は、太陽の光を受けて微妙なニュアンスに富んだ多彩な輝きを示す自然を、忠実にキャンバスの上に再現することを目指した。そのために絵具をできるだけ混ぜないで明るい色のまま使い、小さな筆触︵タッチ︶でキャンバスの上に並置する﹁筆触分割﹂という手法を編み出し、伝統的な遠近法、明暗法、肉付法を否定した点で、アカデミズム絵画から敵視されたが、広い意味でギュスターヴ・クールベ以来の写実主義を突き詰めようとするものであった[430]。これに対し、ポスト印象派の画家たちは、印象派の余りに感覚主義的な世界に飽きたらず、別の秩序を探求したといえる[431]。ゴーギャンやルドンに代表される象徴主義は、絵画とは単に眼に見える世界をそのまま再現するだけではなく、眼に見えない世界、内面の世界、魂の領域にまで探求の眼を向けるところに本質的な役割があると考えた[432]。ファン・ゴッホも、ゴーギャンやルドンと同様、人間の心が単に外界の姿を映し出す白紙︵タブラ・ラーサ︶ではないことを明確に意識していた[433]。色彩によって画家の主観を表出することを絵画の課題ととらえる点では、ドラクロワのロマン主義を継承するものであった[434]。ファン・ゴッホは、晩年3年間において、赤や緑や黄色といった強烈な色彩の持つ表現力を発見し、それを、悲しみ、恐れ、喜び、絶望などの情念や人間の心の深淵を表現するものとして用いた[435]。彼自身、テオへの手紙で、﹁自分の眼の前にあるものを正確に写し取ろうとするよりも、僕は自分自身を強く表現するために色彩をもっと自由に使う。﹂と宣言し、例えば友人の画家の肖像画を描く際にも、自分が彼に対して持っている敬意や愛情を絵に込めたいと思い、まずは対象に忠実に描くが、その後は自由な色彩家になって、ブロンドの髪を誇張してオレンジやクロム色や淡いレモン色にし、背景も実際の平凡な壁ではなく一番強烈な青で無限を描くと述べている[436][手紙 44]。別の手紙でも、﹁二つの補色の結婚によって二人の恋人たちの愛を表現すること。……星によって希望を表現すること。夕日の輝きによって人間の情熱を表現すること。それは表面的な写実ではないが、それこそ真に実在するものではないだろうか。﹂と書いている[手紙 42]。 こうした姿勢は既に20世紀初頭の表現主義を予告するものであった。1890年代、ファン・ゴッホ、ゴーギャンやセザンヌといったポスト印象派の画家は一般社会からは顧みられていなかったが、若い画家たちの感受性に強く訴えかける力を持ち、ナビ派をはじめとする彼ら世紀末芸術の画家は、印象派の感覚主義に反発して﹁魂の神秘﹂の追求へ向かった。その流れは20世紀初頭のドイツ、オーストリアにおいて感情の激しい表現や鋭敏な社会的意識を特徴とするドイツ表現主義に受け継がれ、表現主義の画家たちは、ファン・ゴッホや、フェルディナント・ホドラー、エドヴァルド・ムンクなどの世紀末芸術の画家に傾倒した[437]。エミール・ノルデやエルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナーら多くのドイツ・オーストリアの画家が、ファン・ゴッホの色彩、筆触、構図を採り入れた作品を残しており、エゴン・シーレやリヒャルト・ゲルストルなど、ファン・ゴッホの作品だけでなくその苦難の人生に自分を重ね合わせる画家もいた[438]。同様の表現主義的傾向は同時期のフランスではフォーヴィスムとして現れたが、その形成に特に重要な役割を果たしたのが、色彩と形態によって内面の情念を表現しようとしたファン・ゴッホであった。1901年にファン・ゴッホの回顧展を訪れたモーリス・ド・ヴラマンクは、後に、﹁自分はこの日、父親よりもファン・ゴッホを大切に思った。﹂という有名な言葉を残しており、伝統への反抗精神にあふれた彼が公然と影響を認めたのはファン・ゴッホだけであった。彼の絵には、ファン・ゴッホの渦巻きを思わせるような同心円状の粗いタッチや、炎のような大胆な描線による激しい色彩表現が生まれた[439]。さらに、印象派の写実主義に疑問を投げかけたファン・ゴッホ、ゴーギャンらは、色彩や形態それ自体の表現力に注目した点で、後の抽象絵画にもつながる要素を持っていたといえる[440]。主題とモチーフ[編集]
ファン・ゴッホは、記憶や想像によって描くことができない画家であり、900点近くの油絵作品のほとんどが、静物、人物か風景であり、眼前のモデルの写生である。自然を超えた世界に憧れつつも、現実の手がかりを得てはじめてその想像力が燃え上がることができたといえる。自分にとって必要な主題とモチーフを借りてくるために、先人画家の作品を模写することもあったが、その場合も、実際に版画や複製を目の前に置いて写していた[441]。もっとも、必ずしも写真のように目の前の光景を写し取っているわけではなく、見えるはずのないところに太陽を描き込むなど、必要なモチーフを選び出したり、描き加えたり、眼に見えているモチーフを削除したりする操作を行っている[442]。 当時のオランダやイギリスでは、プロテスタント聖職者らの文化的指導の下、16世紀から17世紀にかけてのエンブレム・ブックが復刊されるなど、絵画モチーフの図像学的解釈は広く知られていた。ファン・ゴッホの作品を安易に図像学的に解釈することはできないが、ファン・ゴッホも、伝統的・キリスト教的な図像・象徴体系に慣れ親しむ環境に育っていたことが指摘されている[443]。肖像画[編集]
ファン・ゴッホは、農民をモデルにした人物画︵オランダ時代︶に始まり、タンギー爺さん︵パリ時代︶、ジヌー夫人、郵便夫ジョゼフ・ルーランと妻オーギュスティーヌ︵ゆりかごを揺らす女︶らその家族︵アルル時代︶、医師ガシェとその家族︵オーヴェル=シュル=オワーズ時代︶など、身近な人々をモデルに多くの肖像画を描いている。ファン・ゴッホは、アントウェルペン時代から﹁僕は大聖堂よりは人間の眼を描きたい﹂[手紙 39]と書いていたが、肖像画に対する情熱は晩年まで衰えることはなく、オーヴェル=シュル=オワーズから、妹ヴィルに宛てて次のように書いている。﹁僕が画業の中で他のどんなものよりもずっと、ずっと情熱を感じるのは、肖像画、現代の肖像画だ。……僕がやりたいと思っているのは、1世紀のちに、その時代の人たちに︿出現﹀︵アパリシオン︶のように見えるような肖像画だ。それは、写真のように似せることによってではなく、性格を表現し高揚させる手段として現代の色彩理論と色彩感覚を用いて、情熱的な表現によってそれを求めるのだ。﹂[444][手紙 45]。自画像[編集]
詳細は「自画像 (ゴッホ)」を参照ファン・ゴッホは多くの自画像を残しており、1886年から1889年にかけて彼が描いた自画像は37枚とされている[449][注釈 36]。オランダ時代には全く自画像を残していないが、パリ時代に突如として多数の自画像を描いており、1887年だけで22点にのぼる。これは制作、生活両面における激しい動揺と結び付けられる[451]。アルルでは、ロティの﹃お菊さん﹄に触発されて、自分を日本人の坊主︵仏僧︶の姿で描いた作品を残しており、キリスト教の教義主義から自由なユートピアを投影していると考えられる[452]。もっとも、自画像には、小さい画面や使用済みのキャンバスを選んでいるものが多く、ファン・ゴッホ自身、自画像を描く理由について、﹁モデルがいないから﹂、﹁自分の肖像をうまく表現できたら、他の人々の肖像も描けると思うから﹂と述べており、自画像自体には高い価値を置いていなかった可能性がある[453][手紙 46]。 アルルでの耳切り事件の後に描かれた自画像は、左耳︵鏡像を見ながら描いたため絵では右耳︶に包帯をしている。一方、サン=レミ時代の自画像は全て右耳を見せている。そして、そこには﹃星月夜﹄にも見られる異様な渦状運動が表れ、名状し難い不安を生み出している[454]。オーヴェル=シュル=オワーズ時代には、自画像を制作していない。ひまわり[編集]
詳細は「ひまわり (絵画)」を参照ファン・ゴッホは、パリ時代に油彩5点、素描を含め9点のひまわりの絵を描いているが、最も有名なのはアルル時代の﹃ひまわり﹄である。1888年、ファン・ゴッホはアルルでゴーギャンの到着を待つ間12点のひまわりでアトリエを飾る計画を立て、これに着手したが、実際にはアルル時代に制作した﹃ひまわり﹄は7点に終わった[461]。ゴーギャンとの大切な共同生活の場を飾る作品だけに、ファン・ゴッホがひまわりに対し強い愛着を持っていたことが窺える[462]。 西欧では、16世紀-17世紀から、ひまわりは﹁その花が太陽に顔を向け続けるように[注釈 37]、信心深い人はキリスト︵又は神︶に関心を向け続ける﹂、あるいは﹁愛する者は愛の対象に顔を向け続ける﹂という象徴的意味が広まっており、ファン・ゴッホもこうした象徴的意味を意識していたものと考えられている[464][465]。 後に、ファン・ゴッホは﹃ルーラン夫人ゆりかごを揺らす女﹄を中央に置き、両側にひまわりの絵を置いて、祭壇画のような三連画にする案を書簡でテオに伝えている[466][手紙 47]。糸杉[編集]
﹃糸杉のある小麦畑﹄1889年6月、サン=レミ。油彩、キャンバス、 73 × 93.5 cm。個人コレクションF 717, JH 1756。 サン=レミ時代に、糸杉が重要なモチーフとして登場する。入院直後の1889年6月に、﹃星月夜﹄、﹃2本の糸杉﹄、﹃糸杉のある小麦畑﹄などを描き、テオに宛てて﹁糸杉のことがいつも僕の心を占めている。僕は糸杉を主題として、あのひまわりの連作のようなものを作りたい。……それは、線としても、比例としても、まるでエジプトのオベリスクのように美しい。﹂と書いている[467]。糸杉は、プロヴァンス地方特有の強風ミストラルから農作物を守るために、アルルの農民が数多く植えていた木であった[468]。 西欧では、古代においてもキリスト教の時代においても、糸杉は死と結びつけて考えられており、多くの墓地で見られる木であった[注釈 38]。アルル時代には生命の花であるひまわりに向けられていたゴッホの眼が、サン=レミ時代には暗い死の深淵に向けられるようになったことを物語るものと説明されている[470]。模写[編集]
詳細は「フィンセント・ファン・ゴッホの模写作品」を参照ファン・ゴッホは、最初期からバルビゾン派の画家ジャン=フランソワ・ミレーを敬愛しており、これを模写したデッサンや油絵を多く残している。ニューネン時代の書簡で、アルフレッド・サンシエの﹃ミレーの生涯と作品﹄で読んだという﹁彼︹ミレー︺の農夫は自分が種をまいているそこの大地の土で描かれている﹂という言葉を引用しながら、ファン・ゴッホは﹁まさに真を衝いた至言だ﹂と書いている[104][手紙 48]。 アルル時代︵1888年6月︶には、白黒のミレーの構図を模写しながら、ドラクロワのような色彩を取り入れ、黄色にあふれた﹃種まく人﹄を描き上げた。このほか、﹁掘る人︵耕す人︶﹂、﹁鋤く人﹂、﹁麦刈りをする人﹂などのモチーフをとりあげて絵にしている。しかし、生身の農民と多様な農作業を細かく観察していたミレーと異なり、ファン・ゴッホは実際に農民の中で生活したことはなく、描かれた人物にも表情は乏しい。むしろ、ファン・ゴッホにとって、これらのモチーフは聖書におけるキリストのたとえ話[注釈 39] に出てくる象徴的意味を与えられたものであった。例えば﹁種まく人﹂は人の誕生や﹁神の言葉を種まく人﹂[注釈 40]、﹁掘る人﹂は楽園を追放された人間の苛酷な労働[注釈 41]、﹁麦刈り﹂は人の死を象徴していると考えられている[472][473]。ファン・ゴッホ自身、手紙で、﹁僕は、この鎌で刈る人……の中に、人間は鎌で刈られる小麦のようなものだという意味で、死のイメージを見たのだ。﹂と書いている[474][手紙 49]。﹁種まく人がアルル時代に立て続けに描かれているのに対し、﹁麦刈りをする人﹂は主にサン=レミに移ってから描かれている[475]。また、﹁掘る人﹂も、1887年夏から1889年春までは完全に姿を消していたが、サン=レミに移ってから、特に1890年春に多数描かれている[476]。サン=レミ時代には、発作のため戸外での制作が制限されたこともあり、彼に大きな影響を及ぼした画家であるドラクロワ、レンブラント、ミレーらの版画や複製をもとに、油彩画での模写を多く制作した[478]。ゴッホは、模写以外には明確に宗教的な主題の作品は制作していないのに対し、ドラクロワからは﹃ピエタ﹄や﹃善きサマリア人﹄、レンブラントからは﹃天使の半身像﹄や﹃ラザロの復活﹄という宗教画を選んで模写していることが特徴である[479]。ゴッホは、ベルナールへの手紙に、﹁僕が感じているキリストの姿を描いたのは、ドラクロワとレンブラントだけだ。そしてミレーがキリストの教理を描いた。﹂と書いている[手紙 50]。サン=レミでは、そのほかにギュスターヴ・ドレの﹃監獄の中庭﹄やドーミエの﹃飲んだくれ﹄など何人かの画家を模写したが、オーヴェルに移ってからは1点を除き模写を残していない[480]。 ファン・ゴッホはこれらの模写を﹁翻訳﹂と呼んでいた。レンブラントの白黒の版画を模写した﹃ラザロの復活﹄︵1890年︶では、原画の中心人物であるキリストを描かず、代わりに太陽を描き加えることにより、聖書主題を借りながらも個人的な意味を付与していると考えられる[481]。この絵の2人の女性マルタとマリアはルーラン夫人とジヌー夫人を想定しており、また蘇生するラザロはファン・ゴッホの容貌と似ていることから、自分自身が南仏の太陽の下で蘇生するとの願望を表しているとの解釈が示されている[482]。関連項目[編集]
- ファン・ゴッホ (小惑星)
- ジャンヌ・カルマン - アルル在住だった世界最長寿の女性。1988年、113歳のときに生前のファン・ゴッホの印象をテレビ・インタビューで語った。生前のファン・ゴッホの目撃者がカラーテレビでその印象を語った記録は彼女のインタビューが唯一である。
- ゴッホを描いた映像作品
- インパスト - ゴッホの作品の特徴である厚塗り技法。
- 「ファン・ゴッホ ー僕には世界がこう見えるー」 - 2022年6月18日から2023年1月9日まで角川武蔵野ミュージアムにて、ゴッホが見た世界を追体験する体感型デジタルアート展が開催された[483]。
外部リンク[編集]
●ゴッホ美術館公式サイト - ︵オランダ語︶、︵英語︶︵一部に日本語ページあり︶ ●フィンセントの人生と作品を発見しよう︵ファン・ゴッホ・ヨーロッパ財団︶︵日本語版へのリンク︶ ●ファン・ゴッホ フィンセント‥作家別作品リスト - 青空文庫 ●フィンセント・ファン・ゴッホ﹁若き日の手紙﹂︵式場隆三郎訳︶ - ARCHIVE ●﹃ゴッホ﹄ - コトバンク参考文献[編集]
●東珠樹﹃白樺派と近代美術﹄東出版、1980年7月1日。ASIN B000J8121O。 ●粟津則雄﹃自画像は語る﹄新潮社、1993年1月1日。ISBN 978-4103266020。 ●池上英洋﹃西洋美術史入門︿実践編﹀﹄筑摩書房︿ちくまプリマー新書﹀、2014年3月5日。ISBN 978-4-480-68913-9。 ●インゴ・F・ヴァルター、ライナー・メッツガー﹃ゴッホ全油彩画﹄︵Taschen 25 Anniversary Ed︶タッシェン、2007年7月30日。ISBN 978-4887832923。 作品の技法、寸法、カタログ番号等の情報は、所蔵館ウェブサイト︵各脚注リンク参照︶を優先したが、それがないときは本書によった。 ●ナタリー・エニック﹃ゴッホはなぜゴッホになったか――芸術の社会学的考察﹄三浦篤訳、藤原書店、2005年3月1日。ISBN 978-4894344266。 ●尾本圭子﹁ガシェ家芳名録の資料的意義について﹂﹃お茶の水女子大学比較日本学教育研究センター研究年報﹄、お茶の水女子大学比較日本学教育研究センター編集・発行、2012年3月、NAID 40019312698。 ●小山田義文﹃ゴッホ――千日の光芒﹄三元社、2006年4月1日。ISBN 978-4883031740。 ●木下長宏﹃思想史としてのゴッホ――複製受容と想像力﹄學藝書林、1992年7月1日。ISBN 978-4905640868。 ●木下長宏﹃ゴッホ――闘う画家﹄六耀社︿Rikuyosha art view﹀、2002年2月1日。ISBN 978-4897374239。 ●圀府寺司﹃ファン・ゴッホ――自然と宗教の闘争﹄小学館、2009年3月27日。ISBN 978-4-09-387739-8。 ●圀府寺司﹃ゴッホ――日本の夢に懸けた芸術家﹄角川書店︿角川文庫 Kadokawa Art Selection﹀、2010年9月25日。ISBN 978-4043943791。 ●圀府寺司﹃ファン・ゴッホ 日本の夢に懸けた画家﹄KADOKAWA︿角川ソフィア文庫﹀、2019年9月21日。ISBN 978-4044005283。 - 上記の新版 ●小林利延﹃ゴッホは殺されたのか――伝説の情報操作﹄朝日新聞社︿朝日新書﹀、2008年2月13日。ISBN 978-4-02-273194-4。 ●小林英樹﹃耳を切り取った男﹄日本放送出版協会、2002年7月1日。ISBN 978-4140807064。 ●小林英樹﹃完全版 ゴッホの遺言﹄︵完全版︶中央公論新社︿中公文庫﹀、2009年10月24日。ISBN 978-4-12-205218-5。 ●瀬木慎一﹃西洋名画の値段﹄新潮社︿新潮選書﹀、1999年12月1日。ISBN 978-4106005763。 ●瀬木慎一﹃真贋の世界――美術裏面史 贋作の事件簿﹄河出書房新社、2017年5月29日。ISBN 978-4-309-25578-1。 ●千足伸行﹃ゴッホを旅する﹄論創社、2015年8月11日。ISBN 978-4-8460-1458-2。 ●シンシア・ソールツマン﹃ゴッホ﹁医師ガシェの肖像﹂の流転﹄島田三蔵訳、文藝春秋︿文春文庫﹀、1999年12月1日︵原著1998年︶。ISBN 978-4167309923。 ●高階秀爾﹃近代絵画史――ゴヤからモンドリアンまで カラー版﹄中公新書︵上・下︶、改版2017年9月。ゴッホは上巻 ●高階秀爾﹃近代絵画史――ゴヤからモンドリアンまで﹄ 上、中央公論社︿中公新書﹀、1975年2月25日。ISBN 978-4121003850。 ●高階秀爾﹃近代絵画史――ゴヤからモンドリアンまで﹄ 下、中央公論社︿中公新書﹀、1975年2月25日。ISBN 978-4121003867。 ●高階秀爾﹃ゴッホの眼﹄青土社、2005年3月1日︵原著1984年︶。ISBN 978-4791761746。 ●高階秀爾﹃ゴッホの眼﹄︵新装版︶青土社、2019年5月25日︵原著1984年︶。ISBN 978-4791771592。- 上記の新版 ●高階秀爾﹃日本絵画の近代―江戸から昭和まで﹄青土社、1996年8月1日。ISBN 978-4791754816。 ●高階秀爾﹃近代美術の巨匠たち﹄岩波書店︿岩波現代文庫﹀、2008年1月16日。ISBN 978-4-00-602130-6。 ●ニーンケ・デーネカンプ、ルネ・ファン・ブレルク、タイオ・メーデンドルプ﹃ゴッホの地図帖――ヨーロッパをめぐる旅﹄鮫島圭代訳、千足伸行監修、ファン・ゴッホ美術館編集、講談社、2016年9月29日︵原著2015年︶。ISBN 978-4-06-220196-4。 ●マルク・エド・トラルボー﹃ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ﹄坂崎乙郎、河出書房新社、1992年10月1日。ISBN 978-4309261621。 ●新関公子﹃ゴッホ 契約の兄弟――フィンセントとテオ・ファン・ゴッホ﹄ブリュッケ、2011年11月1日。ISBN 978-4-434-16117-9。 ●西岡文彦﹃簡単すぎる名画鑑賞術﹄筑摩書房︿ちくま文庫﹀、2011年12月1日。ISBN 978-4-480-42885-1。 ●西岡文彦﹃謎解きゴッホ――見方の極意 魂のタッチ﹄河出書房新社︿河出文庫﹀、2016年9月6日。ISBN 978-4-309-41475-1。 ●ロナルド・ピックヴァンス﹃アルルのファン・ゴッホ﹄二見史郎訳、みすず書房、1986年12月1日。ISBN 978-4622015260。 ●M.フィッツジェラルド﹃天才の秘密――アスペルガー症候群と芸術的独創性﹄井上敏明監訳、倉光弘己・栗山昭子・林知代訳、世界思想社、2009年10月9日︵原著2005年︶。ISBN 978-4-7907-1439-2。 ●二見史郎﹃抽象芸術の誕生――ゴッホからモンドリアンまで﹄紀伊國屋書店、1980年8月1日。ASIN B000J8665G。 ●二見史郎﹃抽象芸術の誕生――ゴッホからモンドリアンまで﹄紀伊國屋書店︿精選復刻 紀伊国屋新書﹀、1994年1月1日︵原著1980年︶。ISBN 978-4314006408。 - 上記の復刻版 ●二見史郎﹃ファン・ゴッホ詳伝﹄みすず書房、2010年11月3日。ISBN 978-4-622-07571-4。 ●コルネリア・ホンブルク﹃ゴッホ オリジナルとは何か?――19世紀末のある挑戦﹄野々川房子訳、美術出版社、2001年12月︵原著1996年︶。ISBN 978-4568201697。 ●バーナデット・マーフィー﹃ゴッホの耳――天才画家最大の謎﹄山田美明訳、早川書房、2017年9月21日︵原著2016年︶。ISBN 978-4-15-209713-2。 ●吉屋敬﹃青空の憂鬱――ゴッホの全足跡を辿る旅﹄評論社、2005年5月1日。ISBN 978-4566050693。 ●Callow, Philip (1996-09-01) (英語). Vincent van Gogh: A Life (Reprint ed.). Chicago: Ivan R. Dee. ISBN 978-1566631341 ●Hulsker, Jan (1990-03-01) (英語、オランダ語). Vincent and Theo van Gogh; A dual biography (Subsequent ed.). Ann Arbor: Fuller Publications. ISBN 978-0940537057 ●Naifeh, Steven; Smith, Gregory White (2012-12-04) (英語). Van Gogh: The Life (Reprint ed.). United States: Random House Trade Paperbacks. ISBN 978-0375758973 ●スティーヴン・ネイフ、グレゴリー・ホワイト・スミス﹃ファン・ゴッホの生涯﹄国書刊行会、2016年10月18日。︵上︶ISBN 978-4-336-06045-7、︵下︶ISBN 978-4-336-06046-4。- 上記の日本語訳 ●Wilkie, Kenneth (2005-04-28) (英語). The Van Gogh File: The Myth and the Man (Main ed.). Souvenir Press Ltd,. ISBN 978-0-285-63691-0 ●“﹃ゴッホ展――めぐりゆく日本の夢﹄”. NHK、NHKプロモーション、北海道新聞. 2018年8月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年8月17日閲覧。 - ︵2017年 - 2018年 巡回展︶図録、北海道立近代美術館、東京都美術館、京都国立近代美術館脚注[編集]
注釈[編集]
(一)^ ファン/ヴァンは姓の一部である。ヨーロッパ諸語における発音は様々であり、日本語表記もバリエーションがある。オランダ語ではオランダ語: [vɑŋ ˈɣɔχ] ( 音声ファイル)。オランダ・ホラント州の方言では、vanの"v"が無声化して[ˈvɪnsɛnt fɑŋˈxɔx] ( 音声ファイル)となる。ゴッホはブラバント地方で育ちブラバント方言で文章を書いていたため、彼自身は、自分の名前をブラバント・アクセントで"V"を有声化し、"G"と"gh"を無声硬口蓋摩擦音化して[vɑɲˈʝɔç]と発音していた可能性がある。イギリス英語では[ˌvæn ˈɡɒx]、場合によって[ˌvæn ˈɡɒf]と発音し、アメリカ英語では[ˌvæn ˈɡoʊ]︵ヴァンゴウ︶とghを発音しないのが一般的である。彼が作品の多くを制作したフランスでは、[vɑ̃ ɡɔɡə]︵ヴァンサン・ヴァン・ゴーグ︶となる。日本語では英語風のヴィンセント・ヴァン・ゴッホという表記も多く見られる。 (二)^ もう1枚、長らく13歳の時の写真とされてきた物があったが、後に弟テオの物と判明している。 (三)^ ズンデルトの村のうち、中心部を占めるフロート・ズンデルト︵大ズンデルト︶地区で生まれた[10]。 (四)^ ブラバントは従来からカトリックの影響の強い土地であったが、1839年、オランダとこれから独立したベルギーとの間の条約により南北に分割され、ズンデルトを含む北部はオランダに帰属した[13]。 (五)^ 詳細な家系図については、“The Van Gogh Family Tree”. Van Gogh Gallery. 2021年3月3日閲覧。 (六)^ この兄は数週間生きていたとの説もあるが、ズンデルト村役場の出生登録には、戸籍係の手で﹁死亡﹂と書き込まれており、死産であることが明確である。牧師館のすぐ近くの教会で同名の兄の墓を目にする体験は、少年ファン・ゴッホの心理に影響を与えた可能性が指摘されている[16]。 (七)^ セント伯父はハーグに絵画の複製図版等を手がける画商を開き、1861年2月、パリのグーピル商会の傘下に入って共同経営者の一人となっていた[23]。 (八)^ 娘の名前は実際にはウージェニ・ロワイエであった[33]。 (九)^ 1874年10月にパリ本店に一時転勤となり、1875年1月に新しくなったロンドン支店に戻り、同年5月に再びパリ本店に移った[31]。 (十)^ 父は1875年10月、ここエッテンの教会の牧師となり、一家はヘルヴォイルトから移り住んでいた[39]。 (11)^ 当時の平均的な労働者は週20フランの収入で家族を養っていた。それでもファン・ゴッホは増額を求め続け、テオは自分の給料の半分近くに当たる月150フランの送金に応じることにした[82]。 (12)^ ファン・ゴッホが去った後、シーンも他の街を転々とする日々を送った。ヴィレムは里子に出され、シーンの親族に引き取られて養育された。後年になってシーンの叔父はヴィレムを正式に跡取りにするため、シーンと形だけ籍を入れることを提案した。だがシーンは申出を拒否すると﹁私はこの子の父親を覚えています。フィンセント・ファン・ゴッホはこの子の名の由来なのですから﹂と告げた[90]。しかし、ファン・ゴッホがシーンと出会った時には彼女は既に妊娠していた[91]。1904年、シーンは水死している[92]。 (13)^ ファン・ゴッホは、当初、街の娼婦をアトリエに呼んでヌードのデッサンをしようとしていたが、これを止めるテオと対立した結果、アカデミーならモデルのデッサンができると言って、1886年1月半ば、今まで批判していたアカデミーに入学した。しかし、端正で明確なデッサンを求める教官と言い争い、他の生徒からも嘲笑され、2月初めには脱落した[113]。 (14)^ テオには言っていないが、ファン・ゴッホは医者で梅毒の治療を受けている。また、その治療のため投与された水銀の副作用にも苦しめられていたと思われる[116]。 (15)^ バーナデット・マーフィーの調査によれば、﹁黄色い家﹂は、﹁カフェ・ドゥ・ラ・ガール﹂の経営者マリー・ジヌーの一家が以前住んでいたがその後空き家になっていた不動産である。マリーが、この不動産を取り扱っていた業者ベルナール・スーレに、ファン・ゴッホを賃借人として紹介したようである[150]。 (16)^ ゴーギャンは、アルル行きについて、友人の画家エミール・シェフネッケルに、﹁この滞在の目的は、自分が世に出るまで、金銭の心配をせずに安心して仕事ができるようにすることなのだから。﹂と書いているように、アルルでテオの仕送りにより安定した収入を確保しようという打算的な考えに基いていたのであり、芸術家の共同体を打ち立てようというファン・ゴッホとは全く相容れない動機であった[171] (17)^ ファン・ゴッホの死後、ゴーギャンは﹃前後録﹄の中で、ゴッホがこの作品を見て﹁こいつはまさに僕だ。しかし気が違った僕だ。﹂と言ったと書いている。しかしその真偽には疑問が呈されている[178]。 (18)^ 事件後にアルル市立病院を訪れたポール・シニャックから、伝記作家ギュスターヴ・コキオが聞き取ったところによれば、耳全体ではなく、耳たぶを切り落としたとされており、多くの伝記もこれに従う[181][182]。死の床にあるファン・ゴッホをガシェ医師が描いたスケッチ︵死︵1890年7月︶︶によれば、左の耳介の大部分は無傷で残っているようにも見える。他方、当時娼館に臨場した警察官アルフォンス・ロベールは、新聞紙の包みに﹁耳がまるごとありました﹂と述べている︵[183]︶。バーナデット・マーフィーが発見した、市立病院でファン・ゴッホを診察したレー医師作成の説明図によれば、耳たぶの一部だけを残してほとんど耳全体が切り落とされている[184]。 (19)^ バーナデット・マーフィーの調査によれば、ラシェルの本名はガブリエル・ベルラティエといい、娼婦ではなく、娼館の小間使いや店の掃除をして働く19歳の女性であった[185]。 (20)^ バーナデット・マーフィーは著書で﹁黄色い家﹂をファン・ゴッホに貸していた家主ベルナール・スーレが、﹁黄色い家﹂を新たにたばこ屋に貸すために、親戚・知人の署名を集めてファン・ゴッホの追い出しを画策したのではないかと推測している[208]。 (21)^ 小林英樹の著書では、子供ヴィレムが生まれ自分たちの生活を守ろうとするヨーと、テオに金銭的に依存しているファン・ゴッホとの間に、テオのブッソ=ヴァラドン商会去就問題を前に避けがたい対立関係が生じていたとした上で[259]、7月6日にヨーとファン・ゴッホが絵をかける場所について口論になったことでそれが顕在化し[260]、ファン・ゴッホが疎外感から自殺する原因になったと指摘する[261]。一方、高階秀爾の著書では、テオが夏の休暇中にオランダの母のもとに息子フィンセント・ヴィレムを連れて一家で帰省する予定だったのに対し、ファン・ゴッホはそれによって自分が見捨てられるのではないかと感じ、テオ一家にオーヴェルに来てほしいと繰り返し希望しており、7月6日にもそのことで兄弟の間で激しい議論があったであろうとする。そして、テオが7月14日付けの手紙で﹁明朝ライデンに発つ﹂と知らせてきたことでフィンセントは自分の全存在をかけるほどの問題に敗れたとする[262]。 (22)^ テオとドリースが共同で画商を自営する計画については、ドリースが身を引いてしまい、7月21日、テオは経営者ブッソに商会に残ることを伝えた[264]。 (23)^ 大阪大学の小寺司美術史教授による研究がある[273]。 (24)^ 左脇腹から下方向に撃ったとされる銃創の状況、凶器とされるピストルが発見されていないことなどから他殺である可能性が高いとした上で[286]、経済面での対立などを挙げてテオによる犯行を示唆している[287]。 (25)^ マルク・エド・トラルボーは著書で、﹃赤い葡萄畑﹄の約15か月前にファン・ゴッホの自画像がテオからロンドンの画商に売られていることを指摘している[306]。 (26)^ ab﹁ニューヨーク・タイムズ﹂紙によれば、落札価格は36,292,500ドル、10%の手数料を加え3990万ドルであるとされる[350]。 (27)^ この﹁ひまわり﹂は、現在はSOMPO美術館が所蔵している[351]。 (28)^ ab落札額7500万ドルに、買い手が負担する手数料10%を加えた額[355]。 (29)^ 武者小路はロダンとともにファン・ゴッホを熱愛し、﹃白樺﹄第3年︵1912年︶7月号には﹁バンゴオホよ/燃えるが如き意力を持つ汝よ/汝を思ふ毎に/我に力わく/高きにのぼらんとする力わく/ゆきつくす処までゆく力わく/あゝ、/ゆきつくす処までゆく力わく﹂という讃仰詩を発表している[365]。 (30)^ 白樺美術館第1回展は京橋の星製薬階上で行われ、この﹃ひまわり﹄は日本で展示された最初のファン・ゴッホ作品となったが、その後、1945年芦屋で空爆のため焼失した[368]。この展覧会では、ほかにセザンヌ、デューラー、ドラクロワ、シャバンヌ、ロダンの作品が展示されたが、武者小路が夢見た白樺美術館は第1回展覧会だけで終わり、建物もついに建たなかった[369]。 (31)^ その要因として、当時の知識人の情報源であったドイツやイギリスで、ちょうどこの時期にユリウス・マイヤー=グラーフェやロジャー・フライがファン・ゴッホ賛美の評論を出したこと、社会と自己の個性との対立という白樺派の課題に、社会の無理解に苦悩する純粋な魂という英雄像が合致していたことが挙げられている[371]。 (32)^ 例えば、1913年、日本洋画協会出版部から、日本で最初の﹃ゴーホ画集﹄︵5枚1組袋入りのもの︶が出版された[280]。 (33)^ 日本では白樺派などの影響でいち早くファン・ゴッホに対する熱狂が起きたが、この時期1920年代に実物のファン・ゴッホ作品を見ることが出来たのはパリの美術館ではわずか3点しかなくパリのベルネーム=ジューヌ画廊に10数点程度であった。このため特にファン・ゴッホの最後期の油彩画を20点ほど所蔵していたガシェ家は、ゴッホ作品を見たい日本人には貴重な場であった。ガシェ家は多くの来訪者を迎えたが、1922年3月9日から芳名帳を作成することになった。最初の署名者︵最初の訪問者ではないことに注意︶である黒田重太郎を筆頭に、土田麦穂、小野竹喬、坂田一男、佐伯祐三ら多くの日本人画家や、画家以外でも斎藤茂吉や式場隆三郎、矢代幸雄、相馬政之助、高田博厚らの名前が芳名帳に記されている[376]。 (34)^ ジャンル分けや制作時期の認定は若干の差異や変化はあり得る。 (35)^ 補色理論を普及させたのはミシェル=ウジェーヌ・シュヴルールの﹃色彩の同時対照の法則﹄︵1839年︶であったが、ゴッホはドラクロワをその確立者と考えていた[423]。 (36)^ 油彩、水彩、デッサンを合わせて43点︵ただし贋作の疑いがあるものもある︶とする文献もある[450]。 (37)^ 実際には、ひまわりの花はずっと東を向いており、向日性はないが、西欧では一般に向日性を持つと信じられていた[463]。 (38)^ ジョージ・ファーガスン﹃キリスト教美術における記号と象徴﹄は、﹁糸杉が死と結び付けられる理由はいくつかある。例えば、それは暗い葉叢を見せているし、ひとたび伐り倒されると、二度とその根から芽を出すことはない等である。﹂と説明している[469]。 (39)^ マルコによる福音書 第4章26節から29節には次のようにある。﹁また、イエスは言われた。﹃神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。﹄﹂。 (40)^ マルコによる福音書 第4章14節﹁種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。﹂ (41)^ 創世記 第3章19節で楽園を追放されたアダムに告げられる﹁お前は顔に汗を流してパンを得る﹂という言葉は、ミレーやファン・ゴッホにおいては﹁掘る人﹂の図像と結び付けられていた[471]。手紙の出典[編集]
(一)^ “フィンセントよりテオ宛書簡90” (英語). 2021年3月4日閲覧。︵1876年9月2日 - 8日頃、アイズルワース、CL: 82a-1、It was an autumn day and I stood on the front steps of Mr Provily’s school...︶。 (二)^ “フィンセントよりテオ宛書簡403” (英語). 2021年3月4日閲覧。︵1883年11月5日頃、ニーウ・アムステルダム、CL: 339a、My youth has been austere and cold, and sterile...︶。 (三)^ “フィンセントよりテオ宛書簡312” (英語). 2021年3月4日閲覧。︵1883年2月11日、ハーグ、CL: 266、I sometimes think that when I first came to The Hague...︶。 (四)^ “フィンセントよりテオ宛書簡183” (英語). 2021年3月4日閲覧。︵1881年11月12日、エッテン、CL: 157、What kind of love did I have in my 20th year?...︶。 (五)^ “フィンセントよりテオ宛書簡65” (英語). 2021年3月4日閲覧。︵1875年1月10日、パリ、CL: 50、His Hon. took the words out of my mouth...︶。 (六)^ “フィンセントよりテオ宛書簡148” (英語). 2021年3月4日閲覧。︵1878年11月13日頃及び15日 - 16日、ラーケン、CL: 126、I should like to go there as an evangelist...︶。 (七)^ “フィンセントよりテオ宛書簡155” (英語). 2021年3月4日閲覧。︵1880年6月22日 - 24日頃、クウェム、CL: 133、I learned at Etten...︶。 (八)^ “フィンセントよりテオ宛書簡158” (英語). 2021年3月4日閲覧。︵1880年9月24日、クウェム、CL: 136、it was in this extreme poverty that I felt my energy return...︶。 (九)^ “フィンセントよりテオ宛書簡179” (英語). 2021年3月4日閲覧。︵1881年11月3日、エッテン、CL: 153、I wanted to tell you that...︶。 (十)^ “フィンセントよりテオ宛書簡228” (英語). 2021年3月4日閲覧。︵1882年5月16日、ハーグ、CL: 193、I put my fingers in the flame of the lamp and said...︶。 (11)^ “フィンセントよりテオ宛書簡194” (英語). 2021年3月4日閲覧。︵1881年12月29日、ハーグ、CL: 166、At Christmas I had a rather violent argument...︶。 (12)^ “フィンセントよりテオ宛書簡224” (英語). 2021年3月4日閲覧。︵1882年5月7日頃、ハーグ、CL: 192、Today I met Mauve and had a very regrettable conversation...︶。 (13)^ “フィンセントよりテオ宛書簡254” (英語). 2021年3月4日閲覧。︵1882年8月5日 - 6日、ハーグ、CL: 223、In my last letter you’ll have found a little scratch of that perspective frame.︶。 (14)^ “フィンセントよりテオ宛書簡342” (英語). 2021年3月4日閲覧。︵1883年5月10日頃、ハーグ、CL: 294、342 Her mood can be such that it’s almost unbearable, even for me, quick-tempered, wilfully wrong, in short, sometimes I despair.︶。 (15)^ “フィンセントよりテオ宛書簡380” (英語). 2021年3月4日閲覧。︵1883年9月2日、ハーグ、CL: 318、Today I had a quiet day with her...︶。 (16)^ “フィンセントよりテオ宛書簡440” (英語). 2021年3月4日閲覧。︵1884年3月20日、ニューネン、CL: 364、...if I continue to receive the usual from you, I may regard it as money that I’ve earned...︶。 (17)^ “フィンセントよりテオ宛書簡456” (英語). 2021年3月4日閲覧。︵1884年9月16日頃、ニューネン、CL: 375、Something has happened, Theo...︶。 (18)^ “フィンセントよりテオ宛書簡489” (英語). 2021年3月4日閲覧。︵1885年4月4日頃、ニューネン、CL: 397、I felt as you did, in so far as when you write that the work didn’t yet proceed as usual...︶。 (19)^ “フィンセントよりテオ宛書簡535” (英語). 2021年3月4日閲覧。︵1885年10月13日頃、ニューネン、CL: 427、What particularly struck me when I saw the old Dutch paintings again is...︶。 (20)^ “フィンセントよりテオ宛書簡558” (英語). 2021年3月4日閲覧。︵1886年2月4日、アントウェルペン、CL: 449、When you think that I went to live in my own studio on 1 May...︶。 (21)^ “フィンセントよりテオ宛書簡584” (英語). 2021年3月4日閲覧。︵1888年3月10日、アルル、CL: 468、Nevertheless, artists won’t find a better way than — to join together, give their pictures to the association, and share the sale price...︶。 (22)^ “フィンセントよりベルナール宛書簡587” (英語). 2021年3月4日閲覧。︵1888年3月18日、アルル、CL: B2、I want to begin by telling you that this part of the world seems to me as beautiful as Japan...︶。 (23)^ “フィンセントよりテオ宛書簡616” (英語). 2021年3月4日閲覧。︵1888年5月29日、アルル、CL: 493、I thought of Gauguin and here we are — if Gauguin wants to come here there’s Gauguin’s fare, and then there are the two beds or the two mattresses we absolutely have to buy.︶。 (24)^ “フィンセントよりテオ宛書簡677” (英語). 2021年3月4日閲覧。︵1888年9月9日、アルル、CL: 534、In my painting of the night café I’ve tried to express the idea that the café is a place...︶。 (25)^ “フィンセントよりテオ宛書簡723” (英語). 2021年3月4日閲覧。︵1888年12月1日頃、アルル、CL: 560、You can sense how in my element that makes me feel...︶。 (26)^ “フィンセントよりテオ宛書簡724” (英語). 2021年3月4日閲覧。︵1888年12月11日頃、アルル、CL: 565、I myself think that Gauguin had become a little disheartened by the good town of Arles...︶。ゴーギャンよりテオ宛書簡︵同Note 1、I am obliged to return to Paris; Vincent and I can absolutely not live side by side without trouble...︶。 (27)^ “フィンセントよりテオ宛書簡728” (英語). 2021年3月4日閲覧。︵1889年1月2日、アルル、CL: 567、I’ll stay here at the hospital for another few days...︶。 (28)^ “フィンセントよりテオ宛書簡760” (英語). 2021年3月4日閲覧。︵1889年4月21日、アルル、CL: 585、At the end of the month I’d still wish to go to the mental hospital at St-Rémy or another institution...︶。 (29)^ “フィンセントよりテオ宛書簡782” (英語). 2021年3月4日閲覧。︵1889年6月18日、サン=レミ、CL: 595、It’s not a return to the romantic or to religious ideas...︶。 (30)^ “テオよりフィンセント宛書簡781” (英語). 2021年3月4日閲覧。︵1889年6月16日、パリ、CL: T10、All of them have a power of colour which you hadn’t attained before...︶。 (31)^ “フィンセントよりテオ宛書簡797” (英語). 2021年3月4日閲覧。︵1889年8月22日、サン=レミ、CL: 601、You can imagine that I’m very deeply distressed that the attacks have recurred when... For many days I’ve been absolutely distraught... This new crisis, my dear brother, came upon me in the fields...︶。 (32)^ “フィンセントよりテオ宛書簡805” (英語). 2021年3月4日閲覧。︵1889年9月20日頃、サン=レミ、CL: 607、Very well – but in music it isn’t so – and if such a person plays some Beethoven he’ll add his personal interpretation to it...︶。 (33)^ “フィンセントよりヴィル宛書簡879” (英語). 2021年3月4日閲覧。︵1890年6月5日、オーヴェル=シュル=オワーズ、CL: W22、Then I’ve found in Dr Gachet a ready-made friend and...︶。 (34)^ “フィンセントよりテオ及びヨー宛書簡881” (英語). 2021年3月4日閲覧。︵1890年6月10日、オーヴェル=シュル=オワーズ、CL: 640、Sunday has left me a very pleasant memory.︶。 (35)^ “テオよりフィンセント宛書簡894” (英語). 2021年3月4日閲覧。︵1890年6月30日・7月1日、パリ、CL: T39︶。 (36)^ “フィンセントよりテオ及びヨー宛書簡898” (英語). 2021年3月4日閲覧。︵1890年7月10日頃、オーヴェル=シュル=オワーズ、CL: 649、It’s no small thing when all together we feel the daily bread in danger...︶。 (37)^ “フィンセントよりテオ宛書簡902” (英語). 2021年3月4日閲覧。︵1890年7月23日、オーヴェル=シュル=オワーズ、CL: 651、As regards the state of peace in your household,...︶。 (38)^ “フィンセントよりテオ宛書簡324” (英語). 2021年3月4日閲覧。︵1883年3月4日頃、ハーグ、CL: 272、Sketch A︶。 (39)^ abフィンセントよりテオ宛書簡549︵1885年12月19日、アントウェルペン、CL: 441、However, I’d rather paint people’s eyes than cathedrals...︶。 (40)^ “フィンセントよりヴィル宛書簡686” (英語). 2021年3月4日閲覧。︵1888年9月23日又は24日、アルル、CL: 542、And we wouldn’t be able to study Japanese art...︶。 (41)^ “フィンセントよりテオ宛書簡689” (英語). 2021年3月4日閲覧。︵1888年9月26日、アルル、CL: 541、And in the end, without intending to, I’m forced to lay the paint on thickly, à la Monticelli...︶。 (42)^ abフィンセントよりテオ宛書簡673︵1888年9月3日、アルル、CL: 531、To express the love of two lovers through a marriage of two complementary colours...︶。 (43)^ “フィンセントよりテオ宛書簡676” (英語). 2021年3月4日閲覧。︵1888年9月8日、アルル、CL: 533、I’ve tried to express the terrible human passions with the red and the green.︶。 (44)^ “フィンセントよりテオ宛書簡663” (英語). 2021年3月4日閲覧。︵1888年8月18日、アルル、CL: 520、Because instead of trying to render exactly what I have before my eyes, I use colour more arbitrarily in order to express myself forcefully...︶。 (45)^ “フィンセントよりヴィル宛書簡879” (英語). 2021年3月4日閲覧。︵1890年6月5日、オーヴェル=シュル=オワーズ、CL: W22、What I’m most passionate about, much much more than all the rest in my profession – is the portrait, the modern portrait...︶。 (46)^ “フィンセントよりテオ宛書簡681” (英語). 2021年3月4日閲覧。︵1888年9月16日、アルル、CL: 537、I purposely bought a good enough mirror...︶。 (47)^ “フィンセントよりテオ宛書簡776” (英語). 2021年3月4日閲覧。︵1889年5月23日頃、サン=レミ、CL: 592、You must know, too, that...︶。 (48)^ “フィンセントよりテオ宛書簡495” (英語). 2021年3月4日閲覧。︵1885年4月21日、ニューネン、CL: 402、How rightly it was said of Millet’s figures...︶。 (49)^ “フィンセントよりテオ宛書簡800” (英語). 2021年3月4日閲覧。︵1889年9月5日 - 6日、サン=レミ、CL: 604、I then saw in this reaper...︶。 (50)^ “フィンセントよりベルナール宛書簡632” (英語). 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