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[[ファイル:Cicero - Musei Capitolini.JPG|サムネイル|[[キケロ]]︵前1世紀︶ |
[[ファイル:Cicero - Musei Capitolini.JPG|サムネイル|[[キケロ]]︵前1世紀︶<hr>﹁ローマ最大の哲学者﹂と評される{{Sfnp|角田|2006|p=3}}。[[アカデメイア派]]や[[ストア派]]を[[折衷主義|折衷]]する立場をとった。哲学用語の[[ラテン語]]訳を多く考案した{{Sfnp|ロング|2009|p=269f}}。]]
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[[ファイル:Marcus-Aurelius.jpg|サムネイル|[[マルクス・アウレリウス]](2世紀)<hr>『[[自省録]]』を著した哲人皇帝。[[セネカ]]、[[エピクテトス]]と並ぶ代表的なストア派哲学者。]] |
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[[ファイル:Saint Augustine Portrait.jpg|サムネイル|[[アウグスティヌス]](4-5世紀) |
[[ファイル:Saint Augustine Portrait.jpg|サムネイル|[[アウグスティヌス]](4-5世紀)<hr>代表的な[[キリスト教哲学]]者。キケロや[[新プラトン主義]]を受容し、『アカデメイア派論駁』などを著した。]] |
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[[ファイル:Hypatia Sanzio.png|サムネイル|[[ヒュパティア]](4-5世紀) |
[[ファイル:Hypatia Sanzio.png|サムネイル|[[ヒュパティア]](4-5世紀)<hr>代表的な女性哲学者。新プラトン主義に属した。]] |
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'''ローマ哲学''' (ローマてつがく、{{Lang-en-short|Roman philosophy}}){{ |
'''ローマ哲学''' (ローマてつがく、{{Lang-en-short|Roman philosophy}}){{Sfnp|ロング|2009|loc=章題}} すなわち[[古代ローマ]]における[[哲学]]は、[[ギリシア哲学]]・[[ヘレニズム哲学]]の諸派を継承または折衷する形でおこなわれた。
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言い換えれば、ローマ哲学はギリシアからの﹁輸入学問﹂に過ぎず{{ |
言い換えれば、ローマ哲学はギリシアからの﹁輸入学問﹂に過ぎず{{Sfnp|近藤|2020|p=31f}}、﹁ローマ自家製の哲学﹂は無きに等しかった{{Sfnp|ロング|2009|p=269f}}。また内容についても﹁独創性を欠いた[[折衷主義]]﹂などの低評価が与えられてきた{{Sfnp|近藤|2020|p=31f}}。
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しかし[[20世紀]]末から、ローマ哲学は徐々に再評価されている{{ |
しかし[[20世紀]]末から、ローマ哲学は徐々に再評価されている{{Sfnp|近藤|2020|p=31f}}。例えば[[キケロ]]、[[ルクレティウス]]、[[セネカ]]、[[セクストス・エンペイリコス]]、[[プロティノス]]らの著作は、[[ルネサンス]]期に再発見され、[[近世哲学]]の発展を促した。[[ディオゲネス・ラエルティオス]]﹃[[ギリシア哲学者列伝]]﹄などの主要な[[ドクソグラフィー|学説誌]]や、最初の[[プラトン全集]]と[[アリストテレス全集]]、[[キリスト教哲学]]が生まれたのも、ローマ哲学においてだった。哲学用語の[[ラテン語]]への[[翻訳]]は、元来ギリシアのローカルな[[学問]]に過ぎなかった哲学が、世界的な学問となる一つの契機になった{{Sfnp|近藤|2020|p=31f}}。
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== 特徴 == |
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一方、ローマ哲学再評価の例として、[[20世紀]]末に[[オックスフォード大学出版局]]から刊行された[[論文]]集 ''Philosophia togata''(『[[トガ]]を着た哲学』、{{仮リンク|ミリアム・グリフィン|en|Miriam T. Griffin}}と[[ジョナサン・バーンズ]]編著、[[1989年]]・[[1997年]])がある{{Sfnp|近藤|2020|p=31f}}。また、[[ケンブリッジ大学出版局]]刊行の[[叢書]]『{{仮リンク|ケンブリッジ・コンパニオン|en|Cambridge Companions}}』では、[[ヘレニズム哲学]]再評価の旗手として知られる{{仮リンク|A・A・ロング|en|A. A. Long}}{{Sfnp|ロング|2003|loc=訳者あとがき}}が、ローマ哲学の章を担当している([[2003年]]){{Sfnp|ロング|2009}}。その他、[[セクストス・エンペイリコス]]の[[受容理論|受容史]]を扱った[[リチャード・ポプキン]]『懐疑 近世哲学の源流』([[1960年]])<ref>[[リチャード・ポプキン|リチャード・H. ポプキン]] 著、[[野田又夫]];岩坪紹夫 訳『[https://dl.ndl.go.jp/pid/12215225 懐疑 近世哲学の源流]』紀伊國屋書店、1981年、ISBN 978-4314003438、{{NDLJP|12215225}}</ref>や、[[ルクレティウス]]の受容史を扱った[[スティーヴン・グリーンブラット]]『{{仮リンク|一四一七年、その一冊がすべてを変えた|en|The Swerve}}』([[2011年]]、[[ピューリッツァー賞]]・[[全米図書賞]]受賞)<ref>[[スティーヴン・グリーンブラット]] 著、河野純治 訳『一四一七年、その一冊がすべてを変えた』[[柏書房]]、2012年、ISBN 9784760141760</ref>{{Sfnp|近藤|2020|p=52}}などがある。 |
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=== 学説誌 === |
=== 学説誌 === |
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ローマ哲学の文献の多くは[[学説誌]]の役割も担う{{ |
ローマ哲学の文献の多くは[[ドクソグラフィー|学説誌]]の役割も担う{{Sfnp|近藤|2020|p=46}}。例えばヘレニズム期の初期[[ストア派]]の学説は、ローマ期の[[ディオゲネス・ラエルティオス]]、[[セクストス・エンペイリコス]]、[[ガレノス]]、[[プルタルコス]]らによる[[引用]]や言及のおかげで、現代にまで伝わっている{{Sfnp|内山|2007|p=23}}。[[キケロ]]の著作の数々も、ストア派、[[アカデメイア派]]、[[エピクロス派]]などの資料になっている{{Sfnp|瀬口|2007|p=358f}}。[[アレクサンドリアのクレメンス]]﹃[[ストロマテイス]]﹄<ref>{{Citation|和書|title=哲学の歴史 第1巻 哲学誕生 古代1|author=[[木原志乃]]|year=2008|publisher=[[中央公論新社]]|editor=[[内山勝利]]|chapter=初期ギリシア哲学の文献事情|isbn=9784124035186}}</ref>、[[エウセビオス]]﹃{{仮リンク|福音の備え|en|Praeparatio evangelica|label=福音の準備}}﹄、[[ラクタンティウス]]﹃{{仮リンク|神的教理|en|The Divine Institutes}}﹄など、[[キリスト教哲学]]者の著作も同様である。
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=== ラテン語 === |
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使用言語は[[ギリシア語]]と[[ラテン語]]が併存していた{{ |
使用言語は[[ギリシア語]]と[[ラテン語]]が併存していた{{Sfnp|近藤|2020|p=31f}}。例えば、[[マルクス・アウレリウス]]や[[プルタルコス]]はギリシア語で、[[ルクレティウス]]や[[キケロ]]はラテン語で哲学書を著した。
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ルクレティウスは、ラテン語の哲学詩﹃{{仮リンク|事物の本性について|en|De rerum natura}}﹄のなかで、ラテン語の哲学語彙の乏しさに言及している{{ |
しかし、主流はあくまでギリシア語でありラテン語は傍流に過ぎなかった{{Sfnp|近藤|2020|p=31f}}。ルクレティウスは、ラテン語の哲学詩﹃{{仮リンク|事物の本性について|en|De rerum natura}}﹄のなかで、ラテン語の哲学語彙の乏しさに言及している{{Sfnp|ロング|2009|p=269f}}<ref>ルクレティウス﹃事物の本性について﹄1.136</ref>。キケロは、ラテン語は哲学に不向きであるとする当時の通説に反論し{{Sfnp|瀬口|2007|p=378}}、﹁哲学にラテン語を教え、哲学に[[ローマ市民権]]を贈る﹂ことを理想に掲げた{{Sfnp|角田|2001|p=168}}<ref>キケロ﹃{{仮リンク|善と悪の究極について|en|De finibus bonorum et malorum}}﹄1.1-10 ; 3.40</ref>。
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キケロはあたかも日本の[[西周 (啓蒙家)|西周]]のように、自作の[[造語]]を訳語とすることもあった<ref name=":3">{{Cite web |title=2014/06/05 |url=https://clsoc.jp/QA/2014/20140605.html |website=clsoc.jp |access-date=2022-07-16 |publisher=[[日本西洋古典学会]]}}</ref>。キケロの訳語のいくつかは、後世の[[東方ギリシア世界と西方ラテン世界|ラテン世界]]の諸言語に継承された。例: ギリシア語の﹁ポイオテース﹂︵{{Lang|grc|[[wikt:en:ποιότης|ποιότης]]}}︶→ キケロのラテン語訳﹁クアリタス﹂︵{{Lang|la|[[wikt:en:qualitas|qualitas]]}}︶→ 英語の﹁クオリティ﹂︵{{Lang|en|[[wikt:en:quality|quality]]}}︶{{Sfnp|ロング|2009|p=269f}}{{Sfnp|荻野|2016|p=129}}{{Sfnp|近藤|2020|p=42}}。なかでも、ギリシア語の﹁[[フィランソロピー|ピラントローピアー]]﹂︵{{Lang|el|φιλανθρωπία}}、人間愛︶や﹁{{仮リンク|パイデイア|en|Paideia|label=パイデイアー}}﹂︵{{Lang|el|παιδεία}}、教育︶からキケロが作り出した﹁{{仮リンク|フマニタス|en|Humanitas}}﹂︵{{Lang|la|humanitas}}︶は、彼の思想の核に位置付けられる{{Sfnp|高畑|2004|pp=83-84}}。これは[[プブリウス・テレンティウス・アフェル|テレンティウス]]の格言﹁ホモー・スム﹂︵{{Lang|la|Homo sum. Humani nil a me alienum puto.}} 私は人間だ。人間的なもので、私と無関係なものなどないと思う。︶の影響を受けたと思われ、後世の﹁[[ヒューマニズム]]﹂の元になったとされる{{Sfnp|角田|2001|p=251}}。
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[[プラトン]]や[[アリストテレス]]のラテン語訳が、キケロ、[[アプレイウス]]、{{仮リンク|ガイウス・マリウス・ウィクトリヌス|en|Gaius Marius Victorinus|label=マリウス・ウィクトリヌス}}、[[ボエティウス]]らにより作られたが |
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⚫ | [[プラトン]]や[[アリストテレス]]のラテン語訳が、キケロ、[[アプレイウス]]、{{仮リンク|ガイウス・マリウス・ウィクトリヌス|en|Gaius Marius Victorinus|label=マリウス・ウィクトリヌス}}、[[ボエティウス]]らにより作られたが<ref name=":3" />、その大半は現存しない。わずかな現存例として、[[カルキディウス]]『[[ティマイオス]]注解』や[[ボエティウス]]『[[命題論 (アリストテレス)|命題論]]注解』がある。 |
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[[紀元前88年|前88年]]から東方でおこなわれた[[ミトリダテス戦争]]の戦利品として、[[ルキウス・コルネリウス・スッラ|スラ]]が持ち帰った{{仮リンク|テオスのアペリコン|en|Apellicon of Teos}}の蔵書には、 |
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一方、[[1世紀]]初頭の[[ティベリウス]]に使えた文法学者[[トラシュロス|アレクサンドリアのトラシュロス]]は、最初の[[プラトン全集]]を編纂した{{Sfn|内山|2007|p=38}}。 |
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ローマ期には、プラトンやアリストテレスの[[全集]]編纂・[[校訂]]・[[注釈|注解]]などの営み、すなわち[[文献学]](当時は[[文法学]]に属する<ref>{{Citation|和書|title=〈提題〉古代ギリシア・ローマにおける「自由学芸」の教育|last=納富|first=信留|author-link=納富信留|year=2014|url=http://jsmp.jpn.org/archives/journals/smt56/|journal=中世思想研究|publisher=中世哲学会|number=56|pages=70-79}}77頁。</ref>)も発達した<ref name=":02">{{Kotobank|ヘレニズム思想|[[加藤信朗]] 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)}}</ref>。その背景には、ヘレニズム期以来[[アレクサンドリア]]で栄えた{{仮リンク|アレクサンドリア学派|en|Alexandrian school|label=アレクサンドリア文献学}}の存在もあった{{Sfnp|瀬口|2007|p=360}}。 |
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[[紀元前88年|前88年]]から東方でおこなわれた[[ミトリダテス戦争]]の戦利品として、[[ルキウス・コルネリウス・スッラ|スラ]]が持ち帰った[[アテナイ]]の富豪{{仮リンク|テオスのアペリコン|en|Apellicon of Teos|label=アペリコン}}の蔵書には、アリストテレスの﹃[[形而上学 (アリストテレス)|形而上学]]﹄をはじめとする当時未公開の講義草稿が含まれていた{{Sfnp|瀬口|2007|p=358f}}{{Efn|それまでアリストテレスの著作は、﹃[[哲学のすすめ]]﹄などの﹁公開的著作﹂の方が読まれていた。キケロのアリストテレス受容もそのような状況でおこなわれた<ref>{{Citation|和書|title=哲学の歴史 第1巻 哲学誕生 古代1|author=[[中畑正志]]|year=2008|publisher=[[中央公論新社]]|editor=[[内山勝利]]|chapter=アリストテレス|isbn=9784124035186}}</ref>。}}。これを文法学者の{{仮リンク|アミソスのテュランニオン|en|Tyrannion of Amisus|label=テュラニオン}}が整理した後、ペリパトス派の[[ロドスのアンドロニコス]]が、最初の[[アリストテレス全集]]として編纂した{{Sfnp|瀬口|2007|p=358f}}。一方、[[1世紀]]初頭の[[ティベリウス]]に仕えた文法学者[[トラシュロス|アレクサンドリアのトラシュロス]]は、最初の[[プラトン全集]]を編纂した{{Sfnp|内山|2007|p=38}}。
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=== 前2世紀: 哲学伝来 === |
=== 前2世紀: 哲学伝来 === |
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伝説では、[[紀元前8世紀|前8世紀]]の[[王政ローマ]]第2代王[[ヌマ・ポンピリウス|ヌマ]]が、[[ピタゴラス]]([[南イタリア]]の[[クロトーネ|クロトン]]を拠点とした)の教えを学んだとされる<ref name=":4">{{Cite book|和書|title=ピュタゴラス派 その生と哲学|publisher=[[岩波書店]]|isbn=9784000019231|ref={{sfnref|チェントローネ|2000}}|year=2000|translator=[[斎藤憲]]|last=チェントローネ|first=ブルーノ}}216頁。</ref><ref name=":1">[[リウィウス]]『[[ローマ建国史|ローマ建国以来の歴史]]』1.18、[[キケロ]]『{{仮リンク|トゥスクルム荘対談集|en|Tusculanae Disputationes}}』4.2、キケロ『{{仮リンク|弁論家について|en|De oratore}}』2.37.154</ref>{{Efn|[[キケロ]]『{{仮リンク|トゥスクルム荘対談集|en|Tusculanae Disputationes}}』第4巻では、他にも様々なローマ文化にピタゴラス派の影響を見出している<ref name=":4" />。}}。しかし年代的に矛盾するため(ピタゴラスは[[紀元前6世紀|前6世紀]]の人物)、この伝説は古代から疑問視されていた<ref name=":1" />。 |
伝説では、[[紀元前8世紀|前8世紀]]の[[王政ローマ]]第2代王[[ヌマ・ポンピリウス|ヌマ]]が、[[ピタゴラス]]([[南イタリア]]の[[クロトーネ|クロトン]]を拠点とした)の教えを学んだとされる<ref name=":4">{{Cite book|和書|title=ピュタゴラス派 その生と哲学|publisher=[[岩波書店]]|isbn=9784000019231|ref={{sfnref|チェントローネ|2000}}|year=2000|translator=[[斎藤憲]]|last=チェントローネ|first=ブルーノ}}216頁。</ref><ref name=":1">[[リウィウス]]『[[ローマ建国史|ローマ建国以来の歴史]]』1.18、[[キケロ]]『{{仮リンク|トゥスクルム荘対談集|en|Tusculanae Disputationes}}』4.2、キケロ『{{仮リンク|弁論家について|en|De oratore}}』2.37.154、[[プルタルコス]]『[[対比列伝|英雄伝]]』ヌマ伝.1</ref>{{Efn|[[キケロ]]『{{仮リンク|トゥスクルム荘対談集|en|Tusculanae Disputationes}}』第4巻では、他にも様々なローマ文化にピタゴラス派の影響を見出している<ref name=":4" />。}}。しかし年代的に矛盾するため(ピタゴラスは[[紀元前6世紀|前6世紀]]の人物)、この伝説は古代から疑問視されていた<ref name=":1" />。 |
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哲学が明確に伝来したのは、[[共和政ローマ]]後期・[[ヘレニズム期]]後期の[[紀元前155年|前155年]]、[[アテナイ]]から外交使節として3人の哲学者がローマに来訪したときである{{ |
哲学が明確に伝来したのは、[[共和政ローマ]]後期・[[ヘレニズム期]]後期の[[紀元前155年|前155年]]、[[アテナイ]]から外交使節として3人の哲学者がローマに来訪したときである{{Sfnp|近藤|2020|p=34}}{{Sfnp|瀬口|2007|p=356f}}{{Efn|この使節来訪については、[[キケロ]]、[[プルタルコス]]、[[ポリュビオス]]など多くの資料がある<ref name=":0" />。使節の目的は、アテナイと{{仮リンク|オロポス|en|Oropos}}の紛争をめぐってローマがアテナイに課した罰金を、減免させることにあった<ref name=":0" />。}}。その3人とは、[[アカデメイア派]]の[[カルネアデス]]、[[ペリパトス派]]の{{仮リンク|クリトラオス|en|Critolaus}}、[[ストア派]]の{{仮リンク|バビロニアのディオゲネス|en|Diogenes of Babylon|label=}}であり、3人とも当代きっての哲学者だった{{Sfnp|近藤|2020|p=34}}。とくに[[カルネアデス]]は[[懐疑主義]]の立場から、[[正義論]]を演説した翌日に反正義論を演説する、というパフォーマンスをしてローマ人に衝撃を与えた<ref name=":0">近藤智彦﹁[http://greek-philosophy.org/ja/files/2011/08/2011_3.pdf カルネアデスの反正義論の射程]﹂﹃ギリシャ哲学セミナー論集﹄8巻、ギリシャ哲学セミナー、2011年。24頁。</ref>。これを受けた[[大カトー]]は、哲学がローマの若者を堕落させるとして{{Sfnp|ロング|2009|p=269-281}}、哲学者の追放を企てた{{Sfnp|近藤|2020|p=35}}{{Efn|当の大カトー自身は、アテナイへの留学経験があり{{Sfnp|角田|2006|p=316}}、ギリシア文化全般の教養があった{{Sfnp|角田|2006|p=316}}。大カトーが戒めていたのは、ローマ文化を捨ててギリシア文化に盲従してしまうことだった{{Sfnp|角田|2001|p=165}}。}}。しかし結局哲学はローマに浸透した{{Sfnp|近藤|2020|p=35}}。
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哲学の浸透を促したのは、[[紀元前150年代|前150年代]]から[[紀元前130年代|前130年代]]頃の[[小スキピオ]]を中心とする知識人サークル﹁{{仮リンク|スキピオ・サークル|en|Scipionic Circle}}﹂だった{{ |
哲学の浸透を促したのは、[[紀元前150年代|前150年代]]から[[紀元前130年代|前130年代]]頃の[[小スキピオ]]を中心とする知識人サークル﹁{{仮リンク|スキピオ・サークル|en|Scipionic Circle}}﹂だった{{Sfnp|近藤|2020|p=35}}。このサークルにはストア派の[[パナイティオス]]も属した{{Sfnp|近藤|2020|p=35}}。
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=== 前1世紀: 共和政末期 === |
=== 前1世紀: 共和政末期 === |
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[[紀元前88年|前88年]]から東方でおこなわれた[[ミトリダテス戦争]]の戦火を避けて、[[ストア派]]の[[ポセイドニオス]]︵パナイティオスの弟子︶、[[アカデメイア派]]の |
[[紀元前88年|前88年]]から東方でおこなわれた[[ミトリダテス戦争]]の戦火を避けて、[[ストア派]]の[[ポセイドニオス]]︵パナイティオスの弟子︶、[[アカデメイア派]]の[[ラリッサのフィロン|ラリッサのピロン]]、[[エピクロス派]]の[[ピロデモス]]らがローマに移った{{Sfnp|荻野|2017|p=127}}{{Sfnp|瀬口|2007|p=363f}}。同じ頃、[[キケロ]]とその友人の[[小カトー]]、[[ティトゥス・ポンポニウス・アッティクス|アッティクス]]、[[マルクス・テレンティウス・ウァッロ|ウァロ]]らが{{Efn|小カトーはストア派を信奉{{Sfnp|ロング|2009|p=269-281}}、アッティクスはエピクロス派を信奉{{Sfnp|ロング|2003|p=26f}}、ウァロはアンティオコスを信奉した{{Sfnp|ロング|2009|p=269-281}}。またウァロの[[文法学]]書﹃ラテン語について﹄には、ストア派の音声論の影響も見られる{{Sfnp|ロング|2009|p=269-281}}。}}、ローマや留学先の[[アテナイ]]で、[[中期プラトン主義]]者の[[アスカロンのアンティオコス|アンティオコス]]︵ラリッサのピロンの弟子︶、ストア派の{{仮リンク|ストア派のディオドトス|en|Diodotus the Stoic|label=ディオドトス}}、[[ペリパトス学派|ペリパトス派]]の{{仮リンク|クラティッポス|en|Cratippus of Pergamon}}らと交流した{{Sfnp|ロング|2009|p=269-281}}{{Sfnp|内山|2007|p=37}}。キケロの友人[[ニギディウス・フィグルス]]は[[新ピタゴラス主義]]を興した<ref name=":4" />。
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[[キケロ]]は﹁ローマ最大の哲学者﹂と |
[[キケロ]]は﹁ローマ最大の哲学者﹂と評される{{Sfnp|角田|2006|p=3}}。キケロは特定の学派に属さず、穏健な[[懐疑主義]]、あるいはアカデメイア派やストア派を取捨選択する[[折衷主義]]の立場をとったが{{Sfnp|近藤|2020|p=42}}{{Sfnp|瀬口|2007|p=369-376}}、[[プラトン]]への讃美とエピクロス派への批判は一貫していた{{Sfnp|瀬口|2007|p=369-376}}。キケロは哲学を[[修辞学]]や[[政治]]実践と統合させることを目指していた{{Sfnp|角田|2006|p=3}}{{Sfnp|近藤|2020|p=43}}。キケロの哲学著作に﹃[[国家について]]﹄﹃{{仮リンク|ストア派のパラドックス|en|Paradoxa Stoicorum}}﹄﹃{{仮リンク|アカデミカ|en|Academica (Cicero)}}﹄﹃[[ホルテンシウス (キケロ)|ホルテンシウス]]﹄﹃{{仮リンク|善と悪の究極について|en|De finibus bonorum et malorum}}﹄﹃{{仮リンク|トゥスクルム荘対談集|en|Tusculanae Disputationes}}﹄﹃{{仮リンク|神々の本性について|en|De Natura Deorum}}﹄﹃{{仮リンク|運命について|en|De fato}}﹄﹃[[大カトー・老年について|老年について]]﹄﹃{{仮リンク|ラエリウス・友情について|en|Laelius de Amicitia|label=友情について}}﹄﹃{{仮リンク|義務について|en|De Officiis}}﹄などがある。
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共和政末期は、ローマにおける[[エピクロス派]]の最盛期でもあった{{ |
共和政末期は、ローマにおける[[エピクロス派]]の最盛期でもあった{{Sfnp|ロング|2003|p=26f}}。[[ルクレティウス]]{{Sfnp|近藤|2020|p=39}}、[[ピロデモス]]{{Sfnp|近藤|2020|p=39}}、{{仮リンク|アマフィニウス|en|Amafinius}}{{Sfnp|近藤|2020|p=39}}、{{仮リンク|エピクロス派のシロン|en|Siro the Epicurean|label=}}らがエピクロス派の教説を伝え、キケロの友人[[ティトゥス・ポンポニウス・アッティクス|アッティクス]]{{Sfnp|ロング|2003|p=26f}}や、﹁[[パピルス荘]]﹂の主人と推定される[[カエサル]]の義父[[ルキウス・カルプルニウス・ピソ・カエソニヌス|ピソ]]{{Sfnp|ロング|2003|p=26f}}らに信奉された。
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[[紀元前44年|前44年]]の{{仮リンク|ガイウス・ユリウス・カエサル暗殺事件|en|Assassination of Julius Caesar|label= |
[[紀元前44年|前44年]]のカエサル{{仮リンク|ガイウス・ユリウス・カエサル暗殺事件|en|Assassination of Julius Caesar|label=暗殺|redirect=1}}の首謀者たちのなかでも、[[マルクス・ユニウス・ブルトゥス|ブルトゥス]]がストア派を信奉したのに対し、[[ガイウス・カッシウス・ロンギヌス|カッシウス]]はエピクロス派を信奉していた<ref>{{Cite journal|last=Sedley|first=David|date=1997-11|title=The Ethics of Brutus and Cassius|url=https://www.cambridge.org/core/product/identifier/S0075435800058068/type/journal_article|journal=Journal of Roman Studies|volume=87|pages=41–53|language=en|doi=10.2307/301367|issn=0075-4358|JSTOR=301367}}</ref>。カエサル自身もおそらくエピクロス派の教説に通じていた{{Sfnp|ロング|2003|p=26f}}。
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=== 1-2世紀: 帝政前期 === |
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[[1世紀]]から[[2世紀]]には、﹁ローマ哲学の代名詞{{ |
[[1世紀]]から[[2世紀]]には、﹁ローマ哲学の代名詞{{Sfnp|近藤|2020|p=44}}﹂とも言える3人のストア派哲学者、[[セネカ]]、[[エピクテトス]]、[[マルクス・アウレリウス]]が活動した{{Sfnp|近藤|2020|p=44}}{{Sfnp|國方|2019}}。
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1世紀には、[[ネロ]]や[[ドミティアヌス]]の専政に反対した政治家 |
1世紀には、[[ネロ]]や[[ドミティアヌス]]の専政に反対した政治家{{仮リンク|プブリウス・クロディウス・トラセア・パエトゥス|en|Publius Clodius Thrasea Paetus|label=トラセア・パエトゥス}}や{{仮リンク|ヘルウィディウス・プリスクス|en|Helvidius Priscus}}もストア派を信奉した{{Sfnp|ロング|2003|p=318}}。ネロはセネカを[[自殺]]に追いやり、ドミティアヌスはエピクテトス含む哲学者たちに追放令を発したことでも知られる{{Sfnp|國方|2022|p=52}}。
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この時代は[[キュニコス派]]の再燃期でもあり<ref>{{Kotobank|キュニコス派|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典}}</ref>、{{仮リンク|ペレグリヌス・プロテウス|en|Peregrinus Proteus|label=ペレグリノス}}や{{仮リンク|デモナクス|en|Demonax}}が活動した。またキュニコス派とストア派が互いに接近した時期でもあり{{Sfnp|ロング|2003|p=352}}、セネカに称賛されたキュニコス派の{{仮リンク|デメトリオス・キュニコス|en|Demetrius the Cynic|label=デメトリオス}}や{{Sfnp|ロング|2003|p=352}}、エピクテトスの師であるストア派の[[ムソニウス・ルフス]]{{Sfnp|國方|2019|p=153-156}}、[[第二次ソフィスト]]の[[ディオン・クリュソストモス]]{{Sfnp|ロング|2003|p=352}}にその傾向が見られる。
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セネカ﹃{{仮リンク|倫理書簡集|en|Epistulae Morales ad Lucilium}}﹄に言及のある{{仮リンク|クイントゥス・セクスティウス|en|Quintus Sextius|label=}}や{{仮リンク|ソティオン|en|Sotion (Pythagorean)}}は、ストア派の倫理学と[[新ピタゴラス主義|新ピタゴラス派]]の[[菜食主義]]を折衷したような﹁{{仮リンク|セクスティウス派|en|School of the Sextii}}﹂を形成した。この学派は唯一﹁ローマ自家製の学派﹂と言い得るが、活動期間が短く、注意を惹くような学派でもない{{ |
セネカ﹃{{仮リンク|倫理書簡集|en|Epistulae Morales ad Lucilium}}﹄などに言及のある{{仮リンク|クイントゥス・セクスティウス|en|Quintus Sextius|label=}}や{{仮リンク|ソティオン|en|Sotion (Pythagorean)}}は、ストア派の倫理学と[[新ピタゴラス主義|新ピタゴラス派]]の[[菜食主義]]を折衷したような﹁{{仮リンク|セクスティウス派|en|School of the Sextii}}﹂を形成した。この学派は唯一﹁ローマ自家製の学派﹂と言い得るが、活動期間が短く、注意を惹くような学派でもない{{Sfnp|ロング|2009|p=269-281}}。
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マルクス・アウレリウスは皇帝として哲学を庇護し、[[176年]]にはプラトン派・ペリパトス派・ストア派・エピクロス派の4学派の教授職をアテナイに設置した{{ |
マルクス・アウレリウスは皇帝として哲学を庇護し、[[176年]]にはプラトン派・ペリパトス派・ストア派・エピクロス派の4学派の教授職をアテナイに設置した{{Sfnp|近藤|2020|p=45}}。
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その他、﹃[[対比列伝|英雄伝︵対比列伝︶]]﹄でも知られる[[中期プラトン主義]]者の[[プルタルコス]]や{{ |
その他、﹃[[対比列伝|英雄伝︵対比列伝︶]]﹄でも知られる[[中期プラトン主義]]者の[[プルタルコス]]や{{Sfnp|近藤|2020|p=44}}、﹃[[食卓の賢人たち]]﹄の[[アテナイオス]]、風刺作家の[[ルキアノス]]{{Sfnp|ロング|2003|p=26f}}、ラテン語著作家の[[アウルス・ゲッリウス|ゲッリウス]]{{Sfnp|ロング|2009|p=269-281}}、ラテン語修辞学者の[[クインティリアヌス]]らも、哲学に言及している。
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=== 3世紀 |
=== 3-6世紀: 古代末期・中世初期 === |
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{{See also|古代末期|中世前期}} |
{{See also|古代末期|中世前期}} |
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[[3世紀]]前期、[[セウェルス朝]]の皇后[[ユリア・ドムナ]]が、[[新ピタゴラス主義]]者の伝記『[[テュアナのアポロニオス伝]]』を、[[第二次ソフィスト]]の[[ピロストラトス]]に書かせた。ユリア・ドムナは、一説には同時代の[[ディオゲネス・ラエルティオス]]『[[ギリシア哲学者列伝]]』の献呈相手とされる<ref>[[ディオゲネス・ラエルティオス]] 著、[[加来彰俊]] 訳『[[ギリシア哲学者列伝]] 下』[[岩波文庫]]、1994年。357f頁(訳者解説)</ref>。 |
[[3世紀]]前期、[[セウェルス朝]]の皇后[[ユリア・ドムナ]]が、[[新ピタゴラス主義]]者の伝記『[[テュアナのアポロニオス伝]]』を、[[第二次ソフィスト]]の[[ピロストラトス]]に書かせた。ユリア・ドムナは、一説には同時代の[[ディオゲネス・ラエルティオス]]『[[ギリシア哲学者列伝]]』の献呈相手とされる<ref>[[ディオゲネス・ラエルティオス]] 著、[[加来彰俊]] 訳『[[ギリシア哲学者列伝]] 下』[[岩波文庫]]、1994年。357f頁(訳者解説)</ref>。 |
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3世紀中期、[[軍人皇帝]][[ガッリエヌス]]の寵愛を受けた[[プロティノス]]が、[[新プラトン主義]]を興した。以降のローマ哲学は、新プラトン主義に収斂していく{{ |
3世紀中期、[[軍人皇帝]][[ガッリエヌス]]の寵愛を受けた[[プロティノス]]が、[[新プラトン主義]]を興した。以降のローマ哲学は、新プラトン主義に収斂していく{{Sfnp|内山|2007|p=41f}}。[[ポルピュリオス]]の﹃{{仮リンク|反キリスト教論|en|Against the Christians}}﹄に顕著なように、新プラトン主義は﹁異教の哲学﹂として[[古代末期のキリスト教]]と対立したが、一方ではキリスト教と交わることもあった︵[[新プラトン主義とキリスト教]]︶。新プラトン主義では、プラトン・アリストテレス・ストア派が折衷された。また、[[イアンブリコス]]の﹃[[エジプト人の秘儀について]]﹄や﹃ピタゴラス伝﹄に顕著なように、[[オリエント]]の思想風土や[[新ピタゴラス主義]]も折衷された{{Sfnp|内山|2007|p=41f}}。イアンブリコス派新プラトン主義には、背教者[[ユリアヌス]]や<ref>{{Citation|和書|title=世界哲学史 2|last=中西|first=恭子|year=2020|publisher=[[筑摩書房]]|editors=[[伊藤邦武]]‥[[山内志朗]]‥[[中島隆博]]‥[[納富信留]]|series=[[ちくま新書]]|chapter=ユリアヌスの﹁生きられた哲学﹂|isbn=9784480072924}}</ref>、代表的な女性哲学者[[ヒュパティア]]も属した︵古代の女性哲学者自体は他にもいた︶<ref>{{Citation|和書|title=ヒュパティア 後期ローマ帝国の女性知識人|last=ワッツ|year=2021|author-mask=エドワード・J・ワッツ著、中西恭子訳|publisher=[[白水社]]|isbn=9784560097946}}319頁。</ref>。
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[[4世紀]]、キリスト教を保護した[[コンスタンティヌス1世]]や[[テオドシウス1世]]が「[[哲人王]]」と呼ばれる場合もあった{{Sfnp|中西|2024|p=9}}。 |
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ローマ哲学の後は、[[中世哲学]]、あるいは[[ビザンティン哲学|ビザンツ哲学]]、[[イスラム哲学]]に続く。
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ローマ哲学の後は、[[中世哲学]]、あるいは[[ビザンティン哲学|ビザンツ哲学]]、[[イスラム哲学]]に続く。
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=== 後世の影響 === |
=== 後世の影響 === |
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キケロの著作は、古代から近代まで[[東方ギリシア世界と西方ラテン世界|ラテン世界]]に影響を与え続けた{{ |
キケロの著作は、古代から近代まで[[東方ギリシア世界と西方ラテン世界|ラテン世界]]に影響を与え続けた{{Sfnp|角田|2001|p=249-265}}。とくに﹃{{仮リンク|義務について|en|De Officiis}}﹄は、[[倫理学]]の古典としてのみならず、ラテン散文の模範としても受容された{{Sfnp|瀬口|2007|p=382}}。[[カント]]の[[義務論]]を代表する著作の一つ﹃[[道徳形而上学原論]]﹄は、カントと﹃義務について﹄との対話により生まれた著作とも言える{{Sfnp|角田|2001|p=259}}。
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[[中世哲学]]では、ギリシア語文献 |
ラテン世界の[[中世哲学]]では、ギリシア語文献よりも、古代末期のラテン語文献が受容された。その例として、[[カルキディウス]]﹃[[ティマイオス]]注解﹄、[[マクロビウス]]﹃[[スキピオの夢]]注解﹄、[[ボエティウス]]﹃[[哲学の慰め]]﹄、[[ポルピュリオス]]著・ボエティウス訳﹃[[エイサゴーゲー]]﹄などがある。なかでも﹃エイサゴーゲー﹄は、[[普遍論争]]の発端となった文献とされる{{Sfnp|荻野|2016|p=139}}。その他、[[偽ディオニュシオス・ホ・アレオパギテース|偽ディオニュシオス文書]]や、[[プロクロス]]に由来する﹃[[原因論]]﹄が受容された。
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[[ルネサンス]]期には、ギリシア語文献とラテン語文献の双方が多く再発見され、[[近世哲学]]の発展を促した。例えば、[[ルクレティウス]]の﹃{{仮リンク|事物の本性について|en|De rerum natura}}﹄は、[[ポッジョ・ブラッチョリーニ]]によって発見され、[[ガッサンディ]]らに受容された。[[セネカ]]の﹃{{仮リンク|倫理書簡集|en|Epistulae Morales ad Lucilium}}﹄や﹃[[怒りについて]]﹄は、[[モンテーニュ]]や[[ユストゥス・リプシウス|リプシウス]]に受容された。[[セクストス・エンペイリコス]]の﹃ピュロン主義哲学の概要﹄は、モンテーニュや[[ルネ・デカルト|デカルト]]、[[デイヴィッド・ヒューム|ヒューム]]に受容された<ref>[[ジュリア・アナス]]‥[[ジョナサン・バーンズ]] 著﹃古代懐疑主義入門﹄金山弥平 訳、岩波書店︿[[岩波文庫]]﹀、2015年、 |
[[ルネサンス]]期には、ギリシア語文献とラテン語文献の双方が多く再発見され、[[近世哲学]]の発展を促した。例えば、[[ルクレティウス]]の﹃{{仮リンク|事物の本性について|en|De rerum natura}}﹄は、[[ポッジョ・ブラッチョリーニ]]によって発見され、[[ガッサンディ]]らに受容された。[[セネカ]]の﹃{{仮リンク|倫理書簡集|en|Epistulae Morales ad Lucilium}}﹄や﹃[[怒りについて]]﹄は、[[モンテーニュ]]や[[ユストゥス・リプシウス|リプシウス]]に受容された。[[セクストス・エンペイリコス]]の﹃ピュロン主義哲学の概要﹄は、モンテーニュや[[ルネ・デカルト|デカルト]]、[[デイヴィッド・ヒューム|ヒューム]]に受容された<ref>[[ジュリア・アナス]]‥[[ジョナサン・バーンズ]] 著﹃古代懐疑主義入門﹄金山弥平 訳、岩波書店︿[[岩波文庫]]﹀、2015年、{{ISBN2| 9784003369814}} 25-28頁。</ref>。[[プロティノス]]﹃[[エネアデス]]﹄や[[イアンブリコス]]﹃[[エジプト人の秘儀について]]﹄などの[[新プラトン主義]]文献は、[[プラトン・アカデミー]]や[[ケンブリッジ・プラトン学派]]に受容された。
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== 他分野との関わり == |
== 他分野との関わり == |
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=== 宗教 === |
=== 宗教 === |
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<!-- [[プラトン]]から続く哲学的[[神学]]({{仮リンク|自然神学|en|Natural theology}})の分野は、[[キケロ]]『{{仮リンク|神々の本性について|en|De Natura Deorum}}』や[[ピロデモス]]『神々について』、[[中期プラトン主義]]や[[新プラトン主義]]などで扱われた。 --> |
<!-- [[プラトン]]から続く哲学的[[神学]]({{仮リンク|自然神学|en|Natural theology}})の分野は、[[キケロ]]『{{仮リンク|神々の本性について|en|De Natura Deorum}}』や[[ピロデモス]]『神々について』、[[中期プラトン主義]]や[[新プラトン主義]]などで扱われた。 --> |
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[[ユダヤ哲学|ユダヤ教哲学]]では、1世紀に[[アレクサンドリアのフィロン|アレクサンドリアのピロン]]が、{{仮リンク|アレクサンドリア学派|en|Alexandrian school|label=アレクサンドリア文献学}}と[[中期プラトン主義]]により、[[ヘブライ語聖書]]を寓意的に解釈した{{ |
[[ユダヤ哲学|ユダヤ教哲学]]では、1世紀に[[アレクサンドリアのフィロン|アレクサンドリアのピロン]]が、{{仮リンク|アレクサンドリア学派|en|Alexandrian school|label=アレクサンドリア文献学}}と[[中期プラトン主義]]により、[[ヘブライ語聖書]]を寓意的に解釈した{{Sfnp|荻野|2016|p=136}}。
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[[キリスト教哲学]]では、1世紀に[[パウロ|使徒パウロ]]が、アテナイの[[アレオパゴス会議|アレオパゴス]]でストア派やエピクロス派と論 |
[[キリスト教哲学]]では、1世紀に[[パウロ|使徒パウロ]]が、アテナイの[[アレオパゴス会議|アレオパゴス]]でストア派やエピクロス派と討論したとされる︵﹃[[使徒言行録]]﹄17:16以下︶{{Sfnp|秋山|2017|p=607f}}{{Sfnp|中西|2024|p=2}}など、哲学を批判しつつも活用する態度をとった<ref name=":6" />。[[ギリシア教父]]や[[ラテン教父]]もパウロと同様の態度をとり、[[教父哲学]]を構築した<ref name=":6">{{Citation|和書|title=西洋哲学史II﹁知﹂の変貌・﹁信﹂の階梯|last=土橋|first=茂樹|author-link=土橋茂樹|year=2011|publisher=講談社︿講談社選書メチエ﹀|editor=[[神崎繁]]・[[熊野純彦]]・[[鈴木泉]]|chapter=教父哲学|ISBN=978-4062585156}}99f頁。</ref>。
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キケロ、セネカ、エピクテトスは、異教の哲学者でありながら、キリスト教徒にも好意的に受容された。とくにセネカは、使徒パウロとの往復書簡が偽作されるほどだった{{ |
キケロ、セネカ、エピクテトスは、異教の哲学者でありながら、キリスト教徒にも好意的に受容された。とくにセネカは、使徒パウロとの往復書簡が偽作されるほどだった{{Sfnp|ロング|2003|p=354}}︵{{仮リンク|セネカとパウロの往復書簡|en|Correspondence of Paul and Seneca}}︶。
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代表的なラテン教父[[アウグスティヌス]]は、キケロ﹃ |
代表的なラテン教父[[アウグスティヌス]]は、キケロ﹃[[ホルテンシウス (キケロ)|ホルテンシウス]]﹄を読んで哲学を志し、晩年の﹃アカデメイア派論駁﹄でそのキケロに反駁した{{Sfnp|ロング|2003|p=306}}。またアウグスティヌスは、{{仮リンク|ガイウス・マリウス・ウィクトリヌス|en|Gaius Marius Victorinus|label=マリウス・ウィクトリヌス}}がラテン語に訳した新プラトン主義の書物を読んで[[回心]]への一歩を踏み出した<ref name=":3" />。
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[[グノーシス主義]]は、[[中期プラトン主義]]の影響のもとに形成された{{ |
[[グノーシス主義]]は、[[中期プラトン主義]]の影響のもとに形成された{{Sfnp|荻野|2016|p=136}}。
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=== ラテン文学 === |
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{{仮リンク|古代ローマの医学|en|medicine in ancient Rome}} |
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[[キケロ]]の著作は後世ラテン散文の模範とされ、[[セネカ]]の著作はラテン文学白銀期の典型とされた。セネカ﹃{{仮リンク|倫理書簡集|en|Epistulae Morales ad Lucilium}}﹄は、ラテン文学において栄えたジャンル﹁書簡文学﹂にも位置付けられる<ref>{{Citation|和書|title=はじめて学ぶラテン文学史|author=[[高橋宏幸]]|year=2008|publisher=ミネルヴァ書房|editor=高橋宏幸|chapter=書簡文学|isbn=9784623052530}}198頁。</ref>。[[ルクレティウス]]﹃{{仮リンク|事物の本性について|en|De rerum natura}}﹄は、ラテン文学における最初の﹁[[教訓主義|教訓叙事詩]]﹂にも位置付けられ、[[ウェルギリウス]]﹃[[農耕詩]]﹄にも影響を与えた<ref name=":5">{{Citation|和書|title=はじめて学ぶラテン文学史|author=[[山下太郎]]‥[[高橋宏幸]]|year=2008|publisher=ミネルヴァ書房|editor=高橋宏幸|chapter=教訓文学|isbn=9784623052530}}173ff頁。</ref>。
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新プラトン主義者の[[プロクロス]]は、[[エウクレイデス]]『[[原論]]』の注釈書を著した。 |
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=== ローマ法 === |
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[[ローマ法]]史において、共和政後期の[[法学]]は﹁[[ヘレニズム法学]]﹂と呼ばれ、[[正義]]の概念や[[演繹]]・[[分類]]の手法などでギリシア哲学から影響を受けたとされる<ref name=":2">ウルリッヒ・マンテ 著、[[田中実 (法学者)|田中実]]‥[[瀧澤栄治]] 訳﹃ローマ法の歴史﹄[[ミネルヴァ書房]]、2008年。ISBN 978-4623052400。59f頁。</ref>。例えば、[[クィントゥス・ムキウス・スカエウォラ (紀元前117年の執政官)|鳥占官のスカエウォラ]]、[[クィントゥス・ムキウス・スカエウォラ (紀元前95年の執政官)|神官のスカエウォラ]]、{{仮リンク|クイントゥス・アエリウス・トゥベロ|en|Quintus Aelius Tubero (Stoic)|label=トゥベロ}}らはストア派の影響、[[セルウィウス・スルピキウス・ルフス]]、{{仮リンク|ガイウス・アクィッリウス・ガッルス|de|Gaius Aquilius Gallus}}らはアカデメイア派の影響のもとに法学を扱った<ref name=":2" />。
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[[キケロ]]の著作は後世ラテン散文の模範とされた。[[セネカ]]の著作はラテン文学白銀期の典型とされ{{Sfn|荻野|2007|p=129}}、﹃{{仮リンク|倫理書簡集|en|Epistulae Morales ad Lucilium}}﹄は、ギリシア文学に無いラテン文学特有のジャンル﹁書簡文学﹂にも位置付けられる<ref>{{Citation|和書|title=はじめて学ぶラテン文学史|author=[[高橋宏幸]]|year=2008|publisher=ミネルヴァ書房|editor=高橋宏幸|chapter=書簡文学|isbn=9784623052530}}198頁。</ref>。[[ルクレティウス]]﹃{{仮リンク|事物の本性について|en|De rerum natura}}﹄は、ラテン文学における最初の﹁[[教訓主義|教訓叙事詩]]﹂にも位置付けられ、[[ウェルギリウス]]﹃[[農耕詩]]﹄にも影響を与えた<ref name=":5" />。
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=== その他の分野 === |
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[[ローマ建築]]は哲学と関わる。[[パピルス荘]]には{{仮リンク|エピクロスの庭園|wikidata|Q3162455}}、キケロの{{仮リンク|トゥスクルム|en|Tusculum}}荘や[[ハドリアヌス]]の[[ヴィッラ・アドリアーナ]]には[[アカデメイア]]などを模した空間が設けられていた<ref>{{Citation|和書|title=古代地中海世界と文化的記憶|last=川本|first=悠紀子|year=2022|publisher=山川出版社|editor=[[周藤芳幸]]|chapter=キケロの書簡にみるアテナイの哲学学校と古代ローマの別荘|isbn=978-4-634-67255-0}}351;362f頁。</ref>。[[ウィトルウィウス]]﹃[[建築書]]﹄にも哲学への言及がある<ref>{{Citation|和書|title=建築倫理とウィトルウィウスの3原則|last=瀬口|first=昌久|year=2021|url=http://id.nii.ac.jp/1476/00006822/|journal=技術倫理研究|publisher=名古屋工業大学技術倫理研究会|number=18}}15-17頁。</ref>。
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{{仮リンク|古代ローマの医学|en|medicine in ancient Rome|label=ローマ医学}}も哲学と関わる。アレクサンドリアからローマに移った{{仮リンク|ビテュニアのアスクレピアデス|en|Asclepiades of Bithynia|label=医師アスクレピアデス}}は、エピクロス派の[[原子論]]を踏まえた医学を展開した{{Sfnp|内山2007|35|p=35}}。[[ガレノス]]は[[中期プラトン主義]]の影響を受けつつ、そのアスクレピアデスやストア派を批判した{{Sfnp|内山2007|35|p=35}}。[[ピュロン主義]]者の[[セクストス・エンペイリコス]]は、{{仮リンク|方法主義的医学|en|Methodic school|label=方法主義学派}}に対する{{仮リンク|経験主義的医学|en|Empiric school|label=経験主義学派}}に所属の医学者でもあった。
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[[ローマ法]]史において、共和政後期の[[法学]]は﹁[[ヘレニズム法学]]﹂と呼ばれ、[[正義]]の概念や[[演繹]]・[[分類]]の手法などでギリシア哲学から影響を受けたとされる<ref name=":2">ウルリッヒ・マンテ 著、[[田中実 (法学者)|田中実]]‥[[瀧澤栄治]] 訳﹃ローマ法の歴史﹄[[ミネルヴァ書房]]、2008年。ISBN 978-4623052400</ref>。例えば、[[クィントゥス・ムキウス・スカエウォラ (紀元前117年の執政官)|鳥占官のスカエウォラ]]、[[クィントゥス・ムキウス・スカエウォラ (紀元前95年の執政官)|神官のスカエウォラ]]、{{仮リンク|クイントゥス・アエリウス・トゥベロ|en|Quintus Aelius Tubero (Stoic)|label=トゥベロ}}らはストア派の影響、[[セルウィウス・スルピキウス・ルフス]]、{{仮リンク|ガイウス・アクィッリウス・ガッルス|de|Gaius Aquilius Gallus}}らはアカデメイア派の影響のもとに法学を扱った<ref name=":2" />。
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{{仮リンク|ヘレニズム天文学|en|Hellenistic astrology|label=ローマ天文学}}も哲学と関わる。[[マルクス・マニリウス|マニリウス]]の天文学詩﹃{{ill2|アストロノミカ|en|Astronomica (Manilius)}}﹄には、ストア派の影響が見られる<ref name=":5" />{{Sfnp|ロング|2009|p=269-281}}。[[クラウディオス・プトレマイオス|プトレマイオス]]は、[[新ピタゴラス派]]の同時代人でありながら、ピタゴラス派を批判的に継承して自説を構築した<ref>{{Cite book|和書 |title=ピュタゴラスの音楽 |first=キティ |last=ファーガソン |author=キティ・ファーガソン |translator=[[柴田裕之 (翻訳家)|柴田裕之]] |publisher=[[白水社]] |ISBN=9784560081631 |ref=harv |year=2011}}262頁。</ref>。
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新プラトン主義者の[[プロクロス]]は、[[エウクレイデス]]『[[原論]]』の注釈書や、天文学書『天文学的諸理論の概要』を著した<ref>{{Citation|和書|title=[[世界の名著]] 続2|author=[[田中美知太郎]];[[水地宗明]]|year=1976|publisher=[[中央公論社]]|editor=田中美知太郎|chapter=新プラトン主義の成立と展開}}61頁。{{NDLJP|2932126}}</ref>。 |
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== 主な哲学者一覧 == |
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== 関連項目 == |
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* [[イタリア学派 (ギリシア哲学)]] |
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* [[時は飛ぶ]] |
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* [[その日を摘め]] |
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* [[メメント・モリ]] |
* [[メメント・モリ]] |
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* [[ニヒル・アドミラリ]] |
* [[ニヒル・アドミラリ]] |
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128行目: | 133行目: | ||
* [[ウーシア]] |
* [[ウーシア]] |
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* [[ヘルメス主義]] |
* [[ヘルメス主義]] |
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* [[古代ギリシャ・ローマ世界]] |
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== 脚注 == |
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{{脚注ヘルプ}} |
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=== 注釈 === |
=== 注釈 === |
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{{Notelist}} |
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<references group="注釈" /> |
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=== 出典 === |
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{{Reflist|20em}} |
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== 参考文献 == |
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⚫ | * {{Citation|和書|title=古代ギリシア・ローマの哲学 ケンブリッジ・コンパニオン|last=セドレー|year=2009|translator=[[内山勝利]]|author-mask={{仮リンク|デイヴィッド・セドレー|en|David Sedley}}|publisher=[[京都大学学術出版会]]|editor=デイヴィッド・セドレー|chapter=序章|isbn=9784876987863}}(原著: 2003年) |
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* {{Citation|和書|title= |
* {{Citation|和書|title=ヘレニズム哲学 ストア派、エピクロス派、懐疑派|last=ロング|year=2003|translator=金山弥平|author-mask={{仮リンク|A・A・ロング|en|A. A. Long}}|publisher=京都大学学術出版会|isbn=9784876986132}}(原著: 初版1974年の第2版1986年) |
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* {{Citation|和書|title= |
* {{Citation|和書|title=古代ギリシア・ローマの哲学 ケンブリッジ・コンパニオン|last=ロング|year=2009|translator=村上正治|author-mask=A・A・ロング|publisher=京都大学学術出版会|editor=デイヴィッド・セドレー|chapter=ローマ哲学|isbn=9784876987863}}(原著: 2003年) |
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⚫ | * {{Citation|和書|title=古代ギリシア・ローマの哲学 ケンブリッジ・コンパニオン|last= |
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* {{Citation|和書|title=哲学の歴史 第2巻 帝国と賢者 古代2|last=秋山|first=学|year=2007|publisher=中央公論新社|editor=内山勝利|chapter=初期キリスト教と古代思想|isbn=9784124035193}} |
* {{Citation|和書|title=哲学の歴史 第2巻 帝国と賢者 古代2|last=秋山|first=学|year=2007|publisher=中央公論新社|editor=内山勝利|chapter=初期キリスト教と古代思想|isbn=9784124035193}} |
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* {{Citation|和書|title=哲学の歴史 第2巻 帝国と賢者 古代2|last=内山|first=勝利|author-link=内山勝利|year=2007|publisher=中央公論新社|editor=内山勝利|chapter=総論 地中海世界の叡知|isbn=9784124035193}} |
* {{Citation|和書|title=哲学の歴史 第2巻 帝国と賢者 古代2|last=内山|first=勝利|author-link=内山勝利|year=2007|publisher=中央公論新社|editor=内山勝利|chapter=総論 地中海世界の叡知|isbn=9784124035193}} |
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* {{Citation|和書|title=西洋哲学の起源|last=荻野|first=弘之|year=2016|publisher=[[放送大学教育振興会]]|chapter=帝政ローマ時代の哲学 救済と超越|isbn=9784595316036|series=放送大学教材}} |
* {{Citation|和書|title=西洋哲学の起源|last=荻野|first=弘之|year=2016|publisher=[[放送大学教育振興会]]|chapter=帝政ローマ時代の哲学 救済と超越|isbn=9784595316036|series=放送大学教材}} |
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* {{Citation|和書|title=新しく学ぶ西洋哲学史|last=荻野|first=弘之|year=2022|publisher=ミネルヴァ書房|chapter=帝政ローマ時代の哲学 救済と超越|isbn=9784623094042}} |
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* {{Citation|和書|title=キケロー|last=角田|first=幸彦|author-link=角田幸彦|year=2001|publisher=[[清水書院]]|series=Century books 人と思想|isbn=9784389411732}} |
* {{Citation|和書|title=キケロー|last=角田|first=幸彦|author-link=角田幸彦|year=2001|publisher=[[清水書院]]|series=Century books 人と思想|isbn=9784389411732}} |
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* {{Citation|和書|title=キケローにおける哲学と政治 ローマ精神史の中点|last=角田|first=幸彦|year=2006|publisher=[[北樹出版]]|isbn=9784779300196}} |
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* {{Citation|和書|title=ギリシア・ローマ ストア派の哲人たち セネカ、エピクテトス、マルクス・アウレリウス|last=國方|first=栄二|author-link=國方栄二|year=2019|authormask=|publisher=中央公論新社|isbn=9784120051579}} |
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* {{Citation|和書|title=哲人たちの人生談義 ストア哲学をよむ|last=國方|first=栄二|year=2022|publisher=岩波書店|isbn=9784004319351|series=岩波新書}} |
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特徴[編集]
低評価と再評価[編集]
旧来の哲学史において、ローマ哲学は﹁独創性を欠いた折衷主義﹂﹁実践の偏重と理論の欠如﹂﹁内面に引きこもることによる心の平静の希求[注釈 1]﹂などのイメージによる低評価が与えられてきた[4]。これらはみな根拠がないわけではないが、実態はより複雑とされる[4]。 ローマ哲学に対する低評価は、19世紀ドイツのヘーゲル学派の哲学史家ツェラーやシュベーグラーにより醸成され、ニーチェやハイデガーにも受け継がれた[5]。 一方、ローマ哲学再評価の例として、20世紀末にオックスフォード大学出版局から刊行された論文集 Philosophia togata︵﹃トガを着た哲学﹄、ミリアム・グリフィンとジョナサン・バーンズ編著、1989年・1997年︶がある[4]。また、ケンブリッジ大学出版局刊行の叢書﹃ケンブリッジ・コンパニオン﹄では、ヘレニズム哲学再評価の旗手として知られるA・A・ロング[6]が、ローマ哲学の章を担当している︵2003年︶[7]。その他、セクストス・エンペイリコスの受容史を扱ったリチャード・ポプキン﹃懐疑 近世哲学の源流﹄︵1960年︶[8]や、ルクレティウスの受容史を扱ったスティーヴン・グリーンブラット﹃一四一七年、その一冊がすべてを変えた﹄︵2011年、ピューリッツァー賞・全米図書賞受賞︶[9][10]などがある。学説誌[編集]
ローマ哲学の文献の多くは学説誌の役割も担う[11]。例えばヘレニズム期の初期ストア派の学説は、ローマ期のディオゲネス・ラエルティオス、セクストス・エンペイリコス、ガレノス、プルタルコスらによる引用や言及のおかげで、現代にまで伝わっている[12]。キケロの著作の数々も、ストア派、アカデメイア派、エピクロス派などの資料になっている[13]。アレクサンドリアのクレメンス﹃ストロマテイス﹄[14]、エウセビオス﹃福音の準備﹄、ラクタンティウス﹃神的教理﹄など、キリスト教哲学者の著作も同様である。ラテン語[編集]
使用言語はギリシア語とラテン語が併存していた[4]。例えば、マルクス・アウレリウスやプルタルコスはギリシア語で、ルクレティウスやキケロはラテン語で哲学書を著した。 しかし、主流はあくまでギリシア語でありラテン語は傍流に過ぎなかった[4]。ルクレティウスは、ラテン語の哲学詩﹃事物の本性について﹄のなかで、ラテン語の哲学語彙の乏しさに言及している[2][15]。キケロは、ラテン語は哲学に不向きであるとする当時の通説に反論し[16]、﹁哲学にラテン語を教え、哲学にローマ市民権を贈る﹂ことを理想に掲げた[17][18]。 キケロはあたかも日本の西周のように、自作の造語を訳語とすることもあった[19]。キケロの訳語のいくつかは、後世のラテン世界の諸言語に継承された。例: ギリシア語の﹁ポイオテース﹂︵ποιότης︶→ キケロのラテン語訳﹁クアリタス﹂︵qualitas︶→ 英語の﹁クオリティ﹂︵quality︶[2][20][21]。なかでも、ギリシア語の﹁ピラントローピアー﹂︵φιλανθρωπία、人間愛︶や﹁パイデイアー﹂︵παιδεία、教育︶からキケロが作り出した﹁フマニタス﹂︵humanitas︶は、彼の思想の核に位置付けられる[22]。これはテレンティウスの格言﹁ホモー・スム﹂︵Homo sum. Humani nil a me alienum puto. 私は人間だ。人間的なもので、私と無関係なものなどないと思う。︶の影響を受けたと思われ、後世の﹁ヒューマニズム﹂の元になったとされる[23]。 プラトンやアリストテレスのラテン語訳が、キケロ、アプレイウス、マリウス・ウィクトリヌス、ボエティウスらにより作られたが[19]、その大半は現存しない。わずかな現存例として、カルキディウス﹃ティマイオス注解﹄やボエティウス﹃命題論注解﹄がある。文献学[編集]
ローマ期には、プラトンやアリストテレスの全集編纂・校訂・注解などの営み、すなわち文献学︵当時は文法学に属する[24]︶も発達した[25]。その背景には、ヘレニズム期以来アレクサンドリアで栄えたアレクサンドリア文献学の存在もあった[26]。 前88年から東方でおこなわれたミトリダテス戦争の戦利品として、スラが持ち帰ったアテナイの富豪アペリコンの蔵書には、アリストテレスの﹃形而上学﹄をはじめとする当時未公開の講義草稿が含まれていた[13][注釈 2]。これを文法学者のテュラニオンが整理した後、ペリパトス派のロドスのアンドロニコスが、最初のアリストテレス全集として編纂した[13]。一方、1世紀初頭のティベリウスに仕えた文法学者アレクサンドリアのトラシュロスは、最初のプラトン全集を編纂した[28]。 3世紀以降の古代末期には、アフロディシアスのアレクサンドロスや上記のカルキディウスらにより、アリストテレス注解・プラトン注解の伝統が確立された[29][30]。歴史[編集]
前2世紀: 哲学伝来[編集]
伝説では、前8世紀の王政ローマ第2代王ヌマが、ピタゴラス︵南イタリアのクロトンを拠点とした︶の教えを学んだとされる[31][32][注釈 3]。しかし年代的に矛盾するため︵ピタゴラスは前6世紀の人物︶、この伝説は古代から疑問視されていた[32]。 哲学が明確に伝来したのは、共和政ローマ後期・ヘレニズム期後期の前155年、アテナイから外交使節として3人の哲学者がローマに来訪したときである[33][34][注釈 4]。その3人とは、アカデメイア派のカルネアデス、ペリパトス派のクリトラオス、ストア派のバビロニアのディオゲネスであり、3人とも当代きっての哲学者だった[33]。とくにカルネアデスは懐疑主義の立場から、正義論を演説した翌日に反正義論を演説する、というパフォーマンスをしてローマ人に衝撃を与えた[35]。これを受けた大カトーは、哲学がローマの若者を堕落させるとして[36]、哲学者の追放を企てた[37][注釈 5]。しかし結局哲学はローマに浸透した[37]。 哲学の浸透を促したのは、前150年代から前130年代頃の小スキピオを中心とする知識人サークル﹁スキピオ・サークル﹂だった[37]。このサークルにはストア派のパナイティオスも属した[37]。前1世紀: 共和政末期[編集]
前88年から東方でおこなわれたミトリダテス戦争の戦火を避けて、ストア派のポセイドニオス︵パナイティオスの弟子︶、アカデメイア派のラリッサのピロン、エピクロス派のピロデモスらがローマに移った[40][41]。同じ頃、キケロとその友人の小カトー、アッティクス、ウァロらが[注釈 6]、ローマや留学先のアテナイで、中期プラトン主義者のアンティオコス︵ラリッサのピロンの弟子︶、ストア派のディオドトス、ペリパトス派のクラティッポスらと交流した[36][43]。キケロの友人ニギディウス・フィグルスは新ピタゴラス主義を興した[31]。 キケロは﹁ローマ最大の哲学者﹂と評される[1]。キケロは特定の学派に属さず、穏健な懐疑主義、あるいはアカデメイア派やストア派を取捨選択する折衷主義の立場をとったが[21][44]、プラトンへの讃美とエピクロス派への批判は一貫していた[44]。キケロは哲学を修辞学や政治実践と統合させることを目指していた[1][45]。キケロの哲学著作に﹃国家について﹄﹃ストア派のパラドックス﹄﹃アカデミカ﹄﹃ホルテンシウス﹄﹃善と悪の究極について﹄﹃トゥスクルム荘対談集﹄﹃神々の本性について﹄﹃運命について﹄﹃老年について﹄﹃友情について﹄﹃義務について﹄などがある。 共和政末期は、ローマにおけるエピクロス派の最盛期でもあった[42]。ルクレティウス[46]、ピロデモス[46]、アマフィニウス[46]、エピクロス派のシロンらがエピクロス派の教説を伝え、キケロの友人アッティクス[42]や、﹁パピルス荘﹂の主人と推定されるカエサルの義父ピソ[42]らに信奉された。 前44年のカエサル暗殺の首謀者たちのなかでも、ブルトゥスがストア派を信奉したのに対し、カッシウスはエピクロス派を信奉していた[47]。カエサル自身もおそらくエピクロス派の教説に通じていた[42]。1-2世紀: 帝政前期[編集]
1世紀から2世紀には、﹁ローマ哲学の代名詞[48]﹂とも言える3人のストア派哲学者、セネカ、エピクテトス、マルクス・アウレリウスが活動した[48][49]。 1世紀には、ネロやドミティアヌスの専政に反対した政治家トラセア・パエトゥスやヘルウィディウス・プリスクスもストア派を信奉した[50]。ネロはセネカを自殺に追いやり、ドミティアヌスはエピクテトス含む哲学者たちに追放令を発したことでも知られる[51]。 この時代はキュニコス派の再燃期でもあり[52]、ペレグリノスやデモナクスが活動した。またキュニコス派とストア派が互いに接近した時期でもあり[53]、セネカに称賛されたキュニコス派のデメトリオスや[53]、エピクテトスの師であるストア派のムソニウス・ルフス[54]、第二次ソフィストのディオン・クリュソストモス[53]にその傾向が見られる。 セネカ﹃倫理書簡集﹄などに言及のあるクイントゥス・セクスティウスやソティオンは、ストア派の倫理学と新ピタゴラス派の菜食主義を折衷したような﹁セクスティウス派﹂を形成した。この学派は唯一﹁ローマ自家製の学派﹂と言い得るが、活動期間が短く、注意を惹くような学派でもない[36]。 マルクス・アウレリウスは皇帝として哲学を庇護し、176年にはプラトン派・ペリパトス派・ストア派・エピクロス派の4学派の教授職をアテナイに設置した[55]。 その他、﹃英雄伝︵対比列伝︶﹄でも知られる中期プラトン主義者のプルタルコスや[48]、﹃食卓の賢人たち﹄のアテナイオス、風刺作家のルキアノス[42]、ラテン語著作家のゲッリウス[36]、ラテン語修辞学者のクインティリアヌスらも、哲学に言及している。3-6世紀: 古代末期・中世初期[編集]
後世の影響[編集]
キケロの著作は、古代から近代までラテン世界に影響を与え続けた[64]。とくに﹃義務について﹄は、倫理学の古典としてのみならず、ラテン散文の模範としても受容された[65]。カントの義務論を代表する著作の一つ﹃道徳形而上学原論﹄は、カントと﹃義務について﹄との対話により生まれた著作とも言える[66]。 ラテン世界の中世哲学では、ギリシア語文献よりも、古代末期のラテン語文献が受容された。その例として、カルキディウス﹃ティマイオス注解﹄、マクロビウス﹃スキピオの夢注解﹄、ボエティウス﹃哲学の慰め﹄、ポルピュリオス著・ボエティウス訳﹃エイサゴーゲー﹄などがある。なかでも﹃エイサゴーゲー﹄は、普遍論争の発端となった文献とされる[67]。その他、偽ディオニュシオス文書や、プロクロスに由来する﹃原因論﹄が受容された。 ルネサンス期には、ギリシア語文献とラテン語文献の双方が多く再発見され、近世哲学の発展を促した。例えば、ルクレティウスの﹃事物の本性について﹄は、ポッジョ・ブラッチョリーニによって発見され、ガッサンディらに受容された。セネカの﹃倫理書簡集﹄や﹃怒りについて﹄は、モンテーニュやリプシウスに受容された。セクストス・エンペイリコスの﹃ピュロン主義哲学の概要﹄は、モンテーニュやデカルト、ヒュームに受容された[68]。プロティノス﹃エネアデス﹄やイアンブリコス﹃エジプト人の秘儀について﹄などの新プラトン主義文献は、プラトン・アカデミーやケンブリッジ・プラトン学派に受容された。他分野との関わり[編集]
宗教[編集]
ユダヤ教哲学では、1世紀にアレクサンドリアのピロンが、アレクサンドリア文献学と中期プラトン主義により、ヘブライ語聖書を寓意的に解釈した[69]。 キリスト教哲学では、1世紀に使徒パウロが、アテナイのアレオパゴスでストア派やエピクロス派と討論したとされる︵﹃使徒言行録﹄17:16以下︶[70][71]など、哲学を批判しつつも活用する態度をとった[72]。ギリシア教父やラテン教父もパウロと同様の態度をとり、教父哲学を構築した[72]。 キケロ、セネカ、エピクテトスは、異教の哲学者でありながら、キリスト教徒にも好意的に受容された。とくにセネカは、使徒パウロとの往復書簡が偽作されるほどだった[61]︵セネカとパウロの往復書簡︶。 代表的なラテン教父アウグスティヌスは、キケロ﹃ホルテンシウス﹄を読んで哲学を志し、晩年の﹃アカデメイア派論駁﹄でそのキケロに反駁した[73]。またアウグスティヌスは、マリウス・ウィクトリヌスがラテン語に訳した新プラトン主義の書物を読んで回心への一歩を踏み出した[19]。 グノーシス主義は、中期プラトン主義の影響のもとに形成された[69]。ラテン文学[編集]
ラテン文学は元々、哲学が伝来する前の前3世紀からギリシア文学の影響を受けていた[34]。前168年または前159年には、哲学者で文法学者のマロスのクラテスが、ローマで文学や文法学を講義した[74]。 キケロの著作は後世ラテン散文の模範とされ、セネカの著作はラテン文学白銀期の典型とされた。セネカ﹃倫理書簡集﹄は、ラテン文学において栄えたジャンル﹁書簡文学﹂にも位置付けられる[75]。ルクレティウス﹃事物の本性について﹄は、ラテン文学における最初の﹁教訓叙事詩﹂にも位置付けられ、ウェルギリウス﹃農耕詩﹄にも影響を与えた[76]。 ウェルギリウスとホラティウスは、エピクロス派やストア派からの題材を詩に取り入れている[36]。ペルシウスの﹃風刺詩﹄や、ルカヌスの叙事詩﹃内乱について﹄には、ストア派の影響が見られる[36]。ローマ法[編集]
ローマ法史において、共和政後期の法学は﹁ヘレニズム法学﹂と呼ばれ、正義の概念や演繹・分類の手法などでギリシア哲学から影響を受けたとされる[77]。例えば、鳥占官のスカエウォラ、神官のスカエウォラ、トゥベロらはストア派の影響、セルウィウス・スルピキウス・ルフス、ガイウス・アクィッリウス・ガッルスらはアカデメイア派の影響のもとに法学を扱った[77]。 キケロは﹃法律について﹄で、ストア派の影響を受けつつ、慣習法的な十二表法や不文法的な父祖の遺風を、自然法と一致させることを目指した[78]。その他の分野[編集]
ローマ建築は哲学と関わる。パピルス荘にはエピクロスの庭園、キケロのトゥスクルム荘やハドリアヌスのヴィッラ・アドリアーナにはアカデメイアなどを模した空間が設けられていた[79]。ウィトルウィウス﹃建築書﹄にも哲学への言及がある[80]。 ローマ医学も哲学と関わる。アレクサンドリアからローマに移った医師アスクレピアデスは、エピクロス派の原子論を踏まえた医学を展開した[81]。ガレノスは中期プラトン主義の影響を受けつつ、そのアスクレピアデスやストア派を批判した[81]。ピュロン主義者のセクストス・エンペイリコスは、方法主義学派に対する経験主義学派に所属の医学者でもあった。 ローマ天文学も哲学と関わる。マニリウスの天文学詩﹃アストロノミカ﹄には、ストア派の影響が見られる[76][36]。プトレマイオスは、新ピタゴラス派の同時代人でありながら、ピタゴラス派を批判的に継承して自説を構築した[82]。 新プラトン主義者のプロクロスは、エウクレイデス﹃原論﹄の注釈書や、天文学書﹃天文学的諸理論の概要﹄を著した[83]。関連項目[編集]
- Category:古代ローマの哲学者
- イタリア学派 (ギリシア哲学)
- 時は飛ぶ
- その日を摘め
- メメント・モリ
- ニヒル・アドミラリ
- アルスロンガ、ウィータブレウィス
- リベラル・アーツ
- ウーシア
- ヘルメス主義
- ローマ神話
- 古代ギリシャ・ローマ世界