被服
(衣類から転送)
被服︵ひふく、英: clothing︶とは、人体を覆う目的の着装物の総称であり、基本は衣服であるが、それに加えて被り物︵かぶりもの︶[注 1]・履物︵はきもの︶・手袋なども含まれる。[1]
被服と類似の用語として、衣服︵いふく︶、服︵ふく︶、衣類︵いるい︶、衣料︵品︶︵いりょう︵ひん︶︶、衣︵ころも・きぬ︶、着物︵きもの︶等がある。被服と衣料・衣料品は同義で、身体を包む物の総称である。他方、衣服・服・衣類は、被服から被りものや履物、装身具を除いたものである。[注 2][注 3]{[注 4]
[注 5]
なお、意味が近接する語彙に、服飾、服装、衣装︵衣裳︶などがあるが、意味や指す範囲がそれなりに異なるので各記事を参照のこと。
本項ではあくまで被服について解説する。
ヘッドバンド、帽子、毛皮の襟付きコート、ショール、セーターなど冬 用被服を着込んだ乳児。
体毛の乏しい人類にとって、被服は基本的に体温調節を補助する役割を担っている︵人体と衣服の間にできる空気の層や、それを作ることを、衣服気候または被服気候または衣服内気候という[5][6][7]︶。衣服は比較的簡便な体温調節機能の一つであり、気温が低くなれば︽重ね着︾したりあるいは服内部により多くの空気を保つ厚手の衣服に変えることで体温を保とうとし、逆に気温が高くなれば衣服を減らしたり薄手の服に変えることで体温を一定に保とうとする。季節によって激しい気温差がある場合、夏には薄着になり、冬には厚着になる。夏服と冬服など、季節の推移に応じて衣服を替えることは衣替えという。
体温調節のなかでも特に︽防寒︾は被服の起源の一つとされ[8]、非常に重要であり、寒い場所では防寒着が利用される。保温を重視する場合、静止した空気の層を身体周辺に作り出すことが重要であるため、空気をよく含む生地の服を重ね着し、戸外に出る場合は通気性が低い素材の服をその上に重ねて外部の冷気を遮断し身体周辺の暖気を保護する[9]。同様の理由から皮膚の露出を減らし暖気を逃がさないよう、首回りや袖などの開口部を狭くし、フードや手袋などで露出部を保護する[10]。
人間は寒冷よりも暑熱に強く、気温が28℃から31℃程度の場合は衣服が無くとも快適に過ごせることが判明している[11]。このため、熱帯アフリカや南太平洋の諸島などの湿潤暑熱地域ではかつては一部に裸族も存在し、また伝統服では、腰布のみで上半身が裸体であり、全身を覆う衣服は儀礼用の存在にとどまった場合も多かった[12]。
とはいえ、そうした地域以外では、衣服で保温する必要が無くても、社会的規範や身体保護のため、何らかの衣服を着用する。高温に対処する場合、吸湿性と通気性のよい綿や麻を素材に用い、服の被覆面積を少なくして体温の放熱を促進することが多い[13]。近年ではポリエステル素材で、綿・麻などよりも汗を蒸散させる機能を高めた快適にすごせる服︵﹁速乾﹂﹁ドライ﹂﹁DRY﹂などの表示があるもの︶も利用される。なお、戸外に出る場合は直射日光を避けるためむしろ露出を減らす方が体温の上昇を防ぐことができる[14]。
概説[編集]
被服は人体の保温、保護、装飾、社会的地位の表象等のために発展してきたもので、人間の文化の構成要素の一つである。 被服の基本である衣服は、最も典型的には、繊維を紡いで糸をつくり、その糸を織ったり編んだりして︵あるいは繊維を濡らし縮絨を起こさせフェルトにして︶布類︵布帛︶をつくり、それを縫い合わせて着用に適した形状に仕立てたものである。 衣服は英語ではアパレル︵apparel︶とも言い、衣服を製造する産業はアパレル産業と呼ばれており既製服を大量生産している。20世紀後半以降は、人々が着用している衣服のほとんどは工場で大量生産された既製服である。→#製造で解説。 だが、スーツにこだわりがある人は仕立て屋でオーダーメイドで仕立てる。また︵かなり限られた人数の富裕な女性ではあるが︶パリのオートクチュール・メゾンでデザインや生地を指定して服を作ってもらう人もいる。 また、ハンドメイドで作る人もいる。 歴史を遡れば、古代ローマでは各家庭で女性が羊毛の繊維を紡いで毛糸をつくり、その毛糸を自分で織って生地を作り、その生地で男性服のトガを作っていた[2]。現代でも衣服を手作りする人々がいる。なお日本のNHKでは﹃すてきにハンドメイド﹄の﹁ソーイング﹂の回で衣服をハンドメイドする方法が教えられている。イギリスBBCでは﹁ソーイング・ビー﹂︵en:The Great British Sewing Bee︶という、イギリス全土のアマチュアが毎回テーマを与えられ服作りの腕を競い合う番組が放送され、日本でもNHKが放送した[3]。被服の目的[編集]
被服着用の目的は多様であるが、主には、体表付近の温湿度を調節する環境制御、身体や皮膚の保護・防御、身体の一部の秘匿や強調、装飾、また、性別・身分・職業等の表示がある。被服は単一の目的︵機能︶のために用いられることは稀で、大抵は複数の機能を同時に担っている。例えば制服や礼服は、社会的機能を担うと同時に体温調整の機能も考慮されている。スポーツウェアは動きやすさ・体温調整・怪我防止の役割を同時に果たすように考慮されている一方で、日常使用を考慮したファッション性の高いものも存在している[4]。実用的な役割の衣類と社会的・シンボリックな役割の衣類に分類されることもあるが、それらが絡み合っている場合もあり、いつもすんなりと分けられるわけでもない。例えば白衣は、実用的には汚れ防止のために衣類の上に重ね着するものではあるが、服が汚れる実験をするわけでもないのに医者が普段からわざわざ白衣をまとうのは、"自分は自然科学系の訓練を受けた者だ" との印象づけを患者に対して行い、現代の患者が自分でも気づかぬうちに心に抱いている、自然科学のイメージなら何でも盲信してしまい逆らいづらくなる気持ち︵"科学信仰"︶を利用して患者を自分の"言いなり"にするために使っている[注 6]。体温調節と身体保護[編集]
砂漠地帯など乾燥暑熱地域では、直射日光や熱風などで身体に気温以上の熱の侵入があり、外部熱を遮断するべく全身を衣服で覆うのが一般的であり[15]、トーブなど、その目的の伝統服が使われる。
衣服は体表を保護し、傷つけないための役割も担っている。また、様々な活動を補助する役割も持つため、それぞれの用途に特化した専門服や特殊服が存在する。作業着、防護服などは、怪我や汚れを防止する目的に特化した衣服であり、また身体を激しく動かす場合には、活動性の高い被服が用いられる。寝間着は睡眠時使用に特化した衣服であり、体を締め付けないようなゆったりとしたデザインで肌触りがよく伸縮性・吸湿性に長けた生地が多く用いられる[16]。
毛皮をまとったネアンデルタール人の再現展示。︵ベルギーのGall o-Romeins Museum Tongeren︶
毛皮の毛を内側にした衣服を身にまとったネアンデルタール人︵ドイツ のネアンデルタール博物館の展示︶
最初期の衣服について考察する時、簡素な形状の衣服と複雑な形状の衣服を区別して考察することは役に立つ。最初の簡素な衣服は、片方の肩にかける衣服︵現代ではdraperyと呼ばれている形状のもの︶、あるいはケープのような形状、あるいはロインクロスのような衣服であった可能性がある。その後に登場した複雑な衣服は、複数のパーツを組み合わせ、袖やズボンの脚の部分が付けられた可能性がある[32]。
考古学者は、旧石器時代の遺物から、単純な衣服と複雑な衣服の証拠の両者を区別しつつ発見することができる。単純な衣服と複雑な衣服では異なる技術が使われるからである。︽皮を削る道具︾は簡素な衣服の存在を示しており、100万年前以降の中緯度の遺跡からは、︽皮を削る道具︾が多数出土している。しかし氷河期になると中緯度から︽皮を削る道具︾を使う人類は姿を消しており、これは単純な衣服では保温効果が低かったことの影響だと見られている[32]。
複雑な衣服を作るには、もっと複雑な技術が必要であり、動物の皮の形を変えるために人類は専用の︵石器の︶刃物を使用した︵考古学者はそれをブレード︵英: blade︶と呼ぶ︶。また、皮を切り取って作った部分に穴をあけて縫い合わせた。皮に突き刺すようにして穴をあけるための尖った道具は、動物の前肢の細い骨や肋骨など細長い骨から作られていることが多い︵これはオール︵英: awl, 千枚通し︶と呼ばれる︶。その後、旧石器時代の人類はより洗練された裁縫道具である﹁目﹂︵穴︶がついた針を発明した。[32]
右に博物館のネアンデルタール人の再現展示の写真を掲載する。ベルギーの博物館のものと、ドイツの博物館のものである。通常、ネアンデルタール人は毛皮をまとっていたと考えられているのである。︵なおネアンデルタール人は以前は我々現生人類とは遺伝子的には関係が無いと考えられていたが、近年のDNA解析で、ネアンデルタール人のDNAは我々現生人類のDNAの中に数パーセントほど残っている、ということが明らかになっている。[33]︶
なお、一部の論者は、衣服の起源を7万年前から7万5千年前に、現在はインドネシア領であるスマトラ島のトバ火山が大噴火を起こして地球規模の気候寒冷化[34]を引き起こし、その後の人類の進化に大きな影響を与えたトバ・カタストロフ理論に関連づけている[35][36][37]。その論拠として、ヒトに寄生するヒトジラミは2つの亜種、すなわち主に毛髪に寄宿するアタマジラミ︵Pediculus humanus capitis︶と、主に衣服に寄宿するコロモジラミ︵Pediculus humanus corporis︶に分けられ、近年の遺伝子の研究からこの2亜種が分化したのはおよそ7万年前であることが分かっている[35]。そこでシラミの研究者らは、トバ火山の噴火とその後の寒冷化した気候を生き抜くために、ヒトが衣服を着るようになったのではないかと推定している[36]。
なお、人類のアフリカ単一起源説ではヒトの共通の祖先は14~20万年前にアフリカにいたと考え、ヒトがアフリカからその他の地域へ移住を始めた︵人類の進化#出アフリカ説︶時期を7万から5万年前としている[38][39]。
紀元前25000年頃には針と糸によって素材を縫製する衣服が誕生した[40]、とも。やがて繊維から糸を紡ぐ技法が開発され、さらにその糸どうしを組み合わせることで、布を織ることが可能となり[41]、これが衣服素材の主流となっていった。織物による衣服は紀元前7千年紀には発明されていた[40]。日本においては、アサの実の発掘資料が分布し[42]、縄文時代後期︵約3200年前︶の編み込み模様のある布[43]や、鳥浜貝塚︵福井県︶より縄文時代草創期のアサ繊維が出土し[44][45]、千葉県の沖ノ島遺跡︵館山市︶から発掘されたアサの仲間の果実化石はアサ︵Cannabis sativa︶と同定されると、同種の記録は2008年時点の世界最古であった[46]。縄文期の服装[47]を知る手がかりとなる物証[48]として注目されている[要出典][注 7]。
メソポタミアの地で出土した羊毛のスカート状の服を着た男性像︵紀元 前2500年頃︶
歴史学者は、古代メソポタミアの人々が羊の毛を刈ってそれから服を作ることができると発見した、と考えている[52]
古代エジプトでは肥沃な土地で亜麻を栽培し亜麻布が織られ、羊も飼いウールの布︵毛織物︶も織られ、古代エジプトでは、亜麻布と毛織物の両方の衣服があったが、亜麻布のほうが"清浄"と見なされたのに対して毛織物のほうは"不浄"と見なされ、毛織物の衣服は富裕な人などが着用したものの、神殿︵en︶では着用できなかった。
絹は歴史時代を通じて常に価値が高く、高級な素材として扱われた[53]。
木綿は低緯度地帯での栽培が中心であり、ヨーロッパや東アジアでの本格利用は遅れた。16世紀以降、その安さや着心地の良さから本格的な利用が始まり、最も一般的な被服素材の一つとなった。
日本においては古来よりカラムシ︵ラミー、ramie︶から取られた苧麻が主な衣服素材であり、また絹の生産も行われていた[54]。︵ヨーロッパも木綿の本格的普及は16世紀以降だったわけだが︶日本でも17世紀前半に保温性や柔軟性に優れた木綿の生産が急速に広がり、主力衣料原料となっていった[55]。
形状
古代ローマのトーガ
古典古代期︵古代ギリシアや古代ローマの時代︶に利用された衣服は、トーガのように幅広の布を体に巻き付けるか、一枚の布を袋状に仕立てて首と腕を出す部分に穴を開けたチュニック︵ポンチョ︶やガウンの類であった[56]。これらの衣服は、布地を体型に合わせて裁断することなく仕立てるために、着るというよりも纏うものであり、ひだが多く緩やかなラインになる特徴がある[56]。中世初期に中央アジアのテュルク系騎馬民族が、布地を体型に合わせて裁断し前開きに仕立てたカフタンや革靴を使用するようになる。寒さと騎乗に適応したジャケット型の上着やズボンと革靴は、モンゴル帝国の拡大とともにユーラシア大陸の東西に伝播し、独自の進化を遂げていく[56]。
所有点数
古代の日本では、社会上層を除き衣服の所持点数は少なく、奈良時代︵710年-︶の下級役人層では所持する衣服を洗濯するためにわざわざ休暇を申請することも珍しくなかった[57][58]。
社会的地位の表象[編集]
衣服は多くの社会において社会的地位の表象手段として用いられており、年齢、身分、職業等に応じた被服によって、組織の一員であることを示したり、集団内の役割を表現したりする[17]。古代より衣服はステータスシンボルや地位を表すための一手段として用いられることがあった。ある種の衣服について地位の高いもの以外の着用を禁じることは多くの文明に見られたが、現代の民主社会においてはおおむねこうした制限は廃止されている。ただし、21世紀に入っても制服を定める企業や学校も多く、その所属や職業を示している[18]。性別による衣服の区別もほとんどの社会で存在しており、異性装はかなり明確な批判の対象となってきたが、21世紀に入り服装の性差の撤廃を目指す動きも現れ始めている[19]。 多くの宗教において聖職者は独特の衣装を身にまとう[18]。それとは別に、イスラム圏の女性の服装などのように宗教上の戒律によってまとう衣服に制限が加えられる場合がある[20]。イスラームの女性は﹁髪も男性に見せてはいけない﹂と考えられているので、頭を覆うヒジャブが必要となり、﹁顔以外の素肌は見せてはいけない﹂とされているため袖口も狭いものが選ばれる[要出典]。 特定の場面に応じた被服の選択が求められる場合もあり、冠婚葬祭など各種の儀式典礼においては礼服が着用され、ドレスコードが指定される場合も多い[21]。男性のビジネスシーンにおいては、19世紀以降スーツの着用が全世界で一般的となっている[22]。また衣服は着る人の思想信条、ライフスタイル、文化背景、経済力等を表現する手段ともなる。例えば高価で高級な衣服をまとうことで財力や地位を誇示することは広く見られる[23]。身体装飾[編集]
衣服を身体装飾として用いることは、防寒と同じく衣服使用の最初期から行われており[24]、重要な用途の1つである。衣類は基本的に身体︵の一部︶を隠したり、強調したりするためにも用いられる。被服によって自らの性的魅力を強調し対象を魅了することはしばしば見られるが、逆に局部を中心に身体を覆い隠すことによって慎みを表わすこともまた一般的である[25]。衣服に関する価値観は同一文化内においてしばしば共有され[26]、ある衣服のパターンが多くの人々に受け入れられた場合しばしば流行を引き起こす。こうしたファッションは短期間に変動を繰り返すが、中には完全に一つのスタイルとして定着するものもある[27]。 一方で、衣服は着用者の美意識をそのままあらわすものであり、個性を示す手段ともなっている[28]。着用する衣服は他者からの第一印象を決定づけるものであり[17]、これを利用して他者に自らの望むイメージを抱かせることも行われる[29]。この﹁流行への追随﹂と﹁個性の強調﹂は本質的に対立する概念であるが、衣服の選択場面においては併存しており、両者とも非常に重視されている[30]。 コルセットによる身体圧迫のように、身体装飾の欲求が実用性の欲求を上回った場合、身体保護機能や体形を無視した衣服が着用されることは歴史上しばしば見られる[31]。被服の歴史[編集]
起源[編集]
人類の歴史は数百万年だとされているが、そのほとんどを採集や狩猟をして生きてきた。[注釈 1] 漠然と、人類は狩猟をして捕獲した動物から肉を得るために解体する際に生じる毛皮を洗って着用した、と考えられてきた。 考古学者は従来、衣服にあまり関心を向けてこなかった[32]。人類が数百万年前や数万年前に動物の毛皮や皮その他植物などを身にまとっていたとしても、そのような毛皮・皮・植物は、数百万年や数万年もの時間の影響ですでに朽ち果ててしまっていて残っていないからである[32] 。物的証拠が見つかるはずが無いと最初から分かっているものに関しては、考古学者でも興味が持てなかったのである[32]。 太古の昔の衣服は失われてしまっているが、幸いなことに、衣服を作るために使われた道具である針︵動物の骨から作り﹁目﹂つまり穴をあけられた針︶なら遺物として発見されているので、それが物的な証拠︵とはいえ間接的な証拠ではあるが︶を提供してくれている[32]。古代[編集]
古代︵から近世まで︶の被服の素材 被服の材料としては、羊毛︵ウール︶、いわゆる"麻"類[注 8]︵亜麻︵リネン︶、大麻︵ヘンプ︶︶、絹︵シルク︶、木綿︵コットン︶といった自然繊維や毛皮︵ファー︶が主なものであった[51]。近代[編集]
1760年代にイギリスにおける産業革命で水力や蒸気機関の応用と織機・紡績機の改良が進み、織物の生産能力が格段向上した。さらに1820年代には型紙とミシンの普及によって、一定のサイズでの衣服の大量生産が可能になり、既製服が誕生して、1850年代以降急速に拡大した[59]。また、それまで天然素材しか存在しなかった染料や繊維に関しても、合成染料︵19世紀中頃︶や化学繊維︵19世紀末︶などが発明され、素材の種類が大幅に広がった。西洋世界の文化的軍事的優位を基盤として、欧米以外の世界各地に洋服が普及しはじめたのもこの時期のことである。日本においては第二次世界大戦前から徐々に洋服化が進行していたものの、戦後すぐに完全な和服からの転換が起き、洋服が日常着となった[60]。 第二次世界大戦が始まると、日本では1942年2月1日から衣類の配給制︵点数切符制︶が導入された。都市部の住民には1人年間100点、都市部以外の住民には1人年間80点が年齢に関係なく与えられ、点数化された衣料品︵例‥スーツ一式31点、国民服、学生服14点、婦人用ワンピース4点など︶を購入することができた[61]。当初は内地のみに限った1年間の期限付き制度であったが、戦局が悪化するにつれ延長していった[注 9]。現代[編集]
第二次世界大戦後、既製服の本格的な普及が始まり被服は消費財へと大きくその価値を変えることになる。日本では1942年から1950年まで衣料切符が無ければ被服を自由に買えない時代[66]が続いたが、1960年代半ば頃に既製服の普及が起きた[67]。これにより、消費者は小売店で既製品を選択、購入し、着用および手入れを繰り返した後、これを廃棄するようになった。また、当時、織物が主体であった外衣であるが、1970年頃になるとTシャツやポロシャツなどの素材となるイージーケアな編物がカジュアル、スポーティーなどのイメージとともに生活に浸透してくる[68]。現在の被服は、ファッションの影響を強く受ける消費財として定着している。衣服のメーカーやデザイナーはマーケティングや広告宣伝の技術を用いて消費者心理に訴え、さまざまなファッションブランドが成立している。また、1980年代以降には、製品としての被服の生産拠点が中国などに移行し、2000年代以降には産業形態の一つとして製造小売業︵SPA]︶が成功をおさめ注目された<[69]。 21世紀に入り、被服の製造・流通・着用・廃棄の各過程において更に多様化が進んでいる。たとえば入手の方法では、通信販売︵ネットショッピングなど電子商取引を含む︶、競売︵ネットオークション︶など、商品もいわゆるブランド品やアウトレット商品、中古などと選択肢の拡張がなされている。保管に際しては、ファッションの変化速度が増し、物理的には着用可能な被服が退蔵、死蔵の状態に陥ることもしばしば認められる。廃棄の時点では、環境問題に配慮して様々な再使用やリサイクルも試みられている。 透湿と撥水の両立、高い断熱性、防虫加工など、それまでの化学繊維には無かった機能を有する素材の価格が低下したことで、一般向けの衣服にも使われるようになった[70][71][72]。 屋外での使用を想定し、冬期用として電気毛布のように電熱線を内蔵した衣服︵ヒーターウエア︶、夏期用として外部から空気を取り込むファンを搭載した衣服︵空調服︶も普及している[73]。 情報産業の側面にも注目が集まり、本格的なウェアラブルコンピュータの研究開発なども行われている[74]。服の種類としてはほぼどの文化圏においても洋服が最も一般的なものとなったが、民族衣装もいまだ完全に衰退してはおらず、祝祭などの日には着用例がみられる[75]。被服の種類[編集]
被服には様々な分類方法がある。 外側に着る服を外衣︵アウターウェア︶といい、肌に直接︵そして基本的に他の衣服の下に︶着る衣類を下着︵インナーウェア︶と言う。 上半身に着るものをトップス、下半身に着るものをボトムスと言う。- 様々な民族服
詳細は「民族服」を参照
世界各地には、その地域で取れる素材をもとに、現地の気候や生活様式に合わせた様々なタイプの民族服が存在する。民族服の形態は、主に腰に衣服を巻き付ける腰布型、肩から全身に布を巻き付ける巻垂型、布の中央に穴を開け、そこに頭部を通して着る貫頭型、衣服の前方が割れており、着た後でそこを合わせる前開型、そしてあらかじめ体型に合わせて服を仕立てる体形型の5種類が存在し[76]、それぞれ気候や生業に合わせた分布を示している。縫製をしない腰布型と巻垂型を懸衣、ゆったりと仕立てる貫頭型と前開型を寛衣としてそれぞれまとめ、体に密着する体形型を窄衣として3種類にまとめる分類法も存在する[77]。
また、衣服が皮膚を覆う面積も気候によって大きく異なる。寒冷地域においては、寒さから身を守るため体形型の衣服で全身を覆うことを基本とし、毛皮などの防寒性の高い素材を主に使用する[78]。温暖で冬季湿潤のヨーロッパや中央アジアでは体形型で上半身と下半身の衣服が分かれており、素材は亜麻と羊毛を基本とする[79]。温暖で夏期湿潤の東アジアでは前開型の衣服が基本となり、本来は麻を、後には綿も素材として使用することが多い[80]。高温多湿の南アジアや東南アジア、南太平洋においては巻垂型や腰布型の地域が多く、綿や麻といった通気性と吸水性のよい素材を主に使用する[81]。高温で乾燥した砂漠地帯では貫頭衣が基本であり、暑熱と砂塵から身を守るために全身を覆うことが多い[15]。
衣服の素材[編集]
古代から使われている素材については#被服の歴史#古代の節で説明した。 ︵現代の衣服の素材を俯瞰すると︶ 衣服の素材となる繊維は、大きく天然繊維と化学繊維に分けられる。天然繊維は羊毛などの各種獣毛や絹といった動物繊維と、綿や麻などの植物繊維からなるが、なかでも綿、いわゆる"麻"類︵亜麻、大麻︶、絹、羊毛︵ウール︶の利用が飛び抜けて多い。化学繊維はレーヨンなどの再生繊維、アセテートなどの半合成繊維、そしてナイロンやポリエステル、アクリルといった合成繊維からなる[82]。 布地は平織、綾織、繻子織などの織物のほか、編物︵ニット︶やレースも用いられ、また繊維のほかに皮革︵レザー︶も広く用いられる素材である[83]。 素材にはそれぞれ長所と短所が存在し、その特性に沿った利用がなされるほか、素材の長所を生かし欠点を補うために2種類以上の素材を混ぜ合わせて紡績する混紡も広く行われている[84]。生産・流通[編集]
詳細は「アパレル産業」を参照
衣服の製造・流通業はアパレル産業と総称される。
衣服生産の機械化と大規模化はミシンの発明と普及によって成し遂げられたが、ミシンは生産過程において人による操作がかならず必要となるため、完全機械化が困難である[85]。これにより大規模な衣服生産には労働力の大量投入が必要となるため、衣料産業は人件費の安価な発展途上国に多く立地しており、また生産国の経済発展により人件費が高騰すると、さらに工賃の安価な国へと拠点が移動することが多い[86]。日本においても1970年代に韓国や台湾へと衣服生産は移行し始め、国内生産は1990年代には大きく減少した。さらに2000年頃には中華人民共和国︵中国︶が衣服の生産拠点となり、その後は東南アジアやバングラデシュが一大生産地となった[87]。このため先進国においては衣服は輸入品が中心となっており、日本では国産の衣服は一方で総点数のわずか2.3%にとどまりながら︵2018年︶、他方でその金額は24.0%︵2016年度︶となっている[88]。
生産された衣服の流通経路は従来、卸売商を経て衣料品店や百貨店などの小売店に渡り、そこから消費者の元に届くのであったが、2000年代以降、生産から販売までを一貫して行う製造小売業が登場し有力な販売形態となっている[89]。日本においては1960年代以降、世帯単位の衣料支出の割合は一貫して減り続けており、1990年代以降は絶対額においても減少傾向にある[90]。1990年代以降の衣料支出減少は、長期不況と、ファスト・ファッション化の進行によって衣料の需要が低価格化したことが主因である[91]。
大量消費社会では、ファスト・ファッションを中心に、品切れを防ぐなどの目的で大量生産された衣服が大量に在庫・廃棄されている。持続可能性や環境問題などへの配慮から、こうした衣服の過剰生産を欧州連合︵EU︶が規制を進めている[92]ほか、各社の在庫を安く売る業態︵オフプライスストア︶[93]などビジネスを通じた問題緩和の動きも出ている。
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使用者による管理[編集]
普段の管理 衣服は使用や経年変化により汚損したり劣化するため、適切な管理が必要である。着用した衣服は洗濯を行い、汚れを除去する。通常、洗濯は家庭において、水と洗剤を利用し洗濯機で行い[94]、その後、乾燥させて保存する。水洗いのできない場合や洗濯が困難な場合はクリーニング店などの専門の洗濯業者に依頼し、ドライクリーニングなどで汚れを除去する[95]。衣類全体に変色が広がった場合は漂白剤によって漂白を行い、一部の汚れではしみ抜きを、しわがある場合はアイロンをかける[96]。衣服を長期保管する際は虫害を避けるため防虫剤を使用することが多く、またカビの発生を避けるため湿度を低く保つことが望ましい[97]。︵なお日本では、衣服にはその組成や取り扱い方法を表示することが家庭用品品質表示法によって義務づけられている[98]ので、その表示も参考にしつつ適切な方法で扱うことが望ましい。︶ 着なくなった衣服の管理 着なくなった衣服の扱い方はいくつもある。主な扱い方は3〜4種類あるので[99]、下に挙げる。 ●汚損部分を修理したり、︽仕立て直し︾したり、全く違うデザインにリメイクして着用する方法 ●古着屋やリサイクルショップに譲渡・販売したり、フリマアプリ︵メルカリなど︶を通して売ったり[99]︵あるいはジモティーなどでまとめて大量に譲ったり︶して、誰かに衣服として再利用してもらう方法 ●資源として回収してもらう方法︵各市町村や良品計画︵無印良品︶やファーストリテーリング︵ユニクロ︶などの店舗が行っている。回収された衣服は主に解体されウエスや繊維材料として活用される︶[99] [注 10] ●可燃ごみ・不燃ごみとして廃棄する方法。だがこの方法は持続可能性︵サステナビリティー︶という観点からは不適切なので、この方法ではなく、上で挙げた衣服としての再利用や資源回収にまわすほうが適切である。[99] 日本では、そもそも衣服が持続可能性と深い関係があるという意識を持っている人の割合がかなり低く[99]、不適切なことに、衣服がゴミとして捨てられている率が66パーセントほどにもなっている[99]。2010年の衣料の修理・再使用・リサイクル率は26.3%に達したが、金属や古紙に比べると廃棄率が目立って高く、持続可能性という観点から廃棄される衣服を減らすことが重要な課題となっている[101][102]。 企業の取り組みも始まった[注 11]だが、衣服を使用する人々が衣服をゴミとして捨ててしまっていては企業のほうも打つ手が無いので、肝心なのは衣服を使用する人々の意識であり、衣服をゴミとして捨てないことである。[99]脚注[編集]
注釈[編集]
(一)^ 頭にかぶるもの。帽子類やヴェール類など。
(二)^ ﹁ころも﹂は万葉集でも使われた。平安時代の物語では主に僧が着ているもの︵僧衣︶を指す。[1]
(三)^ なお﹁着物﹂という言葉は曖昧であり、衣服全般︵本記事で扱う︶を指すために使っている人もいれば、特に長着を指すために使う人もいれば、西洋の服﹁洋服﹂と対比して和服全般を指すために使う人もいる。
(四)^ ﹁きぬ﹂という音がどこからきたかに関して2つほど説があり、まだ日本で文字が使われていなかった弥生時代に、古代の韓語(からご)のkienという発音が朝鮮半島の楽浪あたりから日本に伝わりそれが訛って﹁きぬ﹂になったのだろうという説と、文化的にはより源流にあたる中国の、kyuanという語︵文字ではなく音︶が日本に伝わり、kyuanの終わりのnに寄生母音のウがついてkyuanuとなり﹁きぬ﹂という日本語になったという説ある。養蚕や絹の発祥地は華中の揚子江流域とされることが多いが、揚子江流域の人々が日本にやってきて養蚕・生糸・織物の技術をkyuanと呼んでいるのを聞いた弥生人たちが、その発音をまねているうち﹁きぬ﹂になったとしても不思議ではない。[2]
(五)^ なお、日本語としては大和言葉でひらがな表記ができる﹁ころも﹂や﹁きもの﹂が柔らかい印象を生む。他方、﹁被服﹂﹁衣類﹂﹁衣料﹂などもっぱら漢字で表記せざるを得ない語の音は硬い印象を生む。
(六)^ 白衣が実用的な役割というよりも、むしろ心理操作のために使われていること、ならびにそのカラクリについては、ロバート・S・メンデルソンが著書で解説している︵出典‥ロバート・S・メンデルソン︵1999年︶﹃医者が患者をだますとき﹄の巻頭の﹁まえがき﹂部から第1章の冒頭にかけての数ページ︶。なお医師の白衣が患者の心理にもたらす影響の別の例は﹁白衣高血圧﹂でも解説されており、また医師の間でも象徴的な効果を持っていることについては﹁白衣授与式﹂も参照可。
(七)^ なお、縄文土器︵狭義︶の縄目文様は撚糸を土器表面で回転させてつけたもので[49][50]、糸の存在を裏付けるものでもある。
(八)^ 亜麻︵リネン、フラックス︶と大麻︵ヘンプ︶は、植物種としては別のものであり、欧米ではメソポタミアや古代エジプトから亜麻が使われ、古代から亜麻と大麻はしっかりと区別されていて、中世ヨーロッパでも亜麻が大量に使われ、亜麻と大麻はしっかり区別されていた。だが、日本では亜麻は歴史が非常に浅く、江戸時代にようやく入ってきたもので、また古代から江戸時代にかけて﹁あさ﹂と呼ばれていた繊維の種類と、明治以降に西洋の布が大量に入ってきて1930年代以降に制定されたJIS表示の﹁麻﹂が指す繊維の種類が大きく異っており、おまけにJIS表示では大麻も亜麻も乱暴にひとまとめにして﹁麻﹂と表示してしまうので、つまり国語辞書などに掲載される日本語の古来の﹁麻﹂と、衣料品のJIS表示の﹁麻﹂が指す範囲が大きくずれており、日本では多くの人が﹁麻﹂という言葉が結局何を指しているのか分からなくなり混乱する事態が生じている。学者でも、繊維以外を専門とする学者は、繊維の実物を確認せずに、両者を混同して間違ったことを書いている例がある。
(九)^ 経済総動員制が研究され[62]、国家総動員法の発布、雑誌﹃商工経済﹄でもイギリスやナチス・ドイツの衣料切符制度を掲載し[63]、翌1942年春には﹁戦う国の生活﹂[64]と呼び、女性雑誌﹃主婦の友﹄でも大東亜戦争特集号﹁特輯決戦家庭経済号﹂として家庭にある既存の洋服や着物のリメイク︵更生服︶を勧め﹁衣類切符制下の洋裁﹂特集[65]を組み、実物大の型紙を付けて縫い方を紹介した。
(十)^ なお回収され輸出された古着が、発展途上国であっても売り物にならないほど劣化していて廃棄されて環境破壊を引き起こす例もある[100]。
(11)^ 環境省のサイト[103]より。﹁棄てられたコットン製品から、新たにコットンの服を作るプロジェクトの取り組み事例﹂[104]、﹁服は国内で循環するもの﹂という新しい常識・文化を作る取り組み事例﹂[105]、﹁自治体と連携した古着回収&リサイクルの取組事例﹂[106]、﹁服から服をつくる衣類のサーキュラー_エコノミーへの取組事例﹂[107]、﹁繊維くずや使用済み衣料から新しい衣料を製造する取組事例﹂[108]。
- ^ 人類の歴史が数百万年もあるのに対して、人類が農耕を始めたのは人類の長い歴史の中ではかなり最近のことで、(指摘されている開始年代は研究により複数あるが)今からおよそ9千年や1万年ほど前のことだった、とされている。つまり人類は、その歴史の99パーセント以上、狩猟採集生活をして生きてきたのである。
出典[編集]
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