コンテンツにスキップ

「フィンセント・ファン・ゴッホ」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
ゴッホテオへの手紙(表現論や作家論などが含まれる)への外部リンクを付記した。
 
(19人の利用者による、間の21版が非表示)
7行目: 7行目:

| 誕生日 = [[1853年]][[3月30日]]

| 誕生日 = [[1853年]][[3月30日]]

| 出生地 = {{NED}}・[[北ブラバント州]][[ズンデルト|フロート・ズンデルト]]

| 出生地 = {{NED}}・[[北ブラバント州]][[ズンデルト|フロート・ズンデルト]]

| 死没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1853|3|30|1890|7|29}}

| 死没年 = {{死亡年月日と没年齢|1853|3|30|1890|7|29}}

| 死没地 = {{FRA1870}}・[[ヴァル=ドワーズ県]][[オーヴェル=シュル=オワーズ]]

| 死没地 = {{FRA1870}}・[[ヴァル=ドワーズ県]][[オーヴェル=シュル=オワーズ]]

| 墓地 = {{FRA}}・[[ヴァル=ドワーズ県]][[オーヴェル=シュル=オワーズ]]共同墓地<ref>{{Cite web |url=https://www.findagrave.com/memorial/1055/vincent-van_gogh |title=Vincent Van Gogh |publisher=Find a Grave |accessdate=2021-03-03}}</ref>

| 墓地 = {{FRA}}・[[ヴァル=ドワーズ県]][[オーヴェル=シュル=オワーズ]]共同墓地<ref>{{Cite web |url=https://www.findagrave.com/memorial/1055/vincent-van_gogh |title=Vincent Van Gogh |publisher=Find a Grave |accessdate=2021-03-03}}</ref>

16行目: 16行目:

| 運動・動向 = [[ポスト印象派]](後期印象派)

| 運動・動向 = [[ポスト印象派]](後期印象派)

| 代表作 = 『[[ジャガイモを食べる人々]]』、『[[ひまわり (絵画)|ひまわり]]』、『[[糸杉と星の見える道]]』、『[[星月夜]]』、『[[カラスのいる麦畑]]』など

| 代表作 = 『[[ジャガイモを食べる人々]]』、『[[ひまわり (絵画)|ひまわり]]』、『[[糸杉と星の見える道]]』、『[[星月夜]]』、『[[カラスのいる麦畑]]』など

| patrons = [[テオドルス・ファン・ゴッホ|テオドルス]](弟)

| 後援者 = [[テオドルス・ファン・ゴッホ|テオドルス]](弟)

| 被影響芸術家 = [[アントン・モーヴ]]、[[ウジェーヌ・ドラクロワ|ドラクロワ]]、[[アドルフ・モンティセリ|モンティセリ]]、[[ジャン=フランソワ・ミレー|ミレー]]、[[印象派]]、[[ジャポネズリー]]([[浮世絵]])

| 被影響芸術家 = [[アントン・モーヴ]]、[[ウジェーヌ・ドラクロワ|ドラクロワ]]、[[アドルフ・モンティセリ|モンティセリ]]、[[ジャン=フランソワ・ミレー|ミレー]]、[[印象派]]、[[ジャポネズリー]]([[浮世絵]])

| 与影響芸術家 = [[ポスト印象派]]、[[世紀末芸術]]、[[フォーヴィスム]]、[[ドイツ表現主義]]

| 与影響芸術家 = [[ポスト印象派]]、[[世紀末芸術]]、[[フォーヴィスム]]、[[ドイツ表現主義]]、[[アントナン・アルトー]]、[[芥正彦]]など多数

}}

}}

'''フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホ'''<ref group="注釈">[[ファン (前置詞)|ファン/ヴァン]]は姓の一部である。ヨーロッパ諸語における発音は様々であり、日本語表記もバリエーションがある。[[オランダ語]]では{{IPA-nl|vɑŋ ˈɣɔχ|lang|Vincent_willem_van_gogh.ogg}}。オランダ・[[ホラント州]]の方言では、vanの"v"が無声化して{{IPA-nl|ˈvɪnsɛnt fɑŋˈxɔx||Nl-Vincent_van_Gogh.ogg}}となる。ゴッホはブラバント地方で育ちブラバント方言で文章を書いていたため、彼自身は、自分の名前をブラバント・アクセントで"V"を有声化し、"G"と"gh"を[[無声硬口蓋摩擦音]]化して{{IPA-nl|vɑɲˈʝɔç|}}と発音していた可能性がある。イギリス英語では{{IPAc-en|ˌ|v|æ|n|_|ˈ|ɡ|ɒ|x}}、場合によって{{IPAc-en|ˌ|v|æ|n|_|ˈ|ɡ|ɒ|f}}と発音し、アメリカ英語では{{IPAc-en|ˌ|v|æ|n|_|ˈ|ɡ|oʊ}}(ヴァンゴウ)とghを発音しないのが一般的である。彼が作品の多くを制作したフランスでは、{{IPA-fr|vɑ̃ ɡɔɡ<sup>ə</sup>|}}(ヴァンサン・ヴァン・ゴーグ)となる。日本語では英語風のヴィンセント・ヴァン・ゴッホという表記も多く見られる。</ref>({{Lang-nl|Vincent Willem van Gogh}}、[[1853年]][[3月30日]] - [[1890年]][[7月29日]])は、[[オランダ]]の[[ポスト印象派]]の[[画家]]。

'''フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホ'''<ref group="注釈">[[ファン (前置詞)|ファン/ヴァン]]は姓の一部である。ヨーロッパ諸語における発音は様々であり、日本語表記もバリエーションがある。[[オランダ語]]では{{IPA-nl|vɑŋ ˈɣɔχ|lang|Vincent_willem_van_gogh.ogg}}。オランダ・[[ホラント州]]の方言では、vanの"v"が無声化して{{IPA-nl|ˈvɪnsɛnt fɑŋˈxɔx||Nl-Vincent_van_Gogh.ogg}}となる。ゴッホはブラバント地方で育ちブラバント方言で文章を書いていたため、彼自身は、自分の名前をブラバント・アクセントで"V"を有声化し、"G"と"gh"を[[無声硬口蓋摩擦音]]化して{{IPA-nl|vɑɲˈʝɔç|}}と発音していた可能性がある。イギリス英語では{{IPAc-en|ˌ|v|æ|n|_|ˈ|ɡ|ɒ|x}}、場合によって{{IPAc-en|ˌ|v|æ|n|_|ˈ|ɡ|ɒ|f}}と発音し、アメリカ英語では{{IPAc-en|ˌ|v|æ|n|_|ˈ|ɡ|oʊ}}(ヴァンゴウ)とghを発音しないのが一般的である。彼が作品の多くを制作したフランスでは、{{IPA-fr|vɑ̃ ɡɔɡ<sup>ə</sup>|}}(ヴァンサン・ヴァン・ゴーグ)となる。日本語では英語風のヴィンセント・ヴァン・ゴッホという表記も多く見られる。</ref>({{Lang-nl|Vincent Willem van Gogh}}、[[1853年]][[3月30日]] - [[1890年]][[7月29日]])は、[[オランダ]]の[[ポスト印象派]]の[[画家]]。

25行目: 25行目:


なお、オランダ人名の[[ファン (前置詞)|ファン]](van)はミドルネームではなく姓の一部であるため省略しない。

なお、オランダ人名の[[ファン (前置詞)|ファン]](van)はミドルネームではなく姓の一部であるため省略しない。



<ref>{{Cite news|url=https://president.jp/articles/-/53566?page=1|title=|newspaper=PRESIDENT Online|date=2022-01-13|accessdate=2024-03-11}}</ref>


== 概要 ==

== 概要 ==

30行目: 32行目:

| align= right

| align= right

| image1= VincentVanGoghFoto.jpg | width1= 120 | caption1= グーピル商会の画廊で働いていた19歳頃のファン・ゴッホ{{sfn|吉屋|2005|p=42}}。現存する唯一の写真。

| image1= VincentVanGoghFoto.jpg | width1= 120 | caption1= グーピル商会の画廊で働いていた19歳頃のファン・ゴッホ{{sfn|吉屋|2005|p=42}}。現存する唯一の写真。

<ref group="注釈">もう1枚、長らく13歳の時の写真とされてきた物があったが、後に弟テオの物と判明している。</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.huffingtonpost.jp/entry/gogh-photo-theo_jp_5c5d88b9e4b0974f75b39952 |title=有名な「13歳のゴッホの写真」、実際は「弟のテオ」だったと判明 |publisher=ハフポスト |date=2018-11-30 |accessdate=2021-03-03 }}</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3199840 |title=巨匠画家「ゴッホ」の写真…実は弟のテオだった |publisher=AFPBB News |date=2018-11-30 |accessdate=2021-03-03 }}</ref><ref>{{Cite web |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20181130/k10011729081000.html |title=2枚しかないゴッホの写真 1枚は弟でした |publisher=[[日本放送協会]] |date=2018-11-30 |accessdate=2018-12-01 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20181130214926/https://www3.nhk.or.jp/news/html/20181130/k10011729081000.html |archivedate=2018-11-30 }}</ref>

<ref group="注釈">もう1枚、長らく13歳の時の写真とされてきた物があったが、後に弟テオの物と判明している。</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.huffingtonpost.jp/entry/gogh-photo-theo_jp_5c5d88b9e4b0974f75b39952 |title=有名な「13歳のゴッホの写真」、実際は「弟のテオ」だったと判明 |publisher=ハフポスト |date=2018-11-30 |accessdate=2021-03-03 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3199840 |title=巨匠画家「ゴッホ」の写真…実は弟のテオだった |publisher=AFPBB News |date=2018-11-30 |accessdate=2021-03-03 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20181130/k10011729081000.html |title=2枚しかないゴッホの写真 1枚は弟でした |publisher=[[日本放送協会]] |date=2018-11-30 |accessdate=2018-12-01 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20181130214926/https://www3.nhk.or.jp/news/html/20181130/k10011729081000.html |archivedate=2018-11-30 }}</ref>


 | image2= Theo van Gogh 1878 (cropped).jpg | width2= 105 | caption2= 187821[[|]]

 | image2= Theo van Gogh 1878 (cropped).jpg | width2= 105 | caption2= 187821[[|]]

}}

}}

64行目: 66行目:


[[ファイル:Van Gogh Barn-and-farmhouse.jpg|thumb|right|150px|『農場の家と納屋』1864年2月、素描。]]

[[ファイル:Van Gogh Barn-and-farmhouse.jpg|thumb|right|150px|『農場の家と納屋』1864年2月、素描。]]

フィンセントは、小さい時から癇癪持ちで、両親や家政婦からは兄弟の中でもとりわけ扱いにくい子と見られていた。親に無断で一人で遠出することも多く、[[ヒース]]の広がる低湿地を歩き回り、花や昆虫や鳥を観察して1日を過ごしていた{{sfn|Naifeh|Smith|2012|pp=37-39}}。[[1860年]]からズンデルト村の学校に通っていたが、[[1861年]]から[[1864年]]まで、妹アンナとともに[[家庭教師]]の指導を受けた{{sfn|二見|2010|p=3}}。1864年2月に11歳のフィンセントが父の誕生日のために描いたと思われる『農場の家と納屋』と題する素描が残っており、絵の才能の可能性を示している{{sfn|トラルボー|1992|pp=28,31}}。1864年10月からは約20 km([[キロメートル]])離れた[[ゼーフェンベルゲン]]のヤン・プロフィリ[[寄宿学校]]に入った{{sfn|二見|2010|p=3}}。彼は、後に、親元を離れて入学した時のことを「僕がプロフィリさんの学校の石段の上に立って、お父さんとお母さんを乗せた馬車が家の方へ帰っていくのを見送っていたのは、秋の日のことだった。」と回顧している{{sfn|吉屋|2005|p=33}}<ref group="手紙">{{Cite web |url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let090/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡90 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1876年9月2日 - 8日頃、アイズルワース、[[#CL|CL: 82a-1]]、{{Lang|en|It was an autumn day and I stood on the front steps of Mr Provily’s school...}})。</ref>。

フィンセントは、小さい時から癇癪持ちで、両親や家政婦からは兄弟の中でもとりわけ扱いにくい子と見られていた。親に無断で一人で遠出することも多く、[[ヒース]]の広がる低湿地を歩き回り、花や昆虫や鳥を観察して1日を過ごしていた{{sfn|Naifeh|Smith|2012|pp=37-39}}。[[1860年]]からズンデルト村の学校に通っていたが、[[1861年]]から[[1864年]]まで、妹アンナとともに[[家庭教師]]の指導を受けた{{sfn|二見|2010|p=3}}。1864年2月に11歳のフィンセントが父の誕生日のために描いたと思われる『農場の家と納屋』と題する素描が残っており、絵の才能の可能性を示している{{sfn|トラルボー|1992|pp=28,31}}。1864年10月からは約20 km([[キロメートル]])離れた[[ゼーフェンベルゲン]]のヤン・プロフィリ[[寄宿学校]]に入った{{sfn|二見|2010|p=3}}。彼は、後に、親元を離れて入学した時のことを「僕がプロフィリさんの学校の石段の上に立って、お父さんとお母さんを乗せた馬車が家の方へ帰っていくのを見送っていたのは、秋の日のことだった。」と回顧している{{sfn|吉屋|2005|p=33}}<ref group="手紙">{{Cite web|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let090/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡90 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1876年9月2日 - 8日頃、アイズルワース、[[#CL|CL: 82a-1]]、{{Lang|en|It was an autumn day and I stood on the front steps of Mr Provily’s school...}})。</ref>。



[[1866年]]9月15日、[[ティルブルフ]]に新しくできた国立高等市民学校、[[ウィレム2世 (オランダ王)|ヴィレム2世]]校に進学した。パリで成功したコンスタント=コルネーリス・ハイスマンスという画家がこの学校で教えており、ファン・ゴッホも彼から絵を習ったと思われる{{sfn|吉屋|2005|pp=37-38}}。[[1868年]]3月、ファン・ゴッホはあと1年を残して学校をやめ、家に帰ってしまった。その理由は分かっていない{{sfn|吉屋|2005|p=262}}。本人は、1883年テオに宛てた手紙の中で、「僕の若い時代は、陰鬱で冷たく不毛だった」と書いている<ref group="手紙">{{Cite web |url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let403/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡403 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1883年11月5日頃、ニーウ・アムステルダム、[[#CL|CL: 339a]]、{{Lang|en|My youth has been austere and cold, and sterile...}})。</ref>。

[[1866年]]9月15日、[[ティルブルフ]]に新しくできた国立高等市民学校、[[ウィレム2世 (オランダ王)|ヴィレム2世]]校に進学した。パリで成功したコンスタント=コルネーリス・ハイスマンスという画家がこの学校で教えており、ファン・ゴッホも彼から絵を習ったと思われる{{sfn|吉屋|2005|pp=37-38}}。[[1868年]]3月、ファン・ゴッホはあと1年を残して学校をやめ、家に帰ってしまった。その理由は分かっていない{{sfn|吉屋|2005|p=262}}。本人は、1883年テオに宛てた手紙の中で、「僕の若い時代は、陰鬱で冷たく不毛だった」と書いている<ref group="手紙">{{Cite web|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let403/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡403 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1883年11月5日頃、ニーウ・アムステルダム、[[#CL|CL: 339a]]、{{Lang|en|My youth has been austere and cold, and sterile...}})。</ref>。



=== グーピル商会(1869年-1876年) ===

=== グーピル商会(1869年-1876年) ===

80行目: 82行目:

<div style="position:absolute;font-size:80%;left:132px;top:170px">[[ファイル:Blue pog.svg|8px]][[ユトレヒト]]</div>

<div style="position:absolute;font-size:80%;left:132px;top:170px">[[ファイル:Blue pog.svg|8px]][[ユトレヒト]]</div>

<div style="position:absolute;font-size:80%;left:100px;top:205px">[[ファイル:Red pog.svg|8px]]'''[[ドルトレヒト]]'''</div>

<div style="position:absolute;font-size:80%;left:100px;top:205px">[[ファイル:Red pog.svg|8px]]'''[[ドルトレヒト]]'''</div>

<div style="position:absolute;font-size:80%;left:138px;top:225px">[[ファイル:Red pog.svg|8px]][[ティルブルフ]]'''</div>

<div style="position:absolute;font-size:80%;left:138px;top:225px">[[ファイル:Red pog.svg|8px]]'''[[ティルブルフ]]'''</div>

<div style="position:absolute;font-size:80%;left:97px;top:215px">[[ファイル:Red pog.svg|8px]][[ゼーフェンベルゲン]]'''</div>

<div style="position:absolute;font-size:80%;left:97px;top:215px">[[ファイル:Red pog.svg|8px]]'''[[ゼーフェンベルゲン]]'''</div>

<div style="position:absolute;font-size:80%;right:192px;top:223px">[[エッテン=ルール|エッテン]][[ファイル:Red pog.svg|8px]]</div>

<div style="position:absolute;font-size:80%;right:192px;top:223px">[[エッテン=ルール|エッテン]][[ファイル:Red pog.svg|8px]]</div>

<div style="position:absolute;font-size:80%;left:172px;top:235px">[[ファイル:Red pog.svg|8px]][[ニューネン・ヘルヴェン・エン・ネーデルヴェテン|ニューネン]]</div>

<div style="position:absolute;font-size:80%;left:172px;top:235px">[[ファイル:Red pog.svg|8px]][[ニューネン・ヘルヴェン・エン・ネーデルヴェテン|ニューネン]]</div>

95行目: 97行目:

==== ハーグ支店 ====

==== ハーグ支店 ====

[[ファイル:Gogh Goupil&Cie.jpg|thumb|left|200px|ゴッホが1869年(16歳)から1873年(20歳)まで勤めたグーピル商会ハーグ支店。]]

[[ファイル:Gogh Goupil&Cie.jpg|thumb|left|200px|ゴッホが1869年(16歳)から1873年(20歳)まで勤めたグーピル商会ハーグ支店。]]

[[1869年]]7月、セント伯父の助力で、ファン・ゴッホは画商[[グーピル商会]]の[[デン・ハーグ|ハーグ]]支店の店員となり、ここで約4年間過ごした{{Refnest|group="注釈"|セント伯父はハーグに絵画の複製図版等を手がける画商を開き、1861年2月、パリのグーピル商会の傘下に入って共同経営者の一人となっていた{{sfn|Naifeh|Smith|2012|pp=64-66}}。}}。彼は、この時のことについて「2年間は割と面白くなかったが、最後の年はとても楽しかった」と書いている{{sfn|二見|2010|p=25}}<ref group="手紙">{{Cite web |url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let312/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡312 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1883年2月11日、ハーグ、[[#CL|CL: 266]]、{{Lang|en|I sometimes think that when I first came to The Hague...}})。</ref>。テオの妻ヨーによれば、この時上司のテルステーフはファン・ゴッホの両親に、彼は勤勉で誰にも好かれるという高評価を書き送ったというが<ref>{{Cite web |url= http://www.vggallery.com/misc/archives/jo_memoir.htm |title= Jo van Gogh-Bonger's Memoir of Vincent van Gogh |publisher=The Vincent van Gogh Gallery |accessdate=2013-02-20 |quote= Tersteeg sent the parents good reports...}}</ref>、実際にはテルステーフやハーグ支店の経営者であるセント伯父との関係はうまく行っていなかったと見られる{{sfn|Naifeh|Smith|2012|p=75}}。[[1872年]]夏、当時まだ学生だった弟テオがハーグのファン・ゴッホのもとを訪れ、職場でも両親との間でも孤立感を深めていたファン・ゴッホはテオに親しみを見出した。この時[[レイスウェイク]]まで2人で散歩し、にわか雨に遭って風車小屋でミルクを飲んだことを、ファン・ゴッホは後に鮮やかな思い出として回想している。この直後にファン・ゴッホはテオに手紙を書き、以後2人の間で書簡のやり取りが始まった{{sfn|Naifeh|Smith|2012|p=76}}。

[[1869年]]7月、セント伯父の助力で、ファン・ゴッホは画商[[グーピル商会]]の[[デン・ハーグ|ハーグ]]支店の店員となり、ここで約4年間過ごした{{Refnest|group="注釈"|セント伯父はハーグに絵画の複製図版等を手がける画商を開き、1861年2月、パリのグーピル商会の傘下に入って共同経営者の一人となっていた{{sfn|Naifeh|Smith|2012|pp=64-66}}。}}。彼は、この時のことについて「2年間は割と面白くなかったが、最後の年はとても楽しかった」と書いている{{sfn|二見|2010|p=25}}<ref group="手紙">{{Cite web|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let312/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡312 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1883年2月11日、ハーグ、[[#CL|CL: 266]]、{{Lang|en|I sometimes think that when I first came to The Hague...}})。</ref>。テオの妻ヨーによれば、この時上司のテルステーフはファン・ゴッホの両親に、彼は勤勉で誰にも好かれるという高評価を書き送ったというが<ref>{{Cite web |url= http://www.vggallery.com/misc/archives/jo_memoir.htm |title= Jo van Gogh-Bonger's Memoir of Vincent van Gogh |publisher=The Vincent van Gogh Gallery |accessdate=2013-02-20 |quote= Tersteeg sent the parents good reports...}}</ref>、実際にはテルステーフやハーグ支店の経営者であるセント伯父との関係はうまく行っていなかったと見られる{{sfn|Naifeh|Smith|2012|p=75}}。[[1872年]]夏、当時まだ学生だった弟テオがハーグのファン・ゴッホのもとを訪れ、職場でも両親との間でも孤立感を深めていたファン・ゴッホはテオに親しみを見出した。この時[[レイスウェイク]]まで2人で散歩し、にわか雨に遭って風車小屋でミルクを飲んだことを、ファン・ゴッホは後に鮮やかな思い出として回想している。この直後にファン・ゴッホはテオに手紙を書き、以後2人の間で書簡のやり取りが始まった{{sfn|Naifeh|Smith|2012|p=76}}。



ファン・ゴッホは、ハーグ支店時代に、近くの[[マウリッツハイス美術館]]で[[レンブラント・ファン・レイン|レンブラント]]や[[ヨハネス・フェルメール|フェルメール]]ら[[オランダ黄金時代の絵画]]に触れるなど、美術に興味を持つようになった。また、グーピル商会で1870年代初頭から扱われるようになった新興の[[ハーグ派]]の絵にも触れる機会があった{{sfn|Naifeh|Smith|2012|p=71}}。

ファン・ゴッホは、ハーグ支店時代に、近くの[[マウリッツハイス美術館]]で[[レンブラント・ファン・レイン|レンブラント]]や[[ヨハネス・フェルメール|フェルメール]]ら[[オランダ黄金時代の絵画]]に触れるなど、美術に興味を持つようになった。また、グーピル商会で1870年代初頭から扱われるようになった新興の[[ハーグ派]]の絵にも触れる機会があった{{sfn|Naifeh|Smith|2012|p=71}}。



==== ロンドン支店 ====

==== ロンドン支店 ====


[[1873]]5[[]]{{sfn||2010|p=26}}{{sfn|Naifeh|Smith|2012|pp=81-82}}8宿{{sfn||2010|p=341}}宿宿<ref>{{Cite web |url= http://www.vggallery.com/misc/archives/jo_memoir.htm |title= Jo van Gogh-Bonger's Memoir of Vincent van Gogh |publisher=The Vincent van Gogh Gallery |accessdate=2013-02-20 | quote= Ursula made a deep impression upon him...}}</ref>宿{{Refnest|group=""|{{sfn||2010|p=28}}}}188120<ref group="">{{Cite web |url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let183/letter.html#translation |title=183 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}18811112[[#CL|CL: 157]]{{Lang|en|What kind of love did I have in my 20th year?...}}</ref>{{sfn||2010|pp=27-34}}宿1874[[]][[]][[]][[]]{{sfn|Naifeh|Smith|2012|pp=104-108}}

[[1873]]5[[]]{{sfn||2010|p=26}}{{sfn|Naifeh|Smith|2012|pp=81-82}}8宿{{sfn||2010|p=341}}宿宿<ref>{{Cite web |url= http://www.vggallery.com/misc/archives/jo_memoir.htm |title= Jo van Gogh-Bonger's Memoir of Vincent van Gogh |publisher=The Vincent van Gogh Gallery |accessdate=2013-02-20 | quote= Ursula made a deep impression upon him...}}</ref>宿{{Refnest|group=""|{{sfn||2010|p=28}}}}188120<ref group="">{{Cite web|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let183/letter.html#translation |title=183 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}18811112[[#CL|CL: 157]]{{Lang|en|What kind of love did I have in my 20th year?...}}</ref>{{sfn||2010|pp=27-34}}宿1874[[]][[]][[]][[]]{{sfn|Naifeh|Smith|2012|pp=104-108}}


==== パリ本店、解雇 ====

==== パリ本店、解雇 ====

[[ファイル:Galerie Goupil2.jpg|thumb|right|160px|グーピル商会のパリ・シャプタール通り店。]]

[[ファイル:Galerie Goupil2.jpg|thumb|right|160px|グーピル商会のパリ・シャプタール通り店。]]


[[1875]]5[[]]{{sfn||2010|p=35}}{{Refnest|group=""|187410187515{{sfn||2010|p=341}}}}宿[[]][[]][[]]{{sfn|Naifeh|Smith|2012|pp=110-111}}{{sfn|Naifeh|Smith|2012|pp=112-113}}{{sfn||2010|p=36}}[[1876]]141{{sfn||2010|p=37}}<ref group="">{{Cite web |url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let065/letter.html#translation |title=65 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}1875110[[#CL|CL: 50]]{{Lang|en|His Hon. took the words out of my mouth...}}</ref>1875{{sfn|Naifeh|Smith|2012|p=114}}{{sfn||2016|p=43}}{{sfn|Naifeh|Smith|2012|p=115}}

[[1875]]5[[]]{{sfn||2010|p=35}}{{Refnest|group=""|187410187515{{sfn||2010|p=341}}}}宿[[]][[]][[]]{{sfn|Naifeh|Smith|2012|pp=110-111}}{{sfn|Naifeh|Smith|2012|pp=112-113}}{{sfn||2010|p=36}}[[1876]]141{{sfn||2010|p=37}}<ref group="">{{Cite web|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let065/letter.html#translation |title=65 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}1875110[[#CL|CL: 50]]{{Lang|en|His Hon. took the words out of my mouth...}}</ref>1875{{sfn|Naifeh|Smith|2012|p=114}}{{sfn||2016|p=43}}{{sfn|Naifeh|Smith|2012|p=115}}


=== 聖職者への志望(1876年-1880年) ===

=== 聖職者への志望(1876年-1880年) ===

143行目: 145行目:

</div>

</div>

|}

|}


18781078[[]][[]][[]]31115[[]][[]]{{sfn||2010|pp=48-49}}<ref group="">{{Cite web |url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let148/letter.html#translation |title=148 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}1878111315 - 16[[#CL|CL: 126]]{{Lang|en|I should like to go there as an evangelist...}}</ref>

18781078[[]][[]][[]]31115[[]][[]]{{sfn||2010|pp=48-49}}<ref group="">{{Cite web|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let148/letter.html#translation |title=148 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}1878111315 - 16[[#CL|CL: 126]]{{Lang|en|I should like to go there as an evangelist...}}</ref>


==== ボリナージュ ====

==== ボリナージュ ====

151行目: 153行目:

伝道師としての道を絶たれたファン・ゴッホは、同年(1879年)8月、同じくボリナージュ地方の[[クウェム]](モンス南西の郊外)の伝道師フランクと坑夫シャルル・ドゥクリュクの家に移り住んだ{{sfn|トラルボー|1992|p=63}}。父親からの仕送りに頼ってデッサンの模写や坑夫のスケッチをして過ごしたが、家族からは仕事をしていないファン・ゴッホに厳しい目が注がれ、彼のもとを訪れた弟テオからも「年金生活者」のような生活ぶりについて批判された{{sfn|吉屋|2005|p=90}}。[[1880年]]3月頃、絶望のうちに北フランスへ放浪の旅に出て、金も食べるものも泊まるところもなく、ひたすら歩いて回った{{sfn|Naifeh|Smith|2012|pp=207-208}}。そしてついにエッテンの実家に帰ったが、彼の常軌を逸した傾向を憂慮した父親が[[ヘール (ベルギー)|ヘール]]の精神病院に入れようとしたことで口論になり、クウェムに戻った{{sfn|二見|2010|p=57}}。

伝道師としての道を絶たれたファン・ゴッホは、同年(1879年)8月、同じくボリナージュ地方の[[クウェム]](モンス南西の郊外)の伝道師フランクと坑夫シャルル・ドゥクリュクの家に移り住んだ{{sfn|トラルボー|1992|p=63}}。父親からの仕送りに頼ってデッサンの模写や坑夫のスケッチをして過ごしたが、家族からは仕事をしていないファン・ゴッホに厳しい目が注がれ、彼のもとを訪れた弟テオからも「年金生活者」のような生活ぶりについて批判された{{sfn|吉屋|2005|p=90}}。[[1880年]]3月頃、絶望のうちに北フランスへ放浪の旅に出て、金も食べるものも泊まるところもなく、ひたすら歩いて回った{{sfn|Naifeh|Smith|2012|pp=207-208}}。そしてついにエッテンの実家に帰ったが、彼の常軌を逸した傾向を憂慮した父親が[[ヘール (ベルギー)|ヘール]]の精神病院に入れようとしたことで口論になり、クウェムに戻った{{sfn|二見|2010|p=57}}。



クウェムに戻った1880年6月頃から、テオからファン・ゴッホへの生活費の援助が始まった{{sfn|吉屋|2005|pp=91-92}}<ref group="手紙">{{Cite web |url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let155/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡155 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1880年6月22日 - 24日頃、クウェム、[[#CL|CL: 133]]、{{Lang|en|I learned at Etten...}})。</ref>。また、この時期、周りの人々や風景をスケッチしているうちに、ファン・ゴッホは本格的に絵を描くことを決意したようである{{sfn|吉屋|2005|p=93}}。9月には、北フランスへの苦しい放浪を振り返って、「しかしまさにこの貧窮の中で、僕は力が戻ってくるのを感じ、ここから立ち直るのだ、くじけて置いていた鉛筆をとり直し、絵に戻るのだと自分に言い聞かせた。」と書いている<ref group="手紙">{{Cite web |url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let158/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡158 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1880年9月24日、クウェム、[[#CL|CL: 136]]、{{Lang|en|it was in this extreme poverty that I felt my energy return...}})。</ref>。[[ジャン=フランソワ・ミレー]]の複製を手本に素描を練習したり、[[シャルル・バルグ]]のデッサン教本を模写したりした{{sfn|二見|2010|p=58}}。

クウェムに戻った1880年6月頃から、テオからファン・ゴッホへの生活費の援助が始まった{{sfn|吉屋|2005|pp=91-92}}<ref group="手紙">{{Cite web|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let155/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡155 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1880年6月22日 - 24日頃、クウェム、[[#CL|CL: 133]]、{{Lang|en|I learned at Etten...}})。</ref>。また、この時期、周りの人々や風景をスケッチしているうちに、ファン・ゴッホは本格的に絵を描くことを決意したようである{{sfn|吉屋|2005|p=93}}。9月には、北フランスへの苦しい放浪を振り返って、「しかしまさにこの貧窮の中で、僕は力が戻ってくるのを感じ、ここから立ち直るのだ、くじけて置いていた鉛筆をとり直し、絵に戻るのだと自分に言い聞かせた。」と書いている<ref group="手紙">{{Cite web|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let158/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡158 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1880年9月24日、クウェム、[[#CL|CL: 136]]、{{Lang|en|it was in this extreme poverty that I felt my energy return...}})。</ref>。[[ジャン=フランソワ・ミレー]]の複製を手本に素描を練習したり、[[シャルル・バルグ]]のデッサン教本を模写したりした{{sfn|二見|2010|p=58}}。



==== ブリュッセル ====

==== ブリュッセル ====

160行目: 162行目:

[[ファイル:Portrait-of-Vincent-van-Gogh,-the-Artist's-Grandfather.jpg|thumb|right|170px|『祖父フィンセント』1881年、エッテン。鉛筆。]]

[[ファイル:Portrait-of-Vincent-van-Gogh,-the-Artist's-Grandfather.jpg|thumb|right|170px|『祖父フィンセント』1881年、エッテン。鉛筆。]]

[[ファイル:Kee Vos met zoon Jan.jpg|thumb|left|150px|ゴッホ(当時27歳)の片思いの相手ケー・フォス・ストリッケルと、その息子ヤン。]]

[[ファイル:Kee Vos met zoon Jan.jpg|thumb|left|150px|ゴッホ(当時27歳)の片思いの相手ケー・フォス・ストリッケルと、その息子ヤン。]]

[[1881年]]4月、ファン・ゴッホはブリュッセルに住むことによる経済的な問題が大きかったため、[[エッテン=ルール|エッテン]]の実家に戻り、田園風景や近くの農夫たちを素材に素描や水彩画を描き続けた。まだぎこちなさが残るが、この頃にはファン・ゴッホ特有の太く黒い描線と力強さが現れ始めていた{{sfn|吉屋|2005|p=95}}。夏の間、最近夫を亡くした[[従姉]]のケー・フォス・ストリッケル(母の姉と、アムステルダムのヨハネス・ストリッケル牧師との間の娘)がエッテンを訪れた。彼はケーと連れ立って散歩したりするうちに、彼女に好意を持つようになった。未亡人のケーはファン・ゴッホより7歳上で、さらに8歳の子供もいたにもかかわらずファン・ゴッホは求婚するが、「とんでもない、だめ、絶対に。」という言葉で拒絶され、打ちのめされた{{sfn|二見|2010|pp=61-62}}<ref group="手紙">{{Cite web |url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let179/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡179 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1881年11月3日、エッテン、[[#CL|CL: 153]]、{{Lang|en|I wanted to tell you that...}})。</ref>。

[[1881年]]4月、ファン・ゴッホはブリュッセルに住むことによる経済的な問題が大きかったため、[[エッテン=ルール|エッテン]]の実家に戻り、田園風景や近くの農夫たちを素材に素描や水彩画を描き続けた。まだぎこちなさが残るが、この頃にはファン・ゴッホ特有の太く黒い描線と力強さが現れ始めていた{{sfn|吉屋|2005|p=95}}。夏の間、最近夫を亡くした[[従姉]]のケー・フォス・ストリッケル(母の姉と、アムステルダムのヨハネス・ストリッケル牧師との間の娘)がエッテンを訪れた。彼はケーと連れ立って散歩したりするうちに、彼女に好意を持つようになった。未亡人のケーはファン・ゴッホより7歳上で、さらに8歳の子供もいたにもかかわらずファン・ゴッホは求婚するが、「とんでもない、だめ、絶対に。」という言葉で拒絶され、打ちのめされた{{sfn|二見|2010|pp=61-62}}<ref group="手紙">{{Cite web|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let179/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡179 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1881年11月3日、エッテン、[[#CL|CL: 153]]、{{Lang|en|I wanted to tell you that...}})。</ref>。



ケーはアムステルダムに帰ってしまったが、ファン・ゴッホは彼女への思いを諦めきれず、ケーに何度も手紙を書き、11月末には、テオに無心した金でアムステルダムのストリッケル牧師の家を訪ねた。しかし、ケーからは会うことを拒否され、両親のストリッケル夫妻からはしつこい行動が不愉快だと非難された。絶望した彼は、ストリッケル夫妻の前でランプの炎に手をかざし、「私が炎に手を置いていられる間、彼女に会わせてください。」と迫ったが、夫妻は、ランプを吹き消して、会うことはできないと言うのみだった{{sfn|吉屋|2005|pp=98-99}}<ref group="手紙">{{Cite web |url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let228/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡228 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1882年5月16日、ハーグ、[[#CL|CL: 193]]、{{Lang|en|I put my fingers in the flame of the lamp and said...}})。</ref>。伯父ストリッケル牧師の頑迷な態度は、ファン・ゴッホに聖職者たちへの疑念を呼び起こし、父やストリッケル牧師の世代との溝を強く意識させることになった{{sfn|二見|2010|p=64}}。

ケーはアムステルダムに帰ってしまったが、ファン・ゴッホは彼女への思いを諦めきれず、ケーに何度も手紙を書き、11月末には、テオに無心した金でアムステルダムのストリッケル牧師の家を訪ねた。しかし、ケーからは会うことを拒否され、両親のストリッケル夫妻からはしつこい行動が不愉快だと非難された。絶望した彼は、ストリッケル夫妻の前でランプの炎に手をかざし、「私が炎に手を置いていられる間、彼女に会わせてください。」と迫ったが、夫妻は、ランプを吹き消して、会うことはできないと言うのみだった{{sfn|吉屋|2005|pp=98-99}}<ref group="手紙">{{Cite web|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let228/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡228 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1882年5月16日、ハーグ、[[#CL|CL: 193]]、{{Lang|en|I put my fingers in the flame of the lamp and said...}})。</ref>。伯父ストリッケル牧師の頑迷な態度は、ファン・ゴッホに聖職者たちへの疑念を呼び起こし、父やストリッケル牧師の世代との溝を強く意識させることになった{{sfn|二見|2010|p=64}}。



11月27日、[[デン・ハーグ|ハーグ]]に向かい、義理の従兄弟で画家の[[アントン・モーヴ]]から絵の指導を受けたが、クリスマス前にいったんエッテンの実家に帰省する。しかし、クリスマスの日に彼は教会に行くことを拒み、それが原因で父親と激しく口論し、その日のうちに実家を離れて再びハーグへ発ってしまった{{sfn|二見|2010|pp=65,67}}<ref group="手紙">{{Cite web |url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let194/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡194 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1881年12月29日、ハーグ、[[#CL|CL: 166]]、{{Lang|en|At Christmas I had a rather violent argument...}})。</ref>。

11月27日、[[デン・ハーグ|ハーグ]]に向かい、義理の従兄弟で画家の[[アントン・モーヴ]]から絵の指導を受けたが、クリスマス前にいったんエッテンの実家に帰省する。しかし、クリスマスの日に彼は教会に行くことを拒み、それが原因で父親と激しく口論し、その日のうちに実家を離れて再びハーグへ発ってしまった{{sfn|二見|2010|pp=65,67}}<ref group="手紙">{{Cite web|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let194/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡194 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1881年12月29日、ハーグ、[[#CL|CL: 166]]、{{Lang|en|At Christmas I had a rather violent argument...}})。</ref>。



==== ハーグ(1882年-1883年) ====

==== ハーグ(1882年-1883年) ====

[[ファイル:AntonMauve.jpg|thumb|right|100px|[[ハーグ派]]の画家[[アントン・モーヴ]]。ファン・ゴッホに絵の指導をした。]]

[[ファイル:AntonMauve.jpg|thumb|right|100px|[[ハーグ派]]の画家[[アントン・モーヴ]]。ファン・ゴッホに絵の指導をした。]]

[[1882年]]1月、彼は[[デン・ハーグ|ハーグ]]に住み始め、オランダ写実主義・[[ハーグ派]]の担い手であったモーヴを頼った。モーヴはファン・ゴッホに[[油絵]]と[[水彩画]]の指導をするとともに、アトリエを借りるための資金を貸し出すなど、親身になって面倒を見た{{sfn|二見|2010|pp=67-68}}。ハーグの絵画協会[[プルクリ・スタジオ]]の準会員に推薦したのもモーヴであった{{sfn|Naifeh|Smith|2012|p=256}}。しかし、モーヴは次第にファン・ゴッホによそよそしい態度を取り始め、ファン・ゴッホが手紙を書いても返事を寄越さなくなった。ファン・ゴッホはこの頃にクラシーナ・マリア・ホールニク(通称シーン)という身重の[[娼婦]]をモデルとして使いながら、彼女の家賃を払ってやるなどの援助をしており、結婚さえ考えていたが、彼は、モーヴの態度が冷たくなったのはこの交際のためだと考えている{{sfn|二見|2010|pp=72-73}}<ref group="手紙">{{Cite web |url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let224/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡224 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1882年5月7日頃、ハーグ、[[#CL|CL: 192]]、{{Lang|en|Today I met Mauve and had a very regrettable conversation...}})。</ref>。石膏像のスケッチから始めるよう助言するモーヴと、モデルを使っての人物画に固執するファン・ゴッホとの意見の不一致も原因のようである{{sfn|Naifeh|Smith|2012|p=258}}。ファン・ゴッホは、わずかな意見の違いも自分に対する全否定であるかのように受け止めて怒りを爆発させる性向があり、モーヴに限らず、知り合ったハーグ派の画家たちも次々彼を避けるようになっていった{{sfn|Naifeh|Smith|2012|pp=261-264}}。交友関係に失敗した彼の関心は、アトリエでモデルに思いどおりのポーズをとらせ、ひたすらスケッチをすることに集中したが、月100[[フランス・フラン|フラン]]のテオからの仕送りの大部分をモデル料に費やし、少しでも送金が遅れると自分の芸術を損なうものだと言ってテオをなじった{{sfn|Naifeh|Smith|2012|pp=270-275}}{{Refnest|group="注釈"|当時の平均的な労働者は週20フランの収入で家族を養っていた。それでもファン・ゴッホは増額を求め続け、テオは自分の給料の半分近くに当たる月150フランの送金に応じることにした{{sfn|Naifeh|Smith|2012|pp=271-272,300}}。}}。

[[1882年]]1月、彼は[[デン・ハーグ|ハーグ]]に住み始め、オランダ写実主義・[[ハーグ派]]の担い手であったモーヴを頼った。モーヴはファン・ゴッホに[[油絵]]と[[水彩画]]の指導をするとともに、アトリエを借りるための資金を貸し出すなど、親身になって面倒を見た{{sfn|二見|2010|pp=67-68}}。ハーグの絵画協会[[プルクリ・スタジオ]]の準会員に推薦したのもモーヴであった{{sfn|Naifeh|Smith|2012|p=256}}。しかし、モーヴは次第にファン・ゴッホによそよそしい態度を取り始め、ファン・ゴッホが手紙を書いても返事を寄越さなくなった。ファン・ゴッホはこの頃に{{ill2|クラシーナ・マリア・ホールニク|de|Sien Hoornik}}(通称シーン)という身重の[[娼婦]]をモデルとして使いながら、彼女の家賃を払ってやるなどの援助をしており、結婚さえ考えていたが、彼は、モーヴの態度が冷たくなったのはこの交際のためだと考えている{{sfn|二見|2010|pp=72-73}}<ref group="手紙">{{Cite web|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let224/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡224 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1882年5月7日頃、ハーグ、[[#CL|CL: 192]]、{{Lang|en|Today I met Mauve and had a very regrettable conversation...}})。</ref>。石膏像のスケッチから始めるよう助言するモーヴと、モデルを使っての人物画に固執するファン・ゴッホとの意見の不一致も原因のようである{{sfn|Naifeh|Smith|2012|p=258}}。ファン・ゴッホは、わずかな意見の違いも自分に対する全否定であるかのように受け止めて怒りを爆発させる性向があり、モーヴに限らず、知り合ったハーグ派の画家たちも次々彼を避けるようになっていった{{sfn|Naifeh|Smith|2012|pp=261-264}}。交友関係に失敗した彼の関心は、アトリエでモデルに思いどおりのポーズをとらせ、ひたすらスケッチをすることに集中したが、月100[[フランス・フラン|フラン]]のテオからの仕送りの大部分をモデル料に費やし、少しでも送金が遅れると自分の芸術を損なうものだと言ってテオをなじった{{sfn|Naifeh|Smith|2012|pp=270-275}}{{Refnest|group="注釈"|当時の平均的な労働者は週20フランの収入で家族を養っていた。それでもファン・ゴッホは増額を求め続け、テオは自分の給料の半分近くに当たる月150フランの送金に応じることにした{{sfn|Naifeh|Smith|2012|pp=271-272,300}}。}}。



[[ファイル:Van-Gogh-Perspective-frame.jpg|thumb|left|150px|1882年夏頃、遠近法やプロポーションを捉えるための透視枠を自作し、1888年5月のアルル初期まで使用していた{{sfn|ピックヴァンス|1986|p=55}}<ref group="手紙">{{Cite web |url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let254/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡254 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1882年8月5日 - 6日、ハーグ、[[#CL|CL: 223]]、{{Lang|en|In my last letter you’ll have found a little scratch of that perspective frame.}})。</ref>。]]

[[ファイル:Van-Gogh-Perspective-frame.jpg|thumb|left|150px|1882年夏頃、遠近法やプロポーションを捉えるための透視枠を自作し、1888年5月のアルル初期まで使用していた{{sfn|ピックヴァンス|1986|p=55}}<ref group="手紙">{{Cite web|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let254/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡254 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1882年8月5日 - 6日、ハーグ、[[#CL|CL: 223]]、{{Lang|en|In my last letter you’ll have found a little scratch of that perspective frame.}})。</ref>。]]

同年(1882年)3月、ファン・ゴッホのもとを訪れたコル叔父が、街の風景の素描を12点注文してくれたため、ファン・ゴッホはハーグ市街を描き続けた{{sfn|二見|2010|pp=70-71}}。そしてコル叔父に素描を送ったが、コル叔父は「こんなのは商品価値がない」と言って、ファン・ゴッホが期待したほどの代金は送ってくれなかった{{sfn|二見|2010|p=75}}。ファン・ゴッホは同年6月、[[淋病]]で3週間入院し、退院直後の7月始め、今までの家の隣の家に引っ越し、この新居に、長男ヴィレムを出産したばかりのシーンとその5歳の娘と暮らし始めた{{sfn|二見|2010|pp=76-78}}。一時は、売れる見込みのある油絵の風景画を描くようにとのテオの忠告にしぶしぶ従い、[[スヘフェニンゲン]]の海岸などを描いたが、間もなく、上達が遅いことを自ら認め、挫折した{{sfn|Naifeh|Smith|2012|pp=302-306,308-309}}。冬の間は、アトリエで、シーンの母親や、赤ん坊、身寄りのない老人などを素描した{{sfn|二見|2010|p=86}}。

同年(1882年)3月、ファン・ゴッホのもとを訪れたコル叔父が、街の風景の素描を12点注文してくれたため、ファン・ゴッホはハーグ市街を描き続けた{{sfn|二見|2010|pp=70-71}}。そしてコル叔父に素描を送ったが、コル叔父は「こんなのは商品価値がない」と言って、ファン・ゴッホが期待したほどの代金は送ってくれなかった{{sfn|二見|2010|p=75}}。ファン・ゴッホは同年6月、[[淋病]]で3週間入院し、退院直後の7月始め、今までの家の隣の家に引っ越し、この新居に、長男ヴィレムを出産したばかりのシーンとその5歳の娘と暮らし始めた{{sfn|二見|2010|pp=76-78}}。一時は、売れる見込みのある油絵の風景画を描くようにとのテオの忠告にしぶしぶ従い、[[スヘフェニンゲン]]の海岸などを描いたが、間もなく、上達が遅いことを自ら認め、挫折した{{sfn|Naifeh|Smith|2012|pp=302-306,308-309}}。冬の間は、アトリエで、シーンの母親や、赤ん坊、身寄りのない老人などを素描した{{sfn|二見|2010|p=86}}。



ファン・ゴッホはそこで1年余りシーンと共同生活をしていたが、[[1883年]]5月には、「シーンはかんしゃくを起こし、意地悪くなり、とても耐え難い状態だ。以前の悪習へ逆戻りしそうで、こちらも絶望的になる。」などとテオに書いている{{sfn|二見|2010|p=86}}<ref group="手紙">{{Cite web |url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let342/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡342 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1883年5月10日頃、ハーグ、[[#CL|CL: 294]]、{{Lang|en|342 Her mood can be such that it’s almost unbearable, even for me, quick-tempered, wilfully wrong, in short, sometimes I despair.}})。</ref>。ファン・ゴッホは、オランダ北部の[[ドレンテ州]]に出て油絵の修行をすることを考え、同年9月初め、シーンとの間で、ハーグでこのまま暮らすことは経済的に不可能であるため、彼女は子どもたちを自分の家族に引き取ってもらうこと、彼女は自分の仕事を探すことなどを話し合った。シーンと別れたことを父に知らせ、ファン・ゴッホは、9月11日、ドレンテ州の[[ホーヘフェーン]]へ発った{{sfn|二見|2010|p=90}}<ref group="手紙">{{Cite web |url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let380/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡380 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1883年9月2日、ハーグ、[[#CL|CL: 318]]、{{Lang|en|Today I had a quiet day with her...}})。</ref>{{Refnest|group="注釈"|ファン・ゴッホが去った後、シーンも他の街を転々とする日々を送った。ヴィレムは里子に出され、シーンの親族に引き取られて養育された。後年になってシーンの叔父はヴィレムを正式に跡取りにするため、シーンと形だけ籍を入れることを提案した。だがシーンは申出を拒否すると「私はこの子の父親を覚えています。フィンセント・ファン・ゴッホはこの子の名の由来なのですから」と告げた{{sfn|Wilkie|2005|p=185}}。しかし、ファン・ゴッホがシーンと出会った時には彼女は既に妊娠していた{{sfn|トラルボー|1992|p=101}}。[[1904年]]、シーンは水死している{{sfn|トラルボー|1992|p=112}}。}}。また、同年10月からはドレンテ州[[ニーウ・アムステルダム (オランダ)|ニーウ・アムステルダム]]の[[泥炭]]地帯を旅しながら、ミレーのように農民の生活を描くべきだと感じ、馬で畑を犂く人々を素描した{{sfn|二見|2010|pp=92-94}}。

ファン・ゴッホはそこで1年余りシーンと共同生活をしていたが、[[1883年]]5月には、「シーンはかんしゃくを起こし、意地悪くなり、とても耐え難い状態だ。以前の悪習へ逆戻りしそうで、こちらも絶望的になる。」などとテオに書いている{{sfn|二見|2010|p=86}}<ref group="手紙">{{Cite web|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let342/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡342 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1883年5月10日頃、ハーグ、[[#CL|CL: 294]]、{{Lang|en|342 Her mood can be such that it’s almost unbearable, even for me, quick-tempered, wilfully wrong, in short, sometimes I despair.}})。</ref>。ファン・ゴッホは、オランダ北部の[[ドレンテ州]]に出て油絵の修行をすることを考え、同年9月初め、シーンとの間で、ハーグでこのまま暮らすことは経済的に不可能であるため、彼女は子どもたちを自分の家族に引き取ってもらうこと、彼女は自分の仕事を探すことなどを話し合った。シーンと別れたことを父に知らせ、ファン・ゴッホは、9月11日、ドレンテ州の[[ホーヘフェーン]]へ発った{{sfn|二見|2010|p=90}}<ref group="手紙">{{Cite web|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let380/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡380 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1883年9月2日、ハーグ、[[#CL|CL: 318]]、{{Lang|en|Today I had a quiet day with her...}})。</ref>{{Refnest|group="注釈"|ファン・ゴッホが去った後、シーンも他の街を転々とする日々を送った。ヴィレムは里子に出され、シーンの親族に引き取られて養育された。後年になってシーンの叔父はヴィレムを正式に跡取りにするため、シーンと形だけ籍を入れることを提案した。だがシーンは申出を拒否すると「私はこの子の父親を覚えています。フィンセント・ファン・ゴッホはこの子の名の由来なのですから」と告げた{{sfn|Wilkie|2005|p=185}}。しかし、ファン・ゴッホがシーンと出会った時には彼女は既に妊娠していた{{sfn|トラルボー|1992|p=101}}。[[1904年]]、シーンは水死している{{sfn|トラルボー|1992|p=112}}。}}。また、同年10月からはドレンテ州[[ニーウ・アムステルダム (オランダ)|ニーウ・アムステルダム]]の[[泥炭]]地帯を旅しながら、ミレーのように農民の生活を描くべきだと感じ、馬で畑を犂く人々を素描した{{sfn|二見|2010|pp=92-94}}。

<gallery>

<gallery>

ファイル:Vincent Willem van Gogh 016.jpg|『屋根、ハーグのアトリエからの眺め』1882年、ハーグ。水彩、39 × 55&nbsp;cm。個人コレクション<sup>F 943, JH 156</sup>。

ファイル:Vincent Willem van Gogh 016.jpg|『屋根、ハーグのアトリエからの眺め』1882年、ハーグ。水彩、39 × 55&nbsp;cm。個人コレクション<sup>F 943, JH 156</sup>。

182行目: 184行目:

==== ニューネン(1883年末-1885年) ====

==== ニューネン(1883年末-1885年) ====

[[ファイル:Overzicht schuur, voormalig atelier van van Gogh - Nuenen - 20338022 - RCE.jpg|thumb|right|180px|ニューネンの牧師館(左手)の庭。中央はファン・ゴッホ(30-32歳)が使っていたアトリエ小屋。]]

[[ファイル:Overzicht schuur, voormalig atelier van van Gogh - Nuenen - 20338022 - RCE.jpg|thumb|right|180px|ニューネンの牧師館(左手)の庭。中央はファン・ゴッホ(30-32歳)が使っていたアトリエ小屋。]]

同年(1883年)12月5日、ファン・ゴッホは父親が前年8月から仕事のため移り住んでいたオランダ[[北ブラバント州]][[ニューネン・ヘルヴェン・エン・ネーデルヴェテン|ニューネン]]の農村([[アイントホーフェン]]の東郊)に初めて帰省し、ここで2年間過ごした。2年前にエッテンの家を出るよう強いられたことをめぐり父と激しい口論になったものの、小部屋をアトリエとして使ってよいことになった。さらに、[[1884年]]1月に骨折のけがをした母の介抱をするうち、家族との関係は好転した{{sfn|二見|2010|pp=95-97}}。母の世話の傍ら、近所の織工たちの家に行って、古い[[オーク]]の[[織機]]や、働く織工を描いた。一方、テオからの送金が周りから「能なしへのお情け」と見られていることには不満を募らせ、同年3月、テオに、今後作品を規則的に送ることとする代わりに、今後テオから受け取る金は自分が稼いだ金であることにしたい、という申入れをし、織工や農民の絵を描いた{{sfn|二見|2010|pp=98-100}}<ref group="手紙">{{Cite web |url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let440/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡440 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1884年3月20日、ニューネン、[[#CL|CL: 364]]、{{Lang|en|...if I continue to receive the usual from you, I may regard it as money that I’ve earned...}})。</ref>。その多くは鉛筆やペンによる素描であり、水彩、さらには油彩も少し試みたが、遠近法の技法や人物の描き方も不十分であり、いずれも暗い色調のものであった{{sfn|Naifeh|Smith|2012|p=380}}。[[カミーユ・ピサロ|ピサロ]]や[[クロード・モネ|モネ]]など明るい[[印象派]]の作品に関心を注ぐテオと、[[バルビゾン派]]を手本として暗い色調の絵を描くファン・ゴッホの間には意見の対立が生じた{{sfn|二見|2010|pp=100,104}}。

同年(1883年)12月5日、ファン・ゴッホは父親が前年8月から仕事のため移り住んでいたオランダ[[北ブラバント州]][[ニューネン・ヘルヴェン・エン・ネーデルヴェテン|ニューネン]]の農村([[アイントホーフェン]]の東郊)に初めて帰省し、ここで2年間過ごした。2年前にエッテンの家を出るよう強いられたことをめぐり父と激しい口論になったものの、小部屋をアトリエとして使ってよいことになった。さらに、[[1884年]]1月に骨折のけがをした母の介抱をするうち、家族との関係は好転した{{sfn|二見|2010|pp=95-97}}。母の世話の傍ら、近所の織工たちの家に行って、古い[[オーク]]の[[織機]]や、働く織工を描いた。一方、テオからの送金が周りから「能なしへのお情け」と見られていることには不満を募らせ、同年3月、テオに、今後作品を規則的に送ることとする代わりに、今後テオから受け取る金は自分が稼いだ金であることにしたい、という申入れをし、織工や農民の絵を描いた{{sfn|二見|2010|pp=98-100}}<ref group="手紙">{{Cite web|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let440/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡440 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1884年3月20日、ニューネン、[[#CL|CL: 364]]、{{Lang|en|...if I continue to receive the usual from you, I may regard it as money that I’ve earned...}})。</ref>。その多くは鉛筆やペンによる素描であり、水彩、さらには油彩も少し試みたが、遠近法の技法や人物の描き方も不十分であり、いずれも暗い色調のものであった{{sfn|Naifeh|Smith|2012|p=380}}。[[カミーユ・ピサロ|ピサロ]]や[[クロード・モネ|モネ]]など明るい[[印象派]]の作品に関心を注ぐテオと、[[バルビゾン派]]を手本として暗い色調の絵を描くファン・ゴッホの間には意見の対立が生じた{{sfn|二見|2010|pp=100,104}}。



1884年の夏、近くに住む10歳年上の女性マルホット(マルガレータ・ベーヘマン)と恋仲になった。しかし双方の家族から結婚を反対された末、マルホットは[[ストリキニーネ]]を飲んで倒れるという自殺未遂事件を起こし、村のスキャンダルとなった{{sfn|二見|2010|pp=100-101}}{{sfn|Naifeh|Smith|2012|p=414}}<ref group="手紙">{{Cite web |url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let456/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡456 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1884年9月16日頃、ニューネン、[[#CL|CL: 375]]、{{Lang|en|Something has happened, Theo...}})。</ref>。この事件をめぐる周囲との葛藤や、友人ラッパルトとの関係悪化、ラッパルトの展覧会での成功などに追い詰められたファン・ゴッホは、再び父との争いを勃発させた{{sfn|Naifeh|Smith|2012|pp=405-406}}。[[1885年]]3月26日、父ドルス牧師が発作を起こして急死した。彼はテオへの手紙に「君と同様、あれから何日かはいつものような仕事はできなかった、この日々は忘れることはあるまい。」と書いている{{sfn|二見|2010|p=106}}<ref group="手紙">{{Cite web |url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let489/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡489 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1885年4月4日頃、ニューネン、[[#CL|CL: 397]]、{{Lang|en|I felt as you did, in so far as when you write that the work didn’t yet proceed as usual...}})。</ref>。妹アンナからは、父を苦しめて死に追いやったのは彼であり、彼が家にいれば母も殺されることになるとなじられた。彼は牧師館から追い出され、5月初めまでに、前からアトリエとして借りていた部屋に荷物を移した{{sfn|Naifeh|Smith|2012|pp=435-436}}。

1884年の夏、近くに住む10歳年上の女性マルホット(マルガレータ・ベーヘマン)と恋仲になった。しかし双方の家族から結婚を反対された末、マルホットは[[ストリキニーネ]]を飲んで倒れるという自殺未遂事件を起こし、村のスキャンダルとなった{{sfn|二見|2010|pp=100-101}}{{sfn|Naifeh|Smith|2012|p=414}}<ref group="手紙">{{Cite web|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let456/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡456 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1884年9月16日頃、ニューネン、[[#CL|CL: 375]]、{{Lang|en|Something has happened, Theo...}})。</ref>。この事件をめぐる周囲との葛藤や、友人ラッパルトとの関係悪化、ラッパルトの展覧会での成功などに追い詰められたファン・ゴッホは、再び父との争いを勃発させた{{sfn|Naifeh|Smith|2012|pp=405-406}}。[[1885年]]3月26日、父ドルス牧師が発作を起こして急死した。彼はテオへの手紙に「君と同様、あれから何日かはいつものような仕事はできなかった、この日々は忘れることはあるまい。」と書いている{{sfn|二見|2010|p=106}}<ref group="手紙">{{Cite web|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let489/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡489 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1885年4月4日頃、ニューネン、[[#CL|CL: 397]]、{{Lang|en|I felt as you did, in so far as when you write that the work didn’t yet proceed as usual...}})。</ref>。妹アンナからは、父を苦しめて死に追いやったのは彼であり、彼が家にいれば母も殺されることになるとなじられた。彼は牧師館から追い出され、5月初めまでに、前からアトリエとして借りていた部屋に荷物を移した{{sfn|Naifeh|Smith|2012|pp=435-436}}。



1885年の春、数年間にわたって描き続けた農夫の人物画の集大成として、彼の最初の本格的作品と言われる『[[ジャガイモを食べる人々]]』を完成させた{{sfn|二見|2010|p=107}}。自らが着想した独自の画風を具体化した作品であり、ファン・ゴッホ自身は大きく満足した仕上がりであったが、テオを含め周囲からの理解は得られなかった。同年5月には、[[アカデミズム絵画]]を批判して印象派を持ち上げていた友人ラッパルトからも、人物の描き方、コーヒー沸かしと手の関係、その他の細部について手紙で厳しい批判を受けた。これに対し、ファン・ゴッホも強い反論の手紙を返し、2人はその後絶交に至った{{sfn|二見|2010|pp=100-101}}。

1885年の春、数年間にわたって描き続けた農夫の人物画の集大成として、彼の最初の本格的作品と言われる『[[ジャガイモを食べる人々]]』を完成させた{{sfn|二見|2010|p=107}}。自らが着想した独自の画風を具体化した作品であり、ファン・ゴッホ自身は大きく満足した仕上がりであったが、テオを含め周囲からの理解は得られなかった。同年5月には、[[アカデミズム絵画]]を批判して印象派を持ち上げていた友人ラッパルトからも、人物の描き方、コーヒー沸かしと手の関係、その他の細部について手紙で厳しい批判を受けた。これに対し、ファン・ゴッホも強い反論の手紙を返し、2人はその後絶交に至った{{sfn|二見|2010|pp=100-101}}。

190行目: 192行目:

夏の間、ファン・ゴッホは農家の少年と一緒に村を歩き回って、[[ミソサザイ]]の巣を探したり、藁葺き屋根の農家の連作を描いたりして過ごした。炭坑のストライキを描いた[[エミール・ゾラ]]の小説『[[ジェルミナール (小説)|ジェルミナール]]』を読み、ボリナージュでの経験を思い出して共感する{{sfn|二見|2010|pp=111-112}}。一方、『ジャガイモを食べる人々』のモデルになった女性(ホルディナ・ドゥ・フロート)が9月に妊娠した件について、ファン・ゴッホのせいではないかと疑われ、カトリック教会からは、村人にゴッホの絵のモデルにならないよう命じられるという干渉を受けた{{sfn|二見|2010|p=113}}。

夏の間、ファン・ゴッホは農家の少年と一緒に村を歩き回って、[[ミソサザイ]]の巣を探したり、藁葺き屋根の農家の連作を描いたりして過ごした。炭坑のストライキを描いた[[エミール・ゾラ]]の小説『[[ジェルミナール (小説)|ジェルミナール]]』を読み、ボリナージュでの経験を思い出して共感する{{sfn|二見|2010|pp=111-112}}。一方、『ジャガイモを食べる人々』のモデルになった女性(ホルディナ・ドゥ・フロート)が9月に妊娠した件について、ファン・ゴッホのせいではないかと疑われ、カトリック教会からは、村人にゴッホの絵のモデルにならないよう命じられるという干渉を受けた{{sfn|二見|2010|p=113}}。



同年(1885年)10月、ファン・ゴッホは首都[[アムステルダム]]の[[アムステルダム国立美術館|国立美術館]]を訪れ、[[レンブラント・ファン・レイン|レンブラント]]、[[フランス・ハルス]]、[[ヤーコプ・ファン・ロイスダール|ロイスダール]]などの17世紀オランダ(いわゆる[[オランダ黄金時代の絵画|黄金時代]])の大画家の絵を見直し、素描と色彩を一つのものとして考えること、勢いよく一気呵成に描き上げることといった教訓を得るとともに、近年の一様に明るい絵への疑問を新たにした。同じ10月、ファン・ゴッホは、黒の使い方を実証するため、父の[[聖書]]と火の消えたろうそく、エミール・ゾラの小説本『[[生きる歓び (小説)|生きる歓び]]』を描いた静物画を描き上げ、テオに送った{{sfn|二見|2010|pp=113-114}}<ref group="手紙">{{Cite web |url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let535/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡535 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1885年10月13日頃、ニューネン、[[#CL|CL: 427]]、{{Lang|en|What particularly struck me when I saw the old Dutch paintings again is...}})。</ref>。しかし、もはやモデルになってくれる村人を見つけることができなくなった上、部屋を借りていたカトリック教会管理人から契約を打ち切られると、11月、ニューネンを去らざるを得なくなった{{sfn|Naifeh|Smith|2012|pp=466-467}}。残された多数の絵は母によって二束三文で処分された{{sfn|トラルボー|1992|p=160}}。

同年(1885年)10月、ファン・ゴッホは首都[[アムステルダム]]の[[アムステルダム国立美術館|国立美術館]]を訪れ、[[レンブラント・ファン・レイン|レンブラント]]、[[フランス・ハルス]]、[[ヤーコプ・ファン・ロイスダール|ロイスダール]]などの17世紀オランダ(いわゆる[[オランダ黄金時代の絵画|黄金時代]])の大画家の絵を見直し、素描と色彩を一つのものとして考えること、勢いよく一気呵成に描き上げることといった教訓を得るとともに、近年の一様に明るい絵への疑問を新たにした。同じ10月、ファン・ゴッホは、黒の使い方を実証するため、父の[[聖書]]と火の消えたろうそく、エミール・ゾラの小説本『[[生きる歓び (小説)|生きる歓び]]』を描いた静物画を描き上げ、テオに送った{{sfn|二見|2010|pp=113-114}}<ref group="手紙">{{Cite web|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let535/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡535 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1885年10月13日頃、ニューネン、[[#CL|CL: 427]]、{{Lang|en|What particularly struck me when I saw the old Dutch paintings again is...}})。</ref>。しかし、もはやモデルになってくれる村人を見つけることができなくなった上、部屋を借りていたカトリック教会管理人から契約を打ち切られると、11月、ニューネンを去らざるを得なくなった{{sfn|Naifeh|Smith|2012|pp=466-467}}。残された多数の絵は母によって二束三文で処分された{{sfn|トラルボー|1992|p=160}}。

<gallery>

<gallery>

ファイル:Van-willem-vincent-gogh-die-kartoffelesser-03850.jpg|『[[ジャガイモを食べる人々]]』1885年4月-5月、ニューネン。油彩、キャンバス、82 × 114&nbsp;cm。[[ゴッホ美術館]]<ref>{{Cite web |url=https://www.vangoghmuseum.nl/en/collection/s0005V1962 |title=The Potato Eaters |publisher=The Van Gogh Museum |accessdate=2017-12-11}}</ref><sup>F 82, JH 764</sup>。最初の本格的作品と言われる。

ファイル:Van-willem-vincent-gogh-die-kartoffelesser-03850.jpg|『[[ジャガイモを食べる人々]]』1885年4月-5月、ニューネン。油彩、キャンバス、82 × 114&nbsp;cm。[[ゴッホ美術館]]<ref>{{Cite web |url=https://www.vangoghmuseum.nl/en/collection/s0005V1962 |title=The Potato Eaters |publisher=The Van Gogh Museum |accessdate=2017-12-11}}</ref><sup>F 82, JH 764</sup>。最初の本格的作品と言われる。

200行目: 202行目:

1885年11月、ファン・ゴッホはベルギーの[[アントウェルペン]]へ移り、イマージュ通りに面した絵具屋の、2階の小さな部屋を借りた{{sfn|二見|2010|p=117}}。[[1886年]]1月から、[[アントウェルペン王立芸術学院]]で人物画や石膏デッサンのクラスに出た{{Refnest|group="注釈"|ファン・ゴッホは、当初、街の娼婦をアトリエに呼んで[[ヌード]]のデッサンをしようとしていたが、これを止めるテオと対立した結果、アカデミーならモデルのデッサンができると言って、1886年1月半ば、今まで批判していたアカデミーに入学した。しかし、端正で明確なデッサンを求める教官と言い争い、他の生徒からも嘲笑され、2月初めには脱落した{{sfn|Naifeh|Smith|2012|pp=479-487}}。}}。また、美術館やカテドラルを訪れ、特に[[ピーテル・パウル・ルーベンス|ルーベンス]]の絵に関心を持った。さらに、[[エドモン・ド・ゴンクール]]の小説『シェリ』を読んでその[[ジャポネズリー]](日本趣味)に魅了され、多くの[[浮世絵]]を買い求めて部屋の壁に貼った{{sfn|二見|2010|pp=118-120}}。

1885年11月、ファン・ゴッホはベルギーの[[アントウェルペン]]へ移り、イマージュ通りに面した絵具屋の、2階の小さな部屋を借りた{{sfn|二見|2010|p=117}}。[[1886年]]1月から、[[アントウェルペン王立芸術学院]]で人物画や石膏デッサンのクラスに出た{{Refnest|group="注釈"|ファン・ゴッホは、当初、街の娼婦をアトリエに呼んで[[ヌード]]のデッサンをしようとしていたが、これを止めるテオと対立した結果、アカデミーならモデルのデッサンができると言って、1886年1月半ば、今まで批判していたアカデミーに入学した。しかし、端正で明確なデッサンを求める教官と言い争い、他の生徒からも嘲笑され、2月初めには脱落した{{sfn|Naifeh|Smith|2012|pp=479-487}}。}}。また、美術館やカテドラルを訪れ、特に[[ピーテル・パウル・ルーベンス|ルーベンス]]の絵に関心を持った。さらに、[[エドモン・ド・ゴンクール]]の小説『シェリ』を読んでその[[ジャポネズリー]](日本趣味)に魅了され、多くの[[浮世絵]]を買い求めて部屋の壁に貼った{{sfn|二見|2010|pp=118-120}}。



金銭的には依然困窮しており、テオが送ってくれる金を[[画材]]とモデル代につぎ込み、口にするのはパンとコーヒーとタバコだけだった。同年2月、ファン・ゴッホはテオへの手紙で、前の年の5月から温かい物を食べたのは覚えている限り6回だけだと書いている。食費を切り詰め、体を酷使したため、歯は次々欠け、彼の体は衰弱した{{sfn|二見|2010|pp=120,122}}<ref group="手紙">{{Cite web |url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let558/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡558 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1886年2月4日、アントウェルペン、[[#CL|CL: 449]]、{{Lang|en|When you think that I went to live in my own studio on 1 May...}})。</ref>{{Refnest|group="注釈"|テオには言っていないが、ファン・ゴッホは医者で[[梅毒]]の治療を受けている。また、その治療のため投与された[[水銀]]の副作用にも苦しめられていたと思われる{{sfn|Naifeh|Smith|2012|pp=477-478}}。}}。また、アントウェルペンの頃から、[[アブサン]]([[ニガヨモギ]]を原料とする[[リキュール]])を飲むようになった{{sfn|Callow|1996|p=253}}。

金銭的には依然困窮しており、テオが送ってくれる金を[[画材]]とモデル代につぎ込み、口にするのはパンとコーヒーとタバコだけだった。同年2月、ファン・ゴッホはテオへの手紙で、前の年の5月から温かい物を食べたのは覚えている限り6回だけだと書いている。食費を切り詰め、体を酷使したため、歯は次々欠け、彼の体は衰弱した{{sfn|二見|2010|pp=120,122}}<ref group="手紙">{{Cite web|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let558/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡558 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1886年2月4日、アントウェルペン、[[#CL|CL: 449]]、{{Lang|en|When you think that I went to live in my own studio on 1 May...}})。</ref>{{Refnest|group="注釈"|テオには言っていないが、ファン・ゴッホは医者で[[梅毒]]の治療を受けている。また、その治療のため投与された[[水銀]]の副作用にも苦しめられていたと思われる{{sfn|Naifeh|Smith|2012|pp=477-478}}。}}。また、アントウェルペンの頃から、[[アブサン]]([[ニガヨモギ]]を原料とする[[リキュール]])を飲むようになった{{sfn|Callow|1996|p=253}}。



=== パリ(1886年-1888年初頭) ===

=== パリ(1886年-1888年初頭) ===

253行目: 255行目:


==== ゴーギャン到着まで ====

==== ゴーギャン到着まで ====

ファン・ゴッホは、[[1888年]]2月20日、テオのアパルトマンを去って南フランスの[[アルル]]に到着し、オテル=レストラン・カレルに宿をとった{{sfn|二見|2010|pp=142-143}}{{sfn|トラルボー|1992|p=217}}。ファン・ゴッホは、この地から、テオに画家の協同組合を提案した。[[エドガー・ドガ]]、モネ、ルノワール、[[アルフレッド・シスレー]]、ピサロという5人の「グラン・ブールヴァール」の画家と、テオやテルステーフなどの画商、そして[[アルマン・ギヨマン]]、スーラ、ゴーギャンといった「プティ・ブールヴァール」の画家が協力し、絵の代金を分配し合って相互扶助を図るというものであった{{sfn|二見|2010|p=144}}<ref group="手紙">{{Cite web |url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let584/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡584 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1888年3月10日、アルル、[[#CL|CL: 468]]、{{Lang|en|Nevertheless, artists won’t find a better way than — to join together, give their pictures to the association, and share the sale price...}})。</ref>。

ファン・ゴッホは、[[1888年]]2月20日、テオのアパルトマンを去って南フランスの[[アルル]]に到着し、オテル=レストラン・カレルに宿をとった{{sfn|二見|2010|pp=142-143}}{{sfn|トラルボー|1992|p=217}}。ファン・ゴッホは、この地から、テオに画家の協同組合を提案した。[[エドガー・ドガ]]、モネ、ルノワール、[[アルフレッド・シスレー]]、ピサロという5人の「グラン・ブールヴァール」の画家と、テオやテルステーフなどの画商、そして[[アルマン・ギヨマン]]、スーラ、ゴーギャンといった「プティ・ブールヴァール」の画家が協力し、絵の代金を分配し合って相互扶助を図るというものであった{{sfn|二見|2010|p=144}}<ref group="手紙">{{Cite web|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let584/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡584 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1888年3月10日、アルル、[[#CL|CL: 468]]、{{Lang|en|Nevertheless, artists won’t find a better way than — to join together, give their pictures to the association, and share the sale price...}})。</ref>。



[[ファイル:Van gogh bruecke 1902.jpg|thumb|left|180px|『[[アルルの跳ね橋]]』で描かれたラングロワ橋。34歳のゴッホは突然テオのもとを去ってアルルに移った。]]

[[ファイル:Van gogh bruecke 1902.jpg|thumb|left|180px|『[[アルルの跳ね橋]]』で描かれたラングロワ橋。34歳のゴッホは突然テオのもとを去ってアルルに移った。]]

ファン・ゴッホは、ベルナール宛の手紙の中で、「この地方は大気の透明さと明るい色の効果のため[[日本]]みたいに美しい。水が美しいエメラルドと豊かな青の色の広がりを生み出し、まるで日本版画に見る風景のようだ。」と書いている<ref group="手紙">{{Cite web |url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let587/letter.html#translation |title=フィンセントよりベルナール宛書簡587 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1888年3月18日、アルル、[[#CL|CL: B2]]、{{Lang|en|I want to begin by telling you that this part of the world seems to me as beautiful as Japan...}})。</ref>。3月中旬には、アルルの街の南の[[運河]]にかかるラングロワ橋を描き(『[[アルルの跳ね橋]]』)、3月下旬から4月にかけては[[アンズ]]や[[モモ]]、[[リンゴ]]、[[プラム]]、[[ナシ|梨]]と、花の季節の移ろいに合わせて[[果樹園]]を次々に描いた{{sfn|二見|2010|pp=145-147}}。また、3月初めに、アルルにいたデンマークの画家{{仮リンク|クリスチャン・ムーリエ=ペーターセン|en|Christian Mourier-Petersen}}と知り合って一緒に絵を描くなどし、4月以降、2人はアメリカの画家{{仮リンク|ドッジ・マックナイト|en|Dodge MacKnight}}やベルギーの画家[[ウジェーヌ・ボック]]とも親交を持った{{sfn|マーフィー|2017|pp=79-85}}。

ファン・ゴッホは、ベルナール宛の手紙の中で、「この地方は大気の透明さと明るい色の効果のため[[日本]]みたいに美しい。水が美しいエメラルドと豊かな青の色の広がりを生み出し、まるで日本版画に見る風景のようだ。」と書いている<ref group="手紙">{{Cite web|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let587/letter.html#translation |title=フィンセントよりベルナール宛書簡587 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1888年3月18日、アルル、[[#CL|CL: B2]]、{{Lang|en|I want to begin by telling you that this part of the world seems to me as beautiful as Japan...}})。</ref>。3月中旬には、アルルの街の南の[[運河]]にかかるラングロワ橋を描き(『[[アルルの跳ね橋]]』)、3月下旬から4月にかけては[[アンズ]]や[[モモ]]、[[リンゴ]]、[[プラム]]、[[ナシ|梨]]と、花の季節の移ろいに合わせて[[果樹園]]を次々に描いた{{sfn|二見|2010|pp=145-147}}。また、3月初めに、アルルにいたデンマークの画家{{仮リンク|クリスチャン・ムーリエ=ペーターセン|en|Christian Mourier-Petersen}}と知り合って一緒に絵を描くなどし、4月以降、2人はアメリカの画家{{仮リンク|ドッジ・マックナイト|en|Dodge MacKnight}}やベルギーの画家[[ウジェーヌ・ボック]]とも親交を持った{{sfn|マーフィー|2017|pp=79-85}}。



同年(1888年)5月からは、宿から高い支払を要求されたことを機に、ラマルティーヌ広場に面した黄色い外壁で2階建ての建物(「[[黄色い家]]」)の東半分、小部屋付きの2つの部屋を借り、画室として使い始めた{{Refnest|group="注釈"|{{仮リンク|バーナデット・マーフィー|de|Bernadette Murphy}}の調査によれば、「黄色い家」は、「カフェ・ドゥ・ラ・ガール」の経営者マリー・ジヌーの一家が以前住んでいたがその後空き家になっていた不動産である。マリーが、この不動産を取り扱っていた業者ベルナール・スーレに、ファン・ゴッホを賃借人として紹介したようである{{sfn|マーフィー|2017|pp=120-121}}。}}(ベッドなどの[[家具]]がなかったため、9月までは3軒隣の「カフェ・ドゥ・ラ・ガール」の一室に寝泊まりしていた)。[[ポン=タヴァン]]にいるゴーギャンが経済的苦境にあることを知ると、2人でこの家で自炊生活をすればテオからの送金でやり繰りできるという提案を、テオとゴーギャン宛に書き送っている{{sfn|二見|2010|pp=149-151}}<ref group="手紙">{{Cite web |url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let616/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡616 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1888年5月29日、アルル、[[#CL|CL: 493]]、{{Lang|en|I thought of Gauguin and here we are — if Gauguin wants to come here there’s Gauguin’s fare, and then there are the two beds or the two mattresses we absolutely have to buy.}})。</ref>。5月30日頃、[[地中海]]に面した[[サント=マリー=ド=ラ=メール]]の海岸に旅して、海の変幻極まりない色に感動し、砂浜の漁船などを描いた{{sfn|二見|2010|pp=152-153}}。6月、アルルに戻ると、炎天下、蚊や[[ミストラル]](北風)と戦いながら、毎日のように外に出て[[クロー平野]]の麦畑や、[[修道院]]の廃墟があるモンマジュールの丘、黄色い家の南に広がるラマルティーヌ広場を素描し、雨の日には[[ズアーブ兵]](アルジェリア植民地兵)をモデルにした絵を描いた{{sfn|二見|2010|pp=155,157,160}}。6月初めにはムーリエ=ペーターセンが帰国してしまい、寂しさを味わったファン・ゴッホは、ポン=タヴァンにいるゴーギャンとベルナールとの間でさかんに手紙のやり取りをした{{sfn|マーフィー|2017|p=134}}。

同年(1888年)5月からは、宿から高い支払を要求されたことを機に、ラマルティーヌ広場に面した黄色い外壁で2階建ての建物(「[[黄色い家]]」)の東半分、小部屋付きの2つの部屋を借り、画室として使い始めた{{Refnest|group="注釈"|{{仮リンク|バーナデット・マーフィー|de|Bernadette Murphy}}の調査によれば、「黄色い家」は、「カフェ・ドゥ・ラ・ガール」の経営者マリー・ジヌーの一家が以前住んでいたがその後空き家になっていた不動産である。マリーが、この不動産を取り扱っていた業者ベルナール・スーレに、ファン・ゴッホを賃借人として紹介したようである{{sfn|マーフィー|2017|pp=120-121}}。}}(ベッドなどの[[家具]]がなかったため、9月までは3軒隣の「カフェ・ドゥ・ラ・ガール」の一室に寝泊まりしていた)。[[ポン=タヴァン]]にいるゴーギャンが経済的苦境にあることを知ると、2人でこの家で自炊生活をすればテオからの送金でやり繰りできるという提案を、テオとゴーギャン宛に書き送っている{{sfn|二見|2010|pp=149-151}}<ref group="手紙">{{Cite web|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let616/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡616 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1888年5月29日、アルル、[[#CL|CL: 493]]、{{Lang|en|I thought of Gauguin and here we are — if Gauguin wants to come here there’s Gauguin’s fare, and then there are the two beds or the two mattresses we absolutely have to buy.}})。</ref>。5月30日頃、[[地中海]]に面した[[サント=マリー=ド=ラ=メール]]の海岸に旅して、海の変幻極まりない色に感動し、砂浜の漁船などを描いた{{sfn|二見|2010|pp=152-153}}。6月、アルルに戻ると、炎天下、蚊や[[ミストラル]](北風)と戦いながら、毎日のように外に出て[[クロー平野]]の麦畑や、[[修道院]]の廃墟があるモンマジュールの丘、黄色い家の南に広がるラマルティーヌ広場を素描し、雨の日には[[ズアーブ兵]](アルジェリア植民地兵)をモデルにした絵を描いた{{sfn|二見|2010|pp=155,157,160}}。6月初めにはムーリエ=ペーターセンが帰国してしまい、寂しさを味わったファン・ゴッホは、ポン=タヴァンにいるゴーギャンとベルナールとの間でさかんに手紙のやり取りをした{{sfn|マーフィー|2017|p=134}}。



7月、アルルの少女をモデルに描いた肖像画に、[[ピエール・ロティ]]の『お菊さん』を読んで知った日本語を使って『[[ラ・ムスメ]]』という題を付けた{{sfn|二見|2010|pp=162,164}}。同月、[[郵便配達人ジョゼフ・ルーラン|郵便夫ジョゼフ・ルーラン]]の肖像を描いた{{sfn|二見|2010|p=165}}。8月、彼はベルナールに画室を6点のひまわりの絵で飾る構想を伝え、『[[ひまわり (絵画)|ひまわり]]』を4作続けて制作した{{sfn|二見|2010|pp=166-167}}。9月初旬、寝泊まりしていたカフェ・ドゥ・ラ・ガールを描いた『[[夜のカフェ]]』を、3晩の徹夜で制作した。この店は酔客が集まって夜を明かす[[居酒屋]]であり、ファン・ゴッホは手紙の中で「『夜のカフェ』の絵で、僕はカフェとは人がとかく身を持ち崩し、狂った人となり、罪を犯すようになりやすい所だということを表現しようと努めた。」と書いている{{sfn|二見|2010|pp=170-171}}<ref group="手紙">{{Cite web |url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let677/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡677 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1888年9月9日、アルル、[[#CL|CL: 534]]、{{Lang|en|In my painting of the night café I’ve tried to express the idea that the café is a place...}})。</ref>。

7月、アルルの少女をモデルに描いた肖像画に、[[ピエール・ロティ]]の『お菊さん』を読んで知った日本語を使って『[[ラ・ムスメ]]』という題を付けた{{sfn|二見|2010|pp=162,164}}。同月、[[郵便配達人ジョゼフ・ルーラン|郵便夫ジョゼフ・ルーラン]]の肖像を描いた{{sfn|二見|2010|p=165}}。8月、彼はベルナールに画室を6点のひまわりの絵で飾る構想を伝え、『[[ひまわり (絵画)|ひまわり]]』を4作続けて制作した{{sfn|二見|2010|pp=166-167}}。9月初旬、寝泊まりしていたカフェ・ドゥ・ラ・ガールを描いた『[[夜のカフェ]]』を、3晩の徹夜で制作した。この店は酔客が集まって夜を明かす[[居酒屋]]であり、ファン・ゴッホは手紙の中で「『夜のカフェ』の絵で、僕はカフェとは人がとかく身を持ち崩し、狂った人となり、罪を犯すようになりやすい所だということを表現しようと努めた。」と書いている{{sfn|二見|2010|pp=170-171}}<ref group="手紙">{{Cite web|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let677/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡677 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1888年9月9日、アルル、[[#CL|CL: 534]]、{{Lang|en|In my painting of the night café I’ve tried to express the idea that the café is a place...}})。</ref>。



一方、ポン=タヴァンにいるゴーギャンからは、ファン・ゴッホに対し、同年(1888年)7月24日頃の手紙で、アルルに行きたいという希望が伝えられた{{sfn|二見|2010|p=165}}。ファン・ゴッホは、ゴーギャンとの共同生活の準備をするため、9月8日にテオから送られてきた金で、ベッドなどの家具を買い揃え、9月中旬から「黄色い家」に寝泊まりするようになった。同じ9月中旬に『[[夜のカフェテラス]]』を描き上げた{{sfn|二見|2010|pp=173-175}}。9月下旬、『[[黄色い家]]』を描いた{{sfn|二見|2010|p=178}}。ゴーギャンが到着する前に自信作を揃えておかなければという焦りから、テオに費用の送金を度々催促しつつ、次々に制作を重ねた。過労で憔悴しながら、10月中旬、黄色い家の自分の部屋を描いた(『[[ファンゴッホの寝室|アルルの寝室]]』){{sfn|二見|2010|pp=182-183}}。

一方、ポン=タヴァンにいるゴーギャンからは、ファン・ゴッホに対し、同年(1888年)7月24日頃の手紙で、アルルに行きたいという希望が伝えられた{{sfn|二見|2010|p=165}}。ファン・ゴッホは、ゴーギャンとの共同生活の準備をするため、9月8日にテオから送られてきた金で、ベッドなどの家具を買い揃え、9月中旬から「黄色い家」に寝泊まりするようになった。同じ9月中旬に『[[夜のカフェテラス]]』を描き上げた{{sfn|二見|2010|pp=173-175}}。9月下旬、『[[黄色い家]]』を描いた{{sfn|二見|2010|p=178}}。ゴーギャンが到着する前に自信作を揃えておかなければという焦りから、テオに費用の送金を度々催促しつつ、次々に制作を重ねた。過労で憔悴しながら、10月中旬、黄色い家の自分の部屋を描いた(『[[ファンゴッホの寝室|アルルの寝室]]』){{sfn|二見|2010|pp=182-183}}。

270行目: 272行目:

ファイル: Vincent Willem van Gogh 076.jpg |『[[夜のカフェ]]』1888年9月、アルル。油彩、キャンバス、70 × 89&nbsp;cm。[[イェール大学]]美術館([[アメリカ合衆国|米]][[コネチカット州]][[ニューヘイブン (コネチカット州)|ニューヘイブン]])<sup>F 463, JH 1575</sup>。

ファイル: Vincent Willem van Gogh 076.jpg |『[[夜のカフェ]]』1888年9月、アルル。油彩、キャンバス、70 × 89&nbsp;cm。[[イェール大学]]美術館([[アメリカ合衆国|米]][[コネチカット州]][[ニューヘイブン (コネチカット州)|ニューヘイブン]])<sup>F 463, JH 1575</sup>。

ファイル: Gogh4.jpg |『[[夜のカフェテラス]]』1888年9月、アルル。油彩、キャンバス、81 × 65.5&nbsp;cm。クレラー・ミュラー美術館<ref>{{Cite web |url=https://krollermuller.nl/en/vincent-van-gogh-terrace-of-a-cafe-at-night-place-du-forum-1 |title=Caféterras bij nacht (Place du Forum) |publisher=Kröller-Müller Museum |accessdate=2017-12-14}}</ref><sup>F 467, JH 1580</sup>。

ファイル: Gogh4.jpg |『[[夜のカフェテラス]]』1888年9月、アルル。油彩、キャンバス、81 × 65.5&nbsp;cm。クレラー・ミュラー美術館<ref>{{Cite web |url=https://krollermuller.nl/en/vincent-van-gogh-terrace-of-a-cafe-at-night-place-du-forum-1 |title=Caféterras bij nacht (Place du Forum) |publisher=Kröller-Müller Museum |accessdate=2017-12-14}}</ref><sup>F 467, JH 1580</sup>。


:Starry Night Over the Rhone.jpg|{{||en|Starry Night Over the Rhône}}1888973 × 92&nbsp;cm[[]]<ref>{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/en/collections/index-of-works/notice.html?no_cache=1&nnumid=078696&cHash=cb71019294 |title=La nuit étoilée |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2017-12-14}}</ref><sup>F 474, JH 1592</sup>

:Starry Night Over the Rhone.jpg|[[]]1888973 × 92&nbsp;cm[[]]<ref>{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/en/collections/index-of-works/notice.html?no_cache=1&nnumid=078696&cHash=cb71019294 |title=La nuit étoilée |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2017-12-14}}</ref><sup>F 474, JH 1592</sup>

ファイル: Van Gogh - Das gelbe Haus (Vincents Haus)2.jpeg |『[[黄色い家]]』1888年9月、アルル。油彩、キャンバス、72 × 91.5&nbsp;cm。ゴッホ美術館<ref>{{Cite web |url=https://www.vangoghmuseum.nl/en/collection/s0032V1962 |title=The Yellow House (The Street) |publisher=Van Gogh Museum |accessdate=2017-12-14}}</ref><sup>F 464, JH 1589</sup>。

ファイル: Van Gogh - Das gelbe Haus (Vincents Haus)2.jpeg |『[[黄色い家]]』1888年9月、アルル。油彩、キャンバス、72 × 91.5&nbsp;cm。ゴッホ美術館<ref>{{Cite web |url=https://www.vangoghmuseum.nl/en/collection/s0032V1962 |title=The Yellow House (The Street) |publisher=Van Gogh Museum |accessdate=2017-12-14}}</ref><sup>F 464, JH 1589</sup>。

ファイル: VanGogh Bedroom Arles1.jpg |『[[ファンゴッホの寝室|アルルの寝室]]』1888年10月、アルル。油彩、キャンバス、72.4 × 91.3&nbsp;cm。ゴッホ美術館<ref>{{Cite web |url=https://www.vangoghmuseum.nl/en/collection/s0047V1962 |title=The Bedroom |publisher=Van Gogh Museum |accessdate=2017-12-14}}</ref><sup>F 482, JH 1608</sup>。

ファイル: VanGogh Bedroom Arles1.jpg |『[[ファンゴッホの寝室|アルルの寝室]]』1888年10月、アルル。油彩、キャンバス、72.4 × 91.3&nbsp;cm。ゴッホ美術館<ref>{{Cite web |url=https://www.vangoghmuseum.nl/en/collection/s0047V1962 |title=The Bedroom |publisher=Van Gogh Museum |accessdate=2017-12-14}}</ref><sup>F 482, JH 1608</sup>。

277行目: 279行目:

==== ゴーギャンとの共同生活 ====

==== ゴーギャンとの共同生活 ====

[[ファイル:Paul Gauguin 1891.png|thumb|right|160px|[[ポール・ゴーギャン]]。ファン・ゴッホと弟テオの提案を受け入れ、[[ポン=タヴァン]]を離れて2か月間アルルに滞在した。]]

[[ファイル:Paul Gauguin 1891.png|thumb|right|160px|[[ポール・ゴーギャン]]。ファン・ゴッホと弟テオの提案を受け入れ、[[ポン=タヴァン]]を離れて2か月間アルルに滞在した。]]

同年(1888年)10月23日、ゴーギャンがアルルに到着し、共同生活が始まった{{sfn|二見|2010|p=185}}{{Refnest|group="注釈"|ゴーギャンは、アルル行きについて、友人の画家[[エミール・シェフネッケル]]に、「この滞在の目的は、自分が世に出るまで、金銭の心配をせずに安心して仕事ができるようにすることなのだから。」と書いているように、アルルでテオの仕送りにより安定した収入を確保しようという打算的な考えに基いていたのであり、芸術家の共同体を打ち立てようというファン・ゴッホとは全く相容れない動機であった{{sfn|圀府寺|2009|p=175}}}}。2人は、街の南東のはずれにある[[アリスカン]]の散歩道を描いたり、11月4日、モンマジュール付近まで散歩して、真っ赤なぶどう畑を見たりした。2人はそれぞれぶどうの収穫を絵にした(ファン・ゴッホの『[[赤い葡萄畑]]』)。また、同じ11月初旬、2人は黄色い家の画室で「カフェ・ドゥ・ラ・ガール」の経営者ジョゼフ・ジヌーの妻マリーをモデルに絵を描いた(ファン・ゴッホの『[[アルルの女 (ジヌー夫人)|アルルの女]]』){{sfn|二見|2010|pp=187-189}}。ゴーギャンはファン・ゴッホに、全くの想像で制作をするよう勧め、ファン・ゴッホは思い出によりエッテンの牧師館の庭を母と妹ヴィルが歩いている絵などを描いた{{sfn|二見|2010|p=190}}。しかし、ファン・ゴッホは、想像で描いた絵は自分には満足できるものではなかったことをテオに伝えている{{sfn|二見|2010|p=192}}。11月下旬、ファン・ゴッホは2点の『種まく人』を描いた{{sfn|二見|2010|pp=190-191}}。また、11月から12月にかけて、郵便夫ジョゼフ・ルーランやその家族をモデルに多くの肖像画を描き、この仕事を「自分の本領だと感じる」とテオに書いている{{sfn|二見|2010|p=193}}<ref group="手紙">{{Cite web |url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let723/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡723 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1888年12月1日頃、アルル、[[#CL|CL: 560]]、{{Lang|en|You can sense how in my element that makes me feel...}})。</ref>。

同年(1888年)10月23日、ゴーギャンがアルルに到着し、共同生活が始まった{{sfn|二見|2010|p=185}}{{Refnest|group="注釈"|ゴーギャンは、アルル行きについて、友人の画家[[エミール・シェフネッケル]]に、「この滞在の目的は、自分が世に出るまで、金銭の心配をせずに安心して仕事ができるようにすることなのだから。」と書いているように、アルルでテオの仕送りにより安定した収入を確保しようという打算的な考えに基いていたのであり、芸術家の共同体を打ち立てようというファン・ゴッホとは全く相容れない動機であった{{sfn|圀府寺|2009|p=175}}}}。2人は、街の南東のはずれにある[[アリスカン]]の散歩道を描いたり、11月4日、モンマジュール付近まで散歩して、真っ赤なぶどう畑を見たりした。2人はそれぞれぶどうの収穫を絵にした(ファン・ゴッホの『[[赤い葡萄畑]]』)。また、同じ11月初旬、2人は黄色い家の画室で「カフェ・ドゥ・ラ・ガール」の経営者ジョゼフ・ジヌーの妻マリーをモデルに絵を描いた(ファン・ゴッホの『[[アルルの女 (ジヌー夫人)|アルルの女]]』){{sfn|二見|2010|pp=187-189}}。ゴーギャンはファン・ゴッホに、全くの想像で制作をするよう勧め、ファン・ゴッホは思い出によりエッテンの牧師館の庭を母と妹ヴィルが歩いている絵などを描いた{{sfn|二見|2010|p=190}}。しかし、ファン・ゴッホは、想像で描いた絵は自分には満足できるものではなかったことをテオに伝えている{{sfn|二見|2010|p=192}}。11月下旬、ファン・ゴッホは2点の『種まく人』を描いた{{sfn|二見|2010|pp=190-191}}。また、11月から12月にかけて、郵便夫ジョゼフ・ルーランやその家族をモデルに多くの肖像画を描き、この仕事を「自分の本領だと感じる」とテオに書いている{{sfn|二見|2010|p=193}}<ref group="手紙">{{Cite web|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let723/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡723 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1888年12月1日頃、アルル、[[#CL|CL: 560]]、{{Lang|en|You can sense how in my element that makes me feel...}})。</ref>。



[[ファイル:Paul Gauguin 104.jpg|thumb|left|180px|ゴーギャンによる、ひまわりを描くファン・ゴッホの肖像(1888年11月)。ひまわりの季節は終わっており、ゴーギャンの想像による作品と思われるが、その表情の描写は[[カリカチュア]]的ともいえる{{sfn|Naifeh|Smith|2012|p=686}}{{Refnest|group="注釈"|ファン・ゴッホの死後、ゴーギャンは『前後録』の中で、ゴッホがこの作品を見て「こいつはまさに僕だ。しかし気が違った僕だ。」と言ったと書いている。しかしその真偽には疑問が呈されている{{sfn|小林英樹|2002|pp=126-128}}。}}。]]

[[ファイル:Paul Gauguin 104.jpg|thumb|left|180px|ゴーギャンによる、ひまわりを描くファン・ゴッホの肖像(1888年11月)。ひまわりの季節は終わっており、ゴーギャンの想像による作品と思われるが、その表情の描写は[[カリカチュア]]的ともいえる{{sfn|Naifeh|Smith|2012|p=686}}{{Refnest|group="注釈"|ファン・ゴッホの死後、ゴーギャンは『前後録』の中で、ゴッホがこの作品を見て「こいつはまさに僕だ。しかし気が違った僕だ。」と言ったと書いている。しかしその真偽には疑問が呈されている{{sfn|小林英樹|2002|pp=126-128}}。}}。]]


211[[|]]{{sfn||2010|p=192}}12{{sfn||2010|p=194}}<ref group="">{{Cite web |url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let724/letter.html#translation |title=724 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}18881211[[#CL|CL: 565]]{{Lang|en|I myself think that Gauguin had become a little disheartened by the good town of Arles...}}Note 1{{Lang|en|I am obliged to return to Paris; Vincent and I can absolutely not live side by side without trouble...}}</ref>1216172西70 km[[]][[]][[|]]2[[|]]1220{{sfn||2010|pp=194-197}}

一方で、次第に2人の関係は緊張するようになった。11月下旬、ゴーギャンはベルナールに対し「ヴァンサン(フィンセント)と私は概して意見が合うことがほとんどない、ことに絵ではそうだ。……彼は私の絵がとても好きなのだが、私が描いていると、いつも、ここも、あそこも、と間違いを見つけ出す。……色彩の見地から言うと、彼は[[アドルフ・モンティセリ|モンティセリ]]の絵のような厚塗りのめくらめっぽうをよしとするが、私の方はこねくり回す手法が我慢ならない、などなど。」と不満を述べている{{sfn|二見|2010|p=192}}。そして、12月中旬には、ゴーギャンはテオに「いろいろ考えた挙句、私はパリに戻らざるを得ない。ヴァンサンと私は性分の不一致のため、寄り添って平穏に暮らしていくことは絶対できない。彼も私も制作のための平穏が必要です。」と書き送り、ファン・ゴッホもテオに「ゴーギャンはこのアルルの仕事場の黄色の家に、とりわけこの僕に嫌気がさしたのだと思う。」と書いている{{sfn|二見|2010|p=194}}<ref group="手紙">{{Cite web|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let724/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡724 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1888年12月11日頃、アルル、[[#CL|CL: 565]]、{{Lang|en|I myself think that Gauguin had become a little disheartened by the good town of Arles...}})。ゴーギャンよりテオ宛書簡(同Note 1、{{Lang|en|I am obliged to return to Paris; Vincent and I can absolutely not live side by side without trouble...}})。</ref>。12月中旬(16日ないし17日)、2人は汽車でアルルから西へ70 kmの[[モンペリエ]]に行き、[[ファーブル美術館]]を訪れた。ファン・ゴッホは特に[[ウジェーヌ・ドラクロワ|ドラクロワ]]の作品に惹かれ、帰ってから2人はドラクロワや[[レンブラント・ファン・レイン|レンブラント]]について熱い議論を交わした。モンペリエから帰った直後の12月20日頃、ゴーギャンはパリ行きをとりやめたことをテオに伝えた{{sfn|二見|2010|pp=194-197}}。



[[ファイル:Le Forum Républicain (Arles) - 30 December 1888 - Vincent van Gogh ear incident.jpg|thumb|right|180px|「耳切り事件」を報じる『ル・フォロム・レピュブリカン』紙。この事件でゴーギャンとの共同生活は終わりを告げた。]]

[[ファイル:Le Forum Républicain (Arles) - 30 December 1888 - Vincent van Gogh ear incident.jpg|thumb|right|180px|「耳切り事件」を報じる『ル・フォロム・レピュブリカン』紙。この事件でゴーギャンとの共同生活は終わりを告げた。]]

304行目: 306行目:

ファン・ゴッホは、アルル市立病院に収容された。ちょうどヨーとの[[婚約]]を決めたばかりだったテオは、12月24日夜の列車でアルルに急行し、翌日兄を病院に見舞うとすぐにパリに戻った{{sfn|Naifeh|Smith|2012|pp=705-706}}。ゴーギャンも、テオと同じ夜行列車でパリに戻った{{sfn|マーフィー|2017|p=230}}。テオは、帰宅すると、ヨーに対し、「兄のそばにいると、しばらくいい状態だったかと思うと、すぐに[[哲学]]や[[神学]]をめぐって苦悶する状態に落ち込んでしまう。」と書き送り、兄の生死を心配している{{sfn|二見|2010|p=201}}{{sfn|マーフィー|2017|p=230}}。アルル市立病院での担当医は、当時23歳で、まだ医師資格を得ていない研修医のフェリックス・レーであった{{sfn|Naifeh|Smith|2012|pp=706-707}}。レー医師は、出血を止め、傷口を消毒し、感染症を防止できる絹油布の包帯を巻くという比較的新しい治療法を行った{{sfn|マーフィー|2017|pp=218-219}}。郵便夫ジョゼフ・ルーランや、病院の近くに住むプロテスタント牧師ルイ・フレデリック・サルがファン・ゴッホを見舞ってくれ、テオにファン・ゴッホの病状を伝えてくれた{{sfn|マーフィー|2017|p=231}}。12月27日にオーギュスティーヌ・ルーランが面会に訪れた後、ファン・ゴッホは再び発作を起こし、病院の監禁室に隔離された{{sfn|マーフィー|2017|pp=233-235}}。

ファン・ゴッホは、アルル市立病院に収容された。ちょうどヨーとの[[婚約]]を決めたばかりだったテオは、12月24日夜の列車でアルルに急行し、翌日兄を病院に見舞うとすぐにパリに戻った{{sfn|Naifeh|Smith|2012|pp=705-706}}。ゴーギャンも、テオと同じ夜行列車でパリに戻った{{sfn|マーフィー|2017|p=230}}。テオは、帰宅すると、ヨーに対し、「兄のそばにいると、しばらくいい状態だったかと思うと、すぐに[[哲学]]や[[神学]]をめぐって苦悶する状態に落ち込んでしまう。」と書き送り、兄の生死を心配している{{sfn|二見|2010|p=201}}{{sfn|マーフィー|2017|p=230}}。アルル市立病院での担当医は、当時23歳で、まだ医師資格を得ていない研修医のフェリックス・レーであった{{sfn|Naifeh|Smith|2012|pp=706-707}}。レー医師は、出血を止め、傷口を消毒し、感染症を防止できる絹油布の包帯を巻くという比較的新しい治療法を行った{{sfn|マーフィー|2017|pp=218-219}}。郵便夫ジョゼフ・ルーランや、病院の近くに住むプロテスタント牧師ルイ・フレデリック・サルがファン・ゴッホを見舞ってくれ、テオにファン・ゴッホの病状を伝えてくれた{{sfn|マーフィー|2017|p=231}}。12月27日にオーギュスティーヌ・ルーランが面会に訪れた後、ファン・ゴッホは再び発作を起こし、病院の監禁室に隔離された{{sfn|マーフィー|2017|pp=233-235}}。



しかし、その後容態は改善に向かい、ファン・ゴッホは[[1889年]]1月2日、テオ宛に「あと数日病院にいれば、落ち着いた状態で家に戻れるだろう。何よりも心配しないでほしい。ゴーギャンのことだが、僕は彼を怖がらせてしまったのだろうか。なぜ彼は消息を知らせてこないのか。」と書いている<ref group="手紙">{{Cite web |url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let728/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡728 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1889年1月2日、アルル、[[#CL|CL: 567]]、{{Lang|en|I’ll stay here at the hospital for another few days...}})。</ref>。そして、1月4日の「黄色い家」への一時帰宅許可を経て、1月7日退院許可が下り、ファン・ゴッホは「黄色い家」に戻った{{sfn|二見|2010|pp=202-206}}{{sfn|マーフィー|2017|pp=241-243}}。

しかし、その後容態は改善に向かい、ファン・ゴッホは[[1889年]]1月2日、テオ宛に「あと数日病院にいれば、落ち着いた状態で家に戻れるだろう。何よりも心配しないでほしい。ゴーギャンのことだが、僕は彼を怖がらせてしまったのだろうか。なぜ彼は消息を知らせてこないのか。」と書いている<ref group="手紙">{{Cite web|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let728/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡728 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1889年1月2日、アルル、[[#CL|CL: 567]]、{{Lang|en|I’ll stay here at the hospital for another few days...}})。</ref>。そして、1月4日の「黄色い家」への一時帰宅許可を経て、1月7日退院許可が下り、ファン・ゴッホは「黄色い家」に戻った{{sfn|二見|2010|pp=202-206}}{{sfn|マーフィー|2017|pp=241-243}}。



[[ファイル:Arles Hotel Dieu garden.jpg|thumb|right|180px|アルル市立病院の中庭。当時35歳のファン・ゴッホが収容された。]]

[[ファイル:Arles Hotel Dieu garden.jpg|thumb|right|180px|アルル市立病院の中庭。当時35歳のファン・ゴッホが収容された。]]

313行目: 315行目:

そんな中、3月23日、画家[[ポール・シニャック]]がアルルのファン・ゴッホのもとを訪れてくれ、レー医師を含め3人で「黄色い家」に立ち入った。不在の間にローヌ川の洪水による湿気で多くの作品が損傷していることに落胆せざるを得なかった{{sfn|Naifeh|Smith|2012|pp=742-743}}。しかし、シニャックは、パリ時代に見ていたファン・ゴッホの絵とは異なる、成熟した画風の作品に驚いた。ファン・ゴッホも、友人の画家に会ったことに刺激を受け、絵画制作を再開した。外出も認められるようになった{{sfn|マーフィー|2017|pp=293-294}}。

そんな中、3月23日、画家[[ポール・シニャック]]がアルルのファン・ゴッホのもとを訪れてくれ、レー医師を含め3人で「黄色い家」に立ち入った。不在の間にローヌ川の洪水による湿気で多くの作品が損傷していることに落胆せざるを得なかった{{sfn|Naifeh|Smith|2012|pp=742-743}}。しかし、シニャックは、パリ時代に見ていたファン・ゴッホの絵とは異なる、成熟した画風の作品に驚いた。ファン・ゴッホも、友人の画家に会ったことに刺激を受け、絵画制作を再開した。外出も認められるようになった{{sfn|マーフィー|2017|pp=293-294}}。



病院にいつまでも入院していることはできず、「黄色い家」に戻ることもできなくなったため、ファン・ゴッホは、居場所を見つける必要に迫られた。4月半ばには、レー医師が所有するアパートを借りようという考えになっていたが、1人で生活できるか不安になり、あきらめた{{sfn|マーフィー|2017|pp=294-296}}。最終的に、4月下旬、テオに、サル牧師から聞いたサン=レミの療養所に移る気持ちになったので、転院の手続をとってほしいと手紙で頼んだ{{sfn|二見|2010|pp=218-219}}<ref group="手紙">{{Cite web |url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let760/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡760 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1889年4月21日、アルル、[[#CL|CL: 585]]、{{Lang|en|At the end of the month I’d still wish to go to the mental hospital at St-Rémy or another institution...}})。</ref>。当時、公立の精神科病院に入れられれば二度と退院の見込みはなかったのに対し、民間の療養所は遥かに恵まれた環境であった{{sfn|マーフィー|2017|p=296}}。

病院にいつまでも入院していることはできず、「黄色い家」に戻ることもできなくなったため、ファン・ゴッホは、居場所を見つける必要に迫られた。4月半ばには、レー医師が所有するアパートを借りようという考えになっていたが、1人で生活できるか不安になり、あきらめた{{sfn|マーフィー|2017|pp=294-296}}。最終的に、4月下旬、テオに、サル牧師から聞いたサン=レミの療養所に移る気持ちになったので、転院の手続をとってほしいと手紙で頼んだ{{sfn|二見|2010|pp=218-219}}<ref group="手紙">{{Cite web|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let760/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡760 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1889年4月21日、アルル、[[#CL|CL: 585]]、{{Lang|en|At the end of the month I’d still wish to go to the mental hospital at St-Rémy or another institution...}})。</ref>。当時、公立の精神科病院に入れられれば二度と退院の見込みはなかったのに対し、民間の療養所は遥かに恵まれた環境であった{{sfn|マーフィー|2017|p=296}}。



<gallery>

<gallery>

330行目: 332行目:

同年(1889年)5月8日、ファン・ゴッホは、サル牧師に伴われ、アルルから20 km余り北東にある[[サン=レミ=ド=プロヴァンス|サン=レミ]]の{{仮リンク|サン=ポール=ド=モーゾール修道院|fr|Monastère Saint-Paul-de-Mausole}}療養所に入所した。病院長テオフィル・ペロンは、その翌日、「これまでの経過全体の帰結として、ヴァン・ゴーグ氏は相当長い間隔を置いた[[てんかん]]発作を起こしやすい、と私は推定する。」と記録している{{sfn|二見|2010|p=225}}。

同年(1889年)5月8日、ファン・ゴッホは、サル牧師に伴われ、アルルから20 km余り北東にある[[サン=レミ=ド=プロヴァンス|サン=レミ]]の{{仮リンク|サン=ポール=ド=モーゾール修道院|fr|Monastère Saint-Paul-de-Mausole}}療養所に入所した。病院長テオフィル・ペロンは、その翌日、「これまでの経過全体の帰結として、ヴァン・ゴーグ氏は相当長い間隔を置いた[[てんかん]]発作を起こしやすい、と私は推定する。」と記録している{{sfn|二見|2010|p=225}}。



ファン・ゴッホは、療養所の一室を画室として使う許可を得て{{sfn|Naifeh|Smith|2012|p=754}}、療養所の庭で[[イチハツ]]の群生や[[ライラック|アイリス]]を描いた{{sfn|二見|2010|pp=225-226}}。また、病室の鉄格子の窓の下の麦畑や、[[アルピーユ山脈]]の山裾の斜面を描いた。6月に入ると、病室の外に出て[[オリーブ]]畑や[[イトスギ|糸杉]]を描くようになった{{sfn|二見|2010|p=228}}。同じ6月、アルピーユの山並みの上に輝く星々と[[三日月]]に、S字状にうねる雲を描いた『[[星月夜]]』を制作した。彼は、『オリーブ畑』、『星月夜』、『キヅタ』などの作品について、「実物そっくりに見せかける正確さでなく、もっと自由な自発的[[デッサン]]によって田舎の自然の純粋な姿を表出しようとする仕事だ。」と述べている{{sfn|二見|2010|p=231}}<ref group="手紙">{{Cite web |url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let782/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡782 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1889年6月18日、サン=レミ、[[#CL|CL: 595]]、{{Lang|en|It’s not a return to the romantic or to religious ideas...}})。</ref>。一方、テオは、兄の近作について「これまでなかったような色彩の迫力があるが、どうも行き過ぎている。むりやり形をねじ曲げて象徴的なものを追求することに没頭したりすると、頭を酷使して、めまいを引き起こす危険がある。」と懸念を伝えている{{sfn|二見|2010|pp=230,246}}<ref group="手紙">{{Cite web |url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let781/letter.html#translation |title=テオよりフィンセント宛書簡781 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1889年6月16日、パリ、[[#CL|CL: T10]]、{{Lang|en|All of them have a power of colour which you hadn’t attained before...}})。</ref>。7月初め、ファン・ゴッホはヨーが妊娠したことを知らされ、お祝いの手紙を送るが、複雑な心情も覗かせている{{sfn|Naifeh|Smith|2012|p=768}}。

ファン・ゴッホは、療養所の一室を画室として使う許可を得て{{sfn|Naifeh|Smith|2012|p=754}}、療養所の庭で[[イチハツ]]の群生や[[ライラック|アイリス]]を描いた{{sfn|二見|2010|pp=225-226}}。また、病室の鉄格子の窓の下の麦畑や、[[アルピーユ山脈]]の山裾の斜面を描いた。6月に入ると、病室の外に出て[[オリーブ]]畑や[[イトスギ|糸杉]]を描くようになった{{sfn|二見|2010|p=228}}。同じ6月、アルピーユの山並みの上に輝く星々と[[三日月]]に、S字状にうねる雲を描いた『[[星月夜]]』を制作した。彼は、『オリーブ畑』、『星月夜』、『キヅタ』などの作品について、「実物そっくりに見せかける正確さでなく、もっと自由な自発的[[デッサン]]によって田舎の自然の純粋な姿を表出しようとする仕事だ。」と述べている{{sfn|二見|2010|p=231}}<ref group="手紙">{{Cite web|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let782/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡782 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1889年6月18日、サン=レミ、[[#CL|CL: 595]]、{{Lang|en|It’s not a return to the romantic or to religious ideas...}})。</ref>。一方、テオは、兄の近作について「これまでなかったような色彩の迫力があるが、どうも行き過ぎている。むりやり形をねじ曲げて象徴的なものを追求することに没頭したりすると、頭を酷使して、めまいを引き起こす危険がある。」と懸念を伝えている{{sfn|二見|2010|pp=230,246}}<ref group="手紙">{{Cite web|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let781/letter.html#translation |title=テオよりフィンセント宛書簡781 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1889年6月16日、パリ、[[#CL|CL: T10]]、{{Lang|en|All of them have a power of colour which you hadn’t attained before...}})。</ref>。7月初め、ファン・ゴッホはヨーが妊娠したことを知らされ、お祝いの手紙を送るが、複雑な心情も覗かせている{{sfn|Naifeh|Smith|2012|p=768}}。



ファン・ゴッホの病状は改善しつつあったが、アルルへ作品を取りに行き、戻って間もなくの同年(1889年)7月半ば、再び発作が起きた。8月22日、ファン・ゴッホは「もう再発することはあるまいと思い始めた発作がまた起きたので苦悩は深い。……何日かの間、アルルの時と同様、完全に自失状態だった。……今度の発作は野外で風の吹く日、絵を描いている最中に起きた。」と書いている{{sfn|二見|2010|p=234}}<ref group="手紙">{{Cite web |url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let797/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡797 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1889年8月22日、サン=レミ、[[#CL|CL: 601]]、{{Lang|en|You can imagine that I’m very deeply distressed that the attacks have recurred when... For many days I’ve been absolutely distraught... This new crisis, my dear brother, came upon me in the fields...}})。</ref>。9月初めには意識は清明に戻り、[[自画像 (ゴッホ)|自画像]]、『麦刈る男』、看護主任トラビュックの胸像、ドラクロワの『[[ピエタ]]』の石版複製を手がかりにした油彩画などを描いた{{sfn|二見|2010|pp=236-239}}。また、[[ジャン=フランソワ・ミレー|ミレー]]の『野良仕事』の連作を模写した。ファン・ゴッホは、模写の仕事を、音楽家が[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]を解釈するのになぞらえている<ref group="手紙">{{Cite web |url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let805/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡805 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1889年9月20日頃、サン=レミ、[[#CL|CL: 607]]、{{Lang|en|Very well – but in music it isn’t so – and if such a person plays some Beethoven he’ll add his personal interpretation to it...}})。</ref>。以降、12月まで、ミレーの模写のほか『石切場の入口』、『渓谷』、『病院の庭の松』、オリーブ畑、サン=レミのプラタナス並木通りの道路工事などを描いた{{sfn|二見|2010|pp=246-248,252}}。

ファン・ゴッホの病状は改善しつつあったが、アルルへ作品を取りに行き、戻って間もなくの同年(1889年)7月半ば、再び発作が起きた。8月22日、ファン・ゴッホは「もう再発することはあるまいと思い始めた発作がまた起きたので苦悩は深い。……何日かの間、アルルの時と同様、完全に自失状態だった。……今度の発作は野外で風の吹く日、絵を描いている最中に起きた。」と書いている{{sfn|二見|2010|p=234}}<ref group="手紙">{{Cite web|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let797/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡797 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1889年8月22日、サン=レミ、[[#CL|CL: 601]]、{{Lang|en|You can imagine that I’m very deeply distressed that the attacks have recurred when... For many days I’ve been absolutely distraught... This new crisis, my dear brother, came upon me in the fields...}})。</ref>。9月初めには意識は清明に戻り、[[自画像 (ゴッホ)|自画像]]、『麦刈る男』、看護主任トラビュックの胸像、ドラクロワの『[[ピエタ]]』の石版複製を手がかりにした油彩画などを描いた{{sfn|二見|2010|pp=236-239}}。また、[[ジャン=フランソワ・ミレー|ミレー]]の『野良仕事』の連作を模写した。ファン・ゴッホは、模写の仕事を、音楽家が[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]を解釈するのになぞらえている<ref group="手紙">{{Cite web|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let805/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡805 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1889年9月20日頃、サン=レミ、[[#CL|CL: 607]]、{{Lang|en|Very well – but in music it isn’t so – and if such a person plays some Beethoven he’ll add his personal interpretation to it...}})。</ref>。以降、12月まで、ミレーの模写のほか『石切場の入口』、『渓谷』、『病院の庭の松』、オリーブ畑、サン=レミのプラタナス並木通りの道路工事などを描いた{{sfn|二見|2010|pp=246-248,252}}。



<gallery>

<gallery>

358行目: 360行目:

[[ファイル:Paul Gachet2.jpg|thumb|140px|[[ポール・ガシェ|ガシェ]](当時61歳)は、[[ホメオパシー]]を用いる医師であり、マネ、ルノワール、セザンヌ、ピサロ、ギヨマンらと親交を持つ美術愛好家でもあった。]]

[[ファイル:Paul Gachet2.jpg|thumb|140px|[[ポール・ガシェ|ガシェ]](当時61歳)は、[[ホメオパシー]]を用いる医師であり、マネ、ルノワール、セザンヌ、ピサロ、ギヨマンらと親交を持つ美術愛好家でもあった。]]

[[ファイル:Gogh Ravoux Auvers.jpg|thumb|left|200px |ファン・ゴッホがオーヴェルで宿泊した[[ラヴー旅館]]の部屋。37歳のファン・ゴッホは、最後の2か月間をここで過ごした。]]

[[ファイル:Gogh Ravoux Auvers.jpg|thumb|left|200px |ファン・ゴッホがオーヴェルで宿泊した[[ラヴー旅館]]の部屋。37歳のファン・ゴッホは、最後の2か月間をここで過ごした。]]

同年(1890年)5月20日、ファン・ゴッホはパリから北西へ30 km余り離れた[[オーヴェル=シュル=オワーズ]]の農村に着き、[[ポール・ガシェ]]医師を訪れた。ガシェ医師について、ファン・ゴッホは「非常に神経質で、とても変わった人」だが、「体格の面でも、精神的な面でも、僕にとても似ているので、まるで新しい兄弟みたいな感じがして、まさに友人を見出した思いだ」<ref group="手紙">{{Cite web |url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let879/letter.html#translation |title=フィンセントよりヴィル宛書簡879 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1890年6月5日、オーヴェル=シュル=オワーズ、[[#CL|CL: W22]]、{{Lang|en|Then I’ve found in Dr Gachet a ready-made friend and...}})。</ref> と妹ヴィルに書いている。ファン・ゴッホは村役場広場の[[ラヴー旅館]]に滞在することにした{{sfn|二見|2010|pp=268-269}}。

同年(1890年)5月20日、ファン・ゴッホはパリから北西へ30 km余り離れた[[オーヴェル=シュル=オワーズ]]の農村に着き、[[ポール・ガシェ]]医師を訪れた。ガシェ医師について、ファン・ゴッホは「非常に神経質で、とても変わった人」だが、「体格の面でも、精神的な面でも、僕にとても似ているので、まるで新しい兄弟みたいな感じがして、まさに友人を見出した思いだ」<ref group="手紙">{{Cite web|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let879/letter.html#translation |title=フィンセントよりヴィル宛書簡879 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1890年6月5日、オーヴェル=シュル=オワーズ、[[#CL|CL: W22]]、{{Lang|en|Then I’ve found in Dr Gachet a ready-made friend and...}})。</ref> と妹ヴィルに書いている。ファン・ゴッホは村役場広場の[[ラヴー旅館]]に滞在することにした{{sfn|二見|2010|pp=268-269}}。



ファン・ゴッホは、古い草葺屋根の家々、[[セイヨウトチノキ]](マロニエ)の花を描いた。またガシェ医師の家を訪れて絵画や文学の話をしつつ、その庭、家族、[[医師ガシェの肖像|ガシェの肖像]]などを描いた{{sfn|二見|2010|pp=269-271}}。6月初めには、さらに『[[オーヴェルの教会]]』を描いた{{sfn|二見|2010|p=272}}。テオには、都会ではヨーの乳の出も悪く子供の健康に良くないからと、家族で田舎に来るよう訴え、オーヴェルの素晴らしさを強調する手紙をしきりに送った。最初は日曜日にでもと言っていたが、1か月の休養が必要だろうと言い出し、さらには何年も一緒に生活したいと、ファン・ゴッホの要望は膨らんだ{{sfn|Naifeh|Smith|2012|pp=825-830}}。そして6月8日の日曜日、パリからテオとヨーが息子を連れてオーヴェルを訪れ、ファン・ゴッホとガシェの一家と昼食をとったり散歩をしたりした。ファン・ゴッホは2日後「日曜日はとても楽しい思い出を残してくれた。……また近いうちに戻ってこなくてはいけない。」と書いている{{sfn|二見|2010|pp=273-274}}{{sfn|Naifeh|Smith|2012|p=830}}<ref group="手紙">{{Cite web |url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let881/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ及びヨー宛書簡881 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1890年6月10日、オーヴェル=シュル=オワーズ、[[#CL|CL: 640]]、{{Lang|en|Sunday has left me a very pleasant memory.}})。</ref>。6月末から50 cm([[センチメートル]])×100 cmの長い[[キャンバス]]を使うようになり、これを縦に使ってピアノを弾くガシェの娘マルグリットを描いた{{sfn|二見|2010|p=279}}。

ファン・ゴッホは、古い草葺屋根の家々、[[セイヨウトチノキ]](マロニエ)の花を描いた。またガシェ医師の家を訪れて絵画や文学の話をしつつ、その庭、家族、[[医師ガシェの肖像|ガシェの肖像]]などを描いた{{sfn|二見|2010|pp=269-271}}。6月初めには、さらに『[[オーヴェルの教会]]』を描いた{{sfn|二見|2010|p=272}}。テオには、都会ではヨーの乳の出も悪く子供の健康に良くないからと、家族で田舎に来るよう訴え、オーヴェルの素晴らしさを強調する手紙をしきりに送った。最初は日曜日にでもと言っていたが、1か月の休養が必要だろうと言い出し、さらには何年も一緒に生活したいと、ファン・ゴッホの要望は膨らんだ{{sfn|Naifeh|Smith|2012|pp=825-830}}。そして6月8日の日曜日、パリからテオとヨーが息子を連れてオーヴェルを訪れ、ファン・ゴッホとガシェの一家と昼食をとったり散歩をしたりした。ファン・ゴッホは2日後「日曜日はとても楽しい思い出を残してくれた。……また近いうちに戻ってこなくてはいけない。」と書いている{{sfn|二見|2010|pp=273-274}}{{sfn|Naifeh|Smith|2012|p=830}}<ref group="手紙">{{Cite web|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let881/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ及びヨー宛書簡881 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1890年6月10日、オーヴェル=シュル=オワーズ、[[#CL|CL: 640]]、{{Lang|en|Sunday has left me a very pleasant memory.}})。</ref>。6月末から50 cm([[センチメートル]])×100 cmの長い[[キャンバス]]を使うようになり、これを縦に使ってピアノを弾くガシェの娘マルグリットを描いた{{sfn|二見|2010|p=279}}。



[[ファイル:Van Gogh's Palette.jpg|thumb|left|140px|オーヴェルに残されていたファン・ゴッホのパレット([[オルセー美術館]]){{sfn|デーネカンプほか|2016|p=102}}。]]

[[ファイル:Van Gogh's Palette.jpg|thumb|left|140px|オーヴェルに残されていたファン・ゴッホのパレット([[オルセー美術館]]){{sfn|デーネカンプほか|2016|p=102}}。]]

この頃、パリのテオは、勤務先の商会の経営者ブッソ、ヴァラドンと意見が対立しており、ヨーの兄アンドリース・ボンゲル(ドリース)とともに共同で自営の画商を営む決意をするか迷っていた。またヨーと息子が体調を崩し、そのことでも悩んでおり、テオは6月30日、兄宛に悩みを吐露した長い手紙を書いている{{sfn|二見|2010|p=280}}<ref group="手紙">{{Cite web |url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let894/letter.html#translation |title=テオよりフィンセント宛書簡894 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1890年6月30日・7月1日、パリ、[[#CL|CL: T39]])。</ref>。7月6日、ファン・ゴッホはパリを訪れた。ヨーによれば、[[アルベール・オーリエ]]や、トゥールーズ=ロートレックなど多くの友人が彼を訪ねたほか、ギヨマンも来るはずだったが、ファン・ゴッホは「やり切れなくなったので、その訪問を待たずに急いでオーヴェルへ帰っていった」という。この日、テオやヨーとの間で何らかの話合いがされたようであるが、ヨーはその詳細を語っていない{{sfn|小林英樹|2009|pp=262-263}}{{Refnest|group="注釈"|小林英樹の著書では、子供ヴィレムが生まれ自分たちの生活を守ろうとするヨーと、テオに金銭的に依存しているファン・ゴッホとの間に、テオのブッソ=ヴァラドン商会去就問題を前に避けがたい対立関係が生じていたとした上で{{sfn|小林英樹|2009|pp=201-202}}、7月6日にヨーとファン・ゴッホが絵をかける場所について口論になったことでそれが顕在化し{{sfn|小林英樹|2009|pp=236-237}}、ファン・ゴッホが疎外感から自殺する原因になったと指摘する{{sfn|小林英樹|2009|p=273}}。一方、[[高階秀爾]]の著書では、テオが夏の休暇中にオランダの母のもとに息子フィンセント・ヴィレムを連れて一家で帰省する予定だったのに対し、ファン・ゴッホはそれによって自分が見捨てられるのではないかと感じ、テオ一家にオーヴェルに来てほしいと繰り返し希望しており、7月6日にもそのことで兄弟の間で激しい議論があったであろうとする。そして、テオが7月14日付けの手紙で「明朝[[ライデン]]に発つ」と知らせてきたことでフィンセントは自分の全存在をかけるほどの問題に敗れたとする{{sfn|高階|1984|pp=209-215}}。}}。ファン・ゴッホは、7月10日頃、[[オーヴェル=シュル=オワーズ|オーヴェル]]からテオとヨー宛に「これは僕たちみんなが日々のパンを危ぶむ感じを抱いている時だけに些細なことではない。……こちらへ戻ってきてから、僕もなお悲しい思いに打ちしおれ、君たちを脅かしている嵐が自分の上にも重くのしかかっているのを感じ続けていた。」と書き送っている。また、大作3点(『荒れ模様の空の麦畑』、『[[カラスのいる麦畑]]』、『[[ドービニーの庭]]』)を描き上げたことを伝えている{{sfn|二見|2010|pp=282-283}}<ref group="手紙">{{Cite web |url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let898/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ及びヨー宛書簡898 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1890年7月10日頃、オーヴェル=シュル=オワーズ、[[#CL|CL: 649]]、{{Lang|en|It’s no small thing when all together we feel the daily bread in danger...}})。</ref>。また、ファン・ゴッホはその後にもテオの「激しい家庭のもめ事」を心配する手紙を送ったようであり(手紙は残っていない)、7月22日、テオは兄に、(共同自営問題{{Refnest|group="注釈"|テオとドリースが共同で画商を自営する計画については、ドリースが身を引いてしまい、7月21日、テオは経営者ブッソに商会に残ることを伝えた{{sfn|二見|2010|pp=285-286}}。}}に関し)ドリースとの議論はあったものの、激しい家庭のもめ事など存在しないという手紙を送り、これに対しファン・ゴッホは最後の手紙となる7月23日の手紙で「君の家庭の平和状態については、平和が保たれる可能性も、それを脅かす嵐の可能性も僕には同じように納得できる。」などと書いている{{sfn|二見|2010|pp=286-289}}<ref group="手紙">{{Cite web |url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let902/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡902 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1890年7月23日、オーヴェル=シュル=オワーズ、[[#CL|CL: 651]]、{{Lang|en|As regards the state of peace in your household,...}})。</ref>。

この頃、パリのテオは、勤務先の商会の経営者ブッソ、ヴァラドンと意見が対立しており、ヨーの兄アンドリース・ボンゲル(ドリース)とともに共同で自営の画商を営む決意をするか迷っていた。またヨーと息子が体調を崩し、そのことでも悩んでおり、テオは6月30日、兄宛に悩みを吐露した長い手紙を書いている{{sfn|二見|2010|p=280}}<ref group="手紙">{{Cite web|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let894/letter.html#translation |title=テオよりフィンセント宛書簡894 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1890年6月30日・7月1日、パリ、[[#CL|CL: T39]])。</ref>。7月6日、ファン・ゴッホはパリを訪れた。ヨーによれば、[[アルベール・オーリエ]]や、トゥールーズ=ロートレックなど多くの友人が彼を訪ねたほか、ギヨマンも来るはずだったが、ファン・ゴッホは「やり切れなくなったので、その訪問を待たずに急いでオーヴェルへ帰っていった」という。この日、テオやヨーとの間で何らかの話合いがされたようであるが、ヨーはその詳細を語っていない{{sfn|小林英樹|2009|pp=262-263}}{{Refnest|group="注釈"|小林英樹の著書では、子供ヴィレムが生まれ自分たちの生活を守ろうとするヨーと、テオに金銭的に依存しているファン・ゴッホとの間に、テオのブッソ=ヴァラドン商会去就問題を前に避けがたい対立関係が生じていたとした上で{{sfn|小林英樹|2009|pp=201-202}}、7月6日にヨーとファン・ゴッホが絵をかける場所について口論になったことでそれが顕在化し{{sfn|小林英樹|2009|pp=236-237}}、ファン・ゴッホが疎外感から自殺する原因になったと指摘する{{sfn|小林英樹|2009|p=273}}。一方、[[高階秀爾]]の著書では、テオが夏の休暇中にオランダの母のもとに息子フィンセント・ヴィレムを連れて一家で帰省する予定だったのに対し、ファン・ゴッホはそれによって自分が見捨てられるのではないかと感じ、テオ一家にオーヴェルに来てほしいと繰り返し希望しており、7月6日にもそのことで兄弟の間で激しい議論があったであろうとする。そして、テオが7月14日付けの手紙で「明朝[[ライデン]]に発つ」と知らせてきたことでフィンセントは自分の全存在をかけるほどの問題に敗れたとする{{sfn|高階|1984|pp=209-215}}。}}。ファン・ゴッホは、7月10日頃、[[オーヴェル=シュル=オワーズ|オーヴェル]]からテオとヨー宛に「これは僕たちみんなが日々のパンを危ぶむ感じを抱いている時だけに些細なことではない。……こちらへ戻ってきてから、僕もなお悲しい思いに打ちしおれ、君たちを脅かしている嵐が自分の上にも重くのしかかっているのを感じ続けていた。」と書き送っている。また、大作3点(『荒れ模様の空の麦畑』、『[[カラスのいる麦畑]]』、『[[ドービニーの庭]]』)を描き上げたことを伝えている{{sfn|二見|2010|pp=282-283}}<ref group="手紙">{{Cite web|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let898/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ及びヨー宛書簡898 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1890年7月10日頃、オーヴェル=シュル=オワーズ、[[#CL|CL: 649]]、{{Lang|en|It’s no small thing when all together we feel the daily bread in danger...}})。</ref>。また、ファン・ゴッホはその後にもテオの「激しい家庭のもめ事」を心配する手紙を送ったようであり(手紙は残っていない)、7月22日、テオは兄に、(共同自営問題{{Refnest|group="注釈"|テオとドリースが共同で画商を自営する計画については、ドリースが身を引いてしまい、7月21日、テオは経営者ブッソに商会に残ることを伝えた{{sfn|二見|2010|pp=285-286}}。}}に関し)ドリースとの議論はあったものの、激しい家庭のもめ事など存在しないという手紙を送り、これに対しファン・ゴッホは最後の手紙となる7月23日の手紙で「君の家庭の平和状態については、平和が保たれる可能性も、それを脅かす嵐の可能性も僕には同じように納得できる。」などと書いている{{sfn|二見|2010|pp=286-289}}<ref group="手紙">{{Cite web|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let902/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡902 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1890年7月23日、オーヴェル=シュル=オワーズ、[[#CL|CL: 651]]、{{Lang|en|As regards the state of peace in your household,...}})。</ref>。

<gallery>

<gallery>

ファイル:Vincent van Gogh - Dr Paul Gachet - Google Art Project.jpg |『[[医師ガシェの肖像]]』1890年6月、オーヴェル。油彩、キャンバス、68.2 × 57&nbsp;cm。[[オルセー美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/en/collections/index-of-works/notice.html?no_cache=1&nnumid=751 |title=Le docteur Paul Gachet |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2017-12-19}}</ref><sup>F 754, JH 2014</sup>。

ファイル:Vincent van Gogh - Dr Paul Gachet - Google Art Project.jpg |『[[医師ガシェの肖像]]』1890年6月、オーヴェル。油彩、キャンバス、68.2 × 57&nbsp;cm。[[オルセー美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/en/collections/index-of-works/notice.html?no_cache=1&nnumid=751 |title=Le docteur Paul Gachet |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2017-12-19}}</ref><sup>F 754, JH 2014</sup>。

377行目: 379行目:

[[ファイル:Vincent-van-gogh-echo-pontoisien-august7-1890.jpg|thumb|right|200px|ファン・ゴッホの死を報ずる新聞記事(1890年8月7日)]]

[[ファイル:Vincent-van-gogh-echo-pontoisien-august7-1890.jpg|thumb|right|200px|ファン・ゴッホの死を報ずる新聞記事(1890年8月7日)]]

[[ファイル:Gachet-VanGoghdead1890.jpg|thumb|left|120px|ガシェ医師による死の床のファン・ゴッホのスケッチ(1890年7月29日)。]]

[[ファイル:Gachet-VanGoghdead1890.jpg|thumb|left|120px|ガシェ医師による死の床のファン・ゴッホのスケッチ(1890年7月29日)。]]


[[:Vincent van Gogh - Tree Roots and Trunks (F816).jpg|thumb|right|200px|1890750 × 100 cm[[]] <sup>F 816, JH 2113 </sup> <br />[[]]<ref>{{Cite web |url=https://this.kiji.is/660948039103612001 |title=  |website= |publisher= |date=2020-07-29 |accessdate=2021-03-03}}</ref>]]

[[:Vincent van Gogh - Tree Roots and Trunks (F816).jpg|thumb|right|200px|1890750 × 100 cm[[]] <sup>F 816, JH 2113 </sup> <br />[[]]<ref>{{Cite web||url=https://web.archive.org/web/20200728223550/https://this.kiji.is/660948039103612001 |title=  |website= |publisher= |date=2020-07-29 |accessdate=2021-03-03}}</ref>]]


[[浮世絵]]に関心の高いヴァン・ゴッホは最晩年、オーストラリア生まれの画家{{仮リンク|エドムンド・ウォルポール・ブルック|en|Edmund_Walpole_Brooke|preserve=1}}と知り合った。エドムンドは[[イギリス人]]の父{{仮リンク|ジョン・ヘンリー・ブルック|en|John Henry Brooke|preserve=1}}が[[ジャパン・デイリー・ヘラルド]]の[[ディレクター]](1867年から)で、日本で活動していた<ref>[https://web.archive.org/web/20210607184306/https://news.artnet.com/art-world/vincent-van-gogh-edmund-walpole-brooke-1976668 Can This $45 Thrift Store Painting Provide Clues About Vincent Van Gogh’s Final Days in France? Art Historians Are Hoping So.] Sarah Cascone, June 7, 2021.</ref>{{efn|[[大阪大学]]の[[小寺司]]美術史教授による研究がある<ref>{{Cite web|title=Tsukasa Kodera|url=https://tsukasakodera.academia.edu/research#papers|access-date=2021-06-14|website=tsukasakodera.academia.edu}}</ref>。}}。

[[浮世絵]]に関心の高いヴァン・ゴッホは最晩年、オーストラリア生まれの画家{{仮リンク|エドムンド・ウォルポール・ブルック|en|Edmund_Walpole_Brooke|preserve=1}}と知り合った。エドムンドは[[イギリス人]]の父{{仮リンク|ジョン・ヘンリー・ブルック|en|John Henry Brooke|preserve=1}}が[[ジャパン・デイリー・ヘラルド]]の[[ディレクター]](1867年から)で、日本で活動していた<ref>[https://web.archive.org/web/20210607184306/https://news.artnet.com/art-world/vincent-van-gogh-edmund-walpole-brooke-1976668 Can This $45 Thrift Store Painting Provide Clues About Vincent Van Gogh’s Final Days in France? Art Historians Are Hoping So.] Sarah Cascone, June 7, 2021.</ref>{{efn|[[大阪大学]]の[[小寺司]]美術史教授による研究がある<ref>{{Cite web|title=Tsukasa Kodera|url=https://tsukasakodera.academia.edu/research#papers|access-date=2021-06-14|website=tsukasakodera.academia.edu}}</ref>。}}。

388行目: 390行目:

テオは、同年(1890年)8月、兄の回顧展を実現しようと画商[[ポール・デュラン=リュエル]]に協力を求めたが、断られたため画廊での展示会は実現せず、9月22日から24日までテオの自宅アパルトマンでの展示に終わった{{sfn|二見|2010|pp=302-303}}{{sfn|木下|2002|p=110}}一方、9月12日頃、テオは[[めまい]]がするなどと体調不良を訴え、同月のある日、突然麻痺の発作に襲われて入院した。10月14日、精神病院に移り、そこでは[[梅毒]]の最終段階、麻痺性痴呆と診断されている。11月18日、[[ユトレヒト]]近郊の診療所に移送され療養を続けたが、[[1891年]]1月25日、兄の後を追うように亡くなり、ユトレヒトの市営墓地に埋葬された{{sfn|二見|2010|pp=302-304}}。なお、ファン・ゴッホの当初の墓地(正確な位置は現在は不明)は15年契約であったため、[[1905年]]6月13日、ヨー、ガシェらによって、同じオーヴェルの今の場所に改葬された<ref>{{Cite web |url=http://www.wormwoodsociety.org/index.php/science-articles/667-vincent-van-gogh-and-the-thujone-connection- |title=Vincent van Gogh and the Thujone Connection |author=Arnold, Wilfred Niels |publisher=The Wormwood Society |accessdate=2013-12-04}}</ref><ref>{{Cite web |url=http://communityoflights.com/art/vincent-van-gogh |title=Vincent van Gogh |publisher=Community of Lights |accessdate=2013-12-04}}</ref>。[[1914年]]4月、ヨーがテオの遺骨をこの墓地に移し、兄弟の[[墓石]]が並ぶことになった{{sfn|二見|2010|p=304}}。

テオは、同年(1890年)8月、兄の回顧展を実現しようと画商[[ポール・デュラン=リュエル]]に協力を求めたが、断られたため画廊での展示会は実現せず、9月22日から24日までテオの自宅アパルトマンでの展示に終わった{{sfn|二見|2010|pp=302-303}}{{sfn|木下|2002|p=110}}一方、9月12日頃、テオは[[めまい]]がするなどと体調不良を訴え、同月のある日、突然麻痺の発作に襲われて入院した。10月14日、精神病院に移り、そこでは[[梅毒]]の最終段階、麻痺性痴呆と診断されている。11月18日、[[ユトレヒト]]近郊の診療所に移送され療養を続けたが、[[1891年]]1月25日、兄の後を追うように亡くなり、ユトレヒトの市営墓地に埋葬された{{sfn|二見|2010|pp=302-304}}。なお、ファン・ゴッホの当初の墓地(正確な位置は現在は不明)は15年契約であったため、[[1905年]]6月13日、ヨー、ガシェらによって、同じオーヴェルの今の場所に改葬された<ref>{{Cite web |url=http://www.wormwoodsociety.org/index.php/science-articles/667-vincent-van-gogh-and-the-thujone-connection- |title=Vincent van Gogh and the Thujone Connection |author=Arnold, Wilfred Niels |publisher=The Wormwood Society |accessdate=2013-12-04}}</ref><ref>{{Cite web |url=http://communityoflights.com/art/vincent-van-gogh |title=Vincent van Gogh |publisher=Community of Lights |accessdate=2013-12-04}}</ref>。[[1914年]]4月、ヨーがテオの遺骨をこの墓地に移し、兄弟の[[墓石]]が並ぶことになった{{sfn|二見|2010|p=304}}。



ファン・ゴッホはオーヴェルの麦畑付近で拳銃を用いて[[自殺]]を図ったとするのが定説だが、現場を目撃した者はおらず、また、自らを撃ったにしては銃創や弾の入射角が不自然な位置にあるという主張もある。[[2011年]]にファン・ゴッホの伝記を刊行したスティーヴン・ネイフとグレゴリー・ホワイト・スミスは、地元の少年達との小競り合いの末に、彼らが持っていた銃が暴発し、ファン・ゴッホを誤射してしまったとする説を唱えた。[[ゴッホ美術館|ファン・ゴッホ美術館]]は「新説は興味深いが依然疑問が残る」とコメントしている<ref name="BBCVanGogh">{{cite web |url=https://www.bbc.com/news/entertainment-arts-15328583 |title=Van Gogh did not kill himself, authors claim |author= |date=2011-10-17 |accessdate=2021-03-03 |website=BBC News |publisher=BBC |language=en}}</ref>{{Refnest|group="注釈"|左脇腹から下方向に撃ったとされる[[銃創]]の状況、凶器とされる[[ピストル]]が発見されていないことなどから他殺である可能性が高いとした上で{{sfn|小林利延|2008|pp=39-51}}、経済面での対立などを挙げてテオによる犯行を示唆している{{sfn|小林利延|2008|pp=192-219}}。}}。[[2016年]]7月、ファン・ゴッホが自殺に用いたとされる、[[1960年]]にオーヴェルの農地から発見された拳銃がファン・ゴッホ美術館にて展示された<ref>{{Cite web |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3093759 |title=ゴッホが自殺に使用したとされる拳銃を展示、ゴッホ美術館 写真3枚 国際ニュース|website=AFPBB News|publisher=AFP通信|date=2016-07-13|accessdate=2021-03-03}}</ref>。

ファン・ゴッホはオーヴェルの麦畑付近で拳銃を用いて[[自殺]]を図ったとするのが定説だが、現場を目撃した者はおらず、また、自らを撃ったにしては銃創や弾の入射角が不自然な位置にあるという主張もある。[[2011年]]にファン・ゴッホの伝記を刊行したスティーヴン・ネイフとグレゴリー・ホワイト・スミスは、地元の少年達との小競り合いの末に、彼らが持っていた銃が暴発し、ファン・ゴッホを誤射してしまったとする説を唱えた。[[ゴッホ美術館|ファン・ゴッホ美術館]]は「新説は興味深いが依然疑問が残る」とコメントしている<ref name="BBCVanGogh">{{cite web |url=https://www.bbc.com/news/entertainment-arts-15328583 |title=Van Gogh did not kill himself, authors claim |author= |date=2011-10-17 |accessdate=2021-03-03 |website=BBC News |publisher=BBC |language=en}}</ref>{{Refnest|group="注釈"|左脇腹から下方向に撃ったとされる[[銃創]]の状況、凶器とされる[[ピストル]]が発見されていないことなどから他殺である可能性が高いとした上で{{sfn|小林利延|2008|pp=39-51}}、経済面での対立などを挙げてテオによる犯行を示唆している{{sfn|小林利延|2008|pp=192-219}}。}}。[[2016年]]7月、ファン・ゴッホが自殺に用いたとされる、[[1960年]]にオーヴェルの農地から発見された拳銃がファン・ゴッホ美術館にて展示された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3093759 |title=ゴッホが自殺に使用したとされる拳銃を展示、ゴッホ美術館 写真3枚 国際ニュース|website=AFPBB News|publisher=AFP通信|date=2016-07-13|accessdate=2021-03-03}}</ref>。



== 病因 ==

== 病因 ==

474行目: 476行目:

第一次世界大戦後には、前述のようにファン・ゴッホ作品の評価が確立し、1920年代から1930年代の最高価格は4000[[スターリング・ポンド|ポンド]]台となり、ルノワールに肉薄するものとなった。第二次世界大戦後は、近代絵画全体の価格水準が高騰するとともに、ファン・ゴッホ作品も従来の10倍ないし100倍となり、ルノワールと肩を並べた{{sfn|瀬木|1999|pp=137-138}}。1970年には『糸杉と花咲く木』が130万[[アメリカ合衆国ドル|ドル]]で取引されるなど100万ドルを超えるものが出て、1970年代には美術市場に君臨するようになった。1980年、『詩人の庭』が[[クリスティーズ]]で520万ドル(約12億円)という、30号の作品としては異例の高額で落札された{{sfn|瀬木|1999|pp=138-139}}。この時期は、記録破りの落札価格が普通になり、[[サザビーズ]]やクリスティーズといったオークション・ハウスが美術市場を支配することがはっきりした時代であった{{sfn|ソールツマン|1999|pp=371-372}}。

第一次世界大戦後には、前述のようにファン・ゴッホ作品の評価が確立し、1920年代から1930年代の最高価格は4000[[スターリング・ポンド|ポンド]]台となり、ルノワールに肉薄するものとなった。第二次世界大戦後は、近代絵画全体の価格水準が高騰するとともに、ファン・ゴッホ作品も従来の10倍ないし100倍となり、ルノワールと肩を並べた{{sfn|瀬木|1999|pp=137-138}}。1970年には『糸杉と花咲く木』が130万[[アメリカ合衆国ドル|ドル]]で取引されるなど100万ドルを超えるものが出て、1970年代には美術市場に君臨するようになった。1980年、『詩人の庭』が[[クリスティーズ]]で520万ドル(約12億円)という、30号の作品としては異例の高額で落札された{{sfn|瀬木|1999|pp=138-139}}。この時期は、記録破りの落札価格が普通になり、[[サザビーズ]]やクリスティーズといったオークション・ハウスが美術市場を支配することがはっきりした時代であった{{sfn|ソールツマン|1999|pp=371-372}}。



さらに1980年代にはオークションの高値記録が次々更新されるようになった{{sfn|エニック|2005|p=172}}。1988年2月4日付「[[リベラシオン]]」紙は、「昨年([[1987年]])3月30日、[[ロンドン]]のクリスティーズにて日本の安田火災([[安田火災海上]]、現[[損害保険ジャパン]])が[[ひまわり (絵画)|ひまわり]]を3630万ドル{{Refnest|name="NYT 39.9M"|group="注釈"|「[[ニューヨーク・タイムズ]]」紙によれば、落札価格は36,292,500ドル、10%の手数料を加え3990万ドルであるとされる<ref>{{Cite news |url= https://www.nytimes.com/1987/03/31/arts/van-gogh-sets-auction-record-39.9-million.html |title=Van Gogh Sets Auction Record: $39.9 Million |newspaper=New York Times | author=Francis X. Clines |date=1987-03-31 |accessdate=2021-03-03 |language=en}}</ref>。}}(約58億円)で落札した{{Refnest|group="注釈"|この「ひまわり」は、現在は[[SOMPO美術館]]が所蔵している<ref>{{Cite web |url=https://www.sompo-museum.org/collection/ |title=フィンセント・ファン・ゴッホ |publisher=SOMPO美術館 |accessdate=2021-03-03}}</ref>。}}瞬間、心理的な地震のようなものが記録された。……また[[アイリス (絵画)|アイリス]]は、(同年)11月11日に、[[ニューヨーク]]のサザビーズで5390万ドルで落札された。」と取り上げている{{sfn|エニック|2005|p=171}}。日本の[[バブル景気]]であふれたマネーが[[円高]]に支えられて欧米美術品市場に流入し、特に『ひまわり』の売立ては、市場の構造を根本から変化させ、印象派以降の近代美術品の価格を高騰させた{{sfn|ソールツマン|1999|pp=413-414}}。

さらに1980年代にはオークションの高値記録が次々更新されるようになった{{sfn|エニック|2005|p=172}}。1988年2月4日付「[[リベラシオン]]」紙は、「昨年([[1987年]])3月30日、[[ロンドン]]のクリスティーズにて日本の安田火災([[安田火災海上]]、現[[損害保険ジャパン]])が[[ひまわり (絵画)|ひまわり]]を3630万ドル{{Refnest|name="NYT 39.9M"|group="注釈"|「[[ニューヨーク・タイムズ]]」紙によれば、落札価格は36,292,500ドル、10%の手数料を加え3990万ドルであるとされる<ref>{{Cite news |url= https://www.nytimes.com/1987/03/31/arts/van-gogh-sets-auction-record-39.9-million.html |title=Van Gogh Sets Auction Record: $39.9 Million |newspaper=New York Times | author=Francis X. Clines |date=1987-03-31 |accessdate=2021-03-03 |language=en}}</ref>。}}(約58億円)で落札した{{Refnest|group="注釈"|この「ひまわり」は、現在は[[SOMPO美術館]]が所蔵している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sompo-museum.org/collection/ |title=フィンセント・ファン・ゴッホ |publisher=SOMPO美術館 |accessdate=2021-03-03}}</ref>。}}瞬間、心理的な地震のようなものが記録された。……また[[アイリス (絵画)|アイリス]]は、(同年)11月11日に、[[ニューヨーク]]のサザビーズで5390万ドルで落札された。」と取り上げている{{sfn|エニック|2005|p=171}}。日本の[[バブル景気]]であふれたマネーが[[円高]]に支えられて欧米美術品市場に流入し、特に『ひまわり』の売立ては、市場の構造を根本から変化させ、印象派以降の近代美術品の価格を高騰させた{{sfn|ソールツマン|1999|pp=413-414}}。



さらに、[[1990年]]5月15日には、ニューヨークのクリスティーズで[[齊藤了英]]が『[[医師ガシェの肖像]]』を8250万ドル(約124億5000万円)で落札し<ref name="A5" />{{Refnest|name="ガシェ"|group="注釈"|落札額7500万ドルに、買い手が負担する手数料10%を加えた額{{sfn|ソールツマン|1999|p=457}}。}}、各紙で大々的に報じられた{{sfn|エニック|2005|p=172}}。この作品は、ヨーによって[[1898年]]頃にわずか300[[フラン (通貨)|フラン]]で売却されたと伝えられるものである<ref>{{Cite news |url=http://www.nytimes.com/1998/04/28/books/books-of-the-times-a-van-gogh-portrait-once-obscure-now-unseen.html |title=BOOKS OF THE TIMES; A van Gogh Portrait, Once Obscure, Now Unseen |author=Michiko Kazutani |newspaper=New York Times |date=1998-04-28 |accessdate=2021-03-03 |language=en}}</ref>。この落札は、1980年代末から90年代初頭にかけての日本人バイヤーブームを象徴する高額落札となった<ref name="wolf">{{Cite web|url=https://theartwolf.com/art-market/most-expensive-paintings/|title=The Most Expensive Paintings ever sold|publisher=theartwolf.com|accessdate=2012-07-17}}</ref>。反面、こうした動きに欧米メディアは批判的で、齊藤が作品を「死んだら棺桶に入れて燃やすように言っている」と発言したことも非難を浴びた{{sfn|ソールツマン|1999|pp=463,477}}。

さらに、[[1990年]]5月15日には、ニューヨークのクリスティーズで[[齊藤了英]]が『[[医師ガシェの肖像]]』を8250万ドル(約124億5000万円)で落札し<ref name="A5" />{{Refnest|name="ガシェ"|group="注釈"|落札額7500万ドルに、買い手が負担する手数料10%を加えた額{{sfn|ソールツマン|1999|p=457}}。}}、各紙で大々的に報じられた{{sfn|エニック|2005|p=172}}。この作品は、ヨーによって[[1898年]]頃にわずか300[[フラン (通貨)|フラン]]で売却されたと伝えられるものである<ref>{{Cite news |url=http://www.nytimes.com/1998/04/28/books/books-of-the-times-a-van-gogh-portrait-once-obscure-now-unseen.html |title=BOOKS OF THE TIMES; A van Gogh Portrait, Once Obscure, Now Unseen |author=Michiko Kazutani |newspaper=New York Times |date=1998-04-28 |accessdate=2021-03-03 |language=en}}</ref>。この落札は、1980年代末から90年代初頭にかけての日本人バイヤーブームを象徴する高額落札となった<ref name="wolf">{{Cite web|url=https://theartwolf.com/art-market/most-expensive-paintings/|title=The Most Expensive Paintings ever sold|publisher=theartwolf.com|accessdate=2012-07-17}}</ref>。反面、こうした動きに欧米メディアは批判的で、齊藤が作品を「死んだら棺桶に入れて燃やすように言っている」と発言したことも非難を浴びた{{sfn|ソールツマン|1999|pp=463,477}}。

496行目: 498行目:


=== 日本での受容 ===

=== 日本での受容 ===

[[1910年]](明治43年)、[[森鷗外]]が『[[スバル (文芸雑誌)|スバル]]』誌上の「むく鳥通信」でファン・ゴッホの名前に触れたのが、[[日本]]の公刊物では最初の例であるが{{sfn|木下|1992|pp=37-39}}、ファン・ゴッホを日本に本格的に紹介したのは、[[武者小路実篤]]らの[[白樺派]]であった。1910年に創刊された『[[白樺 (雑誌)|白樺]]』は、文学雑誌ではあったが、西洋美術の紹介に情熱を燃やし、マネ、セザンヌ、ゴーギャン、ファン・ゴッホ、[[オーギュスト・ロダン|ロダン]]、マティスなど、[[印象派]]から[[ポスト印象派]]、[[フォーヴィスム]]までの芸術を、順序もなく一気に取り上げた{{sfn|東|1980|pp=12-14,16}}。第1年(1910年)11月号には[[斎藤与里]]による最初の評論が掲載{{sfn|木下|2002|p=59}}、第2年([[1911年]])2月号からは[[児島喜久雄]]訳の「ヴィンツェント・ヴァン・ゴォホの手紙」が掲載され、第3年([[1912年]])11月号には「ゴオホ特集」が掲載された{{sfn|東|1980|pp=12-14,16}}。特集号には、多くの作品の写真版、[[阿部次郎]]の訳したヨーによる回想録、武者小路や[[柳宗悦]]の寄稿などが掲載された{{sfn|東|1980|p=46}}{{Refnest|group="注釈"|武者小路はロダンとともにファン・ゴッホを熱愛し、『白樺』第3年(1912年)7月号には「バンゴオホよ/燃えるが如き意力を持つ汝よ/汝を思ふ毎に/我に力わく/高きにのぼらんとする力わく/ゆきつくす処までゆく力わく/あゝ、/ゆきつくす処までゆく力わく」という讃仰詩を発表している{{sfn|東|1980|pp=45-46}}。}}。そして、[[1920年]](大正10年)3月には、白樺美術館第1回展が開催され、大阪の実業家[[山本顧彌太]]に購入してもらったファン・ゴッホの『ひまわり』が展示された<ref>{{Cite news|和書| title=新しい村の武者小路実篤氏にゴッホの名画を購う代として二万円を贈った奇談 床しき匿名の大阪紳士 令兄公共子と箱根山中の邂逅が因| newspaper=[[神戸大学]]新聞記事| date=1920-02-21| author=[[大正日日新聞]]| url=https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100287112| accessdate=2023-05-26| publisher={{anchors|[[出版社]]}}文庫| archiveurl=| archivedate=| ref= | postscript=}}</ref>{{sfn|東|1980|pp=22-23}}{{Refnest|group="注釈"|白樺美術館第1回展は[[京橋 (東京都中央区)|京橋]]の[[星製薬]]階上で行われ、この『ひまわり』は日本で展示された最初のファン・ゴッホ作品となったが、その後、[[1945年]][[芦屋市|芦屋]]で空爆のため焼失した{{sfn|二見|2010|p=167}}。この展覧会では、ほかにセザンヌ、[[アルブレヒト・デューラー|デューラー]]、ドラクロワ、[[ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ|シャバンヌ]]、ロダンの作品が展示されたが、武者小路が夢見た白樺美術館は第1回展覧会だけで終わり、建物もついに建たなかった{{sfn|東|1980|pp=43-45}}。}}。白樺派は、西欧よりも早く、かつ全面的にゴッホ神話を作り上げたが、彼らはファン・ゴッホの画業を語ることはなく、専らその人間的偉大さを賛美していたことが特徴的である{{sfn|高階|1996|pp=244,249-250}}{{Refnest|group="注釈"|その要因として、当時の知識人の情報源であったドイツやイギリスで、ちょうどこの時期に[[ユリウス・マイヤー=グラーフェ]]や[[ロジャー・フライ]]がファン・ゴッホ賛美の評論を出したこと、社会と自己の個性との対立という白樺派の課題に、社会の無理解に苦悩する純粋な魂という英雄像が合致していたことが挙げられている{{sfn|高階|1996|pp=250-261}}。}}。他方、画壇でも、[[1912年]](大正2年)に第1回[[フュウザン会|ヒュウザン会]]展を開催した[[岸田劉生]]ら若手画家たちが、ファン・ゴッホやセザンヌに傾倒していた{{sfn|東|1980|pp=24,26-27}}。もっとも、岸田は間もなくファン・ゴッホと決別し、他の多くの画家も同じ道をたどった{{sfn|木下|2002|pp=90-91}}。第2次世界大戦前、海外からのファン・ゴッホの展覧会はなかったが、多くのファン・ゴッホ関連出版物が出され{{Refnest|group="注釈"|例えば、[[1913年]]、日本洋画協会出版部から、日本で最初の『ゴーホ画集』(5枚1組袋入りのもの)が出版された{{sfn|木下|2002|p=110}}。}}、ゴッホ熱は高まった。1920年代から1930年代にかけてパリに留学する画家等が急増すると、[[佐伯祐三]]や[[高田博厚]]らはゴッホ作品を見るべくオーヴェルのガシェ家を続々と訪問し、その芳名帳に名を連ねている{{sfn|新関|2011|p=343}}{{Refnest|group="注釈"|日本では白樺派などの影響でいち早くファン・ゴッホに対する熱狂が起きたが、この時期1920年代に実物のファン・ゴッホ作品を見ることが出来たのはパリの美術館ではわずか3点しかなくパリの[[ベルネーム=ジューヌ画廊]]に10数点程度であった。このため特にファン・ゴッホの最後期の油彩画を20点ほど所蔵していたガシェ家は、ゴッホ作品を見たい日本人には貴重な場であった。ガシェ家は多くの来訪者を迎えたが、1922年3月9日から芳名帳を作成することになった。最初の署名者(最初の訪問者ではないことに注意)である[[黒田重太郎]]を筆頭に、[[土田麦穂]]、[[小野竹喬]]、[[坂田一男]]、[[佐伯祐三]]ら多くの日本人画家や、画家以外でも[[斎藤茂吉]]や[[式場隆三郎]]、[[矢代幸雄]]、[[相馬政之助]]、[[高田博厚]]らの名前が芳名帳に記されている{{sfn|尾本|2012|}}。}}。[[1927年]]から1930年代にかけて、[[斎藤茂吉]]や[[式場隆三郎]]がゴッホの病理についての医学的分析を発表した{{sfn|木下|1992|p=143-146,152-156}}。

[[1910年]](明治43年)、[[森鷗外]]が『[[スバル (文芸雑誌)|スバル]]』誌上の「むく鳥通信」でファン・ゴッホの名前に触れたのが、[[日本]]の公刊物では最初の例であるが{{sfn|木下|1992|pp=37-39}}、ファン・ゴッホを日本に本格的に紹介したのは、[[武者小路実篤]]らの[[白樺派]]であった。1910年に創刊された『[[白樺 (雑誌)|白樺]]』は、文学雑誌ではあったが、西洋美術の紹介に情熱を燃やし、マネ、セザンヌ、ゴーギャン、ファン・ゴッホ、[[オーギュスト・ロダン|ロダン]]、マティスなど、[[印象派]]から[[ポスト印象派]]、[[フォーヴィスム]]までの芸術を、順序もなく一気に取り上げた{{sfn|東|1980|pp=12-14,16}}。第1年(1910年)11月号には[[斎藤与里]]による最初の評論が掲載{{sfn|木下|2002|p=59}}、第2年([[1911年]])2月号からは[[児島喜久雄]]訳の「ヴィンツェント・ヴァン・ゴォホの手紙」が掲載され、第3年([[1912年]])11月号には「ゴオホ特集」が掲載された{{sfn|東|1980|pp=12-14,16}}。特集号には、多くの作品の写真版、[[阿部次郎]]の訳したヨーによる回想録、武者小路や[[柳宗悦]]の寄稿などが掲載された{{sfn|東|1980|p=46}}{{Refnest|group="注釈"|武者小路はロダンとともにファン・ゴッホを熱愛し、『白樺』第3年(1912年)7月号には「バンゴオホよ/燃えるが如き意力を持つ汝よ/汝を思ふ毎に/我に力わく/高きにのぼらんとする力わく/ゆきつくす処までゆく力わく/あゝ、/ゆきつくす処までゆく力わく」という讃仰詩を発表している{{sfn|東|1980|pp=45-46}}。}}。そして、[[1920年]](大正10年)3月には、白樺美術館第1回展が開催され、大阪の実業家[[山本顧彌太]]に購入してもらったファン・ゴッホの『ひまわり』が展示された<ref>{{Cite news|和書| title=新しい村の武者小路実篤氏にゴッホの名画を購う代として二万円を贈った奇談 床しき匿名の大阪紳士 令兄公共子と箱根山中の邂逅が因| newspaper=[[神戸大学]]新聞記事| date=1920-02-21| author=[[大正日日新聞]]| url=https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100287112| accessdate=2023-05-26| publisher={{anchors|[[出版社]]}}文庫| archiveurl=| archivedate=| ref= | postscript=}}</ref>{{sfn|東|1980|pp=22-23}}{{Refnest|group="注釈"|白樺美術館第1回展は[[京橋 (東京都中央区)|京橋]]の[[星製薬]]階上で行われ、この『ひまわり』は日本で展示された最初のファン・ゴッホ作品となったが、その後、[[1945年]][[芦屋市|芦屋]]で空爆のため焼失した{{sfn|二見|2010|p=167}}。この展覧会では、ほかにセザンヌ、[[アルブレヒト・デューラー|デューラー]]、ドラクロワ、[[ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ|シャバンヌ]]、ロダンの作品が展示されたが、武者小路が夢見た白樺美術館は第1回展覧会だけで終わり、建物もついに建たなかった{{sfn|東|1980|pp=43-45}}。}}。白樺派は、西欧よりも早く、かつ全面的にゴッホ神話を作り上げたが、彼らはファン・ゴッホの画業を語ることはなく、専らその人間的偉大さを賛美していたことが特徴的である{{sfn|高階|1996|pp=244,249-250}}{{Refnest|group="注釈"|その要因として、当時の知識人の情報源であったドイツやイギリスで、ちょうどこの時期に[[ユリウス・マイヤー=グラーフェ]]や[[ロジャー・フライ]]がファン・ゴッホ賛美の評論を出したこと、社会と自己の個性との対立という白樺派の課題に、社会の無理解に苦悩する純粋な魂という英雄像が合致していたことが挙げられている{{sfn|高階|1996|pp=250-261}}。}}。他方、画壇でも、[[1912年]](大正2年)に第1回[[フュウザン会|ヒュウザン会]]展を開催した[[岸田劉生]]ら若手画家たちが、ファン・ゴッホやセザンヌに傾倒していた{{sfn|東|1980|pp=24,26-27}}。もっとも、岸田は間もなくファン・ゴッホと決別し、他の多くの画家も同じ道をたどった{{sfn|木下|2002|pp=90-91}}。

1925年、日本美術協会主催でフランス現代美術展覧会が開催。出品作にはゴッホの『裸体』(出典ママ)が含まれていたが、[[警視庁]]による事前検閲で「善良な風紀を紊す恐れがある」との指摘を受け、公開は控えられた<ref>「ゴッホなど四点に撤去命令」『東京日日新聞』1925年9月3日夕刊(大正ニュース事典編纂委員会 『大正ニュース事典第7巻 大正14年-大正15年』本編p.630 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。

以降、第2次世界大戦前の日本で、海外からのファン・ゴッホの展覧会はなかったが、多くのファン・ゴッホ関連出版物が出され{{Refnest|group="注釈"|例えば、[[1913年]]、日本洋画協会出版部から、日本で最初の『ゴーホ画集』(5枚1組袋入りのもの)が出版された{{sfn|木下|2002|p=110}}。}}、ゴッホ熱は高まった。1920年代から1930年代にかけてパリに留学する画家等が急増すると、[[佐伯祐三]]や[[高田博厚]]らはゴッホ作品を見るべくオーヴェルのガシェ家を続々と訪問し、その芳名帳に名を連ねている{{sfn|新関|2011|p=343}}{{Refnest|group="注釈"|日本では白樺派などの影響でいち早くファン・ゴッホに対する熱狂が起きたが、この時期1920年代に実物のファン・ゴッホ作品を見ることが出来たのはパリの美術館ではわずか3点しかなくパリの[[ベルネーム=ジューヌ画廊]]に10数点程度であった。このため特にファン・ゴッホの最後期の油彩画を20点ほど所蔵していたガシェ家は、ゴッホ作品を見たい日本人には貴重な場であった。ガシェ家は多くの来訪者を迎えたが、1922年3月9日から芳名帳を作成することになった。最初の署名者(最初の訪問者ではないことに注意)である[[黒田重太郎]]を筆頭に、[[土田麦穂]]、[[小野竹喬]]、[[坂田一男]]、[[佐伯祐三]]ら多くの日本人画家や、画家以外でも[[斎藤茂吉]]や[[式場隆三郎]]、[[矢代幸雄]]、[[相馬政之助]]、[[高田博厚]]らの名前が芳名帳に記されている{{sfn|尾本|2012|}}。}}。[[1927年]]から1930年代にかけて、[[斎藤茂吉]]や[[式場隆三郎]]がゴッホの病理についての医学的分析を発表した{{sfn|木下|1992|p=143-146,152-156}}。



戦後は、ファン・ゴッホ[[複製画]]の展覧会を見て衝撃を受けたという[[小林秀雄 (批評家)|小林秀雄]]が、[[1948年]]「ゴッホの手紙」を著した{{sfn|木下|1992|p=189}}。[[劇団民藝]]代表の[[滝沢修]]が、[[1951年]]から生涯にわたり、世間の無理解と戦う悲劇的な人生を描いた[[新劇]]作品『炎の人 ヴァン・ゴッホの生涯』([[三好十郎]]脚本)を公演したことも、日本でのファン・ゴッホの認識に大きな影響を与えた{{sfn|西岡|2011|pp=138-140}}。[[1958年]]に初めて[[東京国立博物館]]と[[京都市美術館]]で素描70点、油彩60点から成る本格的なファン・ゴッホ展が開催され、日本のゴッホ熱はさらに高まった。2011年現在、27点の油彩・水彩作品が日本に収蔵されているとされる{{sfn|新関|2011|pp=343-344}}。

戦後は、ファン・ゴッホ[[複製画]]の展覧会を見て衝撃を受けたという[[小林秀雄 (批評家)|小林秀雄]]が、[[1948年]]「ゴッホの手紙」を著した{{sfn|木下|1992|p=189}}。[[劇団民藝]]代表の[[滝沢修]]が、[[1951年]]から生涯にわたり、世間の無理解と戦う悲劇的な人生を描いた[[新劇]]作品『炎の人 ヴァン・ゴッホの生涯』([[三好十郎]]脚本)を公演したことも、日本でのファン・ゴッホの認識に大きな影響を与えた{{sfn|西岡|2011|pp=138-140}}。[[1958年]]に初めて[[東京国立博物館]]と[[京都市美術館]]で素描70点、油彩60点から成る本格的なファン・ゴッホ展が開催され、日本のゴッホ熱はさらに高まった。2011年現在、27点の油彩・水彩作品が日本に収蔵されているとされる{{sfn|新関|2011|pp=343-344}}。

502行目: 506行目:

== 手紙 ==

== 手紙 ==

{{Main|フィンセント・ファン・ゴッホの手紙}}

{{Main|フィンセント・ファン・ゴッホの手紙}}

[[ファイル:The Public-Soup-Kitchen F272 Vincent van Gogh.jpg|thumb|right|200px|ゴッホの手紙に描かれた[[炊き出し]]所のスケッチ<ref group="手紙">{{Cite web |url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let324/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡324 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1883年3月4日頃、ハーグ、[[#CL|CL: 272]]、Sketch A)。</ref>]]

[[ファイル:The Public-Soup-Kitchen F272 Vincent van Gogh.jpg|thumb|right|200px|ゴッホの手紙に描かれた[[炊き出し]]所のスケッチ<ref group="手紙">{{Cite web|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let324/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡324 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1883年3月4日頃、ハーグ、[[#CL|CL: 272]]、Sketch A)。</ref>]]

画家としてのファン・ゴッホを知る上で最も包括的な一次資料が、自身による多数の手紙である。手紙は、作品の制作時期、制作意図などを知るための重要な資料ともなっている{{sfn|木下|2002|p=28}}。[[ゴッホ美術館]]によれば、現存するファン・ゴッホの手紙は、弟テオ宛のものが651通、その妻ヨー宛のものが7通あり、画家[[アントン・ファン・ラッパルト]]、[[エミール・ベルナール (画家)|エミール・ベルナール]]、妹[[ヴィレミーナ・ファン・ゴッホ]](通称ヴィル)などに宛てたものを合わせると819通になる。一方、ファン・ゴッホに宛てられた手紙で現存するものが83通あり、そのうちテオあるいはテオとヨー連名のものが41通ある<ref>{{Cite web |url=http://vangoghletters.org/vg/letter_writer_1.html |title=Van Gogh as a letter-writer |publisher=Van Gogh Museum |accessdate=2013-09-10 }}</ref>。

画家としてのファン・ゴッホを知る上で最も包括的な一次資料が、自身による多数の手紙である。手紙は、作品の制作時期、制作意図などを知るための重要な資料ともなっている{{sfn|木下|2002|p=28}}。[[ゴッホ美術館]]によれば、現存するファン・ゴッホの手紙は、弟テオ宛のものが651通、その妻ヨー宛のものが7通あり、画家[[アントン・ファン・ラッパルト]]、[[エミール・ベルナール (画家)|エミール・ベルナール]]、妹[[ヴィレミーナ・ファン・ゴッホ]](通称ヴィル)などに宛てたものを合わせると819通になる。一方、ファン・ゴッホに宛てられた手紙で現存するものが83通あり、そのうちテオあるいはテオとヨー連名のものが41通ある<ref>{{Cite web |url=http://vangoghletters.org/vg/letter_writer_1.html |title=Van Gogh as a letter-writer |publisher=Van Gogh Museum |accessdate=2013-09-10 }}</ref>。



568行目: 572行目:

当初から早描きが特徴であり、生乾きの絵具の上から重ね塗りするため、下地の色と混ざっている。伝統的な油絵の技法から見れば稚拙だが、このことが逆に独特の生命感を生んでいる。夕暮れに急かされ、絵具を[[チューブ (容器)|チューブ]]から直接画面に絞り出すこともあった{{sfn|西岡|2016|pp=96-98}}。

当初から早描きが特徴であり、生乾きの絵具の上から重ね塗りするため、下地の色と混ざっている。伝統的な油絵の技法から見れば稚拙だが、このことが逆に独特の生命感を生んでいる。夕暮れに急かされ、絵具を[[チューブ (容器)|チューブ]]から直接画面に絞り出すこともあった{{sfn|西岡|2016|pp=96-98}}。



==== 印象派と浮世絵の影響(パリ) ====

==== 印象派と浮世絵の影響(パリ)====

[[ファイル:Van Gogh - Das Restaurant de la Siréne in Asniéres.jpeg|thumb|right|180px|『[[アニエール=シュル=セーヌ|アニエール]]のレストラン』1887年夏、パリ。印象派の強い影響が見られる{{sfn|圀府寺|2010|pp=65-67}}。]]

[[ファイル:Van Gogh - Das Restaurant de la Siréne in Asniéres.jpeg|thumb|right|180px|『[[アニエール=シュル=セーヌ|アニエール]]のレストラン』1887年夏、パリ。印象派の強い影響が見られる{{sfn|圀府寺|2010|pp=65-67}}。]]

しかし、1886年、パリに移り住むと、ファン・ゴッホの絵画に一気に新しい要素が流れ込み始めた。当時のパリは[[印象派]]や[[新印象派]]が花ざかりであり、ファン・ゴッホは画商のテオを通じて多くの画家と親交を結びながら、多大な影響を受けた{{sfn|圀府寺|2010|pp=63-64}}。自分の暗いパレットが時代遅れであると感じるようになり、明るい色調を取り入れながら独自の画風を作り上げていった<ref name="before-and-after" />。パリ時代には、新印象派風の点描による作品も描いている。もっとも、ファン・ゴッホが明るい色調を取り入れて描いた印象派風作品においても、印象派の作品のような澄んだ色彩はない。[[クロード・モネ]]が『[[ルーアン大聖堂 (モネ)|ルーアン大聖堂]]』の連作で示したように、印象派がうつろいゆく光の効果をキャンバスにとらえることを目指したのに対し、ファン・ゴッホは「僕はカテドラルよりは人々の眼を描きたい。カテドラルがどれほど荘厳で堂々としていようと、そこにない何かが眼の中にはあるからだ。」と書いたとおり、印象派とは描こうとしたものが異なっていた{{sfn|圀府寺|2010|pp=65-72}}<ref group="手紙" name="L549">[http://vangoghletters.org/en/let549 フィンセントよりテオ宛書簡549](1885年12月19日、アントウェルペン、[[#CL|CL: 441]]、{{Lang|en|However, I’d rather paint people’s eyes than cathedrals...}})。</ref>。

しかし、1886年、パリに移り住むと、ファン・ゴッホの絵画に一気に新しい要素が流れ込み始めた。当時のパリは[[印象派]]や[[新印象派]]が花ざかりであり、ファン・ゴッホは画商のテオを通じて多くの画家と親交を結びながら、多大な影響を受けた{{sfn|圀府寺|2010|pp=63-64}}。自分の暗いパレットが時代遅れであると感じるようになり、明るい色調を取り入れながら独自の画風を作り上げていった<ref name="before-and-after" />。パリ時代には、新印象派風の点描による作品も描いている。もっとも、ファン・ゴッホが明るい色調を取り入れて描いた印象派風作品においても、印象派の作品のような澄んだ色彩はない。[[クロード・モネ]]が『[[ルーアン大聖堂 (モネ)|ルーアン大聖堂]]』の連作で示したように、印象派がうつろいゆく光の効果をキャンバスにとらえることを目指したのに対し、ファン・ゴッホは「僕はカテドラルよりは人々の眼を描きたい。カテドラルがどれほど荘厳で堂々としていようと、そこにない何かが眼の中にはあるからだ。」と書いたとおり、印象派とは描こうとしたものが異なっていた{{sfn|圀府寺|2010|pp=65-72}}<ref group="手紙" name="L549">[http://vangoghletters.org/en/let549 フィンセントよりテオ宛書簡549](1885年12月19日、アントウェルペン、[[#CL|CL: 441]]、{{Lang|en|However, I’d rather paint people’s eyes than cathedrals...}})。</ref>。



[[ファイル:Van Gogh - Sämann bei untergehender Sonne3.jpeg|thumb|left|180px|『種まく人』1888年11月、アルル。前景の木と遠景の対比は、パリ時代に模写した広重の「亀戸梅屋舗」の影響が見られる{{sfn|二見|2010|p=191}}{{sfn|吉屋|2005|pp=159-160}}。]]

[[ファイル:Van Gogh - Sämann bei untergehender Sonne3.jpeg|thumb|left|180px|『種まく人』1888年11月、アルル。前景の木と遠景の対比は、パリ時代に模写した広重の「亀戸梅屋舗」の影響が見られる{{sfn|二見|2010|p=191}}{{sfn|吉屋|2005|pp=159-160}}。]]

また、ゴッホはパリ時代に数百枚に上る[[浮世絵]]を収集し、3点の油彩による模写を残している。日本趣味([[ジャポネズリー]])は[[エドゥアール・マネ|マネ]]、モネ、ドガから世紀末までの印象派・ポスト印象派の画家たちに共通する傾向であり、背景には[[日本の開国]]に見られるように、活発な海外貿易や植民地政策により、西欧社会にとっての世界が急速に拡大したという時代状況があった。その中でもファン・ゴッホやゴーギャンの場合は、異国的なものへの憧れと、新しい造形表現の手がかりとしての意味が一つになっていた点に特徴がある{{sfn|高階・上|1975|pp=163-166}}。ファン・ゴッホは、「僕らは因習的な世界で教育され働いているが、自然に立ち返らなければならないと思う。」と書き、その理想を日本や日本人に置いていた{{sfn|圀府寺|2009|pp=157-160}}<ref group="手紙">{{Cite web |url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let686/letter.html#translation |title=フィンセントよりヴィル宛書簡686 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1888年9月23日又は24日、アルル、[[#CL|CL: 542]]、{{Lang|en|And we wouldn’t be able to study Japanese art...}})。</ref>。このように、制度や組織に縛られない[[ユートピア]]への憧憬を抱き、特定の「黄金時代」や「地上の楽園」に投影する態度は、[[ナザレ派]]、[[ラファエル前派]]、[[バルビゾン派]]、[[ポン=タヴァン派]]、[[ナビ派]]と続く19世紀の[[プリミティヴィスム]]の系譜に属するものといえる{{sfn|圀府寺|2009|pp=160-161}}。一方、造形的な面においては、ファン・ゴッホは、浮世絵から、色と形と線の単純化という手法を学び、アルル時代の果樹園のシリーズや「種まく人」などに独特の遠近法を応用している{{sfn|吉屋|2005|pp=158-160}}。1888年9月の『[[夜のカフェ]]』では、全ての線が[[消失点]]に向かって収束していたのに対し、10月の『[[ファンゴッホの寝室|アルルの寝室]]』では、テーブルが画面全体の遠近法に則っていないほか、明暗差も抑えられるなど、立体感が排除され、奥行きが減退している{{sfn|池上|2014|pp=139-45}}。アルル時代前半に見られる明確な輪郭線と平坦な色面による装飾性は、同じく浮世絵に学んだベルナールらの[[クロワゾニスム]]とも軌を一にしている{{sfn|二見|1980|pp=19-21}}。

また、ゴッホはパリ時代に数百枚に上る[[浮世絵]]を収集し、3点の油彩による模写を残している。日本趣味([[ジャポネズリー]])は[[エドゥアール・マネ|マネ]]、モネ、ドガから世紀末までの印象派・ポスト印象派の画家たちに共通する傾向であり、背景には[[日本の開国]]に見られるように、活発な海外貿易や植民地政策により、西欧社会にとっての世界が急速に拡大したという時代状況があった。その中でもファン・ゴッホやゴーギャンの場合は、異国的なものへの憧れと、新しい造形表現の手がかりとしての意味が一つになっていた点に特徴がある{{sfn|高階・上|1975|pp=163-166}}。ファン・ゴッホは、「僕らは因習的な世界で教育され働いているが、自然に立ち返らなければならないと思う。」と書き、その理想を日本や日本人に置いていた{{sfn|圀府寺|2009|pp=157-160}}<ref group="手紙">{{Cite web|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let686/letter.html#translation |title=フィンセントよりヴィル宛書簡686 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1888年9月23日又は24日、アルル、[[#CL|CL: 542]]、{{Lang|en|And we wouldn’t be able to study Japanese art...}})。</ref>。このように、制度や組織に縛られない[[ユートピア]]への憧憬を抱き、特定の「黄金時代」や「地上の楽園」に投影する態度は、[[ナザレ派]]、[[ラファエル前派]]、[[バルビゾン派]]、[[ポン=タヴァン派]]、[[ナビ派]]と続く19世紀のプリミティヴィスムの系譜に属するものといえる{{sfn|圀府寺|2009|pp=160-161}}。一方、造形的な面においては、ファン・ゴッホは、浮世絵から、色と形と線の単純化という手法を学び、アルル時代の果樹園のシリーズや「種まく人」などに独特の遠近法を応用している{{sfn|吉屋|2005|pp=158-160}}。1888年9月の『[[夜のカフェ]]』では、全ての線が[[消失点]]に向かって収束していたのに対し、10月の『[[ファンゴッホの寝室|アルルの寝室]]』では、テーブルが画面全体の遠近法に則っていないほか、明暗差も抑えられるなど、立体感が排除され、奥行きが減退している{{sfn|池上|2014|pp=139-45}}。アルル時代前半に見られる明確な輪郭線と平坦な色面による装飾性は、同じく浮世絵に学んだベルナールらの[[クロワゾニスム]]とも軌を一にしている{{sfn|二見|1980|pp=19-21}}。



==== 激しいタッチと色彩(アルル) ====

==== 激しいタッチと色彩(アルル) ====

{{色}}

{{色}}

単純で平坦な色面を用いて空間を表現しようとする手法は、クロー平野を描いた安定感のある『収穫』などの作品に結実した。しかし、同じアルル時代の1888年夏以降は、後述の補色の使用とともに荒いタッチの厚塗りの作品が増え、印象派からの脱却と[[バロック絵画|バロック]]的・[[ロマン主義]]的な感情表出に向かっている{{sfn|二見|1980|pp=32-33}}。ファン・ゴッホは、「結局、無意識のうちに[[アドルフ・モンティセリ|モンティセリ]]風の厚塗りになってしまう。時には本当にモンティセリの後継者のような気がしてしまう。」と書き、敬愛するモンティセリの影響に言及している<ref>{{Cite web |url=http://www.vangoghmuseum.nl/vgm/index.jsp?page=4210&lang=en |title=Flower Still Life, 1875 |publisher=Van Gogh Museum |accessdate=2013-02-28 }}</ref><ref group="手紙">{{Cite web |url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let689/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡689 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1888年9月26日、アルル、[[#CL|CL: 541]]、{{Lang|en|And in the end, without intending to, I’m forced to lay the paint on thickly, à la Monticelli...}})。</ref>。図柄だけではなく、マティエール(絵肌)の美しさにこだわるのはファン・ゴッホの作品の特徴である{{sfn|小林英樹|2002|p=88}}。

単純で平坦な色面を用いて空間を表現しようとする手法は、クロー平野を描いた安定感のある『収穫』などの作品に結実した。しかし、同じアルル時代の1888年夏以降は、後述の補色の使用とともに荒いタッチの厚塗りの作品が増え、印象派からの脱却と[[バロック絵画|バロック]]的・[[ロマン主義]]的な感情表出に向かっている{{sfn|二見|1980|pp=32-33}}。ファン・ゴッホは、「結局、無意識のうちに[[アドルフ・モンティセリ|モンティセリ]]風の厚塗りになってしまう。時には本当にモンティセリの後継者のような気がしてしまう。」と書き、敬愛するモンティセリの影響に言及している<ref>{{Cite web |url=http://www.vangoghmuseum.nl/vgm/index.jsp?page=4210&lang=en |title=Flower Still Life, 1875 |publisher=Van Gogh Museum |accessdate=2013-02-28 }}</ref><ref group="手紙">{{Cite web|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let689/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡689 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1888年9月26日、アルル、[[#CL|CL: 541]]、{{Lang|en|And in the end, without intending to, I’m forced to lay the paint on thickly, à la Monticelli...}})。</ref>。図柄だけではなく、マティエール(絵肌)の美しさにこだわるのはファン・ゴッホの作品の特徴である{{sfn|小林英樹|2002|p=88}}。



[[ファイル:BYR color wheel.svg|thumb|right|100px|[[色相環]]]]

[[ファイル:BYR color wheel.svg|thumb|right|100px|[[色相環]]]]


[[]][[]][[]]{{sfn||2011|p=74}}{{Refnest|group=""|[[]]1839{{sfn||2011|pp=77-80}}}}使<ref group="" name="L673">[http://vangoghletters.org/en/let673 673]188893[[#CL|CL: 531]]{{Lang|en|To express the love of two lovers through a marriage of two complementary colours...}}</ref> [[]]<ref group="">{{Cite web |url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let676/letter.html#translation |title=676 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}188898[[#CL|CL: 533]]{{Lang|en|Ive tried to express the terrible human passions with the red and the green.}}</ref> {{sfn||2010|p=71}}[[]]{{sfn||2010|p=122}}

[[]][[]][[]]{{sfn||2011|p=74}}{{Refnest|group=""|[[]]1839{{sfn||2011|pp=77-80}}}}使<ref group="" name="L673">[http://vangoghletters.org/en/let673 673]188893[[#CL|CL: 531]]{{Lang|en|To express the love of two lovers through a marriage of two complementary colours...}}</ref> [[]]<ref group="">{{Cite web|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let676/letter.html#translation |title=676 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}188898[[#CL|CL: 533]]{{Lang|en|Ive tried to express the terrible human passions with the red and the green.}}</ref> {{sfn||2010|p=71}}[[]]{{sfn||2010|p=122}}


==== 渦巻くタッチ(サン=レミ) ====

==== 渦巻くタッチ(サン=レミ) ====

590行目: 594行目:

ファン・ゴッホは、ゴーギャン、セザンヌ(後期)、[[オディロン・ルドン]]らとともに、[[ポスト印象派]](後期印象派)に位置付けられている。ポスト印象派のメンバーは、多かれ少なかれ印象派の美学の影響の下に育った画家たちではあるが、その芸術観はむしろ反印象派というべきものであった{{sfn|高階・上|1975|p=144}}。

ファン・ゴッホは、ゴーギャン、セザンヌ(後期)、[[オディロン・ルドン]]らとともに、[[ポスト印象派]](後期印象派)に位置付けられている。ポスト印象派のメンバーは、多かれ少なかれ印象派の美学の影響の下に育った画家たちではあるが、その芸術観はむしろ反印象派というべきものであった{{sfn|高階・上|1975|p=144}}。



ルノワールやモネといった印象派は、太陽の光を受けて微妙なニュアンスに富んだ多彩な輝きを示す自然を、忠実にキャンバスの上に再現することを目指した。そのために絵具をできるだけ混ぜないで明るい色のまま使い、小さな筆触(タッチ)でキャンバスの上に並置する「筆触分割」という手法を編み出し、伝統的な[[遠近法]]、[[明暗法]]、肉付法を否定した点で、[[アカデミズム絵画]]から敵視されたが、広い意味で[[ギュスターヴ・クールベ]]以来の[[写実主義]]を突き詰めようとするものであった{{sfn|高階・上|1975|pp=94-97,146-148}}。これに対し、ポスト印象派の画家たちは、印象派の余りに感覚主義的な世界に飽きたらず、別の秩序を探求したといえる{{sfn|高階・上|1975|p=115}}。ゴーギャンやルドンに代表される[[象徴主義]]は、絵画とは単に眼に見える世界をそのまま再現するだけではなく、眼に見えない世界、内面の世界、魂の領域にまで探求の眼を向けるところに本質的な役割があると考えた{{sfn|高階・上|1975|pp=150-151}}。ファン・ゴッホも、ゴーギャンやルドンと同様、人間の心が単に外界の姿を映し出す白紙([[タブラ・ラーサ]])ではないことを明確に意識していた{{sfn|高階・下|1975|p=20}}。色彩によって画家の主観を表出することを絵画の課題ととらえる点では、ドラクロワのロマン主義を継承するものであった{{sfn|西岡|2011|p=98}}。ファン・ゴッホは、晩年3年間において、赤や緑や黄色といった強烈な色彩の持つ表現力を発見し、それを、悲しみ、恐れ、喜び、絶望などの情念や人間の心の深淵を表現するものとして用いた{{sfn|高階・上|1975|pp=175-176}}。彼自身、テオへの手紙で、「自分の眼の前にあるものを正確に写し取ろうとするよりも、僕は自分自身を強く表現するために色彩をもっと自由に使う。」と宣言し、例えば友人の画家の肖像画を描く際にも、自分が彼に対して持っている敬意や愛情を絵に込めたいと思い、まずは対象に忠実に描くが、その後は自由な色彩家になって、[[ブロンド]]の髪を誇張してオレンジやクロム色や淡いレモン色にし、背景も実際の平凡な壁ではなく一番強烈な青で無限を描くと述べている{{sfn|高階・下|1975|p=37}}<ref group="手紙">{{Cite web |url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let663/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡663 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1888年8月18日、アルル、[[#CL|CL: 520]]、{{Lang|en|Because instead of trying to render exactly what I have before my eyes, I use colour more arbitrarily in order to express myself forcefully...}})。</ref>。別の手紙でも、「二つの補色の結婚によって二人の恋人たちの愛を表現すること。……星によって希望を表現すること。夕日の輝きによって人間の情熱を表現すること。それは表面的な写実ではないが、それこそ真に実在するものではないだろうか。」と書いている<ref group="手紙" name="L673" />。

ルノワールやモネといった印象派は、太陽の光を受けて微妙なニュアンスに富んだ多彩な輝きを示す自然を、忠実にキャンバスの上に再現することを目指した。そのために絵具をできるだけ混ぜないで明るい色のまま使い、小さな筆触(タッチ)でキャンバスの上に並置する「筆触分割」という手法を編み出し、伝統的な[[遠近法]]、[[明暗法]]、肉付法を否定した点で、[[アカデミズム絵画]]から敵視されたが、広い意味で[[ギュスターヴ・クールベ]]以来の[[写実主義]]を突き詰めようとするものであった{{sfn|高階・上|1975|pp=94-97,146-148}}。これに対し、ポスト印象派の画家たちは、印象派の余りに感覚主義的な世界に飽きたらず、別の秩序を探求したといえる{{sfn|高階・上|1975|p=115}}。ゴーギャンやルドンに代表される[[象徴主義]]は、絵画とは単に眼に見える世界をそのまま再現するだけではなく、眼に見えない世界、内面の世界、魂の領域にまで探求の眼を向けるところに本質的な役割があると考えた{{sfn|高階・上|1975|pp=150-151}}。ファン・ゴッホも、ゴーギャンやルドンと同様、人間の心が単に外界の姿を映し出す白紙([[タブラ・ラーサ]])ではないことを明確に意識していた{{sfn|高階・下|1975|p=20}}。色彩によって画家の主観を表出することを絵画の課題ととらえる点では、ドラクロワのロマン主義を継承するものであった{{sfn|西岡|2011|p=98}}。ファン・ゴッホは、晩年3年間において、赤や緑や黄色といった強烈な色彩の持つ表現力を発見し、それを、悲しみ、恐れ、喜び、絶望などの情念や人間の心の深淵を表現するものとして用いた{{sfn|高階・上|1975|pp=175-176}}。彼自身、テオへの手紙で、「自分の眼の前にあるものを正確に写し取ろうとするよりも、僕は自分自身を強く表現するために色彩をもっと自由に使う。」と宣言し、例えば友人の画家の肖像画を描く際にも、自分が彼に対して持っている敬意や愛情を絵に込めたいと思い、まずは対象に忠実に描くが、その後は自由な色彩家になって、[[ブロンド]]の髪を誇張してオレンジやクロム色や淡いレモン色にし、背景も実際の平凡な壁ではなく一番強烈な青で無限を描くと述べている{{sfn|高階・下|1975|p=37}}<ref group="手紙">{{Cite web|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let663/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡663 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1888年8月18日、アルル、[[#CL|CL: 520]]、{{Lang|en|Because instead of trying to render exactly what I have before my eyes, I use colour more arbitrarily in order to express myself forcefully...}})。</ref>。別の手紙でも、「二つの補色の結婚によって二人の恋人たちの愛を表現すること。……星によって希望を表現すること。夕日の輝きによって人間の情熱を表現すること。それは表面的な写実ではないが、それこそ真に実在するものではないだろうか。」と書いている<ref group="手紙" name="L673" />。



こうした姿勢は既に20世紀初頭の[[表現主義]]を予告するものであった。1890年代、ファン・ゴッホ、ゴーギャンやセザンヌといったポスト印象派の画家は一般社会からは顧みられていなかったが、若い画家たちの感受性に強く訴えかける力を持ち、[[ナビ派]]をはじめとする彼ら[[世紀末芸術]]の画家は、印象派の感覚主義に反発して「魂の神秘」の追求へ向かった。その流れは20世紀初頭の[[ドイツ]]、[[オーストリア]]において感情の激しい表現や鋭敏な社会的意識を特徴とする[[ドイツ表現主義]]に受け継がれ、表現主義の画家たちは、ファン・ゴッホや、[[フェルディナント・ホドラー]]、[[エドヴァルド・ムンク]]などの世紀末芸術の画家に傾倒した{{sfn|高階・下|1975|pp=3-4,20-21}}。[[エミール・ノルデ]]や[[エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー]]ら多くの[[ドイツ]]・[[オーストリア]]の画家が、ファン・ゴッホの色彩、筆触、構図を採り入れた作品を残しており、[[エゴン・シーレ]]や[[リヒャルト・ゲルストル]]など、ファン・ゴッホの作品だけでなくその苦難の人生に自分を重ね合わせる画家もいた<ref>{{Cite news |url=https://www.nytimes.com/2007/03/23/arts/design/23gogh.html |title=Modern Dutch Master, but Citizen of the World |author=Martha Schwendener |newspaper=New York Times |date=2007-03-23 |accessdate=2021-03-03 |language=en}}</ref>。同様の表現主義的傾向は同時期のフランスでは[[フォーヴィスム]]として現れたが、その形成に特に重要な役割を果たしたのが、色彩と形態によって内面の情念を表現しようとしたファン・ゴッホであった。1901年にファン・ゴッホの回顧展を訪れた[[モーリス・ド・ヴラマンク]]は、後に、「自分はこの日、父親よりもファン・ゴッホを大切に思った。」という有名な言葉を残しており、伝統への反抗精神にあふれた彼が公然と影響を認めたのはファン・ゴッホだけであった。彼の絵には、ファン・ゴッホの渦巻きを思わせるような同心円状の粗いタッチや、炎のような大胆な描線による激しい色彩表現が生まれた{{sfn|高階・下|1975|pp=36-37,54-55}}。さらに、印象派の写実主義に疑問を投げかけたファン・ゴッホ、ゴーギャンらは、色彩や形態それ自体の表現力に注目した点で、後の[[抽象絵画]]にもつながる要素を持っていたといえる{{sfn|高階・下|1975|p=181}}。

こうした姿勢は既に20世紀初頭の[[表現主義]]を予告するものであった。1890年代、ファン・ゴッホ、ゴーギャンやセザンヌといったポスト印象派の画家は一般社会からは顧みられていなかったが、若い画家たちの感受性に強く訴えかける力を持ち、[[ナビ派]]をはじめとする彼ら[[世紀末芸術]]の画家は、印象派の感覚主義に反発して「魂の神秘」の追求へ向かった。その流れは20世紀初頭の[[ドイツ]]、[[オーストリア]]において感情の激しい表現や鋭敏な社会的意識を特徴とする[[ドイツ表現主義]]に受け継がれ、表現主義の画家たちは、ファン・ゴッホや、[[フェルディナント・ホドラー]]、[[エドヴァルド・ムンク]]などの世紀末芸術の画家に傾倒した{{sfn|高階・下|1975|pp=3-4,20-21}}。[[エミール・ノルデ]]や[[エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー]]ら多くの[[ドイツ]]・[[オーストリア]]の画家が、ファン・ゴッホの色彩、筆触、構図を採り入れた作品を残しており、[[エゴン・シーレ]]や[[リヒャルト・ゲルストル]]など、ファン・ゴッホの作品だけでなくその苦難の人生に自分を重ね合わせる画家もいた<ref>{{Cite news |url=https://www.nytimes.com/2007/03/23/arts/design/23gogh.html |title=Modern Dutch Master, but Citizen of the World |author=Martha Schwendener |newspaper=New York Times |date=2007-03-23 |accessdate=2021-03-03 |language=en}}</ref>。同様の表現主義的傾向は同時期のフランスでは[[フォーヴィスム]]として現れたが、その形成に特に重要な役割を果たしたのが、色彩と形態によって内面の情念を表現しようとしたファン・ゴッホであった。1901年にファン・ゴッホの回顧展を訪れた[[モーリス・ド・ヴラマンク]]は、後に、「自分はこの日、父親よりもファン・ゴッホを大切に思った。」という有名な言葉を残しており、伝統への反抗精神にあふれた彼が公然と影響を認めたのはファン・ゴッホだけであった。彼の絵には、ファン・ゴッホの渦巻きを思わせるような同心円状の粗いタッチや、炎のような大胆な描線による激しい色彩表現が生まれた{{sfn|高階・下|1975|pp=36-37,54-55}}。さらに、印象派の写実主義に疑問を投げかけたファン・ゴッホ、ゴーギャンらは、色彩や形態それ自体の表現力に注目した点で、後の[[抽象絵画]]にもつながる要素を持っていたといえる{{sfn|高階・下|1975|p=181}}。

600行目: 604行目:


==== 肖像画 ====

==== 肖像画 ====

ファン・ゴッホは、農民をモデルにした人物画(オランダ時代)に始まり、[[タンギー爺さん]](パリ時代)、[[アルルの女 (ジヌー夫人)|ジヌー夫人]]、[[郵便配達人ジョゼフ・ルーラン|郵便夫ジョゼフ・ルーラン]]と妻オーギュスティーヌ([[ルーラン夫人ゆりかごを揺らす女|ゆりかごを揺らす女]])らその家族(アルル時代)、[[医師ガシェの肖像|医師ガシェ]]とその家族(オーヴェル=シュル=オワーズ時代)など、身近な人々をモデルに多くの[[肖像画]]を描いている。ファン・ゴッホは、アントウェルペン時代から「僕は[[大聖堂]]よりは人間の眼を描きたい」<ref group="手紙" name="L549" />と書いていたが、肖像画に対する情熱は晩年まで衰えることはなく、オーヴェル=シュル=オワーズから、妹ヴィルに宛てて次のように書いている。「僕が画業の中で他のどんなものよりもずっと、ずっと情熱を感じるのは、肖像画、現代の肖像画だ。……僕がやりたいと思っているのは、1世紀のちに、その時代の人たちに〈出現〉(アパリシオン)のように見えるような肖像画だ。それは、写真のように似せることによってではなく、性格を表現し高揚させる手段として現代の色彩理論と色彩感覚を用いて、情熱的な表現によってそれを求めるのだ。」{{sfn|圀府寺|2010|pp=177-179}}<ref group="手紙">{{Cite web |url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let879/letter.html#translation |title=フィンセントよりヴィル宛書簡879 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1890年6月5日、オーヴェル=シュル=オワーズ、[[#CL|CL: W22]]、{{Lang|en|What I’m most passionate about, much much more than all the rest in my profession – is the portrait, the modern portrait...}})。</ref>。

ファン・ゴッホは、農民をモデルにした人物画(オランダ時代)に始まり、[[タンギー爺さん]](パリ時代)、[[アルルの女 (ジヌー夫人)|ジヌー夫人]]、[[郵便配達人ジョゼフ・ルーラン|郵便夫ジョゼフ・ルーラン]]と妻オーギュスティーヌ([[ルーラン夫人ゆりかごを揺らす女|ゆりかごを揺らす女]])らその家族(アルル時代)、[[医師ガシェの肖像|医師ガシェ]]とその家族(オーヴェル=シュル=オワーズ時代)など、身近な人々をモデルに多くの[[肖像画]]を描いている。ファン・ゴッホは、アントウェルペン時代から「僕は[[大聖堂]]よりは人間の眼を描きたい」<ref group="手紙" name="L549" />と書いていたが、肖像画に対する情熱は晩年まで衰えることはなく、オーヴェル=シュル=オワーズから、妹ヴィルに宛てて次のように書いている。「僕が画業の中で他のどんなものよりもずっと、ずっと情熱を感じるのは、肖像画、現代の肖像画だ。……僕がやりたいと思っているのは、1世紀のちに、その時代の人たちに〈出現〉(アパリシオン)のように見えるような肖像画だ。それは、写真のように似せることによってではなく、性格を表現し高揚させる手段として現代の色彩理論と色彩感覚を用いて、情熱的な表現によってそれを求めるのだ。」{{sfn|圀府寺|2010|pp=177-179}}<ref group="手紙">{{Cite web|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let879/letter.html#translation |title=フィンセントよりヴィル宛書簡879 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1890年6月5日、オーヴェル=シュル=オワーズ、[[#CL|CL: W22]]、{{Lang|en|What I’m most passionate about, much much more than all the rest in my profession – is the portrait, the modern portrait...}})。</ref>。

<gallery>

<gallery>

ファイル:Vincent Willem van Gogh 086.jpg|『[[パシアンス・エスカリエの肖像]]』[[1888年]]8月、アルル。油彩、キャンバス、69 × 56&nbsp;cm。個人コレクション<sup>F 444, JH 1563</sup>。

ファイル:Vincent Willem van Gogh 086.jpg|『[[パシアンス・エスカリエの肖像]]』[[1888年]]8月、アルル。油彩、キャンバス、69 × 56&nbsp;cm。個人コレクション<sup>F 444, JH 1563</sup>。

611行目: 615行目:

==== 自画像 ====

==== 自画像 ====

{{Main|自画像 (ゴッホ)}}

{{Main|自画像 (ゴッホ)}}

ファン・ゴッホは多くの[[自画像]]を残しており、1886年から1889年にかけて彼が描いた自画像は37枚とされている<ref>{{Cite web |url= http://www.visual-arts-cork.com/genres/self-portraits.htm |title=Encyclopedia of Irish and World Art, art of self-portrait |accessdate=2012-07-14 }}</ref>{{Refnest|group="注釈"|油彩、水彩、デッサンを合わせて43点(ただし贋作の疑いがあるものもある)とする文献もある{{sfn|瀬木|2017|pp=101-102}}。}}。オランダ時代には全く自画像を残していないが、パリ時代に突如として多数の自画像を描いており、1887年だけで22点にのぼる。これは制作、生活両面における激しい動揺と結び付けられる{{sfn|粟津|1993|pp=31-32}}。アルルでは、ロティの『お菊さん』に触発されて、自分を日本人の坊主(仏僧)の姿で描いた作品を残しており、キリスト教の教義主義から自由なユートピアを投影していると考えられる{{sfn|圀府寺|2009|pp=155,171}}。もっとも、自画像には、小さい画面や使用済みのキャンバスを選んでいるものが多く、ファン・ゴッホ自身、自画像を描く理由について、「モデルがいないから」、「自分の肖像をうまく表現できたら、他の人々の肖像も描けると思うから」と述べており、自画像自体には高い価値を置いていなかった可能性がある{{sfn|千足|2015|p=54}}<ref group="手紙">{{Cite web |url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let681/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡681 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1888年9月16日、アルル、[[#CL|CL: 537]]、{{Lang|en|I purposely bought a good enough mirror...}})。</ref>。

ファン・ゴッホは多くの[[自画像]]を残しており、1886年から1889年にかけて彼が描いた自画像は37枚とされている<ref>{{Cite web |url= http://www.visual-arts-cork.com/genres/self-portraits.htm |title=Encyclopedia of Irish and World Art, art of self-portrait |accessdate=2012-07-14 }}</ref>{{Refnest|group="注釈"|油彩、水彩、デッサンを合わせて43点(ただし贋作の疑いがあるものもある)とする文献もある{{sfn|瀬木|2017|pp=101-102}}。}}。オランダ時代には全く自画像を残していないが、パリ時代に突如として多数の自画像を描いており、1887年だけで22点にのぼる。これは制作、生活両面における激しい動揺と結び付けられる{{sfn|粟津|1993|pp=31-32}}。アルルでは、ロティの『お菊さん』に触発されて、自分を日本人の坊主(仏僧)の姿で描いた作品を残しており、キリスト教の教義主義から自由なユートピアを投影していると考えられる{{sfn|圀府寺|2009|pp=155,171}}。もっとも、自画像には、小さい画面や使用済みのキャンバスを選んでいるものが多く、ファン・ゴッホ自身、自画像を描く理由について、「モデルがいないから」、「自分の肖像をうまく表現できたら、他の人々の肖像も描けると思うから」と述べており、自画像自体には高い価値を置いていなかった可能性がある{{sfn|千足|2015|p=54}}<ref group="手紙">{{Cite web|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let681/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡681 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1888年9月16日、アルル、[[#CL|CL: 537]]、{{Lang|en|I purposely bought a good enough mirror...}})。</ref>。



アルルでの耳切り事件の後に描かれた自画像は、左耳(鏡像を見ながら描いたため絵では右耳)に包帯をしている。一方、サン=レミ時代の自画像は全て右耳を見せている。そして、そこには『星月夜』にも見られる異様な渦状運動が表れ、名状し難い不安を生み出している{{sfn|粟津|1993|p=33}}。オーヴェル=シュル=オワーズ時代には、自画像を制作していない。

アルルでの耳切り事件の後に描かれた自画像は、左耳(鏡像を見ながら描いたため絵では右耳)に包帯をしている。一方、サン=レミ時代の自画像は全て右耳を見せている。そして、そこには『星月夜』にも見られる異様な渦状運動が表れ、名状し難い不安を生み出している{{sfn|粟津|1993|p=33}}。オーヴェル=シュル=オワーズ時代には、自画像を制作していない。

628行目: 632行目:

ファン・ゴッホは、パリ時代に油彩5点、素描を含め9点の[[ひまわり]]の絵を描いているが、最も有名なのはアルル時代の『ひまわり』である。1888年、ファン・ゴッホはアルルでゴーギャンの到着を待つ間12点のひまわりでアトリエを飾る計画を立て、これに着手したが、実際にはアルル時代に制作した『ひまわり』は7点に終わった{{sfn|吉屋|2005|pp=181-182}}。ゴーギャンとの大切な共同生活の場を飾る作品だけに、ファン・ゴッホがひまわりに対し強い愛着を持っていたことが窺える{{sfn|高階|1984|p=40}}。

ファン・ゴッホは、パリ時代に油彩5点、素描を含め9点の[[ひまわり]]の絵を描いているが、最も有名なのはアルル時代の『ひまわり』である。1888年、ファン・ゴッホはアルルでゴーギャンの到着を待つ間12点のひまわりでアトリエを飾る計画を立て、これに着手したが、実際にはアルル時代に制作した『ひまわり』は7点に終わった{{sfn|吉屋|2005|pp=181-182}}。ゴーギャンとの大切な共同生活の場を飾る作品だけに、ファン・ゴッホがひまわりに対し強い愛着を持っていたことが窺える{{sfn|高階|1984|p=40}}。



西欧では、16世紀-17世紀から、ひまわりは「その花が太陽に顔を向け続けるように{{Refnest|group="注釈"|実際には、ひまわりの花はずっと東を向いており、{{仮リンク|向日性|en|Heliotropism}}はないが、西欧では一般に向日性を持つと信じられていた{{sfn|圀府寺|2010|p=106}}。}}、信心深い人はキリスト(又は神)に関心を向け続ける」、あるいは「愛する者は愛の対象に顔を向け続ける」という象徴的意味が広まっており、ファン・ゴッホもこうした象徴的意味を意識していたものと考えられている{{sfn|圀府寺|2010|pp=108-111}}{{sfn|吉屋|2005|p=184}}。

西欧では、16世紀-17世紀から、ひまわりは「その花が太陽に顔を向け続けるように{{Refnest|group="注釈"|実際には、ひまわりの花はずっと東を向いており、[[向日性]]はないが、西欧では一般に向日性を持つと信じられていた{{sfn|圀府寺|2010|p=106}}。}}、信心深い人はキリスト(又は神)に関心を向け続ける」、あるいは「愛する者は愛の対象に顔を向け続ける」という象徴的意味が広まっており、ファン・ゴッホもこうした象徴的意味を意識していたものと考えられている{{sfn|圀府寺|2010|pp=108-111}}{{sfn|吉屋|2005|p=184}}。



後に、ファン・ゴッホは『[[ルーラン夫人ゆりかごを揺らす女]]』を中央に置き、両側にひまわりの絵を置いて、[[祭壇画]]のような三連画にする案を書簡でテオに伝えている{{sfn|圀府寺|2010|pp=146-147}}<ref group="手紙">{{Cite web |url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let776/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡776 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1889年5月23日頃、サン=レミ、[[#CL|CL: 592]]、{{Lang|en|You must know, too, that...}})。</ref>。

後に、ファン・ゴッホは『[[ルーラン夫人ゆりかごを揺らす女]]』を中央に置き、両側にひまわりの絵を置いて、[[祭壇画]]のような三連画にする案を書簡でテオに伝えている{{sfn|圀府寺|2010|pp=146-147}}<ref group="手紙">{{Cite web|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let776/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡776 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1889年5月23日頃、サン=レミ、[[#CL|CL: 592]]、{{Lang|en|You must know, too, that...}})。</ref>。



==== 糸杉 ====

==== 糸杉 ====

644行目: 648行目:

|image2=Vincent Willem van Gogh 025.jpg |width2=120|caption2=ファン・ゴッホ『種まく人』1889年10月、サン=レミ。油彩、キャンバス、80 × 64 cm。個人コレクション<sup>F 690, JH 1837</sup>。

|image2=Vincent Willem van Gogh 025.jpg |width2=120|caption2=ファン・ゴッホ『種まく人』1889年10月、サン=レミ。油彩、キャンバス、80 × 64 cm。個人コレクション<sup>F 690, JH 1837</sup>。

}}

}}

ファン・ゴッホは、最初期から[[バルビゾン派]]の画家[[ジャン=フランソワ・ミレー]]を敬愛しており、これを[[模写]]したデッサンや油絵を多く残している。ニューネン時代の書簡で、[[アルフレッド・サンシエ]]の『ミレーの生涯と作品』で読んだという「彼{{Interp|ミレー|和文=1}}の農夫は自分が種をまいているそこの大地の土で描かれている」という言葉を引用しながら、ファン・ゴッホは「まさに真を衝いた至言だ」と書いている{{sfn|二見|2010|p=107}}<ref group="手紙">{{Cite web |url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let495/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡495 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1885年4月21日、ニューネン、[[#CL|CL: 402]]、{{Lang|en|How rightly it was said of Millet’s figures...}})。</ref>。

ファン・ゴッホは、最初期から[[バルビゾン派]]の画家[[ジャン=フランソワ・ミレー]]を敬愛しており、これを[[模写]]したデッサンや油絵を多く残している。ニューネン時代の書簡で、[[アルフレッド・サンシエ]]の『ミレーの生涯と作品』で読んだという「彼{{Interp|ミレー|和文=1}}の農夫は自分が種をまいているそこの大地の土で描かれている」という言葉を引用しながら、ファン・ゴッホは「まさに真を衝いた至言だ」と書いている{{sfn|二見|2010|p=107}}<ref group="手紙">{{Cite web|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let495/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡495 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1885年4月21日、ニューネン、[[#CL|CL: 402]]、{{Lang|en|How rightly it was said of Millet’s figures...}})。</ref>。



アルル時代(1888年6月)には、白黒のミレーの構図を模写しながら、ドラクロワのような色彩を取り入れ、黄色にあふれた『種まく人』を描き上げた。このほか、「掘る人(耕す人)」、「鋤く人」、「麦刈りをする人」などのモチーフをとりあげて絵にしている。しかし、生身の農民と多様な農作業を細かく観察していたミレーと異なり、ファン・ゴッホは実際に農民の中で生活したことはなく、描かれた人物にも表情は乏しい。むしろ、ファン・ゴッホにとって、これらのモチーフは[[聖書]]における[[キリスト]]のたとえ話<ref group="注釈">[[マルコによる福音書]] [[s:マルコによる福音書(口語訳)#4:26|第4章 26節から29節]]には次のようにある。「また、イエスは言われた。『[[神の王国|神の国]]は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。』」。</ref> に出てくる象徴的意味を与えられたものであった。例えば「種まく人」は人の誕生や「神の言葉を種まく人」<ref group="注釈">[[s:マルコによる福音書(口語訳)#4:14|マルコによる福音書 第4章 14節]]「種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。」</ref>、「掘る人」は楽園を追放された人間の苛酷な労働{{Refnest|group="注釈"|[[創世記]] [[s:創世記(口語訳)#3:19|第3章 19節]]で楽園を追放された[[アダム]]に告げられる「お前は顔に汗を流してパンを得る」という言葉は、ミレーやファン・ゴッホにおいては「掘る人」の図像と結び付けられていた{{sfn|圀府寺|2009|pp=186-188}}。}}、「麦刈り」は人の死を象徴していると考えられている{{sfn|圀府寺|2010|pp=94-105}}{{sfn|圀府寺|2009|pp=193-195}}。ファン・ゴッホ自身、手紙で、「僕は、この鎌で刈る人……の中に、人間は鎌で刈られる小麦のようなものだという意味で、死のイメージを見たのだ。」と書いている{{sfn|高階|1984|pp=146-147}}<ref group="手紙">{{Cite web |url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let800/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡800 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1889年9月5日 - 6日、サン=レミ、[[#CL|CL: 604]]、{{Lang|en|I then saw in this reaper...}})。</ref>。「種まく人がアルル時代に立て続けに描かれているのに対し、「麦刈りをする人」は主にサン=レミに移ってから描かれている{{sfn|高階|1984|p=142}}。また、「掘る人」も、1887年夏から1889年春までは完全に姿を消していたが、サン=レミに移ってから、特に1890年春に多数描かれている{{sfn|圀府寺|2009|pp=215-216}}。

アルル時代(1888年6月)には、白黒のミレーの構図を模写しながら、ドラクロワのような色彩を取り入れ、黄色にあふれた『種まく人』を描き上げた。このほか、「掘る人(耕す人)」、「鋤く人」、「麦刈りをする人」などのモチーフをとりあげて絵にしている。しかし、生身の農民と多様な農作業を細かく観察していたミレーと異なり、ファン・ゴッホは実際に農民の中で生活したことはなく、描かれた人物にも表情は乏しい。むしろ、ファン・ゴッホにとって、これらのモチーフは[[聖書]]における[[キリスト]]のたとえ話<ref group="注釈">[[マルコによる福音書]] [[s:マルコによる福音書(口語訳)#4:26|第4章 26節から29節]]には次のようにある。「また、イエスは言われた。『[[神の王国|神の国]]は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。』」。</ref> に出てくる象徴的意味を与えられたものであった。例えば「種まく人」は人の誕生や「神の言葉を種まく人」<ref group="注釈">[[s:マルコによる福音書(口語訳)#4:14|マルコによる福音書 第4章 14節]]「種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。」</ref>、「掘る人」は楽園を追放された人間の苛酷な労働{{Refnest|group="注釈"|[[創世記]] [[s:創世記(口語訳)#3:19|第3章 19節]]で楽園を追放された[[アダム]]に告げられる「お前は顔に汗を流してパンを得る」という言葉は、ミレーやファン・ゴッホにおいては「掘る人」の図像と結び付けられていた{{sfn|圀府寺|2009|pp=186-188}}。}}、「麦刈り」は人の死を象徴していると考えられている{{sfn|圀府寺|2010|pp=94-105}}{{sfn|圀府寺|2009|pp=193-195}}。ファン・ゴッホ自身、手紙で、「僕は、この鎌で刈る人……の中に、人間は鎌で刈られる小麦のようなものだという意味で、死のイメージを見たのだ。」と書いている{{sfn|高階|1984|pp=146-147}}<ref group="手紙">{{Cite web|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let800/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡800 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1889年9月5日 - 6日、サン=レミ、[[#CL|CL: 604]]、{{Lang|en|I then saw in this reaper...}})。</ref>。「種まく人がアルル時代に立て続けに描かれているのに対し、「麦刈りをする人」は主にサン=レミに移ってから描かれている{{sfn|高階|1984|p=142}}。また、「掘る人」も、1887年夏から1889年春までは完全に姿を消していたが、サン=レミに移ってから、特に1890年春に多数描かれている{{sfn|圀府寺|2009|pp=215-216}}。



{{multiple image

{{multiple image

653行目: 657行目:

| image2 = Vincent Van Gogh- La Résurrection de Lazare (d’après Rembrandt).JPG | width2= 180 | caption2=ファン・ゴッホ『ラザロの復活』1890年、サン=レミ。[[ゴッホ美術館]]<ref>{{Cite web |url=https://www.vangoghmuseum.nl/en/collection/s0169V1962 |title=The Raising of Lazarus (after Rembrandt) |publisher=Van Gogh Museum |accessdate=2017-12-21}}</ref><sup>F 677, JH 1972</sup>。

| image2 = Vincent Van Gogh- La Résurrection de Lazare (d’après Rembrandt).JPG | width2= 180 | caption2=ファン・ゴッホ『ラザロの復活』1890年、サン=レミ。[[ゴッホ美術館]]<ref>{{Cite web |url=https://www.vangoghmuseum.nl/en/collection/s0169V1962 |title=The Raising of Lazarus (after Rembrandt) |publisher=Van Gogh Museum |accessdate=2017-12-21}}</ref><sup>F 677, JH 1972</sup>。

}}

}}

サン=レミ時代には、発作のため戸外での制作が制限されたこともあり、彼に大きな影響を及ぼした画家である[[ウジェーヌ・ドラクロワ|ドラクロワ]]、[[レンブラント・ファン・レイン|レンブラント]]、ミレーらの[[版画]]や複製をもとに、油彩画での模写を多く制作した{{sfn|ホンブルク|2001|p=62}}。ゴッホは、模写以外には明確に宗教的な主題の作品は制作していないのに対し、ドラクロワからは『[[ピエタ]]』や『[[善きサマリア人]]』、レンブラントからは『天使の半身像』や『[[ラザロ]]の復活』という宗教画を選んで模写していることが特徴である{{sfn|ホンブルク|2001|pp=83,93-105}}。ゴッホは、ベルナールへの手紙に、「僕が感じているキリストの姿を描いたのは、ドラクロワとレンブラントだけだ。そしてミレーがキリストの教理を描いた。」と書いている<ref group="手紙">{{Cite web |url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let632/letter.html#translation |title=フィンセントよりベルナール宛書簡632 |website=Vincent van Gogh The Letters |accessdate=2021-03-04 |language=en}}(1888年6月26日、アルル、[[#CL|CL: B8]]、{{Lang|en|The figure of Christ has been painted...}})。</ref>。サン=レミでは、そのほかに[[ギュスターヴ・ドレ]]の『監獄の中庭』や[[オノレ・ドーミエ|ドーミエ]]の『飲んだくれ』など何人かの画家を模写したが、オーヴェルに移ってからは1点を除き模写を残していない{{sfn|ホンブルク|2001|pp=123-132}}。

サン=レミ時代には、発作のため戸外での制作が制限されたこともあり、彼に大きな影響を及ぼした画家である[[ウジェーヌ・ドラクロワ|ドラクロワ]]、[[レンブラント・ファン・レイン|レンブラント]]、ミレーらの[[版画]]や複製をもとに、油彩画での模写を多く制作した{{sfn|ホンブルク|2001|p=62}}。ゴッホは、模写以外には明確に宗教的な主題の作品は制作していないのに対し、ドラクロワからは『[[ピエタ]]』や『[[善きサマリア人]]』、レンブラントからは『天使の半身像』や『[[ラザロ]]の復活』という宗教画を選んで模写していることが特徴である{{sfn|ホンブルク|2001|pp=83,93-105}}。ゴッホは、ベルナールへの手紙に、「僕が感じているキリストの姿を描いたのは、ドラクロワとレンブラントだけだ。そしてミレーがキリストの教理を描いた。」と書いている<ref group="手紙">{{Cite web|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let632/letter.html#translation |title=フィンセントよりベルナール宛書簡632 |website=Vincent van Gogh The Letters |accessdate=2021-03-04 |language=en}}(1888年6月26日、アルル、[[#CL|CL: B8]]、{{Lang|en|The figure of Christ has been painted...}})。</ref>。サン=レミでは、そのほかに[[ギュスターヴ・ドレ]]の『監獄の中庭』や[[オノレ・ドーミエ|ドーミエ]]の『飲んだくれ』など何人かの画家を模写したが、オーヴェルに移ってからは1点を除き模写を残していない{{sfn|ホンブルク|2001|pp=123-132}}。



ファン・ゴッホはこれらの模写を「翻訳」と呼んでいた。レンブラントの白黒の版画を模写した『ラザロの復活』(1890年)では、原画の中心人物であるキリストを描かず、代わりに太陽を描き加えることにより、聖書主題を借りながらも個人的な意味を付与していると考えられる{{sfn|圀府寺|2010|pp=161-171}}。この絵の2人の女性マルタとマリアはルーラン夫人とジヌー夫人を想定しており、また蘇生するラザロはファン・ゴッホの容貌と似ていることから、自分自身が南仏の太陽の下で蘇生するとの願望を表しているとの解釈が示されている{{sfn|圀府寺|2009|pp=78-79}}。

ファン・ゴッホはこれらの模写を「翻訳」と呼んでいた。レンブラントの白黒の版画を模写した『ラザロの復活』(1890年)では、原画の中心人物であるキリストを描かず、代わりに太陽を描き加えることにより、聖書主題を借りながらも個人的な意味を付与していると考えられる{{sfn|圀府寺|2010|pp=161-171}}。この絵の2人の女性マルタとマリアはルーラン夫人とジヌー夫人を想定しており、また蘇生するラザロはファン・ゴッホの容貌と似ていることから、自分自身が南仏の太陽の下で蘇生するとの願望を表しているとの解釈が示されている{{sfn|圀府寺|2009|pp=78-79}}。

664行目: 668行目:

** [[ゴッホちゃん]]

** [[ゴッホちゃん]]

* {{ill2|インパスト|en|Impasto}} - ゴッホの作品の特徴である厚塗り技法。

* {{ill2|インパスト|en|Impasto}} - ゴッホの作品の特徴である厚塗り技法。

*「ファン・ゴッホ ー僕には世界がこう見えるー」 - 2022年6月18日から[[ところざわサクラタウン#角川武蔵野ミュージアム(1-5F)|角川武蔵野ミュージアム]]にて開催されたゴッホが見た世界を追体験する体感型デジタルアート展<ref>[https://kadcul.com/ 角川武蔵野ミュージアム]</ref>

*「ファン・ゴッホ ー僕には世界がこう見えるー」 - 2022年6月18日から2023年1月9日まで[[ところざわサクラタウン#角川武蔵野ミュージアム(1-5F)|角川武蔵野ミュージアム]]にてゴッホが見た世界を追体験する体感型デジタルアート展が開催された<ref>[https://kadcul.com/event/77 角川武蔵野ミュージアム]</ref>



== 外部リンク ==

== 外部リンク ==

670行目: 674行目:

* [https://www.vangoghmuseum.nl/en ゴッホ美術館公式サイト] - {{nl icon}}、{{en icon}}(一部に日本語ページあり)

* [https://www.vangoghmuseum.nl/en ゴッホ美術館公式サイト] - {{nl icon}}、{{en icon}}(一部に日本語ページあり)

* [https://www.routevangogheurope.eu/ja/ フィンセントの人生と作品を発見しよう(ファン・ゴッホ・ヨーロッパ財団)](日本語版へのリンク)

* [https://www.routevangogheurope.eu/ja/ フィンセントの人生と作品を発見しよう(ファン・ゴッホ・ヨーロッパ財団)](日本語版へのリンク)

* {{青空文庫著作者|2126|ファン・ゴッホ フィンセント}}

* [https://www.project-archive.org/0/040.html フィンセント・ファン・ゴッホ「若き日の手紙」(式場隆三郎訳)] - ARCHIVE

* {{Kotobank|ゴッホ}}

* {{Kotobank|ゴッホ}}



718行目: 724行目:

** {{Cite book |和書 |author=スティーヴン・ネイフ |authorlink=:en:Steven Naifeh |author2=グレゴリー・ホワイト・スミス |authorlink2=:en:Gregory White Smith |title=ファン・ゴッホの生涯 |publisher=[[国書刊行会]] |date=2016-10-18 |id=(上)ISBN 978-4-336-06045-7、(下)ISBN 978-4-336-06046-4 |ref= }}- 上記の日本語訳

** {{Cite book |和書 |author=スティーヴン・ネイフ |authorlink=:en:Steven Naifeh |author2=グレゴリー・ホワイト・スミス |authorlink2=:en:Gregory White Smith |title=ファン・ゴッホの生涯 |publisher=[[国書刊行会]] |date=2016-10-18 |id=(上)ISBN 978-4-336-06045-7、(下)ISBN 978-4-336-06046-4 |ref= }}- 上記の日本語訳

* {{Cite book |last=Wilkie |first=Kenneth |title=The Van Gogh File: The Myth and the Man |publisher=Souvenir Press Ltd, |edition=Main |date=2005-04-28 |isbn=978-0-285-63691-0 |language=en |ref={{sfnref|Wilkie|2005}} }}

* {{Cite book |last=Wilkie |first=Kenneth |title=The Van Gogh File: The Myth and the Man |publisher=Souvenir Press Ltd, |edition=Main |date=2005-04-28 |isbn=978-0-285-63691-0 |language=en |ref={{sfnref|Wilkie|2005}} }}

* {{Cite web |url=http://gogh-japan.jp/point/point2.html |title=『ゴッホ展――めぐりゆく日本の夢』 |publisher=NHK、NHKプロモーション、北海道新聞 |date= |accessdate=2018-08-17 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20180817001841/http://gogh-japan.jp/point/point2.html |archivedate=2018-08-17}} - (2017年 - 2018年 巡回展)図録、北海道立近代美術館、東京都美術館、京都国立近代美術館

* {{Cite web|和書|url=http://gogh-japan.jp/point/point2.html |title=『ゴッホ展――めぐりゆく日本の夢』 |publisher=NHK、NHKプロモーション、北海道新聞 |date= |accessdate=2018-08-17 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20180817001841/http://gogh-japan.jp/point/point2.html |archivedate=2018-08-17}} - (2017年 - 2018年 巡回展)図録、北海道立近代美術館、東京都美術館、京都国立近代美術館



== 脚注 ==

== 脚注 ==

761行目: 767行目:

[[Category:19世紀オランダの画家]]

[[Category:19世紀オランダの画家]]

[[Category:ファン・ゴッホ家|ふいんせんと]]

[[Category:ファン・ゴッホ家|ふいんせんと]]

[[Category:隻耳の人物]]

[[Category:自殺した人物]]

[[Category:自殺した人物]]

[[Category:在ベルギー・オランダ人]]

[[Category:在ベルギー・オランダ人]]


2024年4月22日 (月) 17:28時点における最新版

フィンセント・ファン・ゴッホ
Vincent van Gogh
誕生日 1853年3月30日
出生地 オランダの旗 オランダ北ブラバント州フロート・ズンデルト
死没年 (1890-07-29) 1890年7月29日(37歳没)
死没地 フランスの旗 フランス共和国ヴァル=ドワーズ県オーヴェル=シュル=オワーズ
墓地 フランスの旗 フランスヴァル=ドワーズ県オーヴェル=シュル=オワーズ共同墓地[1]
墓地座標 北緯49度4分30.8秒 東経2度10分43.8秒 / 北緯49.075222度 東経2.178833度 / 49.075222; 2.178833
国籍 オランダの旗 オランダ
運動・動向 ポスト印象派(後期印象派)
芸術分野 絵画
教育 ブリュッセル王立美術アカデミー(1880年末一時在籍)
アントウェルペン王立芸術学院(1886年初頭一時在籍)
フェルナン・コルモン画塾(1886年)
代表作ジャガイモを食べる人々』、『ひまわり』、『糸杉と星の見える道』、『星月夜』、『カラスのいる麦畑』など
後援者 テオドルス(弟)
影響を受けた
芸術家
アントン・モーヴドラクロワモンティセリミレー印象派ジャポネズリー浮世絵
影響を与えた
芸術家
ポスト印象派世紀末芸術フォーヴィスムドイツ表現主義アントナン・アルトー芥正彦など多数
テンプレートを表示

[ 1]: Vincent Willem van Gogh1853330 - 1890729

18861888 - 1889518895 - 18905使[2]20

van

[3]

概要[編集]

グーピル商会の画廊で働いていた19歳頃のファン・ゴッホ[4]。現存する唯一の写真。 [注釈 2][5][6][7]
1878年(当時21歳)の弟テオ。兄の支援者であり理解者。

1853186918761877187818814-1218821-18839188312-188511188511-18862調

18862調1888210212退1889518905退727229調

1

108601501030101302100[8]2

[]

1853-1869[]

[9]

1853330[ 3]1822-18851819-190718491851[11][12][ 4]

1789-1874[11][14]
ファン・ゴッホの家族[注釈 5]


11852330[15][ 6]18551857185918621867[17]
18642

湿1[18]186018611864[17]1864211[19]18641020 km宿[17][20][ 1]

18669152[21]186831[22]1883[ 2]

グーピル商会(1869年-1876年)[編集]

ハーグ支店[編集]

ゴッホが1869年(16歳)から1873年(20歳)まで勤めたグーピル商会ハーグ支店。

186974[ 7]2[24][ 3][25][26]187222[27]

1870[28]

[]


18735[29][30]8宿[31]宿宿[32]宿[ 8]188120[ 4][34]宿1874[35]

[]


18755[36][ 9]宿[37][38][39]1876141[40][ 5]1875[41][42][43]

聖職者への志望(1876年-1880年)[編集]

イギリスの寄宿学校[編集]

『エッテンの牧師館と教会』1876年4月。グーピル商会を解雇された23歳のファン・ゴッホは、イギリスに発つ前、エッテンの実家に立ち寄り、家族に別れを告げた[44][注釈 10]

18764宿6宿宿[45][46]

[]

3&[47]

78[48]187715&宿[49]

[]


[50]35宿[51]2[52][53]18782[54][55]

ラーケンの伝道師養成学校[編集]


1878107831115[56][ 6]

[]


187812宿1879150[57][58][59][60]
188027

18798西[61][62]18803[63][64]

18806[65][ 7][66]9[ 8][67]

[]


188010[68][69]111[70][71]

[]

1881[]

1881
27

18814[71]78[72][ 9]

11[73][ 10][74]

1127[75][ 11]

1882-1883[]


18821[76][77]使[78][ 12]使[79][80]100[81][ 11]
188218885使[83][ 13]

1882312[84][85]63退75[86][87][88]

118835[88][ 14]9911[89][ 15][ 12]10[93]

ニューネン(1883年末-1885年)[編集]

ニューネンの牧師館(左手)の庭。中央はファン・ゴッホ(30-32歳)が使っていたアトリエ小屋。

1883125822使18841[95]3[96][ 16]調[97]調[98]

188410[99][100][ 17][101]1885326[102][ 18]5[103]

1885[104]52[99]

[105]9[106]

1885101710使[107][ 19]11[108][109]

アントウェルペン(1885年末-1886年初頭)[編集]

アントウェルペン王立芸術学院(アカデミー)。32歳の時入校。

1885112[112]18861[ 13][114]

256使[115][ 20][ 14][117]

パリ(1886年-1888年初頭)[編集]

188618873234
セーヌ川のほとりで写真に写るベルナールとファン・ゴッホ(後ろ姿)[118]

1886262[119][120][121][122]

18868[123][124][125]
188625000[126]
1886

18873[127][128][129][130]

[131]1887 [132][133][134]

188711A.H.[135][136][137][138]

アルル(1888年-1889年5月)[編集]

ゴーギャン到着まで[編集]


1888220宿[145][146]5[147][ 21]
34

[ 22]334[148]342[149]

18885宿22使[ 15]932[151][ 23]530[152]6[153]6[154]

7使[155]便[156]864[157]93[158][ 24]

1888724[156]9899[159]9[160]10[161]

ゴーギャンとの共同生活[編集]

ポール・ゴーギャン。ファン・ゴッホと弟テオの提案を受け入れ、ポン=タヴァンを離れて2か月間アルルに滞在した。

18881023[170][ 16]21142112[172][173][174]112[175]1112便[176][ 25]
188811[177][ 17]

211[174]12[179][ 26]1216172西70 km21220[180]

1223[ 18]1230

111[ 19]姿 18881230[186] 

188911

[187]

10[187]1224[188]

アルル市立病院[編集]

レー医師が1930年にアーヴィング・ストーンのために描いたファン・ゴッホの耳の図。上図には「点線に沿ってかみそりで耳をそぎ落とした」、下図には「耳たぶの一部だけが残った」と説明がある[191]

1224[192][193][194][193]23[195][196]便[197]1227[198]

188912[ 27]1417退[199][200]
35

退2[201]120[202]227[203][204]217退22530226[205][206][207][ 20]36[209]

3231[210][211]418便[212]

3233湿[213][214]

41[215]4[216][ 28]退[217]

サン=レミ(1889年5月-1890年5月)[編集]

サン=レミの療養所の病室。当初ファン・ゴッホは3か月程度の滞在のつもりだったが、36歳から37歳までの1年間、療養生活を送った[221]

18895820 km[222]

使[221][223]6[224]6S姿[225][ 29]使[226][ 30]7[227]

18897822[228][ 31]9[229][ 32]12[230]
ヨーとその子フィンセント・ヴィレム

18891[237]18901[238]13122[239]4[240]退5[241]

189011206[242][243]240020[244]310[245]

調5516退[246]

オーヴェル=シュル=オワーズ(1890年5月-7月)[編集]

ガシェ(当時61歳)は、ホメオパシーを用いる医師であり、マネ、ルノワール、セザンヌ、ピサロ、ギヨマンらと親交を持つ美術愛好家でもあった。
ファン・ゴッホがオーヴェルで宿泊したラヴー旅館の部屋。37歳のファン・ゴッホは、最後の2か月間をここで過ごした。

1890520西30 km[ 33] [249]

[250]6[251]調1[252]682[253][254][ 34]650 cm×100 cm使使[255]
[256]

調630[257][ 35]76[258][ 21]7103[263][ 36]722[ 22]723[265][ 37]