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|説明 = [[明]]代の『[[三才図会]]』における肖像 |
|説明 = [[明]]代の『[[三才図会]]』における肖像 |
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|王朝 = [[後漢]] |
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|称号・役職 = |
|称号・役職 = 前将軍・仮節鉞・漢寿亭侯 |
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|出生 = |
|出生 = 生年不詳 |
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|出身地 = [[河東郡 (中国)|河東郡]][[北解県|解県]]<br /> (現在の[[山西省]][[運城市]][[塩湖区]]解州鎮常平村) |
|出身地 = [[河東郡 (中国)|河東郡]][[北解県|解県]]<br /> (現在の[[山西省]][[運城市]][[塩湖区]]解州鎮常平村) |
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|死去 = [[建安 (漢)|建安]]24年[[12月 (旧暦)|12月]]([[220年]]1月) |
|死去 = [[建安 (漢)|建安]]24年[[12月 (旧暦)|12月]]初旬([[220年]]1月) |
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|死没地 = [[荊州]][[南郡 (中国)|南郡]]臨沮県<br /> (現在の[[湖北省]][[襄陽市]][[南漳県]]) |
|死没地 = [[荊州]][[南郡 (中国)|南郡]]臨沮県<br /> (現在の[[湖北省]][[襄陽市]][[南漳県]]) |
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|ピン音 = Guān Yǔ |
|ピン音 = Guān Yǔ |
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|諡号 = 壮繆侯/忠義侯 [[#死後の関羽と関羽信仰|ほか]] |
|諡号 = 壮繆侯/忠義侯 [[#死後の関羽と関羽信仰|ほか]] |
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|廟号 = |
|廟号 = |
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|別名 = 渾名:髯 |
|別名 = 渾名:髯(ひげ)<br />神号:<br /> 協天大帝関聖帝君([[道教]])<br /> 伽藍菩薩([[仏教]])<br /> 文衡聖帝([[儒教]]) |
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|主君 = [[劉備]] |
|主君 = [[劉備]] |
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|特記事項 = |
|特記事項 = |
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|英文= Kuan Yü<br>Guan Yu |
|英文= Kuan Yü<br>Guan Yu |
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'''関 羽'''(かん う、 |
'''関 羽'''(かん う、? - [[建安 (漢)|建安]]24年[[12月 (旧暦)|12月]]初旬([[220年]]1月)<ref>『三国志』呉志「呉主伝」</ref>)は、[[中国]][[後漢]]末期の武将。[[字]]は'''雲長'''(うんちょう)。もとの字は長生。[[司隷]][[河東郡 (中国)|河東郡]][[北解県|解県]](現在の[[山西省]][[運城市]][[塩湖区]]解州鎮常平村)の人。子は[[関平]]・[[関興]]。孫は[[関統]]・[[関彝]]。 |
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[[蜀漢]]の創始者である[[劉備]]への忠義を貫き、その人並み外れた武勇や義理を重んじた彼は[[曹操]]など同時代の多くの人から称賛された。後漢から贈られた[[封号]]は漢寿亭[[列侯|侯]]。[[諡]]が壮繆侯︵または壮穆侯︶だが、諡号は歴代王朝から多数贈られた︵[[諡#爵諡|爵諡]]を参照︶。死後、後世の人々に神格化され[[関帝]]︵関聖帝君・関帝聖君︶となった。
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[[蜀漢]]の創始者である[[劉備]]への忠義を貫き、その人並み外れた武勇や義理を重んじた彼は[[曹操]]など同時代の多くの人から称賛された。後漢から贈られた[[封号]]は漢寿亭[[列侯|侯]]。[[諡]]が壮繆侯︵または壮穆侯︶だが、諡号は歴代王朝から多数贈られた︵[[諡#爵諡|爵諡]]を参照︶。死後、後世の人々に神格化され[[関帝]]︵関聖帝君・関帝聖君︶となった。
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小説﹃[[三国志演義]]﹄では、﹁'''雲長'''、'''関雲長'''あるいは'''関公'''、'''関某'''と呼ばれ、一貫して[[諱]]を名指しされていない﹂、﹁大活躍する場面が壮麗に描かれている﹂など、前述の関帝信仰に起因すると思われる特別扱いを受けている{{ |
小説﹃[[三国志演義]]﹄では、﹁'''雲長'''、'''関雲長'''あるいは'''関公'''、'''関某'''と呼ばれ、一貫して[[諱]]を名指しされていない﹂、﹁大活躍する場面が壮麗に描かれている﹂など、前述の関帝信仰に起因すると思われる特別扱いを受けている{{Sfn|井波|1994|p=110}}{{Sfn|渡邉|2011a|pp=7-8}}。
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見事な鬚髯︵鬚=あごひげ、髯=ほほひげ︶をたくわえていたため、[[諸葛亮]]からは﹁{{読み仮名|髯|ひげ}} |
{{要出典|三国志正史によると身長は9尺|date=2023年12月}}で見事な鬚髯︵鬚=あごひげ、髯=ほほひげ︶をたくわえていたため、[[諸葛亮]]からは﹁{{読み仮名|髯|ひげ}}﹂と呼ばれ︵蜀書関羽伝︶、﹃三国志演義﹄などでは﹁{{読み仮名|美髯公|びぜんこう}}﹂などとも呼ばれる。
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== 生涯 == |
== 生涯 == |
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=== 劉備に仕える === |
=== 劉備に仕える === |
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出身の司隷河東郡から[[幽州]][[涿郡]]に出奔{{Efn|詳細は不明だが、出身地が中国最大の[[塩湖]]である'''解池'''に近いため、塩の密売に関わっていたという伝説が残る。また地元・山西省の伝承では、暴利をむさぼる塩商人を殺し、官吏に追われ幽州に逃げ、姓名を変えて﹁関羽﹂と名乗ったとも言われる{{ |
出身の司隷河東郡から[[幽州]][[涿郡]]に出奔{{Efn|詳細は不明だが、出身地が中国最大の[[塩湖]]である'''解池'''に近いため、塩の密売に関わっていたという伝説が残る。また地元・山西省の伝承では、暴利をむさぼる塩商人を殺し、官吏に追われ幽州に逃げ、姓名を変えて﹁関羽﹂と名乗ったとも言われる{{Sfn|今泉|2000}}。}}。[[黄巾の乱]]に際し同地で劉備が旗揚げすると、[[張飛]]と共に彼の護衛官を務め、[[簡雍]]・[[田豫]]らと各地を転戦した。劉備が平原の相になると、関羽は張飛と共に別部司馬に任命された。劉備は関羽・張飛に兄弟のように恩愛をかけ、張飛は関羽が年長者であることから兄のように従ったという<ref>﹃三国志﹄蜀志﹁張飛伝﹂</ref>。関羽・張飛は他人の前では、あくまで劉備を主君として立て、仕えた{{Efn|山西省の研究では、関羽は劉備より年上ながら、劉備を兄として仕えたといわれている{{Sfn|今泉|2000}}。}}。
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=== 劉備への忠義を貫き、劉備の元へ帰る === |
=== 劉備への忠義を貫き、劉備の元へ帰る === |
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徐州を得た劉備は[[呂布]]と争い曹操を頼って逃れた。[[建安 (漢)|建安]]3年([[198年]])、曹操が呂布を破った時に関羽は張飛と共に戦功を認められ、曹操から[[中郎将]]に任命された(『華陽国志』劉先主志)。この時に関羽は呂布の部将の[[秦宜禄]]の妻を娶る事を曹操に願い出たが、秦宜禄の妻を見た曹操は自分の側室としてしまった(『蜀記』)。 |
徐州を得た劉備は[[呂布]]と争い曹操を頼って逃れた。[[建安 (漢)|建安]]3年︵[[198年]]︶、曹操が呂布を破った時に関羽は張飛と共に戦功を認められ、曹操から[[中郎将]]に任命された︵﹃華陽国志﹄劉先主志︶。この時に関羽は呂布の部将の[[秦宜禄]]の[[杜氏 (三国時代)|妻]]を娶る事を曹操に願い出たが、秦宜禄の妻を見た曹操は自分の側室としてしまった︵﹃蜀記﹄︶。
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建安4年([[199年]])、劉備は[[献帝]]から密命を受けた[[董承]]と結び曹操に叛旗を起こし徐州刺史の[[車冑]]を殺害し、徐州を占拠した。この時に張飛は劉備と共に小沛に戻り、関羽は[[下邳郡|下邳]]の守備を任され太守の事務を代行した<ref group=注釈>『魏書』によると、関羽が徐州を治めたという。</ref>。 |
建安4年([[199年]])、劉備は[[献帝]]から密命を受けた[[董承]]と結び曹操に叛旗を起こし徐州刺史の[[車冑]]を殺害し、徐州を占拠した。この時に張飛は劉備と共に小沛に戻り、関羽は[[下邳郡|下邳]]の守備を任され太守の事務を代行した<ref group=注釈>『魏書』によると、関羽が徐州を治めたという。</ref>。 |
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=== 死後 === |
=== 死後 === |
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群雄・関羽の首級は、孫権の使者によって曹操の下へ送られ、孫権は諸侯の礼を以て当陽に彼の死体を葬った︵﹃呉歴﹄︶。一方、曹操は諸侯の礼を以て洛陽に彼の首級を葬った︵﹃関羽伝﹄︶。
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群雄・関羽の首級は、孫権の使者によって曹操の下へ送られ、孫権は諸侯の礼を以て当陽に彼の死体を葬った︵﹃呉歴﹄︶。一方、曹操は諸侯の礼を以て洛陽に彼の首級を葬った︵﹃関羽伝﹄︶。関羽に随行した関平を除いて、他の家族は呂蒙に保護されている︵﹃呂蒙伝﹄︶。その中の一人と思われる関興は後に蜀漢の官僚として活躍したが、早世した。
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[[章武]]2年([[222年]])、関羽を殺された劉備は孫権に対して[[夷陵の戦い]]を起こしたが大敗を喫した。 |
[[章武]]2年([[222年]])、関羽を殺された劉備は孫権に対して[[夷陵の戦い]]を起こしたが大敗を喫した。 |
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[[景耀]]3年([[260年]])、蜀漢の2代皇帝[[劉禅]]より壮繆侯<ref group=注釈>「繆」は「武功がならなかった」という意味で、荊州失陥を批判する意味合いになる。「穆」ならば「徳を広め表裏がない」という意味。ただし、{{仮リンク|程敏政|zh|程敏政}}の説によると、「繆」が「穆」の同義として使われたことがあったという。ちくま学芸文庫版の日本語訳では、この説に従い「繆」の字に「ぼく」の[[振り仮名]]を振ってある。</ref>(または壮穆侯)の爵諡を送られた。 |
[[景耀]]3年([[260年]])、蜀漢の2代皇帝[[劉禅]]より壮繆侯<ref group=注釈>「繆」は「武功がならなかった」という意味で、荊州失陥を批判する意味合いになる。「穆」ならば「徳を広め表裏がない」という意味。ただし、{{仮リンク|程敏政|zh|程敏政}}の説によると、「繆」が「穆」の同義として使われたことがあったという。ちくま学芸文庫版の日本語訳では、この説に従い「繆」の字に「ぼく」の[[振り仮名]]を振ってある。</ref>(または壮穆侯)の爵諡を送られた。 |
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関羽の子孫は蜀漢の[[列侯]]の一人として続いたが、[[炎興]]元年([[263年]])に[[鍾会]]らにより[[蜀]]が滅んだ際、龐徳の子であった[[龐会]]が関羽の一族を皆殺しにしたという(『蜀記』)。ただし、[[王隠]]の『蜀記』は非常に創作された逸話が多く、蜀臣の[[陳寿]]、蜀臣の孫である[[常璩]]も関羽の一族が皆殺しにされたという話は史書に残していない。『[[宋書]]』に登場する[[河東郡 (中国)|河東郡]]の関康之{{ |
関羽の子孫は蜀漢の[[列侯]]の一人として続いたが、[[炎興]]元年([[263年]])に[[鍾会]]らにより[[蜀]]が滅んだ際、龐徳の子であった[[龐会]]が関羽の一族を皆殺しにしたという(『蜀記』)。ただし、[[王隠]]の『蜀記』は非常に創作された逸話が多く、蜀臣の[[陳寿]]、蜀臣の孫である[[常璩]]も関羽の一族が皆殺しにされたという話は史書に残していない。『[[宋書]]』に登場する[[河東郡 (中国)|河東郡]]の関康之{{Sfn|今泉|2000}} や[[唐]]代の宰相関播は関羽の末裔とされる<ref>『[[新唐書]]』巻七十五下 宰相世系表</ref>。 |
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唐代には、[[武廟六十四将]]に唐朝以前の中国史を代表する64人の名将として、蜀漢から張飛と共に祀られている。 |
唐代には、[[武廟六十四将]]に唐朝以前の中国史を代表する64人の名将として、蜀漢から張飛と共に祀られている。 |
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現在、関羽62代目の子孫を名乗る[[関新剛]]なる人物が中国に在住するが、関羽の子孫かどうか実際の所は不明である{{ |
現在、関羽62代目の子孫を名乗る[[関新剛]]なる人物が中国に在住するが、関羽の子孫かどうか実際の所は不明である{{Sfn|今泉|2000}}。
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== 人物 == |
== 人物 == |
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{{Lang|zh-tw|評曰 關羽 張飛皆稱萬人之敵 為世虎臣 羽報效曹公 飛義釋嚴顏 並有國士之風 然羽剛而自矜 飛暴而無恩 以短取敗 理數之常也}} |
{{Lang|zh-tw|評曰 關羽 張飛皆稱萬人之敵 為世虎臣 羽報效曹公 飛義釋嚴顏 並有國士之風 然羽剛而自矜 飛暴而無恩 以短取敗 理數之常也}} |
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︵関羽・張飛の2人は、1人で万の兵に匹敵すると賞賛され、当世における虎臣﹃勇猛な家臣﹄であった。関羽は顔良を斬って義を果たし、張飛は[[厳顔]]の義心に感じ入ってその縄目を解き、両者並んで国士の気風があった。しかし、関羽は剛情で自信を持ち過ぎ、張飛は乱暴で情を持たず、両者共その短所により身の破滅を招いた。道理からいって当然である。︶|﹃三國志﹄巻36蜀志6關張馬黄趙傳<ref>{{Cite wikisource|title=三國志/卷36# |
︵関羽・張飛の2人は、1人で万の兵に匹敵すると賞賛され、当世における虎臣﹃勇猛な家臣﹄であった。関羽は顔良を斬って義を果たし、張飛は[[厳顔]]の義心に感じ入ってその縄目を解き、両者並んで国士の気風があった。しかし、関羽は剛情で自信を持ち過ぎ、張飛は乱暴で情を持たず、両者共その短所により身の破滅を招いた。道理からいって当然である。︶|﹃三國志﹄巻36蜀志6關張馬黄趙傳<ref>{{Cite wikisource|title=三國志/卷36#關羽|author=陳壽|wslanguage=zh}}</ref>}}
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[[程昱]]からは「関羽と張飛の武勇は一万の兵に相当する」と評価された(『三国志』魏志「程昱伝」)。 |
[[程昱]]からは「関羽と張飛の武勇は一万の兵に相当する」と評価された(『三国志』魏志「程昱伝」)。 |
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=== 関羽信仰 === |
=== 関羽信仰 === |
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[[ファイル:Guan Yu Statue.jpg|thumb|[[荊州区]]の[[:zh:关公义园|関公義園]]にあった関羽の巨大銅像([[:zh:韓美林|韓美林]]作)]] |
[[ファイル:Guan Yu Statue.jpg|thumb|[[荊州区]]の[[:zh:关公义园|関公義園]]にあった関羽の巨大銅像([[:zh:韓美林|韓美林]]作、現在は取り壊されている)]] |
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[[ファイル:Taiwan 2009 JinGuaShi Historic Gold Mine Valley View Left Page FRD 8822 Giant Statue of GuanYu.jpg|thumb|right|200px|台湾・[[新北市]]の金瓜石にある巨大な関羽像]] |
[[ファイル:Taiwan 2009 JinGuaShi Historic Gold Mine Valley View Left Page FRD 8822 Giant Statue of GuanYu.jpg|thumb|right|200px|台湾・[[新北市]]の金瓜石にある巨大な関羽像]] |
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[[ファイル:God Guan Yu Jinguashi 02.jpg|thumb|台湾・新北市の金瓜石にある巨大な関羽像正面向こう]] |
[[ファイル:God Guan Yu Jinguashi 02.jpg|thumb|台湾・新北市の金瓜石にある巨大な関羽像正面向こう]] |
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[[ファイル:關帝廟.JPG|thumb|right|200px|[[山西省]][[運城市]][[塩湖区]]にある中国でも有数の大きさの解州関帝廟]] |
[[ファイル:關帝廟.JPG|thumb|right|200px|[[山西省]][[運城市]][[塩湖区]]にある中国でも有数の大きさの解州関帝廟]] |
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関羽が死んでから唐代以前までの約400年の間、人々からの注目や人気はさほど高くなかった。例えば[[六朝]]時代の『[[神仙伝]]』、『[[捜神記]]』、『[[拾遺記]]』、『[[世説新語]]』や[[殷芸]]『小説』などといった小説は三国時代の人物に多く触れているが、関羽への言及は皆無に等しい。[[唐]]代になると詩文の中に詠われるようになるが、なお一般的な賛美にとどまっていた{{Sfn|李|1993|pp=41-42}}。また荊州地区における怨霊伝説の一種ともなっている。関羽は「関三郎」という祟りをなす鬼神として{{仮リンク|范攄|zh|范攄}}『雲渓友議』や{{仮リンク|孫光憲|zh|孫光憲}}『北夢瑣言』といった筆記小説に登場しており、後者においては「関妖」という呼称も見られる<ref>{{Cite wikisource|wslink=北夢瑣言/卷十一|title=『北夢瑣言』巻11|wslanguage=zh|quote=唐咸通亂離後,坊巷訛言關三郎鬼兵入城,家家恐悚,罹其患者令人寒熱戰慄,亦無大苦。弘農楊玭挈家自駱谷路入洋源,行及秦嶺,回望京師,乃曰:「此處應免關三郎相隨也。」語未終,一時股慄,斯又何哉夫喪亂之間,陰厲旁作,心既疑矣,邪亦隨之。關妖之說正謂是也。愚幼年曾省故里,傳有一夷迷鬼魘,人,閭巷夜聚以避之,凡有窗隙悉皆塗塞,其鬼忽來即撲人驚魘,須臾而止。}}</ref>{{Sfn|林・黄|2022|pp=94-96}}。しかし[[宋 (王朝)|宋]]代になると、政治的理由(下述)と庶民文化の隆盛に伴って人気が徐々に上昇し、[[元 (王朝)|元]]代では関羽は数多くの雑劇の演目で主役となった{{Sfn|李|1993|pp=42-43}}。[[明]][[清]]時代にはさらに美化と神格化が進み、清代においてはついに「関聖大帝」として聖賢の列に加わり、天子と同様に[[避諱]]の対象となった。元来は悪神であったイメージも[[士大夫]]階級の操作により一転し、関羽を象徴する忠義心をもとに神格化を重ねて、天祐を民に授ける神へと変化した{{Sfn|李|1993|pp=45-47}}。 |
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[[儒教]]では[[五文昌]]の一人﹁文衡聖帝﹂とされて、﹁山西夫子﹂と呼ばれている。封じられた時期ははっきりしない。武より文の面が強調されており、台湾などでは受験の際に礼拝される。
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[[儒教]]では[[五文昌]]の一人﹁文衡聖帝﹂とされて、﹁山西夫子﹂と呼ばれている。封じられた時期ははっきりしない。武より文の面が強調されており、台湾などでは受験の際に礼拝される。
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政治面から見ると、乱世の中で特定の個人に対して忠誠を尽くした関羽は、為政者から見ると賞賛すべき人物であった。そのため、北宋の[[徽宗]]皇帝が爵諡の﹁忠恵公﹂後に﹁武安王﹂として封じ、﹁崇寧真君﹂とした。その後、南宋期には﹁義勇武安王﹂とされたと伝わる。明初には神号﹁協天護国忠義関聖大帝﹂とされてから、[[熹宗]]皇帝が﹁三界伏魔大帝神威遠震天尊関聖帝君﹂に封じ、 |
政治面から見ると、乱世の中で特定の個人に対して忠誠を尽くした関羽は、為政者から見ると賞賛すべき人物であった。そのため、北宋の[[徽宗]]皇帝が爵諡の﹁忠恵公﹂後に﹁武安王﹂として封じ、﹁崇寧真君﹂とした。その後、南宋期には﹁義勇武安王﹂とされたと伝わる。明初には神号﹁協天護国忠義関聖大帝﹂とされてから、[[熹宗]]皇帝が﹁三界伏魔大帝神威遠震天尊関聖帝君﹂に封じ、清代に入ると[[順治帝]]が﹁忠義神武関聖大帝﹂として、後に[[宣統帝]]が﹁忠義神武霊佑仁勇威顕開聖大帝﹂、[[光緒帝]]に至っては﹁忠義神武霊祐仁勇威顕護国保民精誠綏靖翊賛宣徳関聖大帝﹂と次々と追贈している。多くは王朝初期と末期に追贈がされており、政策の一環や国内外の情勢が垣間見える。なお、清朝が公認した関帝信仰は、[[満洲]]を劉備、[[蒙古]]を関羽に準えた兄弟結盟を背景とし、蒙古との関係を維持する目的もあった︵[[徐珂]]﹃清稗類鈔﹄、喪祭類﹁以祀関羽愚蒙﹂︶。
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同時に、清代には県に必ず[[孔子]]を祭る文廟と、関帝を祀る武廟を建立させた。孔子廟が[[中華人民共和国]]初期に多数破壊された結果、現在では[[関帝廟]]が単独で多く各地に残る結果となっている。 |
同時に、清代には県に必ず[[孔子]]を祭る文廟と、関帝を祀る武廟を建立させた。孔子廟が[[中華人民共和国]]初期に多数破壊された結果、現在では[[関帝廟]]が単独で多く各地に残る結果となっている。 |
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[[ファイル:Guanyu.jpg|thumb|200px|[[歌川国芳]]「通俗三国志之内」]] |
[[ファイル:Guanyu.jpg|thumb|200px|[[歌川国芳]]「通俗三国志之内」]] |
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{{see also|三国志#日本における「三国志」観}} |
{{see also|三国志#日本における「三国志」観}} |
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中世期における禅僧の詩文や語録に、関羽にまつわる[[故事]]が散見される{{ |
中世期における禅僧の詩文や語録に、関羽にまつわる[[故事]]が散見される{{Sfn|長尾|2019|pp=69-110|ps=︵初出は{{Harvnb|長尾|2002}}︶}}。
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[[江戸時代]]初期、とりわけ[[林鵞峰]]以降、[[漢詩]]の題材として諸葛亮と共に﹁至忠の烈臣﹂としての﹁関羽﹂像が讃えられた{{ |
[[江戸時代]]初期、とりわけ[[林鵞峰]]以降、[[漢詩]]の題材として諸葛亮と共に﹁至忠の烈臣﹂としての﹁関羽﹂像が讃えられた{{Sfn|長尾|2019|pp=323-350|ps=︵初出は{{Harvnb|長尾|1999a}}︶}}{{Sfn|長尾|2019|pp=351-388|ps=︵初出は{{Harvnb|長尾|1999b}}︶}}{{Sfn|長尾|2019|pp=389-411|ps=︵初出は{{Harvnb|長尾|2004}}︶}}{{Sfn|長尾|2019|pp=473-496|ps=︵初出は{{Harvnb|長尾|2001}}︶}}。
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[[歌舞伎]]の演目に「[[関羽 (歌舞伎)|関羽]]」がある。 |
[[歌舞伎]]の演目に「[[関羽 (歌舞伎)|関羽]]」がある。 |
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* [[董卓]]配下の猛将[[華雄]]を、曹操に勧められた酒が冷めないうちに斬った話 |
* [[董卓]]配下の猛将[[華雄]]を、曹操に勧められた酒が冷めないうちに斬った話 |
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* 張遼に説得され曹操へと投降する際に3つの条件を出す |
* 張遼に説得され曹操へと投降する際に3つの条件を出す |
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* 曹操の元を去るとき、曹操軍の検問に手形がなかったことから見咎められて、6人の将軍を斬り殺して突破した話︵五関突破︶{{Efn|この部分は後から挿入された可能性が高く{{ |
* 曹操の元を去るとき、曹操軍の検問に手形がなかったことから見咎められて、6人の将軍を斬り殺して突破した話︵五関突破︶{{Efn|この部分は後から挿入された可能性が高く{{Sfn|渡邉|2011a|pp=7-8}}{{Sfn|渡邉|2011b|p=88}}、全篇に渡って﹁関公﹂と表記されることが多い﹃三国志平話﹄との関連性が考えられる。}}
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* 孫権軍に処刑されたあと、呂蒙を祟り殺した話 |
* 孫権軍に処刑されたあと、呂蒙を祟り殺した話 |
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など、[[講談]]や元曲・[[京劇]]([[戯曲]])などでの創作が、積極的に取り入れられている。[[五虎大将軍]]の筆頭と位置付けられている。 |
など、[[講談]]や元曲・[[京劇]]([[戯曲]])などでの創作が、積極的に取り入れられている。[[五虎大将軍]]の筆頭と位置付けられている。 |
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=== 研究書類 === |
=== 研究書類 === |
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*『[[三国志 (歴史書)|正史 三国志]]5:蜀書』 |
*[[陳寿]]撰、[[裴松之]] 注『[[三国志 (歴史書)|正史 三国志]]5:蜀書』 [[井波律子]]訳、[[ちくま学芸文庫]]、1993年。{{ISBN|4480080457}} |
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* |
*湖北省群衆芸術美術館編『三国志外伝 : 民間説話にみる素顔の英雄たち』[[立間祥介]]、[[岡崎由美]]訳、[[徳間書店]]、1990年。{{ISBN|9784192243315}} |
||
*{{Cite book|和書|author=[[井波律子]]|title=三国志演義|publisher=[[岩波書店]]|series=[[岩波新書]]|date=1994-08|isbn=9784004303480|ref= |
*{{Cite book|和書|author=[[井波律子]]|title=三国志演義|publisher=[[岩波書店]]|series=[[岩波新書]]|date=1994-08|isbn=9784004303480|ref={{Sfnref|井波|1994}}}} |
||
*{{Cite book|和書|author=[[今泉恂之介]]|title=関羽伝|publisher=[[新潮社]]|series=[[新潮選書]]|date=2000-11|isbn=9784106005954|ref= |
*{{Cite book|和書|author=[[今泉恂之介]]|title=関羽伝|publisher=[[新潮社]]|series=[[新潮選書]]|date=2000-11|isbn=9784106005954|ref={{Sfnref|今泉|2000}}}} |
||
*{{Cite book|和書|author=長尾直茂|title=本邦における三国志演義受容の諸相|publisher=[[勉誠出版]]|date=2019-02|isbn=9784585291794|ref= |
*{{Cite book|和書|author=長尾直茂|title=本邦における三国志演義受容の諸相|publisher=[[勉誠出版]]|date=2019-02|isbn=9784585291794|ref={{SfnRef|長尾|2019}}}} |
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**{{Cite journal|和書|author=長尾直茂|title=江戸時代の漢詩文に見る関羽像:『三国志演義』との関連に於いて|url=http://nippon-chugoku-gakkai.org/wp-content/uploads/2019/09/51-16.pdf|journal=日本中国学会報|issue=51集|publisher=日本中国学会|date=1999-10|pages=223-239|ref={{SfnRef|長尾 |
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**{{Cite journal|和書|author=長尾直茂|title=江戸時代の絵画における関羽像の確立|journal=漢文學 解釋與研究|issue=2輯|publisher=漢文学研究会|date=1999-11|pages=101-136|ref={{SfnRef|長尾 |
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**{{Cite journal|和書|author=長尾直茂|title=近世における『三国志演義』:その翻訳と本邦への伝播をめぐって|journal=國文學・解釈と教材の研究|volume=46|issue=7|publisher=[[学燈社]]|date=2001-6|pages=65-73|ref= |
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**{{Cite journal|和書|author=長尾直茂|title=中世禅林における関羽故事の受容:「百万軍中取顔良」故事と関羽所用の大刀をめぐる一考察|journal=漢文學 解釋與研究|issue=5輯|publisher=漢文学研究会|date=2002-12|pages=29-64|ref= |
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*{{Cite book|和書|author=[[渡邉義浩]]|title=三国志:演義から正史、そして史実へ|date=2011-03|publisher=[[中央公論新社]]|series=[[中公新書]]|isbn=9784121020994|ref={{SfnRef|渡邉 |
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*{{Cite book|和書|author=渡邉義浩|title=関羽:神になった「三国志」の英雄|date=2011-10|publisher=[[筑摩書房]]|series=[[筑摩選書]]|isbn=9784480015280|ref={{SfnRef|渡邉 |
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*{{Cite journal|和書|author1=林玲|author2=黄景春|title=従関羽到関索:関三郎信仰的生成与転変|journal=広西民族大学学報(哲学社会科学版)|issue=2|date=2022|pages=94-100, 105頁|ref={{Sfnref|林・黄|2022}}}} |
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*{{Cite journal|和書|author=李恵明|title=伝神文筆写関公——関羽芸術形象神聖化之歴史変遷|journal=上海師範大学学報|issue=2期|date=1993|pages=41-47|ref={{Sfnref|李|1993}}}} |
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2024年6月19日 (水) 07:12時点における最新版
関羽 | |
---|---|
後漢 前将軍・仮節鉞・漢寿亭侯 | |
出生 |
生年不詳 河東郡解県 (現在の山西省運城市塩湖区解州鎮常平村) |
死去 |
建安24年12月初旬(220年1月) 荊州南郡臨沮県 (現在の湖北省襄陽市南漳県) |
拼音 | Guān Yǔ |
字 | 雲長 |
諡号 | 壮繆侯/忠義侯 ほか |
別名 |
渾名:髯(ひげ) 神号: 協天大帝関聖帝君(道教) 伽藍菩薩(仏教) 文衡聖帝(儒教) |
主君 | 劉備 |
関 羽 | |
---|---|
各種表記 | |
繁体字: | 關羽/關羽 |
簡体字: | 关羽 |
拼音: | Guān Yǔ |
注音符号: | ㄍㄨㄢ ㄩˇ |
ラテン字: | Kuan1 Yu3 |
発音: | グァン・ユー |
広東語拼音: | Gwaan1 Jyu5 |
日本語読み: | かん う |
英文: |
Kuan Yü Guan Yu |
生涯[編集]
道教 |
---|
基礎 |
道教の歴史 · 道 · 徳 · 無極 · 太極 · 陰陽 · 五行 · 気 · 内丹術 · 無為 · 道観 · 道士 |
典籍 |
老子道徳経 · 荘子南華真経 · 列子 · 参同契 · 抱朴子 · 黄庭経 · 度人経 · 清静経 · 雲笈七籤 · 道蔵 |
神仙 |
三清 · 玉皇大帝 · 黄帝 · 西王母 · 七仙女 · 八仙 · 関羽 · 嫦娥 · 媽祖 · 鍾馗 · 雷公 · 電母 · 無極五母 · 北斗星君 · 九天応元雷声普化天尊 · 南斗星君 · 北極紫微大帝 · 太上道君 · 素娥 · 南極老人 · 五毒将軍 · 劉猛将軍 · 赤精子 · 五瘟使者 · 二十四諸天 · 二十八天 · 寿老人 · 太上老君 · 嫦娥 · 九天玄女 · 龍王 · 他の神 |
人物 |
老子 · 荘子 · 張陵 · 張角 · 魏伯陽 · 葛洪 · 許遜 · 寇謙之 · 陸修静 · 陶弘景 · 孫思邈 · 陳摶 · 五祖七真 · 王重陽 · 丘長春 · 張三丰 |
宗派 |
五斗米道 · 霊宝派 · 上清派 · 重玄派 · 浄明道 · 全真教 · 正一教 · 華山派 |
聖地 |
洞天 · 桃源郷 · 壺中天 · 蓬萊 · 道教名山 · 仙境 · 龍宮 · 福徳島 |
カテゴリ |
劉備に仕える[編集]
劉備への忠義を貫き、劉備の元へ帰る[編集]
徐州を得た劉備は呂布と争い曹操を頼って逃れた。建安3年︵198年︶、曹操が呂布を破った時に関羽は張飛と共に戦功を認められ、曹操から中郎将に任命された︵﹃華陽国志﹄劉先主志︶。この時に関羽は呂布の部将の秦宜禄の妻を娶る事を曹操に願い出たが、秦宜禄の妻を見た曹操は自分の側室としてしまった︵﹃蜀記﹄︶。 建安4年︵199年︶、劉備は献帝から密命を受けた董承と結び曹操に叛旗を起こし徐州刺史の車冑を殺害し、徐州を占拠した。この時に張飛は劉備と共に小沛に戻り、関羽は下邳の守備を任され太守の事務を代行した[注釈 3]。 建安5年︵200年︶、劉備が東征してきた曹操の攻撃を受けて敗れ、下邳に撤退せず北上し袁紹の元に逃げると関羽は夏侯博や劉備の妻子と共に曹操に捕らわれた。曹操は献帝を庇護しており、献帝の下にあった。関羽は劉備の元へ帰るまでの期間﹁漢王朝︵献帝︶に降る﹂という名目の上で、曹操に降伏するのではなく一時的な賓客となり、漢王朝より偏将軍に任命された。官渡の戦い︵漢王朝︵曹操側︶と袁紹の戦争︶に関羽も漢王朝側の武将として参加し、関羽は呂布の降将の張遼と共に白馬県を攻撃していた袁紹の将の顔良の攻撃を命じられた。関羽は顔良の旗印と車蓋を見ると、馬に鞭打って突撃し顔良を刺殺し、その首を持ち帰った。この時、袁紹軍の諸将で相手になる者はいなかったという︵白馬の戦い︶。曹操は即刻上表して、漢寿[注釈 4]亭侯に封じた。 曹操は関羽の人柄と武勇を高く評価していたが、関羽が自分に正式に降伏する心算は無いと思い、張遼に依頼して関羽に質問させたが、関羽は劉備を裏切ることは無い事と、曹操への恩返しが済んだら立ち去る心算である事を述べた。そのことを張遼から聞いていた曹操は関羽の義心に感心したという。 顔良を討ち取るという功を立てた関羽は必ずや劉備の元に戻ると曹操は考え、関羽に重い恩賞を与えた。関羽はこれらの賜り物に封をし、曹操に手紙を捧げて別れを告げ、袁紹に身を寄せた劉備の元へ去った。曹操はその義に感嘆し、関羽を追いかけようとする部下に対し、彼を追ってはならないと言い聞かせた。その後関羽は劉備と再会し、劉備の元へ帰った。荊州を預かる[編集]
劉備が袁紹の元を去って荊州の劉表の元に身を寄せると、関羽も同行した。 建安13年︵208年︶、劉備が襄陽の名士の諸葛亮を三顧の礼で迎え重用するようになると、張飛と共に不満を覚えたが、劉備は自分と諸葛亮との関係は、魚が水を欲するようなものである︵水魚の交わり︶と述べたという︵﹃三国志﹄蜀志﹁諸葛亮伝﹂︶。 同年、劉表が病死し曹操が荊州に侵攻すると、樊の地より南下して江陵を目指した劉備の指示で数百隻の船団からなる別働隊の指揮を執った。途中、長坂の当陽で曹操軍の追撃を受けた劉備は敗北し漢津に逃れ、関羽の船団と合流し難を逃れ、共に夏口に向かった︵長坂の戦い︶。魯粛、諸葛亮を介して孫権が劉備に援軍を出すと、劉備・孫権軍は赤壁で曹操軍を破り、曹操は荊州制圧を諦めて撤退した︵赤壁の戦い︶。 建安14年︵209年︶、荊州の南郡攻防戦では北道を封鎖したが、李通が手勢を率いてこれを攻撃し曹仁を救い出した。また、漢津で徐晃と満寵の攻撃を受けた︵﹃三国志﹄魏志﹁徐晃伝﹂︶。︵﹃三国志﹄魏志﹁李通伝﹂︶。劉備は江南の諸郡を平定すると、関羽のそれまでの功績を評価し、襄陽太守[注釈 5]・盪寇将軍に任命した。関羽は長江の北の守備を任された。 劉備が益州に入ると︵劉備の入蜀︶、関羽は諸葛亮と共に荊州の守備を任された。後に劉備が益州を攻撃すると諸葛亮は張飛・趙雲らと益州入りし、荊州の留守は関羽が預かることとなった。この頃、襄陽に駐屯していた曹操配下の楽進と襄陽郊外の青泥まで進出して対峙してたがその攻撃をうけて蘇非と共に逃走している。このとき文聘が関羽の輜重、軍船を焼いている︵﹃三国志﹄蜀志﹁先主伝﹂、魏志﹁楽進伝﹂﹁文聘伝﹂︶。荊州刺史の傅羣の主簿の楊儀が降ってくると、関羽は楊儀を功曹に任命して、劉備の元に使者として派遣している︵﹃三国志﹄蜀志﹁楊儀伝﹂︶。 劉備が益州を征服すると関羽の功績は張飛・諸葛亮と同等と評価され︵﹃三国志﹄蜀志﹁張飛伝﹂︶、関羽は荊州の軍事総督に任命された[注釈 6]。しかし同僚の糜芳・士仁とは関羽が両者を軽んじていたことから隙があった。また州の事務を一任された荊州治中の潘濬とは親交を結ぶことはなかった (﹃季漢輔臣賛﹄、﹃三国志﹄呉志﹁潘濬伝﹂︶。孫権との衝突[編集]
建安20年︵215年︶、荊州領有を巡る争いが解決しないことに業を煮やした孫権の命令で呂蒙らが長沙・桂陽・零陵の三郡を襲撃すると、呂蒙の謀略により郝普は呉に降伏した。それをうけて関羽は3万の兵を指揮して益陽に布陣。劉備も自ら大軍の指揮を執って関羽の助勢に駆けつけ、一時は劉・孫同盟の崩壊の危機に至った︵﹃三国志﹄蜀志﹁先主伝﹂︶。だが、関羽と通じた長沙郡の安成・攸・茶陵の三県と、揚州廬陵郡の永新県の官吏らが桂陽の陰山城で謀反を起こし、長沙郡の安成県令の呉碭と中郎将の袁龍が関羽と機略を通じ再び反乱を起こした︵﹃三国志﹄呉志﹁呂岱伝﹂︶。さらにこの年、曹操が自ら大軍の指揮を執って漢中の張魯を攻撃したことなど、これらが両陣営に和平の機運をもたらし、関羽と魯粛の対談が実現した︵単刀赴会︶。会談は孫権側の魯粛のペースで進行し、関羽はしばしばやり込められた︵﹃三国志﹄呉志﹁魯粛伝﹂︶。結局、湘水を境界線とし、長沙・江夏・桂陽は孫権領に、南郡・武陵、そして一度は奪われた零陵が劉備領となった︵﹃三国志﹄蜀志﹁先主伝﹂︶。 建安22年︵217年︶の魯粛の死後、陸口に赴任した呂蒙は、関羽を警戒する計画をひそかにめぐらしていたが、表面的にはこれまで以上に関羽と親密に接した︵﹃三国志﹄呉志﹁呂蒙伝﹂︶。しかし、関羽の荊州での統治ぶりは恩徳と威信がよく行き渡っていたため、なかなか機会を得ることができなかった︵﹃三国志﹄呉志﹁陸遜伝﹂︶。 あるとき、孫権から関羽に対し、関羽の娘[注釈 7] に、孫権の子との婚姻の申し入れがあった時、関羽はこれを断り[注釈 8][注釈 9]、孫権を怒らせた。樊城の戦いと最期[編集]
死後[編集]
群雄・関羽の首級は、孫権の使者によって曹操の下へ送られ、孫権は諸侯の礼を以て当陽に彼の死体を葬った︵﹃呉歴﹄︶。一方、曹操は諸侯の礼を以て洛陽に彼の首級を葬った︵﹃関羽伝﹄︶。関羽に随行した関平を除いて、他の家族は呂蒙に保護されている︵﹃呂蒙伝﹄︶。その中の一人と思われる関興は後に蜀漢の官僚として活躍したが、早世した。 章武2年︵222年︶、関羽を殺された劉備は孫権に対して夷陵の戦いを起こしたが大敗を喫した。 景耀3年︵260年︶、蜀漢の2代皇帝劉禅より壮繆侯[注釈 15]︵または壮穆侯︶の爵諡を送られた。 関羽の子孫は蜀漢の列侯の一人として続いたが、炎興元年︵263年︶に鍾会らにより蜀が滅んだ際、龐徳の子であった龐会が関羽の一族を皆殺しにしたという︵﹃蜀記﹄︶。ただし、王隠の﹃蜀記﹄は非常に創作された逸話が多く、蜀臣の陳寿、蜀臣の孫である常璩も関羽の一族が皆殺しにされたという話は史書に残していない。﹃宋書﹄に登場する河東郡の関康之[4] や唐代の宰相関播は関羽の末裔とされる[7]。 唐代には、武廟六十四将に唐朝以前の中国史を代表する64人の名将として、蜀漢から張飛と共に祀られている。 現在、関羽62代目の子孫を名乗る関新剛なる人物が中国に在住するが、関羽の子孫かどうか実際の所は不明である[4]。人物[編集]
﹃春秋左氏伝﹄を好み、ほぼ暗誦できた[8]。 219年に龐徳から毒矢を受けた際[9]、骨にまで毒が染み込んでいたために、肘を切開して毒が染み込んだ部分を削り取らせたことがあったが、宴会の最中であったにもかかわらずその場で切開させ、痛むそぶりも見せずに酒や肉を飲食し、平然と談笑していたという[注釈 16]。 自信過剰なために、部下には優しいが同僚を軽んじることがあり、南郡太守の糜芳、将軍の士仁は関羽と隙があり、荊州治中の潘濬とは親交を結ぼうとしなかった。彼らは孫権に降伏し、呉蜀間で裏切り者として笑い者になったという[10]。また張飛とともに諸葛亮の厚遇振りを悦ばなかったが劉備に説得されると態度を改めたという。 黄忠が後将軍に任じられた際、﹁あんな老兵と同格になれるか﹂と不満を表し、前将軍への就任を拒否しようとしたが、使者である費詩に君臣間のありようを説かれ諌められると彼の言葉に大いに感じ入り、過ちを悟って即座に拝命した︵﹃三国志﹄蜀志﹁費詩伝﹂︶。 敵方でありながら張遼・徐晃とは親交があり、彼らとは互いに尊敬しあっており﹃傅子﹄では張遼は関羽を兄弟と呼び、﹃蜀記﹄では関羽は徐晃を大兄と呼んでいる。評価[編集]
﹃三国志﹄を著した陳寿は、關張馬黄趙傳の最後に関羽・張飛2人の人物評をこうまとめている。 評曰 關羽 張飛皆稱萬人之敵 為世虎臣 羽報效曹公 飛義釋嚴顏 並有國士之風 然羽剛而自矜 飛暴而無恩 以短取敗 理數之常也 ︵関羽・張飛の2人は、1人で万の兵に匹敵すると賞賛され、当世における虎臣﹃勇猛な家臣﹄であった。関羽は顔良を斬って義を果たし、張飛は厳顔の義心に感じ入ってその縄目を解き、両者並んで国士の気風があった。しかし、関羽は剛情で自信を持ち過ぎ、張飛は乱暴で情を持たず、両者共その短所により身の破滅を招いた。道理からいって当然である。︶ — ﹃三國志﹄巻36蜀志6關張馬黄趙傳[11] 程昱からは﹁関羽と張飛の武勇は一万の兵に相当する﹂と評価された︵﹃三国志﹄魏志﹁程昱伝﹂︶。 郭嘉も同様に張飛・関羽は共に一万の兵に匹敵するとし、劉備の為に死を以て働いていると評した︵﹃傅子﹄︶。 董昭は関羽・張飛は劉備の羽翼であり恐れるべきであると評した︵﹃三国志﹄魏志﹁董昭伝﹂︶。 章武元年︵221年︶、劉備が呉に報復を行うかを曹丕︵文帝︶が臣下に諮った際に、臣下は﹁蜀は小国で、名将と呼べるのは関羽1人でございました︵その関羽と荊州を失った以上、蜀には戦う力が無いので、報復など行えない︶﹂と答えている︵﹃三国志﹄魏志﹁劉曄伝﹂︶。また、同じ劉曄伝には﹁勇三軍に冠とする将たり﹂ともある。 ﹃傅子﹄には、張飛と共にその武勇と義は天下に知れ渡っており、諸葛亮と合わせに人傑であって、この三人が劉備を助けているのだから蜀を平定できないわけがないと語られている。 また周瑜は関羽を張飛と共に熊虎之将であり、劉備から切り離し自らが使わしめば、大事を定めることも可能であるとした︵﹃三国志﹄呉志﹁周瑜伝﹂︶。 呂蒙は関羽は勇猛であり敵とするのは難かしく、荊州を治めて恩信を大いに行き届かせていると陸遜に語っている︵﹃三国志﹄呉志﹁陸遜伝﹂︶。 袁準は張飛と共に劉備を支え爪牙となった腹心の武人であるとした︵﹃袁子﹄︶。 一方、廖立からは﹁︵荊州を攻めるに当たって︶自分の勇名を恃んで猪突猛進したため、前後の戦役︵樊城・夷陵︶でたびたび兵を失う原因となった﹂と批判された。関羽信仰[編集]
京劇における関羽[編集]
日本における「関羽」像[編集]
三国志演義での立場[編集]
関羽を主題とした作品[編集]
- 映画
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