赤道ギニア
- 赤道ギニア共和国
- República de Guinea Ecuatorial(スペイン語)
République de Guinée Équatoriale
(フランス語)
República da Guiné Equatorial(ポルトガル語) -
(国旗) (国章) - 国の標語:Unidad, Paz, Justicia
(スペイン語: 統一、平和、正義) - 国歌:Caminemos pisando las sendas de nuestra inmensa felicidad(スペイン語)
我らの大いなる幸福の道を、さあ歩もう -
公用語 スペイン語(第一公用語)
フランス語(第二公用語)
ポルトガル語(第三公用語)首都 マラボ 最大の都市 バタ - 政府
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大統領 テオドロ・オビアン・ンゲマ・ムバソゴ 第一副大統領 テオドロ・ンゲマ・オビアン 首相 マヌエラ・ロカ・ボテイ - 面積
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総計 28,051km2(141位) 水面積率 極僅か - 人口
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総計(2022年) 1,679,172人(154位)[1] 人口密度 59.9人/km2 - GDP(自国通貨表示)
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合計(2020年) 5兆7684億4000万[2]CFAフラン - GDP(MER)
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合計(2020年) 100億3600万[2]ドル(140位) 1人あたり 7136.81(推計)[2]ドル - GDP(PPP)
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合計(2020年) 251億6800万[2]ドル(128位) 1人あたり 1万7897.005(推計)[2]ドル
独立
- 日付スペインより
1968年10月12日通貨 CFAフラン(XAF) 時間帯 UTC(+1) (DST:なし) ISO 3166-1 GQ / GNQ ccTLD .gq 国際電話番号 240
概要[編集]
リオ・ムニは北はカメルーン、南と東はガボンと接する。首都のマラボはビオコ島に位置している。 大陸部分に海外領土ではない領土を持ち、首都が島に存在する国は赤道ギニアとデンマークのみである︵海外領土も含める場合は他にジブラルタルを領有するイギリスがある︶。なお、ポルトガル語公用語アフリカ諸国及びフランコフォニー国際機関に加盟している国家の一つともなっている。 気候は高温多湿の熱帯性気候である。 1992年の原油生産開始以降、急速に経済成長が進み、2017年には後発発展途上国の指定を解除されたものの[3]、貧富の差やガバナンスに多大な問題があることが指摘されている。 独立時から1979年までフランシスコ・マシアス・ンゲマによる一党制が敷かれ、反知性主義、腐敗の深刻さ、経済崩壊︵マシアスは中央銀行から資金を﹁調達、または稼いでいた﹂とされている︶で﹁アフリカのダッハウ﹂という異名を持った程の恐怖政治を敷いた。このような国民を無視した放漫的政策は、甥のテオドロ・オビアン・ンゲマまでを激怒させ、1979年にマシアスは失脚、現在までオビアンが大統領に居続けている。近年、副大統領を務めるテオドロ・ンゲマ・オビアン=マンゲの政治的台頭が著しい。国名[編集]
正式名称はスペイン語で República de Guinea Ecuatorial ︵レプブリカ・デ・ギネア・エクアトリアル︶ フランス語で République de Guinée Équatoriale ︵レピュブリク・ドゥ・ギネ・エクアトリヤル︶ ポルトガル語で República da Guiné Equatorial ︵レプブリカ・ダ・ギネー・エクアトリアル︶ 公式の英語表記は、 Republic of Equatorial Guinea ︵リパブリック・オヴ・エクワトーリアル・ギニー︶ 日本語表記は、正式名称赤道ギニア共和国、通称赤道ギニア。赤道上に領土を持たないが、南半球にあるアンノボン島と他の領土の間の海上に赤道が通っている。西アフリカのギニアと区別し、かつ首都マラボがあるビオコ島がギニア湾に浮かぶことから赤道に近いギニアとして名づけられた。歴史[編集]
独立前[編集]
独立後[編集]
1968年10月12日、スペイン領ギニアのフェルナンド・ポー県とリオムニ県は統合したまま赤道ギニア共和国として独立し、首都はリオムニにあるバタとなった。そしてフランシスコ・マシアス・ンゲマ︵以下マシアス︶が初代大統領に就任した。1969年に首都がリオムニにあるバタからフェルナンド・ポー島のサンタ・イサベルに移った。マシアス・ンゲマは独立後すぐに恐怖政治を敷き、1970年に自身の与党労働者国民統一党以外の政党活動を禁止し、1972年には終身大統領を宣言、独裁体制を固めた[8]。マシアスは国内では反対派への弾圧や殺害を行い、また国民の外国との接触を極度に制限する一種の鎖国政策を敷いて、すべての諸外国から孤立した。国民のおよそ3分の1にあたる10万人が難民として国外に脱出し[10]、さらに、1975年にはカカオ農園でのナイジェリア人労働者の虐殺事件が発生し、これに抗議したナイジェリア政府が労働者の引き上げを決定したため、経済も困窮した[10]。1973年から1979年にマシアス・ンゲマ政権が進める改名運動に基づき、フェルナンド・ポー島からビオコ島と改名され、1973年に首都名もサンタ・イサベルからマラボに改名された。 1979年8月、フランシスコの甥のテオドロ・オビアン・ンゲマ︵以下ンゲマ︶がクーデターを起こし、マシアスを処刑して大統領に就任、軍事政権を敷いた。1982年に民政移管などを定めた新憲法を採択したが、クーデター未遂が頻発した。1987年、ンゲマの一党独裁の政権党として赤道ギニア民主党︵以下PDGE︶が結成され、1989年ンゲマは3選された[6]。 民主化を要求するスペイン、フランス、アメリカ合衆国の圧力を受け、1991年11月に複数政党制を認めた新憲法が国民投票で承認されたが、大統領の免責規定などに野党勢力は反発し1993年の総選挙は野党の大半がボイコットする中、PDGEが大勝した[11]。1996年2月の大統領選も野党はボイコットし、ンゲマが得票率99%で4選された。1997年6月、政府は最大野党赤道ギニア進歩党党首のセベロ・モト・ンサに武器密輸容疑をかけ、進歩党の政治活動を禁止したため、モト・ンサはスペインに亡命し、裁判所は8月、国家反逆罪で彼に懲役101年の判決を下した。 1999年3月の総選挙でPDGEが80議席中75議席を獲得。残り4議席を人民同盟、1議席を社会民主連合が獲得。11月に赤道ギニア進歩党 (PPGE) など6つの反政府野党が民主化促進を掲げ、野党連合である民主野党戦線を結成。2002年12月の大統領選で野党4候補がボイコットし、ンゲマが得票率97.1%で5選された。2004年3月にはイギリス陸軍の特殊空挺部隊にかつて属していたサイモン・マンが首謀し、ンゲマを追放してモト・ンサを大統領へ据えるクーデター計画が発覚したが、傭兵部隊と共にマンがジンバブエで逮捕されて計画は未遂に終わった︵マンは赤道ギニアへ移送され、裁判で禁固34年の刑を受けた[12]が、2008年に恩赦で釈放された︶。ンゲマは旧宗主国のスペインが関与したとして、国際連合総会でスペインを激しく批判した。またイギリスの元首相マーガレット・サッチャーの息子であるマークが傭兵に資金を提供したとしてケープタウンで逮捕された︵後に司法取引で釈放︶。 2009年の大統領選でもンゲマは得票率95%で再選された[13]。2016年、ンゲマは大統領に6期目の就任を果たした[14]。政治[編集]
国家元首である大統領は国民による直接選挙で選出され任期は7年と長く、また再選制限がない。大統領は強大な権力を憲法により保障されている。
国際関係[編集]
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日本との関係[編集]
国家安全保障[編集]
地方行政区分[編集]
主要都市[編集]
地理[編集]
気候[編集]
赤道ギニアの気候はビオコ島、リオ・ムニともに熱帯モンスーン気候 (Am) に属し、短い乾季がある。リオ・ムニの雨季は2月から6月、9月から12月で内陸より海岸部で雨が多い。バタでの年間雨量は2,400mm、カラトラバでは4,000mmに達することがある。内陸のミコメセングでは1,300mmである。ビオコ島より気温は低く、湿度が高い。 ビオコ島の乾季は11月から3月である。年間平均気温は25度で気温変化は少なく、空は一日中どんよりしている。南部で特に雨が多く、サン・アントニア・デ・ウレカではモンスーンにより年間11,000mmの雨がもたらされることがある[5]。経済[編集]
交通[編集]
2,880 km(1,790マイル)の高速道路がある。その大部分は2002年まで舗装されていなかったが、近年から徐々に改善されて来ている。
最近ではバタとオビアン・ンゲマ大統領国際空港を結ぶ長さ175 kmの2車線高速道路を建設し、ガボンとの国境にあるモンゴモ市へ接続する計画が上がっており、同国はその計画の実行へ向けて動き出している。
梅雨の時期には四輪駆動車がないと道路が通行できないことがよくあり、現在も問題となっている面がある[38]。
鉄道[編集]
赤道ギニア国内に鉄道は存在していない。
空港[編集]
国民[編集]
人口[編集]
民族[編集]
言語[編集]
宗教[編集]
宗教は大部分がキリスト教で、中でもローマ・カトリックが最も多く、人口の79.9%(2000年)を占めている[26]。
教育[編集]
保健[編集]
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治安[編集]
赤道ギニアでは2017年12月にクーデター未遂が発生し、その後は街頭の要所に治安当局者が配置されているがひったくりや強盗などの一般犯罪が依然として多発しており、注意が必要とされている[46]。この節の加筆が望まれています。 |
人権[編集]
赤道ギニアでは人権侵害が問題となっている。その内容は「治安部隊による民間人の殺害」の報告の増加傾向をはじめ、政府が拉致や誘拐を容認している点、治安部隊による囚人と被拘禁者の組織的な拷問など多数である。
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マスコミ[編集]
赤道ギニアにおけるメディアは現在まで国家運営されており、言論の自由と報道の自由に対して制限が掛けられている。
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文化[編集]
食文化[編集]
文学[編集]
赤道ギニアではサハラ以南のアフリカ地域において、唯一のスペインの植民地となっていた点からスペイン語文学の系統を受け継ぐ面を持つ。
1778年から1968年までの植民地時代にスペイン語文学の伝統を発展させ、現在に至っている。この為に赤道ギニアの文学はアフリカ諸国の中でも独特なものとなっている。
音楽[編集]
ポピュラー音楽においては、宗主国のスペインで活躍したビオコ島出身のブビ系の女性デュオイハス・デル・ソルが特筆される。
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世界遺産[編集]
現在、世界遺産となるものは存在していない。
祝祭日[編集]
日付 | 日本語表記 | スペイン語表記 | 備考 |
---|---|---|---|
1月1日 | 元日 | Año Nuevo | |
5月1日 | メーデー | Día del Trabajo | |
6月5日 | 共和国大統領の誕生日 | Natalicio del Presidente de la República | |
8月3日 | 解放クーデターの日 | Día del Golpe de Libertad | |
8月15日 | 憲法記念日 | Día de la Constitución | |
10月12日 | 独立記念日 | Día de la Independencia | |
12月8日 | 無原罪の聖母の祭日 | Festividad de la Inmaculada Concepción | |
12月10日 | 人権の日 | Día de los Derechos Humanos | |
12月25日 | クリスマス | Navidad |
スポーツ[編集]
サッカー[編集]
赤道ギニアではサッカーが圧倒的に1番人気のスポーツとなっており、1979年にサッカーリーグの赤道ギニア・プリメーラディビシオンが創設された。赤道ギニアサッカー連盟によって構成されるサッカー赤道ギニア代表は、これまでFIFAワールドカップには未出場となっている。しかしアフリカネイションズカップには3度出場しており、自国開催となった2015年大会ではベスト4の成績を収めた。
オリンピック[編集]
赤道ギニアはオリンピックには、1984年ロサンゼルス五輪以降すべての大会に参加しているがメダル獲得経験はない。同国は全般的にスポーツは強くなく、練習環境も整っていない。その状況を象徴するかのように、2000年シドニー五輪においては水泳で初出場したエリック・ムサンバニが、他選手よりもはるかに遅いタイムながら泳ぎ切って話題となった[47]。
著名な出身者[編集]
- リカルド・マンゲ・オバマ・ンフベア - 政治家
- ミゲル・アビア・ビテオ・ボリコ - 政治家
- マーティン・プエ - ビオコ自治運動指導者
- エリック・ムサンバニ - 水泳選手
- ハビエル・バルボア - 元サッカー選手
- ペドロ・オビアング - サッカー選手
- ぺピン - サッカー選手
- カルロス・アカポ - サッカー選手
- エミリオ・エンスエ - サッカー選手
脚注[編集]
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 政府
- 赤道ギニア共和国政府(スペイン語)(英語)
- 日本政府
- 日本外務省 - 赤道ギニア(日本語)
- その他
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