天台座主
天台座主︵てんだいざす︶は、日本の仏教天台宗の総本山である比叡山延暦寺の貫主︵住職︶で、天台宗の諸末寺を総監する役職。﹁山の座主﹂とも呼ばれた。ただし、比叡山に居住することは少なく、重要な修法、儀式の時のみ入山する座主が多かった。
沿革[編集]
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天長元年︵824年︶に義真が初めて天台座主を称した。2世円澄までは延暦寺内の私称であったが、3世の円仁からは太政官が官符をもって任命する公的な役職となり、明治4年︵1871年︶まで続いた。1人で複数回任命されることも多く、慈円や尊円法親王などは4度、天台座主に就いている。
中世になると、摂家門跡、宮門跡の制度が整えられ、とりわけ妙法院・青蓮院・三千院︵天台三門跡︶から法親王が天台座主として就任することが多くなった。また、室町時代には足利将軍家からも出ている。天台座主となった後に還俗し、将軍となった例として、尊雲法親王︵還俗して護良親王︶や、義円︵還俗して足利義教︶などがある。
元亀2年︵1571年︶、正親町天皇の皇弟である覚恕が織田信長による比叡山焼討ちにより甲斐国へと追われていたため、一部の比叡山僧が甲斐の戦国大名武田信玄より保護を受けた。
江戸時代になると、幕府によって東国の天台宗の大寺院として日光の日光山輪王寺と江戸上野の東叡山寛永寺︵開山は天海︶が建立されて、輪王寺は宮門跡とされた︵輪王寺宮、日光門跡︶。明暦2年︵1656年︶以降は、輪王寺宮は日光山と東叡山の門跡を兼務し、天台座主にも就任し、﹁三山管領宮﹂と呼ばれた。これは、輪王寺宮が天台座主にも就任した意であり、三職を兼務するという意味でない。例えば、江戸時代、尭延法親王は妙法院門跡から、尊融入道親王は青蓮院門跡から、昌仁法親王は梶井門跡から天台座主に就任した。また、公現入道親王は天台座主職にはなかった。
明治4年︵1871年︶をもって太政官による任命は廃止され、天台座主そのものも無くなったが、天台宗内外に復活を望む声は多く、明治17年︵1885年︶より再び私称として復活した。現在の天台座主は、第258世の大樹孝啓︵おおき こうけい、2021年11月22日‐[1]︶。
歴代の座主の補任記録、修法、行事、事件の記録などは﹃天台座主記﹄に残されている。