コンテンツにスキップ

「太政官」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
→‎明治の太政官制: リンク調整
タグ: サイズの大幅な増減 モバイル編集 モバイルウェブ編集 改良版モバイル編集
61行目: 61行目:



<!--  p.111 --><ref>[[]]![[]]1996p. 111</ref>{{Efn|[[]]}}

<!--  p.111 --><ref>[[]]![[]]1996p. 111</ref>{{Efn|[[]]}}

== 近代 ==


[[File:Tokyo Public Offices.jpg|thumb|320px|[[ (3)]]]]

[[ファイル:太政官印.png|thumb|right|220px|太政官の印]]


''''''''''''[[]][[]]4/[[]][[1868]][[]][[]][[]][[]]使18[[1885]][[ ()|]]

=== 官制 ===


418

==== 三職 ====


3[[129 ()|129]][[1868]][[13]][[ ()|]][[]][[]][[]][[|]][[]][[]][[]]'''[[#|]]'''[[]][[|]]'''[[]]'''[[]]2[[]]3[[|]][[|]][[|]][[|]][[|]][[]]10'''[[#|]]'''55320''''''


41[[|]][[|]][[]]2[[]][[|]][[|]]''''''[[]][[]]


4214186837<ref>[{{NDLDC|787614/3}}  ][[]]</ref>

{{quotation|<poem>{{kyujitai|二月十四日 午の半&#xe0101;刻より申の刻までに [[大坂]][[西本願寺]]に於&#xe0101;て


[[醍醐忠順|醍醐大納&#xe0101;言]]殿 [[東久世通禧|東久世]]前少將殿 [[伊達宗城|宇和嶋]]少將殿 各國公&#xe0101;使&#xe0101;と應接の始末 左の如し


  但 外國事務係 及&#xe0101;び 諸&#xe0100;藩[[家老]]列座


東久世殿發話 我日本 政體復古


帝󠄁自ら政權を握し 外國の交&#xe0101;際も 一切朝廷&#xe0101;にて曳請&#xe0101; 裁判&#xe0101;致可 … }}</poem>|『太政官日誌』第一}}


また当時の法規は『[[s:太政類典|太政類典]]』に見ることができる。


==== 政体書 ====

{{main|政体書}}

{{wikisource|政体 (慶応四年太政官達第三百三十一号)|政体書}}


4[[421 ()|421]]1868[[611]][[]][[]][[]][[]]4331[[]][[]][[]][[]][[427 ()|427]][[617]]''''''

{{quotation|{{定義リスト

|dt1={{kyujitai|'''政體'''{{Nobold|(慶應四年太政官達&#xe0101;第331號)}}}}

|dd1=(略)

|dd2={{kyujitai|一 天下ノ權力總テコレヲ太政官ニ歸ス則チ政令二途&#xe0101;ニ出ルノ患無カラシム太政官ノ權力ヲ分&#xe0101;ツテ立法司法行政ノ三權トス則偏&#xe0101;重ノ患無カラシムルナリ}}

|dd3={{kyujitai|一 立法官ハ行政官ヲ兼&#xe0101;ヌルヲ得ス行政官ハ立法官ヲ兼&#xe0101;ヌルヲ得ス但シ臨時都&#xe0101;府巡&#xe0101;察ト外國應接トノ如キ猶&#xe0101;立法官得管之}}

|dd4=(略)

}}}}



[[]]2'''()'''[[|]]'''[[]]'''''''[[]]''''[[]]''[[|]][[|]]''''''''4[[]]''''''4[[]]


[[]]2[[1869]][[]][[]][[]]

==== 明治の太政官制 ====


2[[78 ()|78]]1869[[815]]''''''[[|]][[]][[]]'''[[ ()|]][[]][[ ()|]][[#|]][[]][[]]'''''''''[[]][[#|]][[]][[ (1869)|]]

また、三権がいずれも太政官の下に置かれた事が特徴である。太政官には左右両大臣と3名の大納言、3名の参議からなる「三職」が置かれて指揮をとった。三職は[[明治天皇]]に対して「三職盟約」・「約束四条」と呼ばれる誓約を行って天皇への忠誠と公正な政務を誓った。また、これに伴い「官位相当表」が改正され、左右両大臣は従一位または正二位、大納言は従二位、参議・卿は正三位、大輔は従三位、少輔は正四位とされ、また八位と初位の間に正・従の九位の[[位階]]が追加された。また、任命手続きにおいては四位以上を「勅授」・六位以上を「奏授」・七位以下を「判授」と呼んだがすぐに改められて、位階の授与については従来通り、役職の任命については[[勅任]]・[[奏任]]・[[判任]]と改称されることになった。



[[]][[]][[|]][[|]][[]][[]][[]][[退]][[]][[]]

こうした中で問題となったのは、民部省と大蔵省の合併問題であった。徴税機構と財政機構の一本化を目指して明治2年[[8月11日 (旧暦)|8月11日]]に両省を合併、民部卿松平春嶽が大蔵卿を、[[大蔵省|大蔵大輔]][[大隈重信]]が[[民部省|民部大輔]]を兼任した。今度は中央集権体制の確立を急ぐ木戸の支持を得た大隈や[[大蔵省|大蔵少輔]][[伊藤博文]]ら開明派若手官僚の画策であった。一方、大久保らはこうした動きに対して、新省が太政官を上回る権限を持つとして反発し、他の参議や地方官と結んで大隈・伊藤の排撃と再分離を求めた。これには、大蔵省の管轄が広くなりすぎて、目配りが利かなくなり不効率になったことと、大蔵省の地方官が[[徴税]]や[[徴兵令]](予定)に対して農民に十分な説明を怠り、不満の声にも十分な対応をせず、結果、全国各地で農民騒乱が多発していたことが念頭にあった。大蔵省の地方官の中には、旧殿様気分で民情への配慮に欠ける人物もおり、地方行政を管轄する省が必要との意見が大久保を中心に出ていた。明治3年[[7月10日 (旧暦)|7月10日]]([[1870年]][[8月6日]])に大久保が主導して両省の再分離が決定された。



3[[]][[1020 ()|1020]][[1870]][[1212]][[]][[]]4[[727 ()|727]][[1871]][[911]]

明治4年に入ると'''[[廃藩置県]]'''に向けた政府内の動きが密かに動き出し、薩摩・長州・土佐3藩の兵を[[御親兵]]として集めるとともに、郷里に帰っていた[[西郷隆盛]]と板垣退助を呼び戻した。


==== 廃藩置県後の官制 ====


4[[714 ()|714]]1871[[829]][[ ()|]][[]][[]][[]][[]]調[[]]西[[]][[]]15[[]]347[[]]

==== 明治8年の官制 ====

明治6年[[9月21日 (旧暦)|9月21日]]([[1873年]][[11月10日]])、大久保により「国内安寧・人民保護」をスローガンに、巨大官僚組織である'''[[内務省 (日本)|内務省]]'''が設立される。大久保自らが初代[[内務大臣 (日本)|内務卿]]となった内務省は、絶大な権力で内政を専管するだけでなく殖産興業政策を推進し、日本近代化のための司令塔として君臨した。西郷と木戸は政治活動における組織的基盤を持たなかったが、大久保は内務省と内務官僚という、自らが作り上げた官僚機構を基盤として、「維新のリーダー」のような強烈な個性で国を牽引するのではなく、組織や集団が着実に国の近代化を推し進める新しい政治スタイルへと転換させていった<ref>[[佐々木克]]『NHKさかのぼり日本史4 : 明治「官僚国家」への道』[[NHK出版]]、2011年。</ref>。



8[[1875]]1[[]][[]]22[[414]][[]]58[[ ()|]][[]][[]][[]][[]][[]]<ref>1872[[]]</ref>

省寮の構造は次のとおり<ref>『[{{NDLDC|993587}} 掌中官員録]』西村組出版組、[[1875年]](明治8年)。</ref>。


===== 中央省寮 =====

{{div col|3}}

*[[正院]]

*[[元老院 (日本)|元老院]]

*[[外務省]]

*[[内務省 (日本)|内務省]]

*:[[勧業寮]]

*:[[警保寮]]

*:[[戸籍寮]]

*:[[駅逓寮]]

*:[[土木寮]]

*:[[地理寮]]

*[[大蔵省]]

*:[[造幣寮]]

*:[[租税寮]]

*:[[紙幣寮]]

*:[[出納寮]]

*:[[統計寮]]

*:[[検査寮]]

*:[[国債寮]]

*:[[記録寮]]

*[[陸軍省]]

*:[[陸軍裁判所]]

*[[海軍省]]

*:[[主舩寮]]

*:[[水路寮]]

*:[[兵学寮]]

*:[[軍医寮]]

*:[[海軍裁判所]]

*[[提督府]]

*[[文部省]]

*[[教部省]]

*[[工部省]]

*:[[工学寮]]

*:[[鉱山寮]]

*:[[鉄道寮]]

*:[[灯台寮]]

*:[[電信寮]]

*:[[製作寮]]

*[[司法省 (日本)|司法省]]

*[[宮内省]]

*:[[式部寮]]

*[[大審院]]

*[[開拓使]]

*[[警視庁 (内務省)|警視庁]]

{{div col end}}


===== 地方(府藩県)=====

{{columns-list|4|

*[[東京府]]

*[[京都府]]

*[[大阪府]]

*[[琉球藩]]

*[[神奈川県]]

*[[兵庫県]]

*[[長崎県]]

*[[新潟県]]

*[[埼玉県]]

*[[足柄県]]

*[[千葉県]]

*[[茨城県]]

*[[熊谷県]]

*[[栃木県|橡木県]]

*[[奈良県]]

*[[堺県]]

*[[三重県]]

*[[度会県]]

*[[愛知県]]

*[[浜松県]]

*[[静岡県]]

*[[山梨県]]

*[[滋賀県]]

*[[岐阜県]]

*[[筑摩県]]

*[[長野県]]

*[[宮城県]]

*[[福島県]]

*[[磐前県|盤前県]]

*[[若松県]]

*[[水沢県]]

*[[岩手県]]

*[[青森県]]

*[[山形県]]

*[[置賜県]]

*[[酒田県]]

*[[秋田県]]

*[[敦賀県]]

*[[石川県]]

*[[新川県]]

*[[相川県]]

*[[豊岡県]]

*[[鳥取県]]

*[[島根県]]

*[[浜田県]]

*[[飾磨県]]

*[[北条県]]

*[[岡山県]]

*[[小田県]]

*[[広島県]]

*[[山口県]]

*[[和歌山県]]

*[[名東県]]

*[[愛媛県]]

*[[高知県]]

*[[福岡県]]

*[[三潴県]]

*[[小倉県]]

*[[大分県]]

*[[佐賀県]]

*[[白川県]]

*[[宮崎県]]

*[[鹿児島県]]

}}


この体制は、明治18年に内閣制度が発足するまで続いた。


=== 太政官制における法令 ===


[[]][[]]{{|date=20243|title=}}[[]][[]][[]]{{|date=20243|title=}}


== 脚注 ==

== 脚注 ==


2024年5月4日 (土) 08:26時点における版




(一) - 

(二) - 
(一)18686114/42143317

(二)186926

(三)1871

(四)188518

平城宮 推定太政官跡
2019年発掘調査時。

36427588764


使[1][2]使
官位相当


 - 

 - 

 - 

 - 

 - 4




 - 

 - 使


 - 

 - 

 - 


 - 

 - 

 - 

使 - 




[3]


1885

[4][ 1]

脚注

注釈

  1. ^ の律令制にも太政官という語は存在するものの、日本とは指す内容が異なる。

出典



(一)^ 19862011

(二)^ 2015

(三)^ 2020ISBN 978-4-8406-2239-4pp. 283-311

(四)^ !1996p. 111

関連項目

関連書籍