ソ連対日参戦

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ソ連対日参戦

樺太真岡町ホルムスク)に進駐するソ連軍、避難する日本人居留民も見える
戦争太平洋戦争[1]
年月日1945年8月8日 - 同年9月2日[1]
場所満洲朝鮮半島北部、千島列島樺太[1]
結果:ソ連側の勝利、日本の降伏ソ連軍は満洲国や朝鮮北部を制圧し、また南樺太や千島列島も占領した[1]
交戦勢力
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
モンゴル人民共和国の旗 モンゴル
中華ソビエト共和国の旗 陝甘寧辺区
大日本帝国の旗 大日本帝国
満洲国の旗 満洲国
蒙古聯合自治政府の旗 蒙古聯合自治政府
指導者・指揮官
ソビエト連邦の旗 ヨシフ・スターリン
ソビエト連邦の旗 アレクサンドル・ヴァシレフスキー
ソビエト連邦の旗 キリル・メレツコフ
ソビエト連邦の旗 アファナシー・ベロボロドフ
ソビエト連邦の旗 ニコライ・クルイロフ
ソビエト連邦の旗 イワン・チスチャコフ
ソビエト連邦の旗 マクシム・プルカエフ
ソビエト連邦の旗 ニコライ・クズネツォフ
ソビエト連邦の旗 レオンチー・チェレミソフ
ソビエト連邦の旗 アレクセイ・グネチコ
ソビエト連邦の旗 ロディオン・マリノフスキー
ソビエト連邦の旗 アレクサンドル・ルチンスキー
ソビエト連邦の旗 アンドレイ・クラフチェンコ
ソビエト連邦の旗 イッサ・プリーエフ
ソビエト連邦の旗 イワン・ユマシェフ
モンゴル人民共和国の旗 ホルローギーン・チョイバルサン
モンゴル人民共和国の旗 ジャミヤンギーン・ルハグヴァスレン
中国共産党の旗 毛沢東
中国共産党の旗 朱徳
中国共産党の旗 彭徳懐
大日本帝国の旗 鈴木貫太郎
大日本帝国の旗 山田乙三
大日本帝国の旗 喜多誠一
大日本帝国の旗 池谷半二郎
大日本帝国の旗 清水規矩
大日本帝国の旗 後宮淳
大日本帝国の旗 飯田祥二郎
大日本帝国の旗 本郷義夫
大日本帝国の旗 上村幹男
大日本帝国の旗 櫛淵鍹一
大日本帝国の旗 根本博
大日本帝国の旗 樋口季一郎
大日本帝国の旗 峯木十一郎
大日本帝国の旗 堤不夾貴
満洲国の旗 愛新覚羅溥儀
満洲国の旗 張景恵
蒙古聯合自治政府の旗 デムチュクドンロブ
蒙古聯合自治政府の旗 李守信
戦力
兵員
1,577,725[2]
火砲・迫撃砲
26,137[2]
戦車・自走砲
5,556[2]
航空機
3,446[2]
兵員
満州
700,000[3]
千島・樺太
96,000[4]
火砲
1,000[3]
戦車
150[3]
航空機
150[3]
損害
戦死
22,694人[5]
戦傷
40,377人[5]
ソ連側主張
8,200人戦死[1]
戦死
33,900人(満州・千島・樺太合計)[4]
戦傷
不明
シベリア抑留
570,000人以上[6]
内70,000人死亡[6]
民間人犠牲
130,000人(戦後に死亡や行方不明になった者も含む)[7]
ソ連側主張
80,000人戦死[1]
日本本土の戦い



2019458811使使891[8]



1575,5563,446[2]8911[9]

[10][11][12]Советско-японская_война


背景[編集]


19190437190538

1907401917619209192211退19251419294退1931619327193510

19338193611

193813193914194318退19411646

退19452058

国際情勢[編集]


19431819431018758

1945202319452041941165

194520898

726使88使[13]

[]


6[]

[14]

101945209[15]

20083989

7西8384[16]西[16]

4530[17]7退9[18]

退19452059



888

867

[]

[]


[19]

西西西

調312331西26西西西[20][20]2[20]西621221019[20]19461941[20][20][20]

2/3[6]退退81315[2]

[21]

戦闘序列[編集]

1945年の満洲方面における日ソ両軍の配置





1
1

5

25

35

10

9

2
2

15

16

10

5




17

36

39

53

6

12



×2×1×12×78111,549



1,577,72526,1375,5563,446

[]


5548-549:

, 75mm

[]


14

(一)

(二)

(三)

(四)西10km4km

(五)

(六)

(七)

(八)3西

(九)

(十)鹿

(11)

(12)

(13)

(14)

2/3退150110退[6]

退[19]

[19]西900湿[19]

11.15[19][19]西西沿1

西鹿

西西西退

退西443108

813[22]退3退30[6]

[]


8888西()沿西

125306西251945325267688

91

7 (: )2728使2642[23]

[]


  14

  19
3

5



  17
30

44



4

34




101



701,00020035065

  


88  


91  

89  


7  

42  

1  


    [24]

[]


退退退退[25]

89[26]47,000223,000[27]

[28]812[29][30]

 退退[31]退[32]退

89退

退8106便退[33]便8111402[34]

[35]1031512[29]

89271010101011[26]11[26]

3km1011[13][36]

退[37]

[38][39][40][41]

14811183800038000

 20310

使 750

 16700

 240

使821[42]

9[43]9[44]101/31/31/31112[44]12姿[36]11[44]14

11111213141414[45]便42[13]

510102102[46]

2/315073150313[7]135[47][2]

経過[編集]

ソ連軍の侵攻ルート

初動[編集]


194588511使使[48]

8915130[49]

[50]6[51]

1[52]

西正面の状況[編集]

ソ連軍ではザバイカル正面軍、関東軍では第3方面軍がこの地域を担当していた。日本軍の9個師団・3個独混旅団・2個独立戦車旅団基幹に対し、ソ連軍は狙撃28個・騎兵5個・戦車2個・自動車化2個の各師団、戦車・機械化旅団等18個という大兵力であった。関東軍の要塞地帯と主力部隊及び国境守備隊は東部・北東正面に重点配置され、西部・北西正面の守りは手薄だった。方面軍主力は、最初から国境のはるか後方にあり、開戦後は新京-奉天地区に兵力を集中しこの方面でソ連軍を迎撃する準備をしていたため、西正面に機械化戦力を重点配置していたソ連軍の一方的な侵攻を許してしまった。逆にソ連軍から見ると日本軍の抵抗を受けることなく順調に進撃した。第6親衛戦車軍はわずか3日で450キロも進撃した。同軍の先鋒はヴォルコフ中将の第9親衛機械化軍団が務めたが、アメリカ製のシャーマン戦車が湿地帯の峠道に足をとられ、第5親衛戦車軍団のT34部隊が代わりに先導役を務めた。第39軍の側面援護の下、第6親衛戦車軍は満洲西部から迂回しつつ、鉄道沿線の日本軍を殲滅していった。8月15日までに第6親衛戦車軍は大興安嶺を突破し、第3方面軍の残存部隊を掃討しつつ満洲の中央渓谷に突入した。

一方第3方面軍は既存の築城による抵抗を行い、ゲリラ戦を適時に行うことを作戦計画に加えたが、これを実現することは、訓練、遊撃拠点などの点で困難であり、また機甲部隊に抵抗するための火力が全く不十分であった。同方面軍は8月10日朝に方面軍の主力である第30軍を鉄道沿線に集結させて、担当地域に分割し、ゲリラ戦を実施しつつソ連軍を邀撃しつつも、第108師団は後退させることを考えた。このように方面軍総司令部が関東軍の意図に反して部隊を後退させなかったのは、居留民保護を重視することの姿勢であったと後に第3方面軍作戦参謀によって語られている。関東軍総司令部はこの決戦方式で挑めば一度で戦闘力を消耗してしまうと危惧し、不同意であった。ソ連軍の進行が大規模であったため、総司令部は朝鮮半島の防衛を考慮に入れた段階的な後退を行わねばならないことになっていた。前線では苦戦を強いられており、第44軍では8月10日に新京に向かって後退するために8月12日に本格的に後退行動を開始し、西正面から進行したソ連の主力である第6親衛戦車軍は各所で日本軍と遭遇してこれを破砕、撃破していた。ソ連軍の機甲部隊に対して第2航空軍原田宇一郎中将)がひとり立ち向かい12日からは連日攻撃に向かった。攻撃機の中には全弾打ち尽くした後、敵戦車群に体当たり攻撃を行ったものは相当数に上った。ソ連進攻当時国境線に布陣していたのは第107師団で、ソ連第39軍の猛攻を一手に引き受けることとなった。師団主力が迎撃態勢をとっていた最中、第44軍から、新京付近に後退せよとの命令を受け、12日から撤退を開始するも既に退路は遮断されていた。ソ連軍に包囲された第107師団は北部の山岳地帯で持久戦闘を展開、終戦を知ることもなく包囲下で健闘を続け、8月25日からは南下した第221狙撃師団と遭遇、このソ連軍を撃退した。関東軍参謀2名の命令により停戦したのは29日のことであった。ソ連・モンゴル軍は外蒙古から内蒙古へと侵攻し、多倫・張家口へと進撃、関東軍と支那派遣軍の連絡線を遮断した。ザバイカル正面軍は西方から関東軍総司令部の置かれた新京へと猛進撃し、8月15日には間近にまで迫り北東部・東部で奮戦する関東軍の連絡線を断ちつつあった。

東正面の状況[編集]

旅順に進駐し、海軍旗を掲げる太平洋艦隊所属の海軍歩兵

111013517160053退

5沿124135124135

1301221510910退89退10850200

12412613552 12412126135156退42551760西退3816 251281123172

北正面の状況[編集]

1945年モンゴル人民軍が戦争に参加

483[53]13522[54]796135[54]21[55]

269160010 kg[54]151231,3007[54][55]13512321[55]269115退9[55]

[56]

西 () 10km西15km3805,000[54]9[57]51[54]181,000[56]西912107901,000[58]

4退3639531789沿12313522113611980退119退

北朝鮮の状況[編集]


345913713361875917341742025833

3425101213813141513818

南樺太および千島の概況[編集]


西194012194325271 194451

1945327888980

19458102221681110:0082579815825

南樺太の戦闘[編集]


194188125194458823876704110[59] 22830272,0003,700[60]

8973011556西2910km5815

8155881620便25使184退232

82217088228825823

2425

千島列島の状況と戦闘[編集]


退(9125000200)

89815181615

181638836378101(302)1289113

111退18735 9116212324

2531829914調35[61][62]

[]

1,831,0001945930

194520814815816[63][64]25[9]23258[9]調9295[65][9]

[]

816[66]816[67][68]1716[]

8178208182[]

81915:30824194592調95[61][62]

前線部隊の状況[編集]


西

512退

23退[69]

[]


20[39]退[9]調[39]

[70]50



814[71]

2000272[72]

退使[]

NPO70

15516014277850017645[39][38]

[]






, 

1959



1945 

1974便

 1945



, 

198287

T-34-85



1987/ / 



19871991

 便

2008便

[]



(一)^ abcdef.  . 2023325

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(六)^ abcde5 1961, p. 194.

(七)^ ab5 1961, p. 209.

(八)^  西20(1945)89

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(23)^  1945. . (2013) 

(24)^  1990

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(31)^   ()P75

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(45)^ []  19658311-313 

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(48)^ (2015.8.9)web

(49)^  2002, pp. 4344.

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(56)^ ab 2003, p. 79.

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(60)^    ︿2001179

(61)^ ab, http://hoppou-gifu.jp/history/history.html#06+20121030 

(62)^ ab.  . 20149720121030

(63)^ 駿9419953132-168ISSN 05625955NAID 120001439091 

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(72)^  []

[]


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 --(19744284)

19969104

  ISBN 412200313X

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2001 2022

(2013). 1945 (). (4). ISSN 1671-3273. 

2017ISBN 978-4121024657 

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[]

外部リンク[編集]