「関羽」の版間の差分
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|説明 = [[明]]代の『[[三才図会]]』における肖像 |
|説明 = [[明]]代の『[[三才図会]]』における肖像 |
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|王朝 = [[ |
|王朝 = [[後漢]] |
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|称号・役職 = |
|称号・役職 = 前将軍・仮節鉞・漢寿亭侯 |
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|出生 = 生年不詳 |
|出生 = 生年不詳 |
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|出身地 = [[河東郡 (中国)|河東郡]][[北解県|解県]]<br /> (現在の[[山西省]][[運城市]][[塩湖区]]解州鎮常平村) |
|出身地 = [[河東郡 (中国)|河東郡]][[北解県|解県]]<br /> (現在の[[山西省]][[運城市]][[塩湖区]]解州鎮常平村) |
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|諡号 = 壮繆侯/忠義侯 [[#死後の関羽と関羽信仰|ほか]] |
|諡号 = 壮繆侯/忠義侯 [[#死後の関羽と関羽信仰|ほか]] |
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|廟号 = |
|廟号 = |
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|別名 = 渾名:髯 |
|別名 = 渾名:髯(ひげ)<br />神号:<br /> 協天大帝関聖帝君([[道教]])<br /> 伽藍菩薩([[仏教]])<br /> 文衡聖帝([[儒教]]) |
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|主君 = [[劉備]] |
|主君 = [[劉備]] |
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|特記事項 = |
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[[蜀漢]]の創始者である[[劉備]]への忠義を貫き、その人並み外れた武勇や義理を重んじた彼は[[曹操]]など同時代の多くの人から称賛された。後漢から贈られた[[封号]]は漢寿亭[[列侯|侯]]。[[諡]]が壮繆侯︵または壮穆侯︶だが、諡号は歴代王朝から多数贈られた︵[[諡#爵諡|爵諡]]を参照︶。死後、後世の人々に神格化され[[関帝]]︵関聖帝君・関帝聖君︶となった。
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[[蜀漢]]の創始者である[[劉備]]への忠義を貫き、その人並み外れた武勇や義理を重んじた彼は[[曹操]]など同時代の多くの人から称賛された。後漢から贈られた[[封号]]は漢寿亭[[列侯|侯]]。[[諡]]が壮繆侯︵または壮穆侯︶だが、諡号は歴代王朝から多数贈られた︵[[諡#爵諡|爵諡]]を参照︶。死後、後世の人々に神格化され[[関帝]]︵関聖帝君・関帝聖君︶となった。
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小説﹃[[三国志演義]]﹄では、﹁'''雲長'''、'''関雲長'''あるいは'''関公'''、'''関某'''と呼ばれ、一貫して[[諱]]を名指しされていない﹂、﹁大活躍する場面が壮麗に描かれている﹂など、前述の関帝信仰に起因すると思われる特別扱いを受けている{{ |
小説﹃[[三国志演義]]﹄では、﹁'''雲長'''、'''関雲長'''あるいは'''関公'''、'''関某'''と呼ばれ、一貫して[[諱]]を名指しされていない﹂、﹁大活躍する場面が壮麗に描かれている﹂など、前述の関帝信仰に起因すると思われる特別扱いを受けている{{Sfn|井波|1994|p=110}}{{Sfn|渡邉|2011a|pp=7-8}}。
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{{要出典|三国志正史によると身長は9尺|date=2023年12月}}で見事な鬚髯︵鬚=あごひげ、髯=ほほひげ︶をたくわえていたため、[[諸葛亮]]からは﹁{{読み仮名|髯|ひげ}} |
{{要出典|三国志正史によると身長は9尺|date=2023年12月}}で見事な鬚髯︵鬚=あごひげ、髯=ほほひげ︶をたくわえていたため、[[諸葛亮]]からは﹁{{読み仮名|髯|ひげ}}﹂と呼ばれ︵蜀書関羽伝︶、﹃三国志演義﹄などでは﹁{{読み仮名|美髯公|びぜんこう}}﹂などとも呼ばれる。
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== 生涯 == |
== 生涯 == |
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=== 劉備に仕える === |
=== 劉備に仕える === |
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出身の司隷河東郡から[[幽州]][[涿郡]]に出奔{{Efn|詳細は不明だが、出身地が中国最大の[[塩湖]]である'''解池'''に近いため、塩の密売に関わっていたという伝説が残る。また地元・山西省の伝承では、暴利をむさぼる塩商人を殺し、官吏に追われ幽州に逃げ、姓名を変えて﹁関羽﹂と名乗ったとも言われる{{ |
出身の司隷河東郡から[[幽州]][[涿郡]]に出奔{{Efn|詳細は不明だが、出身地が中国最大の[[塩湖]]である'''解池'''に近いため、塩の密売に関わっていたという伝説が残る。また地元・山西省の伝承では、暴利をむさぼる塩商人を殺し、官吏に追われ幽州に逃げ、姓名を変えて﹁関羽﹂と名乗ったとも言われる{{Sfn|今泉|2000}}。}}。[[黄巾の乱]]に際し同地で劉備が旗揚げすると、[[張飛]]と共に彼の護衛官を務め、[[簡雍]]・[[田豫]]らと各地を転戦した。劉備が平原の相になると、関羽は張飛と共に別部司馬に任命された。劉備は関羽・張飛に兄弟のように恩愛をかけ、張飛は関羽が年長者であることから兄のように従ったという<ref>﹃三国志﹄蜀志﹁張飛伝﹂</ref>。関羽・張飛は他人の前では、あくまで劉備を主君として立て、仕えた{{Efn|山西省の研究では、関羽は劉備より年上ながら、劉備を兄として仕えたといわれている{{Sfn|今泉|2000}}。}}。
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=== 劉備への忠義を貫き、劉備の元へ帰る === |
=== 劉備への忠義を貫き、劉備の元へ帰る === |
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徐州を得た劉備は[[呂布]]と争い曹操を頼って逃れた。[[建安 (漢)|建安]]3年([[198年]])、曹操が呂布を破った時に関羽は張飛と共に戦功を認められ、曹操から[[中郎将]]に任命された(『華陽国志』劉先主志)。この時に関羽は呂布の部将の[[秦宜禄]]の妻を娶る事を曹操に願い出たが、秦宜禄の妻を見た曹操は自分の側室としてしまった(『蜀記』)。 |
徐州を得た劉備は[[呂布]]と争い曹操を頼って逃れた。[[建安 (漢)|建安]]3年︵[[198年]]︶、曹操が呂布を破った時に関羽は張飛と共に戦功を認められ、曹操から[[中郎将]]に任命された︵﹃華陽国志﹄劉先主志︶。この時に関羽は呂布の部将の[[秦宜禄]]の[[杜氏 (三国時代)|妻]]を娶る事を曹操に願い出たが、秦宜禄の妻を見た曹操は自分の側室としてしまった︵﹃蜀記﹄︶。
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建安4年([[199年]])、劉備は[[献帝]]から密命を受けた[[董承]]と結び曹操に叛旗を起こし徐州刺史の[[車冑]]を殺害し、徐州を占拠した。この時に張飛は劉備と共に小沛に戻り、関羽は[[下邳郡|下邳]]の守備を任され太守の事務を代行した<ref group=注釈>『魏書』によると、関羽が徐州を治めたという。</ref>。 |
建安4年([[199年]])、劉備は[[献帝]]から密命を受けた[[董承]]と結び曹操に叛旗を起こし徐州刺史の[[車冑]]を殺害し、徐州を占拠した。この時に張飛は劉備と共に小沛に戻り、関羽は[[下邳郡|下邳]]の守備を任され太守の事務を代行した<ref group=注釈>『魏書』によると、関羽が徐州を治めたという。</ref>。 |
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=== 死後 === |
=== 死後 === |
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群雄・関羽の首級は、孫権の使者によって曹操の下へ送られ、孫権は諸侯の礼を以て当陽に彼の死体を葬った︵﹃呉歴﹄︶。一方、曹操は諸侯の礼を以て洛陽に彼の首級を葬った︵﹃関羽伝﹄︶。
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群雄・関羽の首級は、孫権の使者によって曹操の下へ送られ、孫権は諸侯の礼を以て当陽に彼の死体を葬った︵﹃呉歴﹄︶。一方、曹操は諸侯の礼を以て洛陽に彼の首級を葬った︵﹃関羽伝﹄︶。関羽に随行した関平を除いて、他の家族は呂蒙に保護されている︵﹃呂蒙伝﹄︶。その中の一人と思われる関興は後に蜀漢の官僚として活躍したが、早世した。
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[[章武]]2年([[222年]])、関羽を殺された劉備は孫権に対して[[夷陵の戦い]]を起こしたが大敗を喫した。 |
[[章武]]2年([[222年]])、関羽を殺された劉備は孫権に対して[[夷陵の戦い]]を起こしたが大敗を喫した。 |
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[[景耀]]3年([[260年]])、蜀漢の2代皇帝[[劉禅]]より壮繆侯<ref group=注釈>「繆」は「武功がならなかった」という意味で、荊州失陥を批判する意味合いになる。「穆」ならば「徳を広め表裏がない」という意味。ただし、{{仮リンク|程敏政|zh|程敏政}}の説によると、「繆」が「穆」の同義として使われたことがあったという。ちくま学芸文庫版の日本語訳では、この説に従い「繆」の字に「ぼく」の[[振り仮名]]を振ってある。</ref>(または壮穆侯)の爵諡を送られた。 |
[[景耀]]3年([[260年]])、蜀漢の2代皇帝[[劉禅]]より壮繆侯<ref group=注釈>「繆」は「武功がならなかった」という意味で、荊州失陥を批判する意味合いになる。「穆」ならば「徳を広め表裏がない」という意味。ただし、{{仮リンク|程敏政|zh|程敏政}}の説によると、「繆」が「穆」の同義として使われたことがあったという。ちくま学芸文庫版の日本語訳では、この説に従い「繆」の字に「ぼく」の[[振り仮名]]を振ってある。</ref>(または壮穆侯)の爵諡を送られた。 |
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関羽の子孫は蜀漢の[[列侯]]の一人として続いたが、[[炎興]]元年([[263年]])に[[鍾会]]らにより[[蜀]]が滅んだ際、龐徳の子であった[[龐会]]が関羽の一族を皆殺しにしたという(『蜀記』)。ただし、[[王隠]]の『蜀記』は非常に創作された逸話が多く、蜀臣の[[陳寿]]、蜀臣の孫である[[常璩]]も関羽の一族が皆殺しにされたという話は史書に残していない。『[[宋書]]』に登場する[[河東郡 (中国)|河東郡]]の関康之{{ |
関羽の子孫は蜀漢の[[列侯]]の一人として続いたが、[[炎興]]元年([[263年]])に[[鍾会]]らにより[[蜀]]が滅んだ際、龐徳の子であった[[龐会]]が関羽の一族を皆殺しにしたという(『蜀記』)。ただし、[[王隠]]の『蜀記』は非常に創作された逸話が多く、蜀臣の[[陳寿]]、蜀臣の孫である[[常璩]]も関羽の一族が皆殺しにされたという話は史書に残していない。『[[宋書]]』に登場する[[河東郡 (中国)|河東郡]]の関康之{{Sfn|今泉|2000}} や[[唐]]代の宰相関播は関羽の末裔とされる<ref>『[[新唐書]]』巻七十五下 宰相世系表</ref>。 |
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唐代には、[[武廟六十四将]]に唐朝以前の中国史を代表する64人の名将として、蜀漢から張飛と共に祀られている。 |
唐代には、[[武廟六十四将]]に唐朝以前の中国史を代表する64人の名将として、蜀漢から張飛と共に祀られている。 |
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現在、関羽62代目の子孫を名乗る[[関新剛]]なる人物が中国に在住するが、関羽の子孫かどうか実際の所は不明である{{ |
現在、関羽62代目の子孫を名乗る[[関新剛]]なる人物が中国に在住するが、関羽の子孫かどうか実際の所は不明である{{Sfn|今泉|2000}}。
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== 人物 == |
== 人物 == |
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{{Lang|zh-tw|評曰 關羽 張飛皆稱萬人之敵 為世虎臣 羽報效曹公 飛義釋嚴顏 並有國士之風 然羽剛而自矜 飛暴而無恩 以短取敗 理數之常也}} |
{{Lang|zh-tw|評曰 關羽 張飛皆稱萬人之敵 為世虎臣 羽報效曹公 飛義釋嚴顏 並有國士之風 然羽剛而自矜 飛暴而無恩 以短取敗 理數之常也}} |
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︵関羽・張飛の2人は、1人で万の兵に匹敵すると賞賛され、当世における虎臣﹃勇猛な家臣﹄であった。関羽は顔良を斬って義を果たし、張飛は[[厳顔]]の義心に感じ入ってその縄目を解き、両者並んで国士の気風があった。しかし、関羽は剛情で自信を持ち過ぎ、張飛は乱暴で情を持たず、両者共その短所により身の破滅を招いた。道理からいって当然である。︶|﹃三國志﹄巻36蜀志6關張馬黄趙傳<ref>{{Cite wikisource|title=三國志/卷36# |
︵関羽・張飛の2人は、1人で万の兵に匹敵すると賞賛され、当世における虎臣﹃勇猛な家臣﹄であった。関羽は顔良を斬って義を果たし、張飛は[[厳顔]]の義心に感じ入ってその縄目を解き、両者並んで国士の気風があった。しかし、関羽は剛情で自信を持ち過ぎ、張飛は乱暴で情を持たず、両者共その短所により身の破滅を招いた。道理からいって当然である。︶|﹃三國志﹄巻36蜀志6關張馬黄趙傳<ref>{{Cite wikisource|title=三國志/卷36#關羽|author=陳壽|wslanguage=zh}}</ref>}}
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[[程昱]]からは「関羽と張飛の武勇は一万の兵に相当する」と評価された(『三国志』魏志「程昱伝」)。 |
[[程昱]]からは「関羽と張飛の武勇は一万の兵に相当する」と評価された(『三国志』魏志「程昱伝」)。 |
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=== 関羽信仰 === |
=== 関羽信仰 === |
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[[ファイル:Guan Yu Statue.jpg|thumb|[[荊州区]]の[[:zh:关公义园|関公義園]]にあった関羽の巨大銅像([[:zh:韓美林|韓美林]]作)]] |
[[ファイル:Guan Yu Statue.jpg|thumb|[[荊州区]]の[[:zh:关公义园|関公義園]]にあった関羽の巨大銅像([[:zh:韓美林|韓美林]]作、現在は取り壊されている)]] |
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[[ファイル:Taiwan 2009 JinGuaShi Historic Gold Mine Valley View Left Page FRD 8822 Giant Statue of GuanYu.jpg|thumb|right|200px|台湾・[[新北市]]の金瓜石にある巨大な関羽像]] |
[[ファイル:Taiwan 2009 JinGuaShi Historic Gold Mine Valley View Left Page FRD 8822 Giant Statue of GuanYu.jpg|thumb|right|200px|台湾・[[新北市]]の金瓜石にある巨大な関羽像]] |
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[[ファイル:God Guan Yu Jinguashi 02.jpg|thumb|台湾・新北市の金瓜石にある巨大な関羽像正面向こう]] |
[[ファイル:God Guan Yu Jinguashi 02.jpg|thumb|台湾・新北市の金瓜石にある巨大な関羽像正面向こう]] |
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[[ファイル:關帝廟.JPG|thumb|right|200px|[[山西省]][[運城市]][[塩湖区]]にある中国でも有数の大きさの解州関帝廟]] |
[[ファイル:關帝廟.JPG|thumb|right|200px|[[山西省]][[運城市]][[塩湖区]]にある中国でも有数の大きさの解州関帝廟]] |
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関羽が死んでから唐代以前までの約400年の間、人々からの注目や人気はさほど高くなかった。例えば[[六朝]]時代の『[[神仙伝]]』、『[[捜神記]]』、『[[拾遺記]]』、『[[世説新語]]』や[[殷芸]]『小説』などといった小説は三国時代の人物に多く触れているが、関羽への言及は皆無に等しい。[[唐]]代になると詩文の中に詠われるようになるが、なお一般的な賛美にとどまっていた{{Sfn|李|1993|pp=41-42}}。また荊州地区における怨霊伝説の一種ともなっている。関羽は「関三郎」という祟りをなす鬼神として{{仮リンク|范攄|zh|范攄}}『雲渓友議』や{{仮リンク|孫光憲|zh|孫光憲}}『北夢瑣言』といった筆記小説に登場しており、後者においては「関妖」という呼称も見られる<ref>{{Cite wikisource|wslink=北夢瑣言/卷十一|title=『北夢瑣言』巻11|wslanguage=zh|quote=唐咸通亂離後,坊巷訛言關三郎鬼兵入城,家家恐悚,罹其患者令人寒熱戰慄,亦無大苦。弘農楊玭挈家自駱谷路入洋源,行及秦嶺,回望京師,乃曰:「此處應免關三郎相隨也。」語未終,一時股慄,斯又何哉夫喪亂之間,陰厲旁作,心既疑矣,邪亦隨之。關妖之說正謂是也。愚幼年曾省故里,傳有一夷迷鬼魘,人,閭巷夜聚以避之,凡有窗隙悉皆塗塞,其鬼忽來即撲人驚魘,須臾而止。}}</ref>{{Sfn|林・黄|2022|pp=94-96}}。しかし[[宋 (王朝)|宋]]代になると、政治的理由(下述)と庶民文化の隆盛に伴って人気が徐々に上昇し、[[元 (王朝)|元]]代では関羽は数多くの雑劇の演目で主役となった{{Sfn|李|1993|pp=42-43}}。[[明]][[清]]時代にはさらに美化と神格化が進み、清代においてはついに「関聖大帝」として聖賢の列に加わり、天子と同様に[[避諱]]の対象となった。元来は悪神であったイメージも[[士大夫]]階級の操作により一転し、関羽を象徴する忠義心をもとに神格化を重ねて、天祐を民に授ける神へと変化した{{Sfn|李|1993|pp=45-47}}。 |
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[[儒教]]では[[五文昌]]の一人﹁文衡聖帝﹂とされて、﹁山西夫子﹂と呼ばれている。封じられた時期ははっきりしない。武より文の面が強調されており、台湾などでは受験の際に礼拝される。
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[[儒教]]では[[五文昌]]の一人﹁文衡聖帝﹂とされて、﹁山西夫子﹂と呼ばれている。封じられた時期ははっきりしない。武より文の面が強調されており、台湾などでは受験の際に礼拝される。
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政治面から見ると、乱世の中で特定の個人に対して忠誠を尽くした関羽は、為政者から見ると賞賛すべき人物であった。そのため、北宋の[[徽宗]]皇帝が爵諡の﹁忠恵公﹂後に﹁武安王﹂として封じ、﹁崇寧真君﹂とした。その後、南宋期には﹁義勇武安王﹂とされたと伝わる。明初には神号﹁協天護国忠義関聖大帝﹂とされてから、[[熹宗]]皇帝が﹁三界伏魔大帝神威遠震天尊関聖帝君﹂に封じ、 |
政治面から見ると、乱世の中で特定の個人に対して忠誠を尽くした関羽は、為政者から見ると賞賛すべき人物であった。そのため、北宋の[[徽宗]]皇帝が爵諡の﹁忠恵公﹂後に﹁武安王﹂として封じ、﹁崇寧真君﹂とした。その後、南宋期には﹁義勇武安王﹂とされたと伝わる。明初には神号﹁協天護国忠義関聖大帝﹂とされてから、[[熹宗]]皇帝が﹁三界伏魔大帝神威遠震天尊関聖帝君﹂に封じ、清代に入ると[[順治帝]]が﹁忠義神武関聖大帝﹂として、後に[[宣統帝]]が﹁忠義神武霊佑仁勇威顕開聖大帝﹂、[[光緒帝]]に至っては﹁忠義神武霊祐仁勇威顕護国保民精誠綏靖翊賛宣徳関聖大帝﹂と次々と追贈している。多くは王朝初期と末期に追贈がされており、政策の一環や国内外の情勢が垣間見える。なお、清朝が公認した関帝信仰は、[[満洲]]を劉備、[[蒙古]]を関羽に準えた兄弟結盟を背景とし、蒙古との関係を維持する目的もあった︵[[徐珂]]﹃清稗類鈔﹄、喪祭類﹁以祀関羽愚蒙﹂︶。
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同時に、清代には県に必ず[[孔子]]を祭る文廟と、関帝を祀る武廟を建立させた。孔子廟が[[中華人民共和国]]初期に多数破壊された結果、現在では[[関帝廟]]が単独で多く各地に残る結果となっている。 |
同時に、清代には県に必ず[[孔子]]を祭る文廟と、関帝を祀る武廟を建立させた。孔子廟が[[中華人民共和国]]初期に多数破壊された結果、現在では[[関帝廟]]が単独で多く各地に残る結果となっている。 |
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[[ファイル:Guanyu.jpg|thumb|200px|[[歌川国芳]]「通俗三国志之内」]] |
[[ファイル:Guanyu.jpg|thumb|200px|[[歌川国芳]]「通俗三国志之内」]] |
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{{see also|三国志#日本における「三国志」観}} |
{{see also|三国志#日本における「三国志」観}} |
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中世期における禅僧の詩文や語録に、関羽にまつわる[[故事]]が散見される{{ |
中世期における禅僧の詩文や語録に、関羽にまつわる[[故事]]が散見される{{Sfn|長尾|2019|pp=69-110|ps=︵初出は{{Harvnb|長尾|2002}}︶}}。
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[[江戸時代]]初期、とりわけ[[林鵞峰]]以降、[[漢詩]]の題材として諸葛亮と共に﹁至忠の烈臣﹂としての﹁関羽﹂像が讃えられた{{ |
[[江戸時代]]初期、とりわけ[[林鵞峰]]以降、[[漢詩]]の題材として諸葛亮と共に﹁至忠の烈臣﹂としての﹁関羽﹂像が讃えられた{{Sfn|長尾|2019|pp=323-350|ps=︵初出は{{Harvnb|長尾|1999a}}︶}}{{Sfn|長尾|2019|pp=351-388|ps=︵初出は{{Harvnb|長尾|1999b}}︶}}{{Sfn|長尾|2019|pp=389-411|ps=︵初出は{{Harvnb|長尾|2004}}︶}}{{Sfn|長尾|2019|pp=473-496|ps=︵初出は{{Harvnb|長尾|2001}}︶}}。
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[[歌舞伎]]の演目に「[[関羽 (歌舞伎)|関羽]]」がある。 |
[[歌舞伎]]の演目に「[[関羽 (歌舞伎)|関羽]]」がある。 |
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* [[董卓]]配下の猛将[[華雄]]を、曹操に勧められた酒が冷めないうちに斬った話 |
* [[董卓]]配下の猛将[[華雄]]を、曹操に勧められた酒が冷めないうちに斬った話 |
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* 張遼に説得され曹操へと投降する際に3つの条件を出す |
* 張遼に説得され曹操へと投降する際に3つの条件を出す |
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* 曹操の元を去るとき、曹操軍の検問に手形がなかったことから見咎められて、6人の将軍を斬り殺して突破した話︵五関突破︶{{Efn|この部分は後から挿入された可能性が高く{{ |
* 曹操の元を去るとき、曹操軍の検問に手形がなかったことから見咎められて、6人の将軍を斬り殺して突破した話︵五関突破︶{{Efn|この部分は後から挿入された可能性が高く{{Sfn|渡邉|2011a|pp=7-8}}{{Sfn|渡邉|2011b|p=88}}、全篇に渡って﹁関公﹂と表記されることが多い﹃三国志平話﹄との関連性が考えられる。}}
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* 孫権軍に処刑されたあと、呂蒙を祟り殺した話 |
* 孫権軍に処刑されたあと、呂蒙を祟り殺した話 |
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など、[[講談]]や元曲・[[京劇]]([[戯曲]])などでの創作が、積極的に取り入れられている。[[五虎大将軍]]の筆頭と位置付けられている。 |
など、[[講談]]や元曲・[[京劇]]([[戯曲]])などでの創作が、積極的に取り入れられている。[[五虎大将軍]]の筆頭と位置付けられている。 |
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=== 研究書類 === |
=== 研究書類 === |
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*『[[三国志 (歴史書)|正史 三国志]]5:蜀書』 |
*[[陳寿]]撰、[[裴松之]] 注『[[三国志 (歴史書)|正史 三国志]]5:蜀書』 [[井波律子]]訳、[[ちくま学芸文庫]]、1993年。{{ISBN|4480080457}} |
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* |
*湖北省群衆芸術美術館編『三国志外伝 : 民間説話にみる素顔の英雄たち』[[立間祥介]]、[[岡崎由美]]訳、[[徳間書店]]、1990年。{{ISBN|9784192243315}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[井波律子]]|title=三国志演義|publisher=[[岩波書店]]|series=[[岩波新書]]|date=1994-08|isbn=9784004303480|ref= |
*{{Cite book|和書|author=[[井波律子]]|title=三国志演義|publisher=[[岩波書店]]|series=[[岩波新書]]|date=1994-08|isbn=9784004303480|ref={{Sfnref|井波|1994}}}} |
||
*{{Cite book|和書|author=[[今泉恂之介]]|title=関羽伝|publisher=[[新潮社]]|series=[[新潮選書]]|date=2000-11|isbn=9784106005954|ref= |
*{{Cite book|和書|author=[[今泉恂之介]]|title=関羽伝|publisher=[[新潮社]]|series=[[新潮選書]]|date=2000-11|isbn=9784106005954|ref={{Sfnref|今泉|2000}}}} |
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*{{Cite book|和書|author=長尾直茂|title=本邦における三国志演義受容の諸相|publisher=[[勉誠出版]]|date=2019-02|isbn=9784585291794|ref= |
*{{Cite book|和書|author=長尾直茂|title=本邦における三国志演義受容の諸相|publisher=[[勉誠出版]]|date=2019-02|isbn=9784585291794|ref={{SfnRef|長尾|2019}}}} |
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**{{Cite journal|和書|author=長尾直茂|title=江戸時代の漢詩文に見る関羽像:『三国志演義』との関連に於いて|url=http://nippon-chugoku-gakkai.org/wp-content/uploads/2019/09/51-16.pdf|journal=日本中国学会報|issue=51集|publisher=日本中国学会|date=1999-10|pages=223-239|ref={{SfnRef|長尾 |
**{{Cite journal|和書|author=長尾直茂|title=江戸時代の漢詩文に見る関羽像:『三国志演義』との関連に於いて|url=http://nippon-chugoku-gakkai.org/wp-content/uploads/2019/09/51-16.pdf|journal=日本中国学会報|issue=51集|publisher=日本中国学会|date=1999-10|pages=223-239|ref={{SfnRef|長尾|1999a}}}} |
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**{{Cite journal|和書|author=長尾直茂|title=江戸時代の絵画における関羽像の確立|journal=漢文學 解釋與研究|issue=2輯|publisher=漢文学研究会|date=1999-11|pages=101-136|ref={{SfnRef|長尾 |
**{{Cite journal|和書|author=長尾直茂|title=江戸時代の絵画における関羽像の確立|journal=漢文學 解釋與研究|issue=2輯|publisher=漢文学研究会|date=1999-11|pages=101-136|ref={{SfnRef|長尾|1999b}}}} |
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**{{Cite journal|和書|author=長尾直茂|title=近世における『三国志演義』:その翻訳と本邦への伝播をめぐって|journal=國文學・解釈と教材の研究|volume=46|issue=7|publisher=[[学燈社]]|date=2001-6|pages=65-73|ref= |
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**{{Cite journal|和書|author=長尾直茂|title=中世禅林における関羽故事の受容:「百万軍中取顔良」故事と関羽所用の大刀をめぐる一考察|journal=漢文學 解釋與研究|issue=5輯|publisher=漢文学研究会|date=2002-12|pages=29-64|ref= |
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**{{Cite journal|和書|author=長尾直茂|title=江戸時代の漢詩文に見る羽扇綸巾の諸葛孔明像:『三国志演義』との関連において|journal=漢文學 解釋與研究|issue=7輯|publisher=漢文学研究会|date=2004-12|pages=73-103|ref= |
**{{Cite journal|和書|author=長尾直茂|title=江戸時代の漢詩文に見る羽扇綸巾の諸葛孔明像:『三国志演義』との関連において|journal=漢文學 解釋與研究|issue=7輯|publisher=漢文学研究会|date=2004-12|pages=73-103|ref={{SfnRef|長尾|2004}}}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[渡邉義浩]]|title=三国志:演義から正史、そして史実へ|date=2011-03|publisher=[[中央公論新社]]|series=[[中公新書]]|isbn=9784121020994|ref={{SfnRef|渡邉 |
*{{Cite book|和書|author=[[渡邉義浩]]|title=三国志:演義から正史、そして史実へ|date=2011-03|publisher=[[中央公論新社]]|series=[[中公新書]]|isbn=9784121020994|ref={{SfnRef|渡邉|2011a}}}} |
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*{{Cite book|和書|author=渡邉義浩|title=関羽:神になった「三国志」の英雄|date=2011-10|publisher=[[筑摩書房]]|series=[[筑摩選書]]|isbn=9784480015280|ref={{SfnRef|渡邉 |
*{{Cite book|和書|author=渡邉義浩|title=関羽:神になった「三国志」の英雄|date=2011-10|publisher=[[筑摩書房]]|series=[[筑摩選書]]|isbn=9784480015280|ref={{SfnRef|渡邉|2011b}}}} |
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*{{Cite journal|和書|author1=林玲|author2=黄景春|title=従関羽到関索:関三郎信仰的生成与転変|journal=広西民族大学学報(哲学社会科学版)|issue=2|date=2022|pages=94-100, 105頁|ref={{Sfnref|林・黄|2022}}}} |
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*{{Cite journal|和書|author=李恵明|title=伝神文筆写関公——関羽芸術形象神聖化之歴史変遷|journal=上海師範大学学報|issue=2期|date=1993|pages=41-47|ref={{Sfnref|李|1993}}}} |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
2024年6月19日 (水) 07:12時点における版
関羽 | |
---|---|
![]() | |
後漢 前将軍・仮節鉞・漢寿亭侯 | |
出生 |
生年不詳 河東郡解県 (現在の山西省運城市塩湖区解州鎮常平村) |
死去 |
建安24年12月初旬(220年1月) 荊州南郡臨沮県 (現在の湖北省襄陽市南漳県) |
拼音 | Guān Yǔ |
字 | 雲長 |
諡号 | 壮繆侯/忠義侯 ほか |
別名 |
渾名:髯(ひげ) 神号: 協天大帝関聖帝君(道教) 伽藍菩薩(仏教) 文衡聖帝(儒教) |
主君 | 劉備 |
関 羽 | |
---|---|
各種表記 | |
繁体字: | 關羽/關羽 |
簡体字: | 关羽 |
拼音: | Guān Yǔ |
注音符号: | ㄍㄨㄢ ㄩˇ |
ラテン字: | Kuan1 Yu3 |
発音: | グァン・ユー |
広東語拼音: | Gwaan1 Jyu5 |
日本語読み: | かん う |
英文: |
Kuan Yü Guan Yu |
生涯
道教 |
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劉備に仕える
劉備への忠義を貫き、劉備の元へ帰る
荊州を預かる
孫権との衝突
樊城の戦いと最期
死後
人物
評価
関羽信仰
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/d4/Guan_Yu_Statue.jpg/220px-Guan_Yu_Statue.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/fc/Taiwan_2009_JinGuaShi_Historic_Gold_Mine_Valley_View_Left_Page_FRD_8822_Giant_Statue_of_GuanYu.jpg/200px-Taiwan_2009_JinGuaShi_Historic_Gold_Mine_Valley_View_Left_Page_FRD_8822_Giant_Statue_of_GuanYu.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/8b/God_Guan_Yu_Jinguashi_02.jpg/220px-God_Guan_Yu_Jinguashi_02.jpg)
京劇における関羽
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/6c/Beijing-Opera-Guangong.jpg/200px-Beijing-Opera-Guangong.jpg)
日本における「関羽」像
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/65/Guanyu.jpg/200px-Guanyu.jpg)
三国志演義での立場
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/25/Guanyu_Yanagisawa_Kien_inscription_by_Yanagisawa_Korenobu_hanging_scroll_color_on_silk_Tokyo_National_Museum.jpg/250px-Guanyu_Yanagisawa_Kien_inscription_by_Yanagisawa_Korenobu_hanging_scroll_color_on_silk_Tokyo_National_Museum.jpg)
関羽を主題とした作品
- 映画
- テレビドラマ
脚注
注釈
出典
![ウィキソース出典](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/4c/Wikisource-logo.svg/15px-Wikisource-logo.svg.png)
![ウィキソース出典](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/4c/Wikisource-logo.svg/15px-Wikisource-logo.svg.png)
参考文献
原本
- 『三国志』
- 『三国志演義』