「二条教頼」の版間の差分
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南朝の[[補任]]記録が残されていないために官歴は不明の点が多いが、[[正平 (日本)|正平]]11年/[[延文]]元年︵[[1356年]]︶4月に[[内大臣]]として初見、10年を経た正平21年/[[貞治]]5年︵[[1366年]]︶4月にもなお内大臣であり︵還任か︶、[[建徳]]2年/[[応安]]4年︵[[1371年]]︶2月に自邸で主催した﹃[[南朝三百番歌合|三百番歌合]]﹄においては[[右大臣]]であった。[[天授 (日本)|天授]]元年/[[永和 (日本)|永和]]元年︵[[1375年]]︶には[[関白]]で、翌天授2年/永和2年︵[[1376年]]︶にも同じく関白であり、[[弘和]]元年/[[永徳]]元年︵[[1381年]]︶12月に成立した﹃[[新葉和歌集]]﹄には関白[[左大臣]]として見任。その後、関白職を甥の[[二条冬実|冬実]]︵長<FONT face="MS P明朝">■</FONT>か︶に譲ったと思われ、[[元中]]6年/[[嘉慶 (日本)|嘉慶]]3年︵[[1389年]] |
南朝の[[補任]]記録が残されていないために官歴は不明の点が多いが、[[正平 (日本)|正平]]11年/[[延文]]元年︵[[1356年]]︶4月に[[内大臣]]として初見、10年を経た正平21年/[[貞治]]5年︵[[1366年]]︶4月にもなお内大臣であり︵還任か︶、[[建徳]]2年/[[応安]]4年︵[[1371年]]︶2月に自邸で主催した﹃[[南朝三百番歌合|三百番歌合]]﹄においては[[右大臣]]であった。[[天授 (日本)|天授]]元年/[[永和 (日本)|永和]]元年︵[[1375年]]︶には[[関白]]で、翌天授2年/永和2年︵[[1376年]]︶にも同じく関白であり、[[弘和]]元年/[[永徳]]元年︵[[1381年]]︶12月に成立した﹃[[新葉和歌集]]﹄には関白[[左大臣]]として見任。その後、関白職を甥の[[二条冬実|冬実]]︵長<FONT face="MS P明朝">■</FONT>か︶に譲ったと思われ、[[元中]]6年/[[嘉慶 (日本)|嘉慶]]3年︵[[1389年]]︶正月には既に故人となっていたことが[[花山院長親]]の﹃[[耕雲千首]]﹄[[奥書]]から知られる<ref>奥書中に﹁故二条前関白<small>教頼公</small>﹂とあることによるが、これは教頼が関白に在職していた事実、ひいては﹃新葉和歌集﹄の﹁関白左大臣﹂が教頼であることを示す唯一の史料としても意義深い。この史料が[[大正時代]]の[[八代国治]]によって提示される以前には、﹁関白左大臣﹂を漠然と[[二条冬実]]に比定するのが通説であった。</ref>。
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南朝歌壇における主要歌人の1人であり、﹃三百番歌合﹄︵残欠本のみ現存︶を催した他、[[天授 (日本)|天授]]元年︵[[1375年]]︶の﹃五十番歌合﹄ |
南朝歌壇における主要歌人の1人であり、﹃三百番歌合﹄︵残欠本のみ現存︶を主催した他、[[天授 (日本)|天授]]元年︵[[1375年]]︶の﹃五十番歌合﹄・﹃[[南朝五百番歌合|五百番歌合]]﹄や同2年︵[[1376年]]︶の﹃百番歌合﹄・﹃[[天授千首|千首和歌]]﹄に詠進し、同じ頃のものと思われる述懐百首・名所五十首の詠がある。﹃新葉和歌集﹄には﹁関白左大臣﹂として28首が入集した。その多くは温雅平明な[[二条派]]の歌風だが、また清新な風情の叙景歌もあり、[[宗良親王]]との間で交わした贈答︵秋下・331、哀傷・1359︶には実生活の感慨が出ている。
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
2012年12月23日 (日) 06:36時点における版
二条教頼 | |
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時代 | 南北朝時代 |
生誕 | 不詳 |
死没 | 不詳(1381年 - 1389年の間) |
改名 | 教嗣? |
官位 | 関白左大臣(南朝) |
主君 | 後村上天皇→長慶天皇 |
氏族 | 藤原北家摂関流、二条家 |
父母 | 父:二条師基か |
兄弟 | 教基、教忠、教頼 |
二条 教頼︵にじょう のりより︶は、南北朝時代の公卿・歌人。系譜は明らかでないが、関白左大臣二条師基の子にして、関白左大臣二条教基の弟と推定される。あるいは教忠や教嗣︵のりつぐ︶と同一人か[1]。南朝に仕えた。