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{{by|1972年}}、[[明星中学校・高等学校 (大阪府)|明星中学校]]3年生時に中学野球大阪府大会で優勝し、{{by|1973年}}3月に行われた村山の引退試合の前に、最後のマウンドへ上がる村山のキャッチボール相手を務める<ref name="sponichi"/>。岡田は同年、[[有田二三男]]を擁する[[関西大学北陽中学校・高等学校|北陽高校]]に進学、[[左翼手]]としてプレーする。同年の[[第55回全国高等学校野球選手権大会]]に出場を決めると、有田が3回戦︵対[[宮崎県立高鍋高等学校]]戦︶で[[ノーヒットノーラン]]を達成、準々決勝で[[愛媛県立今治西高等学校]]に敗退した<ref>﹁全国高等学校野球選手権大会70年史﹂朝日新聞社編 1989年</ref>。3年生時の{{by|1975年}}にはエース兼4番打者として予選決勝まで進出するも、[[興國高等学校]]に敗れ、甲子園出場は果たせなかった。この頃、[[読売ジャイアンツ]]からドラフト指名の話を受けたことがあったという<ref>[[週刊ベースボール]] 2020年4月27日号 連載﹁岡田彰布の﹃そらそうよ﹄﹂P.44 - 45</ref>。
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{{by|1972年}}、[[明星中学校・高等学校 (大阪府)|明星中学校]]3年生時に中学野球大阪府大会で優勝し、{{by|1973年}}3月に行われた村山の引退試合の前に、最後のマウンドへ上がる村山のキャッチボール相手を務める<ref name="sponichi"/>。岡田は同年、[[有田二三男]]を擁する[[関西大学北陽中学校・高等学校|北陽高校]]に進学、[[左翼手]]としてプレーする。同年の[[第55回全国高等学校野球選手権大会]]に出場を決めると、有田が3回戦︵対[[宮崎県立高鍋高等学校]]戦︶で[[ノーヒットノーラン]]を達成、準々決勝で[[愛媛県立今治西高等学校]]に敗退した<ref>﹁全国高等学校野球選手権大会70年史﹂朝日新聞社編 1989年</ref>。3年生時の{{by|1975年}}にはエース兼4番打者として予選決勝まで進出するも、[[興國高等学校]]に敗れ、甲子園出場は果たせなかった。この頃、[[読売ジャイアンツ]]からドラフト指名の話を受けたことがあったという<ref>[[週刊ベースボール]] 2020年4月27日号 連載﹁岡田彰布の﹃そらそうよ﹄﹂P.44 - 45</ref>。
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岡田はプロ入りせずに[[早稲田大学野球部]]の[[セレクション]]を受験、15打数14安打14[[本塁打]]︵自著では10スイング中、7スイングがフェンス超えだったという<ref>﹃オリの中の虎﹄P159</ref>︶という驚異的な打撃力を見せて一発合格を果たす。[[東京六大学野球連盟|東京六大学]]リーグでは{{by|1976年}}秋季リーグから﹁7番・左翼手﹂でレギュラーとなり、[[江川卓 (野球)|江川卓]]︵[[法政大学]]︶から3安打を放って注目を浴びる。2年生からはかつて憧れていた三宅と同じ[[三塁手]]として5番を任され、{{by|1978年}}秋季リーグでは三冠王に輝き、4年 |
岡田はプロ入りせずに[[早稲田大学野球部]]の[[セレクション]]を受験、15打数14安打14[[本塁打]]︵自著では10スイング中、7スイングがフェンス超えだったという<ref>﹃オリの中の虎﹄P159</ref>︶という驚異的な打撃力を見せて一発合格を果たす。[[東京六大学野球連盟|東京六大学]]リーグでは{{by|1976年}}秋季リーグから﹁7番・左翼手﹂でレギュラーとなり、[[江川卓 (野球)|江川卓]]︵[[法政大学]]︶から3安打を放って注目を浴びる。2年生からはかつて憧れていた三宅と同じ[[三塁手]]として5番を任され、{{by|1978年}}秋季リーグでは三冠王に輝き、4年ぶりの東京六大学リーグ優勝を果たす。{{by|1979年}}春季リーグでは主将としてリーグ連覇に貢献し、同年の[[全日本大学野球選手権]]でも決勝に進むが、[[香坂英典]]・[[高木豊]]を擁する[[中央大学硬式野球部|中央大学]]に敗れ、準優勝に終わる。第7回・第8回[[日米大学野球選手権大会]]にも出場し、全日本の4番打者として全試合に出場した。
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岡田の六大学における通算成績は88試合で309打数117安打、20本塁打、81打点・打率.379で、打点と打率は東京六大学リーグ記録として現在も破られていない。また、{{by|1977年}}秋季から5季連続でベストナインに選出されたほか、{{by|1978年}}春季・対[[東京大学硬式野球部|東京大学]]2回戦では史上2人目の[[サイクル安打]]を達成するなど、岡田は大学野球の花形選手となった。なお、岡田は4年間で指定取得単位が不足していたため、早稲田大学中退となる。
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岡田の六大学における通算成績は88試合で309打数117安打、20本塁打、81打点・打率.379で、打点と打率は東京六大学リーグ記録として現在も破られていない。また、{{by|1977年}}秋季から5季連続でベストナインに選出されたほか、{{by|1978年}}春季・対[[東京大学硬式野球部|東京大学]]2回戦では史上2人目の[[サイクル安打]]を達成するなど、岡田は大学野球の花形選手となった。なお、岡田は4年間で指定取得単位が不足していたため、早稲田大学中退となる。
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=== 阪神入団~ブレイザーとの確執 === |
=== 阪神入団~ブレイザーとの確執 === |
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上記のように、東京六大学野球史に残る記録を次々に樹立したためにプロ野球各球団の岡田獲得競争は一気に過熱、[[1979年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|ドラフト会議]]の目玉となった。岡田は10月29日のプロ入り表明会見の席において希望球団を問われ、﹁︵地元の︶阪神だったら最高ですが、[[オリックス・バファローズ|阪急︵ブレーブス︶]]などの在阪球団を希望している。その他の球団ならば、指名時に考えてみる。しかし、フロントがしっかりして優勝を争える球団なら行きたい<ref>[[朝日新聞]]1979年10月30日付。</ref>﹂﹁[[読売ジャイアンツ|巨人]]、[[埼玉西武ライオンズ|西武]]も優勝を狙えるし、良いですね<ref>[[スポーツニッポン]]1979年10月30日付。その発言を受けた当日の同紙の一面見出しは﹁﹃巨人もOK﹄岡田﹂であった。</ref>﹂と答えた。しかし、後年のインタビューでは﹁僕が一人っ子だったことで母が﹃関西に帰ってきて欲しい﹄と思っていたから、実際は阪神だけでなく阪急・[[大阪近鉄バファローズ|近鉄]]・[[福岡ソフトバンクホークス|南海]]という関西の球団ならどこでもよかった﹂と語っている<ref>2009年﹃阪神タイガースオリジナルDVDブック 猛虎列伝﹄Vol.11</ref>。ドラフトでは前述の在阪球団全てが岡田を1位指名したが、抽選の結果、阪神が交渉権を獲得、岡田の阪神入団が決まった<ref>[http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20170916-10 ︻ドラフト会議物語17︼岡田彰布が6球団競合で阪神。2年連続1位の木田勇は日本ハムへ︻79年︼]</ref>。契約金 |
上記のように、東京六大学野球史に残る記録を次々に樹立したためにプロ野球各球団の岡田獲得競争は一気に過熱、[[1979年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|ドラフト会議]]の目玉となった。岡田は10月29日のプロ入り表明会見の席において希望球団を問われ、﹁︵地元の︶阪神だったら最高ですが、[[オリックス・バファローズ|阪急︵ブレーブス︶]]などの在阪球団を希望している。その他の球団ならば、指名時に考えてみる。しかし、フロントがしっかりして優勝を争える球団なら行きたい<ref>[[朝日新聞]]1979年10月30日付。</ref>﹂﹁[[読売ジャイアンツ|巨人]]、[[埼玉西武ライオンズ|西武]]も優勝を狙えるし、良いですね<ref>[[スポーツニッポン]]1979年10月30日付。その発言を受けた当日の同紙の一面見出しは﹁﹃巨人もOK﹄岡田﹂であった。</ref>﹂と答えた。しかし、後年のインタビューでは﹁僕が一人っ子だったことで母が﹃関西に帰ってきて欲しい﹄と思っていたから、実際は阪神だけでなく阪急・[[大阪近鉄バファローズ|近鉄]]・[[福岡ソフトバンクホークス|南海]]という関西の球団ならどこでもよかった﹂と語っている<ref>2009年﹃阪神タイガースオリジナルDVDブック 猛虎列伝﹄Vol.11</ref>。ドラフトでは前述の在阪球団全てが岡田を1位指名したが、抽選の結果、阪神が交渉権を獲得、岡田の阪神入団が決まった<ref>[http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20170916-10 ︻ドラフト会議物語17︼岡田彰布が6球団競合で阪神。2年連続1位の木田勇は日本ハムへ︻79年︼]</ref>。契約金6,000万円、年俸480万円<ref>[https://www.sankei.com/sports/news/190319/spo1903190001-n2.html ︻虎番疾風録第2章︼︵50︶強運﹁岡田くじ﹂的中]</ref><ref>[https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=078-20160201-01&from=related_info_column 選手に金儲けさせてやるのも監督の責任 - 野球‥週刊ベースボールONLINE]</ref>。
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希望通り[[阪神タイガース]]へ入団した岡田だが、{{by|1980年}}春季キャンプで監督の[[ドン・ブラッシンゲーム|ドン・ブレイザー]]は﹁オカダはまだ新人。じっくり鍛えたほうが良い﹂という考えで、二塁や外野の練習をさせていた。岡田はブレイザーとの初対面の際に、通訳兼コーチの[[市原稔]]を介して﹁いくら力のあるルーキーでも、メジャーでは最初から試合に起用することは無い﹂と告げられたが、岡田は﹁そんなん関係ないやん﹂という反骨心が芽生えたと著書に記している<ref>﹃頑固力﹄︵角川SSC新書、2008年︶p. 89</ref>。しかし当時の野手陣には三塁手に﹁ミスター・タイガース﹂[[掛布雅之]]、遊撃手として岡田が入団する前年に[[埼玉西武ライオンズ|太平洋クラブライオンズ→クラウンライターライオンズ]]から加入して、後に岡田の後任で阪神監督を務める[[真弓明信]]、二塁手に[[中村勝広]]・[[榊原良行]]と、[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]から獲得した[[デーブ・ヒルトン (野球)|デーブ・ヒルトン]]、一塁手に真弓が加入前まで遊撃手だった[[藤田平]]がおり、岡田の入る場所は無かった。しかも、ヒルトンはアリゾナキャンプの途中からチームに合流したため、二塁へのコンバート計画を聞いていた岡田は﹁なぜ二塁手のヒルトンを獲得するのか﹂と複雑な気持ちになり、まもなくブレイザーからは外野の練習をするように指示されたという<ref>﹃頑固力﹄p. 90</ref><ref>[https://ykt.sega-online.jp/special/interview/history/vol49/ スペシャルインタビュー岡田彰布]</ref><ref>[http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=078-20171009-01 岡田彰布コラム﹁阪神が2位を死守した場合CSを戦う上で先発の枚数が足りないわな。ベンチの判断に注目や﹂ - 野球‥週刊ベースボールONLINE]</ref>。
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希望通り[[阪神タイガース]]へ入団した岡田だが、{{by|1980年}}春季キャンプで監督の[[ドン・ブラッシンゲーム|ドン・ブレイザー]]は﹁オカダはまだ新人。じっくり鍛えたほうが良い﹂という考えで、二塁や外野の練習をさせていた。岡田はブレイザーとの初対面の際に、通訳兼コーチの[[市原稔]]を介して﹁いくら力のあるルーキーでも、メジャーでは最初から試合に起用することは無い﹂と告げられたが、岡田は﹁そんなん関係ないやん﹂という反骨心が芽生えたと著書に記している<ref>﹃頑固力﹄︵角川SSC新書、2008年︶p. 89</ref>。しかし当時の野手陣には三塁手に﹁ミスター・タイガース﹂[[掛布雅之]]、遊撃手として岡田が入団する前年に[[埼玉西武ライオンズ|太平洋クラブライオンズ→クラウンライターライオンズ]]から加入して、後に岡田の後任で阪神監督を務める[[真弓明信]]、二塁手に[[中村勝広]]・[[榊原良行]]と、[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]から獲得した[[デーブ・ヒルトン (野球)|デーブ・ヒルトン]]、一塁手に真弓が加入前まで遊撃手だった[[藤田平]]がおり、岡田の入る場所は無かった。しかも、ヒルトンはアリゾナキャンプの途中からチームに合流したため、二塁へのコンバート計画を聞いていた岡田は﹁なぜ二塁手のヒルトンを獲得するのか﹂と複雑な気持ちになり、まもなくブレイザーからは外野の練習をするように指示されたという<ref>﹃頑固力﹄p. 90</ref><ref>[https://ykt.sega-online.jp/special/interview/history/vol49/ スペシャルインタビュー岡田彰布]</ref><ref>[http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=078-20171009-01 岡田彰布コラム﹁阪神が2位を死守した場合CSを戦う上で先発の枚数が足りないわな。ベンチの判断に注目や﹂ - 野球‥週刊ベースボールONLINE]</ref>。
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{{by|1980年}}の先発内野手は、一塁手ヒルトン、二塁手[[加藤博一]]、三塁手[[掛布雅之]]、遊撃手[[真弓明信]]の布陣でスタートした。ヒルトンはオープン戦で特大 |
{{by|1980年}}の先発内野手は、一塁手ヒルトン、二塁手[[加藤博一]]、三塁手[[掛布雅之]]、遊撃手[[真弓明信]]の布陣でスタートした。ヒルトンはオープン戦で特大本塁打を放ったが<ref>[https://www.zakzak.co.jp/spo/news/201022/bas2010220001-n1.html 【田所龍一 虎番疾風録 Vol.67】ブレイザー監督と報道陣“対立”のきっかけ 岡田彰布の起用めぐり「お前たちが監督をしてみろ」 (1/2ページ) - zakzak:夕刊フジ公式サイト]</ref>シーズン開幕直後から打撃不振に陥ったものの守備面が評価されて起用され続け、その後、掛布が負傷離脱した4月19日、20日も岡田の起用が見合わせられたため(この時、岡田も負傷していたという説もある)、ファンの間から「なぜ岡田を出さない」という不満が盛り上がり、ファンの一部からはヒルトンやブレイザーを悪者扱いし、更には妊娠中の妻が同乗していたヒルトンの車を取り囲み罵声を浴びせ、車を蹴るといった嫌がらせが激しくなった。4月22日の対大洋戦前に[[小津正次郎]]球団社長がブレイザー監督と2時間会談して説得し、その日以降は岡田が三塁手で起用された<ref>[週刊ベースボール1980年6月2日号]</ref>。ヒルトンは18試合出場、打率.197、本塁打0本の不振から抜けられずに5月10日に解雇された。阪神球団は新たに[[ブルース・ボウクレア]]外野手を獲得したが、これに反対するブレイザーと球団の関係が極度に悪化し、5月15日、球団は不明瞭な形でブレイザーを解任し、コーチだった[[中西太]]に監督を交代させた<ref>[http://showa.mainichi.jp/comeback/2009/05/post-20de.html 昭和55年5月15日 阪神 ブレイザー監督を解任]</ref><ref>[http://topics.smt.docomo.ne.jp/article/dailyfield/entertainment/dailyfield-20180711007 「岡田か、ヒルトンか」阪神ブレイザー監督の誤算(中編)]</ref><ref>[https://www.sankei.com/west/news/190806/wst1908060020-n1.html 【虎番疾風録第3章】(33)カミソリ、ゴキブリ、ネズミの死骸…]</ref>。掛布が復帰した5月17日以降は二塁手で起用され[[最優秀新人 (日本プロ野球)|新人王]]に繋がったが、自らの力でチャンスを掴みたかったので、当時ヒルトンが出場する度に「オカダ・オカダ」とコールが湧いたことに対して、後年のインタビューで「あの岡田コールは嫌だった」と苦言を呈している。また、後年、ブレイザーに親しい人物からブレイザーの「憎くて使わなかったのではなく、期待されて入団してきたルーキーだから余分な力みを生まない楽なところから使ってやりたかった。だから時期がずれた」というコメントを伝えられ、「今となればこのメッセージはある程度、理解できるようになった。ブレイザーもかなり悩んだのだろうし、考えたのだろう。自分も監督になり、そのことはよくわかった」と著書に記している<ref>『頑固力』p. 163</ref>。 |
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この年、[[1980年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]の第1戦において22歳7 |
この年、[[1980年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]の第1戦において22歳7か月で代打本塁打を放ったが<ref>{{Cite web |url=https://npb.jp/bis/scores/allstargame/linescore1980.html |title=1980年度オールスター・ゲーム 試合結果 |publisher=日本野球機構 |date= |accessdate=2021-05-29}}</ref>、これは2015年の第2戦で19歳11か月だった[[森友哉]]が代打本塁打を放つまでオールスターでの代打本塁打の最年少記録だった<ref>[http://www.nikkansports.com/baseball/news/1509332.html 西武森、予告初球弾 清原以来10代球宴2人目] 日刊スポーツ 2015年7月19日紙面から</ref>。 |
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ブレイザー監督とヒルトン退団の遠因となったこの年の岡田のポジションは、[[掛布雅之]]が故障したことで三塁手が最も多く<ref>[http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20170819-10 阪神ゴールデンルーキー・岡田彰布の2万号は「そらそうよ」だったのか?【1980年8月19日】]</ref>、二塁手、一塁手でも出場している。打順は前半の8番から次第に順番が繰り上がり、終盤は5番で起用された。 |
ブレイザー監督とヒルトン退団の遠因となったこの年の岡田のポジションは、[[掛布雅之]]が故障したことで三塁手が最も多く<ref>[http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20170819-10 阪神ゴールデンルーキー・岡田彰布の2万号は「そらそうよ」だったのか?【1980年8月19日】]</ref>、二塁手、一塁手でも出場している。打順は前半の8番から次第に順番が繰り上がり、終盤は5番で起用された。 |
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{{by|1983年}}も開幕から79試合で18本塁打を記録し、本塁打王争いにも加わっていたが、7月10日の対広島戦で右大腿二頭筋を断裂し、残りのシーズンを棒に振る<ref>[https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/164575 <第18回>吉田さんはイメージと違う腹の据わった監督だった|野球|日刊ゲンダイDIGITAL]</ref>。以後、脚部の負傷に悩まされることになる<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXLASJB10H04_Q5A210C1AA1P00/ 堅守支えた名参謀 阪神タイガース、天地を行く(2)]</ref>。岡田が離脱した二塁手に遊撃手だった[[真弓明信]]が入り、空いた遊撃手は[[平田勝男]]が入った。 |
{{by|1983年}}も開幕から79試合で18本塁打を記録し、本塁打王争いにも加わっていたが、7月10日の対広島戦で右大腿二頭筋を断裂し、残りのシーズンを棒に振る<ref>[https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/164575 <第18回>吉田さんはイメージと違う腹の据わった監督だった|野球|日刊ゲンダイDIGITAL]</ref>。以後、脚部の負傷に悩まされることになる<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXLASJB10H04_Q5A210C1AA1P00/ 堅守支えた名参謀 阪神タイガース、天地を行く(2)]</ref>。岡田が離脱した二塁手に遊撃手だった[[真弓明信]]が入り、空いた遊撃手は[[平田勝男]]が入った。 |
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{{by|1984年}}、5月19日対広島戦から |
{{by|1984年}}、5月19日対広島戦から先発に復帰した。当初二塁手を中心に[[ランディ・バース]]の帰国時などに時折一塁手も守るという形だったが、後半戦は主に[[右翼手]]で起用された<ref>[https://hochi.news/articles/20210326-OHT1T50315.html 岡田彰布をなぜブレイザー監督が使わなかったか…阪神入団60年・安藤統男の球界見聞録<7> : スポーツ報知]</ref>。打撃は打率.297、本塁打15本、51打点と、故障明けとしては悪くない成績を残している。
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{{by|1985年}}、[[吉田義男]]監督が就任し、真弓と入れ替わり、再び二塁手に戻る<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXLASJB06H3S_W5A200C1AA1P00/ 30年前の熱気よ、もう一度 阪神タイガース、天地を行く︵1︶]</ref>。4月17日、甲子園での対巨人戦で、バース・掛布に続き[[バックスクリーン3連発]]の締めを打った。この時、バース・掛布と続いた後の岡田の打席にかかるプレッシャーは大きく、﹁ヒットで良いという考えはなかった。こうなったらホームランを狙うしかないやろう。絶対、スライダーしかないな!﹂と後に振り返っている。また、バックスクリーン3連発前日の対巨人戦でも、1-2で迎えた4回裏 |
{{by|1985年}}、[[吉田義男]]監督が就任し、真弓と入れ替わり、再び二塁手に戻る<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXLASJB06H3S_W5A200C1AA1P00/ 30年前の熱気よ、もう一度 阪神タイガース、天地を行く︵1︶]</ref>。4月17日、甲子園での対巨人戦で、バース・掛布に続き[[バックスクリーン3連発]]の締めを打った。この時、バース・掛布と続いた後の岡田の打席にかかるプレッシャーは大きく、﹁ヒットで良いという考えはなかった。こうなったらホームランを狙うしかないやろう。絶対、スライダーしかないな!﹂と後に振り返っている。また、バックスクリーン3連発前日の対巨人戦でも、1-2で迎えた4回裏二死、四球で出塁した岡田は、[[佐野仙好]]が放った平凡なフライを遊撃手[[河埜和正]]が落球する間に一塁から一気に本塁生還し、大量7点の猛攻へと繋げる活躍を見せている。監督の[[吉田義男]]も﹁あの岡田の全力疾走が大きかった﹂と評価した。
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同年8月12日、当時の球団社長だった[[中埜肇 (実業家)|中埜肇]]が[[日本航空123便墜落事故]]で死亡するという悲劇が起こった。特に阪神ナインの中でも中埜に目をかけてもらい、自らも“飛行機派”と称していた岡田の受けたショックは大きかったという。8月は[[打率]].429・10本塁打・31[[打点]]の活躍でプロ入り初の[[月間MVP (日本プロ野球)|月間MVP]]を受賞。更に9月15日の甲子園での対中日戦ではサヨナラ2 |
同年8月12日、当時の球団社長だった[[中埜肇 (実業家)|中埜肇]]が[[日本航空123便墜落事故]]で死亡するという悲劇が起こった。特に阪神ナインの中でも中埜に目をかけてもらい、自らも“飛行機派”と称していた岡田の受けたショックは大きかったという。8月は[[打率]].429・10本塁打・31[[打点]]の活躍でプロ入り初の[[月間MVP (日本プロ野球)|月間MVP]]を受賞。更に9月15日の甲子園での対中日戦ではサヨナラ2点本塁打、翌16日にもサヨナラ中前打を放ち、2試合連続サヨナラ打を記録する。最終的に選手会長兼5番打者として、バースに次ぐリーグ2位の打率.342・リーグ4位の35本塁打・リーグ5位の101打点という自己最高の好成績を残し、真弓・バース・掛布らとともに球団初の日本一に貢献した。
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{{by|1986年}}は前年と同じく5番二塁手で開幕 |
{{by|1986年}}は前年と同じく5番二塁手で開幕戦に先発出場すると、4月後半に掛布が故障離脱したのに伴い4番打者に抜擢された。5月半ばに掛布が復帰すると5番に戻るが、この年の掛布は再離脱を繰り返したため8月末以降はシーズン終了まで4番打者を務めた。9月3日に父を亡くしたが、翌9月4日の対大洋戦に出場して本塁打を放った<ref>[https://www.sankei.com/west/news/130327/wst1303270055-n3.html 「オヤジ、打ったぞ!」岡田、父に捧げる涙の追悼弾(水本義政)]</ref>。前年よりは数字を落としたが、打率.268、本塁打26本、打点70と主軸打者に相応しい成績を残した。 |
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{{by|1987年}}は打率2割5分台・本塁打14本とチームの不振を語るような成績になるが、その後は3年連続20本塁打を記録した。 |
{{by|1987年}}は打率2割5分台・本塁打14本とチームの不振を語るような成績になるが、その後は3年連続20本塁打を記録した。 |
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{{by|1988年}}に[[村山実]]監督が就任し、開幕時は5番二塁手で、5月以降は4番二塁手で起用された。打率.267、本塁打23本、打点72と打撃成績が復調した。
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{{by|1988年}}に[[村山実]]監督が就任し、開幕時は5番二塁手で、5月以降は4番二塁手で起用された。打率.267、本塁打23本、打点72と打撃成績が復調した。
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{{by|1989年}}、掛布の引退に伴い、大学時代に守っていた三塁手にコンバートされた。6月25日の甲子園での対巨人戦、1-4で迎えた8回裏 |
{{by|1989年}}、掛布の引退に伴い、大学時代に守っていた三塁手にコンバートされた。6月25日の甲子園での対巨人戦、1-4で迎えた8回裏二死満塁で、[[ビル・ガリクソン]]から左翼ポール際へ劇的な逆転満塁本塁打を放った。奇しくも30年前の[[天覧試合]]と同じ日で、スコアも5-4と裏返しとなり、天覧試合勝利投手の巨人監督・[[藤田元司]]の目の前で、敗戦投手だった[[村山実]]の仇討ちを果たした。イニングの最初にスコアボードを見て﹁2アウト満塁なら自分まで回ってくる﹂と思っていたら本当に回ってきたと後に語っており、ヒーローインタビューでも﹁3点差だったので満塁で回ってきたらホームランしかないと思った﹂と胸を張った。この本塁打を含めて月間8本塁打などの活躍で、同じく9本塁打のチームメイトの[[セシル・フィルダー]]を抑えて、プロ入り2度目の[[月間MVP (日本プロ野球)|月間MVP]]を受賞した。
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{{by|1990年}}からは[[八木裕]]の台頭により、二塁手に戻った。{{by|1991年}}は規定打席到達では自己ワーストの打率、安打、打点に終わる。{{by|1992年}}、[[日本プロ野球選手会]]会長として[[フリーエージェント (日本プロ野球)|FA]]制度導入に尽力する。選手としてはこの年から二塁を[[和田豊]]に譲り、[[一塁手|一塁]]にコンバートされる。シーズンでは[[新庄剛志]]や[[亀山努]]の台頭に加えて、打率1割台と深刻な打撃不振に陥り、先発出場は激減。4月25日の試合では[[代打]]に亀山を送られた場面もあった。この夜、遠征先の宿舎で食事中に亀山が謝りに来たのに対し「お前はなんも悪ないやろ」と答えたが、その模様を他の若い選手が見て見ぬふりをしているのに気づき、自分に周囲が気を遣っていると感じていた<ref>『頑固力』pp. 110 - 111</ref>。 |
{{by|1990年}}からは[[八木裕]]の台頭により、二塁手に戻った。{{by|1991年}}は規定打席到達では自己ワーストの打率、安打、打点に終わる。{{by|1992年}}、[[日本プロ野球選手会]]会長として[[フリーエージェント (日本プロ野球)|FA]]制度導入に尽力する。選手としてはこの年から二塁を[[和田豊]]に譲り、[[一塁手|一塁]]にコンバートされる。シーズンでは[[新庄剛志]]や[[亀山努]]の台頭に加えて、打率1割台と深刻な打撃不振に陥り、先発出場は激減。4月25日の試合では[[代打]]に亀山を送られた場面もあった。この夜、遠征先の宿舎で食事中に亀山が謝りに来たのに対し「お前はなんも悪ないやろ」と答えたが、その模様を他の若い選手が見て見ぬふりをしているのに気づき、自分に周囲が気を遣っていると感じていた<ref>『頑固力』pp. 110 - 111</ref>。 |
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{{by|1998年}}、二軍助監督兼打撃コーチとして阪神に復帰。またこの頃、自動車運転免許を取得。翌{{by|1999年}}には二軍監督兼打撃コーチとなる。ここで育成していた選手たちが後に主力選手に成長することになる。{{by|2000年}}から{{by|2002年}}までは二軍監督︵専任︶。1999年と2002年には[[ファーム日本選手権]]で優勝し、2度、日本一となった。後の一軍監督退任時に思い出として﹁二軍で若手が育っていくのが楽しみで、それが︵一軍監督時よりも︶思い出に残る﹂と語っている。
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{{by|1998年}}、二軍助監督兼打撃コーチとして阪神に復帰。またこの頃、自動車運転免許を取得。翌{{by|1999年}}には二軍監督兼打撃コーチとなる。ここで育成していた選手たちが後に主力選手に成長することになる。{{by|2000年}}から{{by|2002年}}までは二軍監督︵専任︶。1999年と2002年には[[ファーム日本選手権]]で優勝し、2度、日本一となった。後の一軍監督退任時に思い出として﹁二軍で若手が育っていくのが楽しみで、それが︵一軍監督時よりも︶思い出に残る﹂と語っている。
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{{by|2003年}}に一軍内野守備走塁コーチへ配置転換。三塁ベースコーチを担当した。三塁ベースコーチとしての状況判断は正確無比であった<ref>[https://www.sanspo.com/baseball/news/20160622/tig16062205000003-n2.html 岡田監督、﹁星野流﹂と決別…異質の激しさ示した]</ref>。[[大西崇之]]は現役時代に﹁うまいと思った |
{{by|2003年}}に一軍内野守備走塁コーチへ配置転換。三塁ベースコーチを担当した。三塁ベースコーチとしての状況判断は正確無比であった<ref>[https://www.sanspo.com/baseball/news/20160622/tig16062205000003-n2.html 岡田監督、﹁星野流﹂と決別…異質の激しさ示した]</ref>。[[大西崇之]]は現役時代に﹁うまいと思った三塁コーチ﹂について、岡田の名を挙げた<ref>[https://www.fnn.jp/articles/-/144523 1・3塁のベースコーチを入れ替えるドラゴンズの狙い…OBの大西崇之さんが語った﹁3塁コーチの極意﹂] - FUNプライムオンライン 2021年2月15日</ref>。
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=== 阪神監督時代 === |
=== 阪神監督時代 === |
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2003年オフ、[[星野仙一]]が健康問題のために監督を勇退したのを受け、後任として一軍監督に就任。球団史上初の大阪府出身の監督となった<ref name="sponichi"/>。就任時の挨拶は﹁期待してもらって結構です﹂。監督初年度の{{by|2004年}}は[[井川慶]]ら優勝に貢献した選手の不調に加え[[伊良部秀輝]]のセットポジションの欠点、[[ジョージ・アリアス]]の好不調の波の激しさ、[[マイク・キンケード]]の度重なる[[死球]]によるけが、さらに[[ジェロッド・リガン]]の負傷やその年に開催の[[アテネオリンピック (2004年)|アテネオリンピック]]の野球に出場した[[ジェフ・ウィリアムス]]と[[安藤優也]]の不在による戦力低下が響いて4位に終わった。
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2003年オフ、[[星野仙一]]が健康問題のために監督を勇退したのを受け、後任として一軍監督に就任。球団史上初の大阪府出身の監督となった<ref name="sponichi"/>。就任時の挨拶は﹁期待してもらって結構です﹂。監督初年度の{{by|2004年}}は[[井川慶]]ら優勝に貢献した選手の不調に加え[[伊良部秀輝]]のセットポジションの欠点、[[ジョージ・アリアス]]の好不調の波の激しさ、[[マイク・キンケード]]の度重なる[[死球]]によるけが、さらに[[ジェロッド・リガン]]の負傷やその年に開催の[[アテネオリンピック (2004年)|アテネオリンピック]]の野球に出場した[[ジェフ・ウィリアムス]]と[[安藤優也]]の不在による戦力低下が響いて4位に終わった。
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{{by|2005年}}9月7日[[ナゴヤドーム]]、中日との2ゲーム差での首位決戦において、9回表の微妙な本塁クロスプレーでアウトの判定が伏線になり |
{{by|2005年}}9月7日[[ナゴヤドーム]]、中日との2ゲーム差での首位決戦において、9回表の微妙な本塁クロスプレーでアウトの判定が伏線になり︵本塁憤死した走者は奇しくも[[中村豊 (野球)|中村豊]]︶、その直後の9回裏本塁セーフの判定に激昂し、選手全員を一時引き揚げさせ抗議。その後試合は再開するも、[[赤星憲広]]の落球で一打[[サヨナラゲーム|サヨナラ]]負けのピンチになる。ここで監督就任後初めてマウンドへ向かい、[[リリーフ|クローザー]]・[[久保田智之]]にかけた言葉は'''﹁もう打たれろ!打たれてもお前は悪ないからな。オレが責任持つからもうムチャクチャほったれ︵投げたれ︶!﹂'''というものだった。久保田は後続の[[渡邉博幸]]、[[タイロン・ウッズ]]を連続[[三振]]で抑え、11回表の[[中村豊 (野球)|中村豊]]の本塁打が決勝点となり死闘を制した。
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この一見投げやりにも取れる言葉の裏には、たとえこの試合に負け、さらには優勝を逃したとしても全責任を自分が背負うという強い覚悟が込められていた。試合終了後、中日監督の[[落合博満]]に'''﹁今日は監督で負けた﹂'''とまで言わしめた。結果的にこの戦いを境に阪神は連勝を重ね、亡父の誕生日に当たる9月29日、甲子園球場での対巨人戦でリーグ優勝を達成した。
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この一見投げやりにも取れる言葉の裏には、たとえこの試合に負け、さらには優勝を逃したとしても全責任を自分が背負うという強い覚悟が込められていた。試合終了後、中日監督の[[落合博満]]に'''﹁今日は監督で負けた﹂'''とまで言わしめた。結果的にこの戦いを境に阪神は連勝を重ね、亡父の誕生日に当たる9月29日、甲子園球場での対巨人戦でリーグ優勝を達成した。
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しかし、[[2005年の日本シリーズ|日本シリーズ]]は[[千葉ロッテマリーンズ]]に4戦4敗のストレート負けとなった。また、その際にリードされているからという理由で[[JFK (阪神タイガース)|JFK]]([[ジェフ・ウィリアムス]]、[[藤川球児]]、久保田智之)を起用しなかったことにファンや解説者にマスコミなどから不満があがった。 |
しかし、[[2005年の日本シリーズ|日本シリーズ]]は[[千葉ロッテマリーンズ]]に4戦4敗のストレート負けとなった。また、その際にリードされているからという理由で[[JFK (阪神タイガース)|JFK]]([[ジェフ・ウィリアムス]]、[[藤川球児]]、久保田智之)を起用しなかったことにファンや解説者にマスコミなどから不満があがった。 |
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11月19日、甲子園球場で開催されたファン感謝デーのイベント「夢のOB交流戦」という紅白戦で、岡田は白組の[[選手兼任監督|プレイングマネージャー]]として出場。試合の最後に「代打、オレ」で打席に立ち、サヨナラ2 |
11月19日、甲子園球場で開催されたファン感謝デーのイベント「夢のOB交流戦」という紅白戦で、岡田は白組の[[選手兼任監督|プレイングマネージャー]]として出場。試合の最後に「代打、オレ」で打席に立ち、サヨナラ2点本塁打を打ちMVPに輝いた。 |
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{{by|2006年}}3月6日、絶滅が危惧されている野生の[[トラ]]を保護するため、トラ保護基金に2006年シーズンの公式勝利数と同じ数のトラ保護レンジャー用の装備を寄付すると表明。そして、2006年の勝利数と同じ84個分の装備品の代金75万6,000円(1セット約9,000円)を寄付した。この活動が評価され、12月12日にインド政府から「阪神の最後まで諦めない姿勢に勇気づけられた。支援に非常に感謝している」などと記された感謝のメッセージを受け取っている。 |
{{by|2006年}}3月6日、絶滅が危惧されている野生の[[トラ]]を保護するため、トラ保護基金に2006年シーズンの公式勝利数と同じ数のトラ保護レンジャー用の装備を寄付すると表明。そして、2006年の勝利数と同じ84個分の装備品の代金75万6,000円(1セット約9,000円)を寄付した。この活動が評価され、12月12日にインド政府から「阪神の最後まで諦めない姿勢に勇気づけられた。支援に非常に感謝している」などと記された感謝のメッセージを受け取っている。 |
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{{by|2010年}}3月31日、対[[北海道日本ハムファイターズ]]戦︵東京ドーム︶で、[[T-岡田]]が勝ち越し本塁打を放ち勝利。阪神監督時代から通算400勝目を達成した。6月8日に投手コーチである[[星野伸之]]が休養に入り、後任には[[小林宏 (野球)|小林宏]]が就任したが小林の経験の少なさから、投手起用についても自身が決定することを明言し、投手コーチも兼任することとなった<ref>[http://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20100609-639571.html 非常事態に岡田監督“兼任”投手コーチ]</ref>。このシーズンは交流戦で優勝を飾り、T-岡田や投手の[[金子千尋]]の躍進があったが、後半に入って敗戦が増え、最終的には5位に終わった。
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{{by|2010年}}3月31日、対[[北海道日本ハムファイターズ]]戦︵東京ドーム︶で、[[T-岡田]]が勝ち越し本塁打を放ち勝利。阪神監督時代から通算400勝目を達成した。6月8日に投手コーチである[[星野伸之]]が休養に入り、後任には[[小林宏 (野球)|小林宏]]が就任したが小林の経験の少なさから、投手起用についても自身が決定することを明言し、投手コーチも兼任することとなった<ref>[http://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20100609-639571.html 非常事態に岡田監督“兼任”投手コーチ]</ref>。このシーズンは交流戦で優勝を飾り、T-岡田や投手の[[金子千尋]]の躍進があったが、後半に入って敗戦が増え、最終的には5位に終わった。
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{{by|2011年}}シーズン序盤はチーム打率が2割を切るなどの極度の打撃不振に陥り一時は最下位となった。交流戦に入ると調子を取り戻し15勝7敗2分の2位と躍進したが、その後は大型連勝と連敗を繰り返し、好不調の波が激しかった。7月2日・3日に[[福岡ソフトバンクホークス]]に2日連続のサヨナラ勝ち、そして5日には[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]にもサヨナラ勝ちを |
{{by|2011年}}シーズン序盤はチーム打率が2割を切るなどの極度の打撃不振に陥り一時は最下位となった。交流戦に入ると調子を取り戻し15勝7敗2分の2位と躍進したが、その後は大型連勝と連敗を繰り返し、好不調の波が激しかった。7月2日・3日に[[福岡ソフトバンクホークス]]に2日連続のサヨナラ勝ち、そして5日には[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]にもサヨナラ勝ちを収め、阪神監督時代の2008年9月9日 - 11日に[[東京ヤクルトスワローズ]]相手に3試合連続サヨナラ勝ちして以来、2回目の3試合連続サヨナラ勝ちを達成したプロ野球史上唯一の監督となり、8月7日の対[[千葉ロッテマリーンズ]]戦で監督通算500勝を達成した。しかし、引き分けでも[[クライマックスシリーズ]]︵CS︶進出だった最終戦に敗れて1毛差で[[埼玉西武ライオンズ]]に3位を奪われ、チームとして3年ぶりのCS進出・Aクラスを逃した。また、この年は不振に見舞われたキャプテンの[[後藤光尊]]や[[アーロム・バルディリス]]、さらに中盤には4番のT-岡田といった主力選手を次々に二軍落ちさせるなど、阪神監督時代では余り見られなかった一軍と二軍との選手入れ替えを頻繁に行う采配が見受けられた。自身の幕のなかったポストシーズンには巨人の内紛について評論、サッカー日本代表が野球の陰に隠れてしまうことを憂う一面を見せた<ref>[http://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20111112-862291.html 岡田監督﹁サッカー関係者が怒りよるよ﹂]</ref>。
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{{by|2012年}}は前年オフに大型補強をおこない、﹁優勝﹂を口にするほどであった<ref>[http://www.daily.co.jp/baseball/2011/12/16/0004686286.shtml 岡田監督﹁絶対はないけど絶対優勝する﹂] デイリースポーツ2011年12月16日</ref>。しかしシーズンでは主力選手の相次ぐ故障離脱もあり開幕早々から低迷。4月に1度だけ勝率を5割に戻したことはあったものの貯金を作ることは1度もできず、パ・リーグでいち早くBクラスが確定。さらに3年契約が期間満了を迎えることを受け、9月22日に球団から契約を更新しないことを告げられ、シーズン終了をもって正式に退任することが発表された<ref>[http://www.buffaloes.co.jp/news/detail/2663.html 岡田彰布監督任期満了のお知らせ] オリックス・バファローズ 2012年9月22日</ref>。退任発表時、球団側はシーズン終了まで指揮を執らせる方針であったが、シーズン最下位が確定した翌日の9月25日、﹁来シーズンを見据えたスタートをいち早く切りたい﹂という理由で方針転換<ref>[https://gendai.ismedia.jp/articles/-/33981 独占告白 敗軍の将おおいにボヤく 岡田彰布反省------選手は﹁監督が怖い﹂といって離れていった]</ref>。ヘッドコーチの[[高代延博]]とともに休養することを発表。事実上の﹁解任﹂となった<ref>[http://www.buffaloes.co.jp/news/detail/2667.html 岡田監督、高代ヘッドコーチ休養のお知らせ] オリックス・バファローズ 2012年9月25日</ref>。
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{{by|2012年}}は前年オフに大型補強をおこない、﹁優勝﹂を口にするほどであった<ref>[http://www.daily.co.jp/baseball/2011/12/16/0004686286.shtml 岡田監督﹁絶対はないけど絶対優勝する﹂] デイリースポーツ2011年12月16日</ref>。しかしシーズンでは主力選手の相次ぐ故障離脱もあり開幕早々から低迷。4月に1度だけ勝率を5割に戻したことはあったものの貯金を作ることは1度もできず、パ・リーグでいち早くBクラスが確定。さらに3年契約が期間満了を迎えることを受け、9月22日に球団から契約を更新しないことを告げられ、シーズン終了をもって正式に退任することが発表された<ref>[http://www.buffaloes.co.jp/news/detail/2663.html 岡田彰布監督任期満了のお知らせ] オリックス・バファローズ 2012年9月22日</ref>。退任発表時、球団側はシーズン終了まで指揮を執らせる方針であったが、シーズン最下位が確定した翌日の9月25日、﹁来シーズンを見据えたスタートをいち早く切りたい﹂という理由で方針転換<ref>[https://gendai.ismedia.jp/articles/-/33981 独占告白 敗軍の将おおいにボヤく 岡田彰布反省------選手は﹁監督が怖い﹂といって離れていった]</ref>。ヘッドコーチの[[高代延博]]とともに休養することを発表。事実上の﹁解任﹂となった<ref>[http://www.buffaloes.co.jp/news/detail/2667.html 岡田監督、高代ヘッドコーチ休養のお知らせ] オリックス・バファローズ 2012年9月25日</ref>。
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[[日本選手権シリーズ|日本シリーズ]]や[[クライマックスシリーズ]]などの、短期決戦で行われるポストシーズンゲームでは、その時の選手のコンディションよりも、シーズン当初からのチームの理想形にこだわるタイプであり、成績は芳しくない。 |
[[日本選手権シリーズ|日本シリーズ]]や[[クライマックスシリーズ]]などの、短期決戦で行われるポストシーズンゲームでは、その時の選手のコンディションよりも、シーズン当初からのチームの理想形にこだわるタイプであり、成績は芳しくない。 |
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チームの方針としては﹁優勝﹂を目指したチーム作りであるが、シーズン中での﹁優勝﹂と明言することは避けている一面をもつ。2009年にオリックス監督に就任した際にも﹁優勝てよう言わないです。怖いです。そんな簡単に優勝できるとは思ってないです。﹂とまで発言していた。例として、2010年のオリックス監督時にチームはセ・パ交流戦優勝を狙えるポジションにいた。しかし岡田はあえて﹁優勝﹂という言葉を封印し、報道陣には'''﹁アレ﹂'''という言い回しを多用した。するとチームは交流戦首位に立ち、オーナーの[[宮内義彦]]に﹁僕も﹃アレ﹄としか言いません﹂とまで言わせた<ref>﹃[[中日スポーツ]]﹄2010年6月13日付紙面</ref>。そしてチームが交流戦優勝を果たし、チームは記念グッズとして﹁アレしてもうた﹂の言葉が入ったシャツやタオルを販売することとなった<ref>[http://www.nikkansports.com/baseball/professional/report/f-bb-tp1-20100618-642942.html ︻オリックス︼アレTシャツ発売へ - |
チームの方針としては﹁優勝﹂を目指したチーム作りであるが、シーズン中での﹁優勝﹂と明言することは避けている一面をもつ。2009年にオリックス監督に就任した際にも﹁優勝てよう言わないです。怖いです。そんな簡単に優勝できるとは思ってないです。﹂とまで発言していた。例として、2010年のオリックス監督時にチームはセ・パ交流戦優勝を狙えるポジションにいた。しかし岡田はあえて﹁優勝﹂という言葉を封印し、報道陣には'''﹁アレ﹂'''という言い回しを多用した。するとチームは交流戦首位に立ち、オーナーの[[宮内義彦]]に﹁僕も﹃アレ﹄としか言いません﹂とまで言わせた<ref>﹃[[中日スポーツ]]﹄2010年6月13日付紙面</ref>。そしてチームが交流戦優勝を果たし、チームは記念グッズとして﹁アレしてもうた﹂の言葉が入ったシャツやタオルを販売することとなった<ref>[http://www.nikkansports.com/baseball/professional/report/f-bb-tp1-20100618-642942.html ︻オリックス︼アレTシャツ発売へ] - 日刊スポーツ2010年6月18日配信、同日閲覧</ref>。
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2010年のセ・パ交流戦では[[指名打者]]制を使用できないビジターゲーム12試合のうち、11試合で投手を8番に置いた。 |
2010年のセ・パ交流戦では[[指名打者]]制を使用できないビジターゲーム12試合のうち、11試合で投手を8番に置いた。 |
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[[プロ野球ドラフト会議|ドラフト会議]]ではこれまでのところ、指名重複した場合の抽選でくじ運に恵まれていない。阪神監督時代は[[髙濱卓也]]を引き当てたのみで通算1勝3敗と外れが先行している<ref>岡田監督、運悪い?ドラフトくじ引き役“白紙”…オリックス - スポーツ報知・2010年10月16日</ref> 上に、オリックス監督として参加した2010年も1位指名抽選で3連敗を喫している<ref>岡田監督、まさかの3連敗=オリックス-プロ野球ドラフト - 時事ドットコム・2010年10月28日</ref>。ちなみに1回のドラフト会議の1位指名抽選3連敗は史上初<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2010/10/29/15.html 岡田監督史上初の3連敗…「大失敗よ」] - スポニチAnnex・2010年10月29日</ref>。さらに翌2011年も1位指名は外れで、通算4連敗中。 |
[[プロ野球ドラフト会議|ドラフト会議]]ではこれまでのところ、指名重複した場合の抽選でくじ運に恵まれていない。阪神監督時代は[[髙濱卓也]]を引き当てたのみで通算1勝3敗と外れが先行している<ref>岡田監督、運悪い?ドラフトくじ引き役“白紙”…オリックス - スポーツ報知・2010年10月16日</ref> 上に、オリックス監督として参加した2010年も1位指名抽選で3連敗を喫している<ref>岡田監督、まさかの3連敗=オリックス-プロ野球ドラフト - 時事ドットコム・2010年10月28日</ref>。ちなみに1回のドラフト会議の1位指名抽選3連敗は史上初<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2010/10/29/15.html 岡田監督史上初の3連敗…「大失敗よ」] - スポニチAnnex・2010年10月29日</ref>。さらに翌2011年も1位指名は外れで、通算4連敗中。 |
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オリックス監督時代はチームの正捕手だった[[日高剛]]のリード面を再三批判した。キャンプ段階での日高のリード面に疑問を持っていたが<ref>[http://gendai.ismedia.jp/articles/-/33981?page=2 独占告白 敗軍の将おおいにボヤく 岡田彰布反省------選手は﹁監督が怖い﹂といって離れていった] 週刊現代 2012年11月09日</ref>、シーズンに入ると大量失点を繰り返したこともあり、2010年には打率はそれほど悪くなかったものの3度も |
オリックス監督時代はチームの正捕手だった[[日高剛]]のリード面を再三批判した。キャンプ段階での日高のリード面に疑問を持っていたが<ref>[http://gendai.ismedia.jp/articles/-/33981?page=2 独占告白 敗軍の将おおいにボヤく 岡田彰布反省------選手は﹁監督が怖い﹂といって離れていった] 週刊現代 2012年11月09日</ref>、シーズンに入ると大量失点を繰り返したこともあり、2010年には打率はそれほど悪くなかったものの3度も二軍に降格させている。2011年以降は捕手に日高をほとんど起用しなかったが、2012年の終盤は[[伊藤光]]、[[齋藤俊雄]]の2人の捕手を懲罰抹消したことで、自身が休養するまで日高を捕手として起用したが、その日高は[[アレッサンドロ・マエストリ]]の来日初完投勝利、[[前田祐二]]の初先発勝利をアシストするなど好リードを見せ、起用に応えた。
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=== 野球関係者からの評価 === |
=== 野球関係者からの評価 === |
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口癖は「そらそうよ」。これに由来する「[[そらそーよ]]」という[[焼酎]]も発売され、「そら、そうよ」として自身の著書のタイトルにもなった。また、何を指しているのか分かりにくい「アレ」を多用する癖があり、阪神監督時代は、何に対して指摘されているのか分からなかった若手選手のために、 |
口癖は「そらそうよ」。これに由来する「[[そらそーよ]]」という[[焼酎]]も発売され、「そら、そうよ」として自身の著書のタイトルにもなった。また、何を指しているのか分かりにくい「アレ」を多用する癖があり、阪神監督時代は、何に対して指摘されているのか分からなかった若手選手のために、 |
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当時レギュラー選手の赤星憲広が「翻訳」していた事もあった |
当時レギュラー選手の赤星憲広が「翻訳」していた事もあった<ref>[http://news.livedoor.com/article/detail/7927809/ 元阪神・赤星氏“岡田語”に冷や汗だった…「何言ってるか分からないことも」] デイリースポーツ 2013年08月06日</ref>。長男からは「主語を抜いていることが多い<ref>2005年10月1日付デイリースポーツ紙面</ref>」、実母からは「あの子は言葉の真ん中を抜かして話すことが多い<ref>2010年6月13日付日刊スポーツ紙面</ref>」という指摘がなされている。芸能界屈指の阪神ファンである[[松村邦洋]](山口県出身)は、このような口癖に阪神監督時代からの選手の呼び方(例:[[桧山進次郎]]→「ヒー」、[[高橋光信]]→「ミツ」)などを関西弁のイントネーションで盛り込んだ[[声帯模写]]を、野球関連の番組で頻繁に披露している。 |
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現役時代に務めた[[日本プロ野球選手会]]会長時代より一貫して1リーグ8球団制の提唱者である。 |
現役時代に務めた[[日本プロ野球選手会]]会長時代より一貫して1リーグ8球団制の提唱者である。 |
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== 脚注 == |
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[[Category:日本の野球選手]] |
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2021年5月29日 (土) 09:18時点における版
生田神社豆まき神事にて(2019年2月3日) | |
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 大阪府大阪市中央区 |
生年月日 | 1957年11月25日(66歳) |
身長 体重 |
175 cm 77 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 二塁手、三塁手、一塁手、外野手 |
プロ入り | 1979年 ドラフト1位 |
初出場 | 1980年4月11日 |
最終出場 | 1995年10月2日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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監督・コーチ歴 | |
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この表について
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経歴
幼少期からタイガースと共に
大阪市中央区玉造で﹁大阪紙工所﹂という町工場を経営していた父親は阪神の有力後援者で、村山実・藤本勝巳らと親交があったことから幼少時よりタイガースと縁深く育った[1]。東大阪市にある私立朝陽ヶ丘幼稚園に入園後には、当時のタイガースの正三塁手だった三宅秀史とキャッチボールし、それ以来、三宅に憧れを抱いたという[1]。岡田が後にタイガースへ入団し、背番号16を希望したのはかつて三宅が着用していた番号だったからである。大阪市立愛日小学校5年生で南海ホークスが運営していた少年野球チーム﹁リトルホークス﹂に入団、本格的に野球を始めた[2]。父親の町工場においても草野球チームを結成し、岡田自身も村山が着用している背番号11を付けてマウンドに上がった。また、阪神甲子園球場へタイガースの試合を見に行くことがあったが、観戦する場所はネット裏やタイガースファンの多い一塁側ではなく敵側ベンチのある三塁側で、その理由として読売ジャイアンツの長嶋茂雄を一番近くで見ることが出来る上、そこから野次を飛ばすためだったという[3]。 1972年、明星中学校3年生時に中学野球大阪府大会で優勝し、1973年3月に行われた村山の引退試合の前に、最後のマウンドへ上がる村山のキャッチボール相手を務める[1]。岡田は同年、有田二三男を擁する北陽高校に進学、左翼手としてプレーする。同年の第55回全国高等学校野球選手権大会に出場を決めると、有田が3回戦︵対宮崎県立高鍋高等学校戦︶でノーヒットノーランを達成、準々決勝で愛媛県立今治西高等学校に敗退した[4]。3年生時の1975年にはエース兼4番打者として予選決勝まで進出するも、興國高等学校に敗れ、甲子園出場は果たせなかった。この頃、読売ジャイアンツからドラフト指名の話を受けたことがあったという[5]。 岡田はプロ入りせずに早稲田大学野球部のセレクションを受験、15打数14安打14本塁打︵自著では10スイング中、7スイングがフェンス超えだったという[6]︶という驚異的な打撃力を見せて一発合格を果たす。東京六大学リーグでは1976年秋季リーグから﹁7番・左翼手﹂でレギュラーとなり、江川卓︵法政大学︶から3安打を放って注目を浴びる。2年生からはかつて憧れていた三宅と同じ三塁手として5番を任され、1978年秋季リーグでは三冠王に輝き、4年ぶりの東京六大学リーグ優勝を果たす。1979年春季リーグでは主将としてリーグ連覇に貢献し、同年の全日本大学野球選手権でも決勝に進むが、香坂英典・高木豊を擁する中央大学に敗れ、準優勝に終わる。第7回・第8回日米大学野球選手権大会にも出場し、全日本の4番打者として全試合に出場した。 岡田の六大学における通算成績は88試合で309打数117安打、20本塁打、81打点・打率.379で、打点と打率は東京六大学リーグ記録として現在も破られていない。また、1977年秋季から5季連続でベストナインに選出されたほか、1978年春季・対東京大学2回戦では史上2人目のサイクル安打を達成するなど、岡田は大学野球の花形選手となった。なお、岡田は4年間で指定取得単位が不足していたため、早稲田大学中退となる。阪神入団~ブレイザーとの確執
上記のように、東京六大学野球史に残る記録を次々に樹立したためにプロ野球各球団の岡田獲得競争は一気に過熱、ドラフト会議の目玉となった。岡田は10月29日のプロ入り表明会見の席において希望球団を問われ、﹁︵地元の︶阪神だったら最高ですが、阪急︵ブレーブス︶などの在阪球団を希望している。その他の球団ならば、指名時に考えてみる。しかし、フロントがしっかりして優勝を争える球団なら行きたい[7]﹂﹁巨人、西武も優勝を狙えるし、良いですね[8]﹂と答えた。しかし、後年のインタビューでは﹁僕が一人っ子だったことで母が﹃関西に帰ってきて欲しい﹄と思っていたから、実際は阪神だけでなく阪急・近鉄・南海という関西の球団ならどこでもよかった﹂と語っている[9]。ドラフトでは前述の在阪球団全てが岡田を1位指名したが、抽選の結果、阪神が交渉権を獲得、岡田の阪神入団が決まった[10]。契約金6,000万円、年俸480万円[11][12]。 希望通り阪神タイガースへ入団した岡田だが、1980年春季キャンプで監督のドン・ブレイザーは﹁オカダはまだ新人。じっくり鍛えたほうが良い﹂という考えで、二塁や外野の練習をさせていた。岡田はブレイザーとの初対面の際に、通訳兼コーチの市原稔を介して﹁いくら力のあるルーキーでも、メジャーでは最初から試合に起用することは無い﹂と告げられたが、岡田は﹁そんなん関係ないやん﹂という反骨心が芽生えたと著書に記している[13]。しかし当時の野手陣には三塁手に﹁ミスター・タイガース﹂掛布雅之、遊撃手として岡田が入団する前年に太平洋クラブライオンズ→クラウンライターライオンズから加入して、後に岡田の後任で阪神監督を務める真弓明信、二塁手に中村勝広・榊原良行と、ヤクルトスワローズから獲得したデーブ・ヒルトン、一塁手に真弓が加入前まで遊撃手だった藤田平がおり、岡田の入る場所は無かった。しかも、ヒルトンはアリゾナキャンプの途中からチームに合流したため、二塁へのコンバート計画を聞いていた岡田は﹁なぜ二塁手のヒルトンを獲得するのか﹂と複雑な気持ちになり、まもなくブレイザーからは外野の練習をするように指示されたという[14][15][16]。 1980年の先発内野手は、一塁手ヒルトン、二塁手加藤博一、三塁手掛布雅之、遊撃手真弓明信の布陣でスタートした。ヒルトンはオープン戦で特大本塁打を放ったが[17]シーズン開幕直後から打撃不振に陥ったものの守備面が評価されて起用され続け、その後、掛布が負傷離脱した4月19日、20日も岡田の起用が見合わせられたため︵この時、岡田も負傷していたという説もある︶、ファンの間から﹁なぜ岡田を出さない﹂という不満が盛り上がり、ファンの一部からはヒルトンやブレイザーを悪者扱いし、更には妊娠中の妻が同乗していたヒルトンの車を取り囲み罵声を浴びせ、車を蹴るといった嫌がらせが激しくなった。4月22日の対大洋戦前に小津正次郎球団社長がブレイザー監督と2時間会談して説得し、その日以降は岡田が三塁手で起用された[18]。ヒルトンは18試合出場、打率.197、本塁打0本の不振から抜けられずに5月10日に解雇された。阪神球団は新たにブルース・ボウクレア外野手を獲得したが、これに反対するブレイザーと球団の関係が極度に悪化し、5月15日、球団は不明瞭な形でブレイザーを解任し、コーチだった中西太に監督を交代させた[19][20][21]。掛布が復帰した5月17日以降は二塁手で起用され新人王に繋がったが、自らの力でチャンスを掴みたかったので、当時ヒルトンが出場する度に﹁オカダ・オカダ﹂とコールが湧いたことに対して、後年のインタビューで﹁あの岡田コールは嫌だった﹂と苦言を呈している。また、後年、ブレイザーに親しい人物からブレイザーの﹁憎くて使わなかったのではなく、期待されて入団してきたルーキーだから余分な力みを生まない楽なところから使ってやりたかった。だから時期がずれた﹂というコメントを伝えられ、﹁今となればこのメッセージはある程度、理解できるようになった。ブレイザーもかなり悩んだのだろうし、考えたのだろう。自分も監督になり、そのことはよくわかった﹂と著書に記している[22]。 この年、オールスターゲームの第1戦において22歳7か月で代打本塁打を放ったが[23]、これは2015年の第2戦で19歳11か月だった森友哉が代打本塁打を放つまでオールスターでの代打本塁打の最年少記録だった[24]。 ブレイザー監督とヒルトン退団の遠因となったこの年の岡田のポジションは、掛布雅之が故障したことで三塁手が最も多く[25]、二塁手、一塁手でも出場している。打順は前半の8番から次第に順番が繰り上がり、終盤は5番で起用された。 1981年には初めて全130試合に出場し、20本塁打を残す。ポジションは二塁手に固定された[26]。 1982年に安藤統男監督が就任し、初の打率3割を記録した。 1983年も開幕から79試合で18本塁打を記録し、本塁打王争いにも加わっていたが、7月10日の対広島戦で右大腿二頭筋を断裂し、残りのシーズンを棒に振る[27]。以後、脚部の負傷に悩まされることになる[28]。岡田が離脱した二塁手に遊撃手だった真弓明信が入り、空いた遊撃手は平田勝男が入った。 1984年、5月19日対広島戦から先発に復帰した。当初二塁手を中心にランディ・バースの帰国時などに時折一塁手も守るという形だったが、後半戦は主に右翼手で起用された[29]。打撃は打率.297、本塁打15本、51打点と、故障明けとしては悪くない成績を残している。 1985年、吉田義男監督が就任し、真弓と入れ替わり、再び二塁手に戻る[30]。4月17日、甲子園での対巨人戦で、バース・掛布に続きバックスクリーン3連発の締めを打った。この時、バース・掛布と続いた後の岡田の打席にかかるプレッシャーは大きく、﹁ヒットで良いという考えはなかった。こうなったらホームランを狙うしかないやろう。絶対、スライダーしかないな!﹂と後に振り返っている。また、バックスクリーン3連発前日の対巨人戦でも、1-2で迎えた4回裏二死、四球で出塁した岡田は、佐野仙好が放った平凡なフライを遊撃手河埜和正が落球する間に一塁から一気に本塁生還し、大量7点の猛攻へと繋げる活躍を見せている。監督の吉田義男も﹁あの岡田の全力疾走が大きかった﹂と評価した。 同年8月12日、当時の球団社長だった中埜肇が日本航空123便墜落事故で死亡するという悲劇が起こった。特に阪神ナインの中でも中埜に目をかけてもらい、自らも“飛行機派”と称していた岡田の受けたショックは大きかったという。8月は打率.429・10本塁打・31打点の活躍でプロ入り初の月間MVPを受賞。更に9月15日の甲子園での対中日戦ではサヨナラ2点本塁打、翌16日にもサヨナラ中前打を放ち、2試合連続サヨナラ打を記録する。最終的に選手会長兼5番打者として、バースに次ぐリーグ2位の打率.342・リーグ4位の35本塁打・リーグ5位の101打点という自己最高の好成績を残し、真弓・バース・掛布らとともに球団初の日本一に貢献した。 1986年は前年と同じく5番二塁手で開幕戦に先発出場すると、4月後半に掛布が故障離脱したのに伴い4番打者に抜擢された。5月半ばに掛布が復帰すると5番に戻るが、この年の掛布は再離脱を繰り返したため8月末以降はシーズン終了まで4番打者を務めた。9月3日に父を亡くしたが、翌9月4日の対大洋戦に出場して本塁打を放った[31]。前年よりは数字を落としたが、打率.268、本塁打26本、打点70と主軸打者に相応しい成績を残した。 1987年は打率2割5分台・本塁打14本とチームの不振を語るような成績になるが、その後は3年連続20本塁打を記録した。 1988年に村山実監督が就任し、開幕時は5番二塁手で、5月以降は4番二塁手で起用された。打率.267、本塁打23本、打点72と打撃成績が復調した。 1989年、掛布の引退に伴い、大学時代に守っていた三塁手にコンバートされた。6月25日の甲子園での対巨人戦、1-4で迎えた8回裏二死満塁で、ビル・ガリクソンから左翼ポール際へ劇的な逆転満塁本塁打を放った。奇しくも30年前の天覧試合と同じ日で、スコアも5-4と裏返しとなり、天覧試合勝利投手の巨人監督・藤田元司の目の前で、敗戦投手だった村山実の仇討ちを果たした。イニングの最初にスコアボードを見て﹁2アウト満塁なら自分まで回ってくる﹂と思っていたら本当に回ってきたと後に語っており、ヒーローインタビューでも﹁3点差だったので満塁で回ってきたらホームランしかないと思った﹂と胸を張った。この本塁打を含めて月間8本塁打などの活躍で、同じく9本塁打のチームメイトのセシル・フィルダーを抑えて、プロ入り2度目の月間MVPを受賞した。 1990年からは八木裕の台頭により、二塁手に戻った。1991年は規定打席到達では自己ワーストの打率、安打、打点に終わる。1992年、日本プロ野球選手会会長としてFA制度導入に尽力する。選手としてはこの年から二塁を和田豊に譲り、一塁にコンバートされる。シーズンでは新庄剛志や亀山努の台頭に加えて、打率1割台と深刻な打撃不振に陥り、先発出場は激減。4月25日の試合では代打に亀山を送られた場面もあった。この夜、遠征先の宿舎で食事中に亀山が謝りに来たのに対し﹁お前はなんも悪ないやろ﹂と答えたが、その模様を他の若い選手が見て見ぬふりをしているのに気づき、自分に周囲が気を遣っていると感じていた[32]。 1993年、再び外野手として起用されるようになるが出場機会は前年よりさらに少なく、﹁体力の衰え﹂という理由で阪神を自由契約になる[33]。ちなみに、真弓が岡田より阪神入りが1年早かった為、現役選手在籍最古参にはなれなかった。︵真弓は岡田が阪神を去った2年後の1995年に阪神で引退︶オリックス時代
翌1994年のキャンプイン直前に仰木彬が率いるオリックス・ブルーウェーブに入団。その会見では﹁これからも阪神ファンであり続ける…﹂と涙ながらにタイガースとの別れを惜しんだ。その直前、週刊誌上で不倫スキャンダルを暴露され、そのまま現役引退の危機に晒されるが、調査によってスキャンダル自体が自称﹁愛人﹂の女が金銭目当てにでっち上げた作り話と判明、さらには岡田が恐喝され200万円を脅し取られる被害を受けていたことが明らかとなり、警察の強制捜査に発展し、最終的にはこの女が恐喝容疑で逮捕されて一件落着となった。この際には、豊富な技術と経験を持つ岡田を諦めきれないオリックスが、リース会社が本業であることから社内に豊富なノウハウを持つ調査要員を有しており、これを動員して真相の端緒を掴み、後に恐喝事件としての刑事捜査に繋がっている[34]。 1994年の春のキャンプ中、オリックスに89年1位で入団しながら伸び悩んだパンチ佐藤がフジテレビ﹁プロ野球ニュース﹂のカメラの前で﹁今年、復活に賭ける男﹂と宣言。この年阪神から移籍した岡田を見つけると﹁岡田さん、一緒に写って下さい。一緒にカメラの前で、今年復活にかける、と言いましょう!﹂と力強く誘ったが、岡田は引きつった笑みを見せながらあからさまに嫌がり﹁復活って、俺はそうやが、お前、ええ時あったんか﹂と返した。なおも﹁いや、これでもお立ち台に立ったこともあるんです。今年にとにかく賭けてるんです。一緒に写りましょう!﹂と食い下がったが、一流選手としてのプライドが高いことで有名な岡田が呆れ返り﹁復活って、お前、何もないやないか﹂﹁一緒にすんなよ﹂とあくまで拒否。パンチにとって吉兆とはいえない現役最後のシーズンの始まりであった。オープン戦では打席に立ったときに阪神ファンからも応援される光景が観られた。 1995年、出場機会も減り、10年ぶりの優勝をオリックスで経験したのを花道に、現役引退した。日本シリーズでの出場機会はなかった。翌1996年3月、古巣・阪神とオリックスのオープン戦が引退試合となり、岡田は試合終了後に阪神・オリックス両選手から胴上げされてグラウンドを去った。 現役中はスポーツ用品メーカーであるSSKのアドバイザリースタッフを務めた。コーチ時代
1996年、オリックス二軍助監督兼打撃コーチに就任。 1998年、二軍助監督兼打撃コーチとして阪神に復帰。またこの頃、自動車運転免許を取得。翌1999年には二軍監督兼打撃コーチとなる。ここで育成していた選手たちが後に主力選手に成長することになる。2000年から2002年までは二軍監督︵専任︶。1999年と2002年にはファーム日本選手権で優勝し、2度、日本一となった。後の一軍監督退任時に思い出として﹁二軍で若手が育っていくのが楽しみで、それが︵一軍監督時よりも︶思い出に残る﹂と語っている。 2003年に一軍内野守備走塁コーチへ配置転換。三塁ベースコーチを担当した。三塁ベースコーチとしての状況判断は正確無比であった[35]。大西崇之は現役時代に﹁うまいと思った三塁コーチ﹂について、岡田の名を挙げた[36]。阪神監督時代
2003年オフ、星野仙一が健康問題のために監督を勇退したのを受け、後任として一軍監督に就任。球団史上初の大阪府出身の監督となった[1]。就任時の挨拶は﹁期待してもらって結構です﹂。監督初年度の2004年は井川慶ら優勝に貢献した選手の不調に加え伊良部秀輝のセットポジションの欠点、ジョージ・アリアスの好不調の波の激しさ、マイク・キンケードの度重なる死球によるけが、さらにジェロッド・リガンの負傷やその年に開催のアテネオリンピックの野球に出場したジェフ・ウィリアムスと安藤優也の不在による戦力低下が響いて4位に終わった。 2005年9月7日ナゴヤドーム、中日との2ゲーム差での首位決戦において、9回表の微妙な本塁クロスプレーでアウトの判定が伏線になり︵本塁憤死した走者は奇しくも中村豊︶、その直後の9回裏本塁セーフの判定に激昂し、選手全員を一時引き揚げさせ抗議。その後試合は再開するも、赤星憲広の落球で一打サヨナラ負けのピンチになる。ここで監督就任後初めてマウンドへ向かい、クローザー・久保田智之にかけた言葉は﹁もう打たれろ!打たれてもお前は悪ないからな。オレが責任持つからもうムチャクチャほったれ︵投げたれ︶!﹂というものだった。久保田は後続の渡邉博幸、タイロン・ウッズを連続三振で抑え、11回表の中村豊の本塁打が決勝点となり死闘を制した。 この一見投げやりにも取れる言葉の裏には、たとえこの試合に負け、さらには優勝を逃したとしても全責任を自分が背負うという強い覚悟が込められていた。試合終了後、中日監督の落合博満に﹁今日は監督で負けた﹂とまで言わしめた。結果的にこの戦いを境に阪神は連勝を重ね、亡父の誕生日に当たる9月29日、甲子園球場での対巨人戦でリーグ優勝を達成した。 しかし、日本シリーズは千葉ロッテマリーンズに4戦4敗のストレート負けとなった。また、その際にリードされているからという理由でJFK︵ジェフ・ウィリアムス、藤川球児、久保田智之︶を起用しなかったことにファンや解説者にマスコミなどから不満があがった。 11月19日、甲子園球場で開催されたファン感謝デーのイベント﹁夢のOB交流戦﹂という紅白戦で、岡田は白組のプレイングマネージャーとして出場。試合の最後に﹁代打、オレ﹂で打席に立ち、サヨナラ2点本塁打を打ちMVPに輝いた。 2006年3月6日、絶滅が危惧されている野生のトラを保護するため、トラ保護基金に2006年シーズンの公式勝利数と同じ数のトラ保護レンジャー用の装備を寄付すると表明。そして、2006年の勝利数と同じ84個分の装備品の代金75万6,000円︵1セット約9,000円︶を寄付した。この活動が評価され、12月12日にインド政府から﹁阪神の最後まで諦めない姿勢に勇気づけられた。支援に非常に感謝している﹂などと記された感謝のメッセージを受け取っている。 2007年6月8日の対オリックス戦︵甲子園球場︶の8回裏、打者鳥谷敬の守備妨害を巡り球審の谷博に抗議を行った際に谷の胸を突き飛ばし、現役・コーチ及び監督生活を通じて初めての退場処分を受ける。8月16日の対中日戦︵京セラドーム︶では、8回裏に一塁走者が二塁でアウトになったことをめぐり二塁塁審の井野修に抗議して胸を突き飛ばしたため、2度目の退場となった。なお、同じシーズン中に2度退場になった監督は他にも複数いるが、阪神では岡田が初であり、セ・リーグ日本人監督でも初めてであった[37]。なお余談ではあるがその2人の審判はのちに中日の落合博満監督を退場処分としている。 2008年、チームは開幕からスタートダッシュに成功し首位を独走していたが、北京オリンピックの野球日本代表に主力である新井貴浩・矢野輝弘・藤川球児を派遣して以後、チーム状態が空転し始め、打撃陣の不振や故障者の続出などで、一時は13ゲーム差をつけていた巨人に終盤で逆転されペナントレース優勝を逃した。この責任を取る形でこのシーズン限りでの辞任を発表した。クライマックスシリーズ第1ステージ最終戦で敗退したことでこのシリーズが最後の指揮となった。試合終了後、選手会長の赤星憲広の発案により、選手・コーチから監督を務めた年数と同じ5回胴上げされた。阪神監督退任後
2008年11月、デイリースポーツ新聞社と客員野球評論家として契約を結び、自伝コラムを年末にかけて執筆。2009年2月1日の朝日放送﹁虎バン﹂で解説者としてデビューし、朝日放送・スカイ・Aを中心に在阪局でプロ野球解説者として出演した。 4月12日の巨人対阪神戦︵東京ドーム︶での日本テレビによる中継に招かれ、解説者としての全国デビューも果たした。特定の局の専属解説者になるのは﹁どこかの専属で行動を縛られるのは避けたい﹂という岡田本人の意思もあり、見送られた。 評論家活動とは別に、2009年シーズン開幕前に岡田は日本プロ野球機構から﹁調査委員会﹂の委員として任命された。通常の任期は2年だが、後述のオリックス監督就任に伴い1年の任期を残して退任している。オリックス監督時代
オリックス監督退任後
2013年からは、デイリースポーツの野球評論家に復帰。同紙では1月から、球界の旬の話題などを独特の見解で定義付けるコラム﹁岡田辞典﹂の連載を開始した。また、﹁そらそうよ﹂︵﹃それはそうですよ﹄という意味の関西弁︶をよく口にしていることを踏まえて、﹁阪神元監督OKADA流野球論 岡田彰布のそらそうよ﹂という連載コラムを﹃週刊ベースボール﹄で担当。朝日放送・読売テレビ・Tigers-aiを中心にプロ野球中継での解説も再開している。2017年からは、大学の後輩にあたる江尻慎太郎と共に、東日本放送の東北楽天ゴールデンイーグルスの公式戦中継やスポーツ番組で解説を務めている。監督として
監督としては堅実を重視するスタンスである。岡田は著書で﹁こと野球に関してはマイナスから考えるのだ。常に最悪の事態を想定してゲームを進める。これが自分の監督論といえる﹂と記している[46]。 メジャーリーグで開発された確率論を根底にするセイバーメトリクスに近い考え方をベースにしたチーム作りを理想とする。岡田は著書で、セイバーメトリクスに関する本を読んだことはなく、文献や理論の存在を知ったのもあとからであって、自分の実践した野球が﹁少し、セイバーメトリクスを使った野球に重なっていた﹂と記し、﹁セイバーメトリクスの戦略を用いている﹂という巷間の噂は﹁正しく言えば、それは間違いである﹂としている[47]。 阪神監督就任当時少なかったバントが2008年にはリーグトップとなった。これについて﹁考えが変わったわけではなく、チームの陣容が変わり、チームのストロングポイントを最大限に生かせる確率を追究した結果﹂と説明している[48]。バントについて基本的には﹁アウトを何で一つやるのか﹂という思いが根底にあるとしながらも、状況に応じた必要性は否定していない。ただし、スクイズプレイについては打者に与えるプレッシャーの高さからサインを出さない[49]。2011年8月12日の対西武戦でのスクイズが、阪神時代を含め監督就任953試合目で初めての成功事例になった[50]。 選手のコンディションや相手チームとの相性で打順を組み替えたり、先発ローテーションを崩したりすることは基本的には好まない。ベンチワークの必要のないスタイルの確立されたチームこそ最強という持論がある。岡田は﹁ベンチで何もしないで、言葉も出さず、気がついたら1対0で勝っていた、そういうゲームができるチームの監督が理想﹂と記している[51]。2004年に金本知憲を4番に据えてから好不調にかかわらず5年間一度も動かさなかった[52]。これについては、金本が﹁休まず試合に出るチームの柱﹂という岡田の考える4番打者にふさわしい選手だからであるとしている[53]。また投手分業のJFKの確立なども、岡田の勝利の方程式を重視する思想が色濃く反映された結果である。 ピンチに陥った投手などに対して、他の監督では自らマウンドに行く光景がしばしば見られるが、岡田の場合は阪神では2005年9月7日の対中日戦・2006年6月1日の対楽天戦の久保田、2006年8月31日の対中日戦・2008年7月18日の対中日戦の藤川、オリックスでは2010年8月22日の対ロッテ戦と、2011年6月15日対横浜戦・2012年7月10日の対楽天戦の岸田護に対しての7度だけである。このうちサヨナラ負けを喫したのは7度目の試合のみである︵6度目は延長規定のため引き分け︶。岡田は著書﹃頑固力﹄の中で﹁マウンドに行き、投手、もしくはバッテリーにアドバイスを送るのは監督ではなく、ピッチングコーチの仕事である。“任せる”というキーワードが監督とコーチの信頼につながるのだ﹂と記し、マウンドに行ったケースのうち2005年と2008年の対中日戦はいずれもペナントレースで重要な意味を持つ試合と考えていたと明かした上で、﹁本来こういうマウンドパフォーマンスは、私には似合わないし、決して好きな行為ではない﹂と述べている[54]。 自身は二軍の下積み経験がほとんどないが、二軍の若手選手への思い入れは強い。阪神監督時代は試合のない日もよく二軍の阪神鳴尾浜球場で目撃されていた。﹁ファームからも若い選手をしっかりと育てて野球を仕込む。そして監督が、あれこれ手を尽くしてチームの結果を積み重ねていく、そういう監督業こそが面白いのである﹂という[55]。 自らが現役時代に首位打者まであと一歩に迫りながら逃した経験から、選手起用において個人記録を重視しており、﹁チームの勝利が最優先であることが大原則﹂という条件つきながら﹁監督として手助けできることがあれば最大限に手を貸したつもりである﹂と述べている[56]。金本の連続試合フルイニング出場、鳥谷敬の連続試合出場の記録更新、坂口智隆の首位打者争いなどにも全面的に協力する姿勢を貫いていた。 2008年の終盤に﹁JFKを酷使した﹂と批判されたことについては、常に彼らの疲労度を見ながら起用していたと反論し、﹁彼らにとっては、その1球、1イニングが自らの年俸や評価をアップさせる生活の糧なのである﹂と記している[57]。 日本シリーズやクライマックスシリーズなどの、短期決戦で行われるポストシーズンゲームでは、その時の選手のコンディションよりも、シーズン当初からのチームの理想形にこだわるタイプであり、成績は芳しくない。 チームの方針としては﹁優勝﹂を目指したチーム作りであるが、シーズン中での﹁優勝﹂と明言することは避けている一面をもつ。2009年にオリックス監督に就任した際にも﹁優勝てよう言わないです。怖いです。そんな簡単に優勝できるとは思ってないです。﹂とまで発言していた。例として、2010年のオリックス監督時にチームはセ・パ交流戦優勝を狙えるポジションにいた。しかし岡田はあえて﹁優勝﹂という言葉を封印し、報道陣には﹁アレ﹂という言い回しを多用した。するとチームは交流戦首位に立ち、オーナーの宮内義彦に﹁僕も﹃アレ﹄としか言いません﹂とまで言わせた[58]。そしてチームが交流戦優勝を果たし、チームは記念グッズとして﹁アレしてもうた﹂の言葉が入ったシャツやタオルを販売することとなった[59]。 2010年のセ・パ交流戦では指名打者制を使用できないビジターゲーム12試合のうち、11試合で投手を8番に置いた。 ドラフト会議ではこれまでのところ、指名重複した場合の抽選でくじ運に恵まれていない。阪神監督時代は髙濱卓也を引き当てたのみで通算1勝3敗と外れが先行している[60] 上に、オリックス監督として参加した2010年も1位指名抽選で3連敗を喫している[61]。ちなみに1回のドラフト会議の1位指名抽選3連敗は史上初[62]。さらに翌2011年も1位指名は外れで、通算4連敗中。 オリックス監督時代はチームの正捕手だった日高剛のリード面を再三批判した。キャンプ段階での日高のリード面に疑問を持っていたが[63]、シーズンに入ると大量失点を繰り返したこともあり、2010年には打率はそれほど悪くなかったものの3度も二軍に降格させている。2011年以降は捕手に日高をほとんど起用しなかったが、2012年の終盤は伊藤光、齋藤俊雄の2人の捕手を懲罰抹消したことで、自身が休養するまで日高を捕手として起用したが、その日高はアレッサンドロ・マエストリの来日初完投勝利、前田祐二の初先発勝利をアシストするなど好リードを見せ、起用に応えた。野球関係者からの評価
2004年に投手コーチを務めた佐藤義則は退任する際、﹁頑固過ぎる、人の意見を聞かない﹂と苦言を呈した。 2005年の日本シリーズで阪神と対したロッテ監督のボビー・バレンタインは、シリーズ終了後、その時点の岡田を評して﹁10年前の私を見ているようだ﹂とした。 野村克也は、2006年のシーズン前に﹁︵中日監督の︶落合のが常識の野球であって、岡田のほうがよほど変わった采配をしている﹂と評した。野村は2008年の開幕前に刊行した著書﹃あぁ、阪神タイガース-負ける理由、勝つ理由﹄︵角川書店︶の中で、岡田がサインを出さず選手任せにしていると金本知憲から聞き﹁監督の仕事を放棄している﹂﹁理解に苦しむ﹂と記す一方、JFKのリリーフ陣を構築したことは﹁新しい方程式を作った﹂として﹁素直に評価しなければならない﹂としている。その上でこの﹁六回までは選手主導でやらせる﹂JFKや﹁選手任せ﹂は、選手個々の問題意識を高める考え方に基づく可能性があり、もしそうなら名監督となる器かもしれないが、それは今後の阪神の成績が明らかにすると書いている[64]。 これに対して岡田は阪神監督退任後の著書﹃頑固力﹄の中で、野村が自分を﹁何を考えているのかわからない﹂と言っていることに、﹁自分では自分なりの野球に対する考え方を持っている﹂﹁サインや作戦に関しても状況に応じて作戦は立てている。当たり前のことだ﹂﹁どちらかと言えば野村さんと自分の考えは正反対なのかもしれない﹂と記している[65]。人物・交友関係
愛称は﹁どんでん﹂。 一打席一スイングで仕留めることを心がけており初球打ちはしない主義であったという。﹁決め球は一~二球種しかないがカウントを取るための球種は多数あって絞りづらいので球種を絞りやすく山を張りやすい決め球を狙うほうがヒットの確率が上がる。﹂という考えのものであり2ストライクを取られてからヒットを打つことを得意としていた。 座右の銘は﹁道一筋﹂で、周囲の不理解や反対があっても、自分の信じた道を突き進めという意味。これは岡田の父親と親交のあった村山実が贈った﹁道一筋﹂と書かれた掛け軸が実家に飾られていたことに影響を受けたとされる。色紙にサインする時にもこの言葉を添えることが多い。第三者にこの言葉が商標登録されていて、話題になったこともあった[66]。 口癖は﹁そらそうよ﹂。これに由来する﹁そらそーよ﹂という焼酎も発売され、﹁そら、そうよ﹂として自身の著書のタイトルにもなった。また、何を指しているのか分かりにくい﹁アレ﹂を多用する癖があり、阪神監督時代は、何に対して指摘されているのか分からなかった若手選手のために、 当時レギュラー選手の赤星憲広が﹁翻訳﹂していた事もあった[67]。長男からは﹁主語を抜いていることが多い[68]﹂、実母からは﹁あの子は言葉の真ん中を抜かして話すことが多い[69]﹂という指摘がなされている。芸能界屈指の阪神ファンである松村邦洋︵山口県出身︶は、このような口癖に阪神監督時代からの選手の呼び方︵例‥桧山進次郎→﹁ヒー﹂、高橋光信→﹁ミツ﹂︶などを関西弁のイントネーションで盛り込んだ声帯模写を、野球関連の番組で頻繁に披露している。 現役時代に務めた日本プロ野球選手会会長時代より一貫して1リーグ8球団制の提唱者である。 クライマックスシリーズについては、﹁そこで敗れ、日本シリーズ出場ができないと、144試合もの長いシーズンを戦った努力と、過程と評価の価値を否定されることになる﹂として否定的である[70]。また、数球団を渡り歩く外国人選手が、年俸を高騰させて球団経営を圧迫したり若手日本人選手の働き場所を奪っているとして、外国人出場選手枠の減少︵場合によってはゼロ︶を、プロ野球改革の試案として示している[71]。 雄弁ではないものの思ったことを短い言葉で表現する直言が多く、人物に対する評価がしばしば辛口である。 著書ではストレス解消法として飲酒︵現在は焼酎党︶、カラオケ、手品やニンテンドーDSの脳トレを挙げている[72]。また、吉本系などのお笑い番組もリラックスするときはよく見ており、夫人が録画したビデオテープをリビングに置いてくれたこともあった[73]。 小学校低学年の頃から将棋を趣味としており、2008年1月24日に日本将棋連盟からアマ三段の免状を授与された[74]。将棋を覚えたランディ・バースとは、川藤幸三とともにその相手を務めていた[75]。 ルーキーの頃に、プロレスラーのアブドーラ・ザ・ブッチャーが﹁コイツは、絶対に大物になる﹂と岡田に賛辞を送って以来、ブッチャーとは交友がある。岡田の後援会・岡田会は当時、ブッチャーの後援会もしていた。岡田は今でも恩を感じており、2005年の阪神のリーグ優勝の際には祝勝会にブッチャーを招待するプランもあったが、実現はしなかった[76]。 元サッカー日本代表監督の岡田武史とは同じ大阪市出身、同姓、早稲田大学の同級生、プロスポーツ監督と共通点も多い。また、共にタイガースファンである。武史の方が1歳上であるが、武史側は1年浪人しており、そのため彰布と同級生であり、同時期に野球部とサッカー部の主将をそれぞれ務めた。にも関わらず、両者の接点はなかったが、2009年に雑誌﹁Sports Graphic Number﹂[77] の﹁早稲田力﹂特集で初対面の両者による対談が行われ、以後交友を持った。また、元サッカー選手で現在サッカー解説者の長谷川治久は高校の同級生にあたり、こちらも現在でも親交がある[78]。詳細情報
年度別打撃成績
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1980 | 阪神 | 108 | 403 | 376 | 44 | 109 | 19 | 0 | 18 | 182 | 54 | 4 | 2 | 1 | 0 | 23 | 6 | 3 | 45 | 6 | .290 | .336 | .484 | .820 |
1981 | 130 | 524 | 485 | 70 | 140 | 23 | 3 | 20 | 229 | 76 | 1 | 0 | 2 | 4 | 28 | 3 | 5 | 43 | 13 | .289 | .331 | .472 | .804 | |
1982 | 129 | 521 | 466 | 57 | 140 | 22 | 1 | 14 | 206 | 69 | 10 | 5 | 2 | 5 | 44 | 12 | 4 | 30 | 13 | .300 | .362 | .442 | .804 | |
1983 | 79 | 289 | 246 | 44 | 71 | 9 | 0 | 18 | 134 | 44 | 7 | 3 | 1 | 5 | 36 | 5 | 1 | 23 | 3 | .289 | .375 | .545 | .920 | |
1984 | 115 | 366 | 323 | 38 | 96 | 14 | 2 | 15 | 159 | 51 | 3 | 1 | 0 | 7 | 33 | 4 | 3 | 41 | 13 | .297 | .361 | .492 | .853 | |
1985 | 127 | 532 | 459 | 80 | 157 | 24 | 3 | 35 | 292 | 101 | 7 | 3 | 0 | 6 | 64 | 3 | 3 | 41 | 11 | .342 | .421 | .636 | 1.057 | |
1986 | 129 | 551 | 474 | 67 | 127 | 21 | 0 | 26 | 226 | 70 | 11 | 3 | 0 | 4 | 70 | 5 | 3 | 57 | 14 | .268 | .363 | .477 | .840 | |
1987 | 130 | 518 | 474 | 54 | 121 | 24 | 3 | 14 | 193 | 58 | 5 | 2 | 0 | 2 | 40 | 2 | 2 | 75 | 12 | .255 | .315 | .407 | .722 | |
1988 | 127 | 524 | 454 | 65 | 121 | 22 | 1 | 23 | 214 | 72 | 10 | 5 | 0 | 5 | 63 | 6 | 2 | 75 | 16 | .267 | .355 | .471 | .826 | |
1989 | 130 | 557 | 492 | 66 | 138 | 20 | 1 | 24 | 232 | 76 | 8 | 3 | 0 | 7 | 57 | 3 | 1 | 81 | 15 | .280 | .352 | .472 | .823 | |
1990 | 130 | 571 | 486 | 75 | 129 | 27 | 0 | 20 | 216 | 75 | 7 | 2 | 0 | 4 | 74 | 5 | 7 | 87 | 12 | .265 | .368 | .444 | .812 | |
1991 | 108 | 428 | 383 | 45 | 92 | 11 | 0 | 15 | 148 | 50 | 1 | 3 | 0 | 3 | 40 | 3 | 2 | 68 | 9 | .240 | .313 | .386 | .700 | |
1992 | 70 | 212 | 185 | 9 | 35 | 11 | 0 | 2 | 52 | 19 | 1 | 0 | 0 | 3 | 22 | 1 | 2 | 48 | 3 | .189 | .278 | .281 | .559 | |
1993 | 42 | 62 | 53 | 2 | 9 | 1 | 0 | 1 | 13 | 7 | 0 | 0 | 0 | 0 | 9 | 1 | 0 | 24 | 0 | .170 | .290 | .245 | .536 | |
1994 | オリックス | 53 | 117 | 101 | 10 | 28 | 3 | 0 | 2 | 37 | 12 | 1 | 1 | 0 | 1 | 14 | 0 | 1 | 20 | 3 | .277 | .368 | .366 | .734 |
1995 | 32 | 46 | 39 | 3 | 7 | 0 | 0 | 0 | 7 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 7 | 0 | 0 | 9 | 1 | .179 | .304 | .179 | .484 | |
通算:16年 | 1639 | 6221 | 5496 | 729 | 1520 | 251 | 14 | 247 | 2540 | 836 | 76 | 33 | 6 | 56 | 624 | 59 | 39 | 767 | 144 | .277 | .351 | .462 | .813 |
年度別監督成績
- レギュラーシーズン
年度 | 球団 | 順位 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | チーム 本塁打 |
チーム 打率 |
チーム 防御率 |
年齢 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2004年 | 阪神 | 4位 | 138 | 66 | 70 | 2 | .485 | 13.5 | 142 | .273 | 4.08 | 46歳 |
2005年 | 1位 | 146 | 87 | 54 | 5 | .617 | - | 140 | .274 | 3.24 | 47歳 | |
2006年 | 2位 | 146 | 84 | 58 | 4 | .592 | 3.5 | 133 | .267 | 3.13 | 48歳 | |
2007年 | 3位 | 144 | 74 | 66 | 4 | .529 | 4.5 | 111 | .255 | 3.56 | 49歳 | |
2008年 | 2位 | 144 | 82 | 59 | 3 | .582 | 2.0 | 83 | .268 | 3.29 | 50歳 | |
2010年 | オリックス | 5位 | 144 | 69 | 71 | 4 | .493 | 7.5 | 146 | .271 | 3.97 | 52歳 |
2011年 | 4位 | 144 | 69 | 68 | 7 | .504 | 20.5 | 76 | .248 | 3.33 | 53歳 | |
2012年 | 6位 | 144 | 57 | 77 | 10 | .425 | 17.5 | 73 | .241 | 3.34 | 54歳 | |
通算:8年 | 1141 | 581 | 521 | 39 | .527 | Aクラス4回、Bクラス4回 |
※1 2012年、9月25日より休養。監督代行は森脇浩司
※2 2012年、欠場した9試合(7勝2敗)は監督成績に含まない
- ポストシーズン
年度 | チーム | 大会名 | 対戦相手 | 勝敗 |
---|---|---|---|---|
2005年 | 阪神 | 日本シリーズ | 千葉ロッテマリーンズ | 0勝4敗=敗退 |
2007年 | セ・リーグ クライマックスシリーズ 1stステージ |
中日ドラゴンズ(セ・リーグ2位) | 0勝2敗=敗退 | |
2008年 | セ・リーグ クライマックスシリーズ 1stステージ |
中日ドラゴンズ(セ・リーグ3位) | 1勝2敗=敗退 |
表彰
●新人王 ︵1980年︶ ●ベストナイン‥1回 ︵1985年︶ ●ダイヤモンドグラブ賞‥1回 ︵1985年︶ ●月間MVP‥2回 ︵1985年8月 野手部門‥1989年6月︶ ●オールスターゲームMVP‥2回 ︵1980年第1戦、1988年第2戦︶ ●セ・リーグ最優秀監督賞‥1回 ︵2005年︶ ●ベスト・プラウド・ファーザー賞in関西 ︵2013年︶記録
初記録 ●初出場‥1980年4月11日、対横浜大洋ホエールズ1回戦︵阪神甲子園球場︶、9回裏に深沢恵雄の代打で出場 ●初打席‥同上、9回裏に平松政次の前に三振 ●初先発出場‥1980年4月22日、対横浜大洋ホエールズ3回戦︵横浜スタジアム︶、8番・三塁手として先発出場 ●初安打・初打点‥同上、8回表に加藤英美から左前適時打 ●初本塁打‥1980年5月1日、対読売ジャイアンツ5回戦︵阪神甲子園球場︶、2回裏に新浦壽夫から左中間へ先制決勝3ラン 節目の記録 ●100本塁打‥1985年7月13日、対読売ジャイアンツ15回戦︵後楽園球場︶、9回表に木戸克彦の代打で出場、西本聖から左越ソロ ※史上139人目 ●150本塁打‥1987年6月27日、対広島東洋カープ12回戦︵阪神甲子園球場︶、6回裏に長冨浩志から左越2ラン ※史上83人目 ●1000安打‥1988年5月26日、対ヤクルトスワローズ7回戦︵明治神宮野球場︶、10回表に伊東昭光から左前適時打 ※史上150人目 ●1000試合出場‥1988年6月22日、対ヤクルトスワローズ10回戦︵明治神宮野球場︶、4番・二塁手として先発出場 ※史上277人目 ●200本塁打‥1989年8月3日、対横浜大洋ホエールズ15回戦︵阪神甲子園球場︶、1回裏に遠藤一彦から左越ソロ ※史上58人目 ●1500試合出場‥1992年8月9日、対広島東洋カープ18回戦︵広島市民球場︶、12回表に弓長起浩の代打で出場 ※史上102人目 ●1500安打‥1994年6月29日 対近鉄バファローズ12回戦︵日生球場︶、2回表に江坂政明から中前安打 ※史上68人目 その他の記録 ●オールスターゲーム出場‥8回 ︵1980年 - 1982年、1985年、1986年、1988年 - 1990年︶背番号
●16 ︵1980年 - 1993年︶ ●10 ︵1994年 - 1995年︶ ●85 ︵1996年 - 1997年︶ ●80 ︵1998年 - 2008年、2010年 - 2012年︶関連情報
出演番組
●Fun!BASEBALL!! - 日本テレビ系列における、プロ野球中継の現行タイトル。 ●ABCフレッシュアップベースボール︵朝日放送ラジオ︶ ●熱視線KHBスーパーベースボール﹁オリックス×楽天︵東日本放送、2017年 - ︶- 野球解説。 ●もえスポ︵東日本放送、2018年 - ︶- 野球解説︵番組上の肩書きは﹁最高顧問﹂となっている。︶歌
●逢えば涙になるけれど︵1982年、ミノルフォンレコード、KA-2032︶ 阪神タイガースのマスコットガールだった岡田真弓︵元ラブ・ウィンクスの平田和子︶とデュエット ●ビクトリー︵1984年4月1日発売、メインボーカルは細川たかし︶ 原辰徳・高橋慶彦・宇野勝・遠藤一彦・荒木大輔とともにコーラス参加。著書
●﹃頑固力 〜ブレないリーダー哲学﹄角川SSC新書 2008年、角川・エス・エス・コミュニケーションズ、ISBN 978-4827550511 ●﹃なぜ阪神は勝てないのか? 〜タイガース再建への提言﹄︵江夏豊との共著︶角川ONEテーマ21 2009年、角川書店、ISBN 978-4-04-710206-4 ●﹃オリの中の虎 〜愛するタイガースへ最後に吼える﹄ベースボール・マガジン新書 2009年、ベースボール・マガジン社、ISBN 978-4-583-10231-3 ●﹃動くが負け 〜0勝144敗から考える監督論﹄幻冬舎新書、2010年、幻冬舎、ISBN 978-4-344-98178-2 ●﹃そら、そうよ 勝つ理由、負ける理由﹄2014年、宝島社、ISBN 978-4-800-21796-7CM
出演本数こそ少ないが、インパクトのあるCMに出演している。 ●日本サンガリアベバレッジカンパニー︵現役時代︶ ●味の素 ほんだし うどんおでんだし︵オリックスコーチ時代、坂田利夫と共演。﹁どんでんでんねん﹂の台詞が話題となる。どんでんの愛称はこれに由来︶ ●オリックス自動車 カーシェアリング事業﹁プチレンタ﹂︵オリックス監督時代の2010年。大阪府・兵庫県での駅や電車の掲示広告︶脚注
関連項目
外部リンク
- 個人年度別成績 岡田彰布 - NPB.jp 日本野球機構
- 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)
監督歴 |
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業績 | ||
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