土浦藩
(土浦県から転送)
土浦藩︵つちうらはん︶は、常陸国に存在した藩。藩庁は土浦城︵現在の茨城県土浦市︶。
概要[編集]
土浦は戦国時代、戦国大名である小田氏が領有していたが、小田氏が滅びると結城氏の所領となった。慶長5年︵1600年︶の関ヶ原の戦い後、結城秀康が越前福井藩に移封され、代わって譜代の松平信一が3万5000石で土浦に入り、土浦藩が立藩した。しかし信一の養子である信吉の代に上野国高崎へ移封される。信吉はこの時、土浦城の建築を進めており、水戸街道を城下に組み込んだ南門、西門、北門と城下が完成したところでの転封であった。 代わって上野白井より西尾忠永が大坂の陣の功績により2万石で入るが、子の西尾忠照のときに駿河田中藩へ移封となる。西尾氏の統治期間には土浦城の建築が進められ、領内検地も行われた。 下野鹿沼から朽木稙綱が3万石で入るが、子の朽木稙昌のとき丹波福知山へ移封となる。 代わって徳川家光に仕えて若年寄に栄進した土屋数直が寛文2年︵1662年︶2月に1万石で入る。後に数直は老中に栄進し、それにより所領も4万5000石にまで加増された。数直の死後、第2代藩主の土屋政直のとき、駿河田中藩へ移封となる。 代わって、﹁知恵伊豆﹂で有名な松平信綱の五男松平信興が2万2000石で入る。しかし大坂城代に任じられたため、短期間で摂津に領国を移封となる。 その後、再び土屋政直が駿河田中から6万5000石で再任される。以後は土屋氏10代の支配が続いて、明治時代を迎えた。ちなみに土屋政直は、徳川綱吉・徳川家宣・徳川家継・徳川吉宗の4代にわたって老中として仕え、6万5000石の所領を9万5000石まで拡大した。 第9代藩主土屋彦直は隣藩の水戸藩主徳川治保の三男、第11代藩主土屋挙直は治保の孫の徳川斉昭の第17子である。そのため、幕末期は佐幕派・討幕派の間で苦慮した立場にあった。歴代藩主[編集]
松平︵藤井︶家[編集]
3万5000石 譜代 (一)松平信一︵のぶかず︶ 従四位下 伊豆守 (二)松平信吉︵のぶよし︶ 従五位下 伊豆守西尾家[編集]
2万石 譜代 (一)西尾忠永 (二)西尾忠照朽木家[編集]
3万石 譜代 (一)朽木稙綱 (二)朽木稙昌土屋家[編集]
4万5000石 譜代 (一)土屋数直 (二)土屋政直松平︵大河内︶家[編集]
5万3000石 譜代 (一)松平信興土屋家[編集]
6万5000石→9万5000石 譜代 (一)土屋政直 (二)土屋陳直 (三)土屋篤直 (四)土屋寿直 (五)土屋泰直 (六)土屋英直 (七)土屋寛直 (八)土屋彦直 (九)土屋寅直 (十)土屋挙直幕末の領地[編集]
●常陸国 ●茨城郡のうち - 8村︵常陸知県事に編入︶ ●新治郡のうち - 47村 ●信太郡のうち - 16村 ●筑波郡のうち - 53村︵うち25村は常陸知県事に編入︶ ●出羽国︵羽前国︶ ●村山郡のうち - 18村 ●陸奥国︵磐城国︶ ●石川郡のうち - 10村︵白河県に編入︶ ●陸奥国︵岩代国︶ ●岩瀬郡のうち - 2村︵同上︶ ●下総国 ●相馬郡のうち - 6村︵下総知県事に編入︶ ●和泉国 ●日根郡のうち - 11村︵うち2村は吉見藩に編入︶ ●美作国 ●吉野郡のうち - 3村︵久美浜県を経て生野県に編入︶ ●勝北郡のうち - 16村︵同上︶ 明治維新後に、新治郡41村︵旧幕府領9村、旧旗本領27村、旧水戸藩領3村、旧石岡藩領3村、旧志筑藩領2村、旧谷田部藩領1村︶、河内郡21村︵旧幕府領1村、旧旗本領5村、旧谷田部藩領15村︶、信太郡76村︵旧幕府領18村、旧旗本領40村、旧関宿藩領14村、旧仙台藩領8村、旧牛久藩領2村︶が加わった。なお、相給が存在するため、村数の合計は一致しない。脚注[編集]
外部リンク[編集]
先代 (常陸国) |
行政区の変遷 1600年 - 1871年 (土浦藩→土浦県) |
次代 新治県 |