「京職」の版間の差分
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'''京職'''(きょうしき)とは、[[日本]]の[[律令制]]において[[首都|京]]内の[[司法]]、[[行政]]、[[警察]]を行った[[行政機関]]である。古訓は、「みさとづかさ」<ref>万葉集 16・3859</ref>。[[唐名]]は、[[京兆府]]、[[馮翊]]、[[扶風]]など。なお、[[江戸幕府]]の[[京都所司代]]の別称を、京職(きょうしょく)といった<ref>旺文社 古語辞典 第3版 「きゃうしき」「きょうしょく」「みさとづかさ」より</ref>。 |
'''京職'''(きょうしき)とは、[[日本]]の[[律令制]]において[[首都|京]]内の[[司法]]、[[行政]]、[[警察]]を行った[[行政機関]]である。古訓は、「みさとづかさ」<ref>万葉集 16・3859</ref>。[[唐名]]は、[[京兆府]]、[[馮翊]]、[[扶風]]など。なお、[[江戸幕府]]の[[京都所司代]]の別称を、京職(きょうしょく)といった<ref>旺文社 古語辞典 第3版 「きゃうしき」「きょうしょく」「みさとづかさ」より</ref>。 |
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京 |
京内を東西に分け︵﹁左京﹂と﹁右京﹂︶、それぞれに'''左京職'''︵さきょうしき︶、'''右京職'''︵うきょうしき︶が置かれた。左京職の長官を'''左京大夫'''︵さきょうのだいぶ︶、右京職の長官を'''右京大夫'''︵うきょうのだいぶ︶という。
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京は碁盤目状に大路・小路が南北・東西方向に整備され([[条坊制]])、[[天皇]]の居所である[[内裏]]とそれを取り囲む中央官庁街である[[大内裏]]は京の中央北端に設けられた。これは中国の「天子は南面する」思想に基づく[[都城制]]にならったためであり、南面する玉座より見て左に位置する京内東側を「左京」、右に位置する西側を「右京」と呼んだ。 |
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== 職掌 == |
== 職掌 == |
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== 制度の比較 == |
== 制度の比較 == |
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京職は日本独自の制度である。日本の律令のモデルとなった唐の制度と比較すると、唐の[[長安]]の場合、[[関内道]](後[[京畿 (唐)|京畿道]])-[[雍州]](後[[京兆府]])の下に[[万年県 (陝西省)|万年県]](西側)・[[長安区 (西安市)|長安県]](東側)が設置され、他の地域と同様の[[道 (行政区画)|道]]-[[州]]-[[県]]という地方制度の下に置かれていた(なお、わずかながら、万年県・長安県ともに長安城外の一部近郊農村も管轄としている)。更に城内では、都市内においては坊と里が別々に設定されて、坊正(日本の坊令に相当)と[[里正]](日本の里長に相当)がそれぞれ設置されて、前者は警察的業務、後者は徴税的業務を担当していた。更に長安の市場および[[行 (同業組合)|行]](商人組合)・[[邸店]]は経済官庁である太府寺の管轄下にあったが、日本の京の市場は規模が小さく、かつ行や邸店も存在しなかったとされており、市を管轄する市司は京職の被官とされていた<ref>市川、2009年、P216-264</ref>。 |
京職は日本独自の制度である。日本の律令のモデルとなった[[唐]]の制度と比較すると、唐の[[長安]]の場合、[[関内道]](後[[京畿 (唐)|京畿道]])-[[雍州]](後[[京兆府]])の下に[[万年県 (陝西省)|万年県]](西側)・[[長安区 (西安市)|長安県]](東側)が設置され、他の地域と同様の[[道 (行政区画)|道]]-[[州]]-[[県]]という地方制度の下に置かれていた(なお、わずかながら、万年県・長安県ともに長安城外の一部近郊農村も管轄としている)。更に城内では、都市内においては坊と里が別々に設定されて、坊正(日本の坊令に相当)と[[里正]](日本の里長に相当)がそれぞれ設置されて、前者は警察的業務、後者は徴税的業務を担当していた。更に長安の市場および[[行 (同業組合)|行]](商人組合)・[[邸店]]は経済官庁である太府寺の管轄下にあったが、日本の京の市場は規模が小さく、かつ行や邸店も存在しなかったとされており、市を管轄する市司は京職の被官とされていた<ref>市川、2009年、P216-264</ref>。 |
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==武家官位としての京職== |
==武家の官位としての京職== |
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[[室町時代]]には、三管領のひとつ[[細川氏]][[宗家]]が右京大夫の職を代々世襲したため、[[細川氏]][[宗家]]は[[細川京兆家|京兆家]]とよばれた。また左京大夫は[[一色氏]] |
[[室町時代]]には、三管領のひとつ[[細川氏]][[宗家]]が右京大夫の職を代々世襲したため、[[細川氏]][[宗家]]は[[細川京兆家|京兆家]]とよばれた。また左京大夫は[[一色氏]]や[[大崎氏]]などの家格の高い一門のみが独占していた。しかし[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]になり、[[朝廷 (日本)|朝廷]]や[[公家]]が経済的に困窮し、[[売官|官位が売られる]]ようになると、左京大夫は地方の[[戦国大名]]にとって箔付けのために最も人気のある官位となり、[[大内氏]]・[[武田氏]]・[[後北条氏]]といった有力大名の他、[[岩城氏]]・[[大宝寺氏]]といった[[陸奥国|陸奥]]・[[出羽国|出羽]]の[[国人領主]]まで左京大夫となったため、同時に何人もの左京大夫が出現するような状態であったという︵右京大夫は細川氏が[[細川政権 (戦国時代)|京都周辺の実効支配]]を行っていたため、細川宗家の当主のみが保持した︶<ref>[[今谷明]]﹃戦国大名と天皇 室町幕府の解体と王権の逆襲﹄︵講談社学術文庫、2001年︶ ISBN 4-06-159471-0 P89-94</ref>。
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[[江戸時代]]には、[[二本松藩|二本松藩主]]の[[丹羽氏]]の歴代藩主の多く([[丹羽長富]]、[[丹羽光重]]など)が左京大夫を、[[久保田藩|久保田(秋田)藩主]][[佐竹氏]]の歴代藩主の多く([[佐竹義宣 (右京大夫)|佐竹義宣]]、[[佐竹義敦]]など)が右京大夫を称した。 |
[[江戸時代]]には[[武家官位]]として、[[二本松藩|二本松藩主]]の[[丹羽氏]]の歴代藩主の多く([[丹羽長富]]、[[丹羽光重]]など)が左京大夫を、[[久保田藩|久保田(秋田)藩主]][[佐竹氏]]の歴代藩主の多く([[佐竹義宣 (右京大夫)|佐竹義宣]]、[[佐竹義敦]]など)が右京大夫を称した。 |
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== 職員 == |
== 職員 == |
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* [[日本の官制]] |
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* [[古代日本の地方官制]] |
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* [[摂津職]] |
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* [[平城京]] |
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* [[恭仁京]] |
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[[Category:治安制度]] |
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2024年6月17日 (月) 03:53時点における版
職掌
制度の比較
武家の官位としての京職
職員
それぞれ左右二職に設置された
- 大夫(正五位上 → 従四位下) 唐名:京兆尹
- 亮(従五位下) 唐名:京兆少尹、馮翊少監
- 大進(従六位下 → 従六位上) 少進(正七位上 → 従六位下) 唐名:京兆司録、馮翊判事
- 大属(正八位下) 少属(従八位上) 唐名:京兆録事、馮翊記事
- 坊令(無位 → 少初位下)
- 坊長
- 史生
- 職掌 新設
- 使部
- 直丁
被官として 東・西市司
備考:藤原仲麻呂政権下で左右京を一人で統治する京尹(きょういん)が置かれた。
任官者一覧
※()内の年は、補任または見任年。
左京大夫
飛鳥・奈良時代
平安時代
- 藤原縄主(797年)
- 橘入居(799年)
- 藤原大継(時期不詳:799年-806年の間)
- 石川魚麻呂(806年)
- 巨勢野足(806年)
- 藤原継業(808年)
- 紀広浜(808年)
- 多入鹿(809年)
- 三島名継(時期不詳:806年-810年の間)
- 大野真雄(811年)
- 藤原今河(812年)
- 紀咋麻呂(814年)
- 藤原綱継(815年)
- 良岑安世(815年)
- 多治比今麻呂(816年)
- 直世王(818年)
- 春原五百枝(823年)
- 菅原清公(826年)
- 藤原文山(827年)
- 石川河主(827年)
- 橘氏人(時期不詳:840年前後)
- 源明(842年)
- 正行王(850年)
- 源生(851年)
- 藤原良仁(855年)
- 紀今守(858年)
- 菅原是善(856年)
- 在原行平(860年)
- 弘宗王(860年)
- 輔世王(875年)
- 忠範王(877年)
- 源行有(880年)
- 在原守平(884年)
- 菅原道真(892年)
- 源旧鑑(時期不詳:886年-908年の間)
- 源清平(923年)
- 藤原元方(929年)
- 源庶明(929年)
- 藤原中正
- 大江維時(946年)
- 源重光(961年)
- 藤原兼家(964年)
- 藤原為輔(967年)
- 藤原道長(987年)
- 源泰清(988年)
- 源長経(999年)
- 藤原広業(1012年)
- 藤原惟憲(時期不詳:1013年-1017年の間)
鎌倉時代
南北朝時代
室町時代中期
戦国時代
- 大内政弘(1468年)
- 赤松政則
- 一色義春
- 一色義直
- 岩城親隆
- 土岐成頼
- 大崎義兼
- 一色義有
- 吉良持清(1509年以前)
- 大内義興(1508年)
- 伊達稙宗(1517年)
- 寒河江孝広(1517年)
- 土岐頼芸
- 一色義幸
- 畠山長経
- 武田信虎(1521年)
- 木曾義在(1527年)
- 北条氏綱(1530年)
- 大内義隆(1530年)
- 五辻諸仲(1534年)
- 六角義賢(1539年)
- 赤松政村(1539年)
- 赤松晴政
- 岩城重隆(1541年)
- 大宝寺晴時(1541年)
- 結城晴広(1542年)
安土桃山時代
江戸時代
この節の加筆が望まれています。 |
右京大夫
飛鳥・奈良時代
平安時代
- 紀勝長(797年)
- 藤原園人(798年)
- 多治比継兄(799年)
- 橘綿裳
- 安倍兄雄(806年)
- 吉備泉(806年)
- 文室綿麻呂(807年)
- 藤原藤嗣(808年)
- 紀広浜(808年)
- 藤原貞嗣(812年)
- 藤原道継(815年)
- 直世王(816年)
- 菅原清公(821年)
- 藤原綱継(826年)
- 藤原文山(827年)
- 百済王勝義(829年)
- 正躬王(834年)
- 橘弟氏(839年)
- 田口佐波主(840年)
- 正行王(846年)
- 源寛(847年)
- 藤原諸成(850年)
- 豊江王(856年)
- 藤原衛(857年)
- 春澄善縄(857年)
- 南淵年名(858年)
- 橘海雄(859年)
- 橘貞根(861年)
- 源覚(875年)
- 安倍貞行(時期不詳:872年-879年の間)
- 基棟王(時期不詳:874年-879年の間)
- 源至(885年)
- 藤原是法
- 源建(907年)
- 藤原当幹(918年)
- 橘公頼(920年)
鎌倉時代
南北朝時代
室町時代中期
戦国時代
安土桃山時代
江戸時代
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脚注
- ^ 万葉集 16・3859
- ^ 旺文社 古語辞典 第3版 「きゃうしき」「きょうしょく」「みさとづかさ」より
- ^ 職員令をみると、国司の職掌のうち、寺社・駅伝・勧農・烽候などは京職は行わず(地理的に不要もしくは他の中央官司が行う)、市廛(市場とそこにある店舗)・度量衡・道橋の修理清掃などは京職独特の職務である(市川、2009年、P15-21)。
- ^ 市川、2009年、P14-27
- ^ 『類聚三代格』巻17所収・貞観18年6月3日付太政官符
- ^ 市川、2009年、P128-140・166-179・189-192
- ^ 市川、2009年、P82-98
- ^ 『日本三代実録』貞観4年3月15日条
- ^ 市川、2009年、P103-113・269-278
- ^ 市川、2009年、P216-264
- ^ 今谷明『戦国大名と天皇 室町幕府の解体と王権の逆襲』(講談社学術文庫、2001年) ISBN 4-06-159471-0 P89-94
参考文献
- 市川理恵『古代日本の京職と京戸』(吉川弘文館、2009年) ISBN 978-4-642-02473-0