「慶應義塾」の版間の差分
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{{Quotation|今爰︵ここ︶に会社を立て義塾を創め、同志諸子相共に講究切磋し、以て洋学に従事するや、事本と私にあらず、広く之を世に公にし、士民を問はず、苟も志あるものをして来学せしめんを欲するなり。︵中略︶蓋︵けだし︶此學を世に拡めんには学校の規律を彼に取り生徒を教道するを先務とす。仍て吾党の士相与︵あととも︶に謀て、私に彼の共立学校の制に倣ひ、一小区の学舎を設け、これを創立の年号を取て仮に慶應義塾と名く|﹁慶應義塾之記﹂より}}
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{{Quotation|今爰︵ここ︶に会社を立て義塾を創め、同志諸子相共に講究切磋し、以て洋学に従事するや、事本と私にあらず、広く之を世に公にし、士民を問はず、苟も志あるものをして来学せしめんを欲するなり。︵中略︶蓋︵けだし︶此學を世に拡めんには学校の規律を彼に取り生徒を教道するを先務とす。仍て吾党の士相与︵あととも︶に謀て、私に彼の共立学校の制に倣ひ、一小区の学舎を設け、これを創立の年号を取て仮に慶應義塾と名く|﹁慶應義塾之記﹂より}}
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「彼の共立学校の制」とは、[[英国国教会]]が設立した[[パブリックスクール]]である[[キングス・カレッジ・スクール]](KCS)を指すものとされ、[[1862年]]5月(文久2年4月)に[[イギリス]]滞在中の福澤が、医師の{{仮リンク|トーマス・チェンバース|en|Thomas King Chambers}}の案内で訪問した同校をモデルとして、およそ6年後の1868年(慶應4年)4月に慶應義塾が創設された<ref name="keio-encyclopedia-7"/><ref name="mita-hyoron-201008"/><ref name="mita-hyoron-201801">三田論評ONLINE [https://www.mita-hyoron.keio.ac.jp/around-yukichi-fukuzawa/201801-1.html 『【福澤諭吉をめぐる人々】ドクトルチャンブルスとドクトルジョンソン』] 山内慶太,2018/1/1</ref>{{#tag:ref|[[1862年]]5月(文久2年4月)に、[[イギリス]]滞在中の福澤諭吉は、{{仮リンク|トーマス・チェンバース|en|Thomas King Chambers}}(Thomas King Chambers、ドクトルチャンブルス)医師の案内で、[[英国国教会]]が設立した[[キングス・カレッジ・ロンドン]](KCL)とそのジュニア部門の[[キングス・カレッジ・スクール]](KCS)を訪問し、同校をモデルとして訪問から約6年後の1868年(慶應4年)4月に慶應義塾を創設した<ref name="keio-encyclopedia-7"/><ref name="mita-hyoron-201008"/><ref name="mita-hyoron-201801"/>。<br /> |
「彼の共立学校の制」とは、[[英国国教会]]が設立した[[パブリックスクール]]である[[キングス・カレッジ・スクール]](KCS)を指すものとされ、[[1862年]]5月(文久2年4月)に[[文久遣欧使節]]として[[イギリス]]滞在中の福澤が、医師の{{仮リンク|トーマス・チェンバース|en|Thomas King Chambers}}の案内で訪問した同校をモデルとして、およそ6年後の[[1868年]](慶應4年)4月に慶應義塾が創設された<ref name="keio-encyclopedia-7"/><ref name="mita-hyoron-201008"/><ref name="mita-hyoron-201801">三田論評ONLINE [https://www.mita-hyoron.keio.ac.jp/around-yukichi-fukuzawa/201801-1.html 『【福澤諭吉をめぐる人々】ドクトルチャンブルスとドクトルジョンソン』] 山内慶太,2018/1/1</ref>{{#tag:ref|[[1862年]]5月(文久2年4月)に、[[文久遣欧使節]]として[[イギリス]]滞在中の福澤諭吉は、{{仮リンク|セント・メアリーズ病院|en|St Mary's Hospital, London}}の{{仮リンク|トーマス・チェンバース|en|Thomas King Chambers}}(Thomas King Chambers、ドクトルチャンブルス)医師の案内で、[[英国国教会]]が設立した[[キングス・カレッジ・ロンドン]](KCL)とそのジュニア部門の[[キングス・カレッジ・スクール]](KCS)を訪問し、同校をモデルとして訪問から約6年後の[[1868年]](慶應4年)4月に慶應義塾を創設した<ref name="keio-encyclopedia-7"/><ref name="mita-hyoron-201008"/><ref name="mita-hyoron-201801"/>。<br /> |
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キングス・カレッジ・ロンドン(KCL)は、[[1829年]]に[[ジョージ4世 (イギリス王)|ジョージ4世]]の命を受けて[[英国国教会]]によって |
キングス・カレッジ・ロンドン(KCL)は、[[1829年]]に[[ジョージ4世 (イギリス王)|ジョージ4世]]の命を受けて[[英国国教会]]によって[[サマセット・ハウス]]の一角に創設された大学で、同時に同校に進学する生徒を育成するジュニア部門として[[パブリックスクール]]であるキングス・カレッジ・スクール(KCS)が創設された。キングス・カレッジ・スクール(KCS)はキングス・カレッジ・ロンドン(KCL)の階下に置かれ、当初85人の生徒をもって設立されている<ref name="mita-hyoron-201008"/>。KCLが作られたサマセット・ハウスの一角は、現在もKCLのストランド・キャンパスであり、サマセット・ハウス本館は[[1990年]]より[[コートールド・ギャラリー]](Courtauld Gallery)という美術館になっている。一方、KCLの階下にあったKCSは[[1843年]]には約500名の生徒を数えて狭隘な状況に置かれており、都会の真ん中という不適当な環境にもあって、[[1897年]]にロンドン南西郊外の[[ウィンブルドン (ロンドン)|ウィンブルドン]]に移転した<ref name="mita-hyoron-201008"/>。|group="注釈"}}。創設の際の校名に、当時の年号である「慶應」とパブリックスクールの訳語である共立学校を意味する「義塾」の名が冠された<ref name="keio-encyclopedia-7"/><ref name="mita-hyoron-201008"/><ref name="mita-hyoron-201801"/>。また、慶應義塾のスクールカラーはモデル校であるKCSと同じ紺と赤となっている<ref name="mita-hyoron-201008"/>。 |
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KCLが作られたサマセット・ハウスの一角は現在も、KCLのストランド・キャンパスであり、サマセット・ハウス本館は[[1990年]]より[[コートールド・ギャラリー]](Courtauld Gallery)という美術館になっている。一方、KCLの階下にあったKCSは[[1843年]]には約500名の生徒を数えて狭隘な状況に置かれており、都会の真ん中という不適当な環境にもあって、[[1897年]]にロンドン南西郊外の[[ウィンブルドン (ロンドン)|ウィンブルドン]]に移転した<ref name="mita-hyoron-201008"/>。|group="注釈"}}。創設の際の学校名に、当時の年号である「慶應」とパブリックスクールの訳語である共立学校を意味する「義塾」の名が冠された<ref name="keio-encyclopedia-7"/><ref name="mita-hyoron-201008"/><ref name="mita-hyoron-201801"/>。また、慶應義塾のスクールカラーはモデル校であるKCSと同じ紺と赤となっている<ref name="mita-hyoron-201008"/>。 |
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従って、上 |
従って、上述のことから、慶應義塾の「義塾」とは、中国伝統の語に福澤が模範とした英国のパブリックスクールの概念を付加したものと解されている<ref name=":0" /><ref>{{Cite journal|和書 |author=中山 一義 |title=『芝新銭座慶応義塾之記』に関する若干の考証(一) |journal=史学 |issn=03869334 |publisher=三田史学会 |year=1967-07 |volume=40 |issue=1 |pages=1-24 |url=https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00100104-19670700-0001}}</ref>。 |
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[[明治時代]]には、慶應義塾の影響により日本全国で「義塾」を称する私塾が設立されたが、『慶應義塾百年史』 下巻によれば<ref>「慶應義塾百年史」下巻、805頁・補遺1「義塾一覧」の解説及び一覧表参照</ref>、同塾以外にも、[[幕末]]期に「義塾」を称する私塾が少なからず創立していたことが判明している。''「[[明治時代の義塾の一覧]]」を参照'' |
[[明治時代]]には、慶應義塾の影響により日本全国で「義塾」を称する私塾が設立されたが、『慶應義塾百年史』 下巻によれば<ref>「慶應義塾百年史」下巻、805頁・補遺1「義塾一覧」の解説及び一覧表参照</ref>、同塾以外にも、[[幕末]]期に「義塾」を称する私塾が少なからず創立していたことが判明している。''「[[明治時代の義塾の一覧]]」を参照'' |
2024年6月13日 (木) 08:50時点における版
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/7a/Keio_University_Tokyo_1869.jpg/250px-Keio_University_Tokyo_1869.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/76/Edo_Atagoshita_Shinzenza_1860.jpg/250px-Edo_Atagoshita_Shinzenza_1860.jpg)
﹁義塾﹂の意味と慶應義塾の創設
●義塾の用例 中国においては、﹁義塾﹂とは公衆のために義捐金で運営される学費不要︵無月謝︶の学塾を意味し、14世紀半ばの元末に書かれた陶宗儀﹃輟耕録﹄にみられるという[1]。 日本における﹁義塾﹂の先駆は、天明7年︵1787年︶、のちに蝦夷地探検で功績を挙げる当時17歳の近藤重蔵が、同志と協力して年少子弟のために開いた私塾の名称﹁白山義塾﹂であるとされる[2][注釈 1]。また、掛川藩儒員松崎慊堂の日記﹁慊堂日暦﹂の文政8年︵1825年︶1月25日の条に、慊堂が桑名藩の儒者広瀬蒙斎を訪れて﹁義塾の事を議す﹂とあり、さらに、寺門静軒が天保3年︵1832年︶に著した﹁江戸繁盛記﹂4篇学校の項には、﹁官学外儒門の義塾﹂との用例があるという[3]。 ●慶應義塾の創設 1868年︵慶應4年︶4月、福澤諭吉は築地鉄砲洲の中津藩中屋敷にあった塾の芝新銭座︵現・港区浜松町︶への移転と、新しい学校組織の創設に際し、慶應義塾の独立宣言とも言うべき﹃慶應義塾之記﹄を著し、その中で慶應義塾の命名とモデルとした学校について以下を記した[4][5]。 今爰︵ここ︶に会社を立て義塾を創め、同志諸子相共に講究切磋し、以て洋学に従事するや、事本と私にあらず、広く之を世に公にし、士民を問はず、苟も志あるものをして来学せしめんを欲するなり。︵中略︶蓋︵けだし︶此學を世に拡めんには学校の規律を彼に取り生徒を教道するを先務とす。仍て吾党の士相与︵あととも︶に謀て、私に彼の共立学校の制に倣ひ、一小区の学舎を設け、これを創立の年号を取て仮に慶應義塾と名く — ﹁慶應義塾之記﹂より ﹁彼の共立学校の制﹂とは、英国国教会が設立したパブリックスクールであるキングス・カレッジ・スクール︵KCS︶を指すものとされ、1862年5月︵文久2年4月︶に文久遣欧使節としてイギリス滞在中の福澤が、医師のトーマス・チェンバースの案内で訪問した同校をモデルとして、およそ6年後の1868年︵慶應4年︶4月に慶應義塾が創設された[4][5][6][注釈 2]。創設の際の校名に、当時の年号である﹁慶應﹂とパブリックスクールの訳語である共立学校を意味する﹁義塾﹂の名が冠された[4][5][6]。また、慶應義塾のスクールカラーはモデル校であるKCSと同じ紺と赤となっている[5]。 従って、上述のことから、慶應義塾の﹁義塾﹂とは、中国伝統の語に福澤が模範とした英国のパブリックスクールの概念を付加したものと解されている[1][7]。 明治時代には、慶應義塾の影響により日本全国で﹁義塾﹂を称する私塾が設立されたが、﹃慶應義塾百年史﹄ 下巻によれば[8]、同塾以外にも、幕末期に﹁義塾﹂を称する私塾が少なからず創立していたことが判明している。﹁明治時代の義塾の一覧﹂を参照塾訓
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/3f/Keio_University_Mita_Campus_East_Research_Building-2.jpg/250px-Keio_University_Mita_Campus_East_Research_Building-2.jpg)
設置している学校
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/9f/Keio_University_old_campus.jpg/200px-Keio_University_old_campus.jpg)
大学
- 慶應義塾大学(三田、日吉、矢上、信濃町、湘南藤沢、芝共立の各キャンパス、およびサテライトキャンパスとして新川崎タウンキャンパス、殿町タウンキャンパス、鶴岡タウンキャンパス、浦和共立キャンパス、慶應大阪シティキャンパス、慶應丸の内シティキャンパス) - 男女共学
中学校、高等学校併設校
- 慶應義塾湘南藤沢中等部・高等部(神奈川県藤沢市) - 男女共学、中高一貫校
高等学校
- 慶應義塾高等学校(神奈川県横浜市) - 男子校
- 慶應義塾女子高等学校(東京都港区) - 女子校
- 慶應義塾志木高等学校(埼玉県志木市) - 男子校
- 慶應義塾ニューヨーク学院(ニューヨーク州ウェストチェスター郡) - 男女共学
中学校
小学校
-
慶應義塾高等学校
-
慶應義塾普通部
設置している病院
過去に設置していた学校
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/c6/%E6%85%B6%E6%87%89%E7%BE%A9%E5%A1%BE%E5%95%86%E5%B7%A5%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%A0%A1%E8%88%8E%EF%BC%881906%E5%B9%B410%E6%9C%88%E7%AB%A3%E5%B7%A5%EF%BC%89.jpg/160px-%E6%85%B6%E6%87%89%E7%BE%A9%E5%A1%BE%E5%95%86%E5%B7%A5%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%A0%A1%E8%88%8E%EF%BC%881906%E5%B9%B410%E6%9C%88%E7%AB%A3%E5%B7%A5%EF%BC%89.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/0e/%E6%85%B6%E6%87%89%E7%BE%A9%E5%A1%BE%E7%9C%8B%E8%AD%B7%E5%A9%A6%E9%A4%8A%E6%88%90%E6%89%80.jpg/160px-%E6%85%B6%E6%87%89%E7%BE%A9%E5%A1%BE%E7%9C%8B%E8%AD%B7%E5%A9%A6%E9%A4%8A%E6%88%90%E6%89%80.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/92/Keio_Agricultural_Senior_High_School.jpg/160px-Keio_Agricultural_Senior_High_School.jpg)
- 大阪慶應義塾(1873年 - 1875年) → 徳島慶應義塾(1875年 - 1876年)
- 京都慶應義塾(1874年 - 1875年)
- 慶應義塾医学所(1873年 - 1880年)
- 慶應義塾夜間法律科(夜間・1879年 - 1880年・同科を開設した相馬永胤ら4名が独立、専修学校に統合される形で閉鎖)
- 慶應義塾商業学校(夜間・1891年 - 1948年)
- 慶應義塾商工学校(1905年 - 1949年) → 慶應義塾中等部
- 慶應義塾日吉工業学校(旧・藤原工業学校、1943年 - 1945年) + 慶應義塾三田工業学校(1944年 - 1945年) → 慶應義塾工業学校(1945年 - 1949年)
- 慶應義塾大学予科(1920年 - 1949年)
- 慶應義塾高等部(大学専門部・1922年 - 1945年)[14]
- 慶應義塾獣医畜産専門学校(1944年 - 1949年) → 慶應義塾農業高等学校(1948年 - 1957年) → 慶應義塾志木高等学校
- 慶應義塾第一高等学校(1948年 - 1949年) + 慶應義塾第二高等学校(1948年 - 1949年) → 慶應義塾高等学校
- 慶應義塾大学附属医学専門部(1944年 - 1952年)
- 慶應義塾大学医学部附属看護婦養成所(1917年 - 1945年) + 慶應義塾大学医学部附属産婆養成所(1922年 - 1945年) → 慶應義塾大学医学部付属看護婦産婆養成所(1945年 - 1950年) → 慶應義塾大学医学部附属厚生女子学院(1950年 - 1990年) → 慶應義塾看護短期大学(1988年 - 2003年) → 慶應義塾大学看護医療学部
- 慶應義塾外国語学校(1942年 - 2013年)
一時経営に参画したことがある学校一覧
- 藍謝堂(明治4年)1871年
- 亮天社(明治8年)1875年
- 立志学舎(明治9年)1876年
- 三菱商業学校(明治義塾)(明治11年)1878年
- 神戸商業講習所(明治11年)1878年
- 簿記講習所(明治12年)1879年
- 慶應義塾夜間法律科 → 専修学校 (旧制)(明治13年)1880年
- 三田英学校(明治13年)1880年
- 耕余義塾(明治20年)1887年
- 国民英学会(明治21年)1888年
- 高山歯科医学院(明治23年)1890年
概説
- 慶應義塾の設立
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/35/Kaitai-Shinsyo-Japan-published-1774.jpg/170px-Kaitai-Shinsyo-Japan-published-1774.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/thumb/8/8c/Kawanakajima_Sakuma_Shozan_statue.jpg/110px-Kawanakajima_Sakuma_Shozan_statue.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/21/KeioGijukuHasshoNoChi20130715.jpg/170px-KeioGijukuHasshoNoChi20130715.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/1d/Japanese_ambassadors_in_London.jpg/170px-Japanese_ambassadors_in_London.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/06/Fukuzawa_Yukichi_in_Utrecht_1.jpg/120px-Fukuzawa_Yukichi_in_Utrecht_1.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/1e/Chikuri_Yoshida.jpg/120px-Chikuri_Yoshida.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/d5/Obata_Tokujiro_Matsuyama_Toan.jpg/120px-Obata_Tokujiro_Matsuyama_Toan.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/53/Furukawa_Masao.jpg/120px-Furukawa_Masao.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/5e/%E6%96%B0%E9%8A%AD%E5%BA%A7%E6%85%B6%E6%87%89%E7%BE%A9%E5%A1%BE%E5%B9%B3%E9%9D%A2%E5%9B%B3%EF%BC%881869%E5%B9%B4%EF%BC%89.png/170px-%E6%96%B0%E9%8A%AD%E5%BA%A7%E6%85%B6%E6%87%89%E7%BE%A9%E5%A1%BE%E5%B9%B3%E9%9D%A2%E5%9B%B3%EF%BC%881869%E5%B9%B4%EF%BC%89.png)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/8c/Keio_Gijuku_Main_gate.jpg/170px-Keio_Gijuku_Main_gate.jpg)
年表
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/16/FukuzawaYukichi.jpg/150px-FukuzawaYukichi.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/63/Fukuzawa_Yukichi_and_Keio_Gijuku%27s_students.jpg/180px-Fukuzawa_Yukichi_and_Keio_Gijuku%27s_students.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/07/%E6%85%B6%E6%87%89%E7%BE%A9%E5%A1%BE%E6%9C%AC%E9%A4%A8%E3%81%A8%E6%BC%94%E8%AA%AC%E9%A4%A8.jpg/180px-%E6%85%B6%E6%87%89%E7%BE%A9%E5%A1%BE%E6%9C%AC%E9%A4%A8%E3%81%A8%E6%BC%94%E8%AA%AC%E9%A4%A8.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/55/%E6%85%B6%E6%87%89%E7%BE%A9%E5%A1%BE%E9%81%8B%E5%8B%95%E4%BC%9A%EF%BC%88%E6%98%8E%E6%B2%BB38%E5%B9%B4%E7%A7%8B%E6%9C%9F%EF%BC%89.jpg/180px-%E6%85%B6%E6%87%89%E7%BE%A9%E5%A1%BE%E9%81%8B%E5%8B%95%E4%BC%9A%EF%BC%88%E6%98%8E%E6%B2%BB38%E5%B9%B4%E7%A7%8B%E6%9C%9F%EF%BC%89.jpg)
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![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/0b/Mita_grand_hall_1915.jpg/180px-Mita_grand_hall_1915.jpg)
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![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/60/Keio_University_Hiyoshi_Campus_14th_Building.jpg/180px-Keio_University_Hiyoshi_Campus_14th_Building.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/56/Keio_University_Shonan_Fujisawa_campus_2015-12-08_%2823502820342%29.jpg/180px-Keio_University_Shonan_Fujisawa_campus_2015-12-08_%2823502820342%29.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/2e/Keio-University-Shiba-Kyouritsu-No1.jpg/180px-Keio-University-Shiba-Kyouritsu-No1.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/e9/Keio_Fukuzawa_museum2.jpg/180px-Keio_Fukuzawa_museum2.jpg)
慶應義塾の三藩
慶應義塾の三藩︵けいおうぎじゅくのさんぱん︶とは、幕末 - 維新期に慶應義塾を支えた所縁のある3つの藩[72][73]。紀州藩・越後長岡藩・中津藩の三藩を指す。入塾した藩士はのちに塾長や要職を歴任しているため、慶應義塾の基礎となっている。廃藩置県後の1880年︵明治13年︶までの生徒の割合は、越後長岡藩・紀州藩・中津藩︵慶應義塾の三藩︶を中心とした士族が十中八九であった[74]。越後長岡藩
単身上京して新銭座に入塾した藤野善蔵︵のち塾長、長岡洋学校主催︶の影響が大きいと伝えられている[75]。長岡藩は戊辰戦争後に藩校崇徳館などで教育改革を進めて江戸の慶應義塾に多くの学生を送った。この結びつきは、大参事として維新後の長岡を指導した三島億二郎が福澤諭吉の思想に共鳴し交流が密であったことも一因であった。 ●主な藩士‥牧野鋭橘︵越後長岡藩藩主︶、城泉太郎︵長岡藩家臣、のち塾長︶、渡部久馬七︵のち塾長︶、蘆野巻蔵︵のち塾長︶、小林寛六郎︵﹁米百俵﹂で知られる小林虎三郎の弟︶、小林雄七郎、秋山恒太郎、名児耶六都、外山脩造、栗山東吾、牧野鍛冶之助、稲垣銀治、三島徳蔵、曽根大太郎、中島武藤太、高野弥次郎、小林見義、山田鶴遊紀州藩
藩の有力者岸嘉一郎が鉄砲洲時代から優秀なる子弟を選抜して塾に送り[76]、慶応2年の冬頃、紀州藩から一時に多数の学生が入塾することになり、従来の塾舎が狭くなりこれを収容しきれなかったので、紀州藩では奥平藩邸内に別に一棟の塾舎を建築し、同藩の学生をここに寄宿せしめることになり、邸内ではこれを﹁紀州塾﹂と称していた[19]。和歌山藩の入塾生は元治元年九月入塾の臼杵鉄太郎を最初とし、慶応元年三名.慶応二年十名、慶応三年十二名の入塾をみている。中でも紀州徳川家第15代当主徳川頼倫は三宅米吉、英国人のアーサー・ロイド︵慶應義塾教授︶、米国人のウィリアム・リスカム︵慶應義塾教授︶らに師事して漢学と英語を修め、鎌田栄吉︵のち塾長︶からは精神的な薫陶を受けている。 ●主な藩士‥小泉信吉︵のち塾長︶、松山棟庵︵のち塾長、医師︶、草郷清四郎︵紀州藩騎兵指揮官︶、前田政四郎︵紀州藩騎兵仕官︶、岸幹太郎︵徳川家家令︶、和田義郎︵慶應義塾幼稚舎創始者︶、三宅米吉︵歴史学者︶、巽孝之丞、中井芳楠︵銀行家︶、長屋喜弥太︵軍目付、陸軍少佐︶、小川駒橘︵内務官僚、長崎師範学校校長︶中津藩
中津藩は福澤諭吉の出身藩であり、いうまでもなく学問の主流を成した藩である。藩主奥平昌邁、藩校進脩館、豊前国から多数の藩士が塾生となった。学校法人共立薬科大学との合併
2006年11月、慶應義塾は学校法人共立薬科大学と合併についての協議に入った[77]。その後両学校法人の間で協議が重ねられた結果、2007年3月に両学校法人の合併を決定し、合併契約書を締結した[78]。これに伴い、両学校法人では2007年9月までに文部科学省から合併認可を得、その後に共立薬科大学の廃止認可申請および慶應義塾大学薬学部、同大学院薬学研究科の設置認可申請を実施。これらの手続きを経て2008年4月に両学校法人は合併し、慶應義塾大学に薬学部と大学院薬学研究科が設置された。両学校法人は﹁この合併には双方にメリットがある﹂としている。慶應義塾大学にとっては、既存の医学部、看護医療学部に薬学部、薬学研究科が加わることにより、同大学の医療分野の教育、研究の一層の充実を図ることができる。一方共立薬科大学にとっては、慶應義塾大学病院を使って実習を行えるようになるなど、より充実した環境のもとで薬学に携わる人材を育成できるというメリットがあるとしている[79]。歴代社頭一覧
1881年の社頭職制度化後の歴代社頭一覧。塾員のうちから理事会および評議員会の議決により推薦することとされているが[80]、1947年以降は空位となっている[81]。氏名 | 就任時期 | 略歴 | |
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福澤諭吉 | 1881年− 1901年 | 慶應義塾仮憲法による初代社頭 |
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小幡篤次郎 | 1901年− 1905年 | 英学者 |
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福澤一太郎 | 1907年− 1938年 | 福澤諭吉長男 |
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福澤八十吉 | 1939年− 1947年 | 福澤一太郎長男 |
歴代塾長一覧
氏名 | 就任時期 | 略歴 | |
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浜野定四郎 | 1881年− 1887年 | 慶應義塾仮憲法による初代塾長 |
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小泉信吉 | 1887年− 1890年 | 横浜正金銀行支配人 |
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小幡篤次郎 | 1890年− 1897年 | 英学者 |
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鎌田栄吉 | 1898年− 1922年 | 貴族院議員、衆議院議員、文部大臣 |
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福澤一太郎 | 1922年− 1923年 | 福澤諭吉長男 |
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林毅陸 | 1923年− 1933年 | 元・大学部政治科学長、衆議院議員 |
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小泉信三 | 1933年− 1947年 | 経済学者 |
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高橋誠一郎 (代理) |
1946年− 1947年 | 元・経済学部長、文部大臣 |
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潮田江次 | 1947年− 1956年 | 元・法学部長、福澤諭吉孫 |
奥井復太郎 | 1956年− 1960年 | 元・経済学部長、都市社会学者 | |
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高村象平 | 1960年− 1965年 | 元・経済学部長 |
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永沢邦男 | 1965年− 1969年 | 元・法学部長 |
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佐藤朔 | 1969年− 1973年 | 元・文学部長 |
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久野洋 | 1973年− 1977年 | 元・工学部長 |
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石川忠雄 | 1977年− 1993年 | 元・法学部長 |
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鳥居泰彦 | 1993年− 2001年 | 元・経済学部長 |
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安西祐一郎 | 2001年− 2009年 | 元・理工学部長 |
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清家篤 | 2009年− 2017年 | 元・商学部長 |
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長谷山彰 | 2017年− 2021年[84] | 元・文学部長 |
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伊藤公平 | 2021年[84]− | 元・理工学部長 |
事務部門
慶應義塾の事務は、塾監局が中心となって担当している。形式的には学事センターも塾監局に属する組織であって、大学に属する組織ではない。三田以外の各キャンパスに所在する事務室も塾監局の支部の扱いである。ただし、大学病院のある信濃町キャンパスについては、従前は医学部事務局が塾監局の支部として存在していたが、病院経営改革に伴い、大学病院事務局︵病院経営ボードに直属︶と信濃町キャンパス事務室︵塾監局の支部︶とに分割されている。 塾監局の系統に属さない組織としては学生総合センターやメディアセンター︵図書館︶等があり、これらは主として大学に属する組織である。 近年は上記以外にも塾監局の系統に属さない組織︵塾長室、広報室、研究支援センター等︶が増加している。 なお、慶應義塾の職員は、大学病院や信濃町キャンパス、矢上キャンパスの技術系の職員を除いて、上記の組織の系統の違いに関わらず異動がありうる。式典、記念行事
世紀送迎会
●1900年12月31日、福澤諭吉の提案で、三田山上の慶應義塾にて19世紀と20世紀の﹁世紀送迎会﹂を開催。風刺画などで19世紀を振り返り、20世紀の幕開けとともに﹁儒学者の夢﹂﹁階級制度の弊害﹂﹁蓄妾の醜態﹂という3枚の風刺画に一斉射撃して点火、﹁二十センチュリー﹂という花火が夜空に浮かび上がるなど趣向を凝らしたものであった[85]。 ●2000年12月31日には、100年前の送迎会に倣い三田山上で﹁第2回世紀送迎会﹂を開催。自らの意思で世紀を飛び超えるという意味で、21世紀の幕開けより6時間早い午後6時に﹁カウントアップ﹂し、新世紀の幕開けを祝った[86]。創立150年式典の開催
●2008年11月8日、日吉キャンパスで明仁天皇・美智子皇后臨席の元で創立150年記念式典が開催された。司会を務めたのは塾員である石坂浩二と遠藤玲子。式典には塾生・塾員約1万人のほか、ハーバード大学、ケンブリッジ大学の代表者等、慶應義塾にゆかりのある国内外の来賓が数多く参列した[87]。式典の模様は三田キャンパス、湘南藤沢キャンパス、大阪リバーサイドキャンパスに中継され、さらにはインターネットを通じて全世界にも同時中継されている[88]。式典において明仁天皇は﹁今後も国の内外で活躍する人材を数多く育て、送り出すことを期待しています﹂とおことばを述べた[89]。天皇家と慶應義塾とは、元塾長の小泉信三が天皇の教育係であった等の点で接点があり、塾が主催した﹁小泉信三展﹂でも天皇皇后夫妻が来塾している[90]。ちなみに、創立90年と100年の節目においては昭和天皇が式典に臨席している[91]。 ●記念式典翌日には同じく日吉キャンパスにおいて連合三田会大会が開催され、加山雄三、紺野美沙子、櫻井翔などの塾員が登場した[92]。 ●2009年1月10日から3月8日まで、東京国立博物館で﹁慶應義塾 創立150年記念 ﹃未来をひらく 福沢諭吉展﹄﹂[93]が開催された。同展カタログ﹃未来をひらく福澤諭吉展﹄︵監修‥前田富士男アートセンター所長、米山光儀福澤研究センター所長、小室正紀福澤研究センター前所長︶は、第6回ゲスナー賞銀賞を受賞した。主な建造物
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三田キャンパス
1871年︵明治4年︶芝新銭座より三田︵島原藩中屋敷跡︶に校舎を移転した。これ以降三田キャンパスは慶應義塾の中心地となる。三田演説館︵1875年︶、慶應義塾図書館旧館︵1912年︶など歴史的にも重要な建造物が存在する。![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/49/%E6%97%A7%E5%B3%B6%E5%8E%9F%E8%97%A9%E9%82%B8%E7%8E%84%E9%96%A2.jpg/190px-%E6%97%A7%E5%B3%B6%E5%8E%9F%E8%97%A9%E9%82%B8%E7%8E%84%E9%96%A2.jpg)
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その他
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西館
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綱坂と西館
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記念碑など
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![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/d0/Keio_University_Mita_Campus_Keio_Corporate_Administration-4.jpg/120px-Keio_University_Mita_Campus_Keio_Corporate_Administration-4.jpg)
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キャンパス外
慶應義塾大学出版会、慶應義塾大学通信教育部事務局分室、慶應インターナショナルレジデンス 1995年︵平成7年︶竣工。5階建、上部3階は﹁慶應インターナショナルレジデンス﹂ 慶應義塾大学出版会・マーケティング・センター 1994年︵平成6年︶竣工。地上3階、地下1階日吉キャンパス
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中央道路銀杏並木(春季)
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中央道路銀杏並木(夏季)
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中央道路銀杏並木(秋季)
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中央道路銀杏並木(冬季)
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- 来往舎らいおうしゃ
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来往舎(エントランス)
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来往舎(エクステリア)
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来往舎吹き抜け2001年︵平成13年︶竣工。清水建設設計・施工。 地上7階建て、3階までは共同研究室が中心で、4-7階は個人研究室、教員専用のレファレンスライブラリー。エクステリアは列柱と大きなガラスが特徴、エントランス側は吹き抜け空間が設けられている。 日吉第4校舎独立館綱島街道側桜並木アプローチ日吉第4校舎独立館慶應義塾創立150年記念事業の一環として2009年︵平成21年︶3月竣工、4月22日︵水︶に開所式開催。綱島街道側の土手の斜面を削って用地を確保して建設された。設計・建設は鹿島建設。地下1階・地上6階建て、延床面積‥18,400m2[178]。 同建物内には﹁日吉コミュニケーション・ラウンジ﹂が開設された。ここには和室﹁日吉の家﹂、ラウンジ、インフォメーションスペース、学生活動支援スペース、日吉グローバルスタジオなどが含まれる。これらの施設は塾員・塾生に開放され、授業や課外活動等に活用されている。 綱島街道側の桜並木アプローチは協生館に続きCASBEE横浜第3号として最高位﹁Sランク﹂を認定されている。 日吉図書館︵日吉メディアセンター︶日吉メディアセンター綱島街道側より1985年︵昭和60年︶竣工。設計‥槇文彦、施工‥戸田建設・大林組共同企業体。鉄筋コンクリート造地下1階・地上5階、建築面積‥1,982.80m2、延床面積‥9,335.12m2[179]。 船をモチーフとして設計されている。蔵書数約60万冊。 図書館正面に福澤諭吉胸像︵山名常人作︶が設置されている[180]。台座の内部にはタイムカプセルが収められており、福澤諭吉生誕300年の2135年に開封する予定となっている[181]。
日吉記念館︵新︶ 日吉記念館︵旧︶ 藤山記念館 西別館︵2008年︶ 日吉記念館︵新︶ 日吉キャンパスの新たなシンボルとなる体育館兼講堂。旧記念館解体後の2018年︵平成30年︶着工、2020年︵令和2年︶3月竣工。設計監理監修‥三菱地所設計、設計監理・施工者‥鹿島建設。鉄筋コンクリート造︵一部鉄骨造︶地下2階、地上4階、敷地面積352,057m2、延床面積12,514m2。立見席を除く収容人数は最大約1万人。 正面に16本の列柱が並び、両隣の第1校舎、第2校舎と調和するように設計された。観覧席はバリアフリー化がなされ、アリーナに空調機が設置されるなど、利用者にとってより快適な空間へと進化を遂げた[182][183][184][185][186]。 日吉記念館︵旧︶「三田大講堂」も参照日吉キャンパスの中央広場正面に大講堂を建設する構想は戦前からあったが[187]、戦時下の資材不足や米軍による日吉接収などの影響で大講堂建設は先送りにされていた。しかし、1958年︵昭和33年︶の慶應義塾創立100年記念式典開催のためには大講堂が必要ということで、鹿島建設の工事請負により同年3月着工、10月20日に竣工した。 鉄骨造地上3階、地下1階、延床面積6,006.6m2、館内の間口60.6m、奥行56.5m。半円形の天井は前方から後方へ緩やかなカーブを描いていた。玄関側に3,000人収容の観覧席、反対側にステージが設けられ、立見席を含めれば最大で1万人を収容することができた[188]。 1958年11月8日の慶應義塾創立100年記念式典は日吉記念館に昭和天皇、岸信介総理大臣、灘尾弘吉文部大臣、茅誠司東大総長、大濱信泉早大総長、福澤家代表などを迎えて華々しく挙行され、堀口大學作詞・團伊玖磨作曲の創立百年記念祝典曲が歌い上げられた[189]。 旧日吉記念館は体育施設として、あるいは入学式や卒業式などの式典会場として長く利用されたが、老朽化のため2017年︵平成29年︶に閉鎖され、翌年にかけて解体された[190][191]。 藤山記念館 1958年︵昭和33年︶塾員藤山愛一郎の寄付により建てられた。設計監理‥三菱地所、施工‥鹿島建設。鉄筋コンクリート造2階建、半地下室を有し、延床面積約1,686m2[192]。 日吉新図書館の開館まで藤山記念図書館として使用していたが、現在は藤山記念館と改称した。ラウンジ、会議室、パソコン室、大会議室など多面的に利用されている。正面右脇に愛一郎の父で同じく塾員の藤山雷太の像がある。 西別館 1979年︵昭和54年︶竣工[193].。 日吉駅から徒歩約10分の場所にある[194]。2008年︵平成23年︶まで大学院経営管理研究科が使用し、2011年︵平成23年︶にデジタルメディア・コンテンツ統合研究センター︵DMC研究センター︶が移転した[195]。教育施設
第3校舎 1994年︵平成6年︶3月竣工。外国語教育研究センター、ラボ、301-336 第4校舎A棟 B棟とともに1957年︵昭和32年︶竣工。設計監理‥三菱地所、主体工事‥鹿島建設。鉄筋コンクリート地上4階建て塔屋付き。延床面積4,996m2。75人収容の普通教室28室を備えた︵竣工時︶[196]。 J411-J447 第4校舎B棟 鉄筋コンクリート地上3階建て、両翼部2階建て、一部地階付き。延床面積7,486m2。200人教室4室、300人教室2室、400人教室4室を備えた︵竣工時︶[196]。 学生総合センター、国際センター、学事センター、学生相談室、J11-39 旧第5校舎 1962年︵昭和37年︶に建てられた鉄筋コンクリート地上4階、地下1階建ての校舎。視聴覚教室、同研究室のほか普通教室12室を有し、2009年︵平成21年︶3月まで語学やゼミなどに利用された。老朽化のため2011年︵平成23年︶に解体され、跡地は庭園となった[197][198]。第3校舎 -
第4校舎A棟
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第4校舎B棟
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旧第5校舎第6校舎 1970年︵昭和45年︶竣工。地上4階、地下1階建て[199]。 グリーン食堂、J611-643、ゼミ1、ゼミ2 第7校舎 1969年︵昭和44年︶竣工。地上3階、地下1階建て[144]。 701、703、704教室、理工学部基礎教室、日吉インフォメーションテクノロジーセンター、パソコン室 第8校舎 1977年︵昭和52年︶竣工。地上4階建て[200]。 811、812、831教室、心理学研究室、美術研究室、音楽学研究室 学生団体部室、トレーニングルーム 日吉会堂 慶應義塾高校の体育館兼講堂。1963年︵昭和38年︶5月竣工。鉄筋コンクリート地上一部中2階、地下1階、延床面積約3,689m2。館内はバスケットコート3面分の広さがあり、2階には300名収容の観覧席がある[201]。第6校舎
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第7校舎
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第8校舎
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日吉会堂
宿泊、居住施設
日吉寄宿舎 設計‥谷口吉郎 竣工‥1937年︵昭和12年︶ 下田学生寮 (Shimoda Student Village) 2006年︵平成18年︶開設。地上4階建て、延べ面積約1万m2。 1階‥体育会共用スペース︵部室・食堂・トレーニング施設・浴室等︶2-4階‥宿舎︵体育会棟・留学生棟︶ 体育会野球部合宿所 2008年︵平成20年︶4月4日完成。 KBSハウス KEIO NESTLE HOUSE 外国人訪問研究者等のための宿舎[202]。日吉寮 -
下田学生寮
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体育会野球部合宿所
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KBSハウス
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KEIO NESTLE HOUSE
厚生施設
保健管理センター 1971年︵昭和46年︶竣工。地上2階建て[203]。 塾生会館︵課外活動棟︶ 1989年︵平成元年︶開設[204]。 ホール、部室、練習場、印刷室、暗室、トレーニングルームなど。 食堂棟 1974年︵昭和49年︶竣工。地上3階建て[205]。 1階‥遊遊キッチン︵生協食堂︶[206]、銀杏庵︵和麺︶[207]、テイクアウトBOX︵屋外︶[207]、日吉DELI︵屋外︶[207] 2階‥グリーンズマルシェ[206] 3階‥公認学生団体のための集会室[208] 購買施設棟︵生協購買部︶保健管理センター -
塾生会館(課外活動棟)
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食堂棟
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購買施設棟
屋内運動施設/スポーツ関連施設
日吉体育館 1959年︵昭和34年︶4月竣工。地上2階建、一部中3階付。延床面積‥2,917.6m2。日吉記念館の北隣に記念館別館として建てられた[209]。 柔道場・剣道場 スポーツ棟 1975年︵昭和50年︶竣工。地上3階、地下1階建て[210]。 体育研究所、卓球場 柔道場︵慶應義塾高校︶ 1976年︵昭和51年︶竣工[211]。 スポーツ医学研究センター 1989年︵平成元年︶4月1日開設[212]。体育館 -
スポーツ棟
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柔道場
(慶應義塾高校) -
スポーツ医学研究センター
野外運動施設
陸上競技場 1934年開設。第一校舎西側の窪地にあり、3,000人収容のスタンドを設けていた[213]。2008年に大規模改修が行われた[214]。 蝮谷テニスコート 1934年開設[213]。日吉記念館裏手の低地にあり、コート脇に﹁練習ハ不可能ヲ可能ニス﹂の石碑が設置されている[215]。 体育会馬術部日吉馬場 1941年開設[216]。日吉キャンパス北端にある。 野球場 1940年開設[217]。 ラグビー場 1940年開設[217]。グラウンドの一角に﹁日本ラグビー蹴球発祥記念碑﹂が設置されている[218]。 ソッカー場 1941年開設[219]。 ホッケー場 1941年開設[219]。陸上競技場 -
「練習ハ不可能ヲ可能ニス」
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馬術場
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野球場
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ラグビー場
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ソッカー場
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ホッケー場
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グラウンド(慶應義塾高等学校)
そのほか
藤原工業大学開校の地記念碑 塾生会館前にある。2014年︵平成26年︶3月設置[220]。 平沼亮三像 陸上競技場バックスタンドにある[221]。 地下壕入り口 弥生時代住居址群 第六天古墳横穴式石室の玄室部。 佛教青年会館 1958年︵昭和33年︶竣工。日吉キャンパスグラウンド南側にある[222]。 YMCAチャペル ヴォーリズ[2][リンク切れ]設計。1936年︵昭和11年︶竣工。藤原工業大学開校の地記念碑 -
地下壕入り口
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弥生時代住居址群
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佛教青年会館
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YMCAチャペル
信濃町キャンパス
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![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/e6/Keioh_Medical_school.jpg/200px-Keioh_Medical_school.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/03/Kitasato_Memorial_Medical_Library.jpg/200px-Kitasato_Memorial_Medical_Library.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/5a/Keio_University_Shinanomachi_Campus_Center_for_Integrated_Medical_Research.jpg/200px-Keio_University_Shinanomachi_Campus_Center_for_Integrated_Medical_Research.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/89/Keio_University_Shinanomachi_Campus_Center_for_Integrated_Medical_Research-1.jpg/200px-Keio_University_Shinanomachi_Campus_Center_for_Integrated_Medical_Research-1.jpg)
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臨床施設
旧中央棟 1963年︵昭和38年︶竣工。主体工事‥安藤建設。地下2階・地上6階建。延床面積‥13,848.4m2[226]。 2018年の新1号館開館により解体された[227]。 旧1号棟 1965年︵昭和40年︶外来病棟として竣工、A、B2棟からなっていた。 B棟は建物東側に螺旋状の避難通路があり、災害時にはバリアフリーで患者の避難が可能となっていた。この建築様式は後に東海大学医学部付属病院にも採用された。 2018年の新1号館開館により解体された[228]。 旧2号棟︵臨床研究棟︶ 1952年︵昭和27年︶竣工︵旧‥﹁ほ﹂号病棟︶ 1990年︵平成2年︶臨床研究棟に改修、内科系臨床施設を含む。 2018年の新1号館開館により解体された[227]。- 旧リハビリテーション棟
- 病院情報システム部、リハビリテーションセンター
- 内分泌検査棟
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旧リハビリテーション棟
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内分泌検査棟
- 包括先進医療センター棟
- 第1,第2MR棟
- SIGNA 1.5T, SIGNA 0.5Tが設置されている。
- CTスキャナー棟
- 霊安室
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包括先進医療センター棟
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第1,第2MR棟
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CTスキャナー棟
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霊安室
教育・研究施設
東校舎 1957年︵昭和32年︶11月竣工。設計‥谷口吉郎、施工‥清水建設。地下1階・地上4階建塔屋付。延床面積‥4387.3m2。 建設に際してロックフェラー財団から1億円の寄付があった[229]。 第二校舎 1961年︵昭和36年︶10月竣工。設計監理‥三菱地所、施工‥鹿島建設。地下1階・地上4階建。延床面積‥2,830.4m2。 建設に際してチャイナ・メディカル・ボードからの寄付があった[230]。 PBLルーム 新教育研究棟 1996年︵平成8年︶竣工 講堂、セミナールームは各種研究会や会合に利用されている。 本館臨床講堂 1969年︵昭和44年︶5月竣工。地下1階・地上2階建。延床面積‥766.99m2[231]。 臨床講義用階段教室東校舎 -
第2校舎
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新教育研究棟
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本館臨床講堂日本ワックスマン財団 1957年11月21日設立[232] 1952年12月、セルマン・エー・ワックスマン博士がノーベル生理学医学賞授賞式の帰途﹁北里柴三郎生誕百年祭﹂の招聘により来日した際に設立された。 孝養舎 看護学部の校舎として使われている。主に1・2年次は湘南藤沢キャンパス (SFC)・看護医療学部校舎を3・4年次の学生は本校舎を使用する。 学生総合センター、学事課、自習室、体育室 グラウンド ミュージアム日本ワックスマン財団
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孝養舎
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グラウンド
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ミュージアム
- 犬舎
- ボイラー室
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犬舎
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ボイラー室
その他(厚生施設など)
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矢上キャンパス
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湘南藤沢キャンパス
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芝共立キャンパス
●2008年︵平成20年︶ 学校法人共立薬科大学との合併により薬学部・大学院薬学研究科を開設 これにより芝キャンパス、浦和キャンパスが慶應義塾の施設として新たに加わることになった。 1号館 正面玄関が設置されている。交通の頻繁な日比谷通りに面しているが、道路までの間に芝公園がありそれが緩衝地帯の役割をなして騒音を防いでくれている。 屋上庭園が設けてあり、そこから東京タワーの夜景を楽しむことができる。 トレーニングジム、学生ホール、食堂、売店、事務局、マルチメディア講堂、屋上庭園、薬用植物園分園、体育館︵多目的ホール︶ 2号館 記念講堂、学生相談室、講義室、実習室、実験動物飼育室 3号館 2000年︵平成12年︶竣工 セミナー室、教員研究室、実験室、マルチメディア・コンピュータ室、芝共立薬学図書館︵薬学メディアセンター、蔵書は製本68,000冊︶、附属薬局、事務局︵総務課、経理課︶、生体防御薬学研究センターその他のキャンパス
脚注
注釈
出典
参考文献
- 慶應義塾『慶應義塾五十年史』1907年(明治40年)
- 慶應義塾『慶應義塾七十五年史』1932年(昭和7年)
- 慶應義塾『図説・慶応義塾百年小史:1858-1958』 1958年(昭和33年)
- 慶應義塾『慶應義塾百年史』 全6巻、1958-1969年(昭和33-44年)
- 慶應義塾大学三田情報センター編 『慶應義塾図書館史』 慶應義塾大学三田情報センター、1972年(昭和47年)
- 石田潤一郎著、増田彰久写真 『日本の建築 明治大正昭和7 ブルジョワジーの装飾』 三省堂、1980年(昭和55年)
- 『慶応義塾125年』編集委員会 『慶應義塾125年』 慶應義塾、1983年(昭和58年)
- 慶應義塾福澤研究センター 『創立百二十五年 慶應義塾年表』 慶応義塾、1985年(昭和60年)
- 『慶應義塾史事典』2008年(平成12年)
- 加藤三明、山内慶太、大澤輝嘉 編著 『慶應義塾 歴史散歩 キャンパス編』 慶應義塾大学出版会、2017年 ISBN 978-4-7664-2469-0
- 加藤三明、山内慶太、大澤輝嘉 編著 『慶應義塾 歴史散歩 全国編』 慶應義塾大学出版会、2017年 ISBN 978-4-7664-2470-6