島津氏
島津氏 | |
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本姓 | 惟宗忌寸流朝臣 |
家祖 | 島津忠久 |
種別 |
武家 華族(公爵) |
主な根拠地 | |
著名な人物 |
島津久経 島津忠良 島津貴久 島津義久 島津義弘 島津歳久 島津家久 島津重豪 広大院 島津斉彬 島津久光 島津忠義 天璋院 |
支流、分家 |
玉里家(公爵) 佐土原家(武家・伯爵) 重富家(武家・男爵) 加治木家(武家・男爵) 垂水家(武家・男爵) 今和泉家(武家・男爵) 日置家(武家・男爵) 都城家(北郷氏)(武家・男爵) 宮之城家(武家・男爵) 伊集院氏 新納氏 川上氏 桂氏 佐多氏 迫水氏 樺山氏 山田氏 喜入氏 野々山氏 町田氏 |
凡例 / Category:日本の氏族 |
概要[編集]
治承・寿永の乱終結後の元暦2年/文治元年︵1185年︶8月、島津家の家祖島津忠久は、五摂家筆頭の近衛家領島津荘の下司職に任じられる。これに始まり、鎌倉幕府成立後には源頼朝より、三州すなわち薩摩国・大隅国・日向国の3国の他、初期には越前国守護にも任じられ、鎌倉幕府有力御家人の中でも異例の4ヶ国を有する守護職に任じられた。以降、島津氏は南九州の氏族として守護から守護大名、さらには戦国大名へと発展を遂げ、その全盛期には九州のほぼ全土を制圧するに至った。天正15年︵1587年︶には豊臣秀吉の九州平定を受けるも、3ヵ国の旧領は安堵された[2]。 関ヶ原の戦いで西軍に属して敗戦したが、領地を安堵されて江戸時代には77万石という外様大名屈指の雄藩となる。幕末には長州藩毛利家とともに討幕運動の中心勢力となり、明治維新の原動力となった。明治時代、大正時代には政財界に重きをなした[2]。島津家は本家、分家、旧支藩藩主家や旧一門家臣など14家が華族に列しており︵公爵家2家、伯爵家1家、男爵家11家︶、この数は松平家︵29家︶に次ぐ[3]。 この薩摩島津氏の他、越前、信濃、駿河、若狭、播磨、近江に支流としての島津氏が派生し、それぞれ越前島津氏、信濃島津氏、河州島津氏、若狭島津氏、播磨島津氏、江州島津氏と呼ばれている。 島津氏は、多くの大名の中でも鎌倉、室町から江戸、現代まで名門として続いている稀有な家である。出自・近衛家荘官・鎌倉幕府御家人[編集]
その他の出自に係る説について[編集]
忠久の実父については諸説あり、頼朝の実子であり惟宗広言の養子であったとする説以外に、広言の実子であるという説があるが、通字の問題などから広言の実子説については近年疑問視する説もある。歴史[編集]
鎌倉時代[編集]
南北朝時代[編集]
やがて鎌倉幕府の力が衰えて倒幕の機運が高まると、1333年︵元弘3年、正慶2年︶に5代・島津貞久が後醍醐天皇の鎌倉幕府討幕運動に参加する。貞久は九州の御家人とともに鎮西探題を攻略し、鎌倉幕府滅亡後には初代・忠久以来の大隅・日向の守護職を回復した。その後、建武の新政が崩壊すると、建武政権から離反した足利尊氏が摂津国で敗れて九州へ逃れてきたため、少弐氏と共に尊氏を助け、筑前国多々良浜の戦い︵福岡県福岡市︶で菊池氏ら後醍醐天皇の宮方と戦うなど、九州武家方の有力大名として活躍する。しかし、南北朝時代の1342年︵南朝‥興国3年、北朝‥康永元年︶中期に南軍の征西将軍として派遣された懐良親王が南九州へ入り、菊池氏と共に勢力を強大化させたため、一時は南朝方にも属するなど苦戦を強いられた。 その後、幕府方に復帰した貞久は死の直前の1362年︵南朝‥正平17年、北朝‥貞治元年︶に幕府に対して申状を送っている[6]。その中で貞久は島津荘は薩摩・大隅・日向一帯を占める島津氏の本貫であり、3国の守護職は源頼朝から与えられたもので大隅・日向の守護職は鎮西探題︵北条氏︶に貸したものに過ぎないとして3か国守護であることの正当性を訴えた。前述のように島津氏は比企能員の変で処罰された結果として大隅・日向の守護職を没収されたもので、貞久の主張は史実ではない。しかし、貞久のこの信念は彼の後継者や島津氏の一族・家臣団に共有されて後世に伝えられ、今日なお﹁島津氏は鎌倉幕府成立以来中世を通じて薩摩・大隅・日向3か国守護職を相伝し、700年にわたって3か国を領有した﹂という史実とは異なる認識[7]を定着させることになる[8]。 貞久は嫡男の島津宗久を早くに失っていたため、三男の島津師久と四男の島津氏久にそれぞれ薩摩・大隅の守護職を分与し島津氏を分割継承させた。島津師久は上総介に任じられていたので、その子孫は総州家、島津氏久は陸奥守に任じられていたので、その子孫は奥州家と言われた。分割継承の後は、6代・氏久︵奥州家︶が水島の陣にて武家方である九州探題・今川貞世の少弐冬資謀殺︵水島の変︶に怒り、武家方を離反すると、同じく6代・師久︵総州家︶もこれに順じて武家方から離反するなど、両家は団結して島津氏に仇なす征西府と今川探題が一揆させた南九州国人一揆と戦い、やがてそれら外敵を退けることに成功した。 しかし、共通の外敵を持つ間は固い団結を誇った島津両家も、その外敵が消え去った後は、互いが最も脅威となる存在となった。室町時代前期・中期[編集]
南北朝の内乱を分割継承という形で乗り切った両島津氏であったが、打倒すべき共通の敵を失うと、互いを脅威とみなし対立を深めた。やがて7代・島津伊久︵総州家︶とその嫡子・島津守久が不和となり、総州家内部で内紛が勃発すると、7代・島津元久︵奥州家︶がこれを調停し、恩義を感じた伊久より薩摩守護職と島津氏重代の家宝を譲られ、表面上は両島津氏は再統一された。後に室町幕府にも相続が安堵された[注釈 4]。しかし、総州家が滅亡したわけではなく、両家の対立は残ったままであった。なお、この元久の頃より守護所が鹿児島の清水城へ移り、本格的に鹿児島の街が開府した。 守護職が奥州家の元に統合された島津氏だったが、元久が嗣子無く没すると、島津一族の筆頭であった伊集院頼久が自身の子息を本家当主に据えようと画策する。これを察知した元久の弟・島津久豊は元久の位牌を奪って8代当主となった。これにより伊集院氏との対立が深まり、また伊集院氏に総州家が助勢したため、またも領国内に内紛︵伊集院頼久の乱︶が起こったが、最終的に久豊は伊集院氏を降し、また総州家を滅ぼすことに成功。島津氏の守護領国制を完成させた。 9代・島津忠国の代になると、島津氏は守護大名として確立し、比較的安寧な時期が続いたが、大小の内紛は散発していた。特に忠国の弟である島津用久︵好久・持久・薩州家︶が声望を増したため、兄弟間の対立が起こった︵なお、内紛の鎮圧に失敗した忠国が家督を一旦用久に譲ったものの、その後忠国が当主への復帰を図ったとする説もある[9]︶。この争いは中央で6代将軍・足利義教との権力闘争に敗れた大覚寺義昭を討った忠国に幕府が味方したため、好久が降伏し、忠国の勝利に終わった。この際に忠国は好久に薩州家を立てさせ、ある程度の譲歩をしている。忠国と好久の対立は解決されたものの、家中の掌握には失敗して家臣の反抗を招き、事実上の引退に追い込まれた[10]。 10代・島津立久の時代には応仁の乱が勃発し、島津氏は東軍に属した︵但し派兵せず︶。11代の島津忠昌は桂庵玄樹を招聘して薩南学派を起こすなど学問を好んだが、領国内の一族・国人が立て続けに挙兵したため、世を儚んだ忠昌はついに自害して果てた。その後も12代・島津忠治、13代・島津忠隆が継承したが、いずれも早世したため、国内の島津氏一族・国人、大隅の肝付氏、日向の伊東氏を押さえることは叶わず、守護家の島津氏は全く弱体化してしまっていた。室町時代後期[編集]
室町時代後期に入ると、領域内各地の国人や他の島津一族による闘争が加速化され、さらに薩摩大隅日向守護家は衰退する。 そして島津氏一族の中から相州家の島津貴久と薩州家の島津実久が台頭して他家を上回った。 貴久は一時期薩摩大隅日向守護家の14代・忠兼︵後の勝久、12代・忠治、13代・忠隆の弟︶の養子として迎えられる。しかし勝久は実久に誑かされ、守護復帰を目論んで貴久との養子縁組を解消した。ただし、近年の研究では傍流から当主になった勝久と重臣達の確執の存在や勝久に反発する重臣たちの中には貴久や実久を擁立する動きがあったこと、実久が一時期守護家当主および薩摩大隅日向守護として迎えられて国内をほぼ掌握していた時期が存在したことが明らかになっている[11]。 その後、勝久は実久により薩摩を逐われて、母方の実家である大友氏を後ろ盾として頼み豊後国へと亡命する。 貴久は実久と守護職を争い、遂にはこれを武力で退け、薩摩・大隅を制圧した。前述の研究では、この際に実久が重臣たちの擁立によって勝久に代わって守護に就任した事実は消されて、反逆行為として書き直されたと考えられている。戦国時代から安土桃山時代[編集]
15代・貴久︵相州家出身︶は内城を築き、修理大夫に任ぜられた。また、嫡男︵後の義久︶に将軍義輝より偏諱を受けている。貴久の嫡男である16代・島津義久の代には、日向の大名であった伊東氏を駆逐し、戦国大名として薩摩国・大隅国・日向国の三州再々統一を成し遂げた。 1578年︵天正6年︶以降、幕府の鎮西管領であった豊後国の大名・大友宗麟は日向領に征討を繰り返したが、これに対して義久は自ら出陣し、九州雌雄を決した耳川の戦いでは圧倒的な勝利を収め、大友軍を撤退させた。大友氏はこれにより九州北西部での勢力を減じ、大友氏が菊池氏に代わり守護となっていた肥後国でも、名和氏と城氏が島津氏に誼を通じた。義久は天草五人衆を従属させ宇土半島の阿蘇氏を駆逐して名和氏・城氏への支援路を確保し、九州北部制覇への足掛かりを築いた。さらに1581年︵天正9年︶には人吉藩の相良氏を降伏させた。 肥前国では大友氏が勢力を落としたのち、戦国大名・龍造寺隆信が強大な勢力を誇っていた。この龍造寺氏に圧迫されていた大名・有馬晴信もまた、島津義久に助力を求める書状を送る。1584年︵天正12年︶、義久は末弟の島津家久に全軍指揮を任せ肥前島原半島に派遣。家久は沖田畷の戦いでは龍造寺軍を戦巧な戦いで撃破し大将隆信の首を討ち取るという殊勲をあげる。沖田畷の戦い以後、大友氏から龍造寺氏へと鞍替えしていた九州北部の豪族達が島津氏方に転じ、残る肥後国北中部の阿蘇氏、またその被官である甲斐氏の拠点を陥落させた︵豪族としての矢部氏・阿蘇氏は滅亡し、その後、大宮司家として再興︶。島津軍が瞬く間に九州全土に快進撃を行えたのは、戦略性を持つ統制の取れた機動力と戦術眼、また鉄砲の存在、それを実戦で培い磨き上げた高度な鉄砲戦術が大きかったと考えられる。 1586年︵天正14年︶には、義久は3人の弟︵島津義弘・歳久・家久︶や優秀な家臣団を使いこなし、大友氏の本拠である豊後国にも侵攻した。臼杵城における丹生島城の戦いでは、大神氏庶流の武宮親實のフランキ砲戦術により家久が撤退したが、島津氏は筑前国・豊後国の一部を除く九州の全土を手中にし、最大版図と勢力を築くこととなった。 しかし、義久らは豊臣秀吉の停戦命令に服さなかったことから、大友宗麟の嘆願による秀吉の九州平定を受ける。九州平定の前哨戦となった戸次川の戦い等では、島津軍は圧倒的な勝利を収める。豊臣連合軍が一方的な敗北を期したことから、秀吉は第二波の攻防では自ら出陣する決心をし、朝廷での関白の地位を利用し[注釈 5]、40か国に近い諸国から25万人もの大量兵力を動員した。義久は秀吉軍の日向からの侵攻を予想して日向口に主力部隊を配備したが、秀吉軍が意に反し薩摩北西部の肥後口から侵攻してきたため、領国内が戦乱の渦に巻き込まれる総力戦を避け、止む無く降伏を決断したとされる。 その後、根白坂の戦いでの敗北を経て、木食応其の仲介のもと降伏する。島津荘領主である近衛前久による仲介や交渉の結果、本領である薩摩・大隅2か国・日向諸県郡は全所領が安堵された。 朝鮮の役では、乱妨取りした男女の返還を要請する秀吉の朱印状を受け取りながらも、明・朝鮮連合軍との泗川の戦いなどの目覚しい勝利を賞賛され、豊臣政権から特別となる5万石の加増を受けることになる[注釈 6]。これにより、島津家は56万9千石余︵文禄年間に行われた石田三成奉行による検地の結果︶から61万石余となり、徳川氏︵255万石︶・上杉氏︵120万石︶・毛利氏︵112万石︶・前田氏︵84万石︶[12]に次ぎ、島津氏は九州全制覇を目前にして豊臣秀吉と交戦しながらも宇喜多氏・伊達氏を抜き、豊臣政権下で第5位の地位に就く大大名となる[13]。江戸時代[編集]
明治以降[編集]
歴代当主[編集]
代数 | 肖像 | 名前 (生没年) |
続柄 | 位階 | 備考 |
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1 | 島津忠久 (生年不詳 - 1227年) |
惟宗広言の子(?) | 従五位下 贈従二位 |
薩摩・大隅・日向・越前などの守護。 島津荘より島津を称す。 在鎌倉 | |
2 | 島津忠時 (1202年 - 1272年) |
先代の子 | 初名は「忠義」。 薩摩守護。 鎌倉将軍の近侍として仕える。 | ||
3 | 島津久経 (1225年 - 1284年) |
先代の次男 | 贈正三位 | 初名は「久時」。 薩摩守護。 島津氏で初めて薩摩に入国する。 元寇に出兵。 | |
4 | 島津忠宗 (1251年 - 1325年) |
先代の子 | 薩摩守護。 島津氏の薩摩入部を進める。 | ||
5 | 島津貞久 (1269年 - 1363年) |
先代の子 | 薩摩・大隅・日向守護。 足利尊氏に属す。 三州守護職を回復する。 |
兄系島津氏(総州家) | 弟系島津氏(奥州家) | ||||||||||
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代数 | 肖像 | 名前 (生没年) |
続柄 | 位階 | 備考 | 代数 | 肖像 | 名前 (生没年) |
続柄 | 位階 | 備考 |
6 | 島津師久 (1325年 - 1376年) |
貞久の三男 | 薩摩守護。 貞久三男。兄系島津氏(総州家)の初代。 |
6 | 島津氏久 (1328年 - 1387年) |
貞久の四男 | 大隅・日向・筑後守護。 貞久四男。 弟系島津氏(奥州家)の初代。 | ||||
7 | 島津伊久 (1347年 - 1407年) |
先代の長男 | 薩摩守護。 兄系島津氏(総州家)2代。 重代の家宝を元久に譲る。 |
7 | 島津元久 (1363年 - 1411年) |
先代の長男 | 初名は「孝久」。 薩摩・大隅・日向守護。 弟系島津氏(奥州家)2代。 家督を統一する。 |
代数 | 肖像 | 名前 (生没年) |
続柄 | 位階 | 備考 |
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8 | 島津久豊 (1375年 - 1425年) |
氏久の次男(元久の弟) | 薩摩・大隅・日向守護。 氏久次男。 島津氏の守護大名化を確立させる。 | ||
9 | 島津忠国 (1403年 - 1470年) |
先代の子 | 初名は「貴久」。 薩摩・大隅・日向守護。 島津氏を守護大名として安定させる。 | ||
10 | 島津立久 (1432年 - 1474年) |
先代の子 | 薩摩・大隅・日向守護。 応仁の乱で東軍に属す。 | ||
11 | 島津忠昌 (1463年-1508年) |
先代の子 | 初名は「武久」。 薩摩・大隅・日向守護。 自害。 | ||
12 | 島津忠治 (1489年 - 1515年) |
先代の長男 | 薩摩・大隅・日向守護。 | ||
13 | 島津忠隆 (1497年 - 1519年) |
先代の弟 (忠昌の次男) |
薩摩・大隅・日向守護。 | ||
14 | 島津勝久 (1503年 - 1573年) |
先代の弟 (忠昌の三男) |
初名は「忠兼」。 薩摩・大隅・日向守護。 亡命先の豊後国で客死。 | ||
15 | 島津貴久 (1514年 - 1571年) |
先代の養子 (島津忠良の子) (9代忠国の玄孫) |
薩摩・大隅・日向守護。 争乱の薩摩を統一する。 | ||
16 | 島津義久 (1533年 - 1611年) |
先代の長男 | 従四位下 | 初名は「忠良」・「義辰」。 薩摩・大隅・日向守護。 一時、九州統一目前に迫るなど島津氏全盛期。 | |
17 | 島津義弘 (1535年 - 1619年) |
先代の弟 (貴久の次男) |
従四位下 贈正三位 |
初名は「忠平」・「義珍」。 肥後守護代。 「尚古集成館」では17代としている(後述)[34]。 | |
18 | 島津家久 (1576年 - 1638年) |
先代の三男 | 従三位 | 初名は「忠恒」。 初代薩摩藩主。 鶴丸城を築く。 | |
19 | 島津光久 (1616年 - 1695年) |
先代の子 | 従四位上 | 初名は「忠元」。 2代薩摩藩主。 鹿児島・磯に別邸庭園仙巌園を造園。 | |
20 | 島津綱貴 (1650年 - 1704年) |
先代の孫 (島津綱久の子) |
従四位上 | 初名は「延久」。 3代薩摩藩主。 娘の亀姫は近衛家久正室。 | |
21 | 島津吉貴 (1675年 - 1747年) |
先代の子 | 従四位上 | 初名は「忠竹」。 4代薩摩藩主。 霧島神宮の社殿を造営。 | |
22 | 島津継豊 (1702年 - 1760年) |
先代の子 | 従四位上 | 初名は「忠休」。 5代薩摩藩主。 | |
23 | 島津宗信 (1728年 - 1749年) |
先代の長男 | 従四位上 | 初名は「忠顕」。 6代薩摩藩主。 | |
24 | 島津重年 (1729年 - 1755年) |
先代の弟 (継豊の次男) |
従四位上 | 初名は「久門」。 7代薩摩藩主。 宝暦治水など幕府の普請に苦しんだ。 | |
25 | 島津重豪 (1745年 - 1833年) |
先代の子 | 従三位 | 初名は「久方」・「忠洪」。 8代薩摩藩主。 娘広大院は徳川家斉の正室。 | |
26 | 島津斉宣 (1774年 - 1841年) |
先代の長男 | 正四位上 | 初名は「忠堯」。 9代薩摩藩主。 近思禄崩れで失脚。 | |
27 | 島津斉興 (1791年 - 1859年) |
先代の長男 | 従三位 | 初名は「忠温」。 10代薩摩藩主。 藩政改革。 | |
28 | 島津斉彬 (1809年 - 1858年) |
先代の長男 | 従四位上 贈正一位 |
初名は「忠方」。 富国強兵・殖産興業。 11代薩摩藩主。 養女篤姫は徳川家定正室。 | |
29 | 島津忠義 (1840年 - 1897年) |
先代の養子 (島津久光の子) (27代斉興の孫) |
従一位 | 初名は「忠徳」・「茂久」。 12代薩摩藩主(知藩事) 初代公爵。 | |
30 | 島津忠重 (1886年 - 1968年) |
先代の四男 | 正二位 | 2代公爵 姉は邦彦王妃俔子。香淳皇后の叔父。 海軍少将。 | |
31 | 島津忠秀 (1912年 - 1996年) |
先代の長男 | 農林省勤務 水産学者 香淳皇后の従弟。 | ||
32 | 島津修久 (1938年 - 存命中) |
先代の次男 | 照国神社宮司。 近衛文麿の孫。 細川護煕はいとこ。 |
17代当主について[編集]
島津忠久1 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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忠時2 | [越前家] 忠綱 | 忠直 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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[山田氏] 忠継 | 久経3 | 高久 | 忠康 | 忠佐 | [阿蘇谷氏] 久時 | [町田氏] 忠経 | 久氏 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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山田忠真 | 忠宗4 | [伊作氏] 久長 | [給黎氏] 給黎宗長 | 忠継 | [町田氏][注釈 9] 町田忠光 | [伊集院氏] 伊集院俊忠 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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貞久5 | [和泉氏] 和泉忠氏 | [佐多氏] 佐多忠光 | [新納氏] 新納時久 | [樺山氏] 樺山資久 | [北郷氏] 北郷資忠 | [石坂氏] 石坂久泰 | 宗久 | 久俊 | [恒吉氏] 久行 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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[川上氏] 川上頼久 | 宗久 | [総州家] 師久6 | [奥州家] 氏久6 | 光久 | 氏忠 | 親忠 | 久氏 | 忠武 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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伊久7 | [碇山氏][注釈 10] 碇山久安 | 元久7 | 久豊8 | 久義 | [西氏] 親久 | 十忠 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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守久 | [相馬氏] 忠朝 | 久照 | 仲翁守邦 | 忠国9 | [薩州家] 用久 | [豊州家] 季久 | [羽州家][注釈 11] 有久 | [伯州家][注釈 12] 豊久 | 勝久 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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久世 | [相州家] 友久 | 立久10 | 久逸 | [常州家] 勝久 | [予州家] 忠経 | 守棟 | [摂州家] 忠弘 | 頼久 | 教久 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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久林 | 運久 | 忠昌11 | 頼久 | 忠誉 | 犬安丸 | 久逸 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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忠良 | 忠治12 | 忠隆13 | 勝久14 | 善久 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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貴久 | [垂水家] 忠将 | [宮之城家] 尚久 | 貴久15 | 忠良 | 久孝 | 忠良 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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[佐土原家] 以久 | 忠長 | 義久16 | 義弘17 | [日置家] 歳久 | [永吉家] 家久 | 良久 | [藤野氏] 藤野久秀 | [亀山氏] 亀山忠辰 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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彰久 | 忠興 | 久元 | 久保 | 忠恒18 | [佐志家] 忠清 | 忠隣 | 豊久 | 忠仍 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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久信 | 久雄 | 久富 | 光久19 | [加治木家] 忠朗 | 常久 | 忠栄 | 忠昌 | 東郷重経 | 東郷重頼 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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忠高 | 久寿 | 久武 | 綱久 | [岩崎家] 久房 | 久慶 | 久雄 | [本城氏] 本城忠辰 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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惟久 | 綱貴20 | 久季 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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忠雅 | 吉貴21 | [花岡家] 久儔 | 忠直 | 禰寝清純 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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久柄 | 継豊22 | 貴儔 | [重富家] 忠紀 | 久亮 | 貴澄 | [今和泉家] 忠卿 | 忠温 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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忠持 | 宗信23 | 重年24 | 久峰 | 入来院定勝 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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忠徹 | 小川久徳 | 久業 | 重豪25 | 久徴 | 久邦 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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忠施 | 小川久抹 | 忠寛 | 宮原義敬 | 寔子 | 斉宣26 | 奥平昌高 | 忠厚 | 有馬一純 | 黒田長溥 | 南部信順 | 久典 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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忠亮 | 大村純雄 | 啓次郎 | 斉興27 | 忠公 | 忠剛 | 松平勝善 | 久福 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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忠麿 | 健之助 | 大村純英 | 斉彬28 | 池田斉敏 | [玉里家] 久光 | 忠冬 | 久敬 | 忠敬 | 敬子(篤姫) | 久徴 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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久範 | 忠義29 | 久治 | 珍彦 | 忠欽 | 忠済 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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忠韶 | 久永 | 忠重30 | 忠備 | 忠弘 | 久範 | 忠承 | 久大 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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忠範 | 禎久 | 忠秀31 | 晃久 | 矩久 | 斉徳 | 忠広 | 久正 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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男子 | 女子 | 忠敬 | 修久32 | 忠美 | 彩子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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忠裕 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
島津氏の人物[編集]
島津氏族[編集]
被官の格分け[編集]
島津家の被官は、その家格により三つに呼び方が分けられていた。 一番格上は御一家︵ごいっか︶と称される島津の有力庶家で、相州家・薩州家・豊州家などに加え、伊作氏・新納氏・北郷氏などもこれに類された[38]。また、6代氏久が子の元久に対し、﹁宗家と御一家の間に身分の上下は無く、特に和泉・佐多・新納・樺山・北郷の各氏は御教書を与えられた家であり、上下はないと心得るよう﹂言い含めており、少なからず元久の代まではそのような関係が続いていたようである[38]。 続いて御内︵みうち︶と呼ばれる譜代被官・直属被官であり、初代忠久に従い九州へ下向した者、南北朝時代までに被官化された中小在地領主、若しくは御一家・国衆の庶家で、独立した所領を持たず被官となった者などがこれに類された[38]。 続いて国衆︵くにしゅう︶または国方︵くにかた︶と呼ばれる者で、郡司や地頭などの国人領主を指す。土持氏や伊東氏もこれに類されていた[38]。公式署名に見える﹁姓﹂[編集]
公式文書署名は、島津家当主が足利尊氏の猶子となる室町時代初頭では﹁惟宗朝臣○○﹂、戦国時代から新田流源氏を名乗るまでは、近衛家の庶流として﹁藤原朝臣○○﹂と署名していた。江戸時代に入り徳川家の﹁松平﹂の名字を与えられ以後、幕府の公式文書などでは﹁松平薩摩守︵変動有︶○○﹂と書かれる︵江戸時代中期以降、内部の公式文書などにおいては﹁源朝臣○○﹂と署名した︶[注釈 13]。家紋[編集]
島津氏の定紋に使用された図案は、島津十文字︵筆文字の十文字︶・﹁丸に十の字﹂・﹁轡十字﹂などがある。いずれも十文字紋であり、轡紋や久留子紋とは区別される。替紋に﹁島津牡丹﹂︵近衛家より拝領︶や﹁五三桐﹂を使用する。また、﹃蒙古襲来絵詞﹄には十文字の上に鶴丸紋を描いた、島津久経の幟が描かれている[40]。信濃島津氏の長沼家の﹁轡十字﹂については﹁轡﹂として﹃米府鹿子﹄に載る。 十文字の起こりについては諸説あり、2匹の龍を表したとするもの︵﹃島津国史﹄︶[41]、奥州征伐の際、初代・忠久へ源頼朝が2本の箸を取って十字を作り、これを島津の紋にさせたとするもの︵﹃西藩野史﹄︶[41]、鎌倉時代に中国伝統の呪符の影響で、災いから身を守り福を招くため十字を切る風習があり、それを家紋とした︵﹃日本紋章学﹄︶[41]など、様々な方面から島津家の環十字について考察がされている。 室町中期に編纂された﹃見聞諸家紋﹄には島津十文字が掲載されているが、江戸時代初期の﹃寛政重修諸家譜﹄に掲載されている丸に十字︵轡十字︶の図案や﹁丸に十の字﹂の図案が定紋として使用されている。﹁関ヶ原合戦図屏風﹂︵津軽家本︶には島津十文字を描いた義弘の旗が描かれているが、豊久の旗には轡十字が描かれていることから歴史研究家の大野信長は、関ヶ原の合戦が行われたこの時期が筆文字の十文字から轡十字への変遷時期だと推測している[42]。中世、フランシスコ・ザビエルがキリスト教布教のため日本初来訪となる鹿児島に訪れた際、領主である島津氏の家紋が﹁白い十字架﹂だったことに驚愕した、という記録が残る[43]。-
轡十字(『寛政重修諸家譜』に載る、薩摩島津家の定紋)
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丸に十の字(宗家使用の定紋)
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島津十文字(『蒙古襲来絵詞』『見聞諸家紋』に載る)
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替紋の「五三桐」
島津氏縁故社寺・菩提寺[編集]
和歌山県高野山にある島津家の墓 ●住吉大社︵大阪市住吉区︶ - 島津氏祖となる島津忠久の誕生地︵住吉大社境内に誕生石鎮座︶。 ●東福寺即宗院 塔頭︵京都・東山区︶ - 島津氏久により開山した島津家京都菩提寺院。 ●玉龍山福昌寺︵鹿児島・鹿児島市︶ - 曹洞宗總持寺末。 ●妙円寺︵鹿児島・日置市︶ - 島津義弘の菩提寺。 ●感応寺︵鹿児島・出水市︶ - 島津家初代から5代の島津氏墓所。 ●清泉寺︵鹿児島・鹿児島市︶ - 島津忠良公供養在家菩薩像。 ●大圓寺︵東京・杉並区︶ - 江戸島津家江戸菩提寺。 ●大円寺︵東京・目黒区︶ - 島津斉興ゆかりの寺院。 ●瑞聖寺 大雄宝殿扁額︵東京・港区︶ - 島津重豪ゆかりの島津家江戸菩提寺。 ●泉岳寺 本堂扁額︵東京・港区︶ - 島津斉宣ゆかりの寺院。 ●大黒寺︵京都・伏見区︶ - 島津氏の京都祈祷寺院。 ●相国寺林光院塔頭︵京都・上京区︶ - 島津義弘像と位牌。島津家遷座供養寺院。薩摩藩士墓所。 ●浄福寺︵京都・上京区︶ - 島津歳久、薩摩藩ゆかり寺院。幕末の歴史舞台。 ●大雲院︵京都・東山区︶ - 日向佐土原藩初代藩主島津以久の墓所。 ●平等寺︵奈良・桜井市︶ - 島津義弘ゆかりの寺院。 ●高野山正智院︵和歌山・高野町︶ - 島津家ゆかりの帰信院。 ●高野山恵光院塔頭︵和歌山・高野町︶ - 島津義弘、宮之城島津家ゆかりの院。 ●龍澤寺︵愛媛・西予市︶ - 島津氏ゆかりの寺院。 ●瑠璃光寺︵岐阜・大垣市︶ - 島津豊久の菩提寺。 ●禅河山東北寺︵東京・渋谷区︶ - 日向佐土原藩島津家の江戸菩提寺。 ●法華堂跡︵神奈川・鎌倉市︶ - 島津家祖・島津忠久の分墓。脚注[編集]
注釈[編集]
(一)^ 他に鎌倉以来、越前島津氏、信濃島津氏、若狭島津氏、江州島津氏、播磨島津氏、などの支流が存在する。 (二)^ 初名も含めると基本的な通字は全時代を通じて﹁忠﹂の字が多く、江戸時代初期までは執権や将軍の偏諱を受けた場合に﹃﹁偏諱﹂+﹁久﹂﹄が多い。明治以降現在は嫡男に﹁忠﹂、次男に﹁久﹂[1]︶を用いる。 (三)^ 板垣兼信は年貢未進・違勅の罪で円勝寺領遠江国雙侶荘︵静岡県榛原郡金谷町志戸呂︶の地頭職を解任され、隠岐国へ配流された︵﹃吾妻鏡﹄建久元年9月17日条︶。伊勢国治田御厨の地頭に補任されながら、現地沙汰人が荘園領主である伊勢神宮と対立して処分された畠山重忠は、﹁現地に良い眼代︵代官︶が得られないならば、︵新恩の︶領地を戴くべきではない﹂と述べている︵﹃吾妻鏡﹄文治3年10月4日条︶。 (四)^ 島津氏は室町幕府3代将軍である足利義満の度重なる上洛の要求にも応じず、結局南北朝時代から室町時代を通じて同氏が上洛したのは、4代将軍義持の治世1410年︵応久17年︶に元久が相続安堵の謝辞為の上洛一度限りである。これは数ヶ国を擁する大守護大名としては異例のことであった。 (五)^ 秀吉は武力を背景にした圧力工作で関白の地位を得ていた。 (六)^ かつて島津家から太閤蔵入地や石田三成・細川幽斎の所領として設定された分と、島津忠辰の旧領出水3万石。 (七)^ ただし、近衛家養女として将軍家へ嫁いだため、島津家から直接御台所となったのではない。 (八)^ ただし、西本誠司は﹁島津義弘の本宗家家督相続について﹂の脚注中で元和2年︵1616年︶に建立された加治木町︵現・姶良市︶の精矛神社︵かつての義弘居館︶内の経塚の碑文︵現在破損︶に﹁島津十七代藤原義弘﹂と署名していたと伝えられる件を指摘し、慶長16年︵1611年︶に兄・義久が没すると義弘自らが﹁島津家第17代﹂と名乗るようになり、家中もこれに異議を挟めなかった可能性を示している。 (九)^ 子孫は一時期、﹁石谷氏﹂を名乗る。町田久倍の代より町田に復姓。正徳年間より庶流は﹁梅本氏﹂を名乗るよう主命が降る。 (十)^ 後に一時﹁姶良氏﹂を称するが寛文11年︵1671年︶に復姓。姶良氏は平姓姶良氏も存在する。 (11)^ ab後に無嗣断絶するも、東郷氏流高城氏の者が継いで、﹁大島氏﹂を名乗る。 (12)^ ab伯州家3代・忠常は没落し、北郷氏を頼ると子孫は﹁志和地氏﹂を名乗る。伯州家の家督は忠常の叔父・忠衡が継ぐも、孫の代に無嗣断絶。それを喜入季久の次男が継いで以降は﹁義岡氏﹂を名乗る。 (13)^ ただし、﹁源﹂署名は室町時代中頃より藤原姓と平行して使用の形跡がある[39]。出典[編集]
(一)^ ﹃名家・名門の秘密﹄講談社︿セオリーMOOK﹀、2009年、24頁。 (二)^ abブリタニカ国際大百科事典 小項目事典﹃島津氏﹄ - コトバンク (三)^ ab小田部雄次 2006, p. 322 - 364. (四)^ ﹃島津家文書﹄より。なお、元暦2年は8月14日までであるが、鎌倉まで伝わるのが遅れたことによるものか。 (五)^ 源頼朝の落胤説に則った﹃島津歴代略記﹄︵島津顕彰会 1985年︶における、治承3年︵1179年︶12月30日出生説による。しかしながら、史料上の初見とされる﹃山槐記﹄治承3年2月8日の記事には﹁左兵衛尉忠久﹂が春日祭使の行列に供奉している記録があり、地頭職補任時には成人していたも解することができる。 (六)^ ﹃島津家文書﹄312号 (七)^ 新名 2015, p. 38・59 - 60. (八)^ 新名一仁 著﹁南北朝期島津奥州家の日向進出-その過程と歴史的意義-﹂、地方史研究協議会 編﹃南九州の地域形成と境界性-都城からの歴史像-﹄雄山閣、2010年。︵改題所収:新名 2015, ﹁南北朝期島津奥州家の大隅・日向進出とその論理-奥州家独自の領有観形成-﹂︶ (九)^ ab新名一仁﹁嘉吉・文安の島津氏内訌-南九州政治史上の意義-﹂﹃史学研究﹄235号、2001年。︵改題所収:新名 2015, ﹁嘉吉・文安の島津氏内訌﹂︶ (十)^ 新名一仁 著﹁室町期島津氏︿家中﹀の成立と崩壊-南九州における戦国的状況の出現過程-﹂、日本史史料研究会企画部 編﹃戦国・織豊期の西国社会﹄︿日本史史料研究会論文集2﹀2012年。︵改題所収:新名 2015, ﹁室町期島津氏︿家中﹀の成立と再編﹂﹁室町期島津氏の解体過程﹂︶ (11)^ abc山口研一﹁戦国期島津氏の家督相続と老中制﹂﹃青山学院大学文学部紀要﹄28号、1986年。︵所収:新名 2014︶ (12)^ 関ヶ原直前の前田利長と利政の表高合計。 (13)^ 佐竹家︵与力の岩城・芦名らを含めると80万石︶を加え﹁豊臣六大将﹂という場合がある。 (14)^ 加賀藩は支藩として富山と大聖寺を分割し、前田宗家の石高は減じている。 (15)^ 浅見雅男 1994, p. 102. (16)^ 小田部雄次 2006, p. 60/92. (17)^ 小田部雄次 2006, p. 95. (18)^ 小田部雄次 2006, p. 101. (19)^ 小田部雄次 2006, p. 57 - 58. (20)^ 小田部雄次 2006, p. 332. (21)^ 小田部雄次 2006, p. 347. (22)^ 小田部雄次 2006, p. 346. (23)^ abcd小田部雄次 2006, p. 350. (24)^ 小田部雄次 2006, p. 360. (25)^ 小田部雄次 2006, p. 344. (26)^ 小田部雄次 2006, p. 353. (27)^ 小田部雄次 2006, p. 345. (28)^ 小田部雄次 2006, p. 352. (29)^ キーン 2001, p. 127. (30)^ 小田部雄次 2006, p. 64. (31)^ “旧島津家本邸”. 清泉女子大学. 2021年9月20日閲覧。 (32)^ 小田部雄次 2006, p. 144. (33)^ 宮内庁. “天皇陛下お誕生日に際し︵平成15年︶”. 2017年4月11日閲覧。 (34)^ ab“島津家系図”. 尚古集成館. 2016年4月23日閲覧。 (35)^ 西本誠司﹁島津義弘の本宗家家督相続について﹂﹃鹿児島県中世史研究会報﹄43号、1986年。︵所収:新名 2014︶ (36)^ 福島金治﹁戦国期島津氏の起請文﹂﹃九州史学﹄88・89・90号、1987年。 (37)^ 松尾千歳 著﹁島津義久の富隈城入城とその時代―義久家督をめぐる諸問題―﹂、志学館大学生涯学習センター、隼人町教育委員会 編﹃隼人学﹄南方新社、2004年。 (38)^ abcd都城市史編さん委員会 編﹃都城市史 通史編 中世・近世﹄2005年。 (39)^ 村川浩平﹁島津氏への松平氏下賜﹂﹃日本近世武家政権論﹄近代文芸社、2000年。 (40)^ 高澤等﹃家紋の事典﹄東京堂出版、2008年。 (41)^ abc﹃島津家おもしろ歴史館﹄尚古集成館、1991年。 (42)^ 大野信長﹃戦国武将100 家紋・旗・馬印FILE﹄学習研究社、2009年。 (43)^ “薩摩・島津家の歴史”. 尚古集成館. 2012年3月27日閲覧。参考文献[編集]
参考文献 ●小田部雄次﹃華族 近代日本貴族の虚像と実像﹄中央公論新社︿中公新書1836﹀、2006年︵平成18年︶。ISBN 978-4121018366。 ●浅見雅男﹃華族誕生 名誉と体面の明治﹄リブロポート、1994年︵平成6年︶。 ●キーン, ドナルド 著、角地幸男 訳﹃明治天皇︿下巻﹀﹄新潮社、2001年︵平成13年︶。ISBN 978-4103317050。 関連文書 ●﹃ 島津家文書 ﹄国宝︵東京大学史料編纂所収蔵︶ ●﹃ 薩藩旧記雑録 ﹄ ●島津家本 重要文化財︵東京大学史料編纂所収蔵︶ ●内閣文庫本︵国立公文書館所蔵︶ ●県立図書館本︵鹿児島県立図書館所蔵︶ ●﹃ 島津国史 ﹄薩摩・大隅・日向3ヵ国編年史。全32巻︵島津家編集所︶ ●﹃島津氏正統系図﹄︵尚古集成館所蔵︶ ●﹃上井覚兼日記﹄重要文化財︵東京大学史料編纂所収蔵︶大日本古記録所収 ●﹃入来院家文書﹄︵東京大学史料編纂所収蔵︶﹁世界的に著名な中世日本社会封建制研究の根本史料﹂ 関連書籍 ●﹃島津史料集﹄人物往来社︿戦国史叢書6﹀、1989年6月。 ●三木靖﹃薩摩島津氏﹄人物往来社︿戦国史叢書10﹀、1972年。 ●﹃戦国九州軍記﹄学習研究社︿歴史群像シリーズ12﹀、1989年6月。ISBN 4051051498。 ●﹃裂帛 島津戦記﹄学習研究社︿歴史群像シリーズ戦国セレクション6﹀、2001年8月。ISBN 4056025959。 ●吉永正春﹃九州戦国合戦記﹄海鳥社、2006年7月。ISBN 4874155863。 ●新名一仁 編﹃薩摩島津氏﹄戎光祥出版︿中世西国武士の研究 第一巻﹀、2014年。ISBN 978-4-86403-103-5。 ●新名一仁﹃室町期島津氏領国の政治構造﹄戎光祥出版︿戎光祥研究叢書3﹀、2015年。ISBN 978-4-86403-137-0。 ●野村武士﹃島津忠久と鎌倉幕府﹄南方新社、2016年11月。ISBN 978-4861243455。 ●﹃歴史REAL 史上最強の大名 薩摩島津家﹄洋泉社、2017年3月。ISBN 978-4800311788。 ●﹃島津四兄弟の九州統一戦﹄講談社、2017年11月。ISBN 978-4065105757。 ●日本史史料研究会 監修、新名一仁 編﹃中世島津氏研究の最前線﹄洋泉社︿歴史新書y﹀、2018年8月。ISBN 978-4800315489。 ●﹃薩摩島津家全史﹄standards、2018年8月。ISBN 978-4866362847。関連項目[編集]
●麓 ●内城 ●琉球国外部リンク[編集]
●島津氏系譜 ︵日本語︶ ●日本の苗字7000傑 姓氏類別大観 惟宗氏︻1︼ ︵日本語︶