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| 墓所 = [[熊本県]][[熊本市]][[中央区 (熊本市)|中央区]][[黒髪 (熊本市)|黒髪]]の[[泰勝寺跡]]<br/>[[京都府]][[京都市]][[北区 (京都市)|北区]]紫野[[大徳寺]]町の[[高桐院]] |
| 墓所 = [[熊本県]][[熊本市]][[中央区 (熊本市)|中央区]][[黒髪 (熊本市)|黒髪]]の[[泰勝寺跡]]<br/>[[京都府]][[京都市]][[北区 (京都市)|北区]]紫野[[大徳寺]]町の[[高桐院]] |
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| 官位 = [[従五位|従五位下]]・[[越中国#武家官位としての越中守|越中守]]、[[従四位|従四位下]]・[[侍従]]、[[近衛府|左少将]]、[[従三位]]、[[参議]]、[[贈位|贈]][[正三位]] |
| 官位 = [[従五位|従五位下]]・[[越中国#武家官位としての越中守|越中守]]、[[従四位|従四位下]]・[[侍従]]、[[近衛府|左近衛少将]]、[[従三位]]、[[参議]]、[[贈位|贈]][[正三位]] |
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| 幕府 = [[江戸幕府]] |
| 幕府 = [[江戸幕府]] |
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| 主君 = [[織田信長]]・[[織田信忠|信忠]] → [[豊臣秀吉]] → [[豊臣秀頼|秀頼]] → [[徳川家康]] → [[徳川秀忠|秀忠]] |
| 主君 = [[織田信長]]・[[織田信忠|信忠]] → [[豊臣秀吉]] → [[豊臣秀頼|秀頼]] → [[徳川家康]] → [[徳川秀忠|秀忠]] |
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| 藩 = [[豊前国|豊前]][[中津藩]]主 → 豊前[[小倉藩]]主 |
| 藩 = [[豊前国|豊前]][[中津藩]]主 → 豊前[[小倉藩]]主 |
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| 氏族 = [[長岡氏]]、[[細川氏#肥後細川家(豊前小倉藩、肥後熊本藩主家)|肥後細川氏]] |
| 氏族 = [[長岡氏]]、[[細川氏#肥後細川家(豊前小倉藩、肥後熊本藩主家)|肥後細川氏]] |
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| 父母 = 父:[[細川 |
| 父母 = 父:[[細川藤孝|細川藤孝(幽斎)]]、母:[[沼田麝香]] |
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| 兄弟 = '''忠興'''、[[細川興元|興元]]、伊也、[[細川幸隆|幸隆]]、千、[[細川孝之|孝之]]、<br/>加賀、栗 |
| 兄弟 = '''忠興'''、[[細川興元|興元]]、伊也、[[細川幸隆|幸隆]]、千、[[細川孝之|孝之]]、<br/>加賀、栗 |
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| 妻 = '''[[細川ガラシャ|明智玉子]]'''<br/>[[郡宗保]]娘、[[清田鎮乗]]娘、[[真下元家]]娘 |
| 妻 = 正室:'''[[細川ガラシャ|明智玉子]]'''<br/>側室:[[郡宗保]]娘、[[清田鎮乗]]娘、[[真下元家]]娘 |
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| 子 = [[於長|長]]、[[細川忠隆|忠隆]]、[[細川興秋|興秋]]、古保、'''[[細川忠利|忠利]]'''、[[細川多羅|多羅]]、万、[[細川立孝|立孝]]、[[細川興孝|興孝]]、[[松井寄之]] |
| 子 = [[於長|長]]、[[細川忠隆|忠隆]]、[[細川興秋|興秋]]、古保、'''[[細川忠利|忠利]]'''、[[細川多羅|多羅]]、万、[[細川立孝|立孝]]、[[細川興孝|興孝]]、[[松井寄之]] |
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| 特記事項 = |
| 特記事項 = |
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[[image:Kuyo.svg|thumb|200px|細川九曜]] |
[[image:Kuyo.svg|thumb|200px|細川九曜]] |
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'''細川 忠興'''︵ほそかわ ただおき︶ / '''長岡 忠興'''︵ながおか ただおき︶は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]前期にかけての[[武将]] |
'''細川 忠興'''︵ほそかわ ただおき︶ / '''長岡 忠興'''︵ながおか ただおき︶は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]前期にかけての[[武将]]・[[大名]]。[[丹後国]][[宮津城]]主を経て、[[豊前国]][[小倉藩]]初代藩主。[[細川氏#肥後細川家︵豊前小倉藩、肥後熊本藩主家︶|肥後細川家]]初代。
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[[佐々木氏]]の支流の[[大原氏]]流[[細川氏]]の出身である。[[正室]]は[[明智光秀]]の娘の玉子︵通称[[細川ガラシャ]]︶。[[室町幕府]]15代[[征夷大将軍|将軍]]・[[足利義昭]]追放後は[[長岡氏]]を称し、その後は[[羽柴氏]]も称したが、[[大坂の陣]]後に細川氏へ復した。
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足利義昭 |
足利義昭・織田信長・[[豊臣秀吉]]・[[徳川家康]]と、時の有力者に仕えて、現在まで続く肥後細川家の基礎を築いた。また父の[[細川藤孝|幽斎]]と同じく、教養人・[[茶道|茶人]]の'''細川三斎'''︵ほそかわ さんさい︶としても有名で、[[利休七哲]]の一人に数えられる。[[茶道]]の流派[[三斎流]]の開祖である。
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== 生涯 == |
== 生涯 == |
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=== 幼少期 === |
=== 幼少期 === |
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[[永禄]]6年︵[[1563年]]︶11月13日、室町幕府13代将軍・[[足利義輝]]に仕える細川藤孝︵幽斎︶の長男として京都にて誕生。母は[[沼田光兼]]の女 |
[[永禄]]6年︵[[1563年]]︶11月13日、室町幕府13代将軍・[[足利義輝]]に仕える細川藤孝︵幽斎︶の長男として京都にて誕生。母は[[沼田光兼]]の女の[[沼田麝香|麝香]]︵のちの光寿院︶{{sfn|米原|2000|loc=[[諏訪勝則]]﹁幽斎・忠興関係年譜﹂ , p.226}}。﹃[[寛政重修諸家譜]]﹄などによると生まれた直後に[[細川氏#細川奥州家|細川奥州家]]出身の[[外様衆]]・[[細川輝経]]の養子となり名跡を継いだとされるが、同時代史料からは確認が取れず、肥後細川氏に奥州家関連の文書も伝来していない。また忠興の幼名は藤孝と同じ熊千代である。
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[[永禄の変]]の後、藤孝や[[明智光秀]]らは[[尾張国]]・[[美濃国]]の大名 |
[[永禄の変]]の後、藤孝や[[明智光秀]]らは[[尾張国]]・[[美濃国]]の大名の[[織田信長]]を頼って義輝の弟の義昭を15代将軍に擁立したが、やがて信長と義昭が対立すると信長に臣従した。忠興は信長の嫡男の[[織田信忠|信忠]]に仕えた。
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=== 織田時代 === |
=== 織田時代 === |
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[[天正]]5年︵[[1577年]]︶3月、15歳で[[紀州征伐#信長の紀州攻め|紀州征伐]]に加わり初陣を飾る。10月に信長から離反した[[松永久秀]]の武将 |
[[天正]]5年︵[[1577年]]︶3月、15歳で[[紀州征伐#信長の紀州攻め|紀州征伐]]に加わり初陣を飾る。10月に信長から離反した[[松永久秀]]の武将の[[森秀光]]が立て籠もる[[大和国]][[片岡城]]を父やその僚友の明智光秀と共に落とし︵[[信貴山城の戦い]]︶、10月2日に信長直筆の感状を受けた{{sfn|米原|2000|loc=野澤隆一﹁細川藤孝・忠興と信長と﹂ , p.79}}。
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天正6年︵[[1578年]]︶に[[元服]]{{sfn|米原|2000|loc=野澤隆一﹁細川藤孝・忠興と信長と﹂ , p.79}}。信忠より[[偏諱]]を受け、'''忠興'''と名乗った{{sfn|米原|2000|loc=野澤隆一﹁細川藤孝・忠興と信長と﹂ , p.79}}。また |
天正6年︵[[1578年]]︶に[[元服]]{{sfn|米原|2000|loc=野澤隆一﹁細川藤孝・忠興と信長と﹂ , p.79}}。信忠より[[偏諱]]を受け、'''忠興'''と名乗った{{sfn|米原|2000|loc=野澤隆一﹁細川藤孝・忠興と信長と﹂ , p.79}}。また、同年8月には信長の仲介を受けて、光秀の三女の玉子︵ガラシャ︶と[[勝竜寺城]]で結婚する。主君信長の構想に基づく命令による婚姻であったことに特徴がある{{sfn|田端|p=88}}。
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なお |
なお、信長が天正6年8月11日に明智光秀に出した判物があり︵﹃細川家記﹄︶、光秀の軍功を激賛、幽斎の文武兼備を称え、忠興の武門の棟梁としての器を褒めた内容で、それらの実績を信長が評価したうえで進めた政略結婚であったことが知られるが、ただ懸念されるのは、この判物の文体が拙劣であり、戦国期の書式と著しく異なっている{{sfn|米原|2000|loc=[[宮本義己]]﹁細川幽斎・忠興と本能寺の変﹂ , p.87}}。このことから偽作の可能性が高い古文書とされている{{sfn|米原|2000|loc=宮本義己﹁細川幽斎・忠興と本能寺の変﹂ , p.88}}。
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天正7年([[1579年]])には信長の命を受けて、父や光秀と共に[[丹後国]][[守護]]だった[[建部山城]]主 |
天正7年([[1579年]])には信長の命を受けて、父や光秀と共に[[丹後国]][[守護]]だった[[建部山城]]主[[一色義道]]を滅ぼした。 |
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天正8年([[1580年]])、父 |
天正8年([[1580年]])、父の藤孝は功により丹後南半国の領主となる(北半国は[[一色義定|一色満信]]の領国)。 |
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天正9年([[1581年]])の[[京都御馬揃え]]にも若年ながら一色満信らとともに参加する。この際に信長が着た「蜀紅錦の小袖」は、忠興が京で探し求めて信長に献上したものだという(『信長公記』)。 |
天正9年([[1581年]])の[[京都御馬揃え]]にも若年ながら一色満信らとともに参加する。この際に信長が着た「蜀紅錦の小袖」は、忠興が京で探し求めて信長に献上したものだという(『信長公記』)。 |
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=== 本能寺の変 === |
=== 本能寺の変 === |
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天正10年︵[[1582年]]︶6月、岳父 |
天正10年︵[[1582年]]︶6月、岳父の明智光秀が[[本能寺の変]]後、藤孝・忠興父子を味方に誘ったが{{Efn|光秀は藤孝・忠興父子に対しては﹁領地は摂津を与えるが、若狭を望むなら若狭を与え、他にも欲しいものがあれば必ず約束を履行する。100日の内に近国を平定して地盤を確立したら、十五郎︵光秀嫡男の[[明智光慶|光慶]]︶や与一郎︵忠興︶に全てを譲って隠居する﹂などと6月9日付で出された書状で誓約するといったように<ref>{{Cite book|和書|author=高柳光寿|authorlink=高柳光寿|title=明智光秀|edition=新装版|series=人物叢書|publisher=吉川弘文館|year=1986|pages=243-244}}</ref>、破格の条件を提示し、味方になることを請うた。}}、細川父子は信長の喪に服す事を表明し剃髪することで、これを拒否した上、玉子︵忠興の正室で、光秀の娘︶を丹後国の[[味土野]]︵現在の[[京丹後市]]弥栄町須川付近︶に幽閉した。幽閉されていた屋敷跡に﹁女城跡︵御殿屋敷︶﹂が現在も建っている。
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これに対して、玉子は丹波国[[船井郡]]三戸野に滞在しており、丹後国の味土野幽閉説は史実としてはほとんど成立する余地がないとする反論がある<ref>森島康雄「細川ガラシャの味土野幽閉説を疑う」 |
これに対して、玉子は丹波国[[船井郡]]三戸野に滞在しており、丹後国の味土野幽閉説は史実としてはほとんど成立する余地がないとする反論がある<ref>森島康雄﹁細川ガラシャの味土野幽閉説を疑う﹂﹃丹後郷土資料館調査だより﹄9号、2020年。</ref>。
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細川父子に協力を断られたことは、光秀の滅亡を決定的にしたといわれ、光秀は13日に[[山崎の戦い]]で敗死している。このように本能寺の変において、速やかに剃髪して弔意をあらわし |
細川父子に協力を断られたことは、光秀の滅亡を決定的にしたといわれ、光秀は13日に[[山崎の戦い]]で敗死している。このように本能寺の変において、速やかに剃髪して弔意をあらわし、光秀には与せずの姿勢を明確にしたため、忠興と同じく光秀の婿だった[[津田信澄]]とは異なり、光秀との内通を疑われ討伐されることもなかった{{Sfn|奥村|p=96}}。また忠興はこのとき、父が隠居したので領国である丹後南半国を譲られ、丹後[[宮津城]]主となった。
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その後、次期天下人の地位を狙う[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]に誼を通じ、同年9月には織田政権下では実父 |
その後、次期天下人の地位を狙う[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]に誼を通じ、同年9月には織田政権下では実父の藤孝の同僚であった北丹後の一色満信を殺した後一色家旧臣を攻め滅ぼし、秀吉から丹後全域の領有を許された︵一色満信は山崎の戦いで秀吉に与せず、光秀側に付いていたため、秀吉にも敵対視されていた︶。そして、北丹後の元一色方の諸城に軍勢を率いた重臣を派遣し、丹後一国の平定を成し遂げた。
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=== 豊臣政権下 === |
=== 豊臣政権下 === |
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天正12年︵[[1584年]]︶の[[小牧・長久手の戦い]]に参加し、天正13年︵[[1585年]]︶には従四位下・侍従に叙任し、秀吉から羽柴姓を与えられ[[七将]]に数えられた{{Sfn|村川|p=27}}。
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天正12年︵[[1584年]]︶の[[小牧・長久手の戦い]]に参加し、天正13年︵[[1585年]]︶には従四位下・侍従に叙任し、秀吉から羽柴姓を与えられ[[七将]]に数えられた{{Sfn|村川|p=27}}。
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その後も天正15年︵[[1587年]]︶の[[九州平定|九州征伐]]、天正18年︵[[1590年]]︶の[[小田原征伐]]に従軍した。天正16年︵[[1588年]]︶、[[豊臣氏|豊臣姓]]を下賜される{{Sfn|村川|p=36}}。[[文禄]]元年︵[[1592年]]︶からの[[文禄・慶長の役|文禄の役]]では九番隊に属して上陸し、慶尚道などの制圧を担当した。10月には[[長谷川秀一]]らと第一次[[晋州城攻防戦]]に参加し、前哨戦で慶尚右兵使の[[柳崇仁]]を討ち取ったが、攻城戦で晋州城を落とすことは出来なかった。 |
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その後も天正15年︵[[1587年]]︶の[[九州平定|九州征伐]]、天正18年︵[[1590年]]︶の[[小田原征伐]]に従軍した。天正16年︵[[1588年]]︶、[[豊臣氏|豊臣姓]]を下賜される{{Sfn|村川|p=36}}。[[文禄]]元年︵[[1592年]]︶からの[[文禄・慶長の役|文禄の役]]では九番隊に属して上陸し、慶尚道などの制圧を担当した。10月には[[長谷川秀一]]らと第一次[[晋州城攻防戦]]に参加し、前哨戦で慶尚右兵使の[[柳崇仁]]を討ち取ったが、攻城戦で晋州城を落とすことは出来なかった。文禄2年︵[[1593年]]︶6月の第二次晋州城攻防戦にも参加して晋州城を陥落させた。
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[[慶長]]3年([[1598年]])8月に秀吉が死去すると、[[石田三成]]らと対立し、徳川家康に誼を通じた。慶長4年([[1599年]])には[[加藤清正]]・[[福島正則]]・[[加藤嘉明]]・[[浅野幸長]]・[[池田輝政]]・[[黒田長政]]らと共に三成襲撃に加わった。 |
[[慶長]]3年([[1598年]])8月に秀吉が死去すると、[[石田三成]]らと対立し、徳川家康に誼を通じた。慶長4年([[1599年]])には[[加藤清正]]・[[福島正則]]・[[加藤嘉明]]・[[浅野幸長]]・[[池田輝政]]・[[黒田長政]]らと共に三成襲撃に加わった。 |
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=== 関ヶ原の戦い === |
=== 関ヶ原の戦い === |
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[[ファイル:Sansaihosokawa.jpg|200px|thumb|細川三斎画像]] |
[[ファイル:Sansaihosokawa.jpg|200px|thumb|細川三斎画像]] |
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加賀征伐では早期に徳川方に立つ姿勢を示した |
加賀征伐では早期に徳川方に立つ姿勢を示した。徳川家康はこの一件で前田系勢力を吸収し、徳川党はより強力となった{{Sfn|水野|2019}}。忠興は前田系勢力と徳川党の衝突を回避させただけでなく、徳川党が前田系勢力を従わせていく過程においても貢献している{{Sfn|水野|2019}}。
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慶長5年([[1600年]])の[[関ヶ原の戦い]]では東軍に与した。 |
慶長5年︵[[1600年]]︶の[[関ヶ原の戦い]]では東軍に与した。このとき、豊臣恩顧の有力大名である上、父と正室が在京していたため、その去就が注目されたが、東軍に入ることをいち早く表明したため、他の豊臣恩顧の大名に影響を与えたと言われている。
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このとき、豊臣恩顧の有力大名である上、父と正室が在京していたため、その去就が注目されたが、東軍に入ることをいち早く表明したため、他の豊臣恩顧の大名に影響を与えたと言われている。
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大坂城内の玉造の細川屋敷にいた妻の玉子(ガラシャ)は西軍石田三成の襲撃を受け、人質となることを拒み、自殺はキリスト教で禁じられているため、家老の[[小笠原秀清]](少斎)がガラシャを介錯し、ガラシャの遺体が残らぬように屋敷に爆薬を仕掛け火を点けて自刃した。護衛であったはずの[[稲富祐直]]は包囲部隊に弟子が多数居た為逃げるように懇願され、ガラシャを置き去りにして逃亡した。忠興は後に追討をかけるが家康が家来として召し抱えたため断念した。また、この事件に際して忠興は嫡男 |
大坂城内の玉造の細川屋敷にいた妻の玉子(ガラシャ)は西軍石田三成の襲撃を受け、人質となることを拒み、自殺はキリスト教で禁じられているため、家老の[[小笠原秀清]](少斎)がガラシャを介錯し、ガラシャの遺体が残らぬように屋敷に爆薬を仕掛け火を点けて自刃した。護衛であったはずの[[稲富祐直]]は包囲部隊に弟子が多数居た為逃げるように懇願され、ガラシャを置き去りにして逃亡した。忠興は後に追討をかけるが家康が家来として召し抱えたため断念した。また、この事件に際して忠興は嫡男の[[細川忠隆|忠隆]]を廃嫡している。 |
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また、弟の[[細川幸隆|幸隆]]と父の幽斎は忠興の留守をよく守り、[[丹後国|丹後]][[田辺城 (丹後国)|田辺城]]に籠城したが︵[[田辺城の戦い]]︶、[[後陽成天皇]]からの勅命により関ヶ原の戦いの前に開城し、敵将 |
また、弟の[[細川幸隆|幸隆]]と父の幽斎は忠興の留守をよく守り、[[丹後国|丹後]][[田辺城 (丹後国)|田辺城]]に籠城したが︵[[田辺城の戦い]]︶、[[後陽成天皇]]からの勅命により関ヶ原の戦いの前に開城し、敵将の[[前田茂勝]]の丹波亀山城に入った。[[豊後国]]では飛び地の杵築の[[杵築城]]が旧領主︵元豊後国主︶である[[大友義統|大友吉統]]に攻撃されたが、松井康之と[[有吉立行]]が防戦に尽くし、やがて救援に駆けつけた[[黒田孝高|黒田如水]]により[[石垣原の戦い]]で吉統は打ち破られた。一方、松井康之の居城である[[久美浜城]]の留守を守っていた忠興のかつての養父の細川輝経は西軍の誘いを受けて久美浜城を占拠したが、合戦後に康之から問い詰められて自害したという<ref>{{Cite journal|和書|author=福原透|title=角田因幡守入道宗伊・細川陸奥守入道宗賢の事蹟について|journal=熊本史学|issue=74・75号|year=1998}}/所収:{{Citation|和書|editor=木下昌|editorlink=木下昌規規|series=シリーズ・室町幕府の研究 第四巻|title=足利義輝|publisher=戎光祥出版|year=2018|isbn=978-4-86403-303-9|pages=130-132}}</ref>。
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9月15日の関ヶ原本戦で忠興は、黒田長政らと共に石田三成の本隊と戦闘となり、首級を136上げたとされる。 |
9月15日の関ヶ原本戦で忠興は、黒田長政らと共に石田三成の本隊と戦闘となり、首級を136上げたとされる。 |
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=== 転封 === |
=== 転封 === |
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徳川家康は重臣からの進言により但馬一国の加増は実行しなかったものの、慶長5年︵[[1600年]]︶の論功行賞で丹後12万石から[[豊前国]][[中津藩|中津]]33万9,000石に国替のうえ加増した。豊後杵築6万石は、そのまま細川領とされたので39万9,000石の大名となった。豊前国では前領主である黒田長政によって年貢が持ち去られており、返還をめぐって筑前商人を抑留するなど関係がこじれている。慶長7年︵[[1602年]]︶より、小城であった[[小倉城]]を九州の要とすべく大規模改修に取り掛か |
徳川家康は重臣からの進言により但馬一国の加増は実行しなかったものの、慶長5年︵[[1600年]]︶の論功行賞で丹後12万石から[[豊前国]][[中津藩|中津]]33万9,000石に国替のうえ加増した。豊後杵築6万石は、そのまま細川領とされたので39万9,000石の大名となった。豊前国では前領主である黒田長政によって年貢が持ち去られており、返還をめぐって筑前商人を抑留するなど関係がこじれている。なお、長政が移った筑前国の年貢も[[小早川秀秋]]によって持ち去られている。慶長7年︵[[1602年]]︶より、小城であった[[小倉城]]を九州の要とすべく大規模改修に取り掛かる。
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その後[[中津城]]から完成した小倉城に藩庁を移し、[[小倉藩]]初代藩主となる。 |
その後[[中津城]]から完成した小倉城に藩庁を移し、[[小倉藩]]初代藩主となる。 |
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忠興は立孝に自分の隠居領9万5,000石を継がせて立藩させることを強く望んでいたようであるが{{Sfn|永尾|p=177}}、[[正保]]2年︵[[1645年]]︶閏5月に立孝が早世し、忠興も同年12月2日に死去したため{{Sfn|永尾|p=178}}、叶わなかった。臨終の際には﹁皆共が忠義 戦場が恋しきぞ﹂と述べており、最後まで武将としての心を忘れていなかった。享年83。
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忠興は立孝に自分の隠居領9万5,000石を継がせて立藩させることを強く望んでいたようであるが{{Sfn|永尾|p=177}}、[[正保]]2年︵[[1645年]]︶閏5月に立孝が早世し、忠興も同年12月2日に死去したため{{Sfn|永尾|p=178}}、叶わなかった。臨終の際には﹁皆共が忠義 戦場が恋しきぞ﹂と述べており、最後まで武将としての心を忘れていなかった。享年83。
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八代城には孫で立孝の子 |
八代城には孫で立孝の子の宮松︵[[細川行孝|行孝]]︶が残されたが、従兄の熊本藩主[[細川光尚|光尚]]︵忠利の子、忠興の嫡孫︶はこれに宇土郡・益城郡内から3万石を与えて宇土支藩とし、筆頭家老の[[松井興長]]︵長岡佐渡守、松井康之の次男︶を八代城3万石の城主︵正式には城代︶とした。興長の跡は忠興の六男の[[松井寄之|寄之]]︵よりゆき︶がその養子となって嗣いでいる。
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== 人物像 == |
== 人物像 == |
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父と同じ教養人でもあり、[[和歌]]や[[能楽]]、[[絵画]]にも通じた文化人であった。﹃細川三斎茶書﹄という著書を残している。[[千利休]]に師事し、利休に最も気に入られていた弟子で、[[利休七哲]]の一人に数えられる。利休が[[切腹]]を命じられたとき、利休にゆかりのある諸大名の中で見舞いに行った者は、忠興と[[古田重然|古田織部]]だけであったとされる。[[北野大茶湯]]の折には松向庵という名の茶席を設け、それに由来して後年﹁松向殿﹂と呼ばれることもあった。
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父と同じ教養人でもあり、[[和歌]]や[[能楽]]、[[絵画]]にも通じた文化人であった。﹃細川三斎茶書﹄という著書を残している。[[千利休]]に師事し、利休に最も気に入られていた弟子で、[[利休七哲]]の一人に数えられる。利休が[[切腹]]を命じられたとき、利休にゆかりのある諸大名の中で見舞いに行った者は、忠興と[[古田重然|古田織部]]だけであったとされる。[[北野大茶湯]]の折には松向庵という名の茶席を設け、それに由来して後年﹁松向殿﹂と呼ばれることもあった。
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また、忠興は、キリスト教の改宗はしなかったが、南蛮文化に興味が深かったらしく、発布した書状の中に﹁''tadauoqui''﹂と記された[[印章|印]]を使うことがあった。﹁[[オ]]︵あるいは[[ヲ]]︶﹂を﹁''uo''﹂、﹁[[キ]]﹂を﹁''qui''﹂と記すのは、当時の[[日葡辞書]]にて頻繁に確認できる[[イエズス会]]の表記法である<ref>{{Cite |
また、忠興は、キリスト教の改宗はしなかったが、南蛮文化に興味が深かったらしく、発布した書状の中に﹁''tadauoqui''﹂と記された[[印章|印]]を使うことがあった。﹁[[オ]]︵あるいは[[ヲ]]︶﹂を﹁''uo''﹂、﹁[[キ]]﹂を﹁''qui''﹂と記すのは、当時の[[日葡辞書]]にて頻繁に確認できる[[イエズス会]]の表記法である<ref>{{Cite journal|和書 |author=大島明秀 |year=2019 |month=03 |title=細川家のローマ字印文書二種 ‥ 熊本の歴史資料︵二︶ |url=http://rp-kumakendai.pu-kumamoto.ac.jp/dspace/handle/123456789/1944 |journal=文彩 |volume=15 |pages=32-36 |publisher=熊本県立大学文学部}}</ref>。
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=== 医学への造詣 === |
=== 医学への造詣 === |
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幾多の合戦に従軍した忠興は自身の使用する武具にも深い関心を示し、独自の考案を凝らしたが、特に[[打刀]]の拵(外装)では「肥後拵」と呼ばれる様式を、[[甲冑]]においては「越中具足」(「越中流具足」ないし「三斎流具足」とも)と称される形式を確立したことで知られる。 |
幾多の合戦に従軍した忠興は自身の使用する武具にも深い関心を示し、独自の考案を凝らしたが、特に[[打刀]]の拵(外装)では「肥後拵」と呼ばれる様式を、[[甲冑]]においては「越中具足」(「越中流具足」ないし「三斎流具足」とも)と称される形式を確立したことで知られる。 |
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肥後拵は忠興が修めていた[[片山伯耆流]][[居合術]]の刀法に適するように工夫されており、刀身と柄を短めに仕立て、片手での抜き打ちを志向している点や、鞘や金具の装飾にも茶道の[[わび・さび]]の感覚が反映されている点が大きな特徴である。また、忠興に召し抱えられて[[鍔]]など刀装具の製作に当たった林又七、西垣勘四郎、平田彦三、志水甚五といった金工家の家系は﹁肥後金工﹂として幕末まで熊本藩内で続いた。忠興自身が所用した肥後拵の例としては、﹁信長拵﹂や﹁歌仙拵<ref>[http://cysaas004.cu-mo.jp/cgi-bin/x2182f12f534/db.cgi?page=DBRecord&did=148&qid=all&vid=20&rid=249&Head=234&hid=7977&sid=n&rev=1&ssid=1-1940-4927-g85 永青文庫所蔵品 簡易データベース 歌仙拵︵腰刻黒漆研出鮫打刀拵︶]、2014年7月26日閲覧。</ref>﹂などが愛刀家の間で著名である<ref>小窪健一 |
肥後拵は忠興が修めていた[[片山伯耆流]][[居合術]]の刀法に適するように工夫されており、刀身と柄を短めに仕立て、片手での抜き打ちを志向している点や、鞘や金具の装飾にも茶道の[[わび・さび]]の感覚が反映されている点が大きな特徴である。また、忠興に召し抱えられて[[鍔]]など刀装具の製作に当たった林又七、西垣勘四郎、平田彦三、志水甚五といった金工家の家系は﹁肥後金工﹂として幕末まで熊本藩内で続いた。忠興自身が所用した肥後拵の例としては、﹁信長拵﹂や﹁歌仙拵<ref>[http://cysaas004.cu-mo.jp/cgi-bin/x2182f12f534/db.cgi?page=DBRecord&did=148&qid=all&vid=20&rid=249&Head=234&hid=7977&sid=n&rev=1&ssid=1-1940-4927-g85 永青文庫所蔵品 簡易データベース 歌仙拵︵腰刻黒漆研出鮫打刀拵︶]、2014年7月26日閲覧。</ref>﹂などが愛刀家の間で著名である<ref>{{Cite book|和書|author=小窪健一|title=図鑑 刀装のすべて|publisher=光芸出版|year=1971|pages=55-56}}</ref>。
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越中具足もまた、忠興が実戦での経験を踏まえて、家臣の西村与左衛門、春田又左衛門と協力して考案・製作した、機能性に富んだ簡素な構造の[[当世具足]]のスタイルである。特に忠興が関ヶ原の戦いで使用したもの︵黒糸威二枚胴具足<ref>[http://cysaas004.cu-mo.jp/cgi-bin/x2182f12f534/db.cgi?page=DBRecord&did=148&qid=all&vid=20&rid=11&Head=&hid=&sid=n&rev=1&ssid=1-3360-8077-g85 永青文庫所蔵品 簡易データベース 黒糸威二枚胴具足]、2014年7月26日閲覧。</ref>︶は勝利を収めた際の着料ということから﹁御吉例の甲冑﹂として細川家中で尊ばれ、以後、越中具足は歴代の熊本藩主や藩士の甲冑に踏襲された<ref>山岸素夫 |
越中具足もまた、忠興が実戦での経験を踏まえて、家臣の西村与左衛門、春田又左衛門と協力して考案・製作した、機能性に富んだ簡素な構造の[[当世具足]]のスタイルである。特に忠興が関ヶ原の戦いで使用したもの︵黒糸威二枚胴具足<ref>[http://cysaas004.cu-mo.jp/cgi-bin/x2182f12f534/db.cgi?page=DBRecord&did=148&qid=all&vid=20&rid=11&Head=&hid=&sid=n&rev=1&ssid=1-3360-8077-g85 永青文庫所蔵品 簡易データベース 黒糸威二枚胴具足]、2014年7月26日閲覧。</ref>︶は勝利を収めた際の着料ということから﹁御吉例の甲冑﹂として細川家中で尊ばれ、以後、越中具足は歴代の熊本藩主や藩士の甲冑に踏襲された<ref>{{Cite book|和書|author=山岸素夫|title=日本甲冑論集|publisher=つくばね舎|year=1991|page=242}}</ref>。
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=== 夫婦仲・家族に対して === |
=== 夫婦仲・家族に対して === |
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正室の玉子への愛情は深く、その父・明智光秀が本能寺の変を起こしたときも離縁せずに、幽閉して累の及ぶのを避けている。﹃フロイス日本史﹄によると島津攻めから帰還すると忠興は以前より残忍で悪辣な異教徒になったとされ、キリシタンの乳母のごく些細な過ちに対して、鼻と耳をそぎ、追い出したとされる{{sfn|田端|p=152}}。このような状況下で玉子は離婚を考え始める{{sfn|田端|p=152}}。朝鮮出兵中、忠興は玉子に何通もの手紙を書いているが、その内容は﹁秀吉の誘惑に乗らないように﹂というものだったという。
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正室の玉子への愛情は深く、その父・明智光秀が本能寺の変を起こしたときも離縁せずに、幽閉して累の及ぶのを避けている。﹃フロイス日本史﹄によると島津攻めから帰還すると忠興は以前よりも残忍で悪辣な異教徒になったとされ、キリシタンの乳母のごく些細な過ちに対して、鼻と耳をそぎ、追い出したとされる{{sfn|田端|p=152}}。このような状況下で玉子は離婚を考え始める{{sfn|田端|p=152}}。朝鮮出兵中、忠興は玉子に何通もの手紙を書いているが、その内容は﹁秀吉の誘惑に乗らないように﹂というものだったという。
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次男の興秋が[[大坂の陣]]で豊臣方に協力したため、戦後に忠興は自害させた。家康は伏見に潜伏している興秋を許そうとしたが、忠興は自らの意思で切腹を命じたとされる<ref>{{Cite book |和書 |author = 戸田敏夫 |year = 1982 |title = 戦国細川一族 |publisher = 新人物往来社 |pages=296-297}}</ref>。
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次男の興秋が[[大坂の陣]]で豊臣方に協力したため、戦後に忠興は自害させた。家康は伏見に潜伏している興秋を許そうとしたが、忠興は自らの意思で切腹を命じたとされる<ref>{{Cite book |和書 |author = 戸田敏夫 |year = 1982 |title = 戦国細川一族 |publisher = 新人物往来社 |pages=296-297}}</ref>。
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== 系譜 == |
== 系譜 == |
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*父:[[細川幽斎]](1534-1610) |
*父:[[細川幽斎]](1534-1610) |
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*母:[[沼田麝香]](1544-1618) |
*母:[[沼田麝香]](1544-1618)、光寿院 - [[沼田光兼]]の娘 |
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⚫ | |||
*養父:[[細川輝経]](?-1600) |
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**長女:[[於長|長]](蝶、[[前野景定]]室、[[1579年]] - [[1603年]]) |
**長女:[[於長|長]](蝶、[[前野景定]]室、[[1579年]] - [[1603年]]) |
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**長男:[[細川忠隆]] '' → [[熊本藩#藩主一門|細川(長岡)内膳家]]''([[1580年]] - [[1646年]]) |
**長男:[[細川忠隆]] '' → [[熊本藩#藩主一門|細川(長岡)内膳家]]''([[1580年]] - [[1646年]]) |
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**三男:'''[[細川忠利]]''' ''→ [[熊本藩]][[細川家]]''([[1586年]] - [[1641年]]) |
**三男:'''[[細川忠利]]''' ''→ [[熊本藩]][[細川家]]''([[1586年]] - [[1641年]]) |
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**三女:[[細川多羅|多羅]]([[稲葉一通]]室、[[1588年]] - [[1615年]]) |
**三女:[[細川多羅|多羅]]([[稲葉一通]]室、[[1588年]] - [[1615年]]) |
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*側室:藤(松の丸、[[郡宗保]] |
*側室:藤(松の丸、[[郡宗保]]の娘) |
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**次女:古保([[松井興長]]室、恵妙院、[[1585年]] - [[1658年]]、夫が手を付けた女中を吊るし火箸で刺し殺したという逸話を持つ) |
**次女:古保([[松井興長]]室、恵妙院、[[1585年]] - [[1658年]]、夫が手を付けた女中を吊るし火箸で刺し殺したという逸話を持つ) |
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*側室:小也([[明智光忠]] |
*側室:小也([[明智光忠]]の娘) |
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**四女:万([[烏丸光賢]]室、[[1598年]] - [[1665年]]) |
**四女:万([[烏丸光賢]]室、[[1598年]] - [[1665年]]) |
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*側室:幾知(円通院、清田鎮乗) |
*側室:幾知(円通院、清田鎮乗) |
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**四男:[[細川立孝]] ''→[[宇土藩]][[細川家]]''([[1615年]] - [[1645年]]) |
**四男:[[細川立孝]] ''→[[宇土藩]][[細川家]]''([[1615年]] - [[1645年]]) |
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**五男:[[細川興孝]] ''→ [[熊本藩#藩主一門|細川(長岡)刑部家]]''([[1617年]] - [[1679年]]) |
**五男:[[細川興孝]] ''→ [[熊本藩#藩主一門|細川(長岡)刑部家]]''([[1617年]] - [[1679年]]) |
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*側室:才([[真下元重]] |
*側室:才([[真下元重]]の娘、後に[[長岡延元]]に嫁ぐ) |
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**六男:[[松井寄之]](まつい よりゆき、[[松井興長|松井(長岡)興長]]養子) |
**六男:[[松井寄之]](まつい よりゆき、[[松井興長|松井(長岡)興長]]養子) |
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* [[沢村大学]] |
* [[沢村大学]] |
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* [[小笠原秀清]](少斎) |
* [[小笠原秀清]](少斎) |
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*[[ |
* [[川北一成]] |
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* [[魚住 |
* [[魚住昌永]] |
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* [[河北一成]] |
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* [[沼田延元]] |
* [[沼田延元]] |
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* [[米田是政]] |
* [[米田是政]] |
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* [[加賀山 |
* [[加賀山興良]](隼人) |
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* [[稲富祐直]] |
* [[稲富祐直]] |
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*[[長岡是季]] |
* [[長岡是季]] |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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{{脚注ヘルプ}} |
{{脚注ヘルプ}} |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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; 書籍 |
; 書籍 |
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* {{Cite book |
* {{Cite book|和書 |author= 桑田忠親|authorlink=桑田忠親 |year = 1948 |title = 細川幽斎 |publisher = 日本書院}} |
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* {{Cite book |
* {{Cite book|和書 |author= 森田恭二|authorlink=森田恭二 |year = 1994 |title = 戦国期歴代細川氏の研究 |publisher = 和泉書院}} |
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* {{Cite journal |和書 |author = [[宮本義己]] |year = 1995 |title = 徳川家康公と医学 |journal = 大日光 |issue = 66号 |ref = {{SfnRef|宮本|1995}}}} |
* {{Cite journal |和書 |author = [[宮本義己]] |year = 1995 |title = 徳川家康公と医学 |journal = 大日光 |issue = 66号 |ref = {{SfnRef|宮本|1995}}}} |
||
* {{Cite book|和書 |author = 宮本義己 |year = 2002 |title = 歴史をつくった人びとの健康法―生涯現役をつらぬく― |publisher = 中央労働災害防止協会 |ref = {{SfnRef|宮本|2002}}}} |
* {{Cite book|和書 |author = 宮本義己 |year = 2002 |title = 歴史をつくった人びとの健康法―生涯現役をつらぬく― |publisher = 中央労働災害防止協会 |ref = {{SfnRef|宮本|2002}}}} |
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* {{Cite journal |和書 |author = 宮本義己 |year = 2017 |title = 知られざる戦国武将の「健康術と医療」 |journal = 歴史人 |volume = 8巻 |issue = 9号 |ref = {{SfnRef|宮本|2017}}}} |
* {{Cite journal |和書 |author = 宮本義己 |year = 2017 |title = 知られざる戦国武将の「健康術と医療」 |journal = 歴史人 |volume = 8巻 |issue = 9号 |ref = {{SfnRef|宮本|2017}}}} |
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* {{Citation|和書 |editor = [[米原正義]] |year = 2000 |title = 細川幽斎・忠興のすべて |publisher = [[新人物往来社]] |series = |isbn = |ref = {{SfnRef|米原|2000}}}} |
* {{Citation|和書 |editor = [[米原正義]] |year = 2000 |title = 細川幽斎・忠興のすべて |publisher = [[新人物往来社]] |series = |isbn = |ref = {{SfnRef|米原|2000}}}} |
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**宮本義己 |
** 宮本義己「細川幽斎・忠興と本能寺の変」 |
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** {{Cite journal |和書 |author = [[奥村徹也]] |title = 細川幽斎・忠興と秀吉と |pages = |ref = {{SfnRef|奥村}}}} |
** {{Cite journal |和書 |author = [[奥村徹也]] |title = 細川幽斎・忠興と秀吉と |pages = |ref = {{SfnRef|奥村}}}} |
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** {{Cite journal |和書 |author = [[永尾正剛]] |title = 細川忠興と北九州 |ref = {{SfnRef|永尾}}}} |
** {{Cite journal |和書 |author = [[永尾正剛]] |title = 細川忠興と北九州 |ref = {{SfnRef|永尾}}}} |
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* {{Cite book|和書 |author= 田端泰子|authorlink=田端泰子 |title = 細川ガラシャ | |
* {{Cite book|和書 |author= 田端泰子|authorlink=田端泰子 |title = 細川ガラシャ |year= 2004 |publisher =ミネルヴァ書房 |isbn = 978-4823105289 |ref = {{SfnRef|田端}}}} |
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* {{Cite book|和書 |author= 村川浩平|authorlink=村川浩平 |title = 日本近世武家政権論 | |
* {{Cite book|和書 |author= 村川浩平|authorlink=村川浩平 |title = 日本近世武家政権論 |year= 2000 |publisher = [[日本図書刊行会]] |isbn = 978-4823105289 |ref = {{SfnRef|村川}}}} |
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* {{Cite book|和書 |author= 山本博文|authorlink=山本博文 |title = |
* {{Cite book|和書 |author= 山本博文|authorlink=山本博文 |title = 宮廷政治 江戸城における細川家の生き残り戦略 |year= 2021 |publisher = 角川書店|series= [[角川新書]] |isbn = 9784040823904 |ref = {{SfnRef|山本}}}}(1993年に読売新聞社より刊行され、1996年に講談社文庫、2004年に講談社学術文庫で刊行された『江戸城の宮廷政治』を改題の上、復刊したもの) |
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* {{Cite book|和書 |author= 矢部誠一郎|authorlink=矢部誠一郎 |title = 利休随一の弟子 三斎細川忠興 | |
* {{Cite book|和書 |author= 矢部誠一郎|authorlink=矢部誠一郎 |title = 利休随一の弟子 三斎細川忠興 |year= 2015 |publisher = 宮帯出版社 |ref = {{SfnRef|矢部}}}} |
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* {{Cite book|和書 |editor=笠谷和比古|editor-link=笠谷和比古 |title = 徳川家康―その政治と文化・芸能― | |
* {{Cite book|和書 |editor=笠谷和比古|editor-link=笠谷和比古 |title = 徳川家康―その政治と文化・芸能― |year= 2016 |publisher = 宮帯出版社 |ref = {{SfnRef|笠谷}}}} |
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** {{Cite journal |和書 |author = 宮本義己 |title = 徳川家康と本草学}} |
** {{Cite journal |和書 |author = 宮本義己 |title = 徳川家康と本草学}} |
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* 水野伍貴「関ヶ原前夜の長岡氏」 |
* 水野伍貴「関ヶ原前夜の長岡氏」『研究論集 歴史と文化』4号、2019年。 |
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* 森島康雄「細川ガラシャの味土野幽閉説を疑う」 |
* 森島康雄「細川ガラシャの味土野幽閉説を疑う」『丹後郷土資料館調査だより』9号、2020年。 |
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* 福原 透『細川三斎 「天下一みぢかき人」の実像』宮帯出版社、2023年。 |
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; 史料 |
; 史料 |
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== 忠興を主題とする作品 == |
== 忠興を主題とする作品 == |
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; 文学作品 |
; 文学作品 |
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* [[春名徹]]『細川三代 幽斎・三斎・忠利』([[藤原書店]]、 |
* [[春名徹]]『細川三代 幽斎・三斎・忠利』([[藤原書店]]、2010年) |
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* [[智本光隆]]『細川忠興戦記 本能寺将星録』(学研歴史群像新書 2010年) |
* [[智本光隆]]『細川忠興戦記 本能寺将星録』(学研歴史群像新書 2010年) |
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; 楽曲 |
; 楽曲 |
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== 関連作品 == |
== 関連作品 == |
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;テレビドラマ |
; テレビドラマ |
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* 『[[国盗り物語]]』 |
* 『[[国盗り物語]]』(1973年、NHK大河ドラマ、演:[[石田信之]]・幼少期:[[矢崎知紀]]) |
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* 『[[黄金の日日]]』 |
* 『[[黄金の日日]]』(1978年、NHK大河ドラマ、演:[[柴田侊彦]]) |
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* 『[[ |
* 『[[関ヶ原 (テレビドラマ)|関ヶ原]]』(1981年、TBS、演:[[竹脇無我]]) |
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* 『[[ |
* 『[[おんな太閤記]]』(1981年、NHK大河ドラマ、演:[[谷岡弘規]]) |
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* 『[[ |
* 『[[徳川家康]]』(1983年、NHK大河ドラマ、演:[[岩下浩]]) |
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* 『[[ |
* 『[[秀吉 (NHK大河ドラマ)|秀吉]]』(1996年、NHK大河ドラマ、演:[[小林滋央]]) |
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* 『[[ |
* 『[[葵 徳川三代]]』(2000年、NHK大河ドラマ、演:[[ささきいさお|佐々木功]]) |
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* 『[[ |
* 『[[利家とまつ〜加賀百万石物語〜]]』(2002年、NHK大河ドラマ、演:[[黄川田将也]]) |
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* 『[[ |
* 『[[武蔵 MUSASHI]]』(2003年、NHK大河ドラマ、演:[[夏八木勲]]) |
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* 『[[ |
* 『[[功名が辻]]』(2006年、NHK大河ドラマ、演:[[猪野学]]) |
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* 『[[ |
* 『[[江〜姫たちの戦国〜]]』(2011年、NHK大河ドラマ、演:[[内倉憲二]]) |
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* 『[[ |
* 『[[軍師官兵衛]]』(2014年、NHK大河ドラマ、演:[[丸一太]]) |
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* 『[[真田丸 (NHK大河ドラマ)|真田丸]]』 (2016年、NHK大河ドラマ、演:[[矢柴俊博]]) |
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* 『[[麒麟がくる]]』(2020年、NHK大河ドラマ、演:[[望月歩]]) |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
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{{DEFAULTSORT:ほそかわ たたおき}} |
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[[Category:肥後細川家|たたおき]] |
[[Category:肥後細川家|たたおき]] |
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[[Category:戦国武将]] |
[[Category:戦国武将]] |
2024年6月3日 (月) 13:19時点における最新版
細川 忠興 | |
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![]() 細川忠興像(永青文庫蔵) | |
時代 | 戦国時代 - 江戸時代前期 |
生誕 | 永禄6年11月13日(1563年11月28日) |
死没 | 正保2年12月2日(1646年1月18日) |
改名 | 細川熊千代 → 長岡熊千代(幼名)→ 忠興 → 細川忠興 → 三斎宗立(号) |
別名 | 与一郎(通称)、丹後宰相、丹後侍従、丹後少将 |
戒名 | 松向寺殿前参議三斎宗立大居士 |
墓所 |
熊本県熊本市中央区黒髪の泰勝寺跡 京都府京都市北区紫野大徳寺町の高桐院 |
官位 | 従五位下・越中守、従四位下・侍従、左近衛少将、従三位、参議、贈正三位 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 織田信長・信忠 → 豊臣秀吉 → 秀頼 → 徳川家康 → 秀忠 |
藩 | 豊前中津藩主 → 豊前小倉藩主 |
氏族 | 長岡氏、肥後細川氏 |
父母 | 父:細川藤孝(幽斎)、母:沼田麝香 |
兄弟 |
忠興、興元、伊也、幸隆、千、孝之、 加賀、栗 |
妻 |
正室:明智玉子 側室:郡宗保娘、清田鎮乗娘、真下元家娘 |
子 | 長、忠隆、興秋、古保、忠利、多羅、万、立孝、興孝、松井寄之 |
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/b9/Kuyo.svg/200px-Kuyo.svg.png)
生涯[編集]
幼少期[編集]
永禄6年︵1563年︶11月13日、室町幕府13代将軍・足利義輝に仕える細川藤孝︵幽斎︶の長男として京都にて誕生。母は沼田光兼の女の麝香︵のちの光寿院︶[1]。﹃寛政重修諸家譜﹄などによると生まれた直後に細川奥州家出身の外様衆・細川輝経の養子となり名跡を継いだとされるが、同時代史料からは確認が取れず、肥後細川氏に奥州家関連の文書も伝来していない。また忠興の幼名は藤孝と同じ熊千代である。 永禄の変の後、藤孝や明智光秀らは尾張国・美濃国の大名の織田信長を頼って義輝の弟の義昭を15代将軍に擁立したが、やがて信長と義昭が対立すると信長に臣従した。忠興は信長の嫡男の信忠に仕えた。織田時代[編集]
天正5年︵1577年︶3月、15歳で紀州征伐に加わり初陣を飾る。10月に信長から離反した松永久秀の武将の森秀光が立て籠もる大和国片岡城を父やその僚友の明智光秀と共に落とし︵信貴山城の戦い︶、10月2日に信長直筆の感状を受けた[2]。 天正6年︵1578年︶に元服[2]。信忠より偏諱を受け、忠興と名乗った[2]。また、同年8月には信長の仲介を受けて、光秀の三女の玉子︵ガラシャ︶と勝竜寺城で結婚する。主君信長の構想に基づく命令による婚姻であったことに特徴がある[3]。 なお、信長が天正6年8月11日に明智光秀に出した判物があり︵﹃細川家記﹄︶、光秀の軍功を激賛、幽斎の文武兼備を称え、忠興の武門の棟梁としての器を褒めた内容で、それらの実績を信長が評価したうえで進めた政略結婚であったことが知られるが、ただ懸念されるのは、この判物の文体が拙劣であり、戦国期の書式と著しく異なっている[4]。このことから偽作の可能性が高い古文書とされている[5]。 天正7年︵1579年︶には信長の命を受けて、父や光秀と共に丹後国守護だった建部山城主一色義道を滅ぼした。 天正8年︵1580年︶、父の藤孝は功により丹後南半国の領主となる︵北半国は一色満信の領国︶。 天正9年︵1581年︶の京都御馬揃えにも若年ながら一色満信らとともに参加する。この際に信長が着た﹁蜀紅錦の小袖﹂は、忠興が京で探し求めて信長に献上したものだという︵﹃信長公記﹄︶。本能寺の変[編集]
天正10年︵1582年︶6月、岳父の明智光秀が本能寺の変後、藤孝・忠興父子を味方に誘ったが[注釈 1]、細川父子は信長の喪に服す事を表明し剃髪することで、これを拒否した上、玉子︵忠興の正室で、光秀の娘︶を丹後国の味土野︵現在の京丹後市弥栄町須川付近︶に幽閉した。幽閉されていた屋敷跡に﹁女城跡︵御殿屋敷︶﹂が現在も建っている。 これに対して、玉子は丹波国船井郡三戸野に滞在しており、丹後国の味土野幽閉説は史実としてはほとんど成立する余地がないとする反論がある[7]。 細川父子に協力を断られたことは、光秀の滅亡を決定的にしたといわれ、光秀は13日に山崎の戦いで敗死している。このように本能寺の変において、速やかに剃髪して弔意をあらわし、光秀には与せずの姿勢を明確にしたため、忠興と同じく光秀の婿だった津田信澄とは異なり、光秀との内通を疑われ討伐されることもなかった[8]。また忠興はこのとき、父が隠居したので領国である丹後南半国を譲られ、丹後宮津城主となった。 その後、次期天下人の地位を狙う羽柴秀吉に誼を通じ、同年9月には織田政権下では実父の藤孝の同僚であった北丹後の一色満信を殺した後一色家旧臣を攻め滅ぼし、秀吉から丹後全域の領有を許された︵一色満信は山崎の戦いで秀吉に与せず、光秀側に付いていたため、秀吉にも敵対視されていた︶。そして、北丹後の元一色方の諸城に軍勢を率いた重臣を派遣し、丹後一国の平定を成し遂げた。豊臣政権下[編集]
天正12年︵1584年︶の小牧・長久手の戦いに参加し、天正13年︵1585年︶には従四位下・侍従に叙任し、秀吉から羽柴姓を与えられ七将に数えられた[9]。 その後も天正15年︵1587年︶の九州征伐、天正18年︵1590年︶の小田原征伐に従軍した。天正16年︵1588年︶、豊臣姓を下賜される[10]。文禄元年︵1592年︶からの文禄の役では九番隊に属して上陸し、慶尚道などの制圧を担当した。10月には長谷川秀一らと第一次晋州城攻防戦に参加し、前哨戦で慶尚右兵使の柳崇仁を討ち取ったが、攻城戦で晋州城を落とすことは出来なかった。文禄2年︵1593年︶6月の第二次晋州城攻防戦にも参加して晋州城を陥落させた。 文禄4年︵1595年︶の秀次事件では、秀吉の甥の豊臣秀次に借金があったために秀吉に嫌疑をかけられたが松井康之が奔走し、金子を用立て秀吉に返納した。この時に金子用立てに力を貸したのが徳川家康である[11]︵﹃細川家記﹄﹃松井家譜﹄︶。 慶長3年︵1598年︶8月に秀吉が死去すると、石田三成らと対立し、徳川家康に誼を通じた。慶長4年︵1599年︶には加藤清正・福島正則・加藤嘉明・浅野幸長・池田輝政・黒田長政らと共に三成襲撃に加わった。 同年、豊臣家の大老の筆頭であった家康の推挙で、丹後12万石に加え豊後国杵築6万石が加増され、城代として重臣の松井康之・有吉立行を置いた。これにより、都合18万石の大名となった。関ヶ原の戦い[編集]
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