「細川忠興」の版間の差分
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'''細川 忠興'''︵ほそかわ ただおき︶ / '''長岡 忠興'''︵ながおか ただおき︶は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]前期にかけての[[武将]]・[[大名]]。[[丹後国]][[宮津城]]主を経て、[[豊前国]][[小倉藩]]初代藩主。[[細川氏#肥後細川家︵豊前小倉藩、肥後熊本藩主家︶|肥後細川家]]初代。
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'''細川 忠興'''︵ほそかわ ただおき︶ / '''長岡 忠興'''︵ながおか ただおき︶は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]前期にかけての[[武将]]・[[大名]]。[[丹後国]][[宮津城]]主を経て、[[豊前国]][[小倉藩]]初代藩主。[[細川氏#肥後細川家︵豊前小倉藩、肥後熊本藩主家︶|肥後細川家]]初代。
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[[佐々木氏]]の支流の[[大原氏]]流[[細川氏]]の出身である。[[正室]]は[[明智光秀]]の娘の玉子︵通称[[細川ガラシャ]]︶。[[室町幕府]]15代[[征夷大将軍|将軍]]・[[足利義昭]]追放後は[[長岡氏]]を称し、その後は[[羽柴氏]]も称したが、[[大坂の陣]]後に細川氏へ復した。
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足利義昭・織田信長・[[豊臣秀吉]]・[[徳川家康]]と、時の有力者に仕えて、現在まで続く肥後細川家の基礎を築いた。また父の[[細川藤孝|幽斎]]と同じく、教養人・[[茶道|茶人]]の'''細川三斎'''︵ほそかわ さんさい︶としても有名で、[[利休七哲]]の一人に数えられる。[[茶道]]の流派[[三斎流]]の開祖である。
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足利義昭・織田信長・[[豊臣秀吉]]・[[徳川家康]]と、時の有力者に仕えて、現在まで続く肥後細川家の基礎を築いた。また父の[[細川藤孝|幽斎]]と同じく、教養人・[[茶道|茶人]]の'''細川三斎'''︵ほそかわ さんさい︶としても有名で、[[利休七哲]]の一人に数えられる。[[茶道]]の流派[[三斎流]]の開祖である。
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== 生涯 == |
== 生涯 == |
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=== 幼少期 === |
=== 幼少期 === |
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[[永禄]]6年︵[[1563年]]︶11月13日、室町幕府13代将軍・[[足利義輝]]に仕える細川藤孝︵幽斎︶の長男として京都にて誕生。母は[[沼田光兼]]の女の[[沼田麝香|麝香]]︵のちの光寿院︶{{sfn|米原|2000|loc=[[諏訪勝則]]﹁幽斎・忠興関係年譜﹂ , p.226}}。 |
[[永禄]]6年︵[[1563年]]︶11月13日、室町幕府13代将軍・[[足利義輝]]に仕える細川藤孝︵幽斎︶の長男として京都にて誕生。母は[[沼田光兼]]の女の[[沼田麝香|麝香]]︵のちの光寿院︶{{sfn|米原|2000|loc=[[諏訪勝則]]﹁幽斎・忠興関係年譜﹂ , p.226}}。﹃[[寛政重修諸家譜]]﹄などによると生まれた直後に[[細川氏#細川奥州家|細川奥州家]]出身の[[外様衆]]・[[細川輝経]]の養子となり名跡を継いだとされるが、同時代史料からは確認が取れず、肥後細川氏に奥州家関連の文書も伝来していない。また忠興の幼名は藤孝と同じ熊千代である。
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[[永禄の変]]の後、藤孝や[[明智光秀]]らは[[尾張国]]・[[美濃国]]の大名の[[織田信長]]を頼って義輝の弟の義昭を15代将軍に擁立したが、やがて信長と義昭が対立すると信長に臣従した。忠興は信長の嫡男の[[織田信忠|信忠]]に仕えた。
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[[永禄の変]]の後、藤孝や[[明智光秀]]らは[[尾張国]]・[[美濃国]]の大名の[[織田信長]]を頼って義輝の弟の義昭を15代将軍に擁立したが、やがて信長と義昭が対立すると信長に臣従した。忠興は信長の嫡男の[[織田信忠|信忠]]に仕えた。
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幾多の合戦に従軍した忠興は自身の使用する武具にも深い関心を示し、独自の考案を凝らしたが、特に[[打刀]]の拵(外装)では「肥後拵」と呼ばれる様式を、[[甲冑]]においては「越中具足」(「越中流具足」ないし「三斎流具足」とも)と称される形式を確立したことで知られる。 |
幾多の合戦に従軍した忠興は自身の使用する武具にも深い関心を示し、独自の考案を凝らしたが、特に[[打刀]]の拵(外装)では「肥後拵」と呼ばれる様式を、[[甲冑]]においては「越中具足」(「越中流具足」ないし「三斎流具足」とも)と称される形式を確立したことで知られる。 |
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肥後拵は忠興が修めていた[[片山伯耆流]][[居合術]]の刀法に適するように工夫されており、刀身と柄を短めに仕立て、片手での抜き打ちを志向している点や、鞘や金具の装飾にも茶道の[[わび・さび]]の感覚が反映されている点が大きな特徴である。また、忠興に召し抱えられて[[鍔]]など刀装具の製作に当たった林又七、西垣勘四郎、平田彦三、志水甚五といった金工家の家系は「肥後金工」として幕末まで熊本藩内で続いた。忠興自身が所用した肥後拵の例としては、「信長拵」や「歌仙拵<ref>[http://cysaas004.cu-mo.jp/cgi-bin/x2182f12f534/db.cgi?page=DBRecord&did=148&qid=all&vid=20&rid=249&Head=234&hid=7977&sid=n&rev=1&ssid=1-1940-4927-g85 永青文庫所蔵品 簡易データベース 歌仙拵(腰刻黒漆研出鮫打刀拵)]、2014年7月26日閲覧。</ref>」などが愛刀家の間で著名である<ref>{{Cite book|和書|author=小窪健一|title=図鑑 刀装のすべて|publisher=光芸出版|year=1971 |
肥後拵は忠興が修めていた[[片山伯耆流]][[居合術]]の刀法に適するように工夫されており、刀身と柄を短めに仕立て、片手での抜き打ちを志向している点や、鞘や金具の装飾にも茶道の[[わび・さび]]の感覚が反映されている点が大きな特徴である。また、忠興に召し抱えられて[[鍔]]など刀装具の製作に当たった林又七、西垣勘四郎、平田彦三、志水甚五といった金工家の家系は「肥後金工」として幕末まで熊本藩内で続いた。忠興自身が所用した肥後拵の例としては、「信長拵」や「歌仙拵<ref>[http://cysaas004.cu-mo.jp/cgi-bin/x2182f12f534/db.cgi?page=DBRecord&did=148&qid=all&vid=20&rid=249&Head=234&hid=7977&sid=n&rev=1&ssid=1-1940-4927-g85 永青文庫所蔵品 簡易データベース 歌仙拵(腰刻黒漆研出鮫打刀拵)]、2014年7月26日閲覧。</ref>」などが愛刀家の間で著名である<ref>{{Cite book|和書|author=小窪健一|title=図鑑 刀装のすべて|publisher=光芸出版|year=1971|pages=55-56}}</ref>。 |
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越中具足もまた、忠興が実戦での経験を踏まえて、家臣の西村与左衛門、春田又左衛門と協力して考案・製作した、機能性に富んだ簡素な構造の[[当世具足]]のスタイルである。特に忠興が関ヶ原の戦いで使用したもの︵黒糸威二枚胴具足<ref>[http://cysaas004.cu-mo.jp/cgi-bin/x2182f12f534/db.cgi?page=DBRecord&did=148&qid=all&vid=20&rid=11&Head=&hid=&sid=n&rev=1&ssid=1-3360-8077-g85 永青文庫所蔵品 簡易データベース 黒糸威二枚胴具足]、2014年7月26日閲覧。</ref>︶は勝利を収めた際の着料ということから﹁御吉例の甲冑﹂として細川家中で尊ばれ、以後、越中具足は歴代の熊本藩主や藩士の甲冑に踏襲された<ref>{{Cite book|和書|author=山岸素夫|title=日本甲冑論集|publisher=つくばね舎|year=1991|page=242}}</ref>。
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越中具足もまた、忠興が実戦での経験を踏まえて、家臣の西村与左衛門、春田又左衛門と協力して考案・製作した、機能性に富んだ簡素な構造の[[当世具足]]のスタイルである。特に忠興が関ヶ原の戦いで使用したもの︵黒糸威二枚胴具足<ref>[http://cysaas004.cu-mo.jp/cgi-bin/x2182f12f534/db.cgi?page=DBRecord&did=148&qid=all&vid=20&rid=11&Head=&hid=&sid=n&rev=1&ssid=1-3360-8077-g85 永青文庫所蔵品 簡易データベース 黒糸威二枚胴具足]、2014年7月26日閲覧。</ref>︶は勝利を収めた際の着料ということから﹁御吉例の甲冑﹂として細川家中で尊ばれ、以後、越中具足は歴代の熊本藩主や藩士の甲冑に踏襲された<ref>{{Cite book|和書|author=山岸素夫|title=日本甲冑論集|publisher=つくばね舎|year=1991|page=242}}</ref>。
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* {{Cite book|和書 |author= 田端泰子|authorlink=田端泰子 |title = 細川ガラシャ |year= 2004 |publisher =ミネルヴァ書房 |isbn = 978-4823105289 |ref = {{SfnRef|田端}}}} |
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* {{Cite book|和書 |author= 山本博文|authorlink=山本博文 |title = 宮廷政治 江戸城における細川家の生き残り戦略 |year= 2021 |publisher = 角川書店|series= [[角川新書]] |isbn = 9784040823904 |ref = {{SfnRef|山本}}}}(1993年に読売新聞社より刊行され、1996年に講談社文庫、2004年に講談社学術文庫で刊行された『江戸城の宮廷政治』を改題の上、復刊したもの) |
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* {{Cite book|和書 |author= 矢部誠一郎|authorlink=矢部誠一郎 |title = 利休随一の弟子 三斎細川忠興 | |
* {{Cite book|和書 |author= 矢部誠一郎|authorlink=矢部誠一郎 |title = 利休随一の弟子 三斎細川忠興 |year= 2015 |publisher = 宮帯出版社 |ref = {{SfnRef|矢部}}}} |
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* {{Cite book|和書 |editor=笠谷和比古|editor-link=笠谷和比古 |title = 徳川家康―その政治と文化・芸能― |year= 2016 |publisher = 宮帯出版社 |ref = {{SfnRef|笠谷}}}} |
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* 水野伍貴「関ヶ原前夜の長岡氏」『研究論集 歴史と文化』4号、2019年。 |
* 水野伍貴「関ヶ原前夜の長岡氏」『研究論集 歴史と文化』4号、2019年。 |
2024年6月3日 (月) 13:19時点における最新版
細川 忠興 | |
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![]() 細川忠興像(永青文庫蔵) | |
時代 | 戦国時代 - 江戸時代前期 |
生誕 | 永禄6年11月13日(1563年11月28日) |
死没 | 正保2年12月2日(1646年1月18日) |
改名 | 細川熊千代 → 長岡熊千代(幼名)→ 忠興 → 細川忠興 → 三斎宗立(号) |
別名 | 与一郎(通称)、丹後宰相、丹後侍従、丹後少将 |
戒名 | 松向寺殿前参議三斎宗立大居士 |
墓所 |
熊本県熊本市中央区黒髪の泰勝寺跡 京都府京都市北区紫野大徳寺町の高桐院 |
官位 | 従五位下・越中守、従四位下・侍従、左近衛少将、従三位、参議、贈正三位 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 織田信長・信忠 → 豊臣秀吉 → 秀頼 → 徳川家康 → 秀忠 |
藩 | 豊前中津藩主 → 豊前小倉藩主 |
氏族 | 長岡氏、肥後細川氏 |
父母 | 父:細川藤孝(幽斎)、母:沼田麝香 |
兄弟 |
忠興、興元、伊也、幸隆、千、孝之、 加賀、栗 |
妻 |
正室:明智玉子 側室:郡宗保娘、清田鎮乗娘、真下元家娘 |
子 | 長、忠隆、興秋、古保、忠利、多羅、万、立孝、興孝、松井寄之 |
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/b9/Kuyo.svg/200px-Kuyo.svg.png)
生涯[編集]
幼少期[編集]
永禄6年︵1563年︶11月13日、室町幕府13代将軍・足利義輝に仕える細川藤孝︵幽斎︶の長男として京都にて誕生。母は沼田光兼の女の麝香︵のちの光寿院︶[1]。﹃寛政重修諸家譜﹄などによると生まれた直後に細川奥州家出身の外様衆・細川輝経の養子となり名跡を継いだとされるが、同時代史料からは確認が取れず、肥後細川氏に奥州家関連の文書も伝来していない。また忠興の幼名は藤孝と同じ熊千代である。 永禄の変の後、藤孝や明智光秀らは尾張国・美濃国の大名の織田信長を頼って義輝の弟の義昭を15代将軍に擁立したが、やがて信長と義昭が対立すると信長に臣従した。忠興は信長の嫡男の信忠に仕えた。織田時代[編集]
天正5年︵1577年︶3月、15歳で紀州征伐に加わり初陣を飾る。10月に信長から離反した松永久秀の武将の森秀光が立て籠もる大和国片岡城を父やその僚友の明智光秀と共に落とし︵信貴山城の戦い︶、10月2日に信長直筆の感状を受けた[2]。 天正6年︵1578年︶に元服[2]。信忠より偏諱を受け、忠興と名乗った[2]。また、同年8月には信長の仲介を受けて、光秀の三女の玉子︵ガラシャ︶と勝竜寺城で結婚する。主君信長の構想に基づく命令による婚姻であったことに特徴がある[3]。 なお、信長が天正6年8月11日に明智光秀に出した判物があり︵﹃細川家記﹄︶、光秀の軍功を激賛、幽斎の文武兼備を称え、忠興の武門の棟梁としての器を褒めた内容で、それらの実績を信長が評価したうえで進めた政略結婚であったことが知られるが、ただ懸念されるのは、この判物の文体が拙劣であり、戦国期の書式と著しく異なっている[4]。このことから偽作の可能性が高い古文書とされている[5]。 天正7年︵1579年︶には信長の命を受けて、父や光秀と共に丹後国守護だった建部山城主一色義道を滅ぼした。 天正8年︵1580年︶、父の藤孝は功により丹後南半国の領主となる︵北半国は一色満信の領国︶。 天正9年︵1581年︶の京都御馬揃えにも若年ながら一色満信らとともに参加する。この際に信長が着た﹁蜀紅錦の小袖﹂は、忠興が京で探し求めて信長に献上したものだという︵﹃信長公記﹄︶。本能寺の変[編集]
天正10年︵1582年︶6月、岳父の明智光秀が本能寺の変後、藤孝・忠興父子を味方に誘ったが[注釈 1]、細川父子は信長の喪に服す事を表明し剃髪することで、これを拒否した上、玉子︵忠興の正室で、光秀の娘︶を丹後国の味土野︵現在の京丹後市弥栄町須川付近︶に幽閉した。幽閉されていた屋敷跡に﹁女城跡︵御殿屋敷︶﹂が現在も建っている。 これに対して、玉子は丹波国船井郡三戸野に滞在しており、丹後国の味土野幽閉説は史実としてはほとんど成立する余地がないとする反論がある[7]。 細川父子に協力を断られたことは、光秀の滅亡を決定的にしたといわれ、光秀は13日に山崎の戦いで敗死している。このように本能寺の変において、速やかに剃髪して弔意をあらわし、光秀には与せずの姿勢を明確にしたため、忠興と同じく光秀の婿だった津田信澄とは異なり、光秀との内通を疑われ討伐されることもなかった[8]。また忠興はこのとき、父が隠居したので領国である丹後南半国を譲られ、丹後宮津城主となった。 その後、次期天下人の地位を狙う羽柴秀吉に誼を通じ、同年9月には織田政権下では実父の藤孝の同僚であった北丹後の一色満信を殺した後一色家旧臣を攻め滅ぼし、秀吉から丹後全域の領有を許された︵一色満信は山崎の戦いで秀吉に与せず、光秀側に付いていたため、秀吉にも敵対視されていた︶。そして、北丹後の元一色方の諸城に軍勢を率いた重臣を派遣し、丹後一国の平定を成し遂げた。豊臣政権下[編集]
天正12年︵1584年︶の小牧・長久手の戦いに参加し、天正13年︵1585年︶には従四位下・侍従に叙任し、秀吉から羽柴姓を与えられ七将に数えられた[9]。 その後も天正15年︵1587年︶の九州征伐、天正18年︵1590年︶の小田原征伐に従軍した。天正16年︵1588年︶、豊臣姓を下賜される[10]。文禄元年︵1592年︶からの文禄の役では九番隊に属して上陸し、慶尚道などの制圧を担当した。10月には長谷川秀一らと第一次晋州城攻防戦に参加し、前哨戦で慶尚右兵使の柳崇仁を討ち取ったが、攻城戦で晋州城を落とすことは出来なかった。文禄2年︵1593年︶6月の第二次晋州城攻防戦にも参加して晋州城を陥落させた。 文禄4年︵1595年︶の秀次事件では、秀吉の甥の豊臣秀次に借金があったために秀吉に嫌疑をかけられたが松井康之が奔走し、金子を用立て秀吉に返納した。この時に金子用立てに力を貸したのが徳川家康である[11]︵﹃細川家記﹄﹃松井家譜﹄︶。 慶長3年︵1598年︶8月に秀吉が死去すると、石田三成らと対立し、徳川家康に誼を通じた。慶長4年︵1599年︶には加藤清正・福島正則・加藤嘉明・浅野幸長・池田輝政・黒田長政らと共に三成襲撃に加わった。 同年、豊臣家の大老の筆頭であった家康の推挙で、丹後12万石に加え豊後国杵築6万石が加増され、城代として重臣の松井康之・有吉立行を置いた。これにより、都合18万石の大名となった。関ヶ原の戦い[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/da/Sansaihosokawa.jpg/200px-Sansaihosokawa.jpg)