「甲斐国」の版間の差分
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甲斐国の[[国府]]は、『[[和名類聚抄]]』には「国衙在八代郡(やつしろ)」とあり、同書の成立した平安時代の後期国府は笛吹市[[御坂町]]国衙付近に比定されている。『拾芥抄』では「山代郡(やましろ:八代郡のこと)、府」と記載がある。 |
甲斐国の[[国府]]は、『[[和名類聚抄]]』には「国衙在八代郡(やつしろ)」とあり、同書の成立した平安時代の後期国府は笛吹市[[御坂町]]国衙付近に比定されている。『拾芥抄』では「山代郡(やましろ:八代郡のこと)、府」と記載がある。 |
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一方、[[山梨郡]]域にあたる[[笛吹市]][[春日居町]]国府(こう、旧[[東八代郡]][[岡部村]])には古代寺院の[[寺本廃寺]]があり、付近には正東西南北の条理制地割が認められることなどから初期国府の所在地であったと考えられている。そして江戸時代の[[萩原元克]]『甲斐名勝志』以来、笛吹市春日居町国府から御坂町国衙へ移転する二転説が提唱されており、1967年には木下良が方六町の国府域を想定している。 |
一方、[[山梨郡]]域にあたる[[笛吹市]][[春日居町]]国府︵こう、旧[[東八代郡]][[岡部村]]︶には古代寺院の[[寺本廃寺]]があり、付近には正東西南北の条理制地割が認められることなどから初期国府の所在地であったと考えられている。そして江戸時代の[[萩原元克]]﹃甲斐名勝志﹄以来、笛吹市春日居町国府から御坂町国衙へ移転する二転説が提唱されており、1967年には[[木下良]]が方六町の国府域を想定している。
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初期国府から後期国府への移転はおおむね支持されているが、国府は国分二寺と同じ郡域に設置される例が多いことから、広瀬広一、上野晴朗らの提唱した[[甲斐国分寺]]・[[甲斐国分尼寺跡|国分尼寺]]のある笛吹市[[一宮町 (山梨県)|一宮町]]国分・東原付近を中間国府に設定する三転説がある。 |
初期国府から後期国府への移転はおおむね支持されているが、国府は国分二寺と同じ郡域に設置される例が多いことから、[[広瀬広一]]、[[上野晴朗]]らの提唱した[[甲斐国分寺]]・[[甲斐国分尼寺跡|国分尼寺]]のある笛吹市[[一宮町 (山梨県)|一宮町]]国分・東原付近を中間国府に設定する三転説がある。 |
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しかしながら、考古学的には現在に至るまで確証のある官衙施設の発掘には至っておらず、[[坂本美夫]]は春日居町初期国府を山梨郡家である可能性を指摘している。 |
しかしながら、考古学的には現在に至るまで確証のある官衙施設の発掘には至っておらず、[[坂本美夫]]は春日居町初期国府を山梨郡家である可能性を指摘している。 |
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=== 国分寺・国分尼寺 === |
=== 国分寺・国分尼寺 === |
2016年1月16日 (土) 00:20時点における版
甲斐国 | |
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■-甲斐国 ■-東海道 | |
別称 | 甲州(こうしゅう) |
所属 | 東海道 |
相当領域 | 山梨県 |
諸元 | |
国力 | 上国 |
距離 | 中国 |
郡・郷数 | 4郡31郷 |
国内主要施設 | |
甲斐国府 | (推定)山梨県笛吹市内の3ヶ所 |
甲斐国分寺 | 山梨県笛吹市(甲斐国分寺跡) |
甲斐国分尼寺 | 山梨県笛吹市(甲斐国分尼寺跡) |
一宮 | 浅間神社(山梨県笛吹市) |
甲斐国(かいのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。
「甲斐」の名称と由来
歴史
近世以降の沿革
国内の施設
国府
国分寺・国分尼寺
神社
守護所
未詳だが、鎌倉末期以降は石和にあったと推定される。現在の甲府市が甲斐の政治的中心になったのは、永正16年(1519年)に武田信虎が躑躅ヶ崎館を建造してからである。
地域
郡
人物
国司
奈良時代
- 丹比間人乙万呂(天平10年4月か、『正倉院文書』)
- 馬史比奈麻呂(天平13年12月10日、『続日本紀』以下も同じ)
- 山口忌沙弥麻呂(天平宝字5年10月1日)
- 坂上大忌苅田麻呂(天平宝字8年10月20日)
- 豊国真人秋篠(宝亀元年9月16日)
- 粟田朝臣鷹守(宝亀3年4月20日)
- 山上朝臣船主(宝亀9年3月10日)
- 藤原朝臣内麻呂(延暦元年閏正月17日)
- 紀朝臣豊庭(延暦3年4月30日)
- 大伴王(延暦8年3月16日)
- 橘朝臣安麻呂(延暦10年7月4日
平安以降
守護
鎌倉幕府
室町幕府
- 光明3年/延元元年(1336年) - ? : 武田政義
- 観応2年/正平6年(1351年) - 延文4年/正平14年(1359年) : 武田信武
- 延文4年/正平14年(1359年) - 応安元年/正平23年(1368年) : 武田信成
- 応安6年/文中2年(1373年) - 至徳2年/元中2年(1385年) : 武田信春
- ? - 応永24年(1417年) - 武田信満
- 応永25年(1418年)- 応永26年(1419年) : 武田信元
- 応永30年(1423年)- 宝徳2年(1450年) : 武田信重
- 宝徳2年(1450年)- 康正元年(1455年) : 武田信守
- 康正元年(1455年)- 文正元年(1466年) : 武田信昌
- 明応3年(1494年)- 永正4年(1507年) : 武田信縄
- 永正4年(1507年)- 天文10年(1541年) : 武田信虎
- 天文10年(1541年)- 天正元年(1573年) : 武田晴信(信玄)
戦国時代
戦国大名
織豊政権の大名
武家官位としての甲斐守
脚注
- ^ 平川南「古代日本における交通と甲斐国」『古代の交易と道 山梨県立博物館 調査・研究報告2』(2008年、山梨県立博物館)、p.12
- ^ 奈良時代の甲斐国司については、原正人「奈良時代の甲斐国司-その性格と任官の動向をめぐって-」『山梨県史研究』(第三号、1995年3月)、同「奈良時代の甲斐国司」『山梨県史』通史編1原始・古代(2004)
- ^ 『続日本紀』該当部は『山梨県史』資料編3原始・古代(文献・文字史料 - 史料31)所載、以下古代甲斐国に関する文献資料は同書に所載。
- ^ 原 1995
- ^ 原 1995、広足の神馬貢献の政治的意志については原文献のほか、磯貝正義「古代官牧制の研究-甲斐の御牧を中心に-」『郡司及び采女制度の研究』(吉川弘文館、1978)
参考文献
- 角川日本地名大辞典 19 山梨県
- 旧高旧領取調帳データベース