「谷崎潤一郎」の版間の差分
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2024年5月19日 (日) 12:42時点における版
谷崎 潤一郎 (たにざき じゅんいちろう) | |
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1951年に撮影 | |
誕生 |
1886年7月24日 日本・東京市日本橋区蛎殻町二丁目14番地 (現・東京都中央区日本橋人形町一丁目7番10号) |
死没 |
1965年7月30日(79歳没) 日本・神奈川県足柄下郡湯河原町吉浜字蓬ヶ平 |
墓地 |
日本・京都市左京区鹿ヶ谷法然院 東京都豊島区染井墓地慈眼寺に分骨 |
職業 | 小説家、劇作家、随筆家 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
最終学歴 |
旧制一高英法科卒業 東京帝国大学国文科中退 |
活動期間 | 1910年 - 1965年 |
ジャンル | 小説、戯曲、随筆、翻訳、和歌 |
主題 |
女体美の探究、マゾヒズム 江戸の絢爛、悪魔的心理 デカダンス、フェティシズム モダニズム、異国趣味 美とエロスの曼荼羅 日本の伝統美、母恋い 風俗絵巻、老人の性 |
文学活動 | 耽美派、悪魔主義、古典回帰 |
代表作 |
『刺青』(1910年) 『痴人の愛』(1924年-1925年) 『卍(まんじ)』(1928年-1930年) 『蓼喰ふ虫』(1928年-1929年) 『春琴抄』(1933年) 『陰翳禮讚』(随筆、1933年-1934年) 『細雪』(1944年-1948年) 『少将滋幹の母』(1949年-1950年) 『鍵』(1956年) 『瘋癲老人日記』(1961年-1962年) |
主な受賞歴 |
国民文芸賞(1923年) 毎日出版文化賞(1947年) 朝日文化賞(1948年度) 文化勲章(1949年) 毎日芸術大賞(1962年度) |
デビュー作 |
『誕生』(戯曲、1910年) 『刺青』(1910年) |
配偶者 |
石川千代子(1915年-1930年) 古川丁未子(1931年-1934年) 森田松子(1935年-) |
子供 |
鮎子(長女。1903-1991) 恵美子(次女。森田松子の長女。1929-2013) |
親族 |
倉五郎(父。1854-1919)、関(母。1864-1917) 精二(1890-1971)、得三(1893-1988)、終平(弟。1908-1990) 園(1896-1911)、伊勢(1899-1994)、末(または須恵。妹。1902-1984) 久右衛門(祖父。1831-1888) 百百子、竹田 |
ウィキポータル 文学 |
来歴・人物
谷崎倉五郎、関の次男として東京市日本橋区蛎殻町二丁目14番地︵現・東京都中央区日本橋人形町一丁目7番10号︶に誕生。長男・熊吉は生後3日で亡くなったため、潤一郎の出生届は、﹁長男﹂として出された[1][2]。次男として誕生した弟の谷崎精二は、のちに作家、英文学者︵早稲田大学教授︶となる[1]。 母方の祖父・谷崎久右衛門は、一代で財を成した人で、父は江澤家[3]から養子に入ってその事業の一部を任されていた。しかし、祖父の死後事業がうまくいかず、谷崎が阪本尋常高小四年を卒業するころには身代が傾き、上級学校への進学も危ぶまれた。谷崎の才を惜しむ教師らの助言により、住込みの家庭教師をしながら府立第一中学校︵現・日比谷高等学校︶に入学することができた。散文や漢詩をよくし、一年生のときに書いた﹃厭世主義を評す﹄は周囲を驚かせた[1]。成績優秀な潤一郎は﹁神童﹂と言われるほどだった[1]。 1902年︵明治35年︶9月、16歳の時、その秀才ぶりに勝浦鞆雄校長から一旦退学をし、第二学年から第三学年への編入試験︵飛級︶を受けるように勧められる。すると合格し、さらに学年トップの成績をとった。本人が﹁文章を書くことは余技であった﹂と回顧しているように、その他の学科の勉強でも優秀な成績を修めた[4]。卒業後、第一高等学校に合格。一高入学後、校友会雑誌に小説を発表した[1]。略年譜
作品の評価
政治的無関心という政治性
谷崎は自身の作品に特定の政治的意図を込めることはなかったが、にも拘らず、いくつかの作品は当局から発禁処分を受けており﹃細雪﹄がその代表である。後に谷崎は、﹁文筆家の自由な創作活動が或る権威によつて強制的に封ぜられ、これに対して一言半句の抗議が出来ないばかりか、これを是認はしないまでも、深くあやしみもしないと云ふ一般の風潮が強く私を圧迫した[27][28]。﹂と述べている。 当局の弾圧に抗してまで自らが思うものを書き、世に問おうとした姿勢もさることながら、そもそも太平洋戦争という未曾有の事態の中で、それとは何の関わりもない、優雅にして緩慢な、いわば絵巻物のような小説を構想したこと自体が既に谷崎の特異性を象徴している。 三島由紀夫の評によれば、谷崎は﹁大きな政治的状況を、エロティックな、苛酷な、望ましい寓話に変へてしまふ﹂のであり、﹁俗世間をも、政治をも、いやこの世界全体をも、刺青を施した女の背中以上のものとは見なかつた[29]﹂のであり、谷崎が戦時下に於てさえこの思想を貫いた事が、意図せずとも、結果として逆説的に政治的態度の表明たり得たのである。 三島にとって、谷崎の、特に戦前の諸作品は、﹁今日よりもむかしの風俗の中に置くはうが、はるかに秘密めいてゐて、言葉の本当の意味で快楽的なので﹂あり、子供たちの間でサディズムとマゾヒズムが織り成す﹁少年﹂︵1911年︶や、男性が女性に扮装して密かに夜の街を彷徨する﹁秘密﹂︵1911年︶、女性の同性愛とその破滅を描いた﹁卍﹂︵1928年︶等に見られる性的倒錯の数々は、﹁かつては選ばれた者の快楽であり、そのやうな題材を扱ふことが一種の世紀末趣味を満足させ、知識階級の悪徳の表現たりえた﹂が、﹁今日の日本では、それらの題材の﹃新しさ﹄と別に、快楽も知的放蕩も悪徳の観念性も喪はれ、あらゆる性的変質はあからさまな人間性の具現にすぎなくなり、その風趣は消え、そのロマンティシズムは消失したのである[30]﹂という。 20歳で迎えた敗戦を諸価値観の最大の転機と見なし、戦後の社会ではあらゆる背徳や放縦が自明のものになったという事実を前提としながらも、敢えて戦前の﹁禁忌﹂に固執する道を選び、その侵犯を目指すことである種のロマンティシズムを打ち立てようと目論んだ三島にとってすれば、谷崎が描き出した世界に更なる﹁新しさ﹂を見出すのは困難であった。 知能と感覚の全てをただひたすら官能へと費やすことで谷崎が描き出した﹁甘美にして芳烈﹂︵異端者の悲しみ[31]︶、絢爛にして優雅な作品世界と、当局からの度重なる弾圧や世の善良を装った風潮に対し、戦前から戦中、戦後を通じてあくまで自己を貫いて見せるという尊大にして豪奢な反逆の精神は、今もってなお、谷崎をおいて他に類を見ない。谷崎文学は現代においてこそユニークであり、新しいのである。女性関係
1915年︵大正4年︶、谷崎は石川千代子と結婚したが、1921年︵大正10年︶頃谷崎は千代子の妹・せい子︵﹃痴人の愛﹄のモデル。芸名葉山三千子︶に惹かれ、千代子夫人とは不仲となった。谷崎の友人・佐藤春夫は千代子の境遇に同情し、好意を寄せ、三角関係に陥り、谷崎が千代子を佐藤に譲ることになったが撤回するという﹁小田原事件﹂が起きた︵佐藤の代表作の一つ﹃秋刀魚の歌﹄は千代子に寄せる心情を歌ったもの。また、佐藤は﹃この三つのもの﹄、谷崎は﹃神と人との間﹄を書いている︶[6][32]。 結局、1926年︵大正15年︶に佐藤と谷崎は和解、1930年︵昭和5年︶、千代子は谷崎と離婚し、佐藤と再婚した。このとき、3人連名の﹁……我等三人はこの度合議をもって、千代は潤一郎と離別致し、春夫と結婚致す事と相成り、……素より双方交際の儀は従前の通りにつき、右御諒承の上、一層の御厚誼を賜り度く、いずれ相当仲人を立て、御披露に及ぶべく候えども、取あえず寸楮を以て、御通知申し上げ候……﹂との声明文を発表したことで﹁細君譲渡事件﹂として世の話題になった[6][32]。 翌1931年︵昭和6年︶、谷崎は、古川丁未子と結婚するが、1934年︵昭和9年︶10月に正式離婚。翌年1月、同棲を続けていた森田松子と結婚式を挙げた[7]。 松子が妊娠した際、﹁藝術的雰囲気を守りたい﹂という谷崎の意向で中絶したと、谷崎自身が﹃雪後庵夜話﹄に書いたためこの件が有名となり、それゆえに谷崎を批判する者も多い。しかし戦時下に書かれた﹃初昔﹄によれば、松子は3人の医師から健康上中絶を勧められたというのが真相で、そうでなければ松子の3人の姉妹や医師をどう説得したのか説明がつかない[20]。大谷崎
谷崎は﹁大谷崎﹂と呼ばれるが、三島由紀夫や丸谷才一によると、これは﹁おおたにざき﹂と呼ぶのが正しく、その理由は﹁歌舞伎の先代歌右衛門つまり五代目中村歌右衛門︵屋号は成駒屋︶を大成駒と呼ぶ習はしにあやかつたものだからである[17][18]。この大成駒はもちろんオホナリコマ。ダイナリコマなんて声をかけたら、八重垣姫も政岡も台なしになつてしまふ﹂という[33]。丸谷はまた、﹁彼が大谷崎と尊敬されたのは、作風の華麗、生活の豪奢のせいもあつたらう。しかしそれだけではない。単なる谷崎と区別する意味合ひもあつたのです。彼の弟、谷崎精二は早大教授である英文学者でしたが、小説も書きました﹂とも述べている[33]。 小谷野敦もまた、大谷崎という呼び名は弟の精二と区別するためのものだと述べているが、﹁だいデュマ﹂﹁しょうデュマ﹂などと同じく、昭和初年の雑誌に﹁だいたにざき﹂とルビがあったとして、読み方は﹁おおたにざき﹂ではなく﹁だいたにざき﹂であると主張している[20]。記念館
備考
逸話
●﹃陰翳礼讃﹄で有名な谷崎だが、﹃陰翳礼讃﹄執筆以前の関東大震災後は洋風建築の家に住み、その後自ら設計に関わった和洋中が混ざった新居﹁鎖瀾閣﹂を兵庫県武庫郡岡本梅ノ谷︵現・神戸市東灘区岡本︶に建て、古典回帰の﹃蓼喰ふ虫﹄もその家で執筆された[7][34]。そして武庫郡魚崎町横屋︵現・神戸市東灘区︶に転居後、﹃陰翳礼讃﹄は書かれた[7]。 ●日新電機株式会社︵本社‥京都市右京区︶は、文豪・谷崎潤一郎のかつての邸宅﹁石村亭︵せきそんてい︶﹂を所有している。2006年︵平成18年︶は、日新電機が石村亭を譲り受けて50年目の記念の年にあたった。石村亭は谷崎が﹁潺湲亭︵せんかんてい︶﹂と名付けてこよなく愛した邸宅で、小説﹃夢の浮橋﹄の舞台でもある。谷崎は日新電機に譲り渡すにあたり、今の姿をいつまでも保って欲しいとし、その思いを受けて﹁石村亭﹂と命名した。外部リンクの節の谷崎潤一郎旧邸宅・石村亭プロジェクトを参照。 ●日本人作家で唯一フランス語のプレイヤード叢書に所収された。英語版でも、﹃源氏物語﹄と﹃細雪﹄︵The Makioka Sisters︶が選ばれた﹁世界文学名作叢書﹂がある。 ●弟子だった今東光が書いたところによると幸田露伴の﹃運命﹄の表題を決めたのは谷崎である。当初は﹃零﹄という表題だったが、改造社社長山本実彦が露伴の書き下ろした原稿を一読の為に持参すると、直ちに目を通し﹁素晴らしい作品であるが、この﹃零﹄という表題では何人も容易に会得することが出来ないであろうから、甚だ失礼ながらこの方がよいのではないか﹂と言い、これを﹃運命﹄と題した。 ●バルザック全集を読破し、バルザックの作品は﹃ロスト・イリュージョン﹄︵幻滅︶を持って最高最大の傑作であると評していた。また、芥川龍之介にもバルザックを読むことを薦めたという[35]。 ●谷崎が少年時代からずっと書いていた日記があったが、没後に遺族も知らない間に散逸してしまったという[36]、近年一部が発見され、晩年の昭和30年代の﹁日記﹂は、新版全集の最終巻︵第26巻︶に収録された。 ●随筆家の渡辺たをりは谷崎の3番目の妻・松子とその最初の夫・根津清太郎の孫だが、谷崎はたをりを実の孫のようにかわいがり[37]、たをりは後に﹃祖父 谷崎潤一郎﹄を上梓している。なお、たをりの夫は演劇評論家の高萩宏である。 ●谷崎は1958年度ノーベル文学賞の候補になったが、その時期に三島由紀夫らが財団に送った推薦状の内容が、朝日新聞社の情報公開請求により明らかにされた︵朝日新聞、2009年9月23日付︶。このとき谷崎を推薦したのは三島のほかにパール・バック、ドナルド・キーン、エドウィン・ライシャワーらで三島を含めて計5名おり、最終選考より一段階前の41人の中に含まれていた。ノーベル財団の資料は﹁ノーベル委員会はこの候補者に興味を持っていることは認めるが、今の時点では受け入れる準備ができていない﹂と結論づけている。谷崎はこのあと1960年から亡くなる1965年まで毎年ノーベル文学賞候補になっており、そのうち1960年は最終候補の5人の中に入っていた。阪神間における寓居地域一覧
おもな作品一覧
未完作は☆。発禁作は▲ 作品の著作権は現在消滅し、パブリックドメインとなっている。初期文章・雑記習作
- 学生の夢(学生倶楽部 1898年4月)
- 楠公論(学生倶楽部 1898年5月)
- 五月雨(学生倶楽部 1898年5月)
- 厭世主義を評す(学友会雑誌 1902年3月) - 全校を驚嘆させたもの
- 春風秋雨録(学友会雑誌 1903年12月)
- 狆の葬式(校友会雑誌 1907年3月)
- うろおぼえ(校友会雑誌 1907年6月)
- 死火山(校友会雑誌 1907年12月)
小説
- 短編
- 一日(早稲田文学 1909年1月投稿) - 握りつぶされ没となったもの。この失意により神経衰弱になる
- 刺青(第二次新思潮 1910年11月)
- 麒麟(第二次新思潮 1910年12月)
- 少年(スバル 1911年6月)
- 幇間(スバル 1911年9月)
- 飈風(三田文学 1910年9月)▲
- 秘密(中央公論 1911年11月)
- 悪魔(中央公論 1912年2月)
- 悪魔続篇〈のち「続悪魔」と改題〉(中央公論 1913年1月)
- 恐怖(大阪日日新聞 1913年1月)
- 熱風に吹かれて(中央公論 1913年9月)
- 捨てられるまで〈のち「捨てられる迄」と改題〉(中央公論 1914年1月)
- 饒太郎(中央公論 1914年9月)
- 金色の死(東京朝日新聞 1914年12月)
- お艶殺し(中央公論 1915年1月)
- 創造(中央公論 1915年4月)
- お才と巳之介(中央公論 1915年9月)
- 独探(新小説 1915年11月)
- 神童(中央公論 1916年1月)
- 亡友(新小説 1916年9月)▲
- 美男(新潮 1916年9月)▲
- 人魚の嘆き(中央公論 1917年1月)
- 既婚者と離婚者(大阪朝日新聞 1917年1月)
- 魔術師(新小説 1917年1月)
- 玄奘三蔵(中央公論 1917年4月)
- 詩人のわかれ(新小説 1917年4月)
- 或る異端者の悲しみ(中央公論 1917年7月)
- ハッサン・カンの妖術(中央公論 1917年11月)
- 前科者(読売新聞 1918年2月-3月)
- 人面疽(新小説 1918年3月)
- 二人の稚児(中央公論 1918年4月)
- 金と銀(黒潮 1918年5月)
- 白昼鬼語(大阪毎日新聞・東京日日新聞 1918年5月-7月)
- 二人の芸術家の話〈のち「金と銀」と改題〉(中央公論 1918年7月) - 「金と銀」に続篇を加えたもの
- ちひさな王国〈のち「小さな王国」と改題〉(中外 1918年8月)
- 柳湯の事件(中外 1918年10月)
- 美食倶楽部(大阪朝日新聞 1919年1月-2月)
- 母を恋ふる記(大阪朝日新聞・東京日日新聞 1919年1月-2月)
- 画舫記〈のち「蘇州紀行」と改題〉(中央公論 1919年2月)
- 秦淮の夜(中外 1919年2月)
- 南京奇望街(新小説 1919年3月) - 「秦淮の夜」続篇
- 呪はれた戯曲(中央公論 1919年5月)
- 青磁色の女〈のち「西湖の月」と改題〉(改造 1919年6月)
- 富美子の足(雄弁 1919年6月)
- 或る少年の怯れ(中央公論 1919年9月)
- 途上(改造 1920年1月)
- 私(改造 1921年3月) - 叙述トリックの推理物
- 不幸な母の話(中央公論 1921年3月)
- 鶴涙(中央公論 1921年7月)
- AとBの話(改造 1921年8月)
- 青い花(改造 1922年3月)
- アヱ゛・マリア(中央公論 1923年1月)
- 蘿洞先生(中央公論 1923年1月)
- 赤い屋根(改造 1925年7月)
- 馬の糞(改造 1925年11月)
- 友田と松永の話(主婦之友 1926年1月-5月)
- 日本に於けるクリツプン事件(文藝春秋 1927年1月)
- 続蘿洞先生(新潮 1928年5月)
- 三人法師(中央公論 1929年10月-11月)
- 盲目物語(中央公論 1931年9月)
- 蘆刈(改造 1932年11月-12月)
- 月と狂言師(中央公論 1949年1月)
- 過酸化満俺水の夢〈のち「過酸化マンガンの夢」と改題〉(中央公論 1955年11月)
- 夢の浮橋(中央公論 1959年10月) - 口述筆記となった最初の作品
- 中編・長編
- 彷徨(第二次新思潮 1911年2月中断)☆
- 羹(東京日日新聞 1912年7月-11月中断)☆ - 一高時代の体験に基づいた半自伝的小説
- 鬼の面(東京朝日新聞 1916年1月-5月)
- 女人神聖(婦人公論 1917年9月-1918年6月)
- 鮫人(中央公論 1920年1月-10月中断)☆
- 肉塊(東京朝日新聞 1923年1月-4月)
- 神と人との間(婦人公論 1923年1月-1924年12月)
- 痴人の愛(大阪朝日新聞 1924年3月-6月。女性 1924年 11月-1925年7月)
- 青塚氏の話(改造 1926年8月-12月)
- 黒白(大阪朝日新聞・東京朝日新聞 1928年3月-7月)
- 卍(改造 1928年3月-1930年4月断続的)
- 蓼喰ふ虫(大阪毎日新聞・東京日日新聞 1928年12月-1929年6月)
- 乱菊物語(東京朝日新聞・大阪朝日新聞 1930年3月-9月)☆
- 吉野葛(中央公論 1931年1月-2月)
- 武州公秘話(新青年 1931年10月-1932年11月)☆
- 春琴抄(中央公論 1933年6月)
- 聞書抄〈第二盲目物語〉(大阪朝日新聞・東京日日新聞 1935年1月-6月)
- 猫と庄造と二人のをんな(改造 1936年1月・7月)
- 細雪(中央公論 1943年1月・3月。婦人公論 1947年3月-1948年10月)
- 少将滋幹の母(毎日新聞 1949年11月-1950年2月)
- 鍵(中央公論 1956年1月-12月)
- 鴨東綺譚(週刊新潮 1956年2月-3月)☆
- 残虐記(婦人公論 1958年2月-11月)☆
- 瘋癲老人日記 (中央公論 1961年11月-1962年5月)
- 台所太平記(サンデー毎日 1962年11月-1963年3月) - 谷崎家の女中変遷をモデルとしたもの
戯曲
- 誕生(第二次新思潮 1910年9月) - 『栄花物語』に取材、藤原道長に娘が誕生したことを描く
- 象(第二次新思潮 1910年10月)
- 信西(スバル 1911年1月)
- 恋を知る頃(中央公論 1913年5月)
- 春の海辺(中央公論 1914年4月)
- 法成寺物語(中央公論 1915年6月)
- 恐怖時代(中央公論 1916年3月)▲
- 鶯姫(中央公論 1917年2月)
- 十五夜物語(中央公論 1917年9月)
- 兄弟(中央公論 1918年2月) - 『栄花物語』から、道兼・道隆兄弟の相克を描く
- 愛すればこそ(改造 1921年12月)
- 堕落(中央公論 1922年1月) - 「愛すればこそ」第2幕・第3幕
- 永遠の偶像(新潮 1922年3月)
- お国と五平(新小説 1922年6月)
- 本牧夜話(改造 1922年7月)
- 愛なき人々(新小説 1923年1月)
- 白孤の湯(新潮 1922年1月)
- 無明と愛染(改造 1924年1月・3月)
- 白日夢(中央公論 1926年9月)
- 腕角力(女性 1924年2月)
- 顔世(改造 1933年8月-10月) - 『仮名手本忠臣蔵』に取材。のち新藤兼人が「悪党」として映画化
映画シナリオ
評論・随筆
- 「門」を評す(第二次新思潮 1910年9月) - 夏目漱石の小説『門』の書評
- 朱雀日記(大阪毎日新聞・東京日日新聞 1912年4月)
- 父となりて(中央公論 1916年5月)
- 発売禁止に就きて(中央公論 1916年5月)
- 活動写真の現在と将来(新小説 1917年9月)
- 芸術一家言(改造 1920年4月-10月)
- 饒舌録(改造 1927年2月-12月) - 芥川龍之介の発言に対する反論
- 芥川君の訃を聞いて(大阪毎日新聞 1927年7月)
- 芥川君と私(改造 1927年9月)
- いたましき人(文藝春秋 1929年9月)
- 老俳優の思ひ出(上山草人のこと)(文藝春秋 1929年11月)
- 現代口語文の欠点について(改造 1929年11月)
- 春寒(新青年 1930年4月) - 渡辺温の追悼と探偵小説に就いて
- 懶惰の説(中央公論 1930年5月)
- 恋愛及び色情(婦人公論 1931年4月-6月)
- 佐藤春夫に与へて過去半生を語るの書(中央公論 1931年11月)
- 「つゆのあとさき」を読む(改造 1931年11月) - 永井荷風の小説『つゆのあとさき』の書評
- 私の見た大阪及び大阪人(中央公論 1932年2月-4月) - 大阪の言葉や文化と東京のそれとの比較
- 倚松庵随筆(創元社 1932年4月)
- 青春物語〈2回目以降「若き日のことども」と改題〉(中央公論 1932年9月-1933年3月) - パニック障害の症状を記した若い頃の記録
- 「芸」について〈のち「芸談」と改題〉(改造 1933年3月-4月)
- 陰翳礼讃(経済往来 1933年12月-1934年1月)
- 東京をおもふ(中央公論 1934年1月-4月)
- 春琴抄後語(改造 1934年6月)
- 文章読本(中央公論社 1934年11月)
- 私の貧乏物語(中央公論 1935年1月)
- 摂陽随筆(中央公論社 1935年5月)
- 初昔(日本評論 1942年6月-9月)
- きのふけふ(文藝春秋 1942年6月-11月)
- 磯田多佳女のこと(新生 1946年8月-9月)
- 所謂痴呆の芸術について(新文學 1948年8月・10月) - 人形浄瑠璃を痴呆の芸術としつつも可愛い我が子と評した
- 幼少時代(文藝春秋 1955年4月-1956年3月) - 明治時代の日本橋を描く
- 老後の春(中央公論 1957年7月)
- 親不孝の思ひ出(中央公論 1957年9月-10月)
- ふるさと(中央公論 1958年6月)
- 高血圧症の思ひ出(週刊新潮 1959年4月-6月)
- 文壇むかしばなし(コウロン 1959年11月)
- 三つの場合(中央公論 1960年9月・11月、1961年2月) - 「阿部さん」「岡さん」「明さん」の3人の死を描く
- 当世鹿もどき(週刊公論 1961年3月-7月)
- 雪後庵夜話(中央公論 1963年6月-9月)
- 「越前竹人形」を読む(毎日新聞 1963年9月) - 水上勉の小説『越前竹人形』の書評
- 続雪後庵夜話(中央公論 1964年1月)
- にくまれ口(婦人公論 1965年9月)
- 七十九歳の春(中央公論 1965年9月)
翻訳
刊行本一覧
単行本
全集・選集
書簡集
●水上勉・千葉俊二編﹃谷崎先生の書簡——ある出版社社長への手紙を読む﹄︵中央公論社、1991年3月、増補版2008年5月︶ - 嶋中雄作宛書翰 ●﹃谷崎潤一郎=渡辺千萬子往復書簡﹄︵中央公論新社、2001年2月。中公文庫、2006年1月︶ ●千葉俊二編﹃谷崎潤一郎の恋文——松子・重子姉妹との書簡集﹄︵中央公論新社、2015年1月︶ ●千葉俊二編﹃父より娘へ——谷崎潤一郎書簡集 鮎子宛書簡二六二通を読む﹄︵中央公論新社、2018年10月︶対談集
●小谷野敦・細江光編﹃谷崎潤一郎対談集 藝能編﹄︵中央公論新社、2014年9月︶ ●小谷野敦・細江光編﹃谷崎潤一郎対談集 文藝編﹄︵中央公論新社、2015年3月︶目録
●橘弘一郎﹃谷崎潤一郎先生著書総目録﹄︿全4巻﹀︵ギャラリー吾八、1964年-1966年︶関連図書
基本的には永栄啓伸・山口政幸﹃谷崎潤一郎書誌研究文献目録﹄︵勉誠出版、2004年10月︶を参照。回想
伝記
作家論・作品論
谷崎潤一郎を主な登場人物とする小説
●中河与一﹃探美の夜﹄正続完︵講談社、1957年-1959年︶ ●桐野夏生﹃デンジャラス﹄︵中央公論新社、2017年6月︶ ●鳥越碧﹃花筏 谷崎潤一郎・松子たゆたう記﹄︵講談社、2008年、講談社文庫、2014年︶映像化作品
映画
●アマチュア倶楽部︵1920年、大正活映、トーマス・栗原 監督︶※ オリジナルシナリオ ●葛飾砂子︵1920年、大正活映、栗原喜三郎 監督︶※ 泉鏡花原作、谷崎潤一郎 脚色 ●雛祭の夜︵1921年、大正活映、栗原喜三郎&谷崎潤一郎 監督︶※ オリジナルシナリオ。谷崎は操人形の操作担当。 ●蛇性の婬︵1921年、大正活映、栗原喜三郎 監督︶※ オリジナルシナリオ ●おつやと新之助︵1924年、日活、中川紫郎 監督︶※﹃お艶殺し﹄が題材 ●本牧夜話︵1925年、東亜キネマ、鈴木謙作 監督︶ ●お艶殺し︵1925年、東亜キネマ、阪田重則 監督︶ ●お艶殺し︵1934年、日活、辻吉朗 監督︶ ●春琴抄 お琴と佐助︵1935年、松竹、島津保次郎 監督︶ ●お市の方︵1942年、大映、野淵昶 監督︶※﹃盲目物語﹄が題材 ●痴人の愛︵1949年、大映、木村恵吾 監督︶ ●細雪︵1950年、新東宝、阿部豊 監督︶ ●お艶殺し︵1951年、東映、マキノ雅弘 監督︶ ●お遊さま︵1951年、大映、溝口健二 監督︶※﹁蘆刈﹂が題材 ●源氏物語︵1951年、大映、吉村公三郎 監督︶※ 谷崎潤一郎 監修 ●お国と五平︵1952年、東宝、成瀬巳喜男 監督︶ ●乱菊物語︵1952年、東宝、谷口千吉 監督︶ ●春琴物語︵1954年、大映、伊藤大輔 監督︶ ●猫と庄造と二人のをんな︵1956年、東宝、豊田四郎 監督︶ ●乱菊物語︵1956年、東宝、谷口千吉 監督︶ ●細雪︵1959年、大映、島耕二 監督︶ ●鍵︵1959年、大映、市川崑 監督︶ ●痴人の愛︵1960年、大映、木村恵吾 監督︶ ●お琴と佐助︵1961年、大映、衣笠貞之助 監督︶ ●瘋癲老人日記︵1962年、大映、木村恵吾 監督︶ ●台所太平記︵1963年、東宝、豊田四郎 監督︶ ●白日夢︵1964年、松竹、武智鉄二 監督︶ ●卍︵1964年、大映、増村保造 監督︶ ●紅閨夢︵1964年、松竹、武智鉄二 監督︶ ●悪党︵1965年、東宝、新藤兼人 監督︶※﹁顔世﹂を題材にしている。 ●刺青︵1966年、大映、増村保造 監督︶※﹁刺青﹂と﹁お艶殺し﹂を題材にしている。 ●堕落する女︵1967年、松竹、吉村公三郎 監督︶※ ﹁愛すればこそ﹂を題材にしている。 ●痴人の愛︵1967年、大映、増村保造 監督︶ ●鬼の棲む館︵1969年、大映、三隅研次 監督︶※ 戯曲﹃無明と愛染﹄より ●おんな極悪帖︵1970年、大映、池広一夫 監督︶※ ﹃春琴抄﹄を題材にしている。 ●讃歌︵1972年、大映、新藤兼人 監督︶※ ﹁愛すればこそ﹂を題材にしている。 ●鍵︵1974年、日活、神代辰巳 監督︶ ●春琴抄︵1976年、東宝、西河克己 監督︶ ●谷崎潤一郎﹁痴人の愛﹂より ナオミ︵1980年、東映、高林陽一 監督︶ ●白日夢︵1981年、富士映画、武智鉄二 監督︶※﹃春琴抄﹄を題材にしている ●卍︵1983年、東映セントラルフィルム、横山博人 監督︶ ●華魁︵1981年、武智プロ、小川プロ、武智鉄二 監督︶※ ﹁人面疽﹂を題材にしている。 ●鍵︵1983年、東映セントラルフィルム、木俣堯喬 監督︶ ●La chiave︵1983年、伊仏合作映画、ティント・ブラス 監督︶※ 邦題﹃鍵﹄ ●細雪︵1983年、東宝、市川崑 監督︶ ●刺青 IREZUMI︵1984年、にっかつ、曽根中生 監督︶ ●The Berlin Affair︵1985年、伊・西独合作映画、リリアーナ・カヴァーニ 監督︶※ 邦題﹃卍/ベルリン・アフェア﹄ ●白日夢︵1987年、松竹、武智鉄二 監督︶ ●Dagboek van een oude dwaas︵1987年、蘭白仏合作映画、リリ・ラデメーカーズ 監督︶※ 邦題﹃吐息﹄。﹃瘋癲老人日記﹄を題材にしている。 ●卍︵1987年、オリジナルビデオ、 服部光則 監督︶ ●鍵︵ディレクターズ・カット完全版︶︵1997年、新東宝、木俣堯喬 監督︶ ●鍵 THE KEY︵1997年、東映、池田敏春 監督︶ ●刺青 SI-SEI︵2005年、アートポート、佐藤寿保 監督︶ ●卍︵2006年、アートポート、井口昇 監督︶ ●刺青 堕ちた女郎蜘蛛︵2007年、アートポート、瀬々敬久 監督︶ ●春琴抄︵2008年、ビデオプランニング、金田敬 監督︶ ●白日夢︵2009年、アートポート、愛染恭子 & いまおかしんじ 監督︶ ●刺青 背負う女︵2009年、アートポート、堀江慶 監督︶ ●刺青 匂ひ月のごとく︵2009年、アートポート、三島有紀子 監督︶ ●BUNGO -日本文学シネマ- 富美子の足︵2010年、オリジナルビデオ、 橋本光二郎 監督︶ ●神と人との間︵2018年、TBSサービス、内田英治 監督︶ ●富美子の足︵2018年、TBSサービス、ウエダアツシ 監督︶ ●悪魔︵2018年、TBSサービス、藤井道人 監督︶ ●鍵︵2022年、BBB、井上博貴 監督︶TV
●細雪︵1957年4月3日〜6月26日、日本テレビ、武智鉄二&中村昭二&伴秀夫 演出︶ ●細雪︵1959年11月12日、NET、山本隆則 演出︶ ●細雪︵1965年8月5日〜10月28日、日本テレビ、せんぼんよしこ 演出︶ ●細雪︵1966年1月21日、フジテレビ、菊田一夫 演出︶ ●細雪︵1980年11月20日、読売テレビ、香坂信之 演出︶ ●刺青・魔性の秘密︵1988年10月17日、テレビ東京、松井稔 演出︶※ 短編﹁刺青﹂と﹁秘密﹂を題材にしている。 ●鍵︵1993年5月17日、24日、テレビ東京、久野浩平 演出︶ ●母恋ひの記︵2008年12月13日、NHK総合、黛りんたろう 演出︶ ●平成細雪︵2018年1月7日〜28日、NHK-BSP、源孝之 演出︶関連項目
●谷崎潤一郎賞 ●神戸文学館 ●阪神間モダニズム ●東京都立日比谷高等学校の人物一覧 ●第一高等学校 (旧制)の人物一覧 ●東京大学の人物一覧 ●萬龍︵赤坂芸者︶ ●江川宇礼雄︵俳優。谷崎に可愛がられていたが、谷崎の愛人かつ義妹の葉山三千子と駆け落ちする。︶ ●蜂須賀年子︵作品モデルの一人︶ ●プレイヤード叢書︵仏ガリマール出版社の世界文学全集。2012年現在、日本人作家では谷崎潤一郎のみ収録。全2巻︶ ●マンガアンソロジー谷崎万華鏡︵参加者 榎本俊二、今日マチ子、久世番子、近藤聡乃、しりあがり寿、高野文子、中村明日美子、西村ツチカ、古屋兎丸、山口晃、山田参助︶ ●小田原文学館 - 谷崎潤一郎関連資料が展示されている[40]。 ●スモン - 谷崎潤一郎がよく服用していた整腸剤にキノホルムが含まれていて、製造中止になった。義理の孫の渡辺たをりは祖父の死後、谷崎の手指のしびれが薬害のせいだったのではと、家族で話題になったことを記している︵﹃花は桜 魚は鯛﹄pp. 220-223︶。 ●川田順 - 谷崎潤一郎の告別式に﹁我が友はひとつの筆の穂先より光を曳きて天翔けりゆく﹂という弔歌を贈った︵渡辺千萬子﹃落花流水 谷崎潤一郎と祖父関雪の思い出﹄、2007年、岩波書店、p. 29︶脚注
注釈
出典
参考文献
●﹃新潮日本文学アルバム7谷崎潤一郎﹄笠原伸夫編、新潮社、1985年1月。ISBN 978-4106206078。 ●﹃文藝別冊 谷崎潤一郎——没後五十年、文学の奇蹟﹄河出書房新社︿KAWADE夢ムック﹀、2015年2月。ISBN 978-4309978550。 ●﹃別冊太陽 日本のこころ236 谷崎潤一郎——私はきつと、えらい芸術を作つてみせる﹄千葉俊二監修、平凡社、2016年1月。ISBN 978-4582922363。 ●﹃谷崎潤一郎伝——堂々たる人生﹄中央公論新社、2006年6月。ISBN 978-4120037412。 ●﹃つれなかりせばなかなかに——妻をめぐる文豪と詩人の恋の葛藤﹄中央公論社、1997年4月。ISBN 978-4120026744。 ●改題﹃つれなかりせばなかなかに——文豪谷崎の﹁妻譲渡事件﹂の真相﹄ 中公文庫、1999年12月。ISBN 978-4122035560 ●三島由紀夫﹃作家論﹄中公文庫、1974年6月。新装改版2016年5月。ISBN 978-4122062597。 ●初刊﹃作家論﹄中央公論社、1970年10月 NCID BN0507664X ●﹃決定版 三島由紀夫全集28巻 評論3﹄新潮社、2003年3月。ISBN 978-4-10-642568-4。 ●﹃決定版 三島由紀夫全集32巻 評論7﹄新潮社、2003年7月。ISBN 978-4-10-642572-1。 ●﹃決定版 三島由紀夫全集33巻 評論8﹄新潮社、2003年8月。ISBN 978-4-10-642573-8。 ●﹃決定版 三島由紀夫全集35巻 評論10﹄新潮社、2003年10月。ISBN 978-4-10-642575-2。 ●﹃決定版 三島由紀夫全集39巻 対談1﹄新潮社、2004年5月。ISBN 978-4-10-642579-0。 ●丸谷才一﹃軽いつづら﹄新潮社、1993年8月。ISBN 978-4103206064。新潮文庫、1996年8月。 ●﹃江戸川乱歩全集 第1巻 屋根裏の散歩者﹄光文社︿光文社文庫﹀、2004年7月。ISBN 978-4334737160。 ●﹃江戸川乱歩全集 第24巻 悪人志願﹄光文社︿光文社文庫﹀、2005年10月。ISBN 978-4334739621。 ●﹃江戸川乱歩全集 第27巻 続・幻影城﹄光文社︿光文社文庫﹀、2004年3月。ISBN 978-4334736408。外部リンク
- 『谷崎潤一郎』 - コトバンク
- 谷崎 潤一郎:作家別作品リスト - 青空文庫
- 谷崎潤一郎・詳細年譜 | 小谷野敦 公式ウェブサイト
- 芦屋市谷崎潤一郎記念館
- 倚松庵
- 復元「ナオミの家」|株式会社 N.N.コーポレーション
- 谷崎潤一郎との約束 | 石村亭 | 日新電機株式会社
- ::谷崎潤一郎旧邸・鎖瀾閣:: - ウェイバックマシン(2009年2月9日アーカイブ分)
- 谷崎潤一郎 - NHK人物録
- 谷崎潤一郎の作品を原作とするオペラ- 昭和音楽大学オペラ情報センター
- 谷崎潤一郎と映画 - 中沢弥