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二枚鑑札

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西101958

1959111960589退

退1980退

退退7201720221

200710退

1975-76退退

 (2)

なお、琴ノ若晴將は部屋継承予定者となった後の師匠入院中に現役でありながら師匠代理を務めており(部屋付きの親方は複数所属していたが琴ノ若が務めた)、部屋力士の断髪式で止め鋏を入れたこともある。

二枚鑑札の例[編集]

一覧[編集]

年寄名 二枚鑑札期間 四股名
朝日山 1918年(大正7年)1月-1921年(大正10年)6月 鉄甲宗五郎
東関 1870年(明治3年)11月 東関庄助

など

昭和以後の二枚鑑札の例[編集]

一覧[編集]

年寄名 二枚鑑札期間 四股名
朝日山 1944年(昭和19年)1月-1947年(昭和22年)6月 二瀬川政一
東関 1924年(大正13年)5月-1930年(昭和5年)3月 鞍ヶ嶽楯右エ門(土俵上でも東関を名乗った)
阿武松 1951年(昭和26年)5月-1958年(昭和33年)5月 式守鬼一郎行司
鏡山 1951年(昭和26年)5月-1958年(昭和33年)5月 式守勘太夫 (5代)(行司)
春日野 1959年(昭和34年)11月-1960年(昭和35年)5月 栃錦清隆
粂川 1938年(昭和13年)1月-1939年(昭和14年)5月 鏡岩善四郎
式秀 1943年(昭和18年)5月-1945年(昭和)20年11月 有明五郎
陣幕 1942年(昭和17年)1月-1944年(昭和19年)1月 青葉山徳雄
高砂 1942年(昭和17年)1月-1949年(昭和24年)10月 前田山英五郎
立浪 1953年(昭和28年)1月-1953年(昭和28年)9月 羽黒山政司
千賀ノ浦 1936年(昭和11年)1月-1937年(昭和12年)5月 綾川五郎次
錦島 1956年(昭和31年)9月-1958年(昭和33年)1月 木村今朝三(行司)
二所ノ関 1935年(昭和10年)1月-1938年(昭和13年)5月 玉錦三右エ門
二所ノ関 1939年(昭和14年)1月-1945年(昭和20年)11月 玉ノ海梅吉
二所ノ関 1951年(昭和26年)9月-1952年(昭和27年)1月 佐賀ノ花勝巳
富士ヶ根 1942年(昭和17年)1月-1945年(昭和20年)11月 若港三郎
陸奥 1937年(昭和12年)1月-1941年(昭和16年)5月 大潮清治郎
山科 1937年(昭和12年)1月-1944年(昭和19年)1月 大邱山高祥
若藤 1936年(昭和11年)1月-1937年(昭和12年)1月 越ノ海東治郎

※本場所基準、名跡の五十音順

備考[編集]

なお、双葉山定次が現役中の昭和17年1月に特例として双葉山道場という形で独立して部屋を開くことを許され、昭和20年11月の引退・年寄時津風襲名まで現役力士と双葉山道場(現:時津風部屋)の指導者を兼任していた。

また、吉葉山潤之輔も全ての横綱一代年寄が認められていた当時の規定で現役中に吉葉山道場を創設し、引退後に年寄宮城野を襲名して宮城野部屋と改称し、2024年3月場所まで続いている(2024年5月場所以後は閉鎖され、伊勢ヶ濱部屋預かりとなっている)。その宮城野部屋では竹葉山真邦が2度目の宮城野部屋師匠の時代、部屋の横綱の白鵬翔が現役時代後半より実質的に師匠を兼任していたとみられ、その間白鵬の内弟子から大喜鵬将大石浦鹿介炎鵬晃北青鵬治を関取に育てているが、2022年に正式に部屋を継ぐまでは宮城野部屋師匠として見られなかった。

二枚鑑札の力士が部屋の師匠を務めていた場合、自身の力士としての休場届を、受理する側の部屋の師匠の立場でそのまま協会に届け出ることができる特権があった。このことが前田山英五郎の休場後の野球観戦で、職権乱用として問題視された。

関連項目[編集]