日本人の性
日本人の性︵にほんじんのせい︶では、日本人の性行動、性意識、性風俗について説明する。
小林一茶は日記に、毎日何回性交をしたかを記しており、晩年になって も毎日のようにセックスをしていたことが知られる。
現代の日本では、現在でも映画やビデオの性交シーンにはモザイク処理が入るほど性に関して閉鎖的な国民というイメージがあるが、﹁性に関してシャイな日本人像﹂は決して古来からのものではなかった[1]。﹁万葉集﹂や﹁源氏物語﹂に書かれているように、奈良時代や平安時代の貴族の恋愛や性行動はかなり奔放であった[2]。また、日本には太古の昔より、混浴文化があり、鎌倉時代の温泉には、温泉客相手に性的サービスも行う﹁湯女﹂が登場する[1]。日の落ちた公衆浴場は﹁性の社交場﹂でもあった。﹁夜這い﹂の文化もあり、女性が男性にいつでも来てねと誘いをかける﹁妻問い﹂という文化も存在した。この夜這い文化の発祥は 、大国主命︵大黒︶だとする説もある[1]。奈良時代以降﹁歌垣﹂という一堂に集った男女が、歌を詠みあった後にフリーセックスを行う催しが全国的に盛んであった。既婚者も参加でき、人妻も含め女性も積極的に参加した[1]。江戸時代には、日本人の性は比較的おおらかで、井原西鶴が好色物語を書き、春画や遊廓など性産業も隆盛を極めた。俳人小林一茶は日記に、毎日何回性交をしたかを記しているが、一茶は晩年になっても毎日のようにセックスをしていたことが分かっている。こうした事実から、日本人は伝統的にはセックスに寛容で楽しんでいた民族だとも言われる[3][4][2]。
第二次世界大戦後、1950年ごろまでは人口抑制策が取られ、人工妊娠中絶や避妊の普及が進んだ。当時は、子供の数が平均4人と、夫婦の性的関係はまだ盛んであった[2]。2000年代に入ってからは、セックスレス化に急速に拍車がかるとともに、恋愛しない若者が急増した[2]。
夜鷹。江戸職人歌合. 石原正明著 (片野東四郎, 1900)
葛飾北斎﹃喜能会之故真通﹄(1814年ごろ)
徳川幕府の時代には、武士には参勤交代が課せられ、大名の妻子は人質として、基本的に江戸の屋敷に住む必要があったため、夫婦はセックスレスにならざるを得なかった。一方で庶民は夫婦円満が理想とされ、セックスについても自由な風潮であった。浮世絵が大流行し、嫁入りの際には性教育の一環として娘に持たせたという話も残される。不倫など、風紀が乱れていたわけではなく特に既婚女性の不貞はご法度とされ、死罪も適用されるほど厳しい処分がなされた。また、江戸時代は男性の人口比率が高かったため、男性にとって結婚は重要なテーマであった[4]。