時事新報
時事新報 | |
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明治22年2月の紙面 | |
種類 | 日刊紙 |
サイズ | ブランケット判 |
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事業者 |
(慶應義塾出版社→) (合名会社時事新報社→) (株式会社大阪毎日新聞社→)[注 1] (株式会社毎日新聞社→) 株式会社時事新報社 |
本社 |
(東京府東京市芝区三田2-2[注 2]→) (東京市日本橋区通3-11[注 3]→) (東京市京橋区南鍋町2-12[注 4]→) (東京市麹町区八重洲町1丁目[注 5]→) (東京市麹町区有楽町1-2→) (東京都千代田区有楽町2-2-1[注 6]→) 東京都千代田区大手町1-7-2[注 7][1] |
代表者 | 飯塚浩彦(産経新聞社代表取締役会長) |
創刊 | 1882年(明治15年)3月1日 |
廃刊 |
1955年(昭和30年)10月31日 (以後は産経新聞東京本社版に合同) |
前身 |
民間雑誌 公布日誌 |
言語 | 日本語 |
価格 |
1部 2銭(1887年) 月極 50銭(1887年) |
株式会社時事新報社 | |
本社所在地 |
日本 100-0004 東京都千代田区大手町1-7-2 |
事業内容 | (休眠会社) |
業種 | 情報・通信業 |
資本金 | 7,000万円 |
歴史[編集]
慶應の機関紙として創刊[編集]
当初の福澤諭吉の計画では、政府の伊藤博文や井上馨の要請を受けて政府系新聞を作る予定だった。しかし、1881年の﹁明治十四年の政変﹂により大隈派官僚が失脚してしまったので、その計画は頓挫してしまった。国権論を主張[編集]
﹃時事新報﹄の論調は、国際情勢に関するものが多かった。福澤諭吉の甥になる初代社長兼主筆の中上川彦次郎は、﹃時事新報﹄の社説で国権論的主張を展開し、社説には、朝鮮に関する論説や中国に関わる様々な形の東洋政略を論じたものが多かった[5][6]。この国権論を水戸藩出身で慶應同窓の高橋義雄・渡辺治・井坂直幹・石河幹明が紙面で引き継ぎ、水戸中学︵現在の茨城県立水戸第一高等学校︶系の松木直己が協力した[7]。 条約改正問題や、大阪事件、朝鮮問題が起こると、﹃時事新報﹄は対外強硬論を紙面で主張した。 1885年︵明治18年︶1月18日、﹁上野公園全国有志大運動会﹂と称する大井憲太郎の一派と聴衆三千人余りが市中行進をし、時事新報社前では同社万歳を連呼し、同紙と反対の論調を唱えた銀座尾張町の朝野新聞本社︵後に銀座和光となる︶を危く焼き討ちしそうな気配となり、警官の出動でわずかに事なきを得る騒ぎとなった[8]。 時事新報は創刊時より﹁国権皇張﹂・﹁不偏不党﹂を掲げ、平明で経済を重視する紙面が政党臭の強かった当時の新聞から見れば新鮮に映ったのか、わずか1,500部余りだった当初の発行部数は2年後には5,000部余りまで増加した[9]。日本一の時事新報[編集]
日清戦争後の1896年︵明治29年︶、時事新報はロイター通信社と契約を締結。20世紀初頭に契約先が10社に増えるまで、ロイターの外信記事は本紙が独占的に使用していた。明治末期には、新聞業界の代表2人を選ぶ時、時事新報から1人が無条件に出され、もう1人は競合他社の中から抽選で決めるというほどに業界内での地位を高めた[10]。大正中期には「日本一の時事新報」と呼ばれるようになり、東京日日新聞(現:毎日新聞東京本社版)・報知新聞(現:スポーツ報知)・國民新聞(現:東京新聞)・東京朝日新聞(現:朝日新聞東京本社版)と並ぶ“東京五大新聞”の一つとなった。
関東大震災による影響[編集]
しかしその後、大正関東地震︵関東大震災︶による被災で、時事新報を始めとした在京紙の業績は悪化し部数も減少。それに取って代わる形で大阪資本を背景とした東京日日新聞︵のちの毎日新聞︶・東京朝日新聞︵のちの朝日新聞︶が部数を伸ばし、加えて社会面の充実で伸ばした読売新聞を含めた3紙が大正後期から昭和前期にかけての東京エリアでの新聞シェア上位を占め、時事新報は報知新聞・國民新聞・都新聞などの二番手のグループに甘んじ、﹃万朝報﹄以下の小さな諸新聞は部数の競争から脱落していった。帝人事件の報道[編集]
紙勢の退調を補うために1932年︵昭和7年︶に鐘淵紡績社長で政界にも影響力を持っていた武藤山治が経営権を取得、武藤自らの発案と企画による﹁番町会を暴く﹂を1934年︵昭和9年︶1月17日から大々的に取り上げた。それは当時、日本にはびこる財界の不正を糾弾する特集記事であり、その刺激的な記事は、各界で大きな反響を呼んだ[11]。 やがてそれは﹁帝人事件﹂︵昭和初期の大疑獄事件︶まで引き起こし、それまで赤字に陥っていた時事新報の業績は黒字に転換し部数も大きく伸びた。しかし、武藤が暴漢に射殺されて番町会への追及も中断、帝人事件を通じて検挙された者のほとんどは裁判で無罪となった。結果的に斎藤実内閣を倒す政治陰謀の御先棒を担いだだけの形となり、一時的に持ち直した時事新報の業績も再度不振をかこうことになった。東京日日新聞への合同[編集]
合同前日には、福澤諭吉の墓前に奉告が行われている[12]。 なお東日は1943年(昭和18年)1月1日、大毎と題字を統一して『毎日新聞』となるが、それまでの約7年間、東日紙面の題字の下に「時事新報合同」の文字があった。
復刊から産経新聞への合同まで[編集]
その後、「産経時事」は大阪本社版と題字を合わせて現在の『産経新聞』となるが、1969年(昭和44年)に片仮名の題字を導入するまでは「産経新聞」と縦書きされた題字の下に「時事新報合同」の文字があった[16]。2022年(令和4年)現在、「時事新報」の題号並びに著作権など一切に関する権利は産経新聞社が保有している。
大阪時事新報[編集]
時事新報は、1905年(明治38年)3月15日から大阪で「大阪時事新報」を発行していた。当初は大阪時事新報社という別法人での発行だったが、1920年(大正9年)6月に東京の時事新報社に吸収合併。しかし1923年(大正12年)8月に再度分離独立したものの不振に陥り、1930年(昭和5年)3月に神戸新聞社に買収される。翌1931年(昭和6年)8月1日には京都日日新聞社と共に神戸新聞社に吸収合併され、京阪神の新聞トラスト「三都合同新聞株式会社」が誕生。しかし「大阪時事新報」は三都合同新聞大阪本社から発行が継続された。
その後三都合同新聞社は1940年(昭和15年)7月30日に解体し、大阪時事新報は再び独立会社・「大阪時事新報社」として発足。間もなく読売新聞社(現・読売新聞グループ本社)が株式を買い集め経営に参加するも、翌1941年(昭和16年)12月8日に「夕刊大阪新聞」と合併して「大阪新聞」となり終刊した。
経済時事新報[編集]
日本経済新聞社は、戦時統制で1942年(昭和17年)に日本産業経済(現・日本経済新聞)が誕生する際、前身の中外商業新報が東京で発行されていた経済時事新報という新聞を合併したと社史の中で記述している。しかし、この新聞に時事新報社が関与していたかなどの詳細は分かっていない。