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; 1977年12月8日のアントニオ猪木対[[グレート・アントニオ]] |
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: 1961年に[[日本プロレス]]に来日し、路線バスを引っ張るなどのパフォーマンスで話題を集めたグレート・アントニオを新日本プロレスが16年ぶりに招聘、猪木とのシングル戦をマッチメイクした{{efn|アントニオは最初の来日時に日本での人気に増長した事で、同じく来日していた[[カール・ゴッチ]](当時、カール・クラウザー)、[[ビル・ミラー_(プロレスラー)|ビル・ミラー]](当時、ミスターX)、アイク・アーキンスらから反感を買い、試合や控室で激しい制裁を受け、スケジュール途中でカナダへ帰国している<ref>[[竹内宏介]]『プロレス醜聞100連発!!』P30・31より。</ref>。}}。新日本プロレスは、もともと招聘予定の無かったアントニオが突如来襲したという設定でシリーズ開幕戦に乱入させ、日本プロレス時代と同様のバス引きパフォーマンスを行うなどの話題作りを図ったが、当時52歳のアントニオは16年前より体力が衰えており、北米でも1971年を最後に試合を行っていなかった<ref>{{cite web|url=https://www.wrestlingdata.com/index.php?befehl=bios&wrestler=7898&bild=0&details=7|title=The Great Antonio|accessdate=2022-04-14|publisher=Wrestlingdata.com}}</ref>。折しも同時期、ライバル団体の全日本プロレスは[[世界オープンタッグ選手権]]を開催中で、話題を集めていた。 |
: 1961年に[[日本プロレス]]に来日し、路線バスを引っ張るなどのパフォーマンスで話題を集めたグレート・アントニオを新日本プロレスが16年ぶりに招聘、猪木とのシングル戦をマッチメイクした{{efn|アントニオは最初の来日時に日本での人気に増長した事で、同じく来日していた[[カール・ゴッチ]](当時、カール・クラウザー)、[[ビル・ミラー_(プロレスラー)|ビル・ミラー]](当時、ミスターX)、アイク・アーキンスらから反感を買い、試合や控室で激しい制裁を受け、スケジュール途中でカナダへ帰国している<ref>[[竹内宏介]]『プロレス醜聞100連発!!』P30・31より。</ref>。}}。新日本プロレスは、もともと招聘予定の無かったアントニオが突如来襲したという設定でシリーズ開幕戦に乱入させ、日本プロレス時代と同様のバス引きパフォーマンスを行うなどの話題作りを図ったが、当時52歳のアントニオは16年前より体力が衰えており、北米でも1971年を最後に試合を行っていなかった<ref>{{cite web|url=https://www.wrestlingdata.com/index.php?befehl=bios&wrestler=7898&bild=0&details=7|title=The Great Antonio|accessdate=2022-04-14|publisher=Wrestlingdata.com}}</ref>。折しも同時期、ライバル団体の全日本プロレスは[[世界オープンタッグ選手権]]を開催中で、話題を集めていた。 |
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: このような背景の下で始まった試合は、ゴングの後しばらくの間は猪木がアントニオのコミカルな動きに付き合おうとする姿勢を見せる。アントニオが猪木の背中に対して強烈なハンマー・パンチを数発見舞った直後、猪木は突如として怒り狂い、アントニオを[[ぶちかまし|タックル]]で転倒させると、その顔面に[[サッカーボールキック]]を連発。アントニオは鼻骨を折られ戦意喪失してKO負けとなった。結果として、アントニオ戦は猪木のレスラー史上最も凄惨なシュートマッチとして記憶されることとなった<ref>[http://murasakilg.blog64.fc2.com/blog-entry-56.html 【腕ひしぎ逆ブログ】特殊な団体 (1977)]{{出典無効|date=2024-04-18|title=単なる個人ブログ}</ref>。 |
: このような背景の下で始まった試合は、ゴングの後しばらくの間は猪木がアントニオのコミカルな動きに付き合おうとする姿勢を見せる。アントニオが猪木の背中に対して強烈なハンマー・パンチを数発見舞った直後、猪木は突如として怒り狂い、アントニオを[[ぶちかまし|タックル]]で転倒させると、その顔面に[[サッカーボールキック]]を連発。アントニオは鼻骨を折られ戦意喪失してKO負けとなった。結果として、アントニオ戦は猪木のレスラー史上最も凄惨なシュートマッチとして記憶されることとなった<ref>[http://murasakilg.blog64.fc2.com/blog-entry-56.html 【腕ひしぎ逆ブログ】特殊な団体 (1977)]{{出典無効|date=2024-04-18|title=単なる個人ブログ}}</ref>。 |
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; 1983年3月23日の[[藤原喜明]]対[[キラー・カーン]] |
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2024年4月18日 (木) 20:22時点における版
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語源・用例
ガチンコ 本来は相撲界の隠語で、語源は力士同士が激しく立合いを行った際、﹁ガチン!﹂と音がするところから、真剣勝負を表す隠語として使用されるようになった。八百長とは縁のない力士のことを、俗に﹁ガチンコ力士﹂と呼ぶ。 1950年代に力道山が角界からプロレス界に身を投じて以降、大相撲の慣習・文化が多数取り入れられた日本のプロレス界においても、同様の意味で用いられるようになった。 セメント ガチンコと同義。語の由来は接着剤﹁セメント﹂が﹁ガチガチ﹂に硬いことからなどとされているが定かではない。![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/06/LSQ_l.jpg/170px-LSQ_l.jpg)
概要
相撲
近代において相撲はスポーツであり、本場所での取り組みはすべて真剣勝負、つまりガチンコであることが建前上は当然とみなされている。これに対して、地方巡業などの本場所以外での花相撲ではあえてガチンコをとらず、無気力相撲ともとれる取り組みや地元出身力士に花を持たせるような取り組みが度々行われている。これは花相撲が興行的な側面が強いイベントであり勝敗も番付に影響しないこと、相撲がもともと過酷な格闘技であること、などの理由がある。昭和前期の大関名寄岩には﹁花相撲で部屋の横綱である双葉山に勝って師匠に怒られた﹂という逸話がある。 大相撲の真剣勝負性に関しては、そもそも格闘技で年90回︵十両以上は1場所15番×年6場所︶もガチンコで試合を行うというのはアスリートの肉体的に無理であり、それを行おうとすれば力士の生命に対する危険はより高くなってしまうという意見もある[1]。![]() | この節の加筆が望まれています。 |
プロレス
有名なシュート事件
セメントマッチ
- 1925年のウェイン・マン対スタニスラウス・ズビスコ
- 「マッチメイク破り」としては史上最古の例と伝わる。マンが勝つ筋書きになっていたところズビスコが「ブック破り」を行い、シュートの実力で劣るマンを一方的に攻め、フォールしてしまった。旧NWAの世界タイトルマッチの体で行われた試合での出来事であったためズビスコは関係者から危険人物とみなされるようになったが、一方で事情を知らない一般のファンからは多大な人気を集めた。この反省を活かして旧NWAはシュートに対応できる実力者を王者にするようになったと言われている[2]。
- セミファイナルでベテランジョバーのロン・ショーが、地元に凱旋した若手の二世レスラー(ブルーノ・サンマルチノの息子)であるデビッドをボディスラム7連発で一方的に叩きのめした試合。デビッドの起用法を巡るブルーノとビンス・マクマホン・ジュニアとの対立が遠因にあるともされる。WWFの全米進出を背景に、非常に高い知名度を誇るブルーノを現役復帰させるストーリーラインの最中に起きた騒動であり、1980年代のWWFでも屈指の不穏試合であると言われている。
- 1986年4月29日の前田日明対アンドレ・ザ・ジャイアント
- This section is an excerpt from 前田日明 対 アンドレ・ザ・ジャイアント戦.[編集]前田日明 対 アンドレ・ザ・ジャイアント戦︵まえだあきら たい アンドレザジャイアントせん︶は、1986年4月29日に三重県津市体育館で行われた新日本プロレスの試合である[31]。アンドレ・ザ・ジャイアントが前田日明︵UWF︶にセメントを仕掛け、応戦した前田が蹴りでアンドレを戦意喪失させて無効試合となった。 1986年6月3日のヒロ斉藤対橋本真也 ジャパンプロレスの一員として出戻りしてきたヒロ斉藤を、橋本が技を受けず蹴りまくり手の甲を骨折させたという。当時新日本プロレスには前年にUWF勢が復帰し、今度はジャパンプロレス勢が帰ってきたが、ドン荒川から﹁移籍のたびに大金を貰っている﹂などと吹き込まれ﹁新日本を一度出た人間が注目されることが許せなかった、試合前から今日はやる﹂と言っていたともされる。 試合後、ジャパンプロレス勢の控室から壁にドンドンぶつかるような音と怒声が聞こえていた。橋本は長州力とマサ斎藤の二人から制裁を受けて椅子で殴られていたという。なかなか収まらず、観客もリング上の選手もそちらに気を取られている状態となってしまった。橋本は鼻血を出してあおむけで倒れていたという。 1987年7月18日の神取忍対ジャッキー佐藤 ジャパン女子プロレスでプロレスデビュー間もない頃の神取忍が、同団体のエース格だったジャッキー佐藤との試合でシュートを仕掛けた。諸説あるが、両者の意見の食い違いが主な原因とされている。試合前に神取は﹁今日はジャッキーさんを30秒で倒す﹂﹁あっという間に終わらせたらお客さんに申し訳ないから、初めの5分はジャッキーさんに合わせる。だから5分30秒かな﹂とシュート予告ともとれる発言をしていた。 試合開始から数分後、神取が突然ジャッキーの顔面をパンチで殴り始める。ジャッキーは一旦場外にエスケープし、ここからセメントマッチが開始される。この際、異変に気付いたリングサイドのレスラーたちから﹁神取、何をやってるんだ﹂﹁やめろ﹂と怒声が上がり、観客からは﹁プロレスをやれ!﹂と野次が飛ばされる異様な状況に陥る。ジャッキーも神取の顔面にパンチを浴びせるなど応戦するが、さらに神取はジャッキーに対してアキレス腱固めや袈裟固めなどで執拗に攻め立て、最後はチキンウィングアームロックでギブアップを奪った。この試合はジャッキーが喫した生涯唯一のギブアップ負けである。後に神取は﹁関節技は全部本気で極めにいった﹂と明言している。試合終了後のジャッキーの顔面は無残に腫れ上がり、極められた腕は脱臼していた。ジャッキーはこの試合から程なくして引退しており、神取戦における惨敗が要因のひとつという評もある。 後年、インタビューを受けた神取は﹁ジャッキーさんの心を折るために仕掛けた﹂と語る一方、喧嘩マッチとして語り継がれていることに関して﹁あの試合は喧嘩じゃない﹂と述べている。また、最盛期のジャッキーを知る北斗晶は恐ろしい性格であるジャッキーを恐怖に追い込んだ神取は相当強いと感じたそうである。 1991年4月1日の北尾光司対ジョン・テンタ SWS神戸大会で北尾が全くテンタと手を合わせようとせず、目潰し︵サミング︶の構えをとるなどして威嚇した事件。結果としては何事も起きず未遂に終わっている︵裁定は北尾の反則負け︶。だがその直後に解説席のマイクを奪った北尾が﹁この八百長野郎!八百長ばっかりやりやがって﹂﹁お前ら、こんな試合見て面白いのか!﹂と暴言を発した。その後も控室に戻った北尾は椅子やテーブルを投げたり、マッチメイカーのザ・グレート・カブキと取っ組み合いの乱闘となったり、同席していたメガネスーパー社長夫人の田中由子にも暴言を吐くなど大暴れしたうえで﹁フリー!フリー!もう辞めた!!﹂と絶叫して会場を去ったとされる。 北尾の﹁八百長﹂発言は翌日のスポーツ紙は問題視する形で報道し、すぐにプロレス業界全体を巻き込む大問題へと発展した。この試合の2日前︵同年3月30日︶にも北尾とテンタは東京ドーム大会でのシングルマッチで対戦。北尾はフォール負けし、自身の試合が終わると、大会の全カード終了を待たずして会場から去ってしまう事件を起こしている。﹁八百長﹂事件後の一部週刊誌では、相撲時代の番付では遥かに格上の自分が、テンタ相手に﹁負け役﹂を喫する不満が募っていた事も事件の一因ではないかと指摘されている。北尾が荒れた遠因としてSWS団体内の派閥対立が背景にあり、特にエースであった天龍源一郎やマッチメイカーのカブキに対する不満を持つ関係者[注釈 4]が北尾を焚き付けたという説も取り沙汰されているが、真偽は明らかになっていない。 北尾本人は神戸大会の試合直後、周囲に対し意気揚々と﹁どうだ、盛り上がっただろう?﹂と話すなど、重大なトラブルを引き起こしたとは思っていなかった。だが、プロレス界全体を巻き込んだ影響の大きさから、この試合を最後に3日後の緊急理事会で北尾はSWSを解雇されている。当該事件から数年後、WARで再戦が行われたが、総合格闘家に転向していた︵当時PRIDEにも参戦している︶北尾は終始いきり立つ様子で試合を進め、格闘技然とした展開となってしまい呆気ない幕切れとなった。 1991年4月1日の鈴木みのる対アポロ菅原 上述した北尾対テンタ戦と同日カード。UWF系スタイルのレスリングである藤原組の鈴木に、元来のプロレススタイルである菅原側が自身の負けブックを飲まずセメント行為を仕掛けたという一戦。 試合開始直後から菅原の手四つに鈴木が距離を取って以降互いに退け合うようにし、鈴木は張手を、菅原は前蹴りを放ち、まともに組み合おうとしない展開になり、互いが距離を取って相手の様子を見るという状況が延々と続く。 鈴木はその行為に対して徐々にコーナーに追い詰められ、菅原に頭突きを見舞う一方、業を煮やした菅原の顔面に掌底攻撃で応酬。双方の反則攻撃により、まともに試合が成立しないほど泥沼の様相になった。レフェリーのミスター空中が間に入り注意をした所で、そのジャッジに呆れた菅原が一旦リングを降りて試合を中断するが、レフェリーは即ゴングを要請した。レフェリーばかりか、鈴木側も本人、セコンド陣営ともに菅原が仕掛けていると気づくが、鈴木は最後まで距離をとっての適当な打撃で取り繕い、結局シュートにシュートで対処できなかったことが露見した。試合放棄とされた菅原は後に罰金の処分を科された。 菅原は試合の3~4日前、新横浜の道場で偶然、メガネスーパー︵SWSの親会社︶の田中八郎社長と二人で会話する機会があった。田中から﹁菅原くん、今度の試合は楽しみにしてるから﹂と言われ、菅原が﹁社長、今度の試合は難しい試合になると思います﹂と答えると、田中は﹁どうして?おもいきり、やっつければいいんじゃないの﹂と返したという︵田中はプロレスの試合を真剣勝負だと思っていた︶。菅原自身は対戦相手に恨みはないが、当時の藤原組の選手たちは﹁自分たちは真剣勝負で強い﹂という発言をしばしば行っていたため、仮に自分が﹁プロレス﹂で鈴木に負けた場合、プロレス界の人間は額面通り結果を受け止めないが、裏事情を知らない田中やメガネスーパーの幹部たちに﹁真剣勝負で弱いやつ﹂とレッテルを貼られる、そのことを危惧したという。 1992年10月23日の高田延彦対北尾光司 日本武道館で行われた﹁格闘技世界一決定戦﹂と銘打たれたビッグマッチとして行われた試合。この試合は当初、時間無制限一本勝負を予定されていたが、﹁北尾の代理人﹂を名乗る人物が強硬な態度でこれを拒否し、試合直前になって3分5ラウンドの変則ルールに変更された。この他にも北尾側は理不尽な要求を繰り返し、試合直前になってもクレームをつけて試合放棄をほのめかしたため、交渉役を務めていた宮戸優光が北尾の控え室へ駆け込んでいき怒声を上げたという逸話が残されている。結局この試合はブックの了承も不透明なまま開始され、北尾は3ラウンド46秒に高田が放ったハイキックを顔面に受けダウン、KO負けを喫した。この試合ついては諸説あるが、本来は判定による引き分けに終わるはずだったにもかかわらず、無警戒の北尾に対して高田がハイキックを叩き込んでKOしたとされている[32][33]。この一戦は、過去の北尾の言動を快く思わなかったプロレスファンの溜飲を下げ、前田日明と比較して目立たなかった高田の名前を上げることになり、北尾に対する幻想は大いにそがれることとなった。 1993年のジェンヌゆかり対遠藤美月 当時LLPW︵現:LLPW-X︶のキャラクター路線で一定の人気を得ていたジェンヌゆかりが、宝塚風のキャラクターで再デビューとなった遠藤との一戦。試合途中から遠藤がシュートを仕掛け一方的にジェンヌを蹴り上げる事態に発展。明らかにジェンヌは戦意喪失していたが遠藤の攻撃は収まらず完勝に終わる。日頃から団体のエンターテイメント路線に反発していた遠藤に対し、同じ格闘技路線のジェンヌがキャラクターレスラーへの転向を受け入れ、ファイト内容も再デビュー前と変わらず精彩を欠いた事による戒めと思われる。ジェンヌの再デビューは、テレビ番組とのコラボレーション企画で、当日セコンドに立っていた番組出演者と遠藤が一触即発となる事態となり企画も打ち切りとなった。 1993年の北斗晶対神取忍詳細は「北斗晶 対 神取忍戦」を参照1993年4月2日の横浜アリーナおよび、同年12月6日の両国国技館の2大会で行われた試合。この試合は当初からシュートと公言していたため、セメントマッチの中でも女子プロレス史における伝説の名勝負となった珍しい例である。 1993年12月4日のウィリー・ウィルキンス・ジュニア対アステカ ルチャ・リブレのみちのくプロレスで、シュートマッチにこだわるアステカに対し、主宰であるザ・グレート・サスケは呆れ果て、UWF参戦経験があるウィルキンスJrとシュート形式での10分ポイントマッチを組んで行われた試合。結果アステカは10分内に5度もギブアップさせられる羽目になる。 1994年7月14日の前田日明対ディック・フライ RINGS大阪府立体育会館大会のメインイベントの一戦。試合開始1分が経過した辺りで、フライが前田に対し掌底をラッシュで浴びせていく。その際、前田の目をめがけてフライが故意に指を入れたと感じた前田は逆上し、フライに対し掌底ラッシュで反対側のコーナーまで追い詰めダウンさせた。起き上がり再び前田の顔面に掌底を向けるフライに前田の怒りは収まらず、逆にフライを滅多打ちにして倒すと、グラウンドに移行して足の逆捻りでギブアップを奪う。わずか174秒での勝利となったが、前田はさらに敗者の背中を踏みつけ、うずくまったままのフライに怒号を浴びせた。この行為にハンス・ナイマンらフライのセコンド陣がリング内に入り、あわや乱闘寸前となる。その後もナイマンが前田の控室に入っていくなど緊迫した場面を見せていた。前田は試合後﹁10年ぶりにキレた﹂と語っていた。 後に、リングの魂やリングスのネット番組でおけるの前田の証言によると、試合序盤から反則のサミング攻撃を仕掛けてきたので、それに対応すべくフライをボコボコにして倒したという。その際のフィニッシュホールドは﹁フッキング﹂の一つでカール・ゴッチ直伝の殺し技だとし、技が完全極まるとひとたまりもなく、即ギブアップするという。このときは緩めて使っていたというが、普段は自主的に禁じ手にしていたという。 ただし、ターザン山本はこの試合について﹁ブックである﹂とKAMINOGE誌のインタビュー上で言及している。 1997年10月の川田利明対高山善廣 日本武道館におけるセミファイナルでの両者2度目のシングルマッチ。二人は周囲に明かさず﹁最初の5分はシュ-トで﹂と、事前に申し合わせていた。当時﹁U系は大したことない﹂と頻繁に発言していた川田が高山は癪に障り、それならと持ち掛けたとされている。 開始5分頃まではスタンドで高山の一方的な展開に対し、リング下にエスケープする川田という展開が続く。 6分を過ぎた辺りで初めてロックアップを組み、以後プロレスの試合に移行。結果川田がフォール勝ちしている。試合後の川田は高山に対して﹁蹴りは全然効いていないし高山とはこれで終わりにしたい﹂とコメントしたが、シュ-トで圧倒された川田は、わだかまりがあったのかその後の後楽園ホールにおけるシングルマッチでの再戦で高山をノックアウトする。これは川田の一方的なブック破りでシュートを仕掛けたとされ、先の一戦が絡んでいると言われている。 1998年2月9日のビル・ゴールドバーグ対スティーブン・リーガル WWFとのマンデー・ナイト・ウォーズが佳境に入っていた1998年、WCWはWWFのアティテュード路線に対抗するため、ゴールドバーグを﹁無敵の超人﹂として売り出し始めた。連勝記録を重ねるゴールドバーグに対してジョバーとして短時間で敗戦するようWCWに命じられたリーガルは、WCWマンデー・ナイトロで組まれたシングルマッチで、ゴールドバーグにシュートマッチを仕掛けた。 エルボー・パッドを強烈にヒットさせ、ロープワークを拒否し、得意のグラウンドレスリングでゴールドバーグに一矢報いようとするリーガルであったが、未知の試合展開に対するゴールドバーグの適応力も素晴らしく、寝技や関節技の攻防でも次第にリーガルと互角の勝負を見せるようになっていった。そして最後にはスピアーからジャックハマーへ繋ぐフィニッシュ・ムーブをリーガルに決め、ゴールドバーグが辛くも勝利を収めた。 他のシュートマッチと比較すれば、割合まともな試合展開を辿った一戦ではあったが、WCWはブックに定められたワークを越えてゴールドバーグに激しい攻撃を加えたリーガルの態度を問題視し、この一戦の後にリーガルを解雇、リーガルはWWFへと移籍する結末となった[34]。 1999年1月4日の小川直也対橋本真也 ライバル抗争を繰り広げられていた橋本真也に対し、小川直也が執拗な顔面へのパンチ︵プロレスで顔面パンチは反則行為である︶や、倒れた橋本の頭部を思い切り踏みつけるなどの攻撃を繰り返した試合。橋本も小川に対して反則技である脊椎への攻撃を仕掛けるなど報復を行った。 一方的に攻撃を受け続けた橋本はKO︵裁定は無効試合︶され、直後に小川が挑発的な言動を行ったことから場内は騒然となった。これにより試合後、両選手のセコンド同士による大規模な乱闘が発生。小川のセコンドをしていた村上和成は、飯塚高史に顔面を踏まれ一時昏睡状態に陥るほどの大怪我を負う。さらに事態は紛糾し、当時の現場監督の長州力が小川に詰め寄り怒声を上げる姿がテレビで放映された。この際に長州は小川に対して﹁これ(シュートで橋本を潰す行為)がお前のやり方か!﹂と繰り返した。また、橋本がKOされた際にゴングを鳴らしたのはリングアナの田中秀和の独断によるものである︵﹁何とか収拾を付けたかった﹂と本人が後に語っている︶。 なお橋本は試合後の検査で鼻骨を骨折していたことが判明し、長期離脱を余儀なくされた。 2000年8月5日の垣原賢人対大森隆男 同日に旗揚げしたプロレスリング・ノアのセミファイナル6人タッグマッチ﹁小川良成&垣原賢人&池田大輔VS大森隆男&高山善廣&浅子覚﹂内での出来事。全日本プロレス時代のユニット﹁アンタッチャブル﹂と﹁ノーフィアー﹂の抗争を引き継ぐ形での対戦であり、この試合が首の怪我からの復帰戦でもある垣原はオープンフィンガーグローブを着用して登場した。試合開始からしばらくして垣原と大森が対峙したが、試合権を得た垣原は組み合おうとせずにボクシングの構えを見せ、コーナーポストに大森を追い詰めてボディブローから顔面ストレートの連発を放った。対する大森は技を受けたまま面食らった様子で全く応戦出来ずにいたが、自らタッチしてリングに入った高山が﹁そうくるなら。﹂と頷き、両腕を構えて打撃戦を繰り広げた。かつてUWFインターナショナルの先輩後輩の関係でもある両者とそれを彷彿とさせる展開に場内は沸いたが、その後も垣原は大森のみならず、高山や浅子にも一方的な打撃を貫いた他、パートナーである小川や池田との連携に加わらないなどの動きが目立った。結果は垣原が浅子からギブアップを奪い取ったが、レフェリーからの勝ち名乗りも拒否し、1人で早々と退場。試合後のインタビューでは﹁苦しい練習をやってきた成果を見せる手段と言うのが(オープンフィンガー)グローブだっただけ。これからはもっと上を目指します。﹂と語るも、翌日の旗揚げ第2戦には出場せず、そのまま垣原はこの1試合のみでノアを退団した。 引退直前にインタビューで語ったところによれば、試合後大森から﹁悪いけど僕にはああいうのは出来ない﹂と言われたことに失望し、退団を考えるようになったという。また、2015年に垣原が執筆した自伝において退団の経緯が触れられており、全日本プロレスを負傷欠場中に三沢光晴を中心とする選手大量離脱騒動が発生したのが事の発端であった。ノア旗揚げを迎えるにあたって自身のスタイルの確立に悩んでおり、打開策としてかねてから切望していたマスクマンへの変身を決意。オープンフィンガーグローブによる打撃もその構想の一環として組み込んだ。マスクデザインやリングネームも事前に用意した上でアイデアを直談判し、三沢をはじめとする当時のフロント陣からは却下されたが、それ自体に対する反発心はそれほど起こらなかった。一方、幼少期から快く思っていなかった父親との間に確執が生じていた事やリングに集中出来る環境を望んだにもかかわらず所属団体の分裂や解散が相次いだ事、そして前述の怪我による欠場があった事なども含めて、プロレスラー廃業を検討するまでに追い詰められており、旗揚げ戦の試合には参加したものの、翌日以降は再欠場したまま退団に至った。垣原はこの事について自暴自棄に陥っていたとする上で、﹁どんな個人的事情があったとしても、社会人としてあるまじき行為だった。﹂と自省する一文を残している。所属選手1人ずつには電話で別れの挨拶をし、快く思わない人間も多かった為、たった5秒で電話を切られたりもしたが、ジョー樋口は﹁この業界は狭いからまた何処かで一緒にやる事もある。辞める事は気にしなくていい。必ずまた会える。﹂と励まし、三沢も親身になって相談に乗り、退団に関しては﹁旅に出すようなもの。﹂とコメントして咎めなかっただけでなく、垣原の引退試合には花束を届けている[35]。 垣原は後に古巣・全日本への復帰を経て、新日本プロレスに入団。現役引退まで当団体の所属選手として活動を継続したが、2006年には大森が新日本に参戦。試合上での両者の直接的交流は無かったが、その後も頸髄完全損傷の重傷を負った高山の支援興行に垣原、大森それぞれが参加するなどしている。 2004年11月4日のダニエル・ピューダー対カート・アングル 2004年10月、WWEの第4回タフイナフチャレンジで優勝し、WWEとの契約を獲得した総合格闘家ダニエル・ピューダーは、2004年11月4日ミズーリ州セントルイスでのスマックダウンに参加。そしてスマックダウン内リアリティーショーのタフイナフで発生。 カート・アングルと対戦した際ピューダーは急遽アングルにシュートマッチを誘われ、ガードポジションからのキーロック︵ダブルリストロック︶を極めるも、異変に気づいたレフェリーがピューダーの肩がマットに着いていると判断し素早く3カウント、ピューダーのピンフォール負けを宣言したもの[36]。 かつてのアメリカのアマチュアレスラーで1996年アトランタオリンピックレスリング金メダリストのアングルがスクワットスラスト競争でのファイナリストの挑戦をうけることになっていた[37][38]。クリス・ナウロッキが競争に勝つが、ナウロッキの勝利者賞はアングルとの対戦であった[39]。アングルはギロチンチョークでナウロッキを素早く倒したが、ナウロッキはなんとかロープにたどり着き、ホールドを破らせた。アングルはその後、ダブルレッグテイクダウンでナウロッキを倒して肋骨を骨折させた[39]アングルは、ナウロッキに別のギロチンチョークを仕掛け、その過程で彼を極めた。アングルがナウロッキを破った後、マイクをつかんで他のファイナリストからの挑戦をあおった[39]。会場にいた総合格闘家であるピューダーは、アングルの挑発に乗った[39][40]。 アングルとピューダーはポジションを争い、アングルはピューダーをテイクダウン。しかしその過程でピューダーは下からキムラロックでアングルの腕のロックを試みた[38][39][41]。ピューダーは覆われる形でアングルの腕をキムラに閉じ込めた状態となるが、角度的にダウン状態のピューダーの肩がマットに付いていることで、実際にはピューダーの肩が完全にマットに付いていなかったという事実があったにもかかわらず[38][39]、二人の審判のうちジム・コーデラスはすぐに試合を終了させるためにここで3カウントを宣言[38][39][41]。 ピューダーは後に、このときコーデラスが試合を終わらせなければ、アングルの腕折を全国テレビで放映したであろうと主張[39]。デイブ・メルツァーは﹁これは本気でした。終わらせようとピューダーはアングルに木村ロックを仕掛けていく。審判のうちタズはキーロックをかけにいったとき、ロック許可しませんでしたが、完全に実行されました。こうなったらアングルが動きから抜け出せなかっただけでなく、ほとんどのMMAファイターはすぐにタップしていたでしょうが、明確にアングルはタップできませんでしたので、ピューダーの肩が完全についていなくてもカウントは3を数え、物事を終わらせようとしました。なぜなら、アングルへのロックが数秒長くなったり、ピューダーがホールドをあきらめなかった場合、アングルは手術室の中であったはずだからです。﹂とし[38]、デイブ・シェラーは﹁ご想像のとおり、カート・アングルは、タフイナフの出場者であるダニエル・ピューダーにタップアウトするような状態を余儀なくされた後、スマックダウンの舞台裏に満足していませんでした。番組でなんどもチェックマークが付いているのは、おそらく彼の気分を説明するための最良の方法なのでしょう。コンテストは台本のない性質上ピューダーも状況に対処できず、審判がすぐに考えずにピューダーにわからないようピンフォールを数えたが、アングルの状況がこのとき非常に見栄えが悪くなったので、この場合強制的に終わらせる必要があったのが主な理由でした[38]。﹂とコメントをしている。 ピューダーは2005年9月、WWEのコスト削減を理由に解雇され、総合格闘技へ復帰した。 2010年9月25日の鈴川真一対マーク・コールマン イノキ・ゲノム・フェデレーション︵IGF︶で起きた鈴川真一のデビュー戦。コールマンが途中で戦意喪失、テクニカルノックアウト負けとなった一戦。コールマンは開始しばらくするとスタミナ切れを起こす。鈴川は再三に渡り平手打ちでコールマンを追い詰め、コールマンもその都度鈴川を下半身タックルでテイクダウンしたがその後が続かず、鈴川にダメージを与えることは出来なかった。最終的にグラウンドでコールマンは手を振って試合をあきらめた。敗れたコールマンは試合後にリング外に向かって中指を立て、控え室で荒れ狂っていたという。 この試合について、コールマンのセコンドとして帯同していたフィル・バローニによると、コールマンは決め技をヘッドロック・チョークで、試合時間も3分で勝つことになっていたといい、コールマンが後に明かしたところによると、本来であればIGF12月大会でも対戦して、星を分け合う予定だったとされる。結局試合は鈴川に対して最初から何もできず3分経過しても鈴川はタップせず、そのまま試合が続けられシュートに転じたという。ちなみに、コールマンは12月の大会には別の選手と対戦する。 IGF幹部のサイモン・ケリーも、Dropkickメールマガジンで、当然鈴川を売り出したいけどもコールマンも名前があってやはり売り出したかった。ところが鈴川はデビュー戦であり、宮戸優光にも仕向けけられ、がむしゃらにやるしかない一方、コールマンはプロレスがわかっていないし、相手の鈴川も緊張していてわからないだろうと高をくくった上、コンディションも作っていなかったとしている。さらに試合後にはこうなるなら最初からやっていたと、約束破りを抗議していたという。 一方で宮戸優光・GMはkamipro152号でのインタビューでは、あの試合は鈴川選手が必死にプロレスで闘ってコールマンに勝った試合、それだけであるとした[42]。 2011年4月28日のジェロム・レ・バンナ対鈴川真一 IGFのチャンピオンシップトーナメント一回戦として行われた一戦。K-1ファイターのバンナが、元幕内力士の鈴川の、張り手やタックルを全てかわしパンチやキックで計六回のダウンを奪い、最後は右フックで鈴川を失神させてKO勝ちした試合。この試合はバンナ側の要求と鈴川側の要求が合わず、KO、ギブアップのみにより勝敗の決まる異種格闘技ルールで行われた。 2012年12月31日の藤田和之対小川直也 IGFのリングでの両者オープンフィンガーグローブを着用しての一戦。ところが序盤から小川が攻勢で藤田がリング下に落ちると、そこで小川はグローブを外して挑発。藤田もグローブを脱ぎ捨て再開。その後は藤田がテイクダウンを奪い、パンチを振り下ろすところでレフェリーストップとなった。小川は試合後のコメントで藤田にシュートを仕掛けたとし、その後にブログでも仕掛けたことを強調する。小川のこうした行為に対し藤田は、以前の橋本戦同様にアントニオ猪木が仕向けたと激怒した。 2015年2月22日の世IV虎対安川惡斗 スターダム後楽園ホール大会のメインイベントで行われたワールド・オブ・スターダム王座のタイトルマッチで王者の世IV虎︵現‥世志琥︶に対し、挑戦者の安川が世IV虎の顔面付近を殴ったことに世IV虎が激昂し、報復で安川の顔面を拳打で執拗に攻撃し、安川が闘う意思を見せていたためレフェリーの和田京平は試合を止めず続行させた[注釈 5]が一方的な展開が続き、危険を察知した和田の指示と安川のセコンドを務めた木村響子の判断でタオルを投入し、世IV虎のTKO勝ちとなった試合。試合後に安川は都内の病院に救急搬送され、頬骨、鼻骨、左眼窩底骨折、両目の網膜振盪症の診断が下された。専門誌でも顔面を負傷した直後の安川の写真が﹃週刊プロレス﹄の表紙になった。 後日、この試合は世IV虎のTKO勝利から無効試合に変更され、顔面への過剰な反則攻撃を行った世IV虎はタイトル剥奪及び無期限出場停止の処分を受けた後、自ら引退した。負傷した安川も一時復帰をしたものの怪我の回復が思わしくなく、ドクターストップがかかり引退し、両者ともに後味の悪い幕切れとなった︵なお、両者とも後に他団体で復帰した︶。この試合に関しては、世IV虎の行為はもとより、明らかに実力差のあった選手同士に対してタイトルマッチを組み、なおかつ調印式の段階で険悪な状態が露見していたにもかかわらず試合を強行したロッシー小川を筆頭とするフロント陣に対しての批判や、危険な状態になっていたにもかかわらず、タオル投入まで試合を止めなかったレフェリーの和田に対しての批判も起きた。一方でこの試合の中継解説を務めたブル中野は、相手の安川についても試合をせず相手に一方的にシュートを仕掛けていたと中継内で述べている。 後日フロントによる聞き取り調査で﹁入団当初から両者は仲が悪く、今回の挑戦や映画など最近の安川の抜擢が非常に面白くないことを世Ⅳ虎が漏らしていた﹂とされ、﹁仕事に身勝手な私情を持ち込みレスラーは元より一社会人としても問題がある﹂と社会的に問題視される事態となった。 2017年3月19日の宮本和志対蟹K★ING ローカル・インディー団体であるアップルスター・プロレスリング新木場1stRING大会の第5試合として組まれた一戦。メジャー団体である全日本出身の宮本に、社会人プロレス団体である信州プロレス出身の蟹K★INGが挑むという、両者の実力差が極端に大きな構図の下に組まれた試合であった[44]。宮本は蟹K★INGが日頃からSNSで発信しているプロレスに対する態度に怒りを露にしており、試合前から﹁制裁試合にする﹂と公言している状況であった[45]。 試合開始直後、蟹K★INGは宮本にドロップキックで奇襲するが宮本は難なくこれをかわし、倒れこんだ蟹K★INGにヘッドロックを極めながら覆面を剥ぎ取り、強烈なサッカーボールキックを顔面に連発、水平チョップを喉元に叩き込み、明らかに受身が取れない角度でパイルドライバー、DDT、垂直落下式ブレーンバスターと畳み掛け、最後はボストンクラブでギブアップを奪う一方的な試合となった[46]。 宮本は﹁プロレスは明るく楽しい試合だけじゃなく、激しく戦うものである事を教える為であった﹂とマイクパフォーマンスで述べていたが、試合後の蟹K★INGの顔面は無残に腫れ上がる、凄惨なシュートマッチとなってしまった。 2018年1月28日のブロック・レスナー対ブラウン・ストローマン対ケイン ロイヤルランブルメインイベントのWWEユニバーサル王座トリプルスレット戦で合序盤、ストローマンの膝がレスナーの右耳に大きくあたった直後にレスナーが怒ったのか、強烈な右フックのカウンターをストローマンに見舞った。WWEでは通常顔面への打撃は事故を除いて禁止されているのだが、大変珍しいかつPPV放送ということもあり、実況陣は放送中何度もリプレイした。その後は特に両者目立ったことはなく、レスナーがケインにF5を見舞って勝利した。
ストーリー破り
カーテンコール事件 1996年5月19日、WWFの興行でバックステージの派閥グループクリックのメンバーが行ったストーリー破り。この事件当時スコット・ホールとケビン・ナッシュはWWFを離れてライバル団体のWCWに移籍することが決まっていた。この日のメインイベントで、ベビーフェイスのショーン・マイケルズは、ヒールのナッシュとのケージマッチを戦った。試合が終わるとすぐに、リングに上がったホールはマイケルズを抱擁した。ここまでは、両者ともにベビーフェイスであったため問題がなかった。しかしその後、マイケルズはリング上に横たわっていたナッシュにキスし、アンダーカードでヒールとして試合をしたハンター・ハースト・ヘルムスリー︵トリプルH︶もリングにやってきてマイケルズやホールとハグを交わした。最終的には敗れてマットに倒れていたナッシュも加わり、4人で観客に向けて﹃カーテンコール﹄を行った。 彼らのカーテンコールの行動は、当時、ベビーフェイスとヒールの関係は現実のもので彼らはリングの外においても友人ではないという幻想を維持したいと考えていたWWF首脳陣を憤慨させた。さらにWWF経営陣は、この興行をカメラで撮影していたファンがいたことを予期していなかった。この撮影テープは、翌年の1997年10月6日のロウ・イズ・ウォーで、マイケルズとヘルムスリーが、ビンス・マクマホンを怒らせる意図でストーリーライン上で使用された。マイケルズは当時WWF王者で、団体のトップスターの1人であったために罰せられなかった。ホールとナッシュはすぐにWCWに去ったため、残ったヘルムスリー1人だけに罰が下され、メインイベントのタイトルマッチを外されて前座の試合でジョバー役を回されるようになった。しかし彼は、この5ヶ月後にはWWF・IC王座を手に入れる。 モントリオール事件 1997年11月9日のWWFの特番サバイバー・シリーズでのブレット・ハート対ショーン・マイケルズのWWF王座を賭けた試合で起こったストーリー破り。通常セメントマッチ及びストーリー破りは試合中にレスラーが行うものであるが、当事件は﹁団体側による﹂ストーリー破り︵スキャンダルに巻き込むことでストイックなブレットの商品価値を落とそうと企んだ︶という点が特徴。事件の衝撃は大きく、絶対的な悪名を得たチェアマンのビンス・マクマホンとそれには歯向かう荒くれ者スティーブ・オースチンの抗争をはじめとするアティテュード路線がさらに推し進められることとなり、後のアメリカプロレス史に大きな影響を与えた。脚注
注釈
(一)^ 契約違反による莫大な違約金、メインイベンタ―からの降格、団体からの解雇等。下記のとおりヒロ斎藤の手を意図的に骨折させた橋本真也は長州力とマサ斎藤から袋叩きにされ、長州力への﹁顔面蹴撃事件﹂を起こした前田日明は新日本プロレスを解雇されている。 (二)^ バレンタインが拒否した理由として、既に日本プロレスを離脱していた猪木が事前にバレンタインと極秘裏に接触し、坂口離脱の経緯をバレンタインに説明していたことも背景にあった。 (三)^ アントニオは最初の来日時に日本での人気に増長した事で、同じく来日していたカール・ゴッチ︵当時、カール・クラウザー︶、ビル・ミラー︵当時、ミスターX︶、アイク・アーキンスらから反感を買い、試合や控室で激しい制裁を受け、スケジュール途中でカナダへ帰国している[26]。 (四)^ ドン荒川、若松市政などの可能性が指摘されている。 (五)^ 和田は後日メディアの取材で﹁選手権試合﹂であったことや、安川の試合継続の要望を尊重した事、さらに安川の状態をメディカル・チェックさせようとしたが、本部席にドクターが在席しておらず、TKOの判断が即座に付かなかったことを理由に述べている[43]。出典
(一)^ 鈴木貴博 (2018年10月4日). “貴乃花問題で誰も触れない横綱のリアル寿命”. 東洋経済ONLINE. 東洋経済新報社. 2024年4月19日閲覧。 (二)^ ミスター高橋﹃知らなきゃよかった プロレス界の残念な伝説﹄宝島社、2018年。ISBN 9784800289216 pp.206-207 (三)^ ﹃日本プロレス史の目撃者が語る真相!新間寿の我、未だ戦場に在り!<獅子の巻>﹄︵ダイアプレス、2016年︶p14 (四)^ ﹃木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか﹄P.550 (五)^ ﹁Gスピリッツ﹂Vol.17 (六)^ 週刊実話 (2020年2月23日). “プロレスラー世界遺産 伝説のチャンピオンから未知なる強豪まで── ﹁ケンドー・ナガサキ﹂ケンカ最強伝説とともに天に召された“剣道鬼””. リアルライブ. アンカード. 2024年4月19日閲覧。 (七)^ 坂口征二 (2022年12月28日). “昭和48年4月1日ついに猪木さんと合流︻坂口征二連載#20・最終回︼”. 東スポnote. note. 2024年4月19日閲覧。 (八)^ “JWA 1973 Dynamic Series” (英語). puroresu.com. 2022年11月1日閲覧。 (九)^ 竹内宏介﹃プロレス醜聞100連発!!﹄P118・119より。 (十)^ Gustl Kaiser « Wrestlers Database « CAGEMATCH - The Internet Wrestling Database (11)^ ab﹃Gスピリッツ Vol.21﹄辰巳出版、2011年。ISBN 4777809463。、P7。 (12)^ Internationaler Berufsringkämpfer Verband [International Pro-Wrestling Association (Germany & Austria)] - Pro-Wrestling Title Histories: championship lineages and more (13)^ [1] - Wrestlingdata.com (14)^ [2] - Wrestlingdata.com (15)^ [3] - Wrestlingdata.com (16)^ 竹内宏介﹃プロレス醜聞100連発!!﹄P130・131・134より。 (17)^ PROWESTLING ALBUM2 アントニオ猪木格闘技世界一決定戦. ベースボールマガジン社. (1986-10) (18)^ ab 別冊宝島EX//格闘技死闘読本 ﹁最強﹂を求めた愚か者たちの、荒ぶる魂の伝説!. 宝島社. (1994). ASIN B00K24HZES (19)^ “昭和の新日本プロレス映像記録”. livedoor Blog. 2023年2月10日閲覧。 (20)^ ﹃Gスピリッツ Vol.60﹄P51︵2021年、辰巳出版、ISBN 4777827720︶ (21)^ ab﹃完本 1976年のアントニオ猪木﹄P322-323 (22)^ ﹃完本 1976年のアントニオ猪木﹄P470 (23)^ ab﹃完本 1976年のアントニオ猪木﹄P326 (24)^ ab﹃完本 1976年のアントニオ猪木﹄P327-329 (25)^ ﹃Gスピリッツ Vol.30﹄P10︵2014年、辰巳出版、ISBN 4777812669︶ (26)^ 竹内宏介﹃プロレス醜聞100連発!!﹄P30・31より。 (27)^ “The Great Antonio”. Wrestlingdata.com. 2022年4月14日閲覧。 (28)^ ︻腕ひしぎ逆ブログ︼特殊な団体 (1977)[出典無効] (29)^ 蒙古の怪人キラー・カーン自伝 辰巳出版 (30)^ https://smart-flash.jp/sports/73549/ (31)^ あの前田×アンドレ戦も 名会場・津市体育館、閉館へ朝日新聞 2017年8月30日 (32)^ ︻追悼︼“真空飛び膝蹴り”沢村忠はリアルに弱かったのか? 全241戦﹁フェイク試合だった﹂疑惑を検証する (33)^ ただし、双葉社﹃俺たちのプロレスVol4﹄︵2015年︶のインタビューではフロント代表の鈴木健氏が、高田―北尾戦は両者の間で打撃はシュート︵本気︶でOKという話で決まったと話している。 (34)^ 伝統を継承する英国紳士の卓越した順応力/ウィリアム・リーガル︻俺達のプロレスラーDX︼ - ジャスト日本のプロレス考察日誌 (35)^ 垣原賢人﹃Uの青春~カッキーの闘いはまだ終わらない﹄(2015年8月13日、廣済堂出版) (36)^ PUDER WANTS REAL FIGHT WITH KURT ANGLE - mmaweekly.com、2006年10月26日、2010年5月23日閲覧。 (37)^ “SmackDown ? November 4, 2004 Results”. Online World of Wrestling. 2022年4月10日閲覧。 (38)^ abcdefThe PWInsider.com Staff (2005年1月3日). “2004: The Year in Review”. Pro Wrestling Insider. 2011年8月15日閲覧。 (39)^ abcdefgh“Reality show contestant schools Angle”. Template:Cite webの呼び出しエラー‥引数 accessdate は必須です。[リンク切れ] (40)^ アングルはこのときピューダーを﹁UFC野郎﹂と言っていることから、ピューダーが格闘家であることは認識している (41)^ ab“Online World of Wrestling ? Wrestling Columns ? Online World of Wrestling Fan Jam 11/2004 ? Short Columns by Obsessed Fans”. 2022年4月10日閲覧。 (42)^ ﹁あの試合は﹃プロレス﹄であり、︵中略︶シュートだなんだというつもりはないですけれど、コンディションができてなければヘバってしまう。いいのを一発もらったら負けてしまうこともある。それがプロレスのリングであり、そこで出た結果が全てだから﹂ (43)^ 和田レフェリー 世IV虎に苦言 - デイリースポーツ online 2015年3月11日 (44)^ 3/10︻アップルスター︼3・19新木場で史上初の棺桶爆破決定 グラドル・渡瀬茜が大仁田抹殺を宣言︵プロレス/格闘技DX︶ - dメニューニュース︵NTTドコモ︶ (45)^ 昨夜忘れられない一戦は - A-TEAM HASEGAWA の人生100% (46)^ (試合結果)︽アップルスター︾︽Spring Festival︾︽東京・新木場1stRING︾(2017/03/19) - 週刊プロレス
関連項目