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日本最大の[[ケーブルテレビ]]局である同社が相模原市全域をカバー。 |
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市内南部の一部地域にサービスを提供。 |
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== 姉妹都市・提携都市 == |
== 姉妹都市・提携都市 == |
2006年1月14日 (土) 08:29時点における版
さがみはらし ![]() 相模原市 | |
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国 |
![]() |
地方 | 関東地方 |
都道府県 | 神奈川県 |
市町村コード | 14209-3 |
法人番号 | 1000020141500 |
面積 |
328.91km2 |
総人口 |
724,098人 [編集] (推計人口、2024年6月1日) |
人口密度 | 2,202人/km2 |
隣接自治体 | 東京都:町田市 |
市の木 | ケヤキ |
市の花 | アジサイ |
他のシンボル |
市の鳥:ヒバリ 市の色:緑 |
相模原市役所 | |
市長 | 本村賢太郎 |
所在地 |
〒229-8611 神奈川県相模原市中央2丁目11番15号 |
外部リンク | 相模原市 |
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ウィキプロジェクト |
相模原市︵さがみはらし︶は、東京都心から電車で約30分。神奈川県北部にある人口約63万人、全国第20位、神奈川県内では第3位、全国の政令指定都市及び候補市︵市町村合併の結果人口が70万人を越えた市︶を除くと全国第3位の市。2003年4月1日、中核市昇格条件の緩和︵規定人口以上による条件※面積条件免除︶により中核市として指定を受ける。2004年、津久井郡城山町、津久井町、藤野町、相模湖町との合併が提案され、協議会が設置された。城山町、藤野町が反対により協議会を脱退したのをきっかけに、相模原市、津久井町、相模湖町の1市2町による﹁飛び地合併﹂に向けての協議会が設置され、3度の協議の結果反対派を賛成派が上回り、2005年3月14日に合併が可決された。合併の期日は2006年3月20日で、新市名称は相模原市。﹁新﹂相模原市は横浜市に次ぐ神奈川県2位の面積となり、人口は約67万人になると予想されている。一度、脱退した城山町、藤野町とも合併協議会を再開し、1市4町での合併も2つの法定合併協議会にて検討されている。1市4町で合併した場合、人口は約72万人となるため、政令指定都市化への道も視野に入れた合併と見られる。
地理
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/42/%E7%9B%B8%E6%A8%A1%E5%8E%9F%E5%B8%82%E8%A1%9B%E6%98%9F%E5%86%99%E7%9C%9F050.jpg/220px-%E7%9B%B8%E6%A8%A1%E5%8E%9F%E5%B8%82%E8%A1%9B%E6%98%9F%E5%86%99%E7%9C%9F050.jpg)
相模川左岸の相模原台地上に位置する。全体に平坦だが、ゆるやかな勾配で、河岸段丘により上段・中段・下段に分かれる。多摩丘陵の延長でもある。
隣接する町田市との経済的、地理的、文化的関わりが深く、共に業務核都市に一つの都市として指定されている。近年、東京都心へ約30分で行けるその交通の利便性から、東京のベッドタウンとしての人気が高まり人口が爆発的に伸びる。特に20代、30代、50代周辺の人口が多く、市全体を活気ある雰囲気にしている。その反面、市内には相模原公園や相模原北公園をはじめとした大規模な公園が点在していることや、比較的自然な環境が近いことなどから若年世帯を中心とした人口の流入が続いている。人口増加率は、周辺都市と比較しても突出している。また近隣の町田市や八王子市に比べて人口や人口密度が抜きん出ている。市内に大学が多いことや、周辺都市の大学も相模原市内の駅を最寄とする場合が多いため、学生の街としての顔も併せ持つ。また、市内には宇宙航空研究開発機構(JAXA)宇宙科学研究本部相模原キャンパス︵開所時は宇宙科学研究所︶があり、日本の宇宙科学の研究拠点として知られる。
地形
相模原台地は相模川が作った扇状地が隆起して形成された洪積台地である。西側の相模川に沿って、気候変動や海水面の変化によって形成された河岸段丘が発達している。
大きく3段に分けられる段丘面のうちでは上段︵相模原面︶が最も広く、市域の半分以上を占める。平坦ではあるが水に乏しく、利用が進まずに原野が広がっていた。相模原または相模野とは、主にこの原野について呼んだものである。江戸時代以降に行われた新田開発によって畑と雑木林の広がる景観となった。日中戦争下、1930年代に軍事施設︵当市域では主に陸軍︶が相次いで進出し、北部では軍都計画と呼ばれる大規模な都市計画に基づく区画整理事業が行われた。1945年の敗戦によって都市建設は中断したが、1960年代以降急速な都市化が進行した。現在では旧軍都計画区域を中心とする北半部および南東部の小田急線沿線はほぼ完全に市街化しているが、南西部の麻溝台・新磯野地区には農地が広がっている。なお、旧軍施設の中には戦後米軍に接収されたものも多く、現在も返還されていない区域が現市域面積の約5%を占める。
市内下九沢から上溝を経て下溝まで上段と中段︵田名原面︶の境をなす段丘崖は横山と呼ばれる。ハケとも呼ばれる段丘崖の湧水を水源に鳩川、姥川、道保川が段丘崖に並行して南東へ流れるが、これはかつて相模川がこの堆積面上を流れていたときの流路跡であると考えられている。
下段︵陽原﹇みなばら﹈面︶は3段の中では最も面積が狭く、主に田名地区内の一部︵陽原・望地・塩田︶を占める。
これらの段丘面の下に現在の相模川による沖積低地が形成されているが田名よりも上流側では幅が狭く、川が南へ向きを変える当麻から磯部よりも下流側でようやく広がりを見せる。田名の望地河原や当麻、磯部地区が当市域内では数少ない水田地帯となっている一方、上流側の大島河原から水郷田名︵田名久所﹇ぐぞ﹈地区︶にかけての区域は大正期から風光明媚な景勝地として知られている。
当市域の北から東にかけて東京都町田市との境界となっている境川は多摩丘陵を刻む小河谷であるヤト︵谷戸︶や、鳩川などと同じくハケの湧水を水源としているが、これも元の相模川の流路であったと考えられている。以前は激しく蛇行していたために、わずかの大雨ですぐに洪水を起こす川だった。そのために戦後徐々に河川改修が進められて橋本付近より下流では川幅が広げられて流路も直線化された。しかし蛇行していた旧流路によって定められていた都県境の変更は、特に町田市との間でほとんど進まず、相互に﹁川向こうの飛地﹂を多く抱えている。
隣接している自治体
歴史
近世まで
新田開発
原野の広がった台地上段の開発は17世紀半ば以降、境川沿いの村を親村とする新田開発によって始まった。最も代表的なものが小山村の豪農である原清兵衛によって1843年に着手され、1856年までに49名が入植して200ha余りが開拓された清兵衛新田である。ほかに矢部新田、淵野辺新田、大沼新田、溝境新田が開かれた。水が乏しいためにこれらの新田は水田ではなく畑地としての開拓であり、新田集落のまわりには薪炭供給のための雑木林が作られた。相模原に広がる雑木林はこうして植林された人工林である。
台地上の開拓は明治以降も進められた。この時期の開拓地は新開と呼ばれ、橋本新開、下溝新開、谷口新開、篠原新開、中村新開、中和田新開がこれにあたる。
また、戦後も海外からの引揚者や帰農者、戦災者などを入植者として受け入れて旧軍用地の麻溝台や新磯野を中心に開拓が行われた。
新田のうち、﹁清兵衛新田﹂と﹁矢部新田﹂の地名は合併後も大字として残された。﹁矢部新田﹂は住居表示の対象区域とならなかった米軍相模総合補給廠内に現存する。﹁清兵衛新田﹂は1974年に最後まで残った区域に住居表示が実施されて消滅するが、新町名である﹁清新﹂はこれに由来するものである。
明治以降
●1889年4月1日 - 町村制施行により高座郡相原村・麻溝村・新磯村・大沢村・大野村・溝村が誕生する。
●相原村、橋本村、小山村、清兵衛新田の合併により相原村が誕生する。
●当麻村、下溝村の合併により麻溝村が誕生する。
●新戸村、磯部村の合併により新磯村が誕生する。
●大島村、下九沢村、上九沢村の合併により大沢村が誕生する。
●上矢部村、矢部新田村、淵野辺村、鵜野森村、上鶴間村の合併により大野村が誕生する。
●上溝村が溝村と名称変更する。
●1926年1月1日 - 溝村に町制が施行され、上溝町が誕生する。
●1941年4月29日 相原村、麻溝村、新磯村、大沢村、大野村、上溝町、座間町、田名村の合併により相模原町が誕生する。
● 町役場を淵野辺に置く。人口3万9,718、面積107.99km²。合併当時は﹁全国一面積の広い町﹂であった。
●1941年9月1日 町役場を上溝︵旧上溝町役場︶に移転
●1948年9月1日 座間町が分立する。面積90.41km²となる。
●1954年4月29日 町役場を清兵衛新田︵現在地︶に移転
●1954年11月20日 市制が施行され、相模原市となる。人口8万0,374。
●1960年 人口が10万を超える。
●1967年 人口が20万を超える。
●1971年 人口が30万を超える。
●1977年 人口が40万を超える。
●1987年 人口が50万を超える︵全国で22番目︶。
●2000年 人口が60万を超える。
●2003年4月1日、中核市に指定される。
軍都計画
相模原は東京から近く地価の安い平坦地が広がっていたことから、1930年後半以降、陸軍士官学校をはじめとする陸軍施設があいついで移転・開設されてきた。養蚕を主とする畑作農村から軍事都市への急速な変貌に対応するために神奈川県が主体となって区画整理事業に着手した。
1939年︵昭和14年︶にまとめられた相模原都市建設区画整理事業では、当時の相原村︵小山・清兵衛新田・橋本︶、大野村︵上矢部・矢部新田・淵野辺︶、上溝町︵大字なし︶、大沢村︵下九沢︶にまたがる535万坪︵約17.7km²︶の区域に10万人の人口を想定した壮大な都市計画が行われた。
造兵廠西門と上溝とを結ぶ街路を縦の軸とし、これと直交する幅の広い街路を横の軸として計画的に街路が配置され、両軸となる街路の交差点付近には中央公園が計画された。区域内は住居地域345万坪︵約11.4km²。1人当たり50坪︶、商業地域35万坪︵約1.2km²。1人当たり30坪︶、工業地域︵軍事施設を含む︶175万坪︵約5.8km²︶に分けられ、推計人口10万のうち小学児童を約1万4千人弱と想定して小学校を14校、中等学校が3校整備されることとなっていた。また中央公園をはじめとして区域内の公園用地として約18万坪︵約0.6km²︶があてられていた。
●陸軍造兵廠は本来、北側の境川をはさんで町田街道に面した門を正門として敷地内北部に管理機能を集中していた。戦後この施設を相模総合補給廠としている米軍は西門を事実上の正門として使用している。
この都市計画は若干の変更の上、1940年︵昭和15年︶に内務省から公示されて事業が着手されたが、間もなく始まった太平洋戦争により工事は停滞し、幹線街路網の整備が進んだところで敗戦を迎えた。一時中断された区画整理事業は戦後も継続されて1950年︵昭和25年︶に完了した。また水道の整備も戦争末期の1945年︵昭和20年︶春にはおおむね完了した。
敗戦によって軍都の建設には挫折したが、1960年代以降の急激な都市化の基盤となったのはこの事業によって整備された街路網と水道設備であった。計画の中で横の軸とされた街路は現在国道16号として市内を貫く幹線道路となっている。また縦の軸とされた街路は市役所前通りとして戦後桜並木が整備され、市を代表する顔となっている。
これに対して南部の小田急線沿線はこの都市計画の対象区域とはならず、戦後の自然発生的な住宅の建設によって都市化が進行した。無計画に進められた宅地化によって狭く複雑な街路網を区域も少なくなく、軍都計画区域と著しい対照を見せる。
相模原市の膨張や交通量の増大によって国道16号をはじめとする幹線街路での交通渋滞が目立つなど、1940年代に行われた都市計画の限界が現れてきているが、半世紀にわたって急激な都市化を支え続けてきた事実からして軍都計画による区画整理事業の先進性がうかがえる。
相模原町の発足
軍都計画の進展とともに、軍の強力な後押しもあって相模原一帯を合併して一大市を建設する気運が盛り上がった。その過程では、隣接する東京府町田町との合併も話題に上った︵陸軍では、上鶴間の原町田陸軍病院﹇のち相模原陸軍病院と改称﹈や淵野辺の原町田憲兵隊など、相模原を原町田と一括りにすることが多かった︶が、府県境を越えた合併は当時でも困難なことが多く、高座郡北部の9町村︵相原村、上溝町、大野村、大沢村、田名村、麻溝村、新磯村、座間町、大和村︶が合併の対象となった。
対象地域内では軍都計画地域を中心とする北部︵相原・上溝・大沢・田名︶と陸軍士官学校を中心とする南部︵麻溝・新磯・座間・大和︶の間で意見が対立し、特に座間町と大和村では合併反対の意見が強かった。北部5町村と南部4町村による別個の合併も俎上に上ったが、北部が軍都計画地域に属する一方で南部に士官学校や通信学校、陸軍病院などをかかえる大野村︵個別合併案では北部5町村に含まれた︶は村が分断されることを恐れて9町村での合併を強く望んだ。軍の強い要請によって座間町は9町村合併の容認に傾いたが、大和村では意見の集約が間に合わず合併から離脱し、大和村を除いた8町村による合併となった。
合併後の新市名として﹁相武台市﹂﹁相武市﹂﹁相模市﹂﹁相模原市﹂などがあがった。このうち1937年に移転してきた陸軍士官学校にちなむ﹁相武台﹂は、士官学校移転に際して座間村︵当時︶が新磯村との合併を持ちかけたときに﹁座間町﹂への吸収となることを恐れた新磯村側が提案した呼称でもある︵この合併は両村の意見が合わず、座間村が単独で町制を施行した︶。﹁相武台﹂には陸軍士官学校が昭和天皇から士官学校に下賜された呼称であるとして反対し、最終的に選ばれたのが﹁相模原市﹂であった。
市とするにあたっては合併当時の対象地域に市街地がほとんど形成されていないことから内務省の承認が得られず、将来の発展による市制施行を期待しながら、1941年4月29日に8町村の合併によって高座郡相模原町が発足した。
戦後、軍の圧力がなくなると当初から合併に消極的であった旧座間町では離脱の動きが強まり、1948年9月1日に旧座間町の区域が分立して座間町が再置された。残りの区域で﹁昭和の大合併﹂の最中の1954年11月20日に市制を施行して相模原市となった。すでに大規模合併を終えていた相模原市では﹁昭和の大合併﹂による市域拡張は行われていない。
平成の大合併:津久井地域との合併
行政
歴代首長
- 相模原町長(町会議員による選挙)
- 篠崎太一 (1941年-1947年:2期)
- 小林與次右ヱ門 (1947年:1期)
- 相模原町長(住民による直接選挙)
- 小林與次右ヱ門 (1947年-1951年:1期)
- 清水睦 (1951年-1954年:1期)
- 相模原市長(住民による直接選挙)
- 清水睦 (1954年-1955年:町長から継続、1期)
- 小林與次右ヱ門 (1955年-1959年:1期)
- 山口茂治 (1959年-1964年:2期途中で辞任)
- 河津勝 (1965年-1977年:3期)
- 舘森静光 (1977年-1997年:5期)
- 小川勇夫 (1997年-:現在3期目在任中)
経済
相模原市の小売店舗数は、県下で第4位。年間販売額は、横須賀市を抜き、横浜市、川崎市に次いで第3位。4300店あまりの小売店が市内各所に活気あふれる商店街を形成している。﹁暮らしのニーズに応える高感度商業の振興﹂をメインテーマに、商店・商店街の活性化、ベンチャー企業の創出、魅力ある商業地づくりなどが目指されている。
市民ニーズに対応できる多様で個性的な商業地を形成する目的で、橋本・相模原・相模大野各駅周辺地区が中心商業地に、淵野辺・上溝・小田急相模原・東林間・古淵各駅周辺の地区が地区中心商業地に位置付けられている。相模大野駅西側、小田急相模原駅東側では現在、再開発が計画されており、一部では事業が始まっている。また、再開発が一段落した橋本駅北側でも、さらに超高層マンションの計画や、南側が緊急都市再生地域に指定されたことによる再開発計画が検討されている。
産業
農業
明治から昭和初期にかけて当市域では養蚕が農家の主要な収入源として盛んに行われた。この時期の地形図では台地上が﹁桑畑﹂の記号で埋め尽くされている︵ただし、相模原周辺では防風などの目的で畑の周囲に桑を植えることが行われており、このような﹁畑﹂を地図上で﹁桑畑﹂としていることも多いようである。なお、このように畑の周囲に植えられた桑の木をマワリックワなどと呼ぶ︶。
相模原市が発足した1954年の市域内の桑園面積は約600ha超、養蚕戸数が約2,500戸で、繭の生産量について神奈川県の3分の1を占めていた。また、畑では麦類や芋類が中心に生産されていた。
しかし、都市化の進行とともに養蚕は急速に衰退し、畑での栽培作物も野菜類と花卉類に主力が移っている。
一方で、東京や横浜という大消費地をひかえ、養豚や養鶏、酪農という畜産業も盛んに行われた。
養豚は、相模原台地南部に続く旧高座郡下の他の各町村とともに大正期以降に盛んとなり、昭和初期にイギリスから導入された﹁中ヨークシャー種﹂の豚は高座豚の名で広く知られた。
養鶏が特に盛んになったのは1960年代以降である。麻溝台には規模の大きな鶏舎が建てられ、1980年の市内の鶏卵生産額は31億円余りに達した。
また1960年代には乳牛の飼育頭数が増え、乳業メーカーへの牛乳出荷が盛んになった。
しかし都市化が進行するとともに悪臭の発生などによって経営が困難となり、いずれも衰退している。
市発足以前の1950年当時の農家戸数は総世帯数の約40%を占める約5,500戸で、うち約3,000戸が専業農家であった。しかし都市化の進行とともに農家数は減少を続け、2000年には1,600戸に満たず︵総世帯数の1%にも満たない︶、専業農家はわずかに155戸となっている。
1954年に4,500haを超えた経営耕地面積は、2000年には700ha未満にまで減少している。
現在、農業が盛んに行われているのは西部の大沢・田名・麻溝・新磯地区であり、それ以外の区域では住宅や工場の進出が著しい。
工業
平らな土地が広がっているので、戦後は工場の進出が進み、内陸工業都市として発展を続けている。1955年に﹁工場誘致条例﹂が制定され、工場誘致が進められ、それまでの養蚕、製紙などの手工業から、電気機械、金属製品といった組立加工型工業が多く見られるようになった。内陸工業都市として知られる相模原市も、昨今では、産業構造転換のあおりを受け、市内に大型工場などの多くが廃業を余儀なくされ、大型マンションや商業地として生まれ変わりつつある。
特産品は、電子部品、特殊車両、ゲイマーワイン。
地域放送
コミュニティFM
- FMさがみ
- 周波数83.9MHz、
- 出力:20W
- 最大実効輻射出力:46W
送信所は相模原市星が丘1-10-1。 相模原市のコミュニティーFMであるが、町田市を始め周辺各都市でも受信可能。
ケーブルテレビ
- ジュピターテレコム(J:com相模原局、J:COM せたまち局)
日本最大のケーブルテレビ局である同社が相模原市全域をカバー。
姉妹都市・提携都市
国内
- 銀河連邦 - 当時の宇宙科学研究所の研究施設があった市町による友好都市
海外
地域
健康
- 平均年齢
教育
大学
短期大学
高等学校
- 県立
- 相模原高等学校
- 橋本高等学校
- 上溝高等学校
- 上溝南高等学校
- 上鶴間高等学校
- 新磯高等学校
- 相原高等学校
- 相武台高等学校
- 相模大野高等学校
- 相模田名高等学校
- 相模原総合高等学校
- 麻溝台高等学校
- 弥栄西高等学校
- 弥栄東高等学校
- 相模台工業高等学校
- 神奈川総合産業高校
- 私立
中学校
- 公立
- 私立
- 相模女子大学中学部
- 東海大学付属相模中学校
小学校
いずれも相模原市立
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その他の学校
- 神奈川県立相模原養護学校
交通
鉄道
●東日本旅客鉄道︵JR東日本︶
●横浜線 : 古淵駅 - 淵野辺駅 - 矢部駅 - 相模原駅 - 橋本駅
●1908年、私鉄の横浜鉄道として開業。1917年に鉄道院に買収され国有化。
●1941年に原町田~八王子間が電化。
●1979年に淵野辺~相原間、1980年に原町田~淵野辺間が複線化。1988年に相原~八王子間の複線化により、横浜線の全線複線化が完成。
●相模線 : 相武台下駅 - 下溝駅 - 原当麻駅 - 番田駅 - 上溝駅 - 南橋本駅 - 橋本駅
●1931年、私鉄の相模鉄道として厚木~橋本間が延長開業。
●1944年、茅ヶ崎~橋本間が戦時買収により国有化。
●1991年、全線電化により車両も新造され、沿線開発とともに急速に通勤路線化しつつある。
●小田急電鉄 ●小田原線 : 相模大野駅-小田急相模原駅-相武台前駅 ●江ノ島線 : 相模大野駅-東林間駅 ●1927年、新宿~小田原間で開業。ただし開業当初、当市域には駅は設置されず︵相武台前駅が座間駅として開業するが、当市域内ではない︶。 ●1929年、江ノ島線が開業。小田原線との分岐点に大野信号所が設置されたが旅客扱いは行わず、列車はすべて新原町田︵現・町田︶で折り返した。大野信号所は1938年に通信学校駅として駅に昇格。 ●1929年、江ノ島線開業時に東林間都市︵現・東林間︶駅開業。当市域内で最初の小田急の駅である。 ●京王電鉄 ●相模原線 : 橋本駅 ●1990年、南大沢~橋本間が延長開業。当市域北部と新宿方面との交通が飛躍的に改善された。
●小田急電鉄 ●小田原線 : 相模大野駅-小田急相模原駅-相武台前駅 ●江ノ島線 : 相模大野駅-東林間駅 ●1927年、新宿~小田原間で開業。ただし開業当初、当市域には駅は設置されず︵相武台前駅が座間駅として開業するが、当市域内ではない︶。 ●1929年、江ノ島線が開業。小田原線との分岐点に大野信号所が設置されたが旅客扱いは行わず、列車はすべて新原町田︵現・町田︶で折り返した。大野信号所は1938年に通信学校駅として駅に昇格。 ●1929年、江ノ島線開業時に東林間都市︵現・東林間︶駅開業。当市域内で最初の小田急の駅である。 ●京王電鉄 ●相模原線 : 橋本駅 ●1990年、南大沢~橋本間が延長開業。当市域北部と新宿方面との交通が飛躍的に改善された。
鉄道の計画
●小田急電鉄
●多摩線が、多摩市の唐木田駅から横浜線相模原駅もしくは淵野辺駅と相模線上溝駅あるいは原当麻駅を経由して、愛川町方面まで延伸する計画がある︵どこで横浜線・相模線と交差するかは決まっていない︶。また、相模原駅付近で横浜線と交差する場合には米軍基地︵相模総合補給廠︶を縦貫するという問題もある。
●相模原市営交通
●相模原市が主体となって、相模大野駅を基点とし、北里大学、原当麻駅を経由し、橋本駅に至る新都市交通の導入が検討されている。
道路
路線バス
●鉄道が市の3辺を作るように走るため中央部では路線バスに頼る地域もある。
●市内のほぼ全域を神奈川中央交通および相模神奈交バスがカバーしているが、橋本駅北口およびJR相模原駅北口には京王バス南の路線も乗り入れている。
●市内バス路線の多くは橋本駅、JR相模原駅、淵野辺駅、相模大野駅、小田急相模原駅、相武台前駅︵座間市に所属︶をターミナルとしている。また、北里大学もバス路線の結節点の機能を持つ。以前は上溝や国立相模原病院にもターミナル機能があったが、バス路線の再編によってターミナルとしての役割は大幅に低下した。
●橋本駅、JR相模原駅、淵野辺駅、古淵駅からは東京都町田市西部を、また橋本駅からは八王子市南部をエリアとする路線も発着している。
●市外への長距離路線として、橋本駅から城山町を経て三ヶ木︵みかげ‥津久井町︶、淵野辺駅から上溝を経て半原︵愛川町︶へ向かう路線が運行されている。以前はJR相模原駅および上溝から本厚木駅へ向かう路線︵座間経由、依知経由︶も運行されていたが、数次の路線再編によって座間経由は廃止、依知経由は短縮されて原当麻駅発着となっている。
名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事
レジャー
- 県立相模原公園
- 市立相模原麻溝公園
- 市立相模原北公園
- 市立淵野辺公園
- さがみはらグリーンプール
観光
祭り
●1月6日、田名八幡宮で的祭が行なわれる。︵市の重要文化財︶
●4月上旬の二日間、市役所さくら通りで市民桜まつりが行なわれる。
●5月の節句には新磯地区で14.4メートル四方の大凧があげられる。︵相模の大凧・かながわのまつり50選︶
●7月下旬に上溝夏祭り︵かながわのまつり50選︶、7月30日に納涼花火大会︵相模川・高田橋付近︶、8月上旬に橋本七夕まつり︵かながわのまつり50選︶が行なわれる。
出身の有名人
- 原辰徳 (野球選手・読売ジャイアンツ監督)
- キンモクセイ(ミュージシャン)
- 田崎信也 (ソムリエ)
- 安西ひろこ (タレント)
- 片山右京 (レーサー)
- 冨永愛 (モデル)
- 戸田和幸 (サッカー選手)
- 本田みずほ (お笑い芸人)
- 真壁刀義 (プロレスラー)(新日本プロレス)
- 小沢健二(ミュージシャン)
- 宮本ともみ(女子サッカー選手・なでしこジャパン)
- 小山慶一郎(ミュージシャン) (ジャニーズ事務所グループ・NEWSの一員)
- 西村博之(匿名掲示板2ちゃんねる管理人)
軍事施設
戦前、軍都計画のもと、軍施設が多数設置され、道路が整備された。敗戦により計画は中止されたが、軍施設は米軍に接収され、現在も相模総合補給廠やキャンプ座間、米軍相模原住宅が残っている。
市南部にはかつて陸軍士官学校があり、昭和天皇の行幸を仰いだ事がある。﹁相武台﹂はその際、昭和天皇によって命名された地名である。
また、横浜線原町田駅︵現町田駅︶と士官学校の間に整備された道路は現在も﹁行幸道路﹂と呼ばれている。
終戦時の軍事施設
施設名 | 開設年 | 戦後の利用 |
---|---|---|
陸軍士官学校 | 1937年 | 米軍キャンプ座間 |
陸軍士官学校相武台演習場 | 麻溝台・新磯野入植地 →北里大学、麻溝台工業団地、県公社相武台団地、ほか | |
米軍座間小銃射撃場(1969年返還) →県立相模原公園 | ||
臨時東京第三陸軍病院 | 1938年 | 国立相模原病院(現独立行政法人国立病院機構相模原病院) |
相模原陸軍造兵廠 | 1938年 | 米軍相模総合補給廠 |
陸軍技術研究所 | ||
相模原集団住宅 (造兵廠工員住宅) | 星が丘住宅地 | |
陸軍兵器学校 | 1938年 | 麻布大学、市立大野北中学校、防衛庁技術研究本部、ほか |
電信第一聯隊 | 1939年 | 米軍相模原住宅地区 |
陸軍通信学校 | 1939年 | 相模女子大学、市立大野南中学校、県立相模台工業高校(現県立総合産業高校) |
相模原陸軍病院 | 1940年 | 米陸軍医療センター(1981年返還) →グリーンホール相模大野、外務省研修所、県立相模大野高校、住宅団地、ほか |
陸軍機甲整備学校 | 1943年 | 米軍キャンプ淵野辺(1974年返還) →淵野辺公園、宇宙科学研究所(現宇宙研究本部)、県立弥栄東・西高校、ほか |
- 相模原陸軍病院は、当初「陸軍原町田衛戍病院」という呼称であった。
- 星が丘という地名は陸軍徽章の星に由来するとされている。
町名等
末尾の*は後述の厚木MAエリアを示す。
●本庁管内
●相生﹇あいおい﹈1~4丁目 ︵〒229-0035︶
●青葉﹇あおば﹈1~3丁目 ︵〒229-0024︶
●小山﹇おやま﹈1~4丁目 ︵〒229-1105︶
●大字小山﹇おやま﹈ ︵〒229-1105︶
●向陽町﹇こうようちょう﹈ ︵〒229-1114︶
●小町通﹁こまちどおり﹂1~2丁目 ︵〒229-1117︶
●相模原﹁さがみはら﹂1~8丁目 ︵〒229-0031︶
●大字下九沢﹇しもくざわ﹈ ︵〒229-1134︶※一部
●すすきの町﹁すすきのちょう﹂ ︵〒229-1113︶
●清新﹁せいしん﹂1~8丁目 ︵〒229-1116︶
●高根﹁たかね﹂2~3丁目 ︵〒229-0021︶
●中央﹇ちゅうおう﹈1~6丁目 ︵〒229-0039︶
●千代田﹁ちよだ﹂1~7丁目 ︵〒229-0037︶
●並木﹇なみき﹈1~4丁目 ︵〒229-0028︶
●光が丘﹇ひかりがおか﹈1~3丁目 ︵〒229-0027︶
●氷川町﹇ひかわちょう﹈ ︵〒229-1115︶
●富士見﹇ふじみ﹈1~6丁目 ︵〒229-0036︶
●星が丘﹇ほしがおか﹈1~4丁目 ︵〒229-0038︶
●松が丘﹇まつがおか﹈1~2丁目 ︵〒229-0023︶
●緑が丘﹇みどりがおか﹈1~2丁目 ︵〒229-0025︶
●南橋本﹇みなみはしもと﹈1~4丁目 ︵〒229-1133︶
●宮下﹇みやしも﹈1~3丁目 ︵〒229-1112︶
●宮下本町﹇みやしもほんちょう﹈1~3丁目 ︵〒229-1111︶
●弥栄﹇やえい﹈1~3丁目 ︵〒229-0029︶
●矢部﹇やべ﹈1~4丁目 ︵〒229-0032︶
●陽光台﹇ようこうだい﹈1~7丁目 ︵〒229-0026︶
●横山﹇よこやま﹈1~6丁目 ︵〒229-1122︶※大部分
●横山台﹇よこやまだい﹈1~2丁目 ︵〒229-1121︶
●橋本出張所管内
●相原﹇あいはら﹈1~6丁目 ︵〒229-1101︶
●大字相原﹇あいはら﹈ ︵〒229-1101︶
●大山町﹇おおやまちょう﹈ ︵〒229-1106︶
●大字下九沢﹇しもくざわ﹈ ︵〒229-1134︶※一部
●西橋本﹇にしはしもと﹈1~5丁目 ︵〒229-1131︶
●二本松﹇にほんまつ﹈1~4丁目 ︵〒229-1137︶
●橋本﹇はしもと﹈1~8丁目 ︵〒229-1103︶
●橋本台﹇はしもとだい﹈1~4丁目 ︵〒229-1132︶
●東橋本﹇ひがしはしもと﹈1~4丁目 ︵〒229-1104︶
●元橋本町﹇もとはしもとちょう﹈︵〒229-1102︶
●大野北出張所管内
●大野台﹇おおのだい﹈3丁目 ︵〒229-0011︶※一部
●鹿沼台﹇かぬまだい﹈1~2丁目 ︵〒229-0033︶
●上矢部﹇かみやべ﹈1~5丁目 ︵〒229-0001︶
●大字上矢部﹇かみやべ﹈ ︵〒229-0001︶
●共和﹇きょうわ﹈1~4丁目 ︵〒229-0034︶
●高根﹇たかね﹈1丁目 ︵〒229-0021︶
●東淵野辺﹇ひがしふちのべ﹈1~5丁目 ︵〒229-0003︶
●淵野辺﹇ふちのべ﹈1~5丁目 ︵〒229-0006︶
●淵野辺本町﹇ふちのべほんちょう﹈1~5丁目 ︵〒229-0002︶
●矢部新町﹇やべしんちょう﹈ ︵〒229-0007︶
●大字矢部新田﹇やべしんでん﹈
●由野台﹇よしのだい﹈1~2丁目 ︵〒229-0022︶
●大野中出張所管内
●鵜野森﹇うのもり﹈1~3丁目 ︵〒228-0801︶※大部分
●大野台﹇おおのだい﹈1~8丁目 ︵〒229-0011︶※大部分
●古淵﹇こぶち﹈1~6丁目 ︵〒229-0004︶
●西大沼﹇にしおおぬま﹈1~5丁目 ︵〒229-0012︶
●東大沼﹇ひがしおおぬま﹈1~4丁目 ︵〒229-0013︶
●若松﹇わかまつ﹈1~6丁目 ︵〒229-0014︶※大部分
●大野南出張所管内
●旭町﹇あさひちょう﹈ ︵〒228-0804︶
●鵜野森﹇うのもり﹈3丁目 ︵〒228-0801︶※一部
●上鶴間﹇かみつるま﹈1~3丁目・6丁目︵一部︶ ︵〒228-0802︶
●上鶴間本町﹇かみつるまほんちょう﹈1~9丁目 ︵〒228-0818︶
●栄町﹇さかえちょう﹈ ︵〒228-0806︶
●相模大野﹇さがみおおの﹈1~9丁目 ︵〒228-0803︶
●文京﹇ぶんきょう﹈1~2丁目 ︵〒228-0807︶
●御園﹇みその﹈1~3丁目 ︵〒228-0817︶
●豊町﹇ゆたかちょう﹈ ︵〒228-0805︶
●若松﹇わかまつ﹈2・3・5丁目 ︵〒229-0014︶※一部
●大沢出張所管内
●大字大島﹇おおしま﹈ ︵〒229-1135︶
●大字上九沢﹇かみくざわ﹈ ︵〒229-1136︶
●大字下九沢﹇しもくざわ﹈ ︵〒229-1134︶※大部分
●大字田名﹇たな﹈ ︵〒229-1124︶※一部
●田名出張所管内
●大字上溝﹇かみみぞ﹈ ︵〒229-1123︶※一部
●水郷田名﹇すいごうたな﹈1~4丁目 ︵〒229-1126︶
●大字田名﹇たな﹈ ︵〒229-1124︶※大部分
●田名塩田﹇たなしおだ﹈1~4丁目 ︵〒229-1125︶
●上溝出張所管内
●上溝﹇かみみぞ﹈1~7丁目 ︵〒229-1123︶
●大字上溝﹇かみみぞ﹈ ︵〒229-1123︶※大部分
●大字田名﹇たな﹈ ︵〒229-1124︶※一部
●横山﹇よこやま﹈5丁目 ︵〒229-1122︶※一部
●麻溝出張所管内
●麻溝台﹇あさみぞだい﹈1・7丁目 ︵〒228-0828︶※一部
●大字麻溝台﹇あさみぞだい﹈ ︵〒228-0828︶※大部分
●北里﹇きたざと﹈1丁目 ︵〒228-0829︶
●大字下溝﹇しもみぞ﹈ ︵〒229-0015︶
●大字当麻﹇たいま﹈ ︵〒229-0016︶
●新磯出張所管内
●新磯野﹇あらいその﹈2・5丁目 ︵〒228-0825︶※一部 *
●大字新磯野﹇あらいその﹈ ︵〒228-0825︶※大部分 *
●大字磯部﹇いそべ﹈ ︵〒228-0827︶*
●大字新戸﹇しんど﹈ ︵〒228-0826︶
●相模台出張所管内
●麻溝台﹇あさみぞだい﹈1~8丁目 ︵〒228-0828︶※大部分
●大字麻溝台﹇あさみぞだい﹈ ︵〒228-0828︶※一部
●新磯野﹇あらいその﹈2丁目 ︵〒228-0825︶※一部 *
●大字新磯野﹇あらいその﹈ ︵〒228-0825︶※一部 *
●大字上鶴間﹇かみつるま﹈ ︵〒228-0802︶
●北里﹇きたざと﹈2丁目 ︵〒228-0829︶台
●相模台﹇さがみだい﹈1~7丁目 ︵〒228-0821︶*
●相模台団地﹇さがみだいだんち﹈ ︵〒228-0822︶
●桜台﹇さくらだい﹈ ︵〒228-0815︶
●双葉﹇ふたば﹈1~2丁目 ︵〒228-0816︶
●御園﹇みその﹈4~5丁目 ︵〒228-0817︶
●南台﹇みなみだい﹈1~6丁目 ︵〒228-0814︶
●相武台出張所管内
●新磯野﹇あらいその﹈1~5丁目 ︵〒228-0825︶※大部分 *
●相武台﹇そうぶだい﹈1~3丁目 ︵〒228-0824︶*
●相武台団地﹇そうぶだいだんち﹈1~2丁目 ︵〒228-0823︶*
●東林出張所管内
●上鶴間﹇かみつるま﹈4~8丁目︵〒228-0802︶※6丁目の一部を除く
●相南﹇そうなん﹈1~4丁目 ︵〒228-0812︶
●東林間﹇ひがしりんかん﹈1~8丁目 ︵〒228-0811︶
●松が枝町﹇まつがえちょう﹈ ︵〒228-0813︶
●郵便番号
〒229-11xx︵相模原市北部︶は橋本郵便局の担当︵同局は〒220-01xxの城山町も担当︶
〒228-xxxx︵相模原市南部︶は座間郵便局の担当︵同局は座間市にあり同じく〒228-xxxxとなる座間市も担当︶
それ以外は〒229-xxxxとなり相模原郵便局の担当
●電話︵電話番号の市外局番及びMA︶
相模原MA 042︵042-700~716、718~730、732~780、782~799、850~869︶相模原市の大半
厚木MA 046︵046-251~259、266、298︶相模原市南部の一部︵町名等のリストで末尾に*を付けた地域︶
ただし、天気予報は042-78-177となる。
郵便番号・電話ともに一部例外有り
その他
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