「渥美清」の版間の差分
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[[タクシー]]で送られる際も[[住宅|自宅]]を知られぬように「この辺りで」と離れた場所で降りるのを常としていた。渥美は亡くなるまでプライベートを芸能活動の仕事に持ち込まなかったため、渥美の自宅住所は芸能・映画関係者や芸能界の友人にも知らされておらず、「男はつらいよ」シリーズで長年一緒だった山田洋次や、親友として知られる[[黒柳徹子]]、関敬六、谷幹一でさえ渥美の自宅も個人的な連絡先も知らず、仕事仲間は告別式まで渥美の家族との面識はなかった。これは渥美が生前、私生活を徹底的に秘匿し、「渥美清=寅さん」のイメージを壊さないためであった。このきっかけは、街を歩いていた時に、見知らぬ男性から「よお、寅」と声をかけられてからの事だと語っている<ref name="nhk100" />。実生活では質素な生活を送っていたようで、[[自動車|車]]は一台も所有しておらず、仕事での[[食事]]も[[店]]を選ばずに適当な[[蕎麦|蕎麦屋]]で済ませていたという<ref name="nhk100">NHK『[[100年インタビュー]]』(山田洋次の回想より)</ref>。 |
[[タクシー]]で送られる際も[[住宅|自宅]]を知られぬように「この辺りで」と離れた場所で降りるのを常としていた。渥美は亡くなるまでプライベートを芸能活動の仕事に持ち込まなかったため、渥美の自宅住所は芸能・映画関係者や芸能界の友人にも知らされておらず、「男はつらいよ」シリーズで長年一緒だった山田洋次や、親友として知られる[[黒柳徹子]]、関敬六、谷幹一でさえ渥美の自宅も個人的な連絡先も知らず、仕事仲間は告別式まで渥美の家族との面識はなかった。これは渥美が生前、私生活を徹底的に秘匿し、「渥美清=寅さん」のイメージを壊さないためであった。このきっかけは、街を歩いていた時に、見知らぬ男性から「よお、寅」と声をかけられてからの事だと語っている<ref name="nhk100" />。実生活では質素な生活を送っていたようで、[[自動車|車]]は一台も所有しておらず、仕事での[[食事]]も[[店]]を選ばずに適当な[[蕎麦|蕎麦屋]]で済ませていたという<ref name="nhk100">NHK『[[100年インタビュー]]』(山田洋次の回想より)</ref>。 |
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そんな渥美であったが、脚本家・[[早坂暁]]とは20代に銭湯で知り合い、早坂を﹁ギョウさん﹂と呼んで、何度もプライベート旅行に行くなど終生の友であった。渥美は常に﹁ギョウさん、俺も連れてってちょうだいよ﹂と早坂との旅行を大変楽しみにしていた。東京生まれのため田舎を持たない渥美にとって、特に早坂の故郷である[[愛媛県]][[北条市]]︵現・[[松山市]]︶や、沖合いにある﹁[[北条鹿島]]﹂はお気に入りで何度も同行している。晩年の渥美の俳句﹁お遍路が一列に行く虹の中﹂は、早坂作のNHKドラマ﹃[[花へんろ]]﹄︵早坂の自伝的ドラマ。渥美はナレーション担当で、[[遍路]]がモチーフになっており、舞台は愛媛県北条市︶および早坂への想いであると思われる{{誰2|date=2019年8月}}。このことが実現しなかった第49作﹃寅次郎花へんろ﹄の元になった |
そんな渥美であったが、脚本家・[[早坂暁]]とは20代に銭湯で知り合い、早坂を﹁ギョウさん﹂と呼んで、何度もプライベート旅行に行くなど終生の友であった。渥美は常に﹁ギョウさん、俺も連れてってちょうだいよ﹂と早坂との旅行を大変楽しみにしていた。東京生まれのため田舎を持たない渥美にとって、特に早坂の故郷である[[愛媛県]][[北条市]]︵現・[[松山市]]︶や、沖合いにある﹁[[北条鹿島]]﹂はお気に入りで何度も同行している。晩年の渥美の俳句﹁お遍路が一列に行く虹の中﹂は、早坂作のNHKドラマ﹃[[花へんろ]]﹄︵早坂の自伝的ドラマ。渥美はナレーション担当で、[[遍路]]がモチーフになっており、舞台は愛媛県北条市︶および早坂への想いであると思われる{{誰2|date=2019年8月}}。このことが実現しなかった第49作﹃寅次郎花へんろ﹄の元になった<ref>風天︵フーテン︶: 渥美清のうた p176</ref>。渥美の死後発見された晩年の手帳には﹁……旅行に行こう。家族とギョウさんにも声かけて一緒に行こう……﹂と綴ってあった。これらの内容からも、渥美にとって早坂がどれほど大切な存在であったかが窺われる。早坂は渥美が大変才能のある役者であるのにもかかわらず、﹁寅さん﹂以外の役をほとんど演じられないことを危惧しており、そのことはお別れ会の弔辞でも語っている。渥美自身も何とか抜け出そうとの思いがあったが、結局﹁寅さん﹂に縛り続けられることになった。
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1985年頃、渥美は俳人・[[尾崎放哉]]を演じたいと早坂に相談し、早坂と渥美は取材旅行に訪れ、脚本も完成した。ところが寸前に[[NHK松山放送局]]が放哉をドラマ化したため︵﹃海も暮れきる~小豆島の放哉~﹄1985年8月1日放映、放哉役は[[橋爪功]]で、第23回[[ギャラクシー賞]]奨励賞を受賞<ref>[http://www.tvdrama-db.com/drama_info/p/id-22460 海も暮れきる~小豆島の放哉~] - テレビドラマデータベース</ref>︶、急遽題材を[[種田山頭火]]に変更することになり、渥美と早坂は今度は山頭火の取材旅行に訪れ、脚本も完成したにもかかわらず、クランクイン寸前になって、突然渥美から制作のNHKに﹁山頭火﹂降板の申し出があった。降板の理由は体調不良やスケジュール不合などいわれるが、周囲︵特に松竹︶から﹁寅さん﹂のイメージ損失を嫌ったことの |
1985年頃、渥美は俳人・[[尾崎放哉]]を演じたいと早坂に相談し、早坂と渥美は取材旅行に訪れ、脚本も完成した。ところが寸前に[[NHK松山放送局]]が放哉をドラマ化したため︵﹃海も暮れきる~小豆島の放哉~﹄1985年8月1日放映、放哉役は[[橋爪功]]で、第23回[[ギャラクシー賞]]奨励賞を受賞<ref>[http://www.tvdrama-db.com/drama_info/p/id-22460 海も暮れきる~小豆島の放哉~] - テレビドラマデータベース</ref>︶、急遽題材を[[種田山頭火]]に変更することになり、渥美と早坂は今度は山頭火の取材旅行に訪れ、脚本も完成したにもかかわらず、クランクイン寸前になって、突然渥美から制作のNHKに﹁山頭火﹂降板の申し出があった。降板の理由は体調不良やスケジュール不合などいわれるが、周囲︵特に松竹︶から﹁寅さん﹂のイメージ損失を嫌ったことの軋轢かと思われる。ちなみに渥美降板により主役が[[フランキー堺]]となったこのドラマ﹃山頭火・なんでこんなに淋しい風ふく﹄は、[[モンテカルロ国際テレビ祭]]︵脚本部門ゴールデンニンフ=最優秀賞︶を受賞し、フランキー堺は同最優秀主演男優賞を受賞している。早坂は渥美に、初期のテレビドラマ﹃泣いてたまるか﹄や、上記土曜ワイド劇場第1回作品の﹃田舎刑事﹄シリーズなどの脚本を書いており、いずれも﹁寅さん﹂ではない渥美の魅力が引き出された名作となっている。映画においては山田洋次、野村芳太郎両監督とは別に、﹃沓掛時次郎 遊侠一匹 ﹄﹃祇園祭﹄﹃スクラップ集団﹄﹃あゝ声なき友 ﹄﹃おかしな奴﹄の脚本を書いた[[鈴木尚之]]とのコンビも長い。渥美主演映画を最も多く単独執筆したライターは鈴木である。﹃八つ墓村﹄も当初は鈴木脚本で予定されていた。
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上記著書の[[小林信彦]]は1960年代前半に放送作家として渥美と知り合い、独身時代はお互いの部屋で徹夜で語り合うなど親友に近い関係であったが、次第に疎遠となっている。同書では、小林がその後親しくなっていく[[ハナ肇とクレージーキャッツ|クレージーキャッツ]]の[[ハナ肇]]と渥美とは互いに敵愾心に近いライバル意識があったことにも触れ、クレージーのメンバーの社会常識を称える形で、渥美とは性格的齟齬があったことを示唆している。 |
上記著書の[[小林信彦]]は1960年代前半に放送作家として渥美と知り合い、独身時代はお互いの部屋で徹夜で語り合うなど親友に近い関係であったが、次第に疎遠となっている。同書では、小林がその後親しくなっていく[[ハナ肇とクレージーキャッツ|クレージーキャッツ]]の[[ハナ肇]]と渥美とは互いに敵愾心に近いライバル意識があったことにも触れ、クレージーのメンバーの社会常識を称える形で、渥美とは性格的齟齬があったことを示唆している。 |
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[[布袋寅泰]]は、渥美と同じマンションに住んでいたことがあり、バンドのツアーに向かう布袋が偶然[[エレベーター]]の乗り口で会った際、渥美から﹁旅ですか?﹂と話しかけられ、とっさに﹁はい。北へ﹂と答えたのをきっかけに、正月に﹁つまらないものですが、部屋の隅にでも飾ってやってください﹂と、﹃男はつらいよ﹄のカレンダーを部屋まで届けてくれたという<ref>[http://www.hotei.com/blog/2010/01/post-195.html 寅ちゃんと寅さん]︵2010年1月1日︶ - 布袋寅泰公式ブログ</ref>。
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[[布袋寅泰]]は、渥美と同じマンションに住んでいたことがあり、バンドのツアーに向かう布袋が偶然[[エレベーター]]の乗り口で会った際、渥美から﹁旅ですか?﹂と話しかけられ、とっさに﹁はい。北へ﹂と答えたのをきっかけに、正月に﹁つまらないものですが、部屋の隅にでも飾ってやってください﹂と、﹃男はつらいよ﹄のカレンダーを部屋まで届けてくれたという<ref>[http://www.hotei.com/blog/2010/01/post-195.html 寅ちゃんと寅さん]︵2010年1月1日︶ - 布袋寅泰公式ブログ</ref>。
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長男の田所健太郎は、[[ニッポン放送]]の入社試験の際、履歴書の家族欄に |
長男の田所健太郎は、[[ニッポン放送]]の入社試験の際、履歴書の家族欄に﹁父 田所康雄 職業 俳優﹂と書いたことから、採用担当者は[[大部屋俳優]]の息子と思っていたが、後に渥美清が彼の父親として来社し社内は騒然となった。
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晩年は[[俳句]]を趣味としていて『アエラ句会』([[AERA]]主催)において「風天」の[[俳号]]でいくつかの句を詠んでいる。森英介『風天 渥美清のうた』(大空出版、2008年、[[文春文庫]] 2010年)に詳しく紹介されている。 |
晩年は[[俳句]]を趣味としていて『アエラ句会』([[AERA]]主催)において「風天」の[[俳号]]でいくつかの句を詠んでいる。森英介『風天 渥美清のうた』(大空出版、2008年、[[文春文庫]] 2010年)に詳しく紹介されている。 |
2021年5月5日 (水) 21:06時点における版
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あつみ きよし 渥美 清 | |||||||||||
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本名 | 田所 康雄(たどころ やすお) | ||||||||||
別名義 | 風天(俳号) | ||||||||||
生年月日 | 1928年3月10日 | ||||||||||
没年月日 | 1996年8月4日(68歳没) | ||||||||||
出生地 |
日本 東京府東京市下谷区 (現:東京都台東区) | ||||||||||
死没地 | 日本 東京都文京区(順天堂大学医学部附属順天堂医院)[1] | ||||||||||
身長 | 169 cm | ||||||||||
血液型 | B型 | ||||||||||
職業 | 俳優、コメディアン、歌手 | ||||||||||
ジャンル | 映画・テレビドラマ・舞台 | ||||||||||
活動期間 | 1946年 - 1996年 | ||||||||||
配偶者 | あり | ||||||||||
著名な家族 |
田所友次郎(父) 田所タツ(母) 田所健一郎(兄) 田所健太郎(長男) | ||||||||||
主な作品 | |||||||||||
テレビドラマ 『若い季節 (テレビドラマ)』 『渥美清の泣いてたまるか』 映画 『拝啓天皇陛下様』 『男はつらいよ』 『八つ墓村』 『幸福の黄色いハンカチ』 『キネマの天地』 | |||||||||||
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