「藤原道兼」の版間の差分
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[[寛和]]2年︵[[986年]]︶外孫の[[即位]]を願う父・兼家の意を受けて[[花山天皇]]を唆して[[出家]]・[[退位]]させる︵[[寛和の変]]︶。代わって[[一条天皇]] |
[[寛和]]2年︵[[986年]]︶外孫の[[皇太子|春宮]]・懐仁親王の[[即位]]を願う父・[[藤原兼家]]の意を受けて、[[蔵人]]として近侍していた[[花山天皇]]を唆して[[出家]]・[[退位]]させる︵[[寛和の変]]︶。代わって懐仁親王が[[践祚]]︵[[一条天皇]]︶すると外祖父の兼家は[[摂政]]となり、道兼も栄達した。兼家が没すると長兄・[[藤原道隆|道隆]]が関白となり、道兼は[[摂関]]を継ぐことはできなかったが、[[内大臣]]次いで[[右大臣]]の高官に昇った。[[長徳]]元年︵[[995年]]︶道隆が病死すると、道兼はようやく関白に就任するが、その僅か数日後に病没。そのため七日関白とも呼ばれる。
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== 経歴 == |
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[[円融天皇|円融朝]]の[[天延]]3年︵[[975年]]︶[[叙爵]]し、[[天元 (日本)|天元]]2年︵[[979年]]︶[[侍従]]に任官する。[[永観]]2年︵[[984年]]︶正月に[[五位蔵人]]に補せられ、8月に新たに[[花山天皇]]が[[践祚]]するも道兼は引き続き蔵人を務めるとともに、10月には[[弁官|左少弁]] |
[[円融天皇|円融朝]]の[[天延]]3年︵[[975年]]︶[[叙爵]]し、[[天元 (日本)|天元]]2年︵[[979年]]︶[[侍従]]に[[任官]]する。[[永観]]2年︵[[984年]]︶正月に[[五位蔵人]]に補せられると、8月に新たに[[花山天皇]]が[[践祚]]するも道兼は引き続き蔵人を務めるとともに、10月には[[弁官|左少弁]]も兼ねた。
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花山朝では外戚(叔父) |
花山朝では外戚(叔父)である[[中納言|権中納言]]・[[藤原義懐]]が天皇を補佐して朝政を領導。一方で、春宮には道兼の同母妹・[[藤原詮子]]所生の懐仁親王が立てられており、道兼の父である[[右大臣]]・[[藤原兼家]]は外孫である懐仁親王の早期の[[即位]]を望んでいた。花山天皇は情緒的な性格で、寵愛していた[[女御]]・[[藤原忯子]]が没すると深く嘆き、思い悩むようになった。蔵人として近侍していた道兼は[[元慶寺]](花山寺)の厳久と共に仏の教えを説き、出家を勧めた。道兼も[[出家]]することを約束すると天皇もその気になってしまう。 |
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[[寛和]]2年︵[[986年]]︶6月23日丑の刻、道兼は花山天皇を密かに[[内裏]]から連れ出す。道兼は天皇が途中で足を止めるのをかき口説き、何とか[[山科区|山科]]の元慶寺まで連れてきた。天皇は厳久に戒を受けて剃髪した。ところが、道兼は﹁父に出家前の姿を一目見せ、出家することを告げた後に必ずこちらに戻ってきます{{refnest|[[s:大鏡 (國文大觀)|大鏡]]<ref group="注釈">まかりいでゝ、おとゞにもかはらぬ姿今一度見え、かくと案內も申して必ず參り侍らむ</ref>}}﹂と言うや、寺から立ち去ってしまった。天皇は騙されたと知るが既に手遅れで、宮中では兼家と兄・道隆が |
[[寛和]]2年︵[[986年]]︶6月23日丑の刻、道兼は花山天皇を密かに[[内裏]]から連れ出す。道兼は天皇が途中で足を止めようとするのをかき口説き、何とか[[山科区|山科]]の元慶寺まで連れてきた。天皇は厳久に戒を受けて剃髪した。ところが、道兼は﹁父に出家前の姿を一目見せ、出家することを告げた後に必ずこちらに戻ってきます{{refnest|[[s:大鏡 (國文大觀)|大鏡]]<ref group="注釈">まかりいでゝ、おとゞにもかはらぬ姿今一度見え、かくと案內も申して必ず參り侍らむ</ref>}}﹂と言うや、寺から立ち去ってしまった。天皇は騙されたと知るが既に手遅れで、宮中では兼家と兄・道隆が新帝践祚の準備を手早く済ませていた。翌朝、義懐と権左中弁・[[藤原惟成]]が元慶寺に駆けつけるが、出家した天皇の姿を見て絶望し、彼らも出家した︵[[寛和の変]]︶。
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幼い懐仁親王が[[践祚]]︵[[一条天皇]]︶すると、外祖父の兼家は摂政に就任 |
幼い懐仁親王が[[践祚]]([[一条天皇]])すると、外祖父の兼家は摂政に就任。功労者の道兼も同日中に[[蔵人頭]]に任じられ、7月に[[従四位|従四位下]]・[[参議]]、10月には[[従三位]]・[[中納言|権中納言]]、11月に[[正三位]]に叙任されるなど急速に昇進を果たす。翌[[永延]]元年([[987年]])先任中納言の[[源重光]]・[[源保光]]・[[藤原公季]]を超えて[[従二位]]に叙せられ{{sfn|川田康幸|1986|p=193}}、[[永祚 (日本)|永祚]]元年([[989年]])には同じく先任中納言の[[藤原顕光]]を超えて[[正二位]]・[[大納言|権大納言]]に進んだ{{sfn|川田康幸|1986|p=193}}。 |
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[[正暦]]元年︵[[990年]]︶藤原兼家が病に伏して没すると、後任の関白には長兄・道隆が任じられる。兼家が側近たちに後継者を相談した際、[[藤原有国]]は一条天皇 |
[[正暦]]元年︵[[990年]]︶藤原兼家が病に伏して没すると、後任の関白には長兄・道隆が任じられる。兼家が側近たちに後継者を相談した際、[[藤原有国]]は一条天皇践祚の功を理由に道兼を推挙したが、[[平惟仲]]や[[多米国平]]が道隆を推挙したため、兼家は惟仲らの意見を採用したという︵﹃[[江談抄]]﹄︶。これに対して道兼は、父への功があったのだから当然に自分が関白を継ぐべきだと望んでいたところ、道隆が後継に選ばれたことを甚だ憎み、父の喪中にもかかわらず客を集めては遊興に耽ったとの話が伝わっている︵﹃[[大鏡]]﹄︶<ref name="b" />。
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しかし、道隆執政下でも道兼の昇進は続き、正暦2年([[991年]])[[内大臣]]、正暦5年([[994年]])[[右大臣]]へと進んだ。 |
しかし、道隆執政下でも道兼の昇進は続き、正暦2年([[991年]])[[内大臣]]、正暦5年([[994年]])[[右大臣]]へと進んだ。 |
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[[長徳]]元年︵[[995年]]︶関白・道隆 |
[[長徳]]元年︵[[995年]]︶関白・道隆は重い病に伏し、後継の関白に嫡男の内大臣・[[藤原伊周]]を望むが許されず、4月10日に没した。半月ほどの摂関不在を経て、4月27日に道兼は関白宣下を受ける。ところが、ほどなく道兼は病になり、5月8日に没した。享年35。在任期間はわずか10日ばかりであり、世に﹁七日関白﹂と呼ばれた{{sfn|川田康幸|1986|p=193}}。{{要出典範囲|﹁七日関白﹂の名は5月2日に奏慶︵天皇に御礼を述べるために関白として初参内︶してから7日目であったからだともいう|date=2024年4月}}。死後、[[正一位]][[太政大臣]]を追贈された。病中の道兼が関白に任じられた背景には、﹁関白は兄弟順に﹂という先例を作って道兼の次に道長を関白にしたいとする皇太后詮子の関与があったとする見方がある<ref>倉本一宏﹃一条天皇﹄︵吉川弘文館人物叢書、2003年︶ P57-58︶</ref>。
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なお、この4月から5月にかけては道隆・道兼兄弟のほか、左大臣の[[源重信]]、大納言の[[藤原済時]]・[[藤原朝光]]・[[藤原道頼]]、中納言の[[源保光]]・[[源伊陟]]と8人の議政官が病死している{{sfn|深澤瞳|2006|p=40}}。正暦4年︵[[993年]]︶頃から太宰府では[[天然痘|疱瘡]]が大流行しており、正暦5年頃からは全国的な大流行となっていた{{sfn|北山円正|2022|p=2}}。[[一条天皇]]も罹患しており、道隆を除く公卿らの死因も疱瘡が原因と見られている{{sfn|北山円正|2022|p=4-5p}}。﹃栄花物語﹄では病気にはふれず、伊周の外祖父[[高階成忠]]による[[呪詛]]がほのめかされている{{sfn|深澤瞳|2006|p=37-38}}。
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道兼の関白の時期は短かったが、一度だけ[[陣定]]が開催されている{{refnest|group="注釈"|[[藤原実資]]︵右大将︶が宰相中将︵つまり実資の下僚︶であった道兼の子・兼隆に﹁中将・少将の随身を祭に陪従させてはならない﹂という規則が二条相府︵道兼︶の時に定められたと述べている<ref>﹃小右記﹄長和2年1月26日条</ref>。しかしこれは道兼が右大将だった時の意であり、本文の陣定云々は誤りである。}}。また、家司の藤原有国が危篤となった道兼に対して、後任の関白を指名した譲状を書くよう勧めたが、関白は譲状を書くものではないとして道兼は拒否したという︵﹃江談抄﹄︶{{sfn|川田康幸|1986|p=198}}。
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道兼の関白の時期は短かったが、一度だけ[[陣定]]が開催されている{{refnest|group="注釈"|[[藤原実資]]︵右大将︶が宰相中将︵つまり実資の下僚︶であった道兼の子・兼隆に﹁中将・少将の随身を祭に陪従させてはならない﹂という規則が二条相府︵道兼︶の時に定められたと述べている<ref>﹃小右記﹄長和2年1月26日条</ref>。しかしこれは道兼が右大将だった時の意であり、本文の陣定云々は誤りである。}}。また、家司の藤原有国が危篤となった道兼に対して、後任の関白を指名した譲状を書くよう勧めたが、関白は譲状を書くものではないとして道兼は拒否したという︵﹃江談抄﹄︶{{sfn|川田康幸|1986|p=198}}。
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2024年4月28日 (日) 04:43時点における版
藤原 道兼 | |
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時代 | 平安時代中期 |
生誕 | 応和元年(961年) |
死没 | 長徳元年5月8日(995年6月8日) |
別名 | 粟田殿、二条殿、町尻殿、粟田関白、七日関白 |
官位 |
正二位、関白、右大臣 贈正一位、太政大臣 |
主君 | 円融天皇→花山天皇→一条天皇 |
氏族 | 藤原北家九条流 |
父母 | 父:藤原兼家、母:藤原時姫 |
兄弟 | 道隆、超子、道綱、道綱母養女、道兼、詮子、道義、道長、綏子、兼俊 |
妻 | 藤原遠量娘、藤原繁子(藤原師輔娘)、藤原国光娘 |
子 | 福足君、尊子、兼隆、兼綱、兼信、二条殿御方、典侍 |
概要
経歴
人物
官歴
系譜
- 略系
道兼 ┣━━━┳━━━┓ 兼隆 兼綱 兼信 ┃ 兼房 ┃ 宗円(宇都宮氏)道兼の子・兼隆よりのちに公卿になった者はなく、﹃大鏡﹄では公家としては語るべき子孫がいないことが記されている。﹃尊卑分脈﹄や﹁宇都宮系図﹂によれば、下野国の豪族宇都宮氏は兼隆の孫藤原宗円の子孫であると称している[20]。宗円は﹃中右記﹄にある三井寺の僧に比定する研究があるが、彼については道長の孫藤原俊家の子であるという意見もある[20]。
関連作品
- テレビドラマ
脚注
注釈
出典
- ^ 大鏡[注釈 1]
- ^ a b c 川田康幸 1986, p. 193.
- ^ a b 『大鏡』第四巻,右大臣道兼
- ^ 倉本一宏『一条天皇』(吉川弘文館人物叢書、2003年) P57-58)
- ^ 深澤瞳 2006, p. 40.
- ^ 北山円正 2022, p. 2.
- ^ 北山円正 2022, p. 4-5p.
- ^ 深澤瞳 2006, p. 37-38.
- ^ 『小右記』長和2年1月26日条
- ^ 川田康幸 1986, p. 198.
- ^ 『栄花物語』巻第三,さまざまのよろこび
- ^ a b 川田康幸 1986, p. 203.
- ^ a b 川田康幸 1986, p. 205.
- ^ 徳植俊之 2000, p. 33.
- ^ 徳植俊之 2000, p. 34-35.
- ^ 『小右記』永祚元年8月13日条
- ^ 『栄花物語』(巻第14,あさみどり)
- ^ 川田康幸 1987, p. 89.
- ^ 『御堂関白記』寛弘9年3月26日条
- ^ a b 野口実 2013, p. 23.