「鹿苑寺」の版間の差分
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ブロックして見ろよ |
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{{Redirect|金閣寺}} |
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{{Otheruses|京都市にある寺院|岐阜県美濃市にある同名寺院|鹿苑寺 (美濃市)}} |
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{{日本の寺院 |
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|名称 = 鹿苑寺 |
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|画像 = [[画像:Kinkaku-ji 2015.JPG|250px]] |
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|画像説明 = 舎利殿(金閣) |
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|地図2 = {{Infobox mapframe|zoom=14|type=point|width=250|height=180|marker=religious-buddhist|stroke-width=1|shape-fill=#f5fffa|stroke-color=#006400|frame-latitude=35.0375|frame-longitude=135.7321}}{{Location map|Japan Kyoto city#Japan|float=center|width=250}} |
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|位置 = {{coord|35|2|21.85|N|135|43|45.71|E|region:JP-26_type:landmark|display=inline,title|name=鹿苑寺}} |
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|所在地 = [[京都府]][[京都市]][[北区 (京都市)|北区]]金閣寺町1 |
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|山号 = 北山(ほくざん) |
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|宗派 = [[臨済宗#相国寺派|臨済宗相国寺派]] |
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|寺格 = [[相国寺]]境外[[塔頭]] |
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|本尊 = [[聖観音]](方丈本尊) |
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|創建年 = [[応永]]4年([[1397年]]) |
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|開山 = [[夢窓疎石]](勧請) |
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|開基 = [[足利義満]] |
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|正式名 = 北山鹿苑禪寺 |
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|別称 = 金閣寺<br />北山殿<br />北山第 |
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|札所等 = [[神仏霊場巡拝の道]]第93番(京都第13番) |
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|文化財 = 絹本著色足利義満像、木造[[不動明王]]立像、大書院障壁画ほか([[重要文化財]])<br />庭園(国の[[史跡#特別史跡|特別史跡]]・[[名勝#特別名勝|特別名勝]])<br />[[世界遺産]] |
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|公式HP = https://www.shokoku-ji.jp/kinkakuji/ |
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|公式HP名= 臨済宗相国寺派 金閣寺 |
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[[画像:Yoshimitsu Ashikaga cropped.jpg|thumb|200px|[[足利義満]] - [[室町時代]]の[[室町幕府]]第3代[[征夷大将軍|将軍]]。]]
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'''鹿苑寺'''︵ろくおんじ︶は、[[日本]]の[[京都市]][[北区 (京都市)|北区]]金閣寺町にある[[臨済宗#相国寺派|臨済宗相国寺派]]の[[寺院]]である<ref>{{Cite web|和書|title=金閣寺について |url=https://www.shokoku-ji.jp/kinkakuji/about/ |website=臨済宗相国寺派 |access-date=2022-10-31}}</ref>。[[本山|大本山]][[相国寺]]の境外[[塔頭]]で[[山号]]は北山︵ほくざん︶。[[本尊]]は[[聖観音]]となっており、建物の内外に[[金箔]]が貼られていることから'''金閣寺'''︵きんかくじ︶とも呼ばれている<ref>[http://www.shokoku-ji.jp/k_about.html 金閣寺とは] 臨済宗相国寺派</ref>。正式名称は'''北山鹿苑禅寺'''︵ほくざんろくおんぜんじ︶である<ref>{{Cite web|title=金閣寺|url=https://kyoto.itot.jp/kyoto/273 |website=京都に暮らす |access-date=2024-02-05}}</ref><ref>{{Cite web|title=北山文化の傑作﹁鹿苑寺﹂で感じる日本の美意識と歴史|url=https://gosyuinlog.com/kinkakuji/ |website=御朱印ログ |access-date=2024-02-05}}</ref>。
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寺名は[[開山 (仏教)|開基]]の[[室町幕府]]第3代[[征夷大将軍|将軍]][[足利義満]]の[[戒名|法号]]﹁鹿苑院殿﹂にちなんでつけられた<ref>[http://www.shokoku-ji.jp/h_k.html 金閣寺のあゆみ] 臨済宗相国寺派</ref>。寺紋は[[桐紋|五七桐]]<ref>[[千鹿野茂|千鹿野 茂]]﹃日本家紋総鑑﹄ISBN 4040315006 [[角川書店]]、1993年、373頁。</ref>、義満の北山山荘をその死後に寺としたものである。舎利殿は[[室町時代]]前期の[[北山文化]]を代表する建築だったが、[[1950年]]︵[[昭和]]25年︶に放火により焼失し、[[1955年]]︵昭和30年︶に再建された。
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また[[1994年]]([[平成]]6年)には[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]([[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]])「[[古都京都の文化財]]」の構成資産に登録された。 |
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== 歴史 == |
== 歴史 == |
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鹿苑寺の一帯は、[[鎌倉時代]]の[[元仁]]元年︵[[1225年]]︶に[[藤原公経]]が[[西園寺]]を建立し、併せて山荘を営んでいた場所である<ref>[ |
鹿苑寺の一帯は、[[鎌倉時代]]の[[元仁]]元年︵[[1225年]]︶に[[藤原公経]]が[[西園寺]]を建立し、併せて山荘を営んでいた場所である<ref>[https://www.ritsumei.ac.jp/archives/common/file/publication/journal-21.pdf ﹁衣笠キャンパス略史 — 校地・校舎の変遷について - ︵著・久保田謙次︶﹂ 立命館百年史紀要 第二十一号︵2013年3月28日発行︶287頁 - 332頁]</ref>。またこれ以後も公経の子孫である[[西園寺家]]が代々領有を続けていた。西園寺家は代々[[朝廷 (日本)|朝廷]]と[[鎌倉幕府]]の連絡役である[[関東申次]]を務めていたが、幕府滅亡後に当主の[[西園寺公宗]]が[[後醍醐天皇]]暗殺を企てたことが発覚。公宗は処刑され、西園寺家の膨大な所領と資産は没収。西園寺は次第に修理されなくなっていった。
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[[応永]]4年︵[[1397年]]︶、金閣寺の開祖である[[足利義満]]が[[河内国]]と交換に西園寺を譲り受け、改築と新築を行い︵北山山荘︶、当時は﹁北山殿﹂﹁北山第﹂などと呼ばれた。山荘の規模は御所にも匹敵し、政治中枢の全てが集約された。応永元年︵[[1394年]]︶に将軍職を子の[[足利義持|義持]]に譲った義満だが、実権は手放さず北山殿にて政務を執っていた。
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[[応永]]4年︵[[1397年]]︶、金閣寺の開祖である[[足利義満]]が[[河内国]]と交換に西園寺を譲り受け、改築と新築を行い︵北山山荘︶、当時は﹁北山殿﹂﹁北山第﹂などと呼ばれた。山荘の規模は御所にも匹敵し、政治中枢の全てが集約された。応永元年︵[[1394年]]︶に将軍職を子の[[足利義持|義持]]に譲った義満だが、実権は手放さず北山殿にて政務を執っていた。
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応永6年([[1399年]])には現在の金閣寺舎利殿が完成したと推定される<ref name="早島">早島大祐「室町幕府論」(講談社選書メチエ)</ref>。[[相国寺]]の[[七重塔|七重大塔]]も同年に完成。高さ約109メートル、日本史上で最も高い仏塔とされる<ref name="七重大塔">[https://www.shokoku-ji.jp/reference/relation/nana/ 相国寺七重大塔 | 関連資料 | 資料室 | 臨済宗相国寺派] 2023年2月15日閲覧</ref>。 |
応永6年([[1399年]])には現在の金閣寺舎利殿が完成したと推定される<ref name="早島">早島大祐「室町幕府論」(講談社選書メチエ)</ref>。[[相国寺]]の[[七重塔|七重大塔]]も同年に完成。高さ約109メートル、日本史上で最も高い仏塔とされる<ref name="七重大塔">[https://www.shokoku-ji.jp/reference/relation/nana/ 相国寺七重大塔 | 関連資料 | 資料室 | 臨済宗相国寺派] 2023年2月15日閲覧</ref>。 |
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応永10年︵[[1403年]]︶、相国寺七重大塔が落雷により焼失すると<ref name="七重大塔" />、義満は当地に七重大塔︵北山大塔︶を再建。相国寺七重大塔と同程度の規模とされる<ref>{{Cite news|url= |
応永10年︵[[1403年]]︶、相国寺七重大塔が落雷により焼失すると<ref name="七重大塔" />、義満は当地に七重大塔︵北山大塔︶を再建。相国寺七重大塔と同程度の規模とされる<ref>{{Cite news|url=https://www.shikoku-np.co.jp/national/culture_entertainment/20160708000465|title=京都・金閣寺で相輪出土/義満建立、幻の北山大塔|newspaper=Shikoku News|publisher=四国新聞社|date=2016-07-08|accessdate=2022-12-01}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.sankei.com/article/20160815-JZQ3EISOAJKKFN6AIMVDFWL3EU/|title=金閣寺で﹁北山大塔﹂の破片発見 ﹁幻の110メートルタワー﹂の姿とは|newspaper=産経新聞|publisher=産経新聞社|date=2016-08-15|accessdate=2022-12-01}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.asahi.com/articles/ASP4T72SBP4BPLZB001.html|title=金閣寺の﹁幻の塔﹂の一部か 境内土壇から鎌倉期の木片|newspaper=朝日新聞デジタル|publisher=朝日新聞社|date=2021-04-26|accessdate=2022-11-30}}</ref>。
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応永15年︵[[1408年]]︶に義満が死亡すると、義持は北山第に住んでいた異母弟[[足利義嗣|義嗣]]をその生母春日局の屋敷に移し、自らここに入ったが、翌年︵[[1409年]]︶には北山第の一部を破却して[[三条坊門殿|三条坊門第]]に移った。
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応永15年︵[[1408年]]︶に義満が死亡すると、義持は北山第に住んでいた異母弟[[足利義嗣|義嗣]]をその生母春日局の屋敷に移し、自らここに入ったが、翌年︵[[1409年]]︶には北山第の一部を破却して[[三条坊門殿|三条坊門第]]に移った。
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File:Kinkakuji Kyoto, Japan. (10795616574).jpg|焼失前の金閣 |
File:Kinkakuji Kyoto, Japan. (10795616574).jpg|焼失前の金閣 |
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画像:Kinkakuji, 1893.jpg|焼失前の金閣 |
画像:Kinkakuji, 1893.jpg|焼失前の金閣([[1893年]]) |
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画像:GoldenPavillion1905.jpg|焼失前の金閣をデザインした絵葉書 |
画像:GoldenPavillion1905.jpg|焼失前の金閣をデザインした絵葉書([[1905年]]) |
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画像:Burned Kinkaku.jpg|焼失直後の金閣 |
画像:Burned Kinkaku.jpg|焼失直後の金閣([[1950年]][[7月2日]]) |
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鹿苑寺金閣は国宝保存法により国宝に指定されていたが、1950年︵昭和25年︶7月2日未明、学僧・林承賢︵当時21歳︶の放火により炎上︵[[金閣寺放火事件]]︶。国宝金閣︵舎利殿︶は全焼、国宝足利義満坐像、伝[[運慶]]作の観世音菩薩像、春日仏師作の[[夢窓疎石]]像等10体の木像等も焼失した。林は寺の裏山で自殺を図ったが一命を取り留めた。彼の母親は事情聴取のために京都に呼ばれ、その帰りに[[保津峡]]で投身自殺した。この事件は[[川端龍子]]の日本画﹃[[金閣炎上]]﹄、[[三島由紀夫]]の小説﹃[[金閣寺 (小説)|金閣寺]]﹄、[[水上勉]]の小説﹃[[五番町夕霧楼]]﹄・﹃金閣炎上﹄の題材にもなっている。なお、頂上にあった鳳凰及び﹁究竟頂﹂の額は火災以前に取り外されていたため、焼失を免れて現存し、このうち金銅鳳凰は[[1999年]]︵平成11年︶に京都市指定文化財に指定されている<ref>[http://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/htmlsheet/bunka09.html 文化史09金閣寺︵鹿苑寺︶]、京都市歴史資料館﹁フィールドミュージアム京都﹂</ref>。なお、当事件にいち早く取材に駆け付けたのは、[[産経新聞]]京都支局の福田定一︵後の作家・[[司馬遼太郎]]︶記者である。
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鹿苑寺金閣は国宝保存法により国宝に指定されていたが、1950年︵昭和25年︶7月2日未明、学僧・林承賢︵当時21歳︶の放火により炎上︵[[金閣寺放火事件]]︶。国宝金閣︵舎利殿︶は全焼、国宝足利義満坐像、伝[[運慶]]作の観世音菩薩像、春日仏師作の[[夢窓疎石]]像等10体の木像等も焼失した。林は寺の裏山で自殺を図ったが一命を取り留めた。彼の母親は事情聴取のために京都に呼ばれ、その帰りに[[保津峡]]で投身自殺した。この事件は[[川端龍子]]の日本画﹃[[金閣炎上]]﹄、[[三島由紀夫]]の小説﹃[[金閣寺 (小説)|金閣寺]]﹄、[[水上勉]]の小説﹃[[五番町夕霧楼]]﹄・﹃金閣炎上﹄の題材にもなっている。なお、頂上にあった鳳凰及び﹁究竟頂﹂の額は火災以前に取り外されていたため、焼失を免れて現存し、このうち金銅鳳凰は[[1999年]]︵平成11年︶に京都市指定文化財に指定されている<ref>[http://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/htmlsheet/bunka09.html 文化史09金閣寺︵鹿苑寺︶]、京都市歴史資料館﹁フィールドミュージアム京都﹂</ref>。なお、当事件にいち早く取材に駆け付けたのは、[[産経新聞]]京都支局の福田定一︵後の作家・[[司馬遼太郎]]︶記者である。
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再建金閣は、[[村田治郎]]らの指導で1952年︵昭和27年︶から再建に着手し、1955年︵昭和30年︶に落慶したものである。焼失前の金閣は1904年︵明治37年︶から1906年︵明治39年︶にかけて解体修理が行われていた。再建金閣は、この解体修理時に作成された図面をもとにして、焼失前の建物の構造・意匠を基本的に踏襲している。
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再建金閣は、消失後に故・村上慈海住職らの再建托鉢に始まり、やがて[[村田治郎]]らの指導で1952年︵昭和27年︶から再建に着手し、1955年︵昭和30年︶に落慶したものである。焼失前の金閣は1904年︵明治37年︶から1906年︵明治39年︶にかけて解体修理が行われていた。再建金閣は、この解体修理時に作成された図面をもとにして、焼失前の建物の構造・意匠を基本的に踏襲している。
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焼失前の金閣は三層のみに金箔が残り、二層には全く金箔が残っていなかったが、再建金閣では三層のみならず二層の外面も全面金箔貼りとしてい |
焼失前の金閣は三層のみに金箔が残り、二層には全く金箔が残っていなかったが、再建金閣では三層のみならず二層の外面も全面金箔貼りとしている<ref>﹃日本名建築写真選集11金閣寺・銀閣寺﹄pp.100 - 101</ref>。これは、次のような根拠に基づくものであった。明治時代の金閣の解体修理の後、再使用されなかった二層の隅木︵屋根の四隅に用いられる斜材︶の部分が別途保存されており、花入れに加工されて別途保存されていた。昭和25年の金閣炎上後は、この花入れ︵旧二層隅木の一部︶が唯一の焼け残った部材となり、この部材に金箔が押されていたことから、再建金閣では二層も金箔貼りとすることになった。建築史家の[[宮上茂隆]]は、もっとも風雨にさらされやすい部材である隅木のみに金箔が残っているのは不自然であるとし、二層には本来金箔は貼られていなかったとする<ref>﹃日本名建築写真選集11金閣寺・銀閣寺﹄p.102</ref>。また、焼失前の金閣では二層の東面と西面の中央に[[連子窓]]が設けられていたが、再建金閣では二層の東・西面はすべて壁となっている<ref>﹃日本名建築写真選集11金閣寺・銀閣寺﹄pp.101 - 102</ref>。
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現在の金閣は、前述のように明治37年から39年の解体修理の際に作成された旧建物の詳細な図面や写真・古文書・焼損材等の資料を基に、昭和27年3月22日から3年を掛けて復元再建されたもので<ref>[http://www.kyokenro.or.jp/bunkazai/1998/01/post-10.html 北山 鹿苑寺 金閣|文化財の修理の現場から]、全京都建築労働組合</ref>、昭和30年10月10日に落慶法要が営まれた。その後、再建から10年あまりで金箔が剥落して下地の[[漆|黒漆]]が見えるようになり、その漆も[[紫外線]]で劣化するようになったため、[[1986年]](昭和61年)2月から翌[[1987年]](昭和62年)10月まで1年8ヶ月、総工費約7億4千万円(当時)を投じて「昭和大修復」が行われ、漆の塗り替えや金箔の貼り替え、天井画の復元等の修復工事が行われた。この修復工事に際し、金箔は通常(約0.1[[マイクロメートル|µm]])の5倍の厚さ(約0.45 - 0.55µm)の「五倍箔」<ref>[http://www.koetsuan.jp/kinkaku/index.html 金閣寺昭和大修復]、浩悦庵</ref>約20万枚(約20[[キログラム|kg]])、漆は国産の「[[浄法寺漆]]」約1.5tが使用されている。 |
現在の金閣は、前述のように明治37年から39年の解体修理の際に作成された旧建物の詳細な図面や写真・古文書・焼損材等の資料を基に、昭和27年3月22日から3年を掛けて復元再建されたもので<ref>[http://www.kyokenro.or.jp/bunkazai/1998/01/post-10.html 北山 鹿苑寺 金閣|文化財の修理の現場から]、全京都建築労働組合</ref>、昭和30年10月10日に落慶法要が営まれた。その後、再建から10年あまりで金箔が剥落して下地の[[漆|黒漆]]が見えるようになり、その漆も[[紫外線]]で劣化するようになったため、[[1986年]](昭和61年)2月から翌[[1987年]](昭和62年)10月まで1年8ヶ月、総工費約7億4千万円(当時)を投じて「昭和大修復」が行われ、漆の塗り替えや金箔の貼り替え、天井画の復元等の修復工事が行われた。この修復工事に際し、金箔は通常(約0.1[[マイクロメートル|µm]])の5倍の厚さ(約0.45 - 0.55µm)の「五倍箔」<ref>[http://www.koetsuan.jp/kinkaku/index.html 金閣寺昭和大修復]、浩悦庵</ref>約20万枚(約20[[キログラム|kg]])、漆は国産の「[[浄法寺漆]]」約1.5tが使用されている。 |
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* 榊雲(シンウン) - 祭神:[[春日神|春日明神]] |
* 榊雲(シンウン) - 祭神:[[春日神|春日明神]] |
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* 銀河泉(ぎんがせん) - 足利義満がお茶の水に使ったと伝えられる泉。 |
* 銀河泉(ぎんがせん) - 足利義満がお茶の水に使ったと伝えられる泉。 |
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* 巌下水︵がんかすい︶ - 足利義満が手洗いに用いたと伝えられる泉<ref>{{Cite web |
* 巌下水︵がんかすい︶ - 足利義満が手洗いに用いたと伝えられる泉<ref>{{Cite web|和書|url = http://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=6&ManageCode=1000053 |title = 室町時代<前期>︵1392~1467︶2 |publisher = 京都観光Navi |accessdate = 2018-02-17 }}</ref>。
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* 安民沢 - 西園寺当時の遺跡でもある池。 |
* 安民沢 - 西園寺当時の遺跡でもある池。 |
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* 白蛇の塚 - [[西園寺家]]の鎮守とされる。 |
* 白蛇の塚 - [[西園寺家]]の鎮守とされる。 |
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* 『古寺巡礼京都20 金閣寺・銀閣寺』[[淡交社]]、1977年12月1日、井上靖、塚本善隆監修、竹中郁、村上慈海著 |
* 『古寺巡礼京都20 金閣寺・銀閣寺』[[淡交社]]、1977年12月1日、井上靖、塚本善隆監修、竹中郁、村上慈海著 |
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* 『昭和京都名所図会 洛西』駸々堂、1983年11月 [[竹村俊則]] |
* 『昭和京都名所図会 洛西』駸々堂、1983年11月 [[竹村俊則]] |
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* 『日本名建築写真選集 11 金閣寺・銀閣寺』[[新潮社]]、1992年11月 |
* 『日本名建築写真選集 11 金閣寺・銀閣寺』[[新潮社]]、1992年11月 柴田秋介、[[杉本苑子]]、[[宮上茂隆]] |
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** 解説 宮上重隆「足利将軍第の建築文化」 |
** 解説 宮上重隆「足利将軍第の建築文化」 |
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* 『古寺巡礼 京都 20 金閣寺・銀閣寺』淡交社、1977年 |
* 『古寺巡礼 京都 20 金閣寺・銀閣寺』淡交社、1977年 |
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*『日本歴史地名大系 京都市の地名』[[平凡社]] 1979年9月1日 |
*『日本歴史地名大系 京都市の地名』[[平凡社]] 1979年9月1日 |
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*『角川日本地名大辞典 京都府』[[角川書店]] 1982年07月 |
*『角川日本地名大辞典 京都府』[[角川書店]] 1982年07月 |
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*『国史大辞典(4)』[[吉川弘文館]] |
*『国史大辞典(4)』[[吉川弘文館]] 1984年1月1日 |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
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[[Category:古都京都の文化財]] |
[[Category:古都京都の文化財]] |
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[[Category:京都にある日本庭園]] |
[[Category:京都にある日本庭園]] |
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[[Category:再建された日本の建築物]] |
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[[Category:足利義満]] |
[[Category:足利義満]] |
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[[Category:夢窓疎石]] |
[[Category:夢窓疎石]] |
2024年5月3日 (金) 00:37時点における最新版
鹿苑寺 | |
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舎利殿(金閣) | |
所在地 | 京都府京都市北区金閣寺町1 |
位置 | 北緯35度2分21.85秒 東経135度43分45.71秒 / 北緯35.0394028度 東経135.7293639度座標: 北緯35度2分21.85秒 東経135度43分45.71秒 / 北緯35.0394028度 東経135.7293639度 |
山号 | 北山(ほくざん) |
宗派 | 臨済宗相国寺派 |
寺格 | 相国寺境外塔頭 |
本尊 | 聖観音(方丈本尊) |
創建年 | 応永4年(1397年) |
開山 | 夢窓疎石(勧請) |
開基 | 足利義満 |
正式名 | 北山鹿苑禪寺 |
別称 |
金閣寺 北山殿 北山第 |
札所等 | 神仏霊場巡拝の道第93番(京都第13番) |
文化財 |
絹本著色足利義満像、木造不動明王立像、大書院障壁画ほか(重要文化財) 庭園(国の特別史跡・特別名勝) 世界遺産 |
公式サイト | 臨済宗相国寺派 金閣寺 |
法人番号 | 3130005001267 |
歴史
鹿苑寺の一帯は、鎌倉時代の元仁元年︵1225年︶に藤原公経が西園寺を建立し、併せて山荘を営んでいた場所である[7]。またこれ以後も公経の子孫である西園寺家が代々領有を続けていた。西園寺家は代々朝廷と鎌倉幕府の連絡役である関東申次を務めていたが、幕府滅亡後に当主の西園寺公宗が後醍醐天皇暗殺を企てたことが発覚。公宗は処刑され、西園寺家の膨大な所領と資産は没収。西園寺は次第に修理されなくなっていった。 応永4年︵1397年︶、金閣寺の開祖である足利義満が河内国と交換に西園寺を譲り受け、改築と新築を行い︵北山山荘︶、当時は﹁北山殿﹂﹁北山第﹂などと呼ばれた。山荘の規模は御所にも匹敵し、政治中枢の全てが集約された。応永元年︵1394年︶に将軍職を子の義持に譲った義満だが、実権は手放さず北山殿にて政務を執っていた。 応永6年︵1399年︶には現在の金閣寺舎利殿が完成したと推定される[8]。相国寺の七重大塔も同年に完成。高さ約109メートル、日本史上で最も高い仏塔とされる[9]。 応永10年︵1403年︶、相国寺七重大塔が落雷により焼失すると[9]、義満は当地に七重大塔︵北山大塔︶を再建。相国寺七重大塔と同程度の規模とされる[10][11][12]。 応永15年︵1408年︶に義満が死亡すると、義持は北山第に住んでいた異母弟義嗣をその生母春日局の屋敷に移し、自らここに入ったが、翌年︵1409年︶には北山第の一部を破却して三条坊門第に移った。 応永23年︵1416年︶1月、七重大塔が落雷で再度焼失。義持は当地ではなく、相国寺に七重大塔を再建するよう命じた[13]。 当時は義満の妻である北山院日野康子の御所となっていたが、応永26年︵1419年︶11月に日野康子が死亡すると、舎利殿以外の寝殿等は解体され、南禅寺や建仁寺に寄贈された[14]。そして、応永27年︵1420年︶に北山第は義満の遺言により禅寺とされ、義満の法号﹁鹿苑院殿﹂から鹿苑寺と名付けられた。その際、夢窓疎石を勧請開山︵名目上の開山︶とした。 足利義満の孫・第8代将軍足利義政はたびたび鹿苑寺に参詣し、舎利殿にも上っていることが記録に残されている。﹃蔭涼軒日録﹄には、応仁の乱が終わって8年ほど経った文明17年︵1485年︶10月15日に義政が参詣した際の、義政と亀泉集証︵﹃蔭涼軒日録﹄の筆者︶のやりとりが記録されている。金閣は応仁の乱には焼け残ったが、当時の境内はまだ荒れており、庭の楓樹の大半が乱のさなかに伐られ、池の水量も減っていたことが義政と亀泉のやりとりから窺われる。義政の問いに対する亀泉の応答によると、二層に安置されていた観音像は応仁の乱で失われ、新しい像に替わっていた。また、三層には阿弥陀如来と二十五菩薩の像を安置していたが、像本体は失われ、像の背後にあった白雲だけが残っていた[15][16]。 足利義政は、祖父の義満が建てた舎利殿に倣い、造営中の東山山荘︵現・慈照寺︶に観音殿︵近世以降銀閣と通称される︶を建てた。 応仁の乱では、西軍の陣となり建築物の多くが焼失したが、江戸時代に西笑承兌が中興し、以後主要な建物が再建され、舎利殿も慶安2年︵1649年︶に大修理された。明治維新後の廃仏毀釈により、寺領の多くが返上されて経済的基盤を失ったが、当時の十二世住職貫宗承一により1894年︵明治27年︶から庭園および金閣を一般に公開すると共に拝観料を徴収して寺収入を確保した。 舎利殿︵金閣︶は古社寺保存法に基づき1897年︵明治30年︶12月28日に﹁特別保護建造物﹂に指定され、1929年︵昭和4年︶7月1日の国宝保存法施行に伴い︵旧︶国宝に指定された。また、1904年︵明治37年︶から1906年︵明治39年︶に解体修理が行われた。庭園は史蹟名勝天然紀念物保存法︵文化財保護法の前身の1つ︶により1925年︵大正14年︶10月8日に史跡・名勝、文化財保護法により1956年︵昭和31年︶7月19日に特別史跡・特別名勝に指定されている。 1935年︵昭和10年︶には、満洲国の皇帝である愛新覚羅溥儀が、国賓として来日した際、鹿苑寺を訪れている。 1950年︵昭和25年︶7月2日未明、放火により国宝の舎利殿︵金閣︶と安置されていた仏像等を焼失する︵金閣寺放火事件︶。文部省文化財保護委員会と京都府教育委員会で協議が行われ、国宝指定の解除と金閣再建の援助が決定された。再建費用として、政府からの補助や全国各地からの寄付により約3000万円︵当時︶が集められ[17]、1952年︵昭和27年︶着工、1955年︵昭和30年︶竣工。同年10月10日に落慶法要が営まれ、創建当時の姿に復元された。 1986年︵昭和61年︶から1987年︵昭和62年︶に金閣の﹁昭和大修復﹂が行われたほか、1997年︵平成9年︶に茶室﹁夕佳亭﹂の解体修理、2005年︵平成17年︶から2007年︵平成19年︶に方丈の解体修理も行われている。 1994年︵平成6年︶12月、当寺が構成要素のひとつとなったユネスコ世界遺産︵文化遺産︶﹁古都京都の文化財﹂が登録された。 2003年︵平成15年︶茶室﹁常足亭﹂ にチタン屋根を用い、最新技術を伝統建築に融合させた代表例となっている。-
鏡湖池と金閣
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雪化粧した神秘的な金閣
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金閣(北東から)
舎利殿(金閣)
建築形式と間取り
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修繕の様子(1955年秋)
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三層の桟唐戸、火灯窓、禅宗様高欄
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屋上の鳳凰像
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初層内部(宝冠釈迦如来像と足利義満像がみえる)