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[[File:契沖、賀茂真淵、本居宣長対座画像.jpg|thumb|320px|[[#主な国学者|国学の三哲]]<hr>左から[[本居宣長]]、[[契沖]]、[[賀茂真淵]]。]]
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'''国学'''︵こくがく、正字: 國學︶は、[[日本]]の[[江戸時代]]中期に勃興した[[学問]]である。[[蘭学]]と並 |
'''国学'''︵こくがく、正字: 國學︶は、[[日本]]の[[江戸時代]]中期に勃興した[[学問]]である。[[蘭学]]と並んで江戸時代を代表する学問の一つで、別名に'''和学'''、'''皇朝学'''、'''古学'''などがある{{Sfnp|中澤伸弘|2006|pp=16-17}}{{Sfnp|國學院大學日本文化研究所編|2022|p=2}}。[[皇学]]の基部学問でもある。その扱う範囲は幅広く、[[日本語学|国語学]]、[[日本文学|国文学]]、[[歌道]]、[[歴史学]]、[[地理学]]、[[有職故実]]、[[神学]]などに及び、学問に対する態度もまた[[学者]]それぞれによって異なる。
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== 概要 == |
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{{multiple image|header = [[本居宣長旧宅]]︵国指定史跡︶|header_align = center|caption_align = center|total_width = 350|image1 = Suzunoya Gaikan.jpg|caption1 = 外観|image2 =本居宣長旧宅.JPG |caption2 = 内部|footer = <hr>[[三重県]][[松阪市]][[殿町 (松阪市)|殿町]]の[[松坂城]][[曲輪#位置による名称|二の丸]]跡地。2階の[[書斎]]が﹁[[本居宣長旧宅#書斎﹁鈴屋﹂|鈴屋]]﹂とされた。}}
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それまでの﹁[[四書五経]]﹂をはじめとする[[儒教]]の[[古典]]や[[仏典]]の研究を中心とする学問傾向を批判することから生まれ、日本の古典を研究し、儒教や[[仏教]]の影響を受ける以前の古代の日本にあった、独自の[[文化]]、[[思想]]、[[精神世界]]︵[[道 (国学)|道]]︶を明らかにしようとする学問である{{Sfnp|日本史用語研究会|2009|}}。江戸時代中期、[[元禄]]の |
それまでの﹁[[四書五経]]﹂をはじめとする[[儒教]]の[[古典]]や[[仏典]]の研究を中心とする学問傾向を批判することから生まれ、日本の古典を研究し、儒教や[[仏教]]の影響を受ける以前の古代の日本にあった、独自の[[文化]]、[[思想]]、[[精神世界]]︵[[道 (国学)|道]]︶を明らかにしようとする学問である{{Sfnp|日本史用語研究会|2009|}}。江戸時代中期、[[元禄]]の頃に[[契沖]]が創始したとされるが{{Sfnp|日本史用語研究会|2009|}}、後述のように、その源流は江戸時代の初期から既に現れ始めていた。なお﹁国学﹂の語が使われるようになったのは、契沖を学んだ[[荷田春満]]の頃からで、今日のように定着したのは、[[明治]]以降のことである{{Sfnp|中澤伸弘|2006|pp=16-17}}。
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国学の[[方法論]]は、国学者が批判の対象とした[[伊藤仁斎]]の古義学や[[荻生徂徠]]の[[古文辞学]]の方法論より多大な影響を受けている。国学は、儒教道徳、仏教道徳などが人間らしい感情を押し殺すことを批判し、[[もののあはれ|人間のありのままの感情の自然な表現]]を評価する。
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国学の[[方法論]]は、国学者が批判の対象とした[[伊藤仁斎]]の古義学や[[荻生徂徠]]の[[古文辞学]]の方法論より多大な影響を受けている。国学は、儒教道徳、仏教道徳などが人間らしい感情を押し殺すことを批判し、[[もののあはれ|人間のありのままの感情の自然な表現]]を評価する。
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古道説は[[賀茂真淵]]、[[本居宣長]]により、儒学に対抗する思想の体系として確立されていき、主に町人や地主層の支持を集めた{{Sfnp|日本史用語研究会|2009|}}。この古道説の流れは、江戸時代後期の[[平田篤胤]]に至って、[[復古神道]]が提唱されるなど宗教色を強めていき、やがて復古思想の大成から[[尊王論|尊王思想]]に発展していくこととなった{{Sfnp|中澤伸弘|2006|pp=36-37}}。
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古道説は[[賀茂真淵]]、[[本居宣長]]により、儒学に対抗する思想の体系として確立されていき、主に町人や地主層の支持を集めた{{Sfnp|日本史用語研究会|2009|}}。この古道説の流れは、江戸時代後期の[[平田篤胤]]に至って、[[復古神道]]が提唱されるなど宗教色を強めていき、やがて復古思想の大成から[[尊王論|尊王思想]]に発展していくこととなった{{Sfnp|中澤伸弘|2006|pp=36-37}}。
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[[実証主義]]的な国学者としては、 |
[[実証主義]]的な国学者としては、[[塙保己一]]、[[伴信友]]が知られる([[#実証による文献考証の流れ|後述]])。 |
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== 歴史 == |
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=== 歌学としての国学の誕生 === |
=== 歌学としての国学の誕生 === |
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[[File:Keichu02.jpg|thumb|200px|契沖]] |
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国学の源流は、[[木下勝俊]]、[[戸田茂睡]]らによって、[[江戸時代]]に形骸化した[[中世]][[歌学]]を批判する形で現れた。そうした批判は、[[下河辺長流]]、[[契沖]]の﹃[[万葉集]]﹄研究に引き継がれ、特に契沖の実証主義的な姿勢は古典研究を高い学問水準に高めたことで高く評価された。彼らの﹃万葉集﹄研究は、[[水戸学]]の祖である[[徳川光圀]]が物心両面で支えた。水戸の﹃[[大日本史]]﹄編纂と国学は深い関連を持っている{{Sfnp|國學院大學日本文化研究所編|2022|pp=27-30}}。
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国学の源流は、[[木下勝俊]]、[[戸田茂睡]]らによって、[[江戸時代]]に形骸化した[[中世]][[歌学]]を批判する形で現れた。そうした批判は、[[下河辺長流]]、[[契沖]]の﹃[[万葉集]]﹄研究に引き継がれ、特に契沖の実証主義的な姿勢は古典研究を高い学問水準に高めたことで高く評価された。彼らの﹃万葉集﹄研究は、[[水戸学]]の祖である[[徳川光圀]]が物心両面で支えた。水戸の﹃[[大日本史]]﹄編纂と国学は深い関連を持っている{{Sfnp|國學院大學日本文化研究所編|2022|pp=27-30}}。
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=== 実証による文献考証の流れ === |
=== 実証による文献考証の流れ === |
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{{multiple image|align = right|caption_align = center|total_width = 400|image1 = Ban Nobutomo.jpg|caption1 = 伴信友|image2 = Hanawa Hokiichi.jpg|caption2 = 塙保己一}} |
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篤胤によって復古神道が大成されたころも、真淵の門人であった[[村田春海]]らのように、契沖以来の実証主義的な古典研究を重視する立場から平田国学に否定的な学派があり、ひとくちに国学といっても、その内情は複雑であった。
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篤胤によって復古神道が大成されたころも、真淵の門人であった[[村田春海]]らのように、契沖以来の実証主義的な古典研究を重視する立場から平田国学に否定的な学派があり、ひとくちに国学といっても、その内情は複雑であった。
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[[吉田松陰]]は「朝鮮を責めて、質を納れ、貢を奉ずること古の盛時のごとくならしめ、北は満洲の地を割き、南は台湾、呂宋諸島を収め、進取の勢を示すべき」「国力を養ひて取り易き朝鮮、支那、満洲を斬り従えん」と獄中から弟子たちに書き送り<ref>「幽囚録」{{Cite book|和書|editor=山口県教育会|title=吉田松陰全集 (第1巻)|publisher=岩波書店|date=1940-2|pages=350-351}}</ref>、これを弟子の[[木戸孝允|桂小五郎]]が具体化して[[征韓論]]を唱えた{{Sfnp|秦郁彦|2012|pp=14-18}}。しかし、松陰が国学の思想に影響を受けているのは事実であるが{{Sfnp|田中康二|2020|pp=44-47}}、学問の根本は儒学に依拠しているため、「代表的人物として取り上げるのは不適切」とする意見もある{{Sfnp|國學院大學日本文化研究所編|2022|p=1}}。 |
[[吉田松陰]]は「朝鮮を責めて、質を納れ、貢を奉ずること古の盛時のごとくならしめ、北は満洲の地を割き、南は台湾、呂宋諸島を収め、進取の勢を示すべき」「国力を養ひて取り易き朝鮮、支那、満洲を斬り従えん」と獄中から弟子たちに書き送り<ref>「幽囚録」{{Cite book|和書|editor=山口県教育会|title=吉田松陰全集 (第1巻)|publisher=岩波書店|date=1940-2|pages=350-351}}</ref>、これを弟子の[[木戸孝允|桂小五郎]]が具体化して[[征韓論]]を唱えた{{Sfnp|秦郁彦|2012|pp=14-18}}。しかし、松陰が国学の思想に影響を受けているのは事実であるが{{Sfnp|田中康二|2020|pp=44-47}}、学問の根本は儒学に依拠しているため、「代表的人物として取り上げるのは不適切」とする意見もある{{Sfnp|國學院大學日本文化研究所編|2022|p=1}}。 |
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こうした思想のため[[第二次世界大戦]]期にかけて国学は[[教科書]]に盛んに取り上げられたが、戦後は一転して[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]のもと削除の対象となった{{Sfnp|田中康二|2019|pp=37-41}}。戦後の脱国学化した日本史の中心的人物となった[[津田左右吉]]は戦後、﹁神道や国学やまたは儒教の思想をうけつぎ、それを固執するものがあって、こういう研究︵※古典・皇室研究︶に反対し、時には官憲を動かしてそれを抑制しようとした﹂﹁根本的には、日本人の文化の程度が低く教養が足らず、特に批判的な精神を欠いていて、事物の真実を究めまたそれによって国民の思想と行動とをその上に立たせようとする学問の本質と価値とを理解するに至らないためであった﹂としている{{Sfnp|津田左右吉|1946}}。
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こうした思想のため[[第二次世界大戦]]期にかけて国学は[[教科書]]に盛んに取り上げられたが、戦後は一転して[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]のもと削除の対象となった{{Sfnp|田中康二|2019|pp=37-41}}。戦後の脱国学化した日本史の中心的人物となった[[津田左右吉]]は戦後、﹁神道や国学やまたは儒教の思想をうけつぎ、それを固執するものがあって、こういう研究︵※古典・皇室研究︶に反対し、時には官憲を動かしてそれを抑制しようとした﹂﹁根本的には、日本人の文化の程度が低く教養が足らず、特に批判的な精神を欠いていて、事物の真実を究めまたそれによって国民の思想と行動とをその上に立たせようとする学問の[[本質]]と価値とを理解するに至らないためであった﹂としている{{Sfnp|津田左右吉|1946}}。
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== 主な国学者 == |
== 主な国学者 == |
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{{multiple image|align = center|caption_align = center|total_width = 900|image1 = Keichu02.jpg|caption1 = [[契沖]]|image2 = Kada no Azumamaro.jpg|caption2 = [[荷田春満]]|image3 = Kamo no Mabuchi.jpg|caption3 = [[賀茂真淵]]|image4 = 本居宣長02.jpg|caption4 = [[本居宣長]]|image5 = Hirata Atsutane02.jpg|caption5 = [[平田篤胤]]|footer =<hr>契沖、真淵、宣長は﹁'''国学の三哲'''﹂とされる{{Sfnp|岩崎允胤|1993|p=2}}。﹁国学史上の最重要人物﹂として掲げられるが、これは文芸を中心とした実証研究方法に注目する立場を反映したものである{{Sfnp|國學院大學日本文化研究所編|2022|pp=2-3}}。<hr>春満、真淵、宣長、篤胤は﹁'''国学の四大人'''﹂とされる{{Sfnp|岩崎允胤|1993|p=2}}。同じく﹁国学史上の最重要人物﹂として掲げられるが、これは[[大国隆正]]が﹃学統弁論﹄で定めたことに始まるもので{{Sfnp|源了圓|1973|p=178}}{{Sfnp|中澤伸弘|2006|pp=112-113}}、国学の思想的主張を重視する立場を反映したものである{{Sfnp|國學院大學日本文化研究所編|2022|pp=2-3}}。なお、﹁四大人﹂は﹁'''したいじん'''{{Sfnp|國學院大學日本文化研究所編|2022|p=2}}﹂﹁'''しうし'''{{Sfnp|中澤伸弘|2006|pp=112-113}}﹂﹁'''ようし'''{{Sfnp|本居宣長記念館|2001|p=244}}﹂﹁'''よはしらのうし'''﹂と読まれる。}}
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=== 江戸時代 === |
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分類等は「国学年表{{Sfnp|國學院大學日本文化研究所編|2022|pp=277-290}}」によった。 |
分類等は「国学年表{{Sfnp|國學院大學日本文化研究所編|2022|pp=277-290}}」によった。 |
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==== 元禄期・宝永期・正徳期・享保期 (1688年 - 1736年) ==== |
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*[[安藤為章]] |
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*[[海北若冲]] |
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**[[今井似閑]] |
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*[[玉松真幸]] |
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*[[三田葆光]] |
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*[[三矢重松]] |
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*[[師岡正胤]] |
*[[師岡正胤]] |
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*[[小中村清矩]] |
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2024年5月15日 (水) 12:24時点における最新版
概要[編集]
歴史[編集]
歌学としての国学の誕生[編集]
国学の源流は、木下勝俊、戸田茂睡らによって、江戸時代に形骸化した中世歌学を批判する形で現れた。そうした批判は、下河辺長流、契沖の﹃万葉集﹄研究に引き継がれ、特に契沖の実証主義的な姿勢は古典研究を高い学問水準に高めたことで高く評価された。彼らの﹃万葉集﹄研究は、水戸学の祖である徳川光圀が物心両面で支えた。水戸の﹃大日本史﹄編纂と国学は深い関連を持っている[5]。 やがて伏見稲荷の神官であった荷田春満が、神道や古典から古き日本の姿を追求しようとする﹁古道論﹂を唱えた。春満の弟子の賀茂真淵は、一部において矛盾すら含んだ契沖と春満の国学を体系化し、学問として完成させた。真淵は儒教的な考えを否定して、古い時代の日本人の精神が含まれていると考えた﹃万葉集﹄の研究に生涯を捧げた[6]。復古思想の流れ[編集]
荻生徂徠は﹁聖人の道﹂を明らかにすることを目的として、儒教の経書を実証的に読み込む古文辞学を創始していた。また、大坂の懐徳堂で朱子学を学びながら﹁加上﹂という古学的な方法論により無鬼論︵無神論︶に至り、儒仏神道全てを批判した富永仲基がいた。真淵の門人である本居宣長は﹃源氏物語﹄を研究して﹁もののあはれ﹂の文学論を唱える一方で、徂徠や仲基の影響により﹃古事記﹄の実証的な研究を行い、上代の日本人は神と繋がっていたと主張して﹃古事記伝﹄を完成させた。この時点で国学は既に大成の域にあった。 その後﹁宣長没後の門人﹂を自称する平田篤胤は、宣長の﹁古道論﹂を神道の新たな教説である﹁復古神道﹂に発展させた。篤胤の思想は地方の農村へ広がり、平田派国学者の中には生田万のような反乱を起こすものや、尊皇攘夷志士として活動するものも現れた。こうしたことから、近代の国粋主義や皇国史観に影響を与えた[要出典]ともいわれる。実証による文献考証の流れ[編集]
対外膨張の思想[編集]
宣長は寛政2年︵1796年︶に﹃馭戒慨言﹄を刊行した。中野等によれば、この書名は﹁中国、朝鮮を西方の野蛮︵戎︶とみなし、これを万国に照臨する天照大御神の生国である我が国が﹁馭めならす﹂、すなわち統御すべきものとの立場による﹂という[7]。内容も﹁日本中心主義と尊内外卑に立って﹂外交交渉の歴史を解説している[7]。宣長の執筆意図は﹁漢意の排斥﹂が目的であり[注 1]、実際の外交を論じたものではなかったという見方もあるが、宣長の没後に欧米による異国船の来航が始まったことで、﹃馭戎慨言﹄は﹁現実の外交を論じたもの﹂として解釈される。幕末期に大国隆正は﹃馭戎問答﹄、平田延胤は﹃馭戎論﹄を著しており、こうした平田派の国学者によって﹁宣長の代表作﹂に挙げられた[9]。また時代が昭和に入ると、﹃馭戎慨言﹄は﹁大東亜共栄圏に臨むにあたって必読すべき書﹂として利用されている[9]。 篤胤の弟子であった経世家の佐藤信淵は﹃宇内混同秘策﹄において﹁凡ソ他邦ヲ經略スルノ法ハ弱クシテ取リ易キ処ヨリ始ルヲ道トス今ニ當テ世界萬國ノ中ニ於テ皇國ヨリシテ攻取リ易キ土地ハ支那國ノ滿州ヨリ取リ易キハナシ﹂と述べ[10]、出雲松江や長州萩、博多から朝鮮半島を攻撃するという具体案を提示している[7]。さらに﹁武力によって満洲、支那、台湾、フィリピンを攻め、南京に皇居を移し、全世界を全て皇国の郡県となす﹂と世界制覇を夢想している[11]。 吉田松陰は﹁朝鮮を責めて、質を納れ、貢を奉ずること古の盛時のごとくならしめ、北は満洲の地を割き、南は台湾、呂宋諸島を収め、進取の勢を示すべき﹂﹁国力を養ひて取り易き朝鮮、支那、満洲を斬り従えん﹂と獄中から弟子たちに書き送り[12]、これを弟子の桂小五郎が具体化して征韓論を唱えた[13]。しかし、松陰が国学の思想に影響を受けているのは事実であるが[14]、学問の根本は儒学に依拠しているため、﹁代表的人物として取り上げるのは不適切﹂とする意見もある[15]。 こうした思想のため第二次世界大戦期にかけて国学は教科書に盛んに取り上げられたが、戦後は一転してGHQのもと削除の対象となった[16]。戦後の脱国学化した日本史の中心的人物となった津田左右吉は戦後、﹁神道や国学やまたは儒教の思想をうけつぎ、それを固執するものがあって、こういう研究︵※古典・皇室研究︶に反対し、時には官憲を動かしてそれを抑制しようとした﹂﹁根本的には、日本人の文化の程度が低く教養が足らず、特に批判的な精神を欠いていて、事物の真実を究めまたそれによって国民の思想と行動とをその上に立たせようとする学問の本質と価値とを理解するに至らないためであった﹂としている[17]。主な国学者[編集]
江戸時代[編集]
分類等は「国学年表[23]」によった。
元禄期・宝永期・正徳期・享保期 (1688年 - 1736年)[編集]
元文期・寛保期・延享期 (1736年 - 1748年)[編集]
寛延期・宝暦期・明和期 (1748年 - 1772年)[編集]
安永期・天明期・寛政期 (1772年 - 1801年)[編集]
享和期・文化期・文政期 (1801年 - 1830年)[編集]
天保期・弘化期・嘉永期 (1830年 - 1854年)[編集]
安政期・万延期・文久期・元治期・慶応期 (1854年 - 1868年)[編集]
明治以降[編集]
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
- ^ a b 中澤伸弘 (2006), pp. 16–17.
- ^ a b 國學院大學日本文化研究所編 (2022), p. 2.
- ^ a b c d 日本史用語研究会 (2009).
- ^ 中澤伸弘 (2006), pp. 36–37.
- ^ 國學院大學日本文化研究所編 (2022), pp. 27–30.
- ^ 小川靖彦 (2014), pp. 191–192.
- ^ a b c 中野等 (2010), p. 307.
- ^ a b c 田中康二 (2016), pp. 314–320.
- ^ a b 田中康二 (2016), pp. 320–325.
- ^ 佐藤信淵『混同秘策』コマ8、近代デジタルライブラリー https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/783122/4
- ^ 秦郁彦 (2012), pp. 13–14.
- ^ 「幽囚録」山口県教育会 編『吉田松陰全集 (第1巻)』岩波書店、1940年2月、350-351頁。
- ^ 秦郁彦 (2012), pp. 14–18.
- ^ 田中康二 (2020), pp. 44–47.
- ^ 國學院大學日本文化研究所編 (2022), p. 1.
- ^ 田中康二 (2019), pp. 37–41.
- ^ 津田左右吉 (1946).
- ^ a b 岩崎允胤 (1993), p. 2.
- ^ a b 國學院大學日本文化研究所編 (2022), pp. 2–3.
- ^ 源了圓 (1973), p. 178.
- ^ a b 中澤伸弘 (2006), pp. 112–113.
- ^ 本居宣長記念館 (2001), p. 244.
- ^ 國學院大學日本文化研究所編 (2022), pp. 277–290.
参考文献[編集]
図書 ●源了圓﹃徳川思想小史﹄中央公論新社︿中公新書312﹀、1973年1月。ISBN 4-12-100312-8。 ●中澤伸弘﹃やさしく読む国学﹄戎光祥出版、2006年11月。ISBN 4-900901-70-9。 ●秦郁彦﹃陰謀史観﹄新潮社︿新潮新書465﹀、2012年4月。ISBN 978-4-10-610465-7。 ●小川靖彦﹃万葉集と日本人‥読み継がれる千二百年の歴史﹄KADOKAWA︿角川選書539﹀、2014年4月。ISBN 978-4-04-703539-3。 ●國學院大學日本文化研究所編﹃歴史で読む国学﹄ぺりかん社、2022年3月。ISBN 978-4-8315-1611-4。 論文 ●津田左右吉﹁日本歴史の研究に於ける科学的態度﹂﹃世界﹄第3号、岩波書店、1946年3月、10-30頁。 ●岩崎允胤﹁国学思想の成立と展開︵1︶その前期、契沖・春満・真淵について﹂﹃大阪経済法科大学論集﹄第53号、1993年10月、1-63頁。 ●中野等﹁文永慶長の役研究の学術史的検討﹂﹃第2期日韓歴史共同研究報告書・第2分科会 (中近世史) 篇﹄、日韓歴史共同研究委員会、2010年3月、303-318頁。 ●田中康二 著﹁国学者の歴史認識と対外意識‥本居宣長﹃馭戒慨言﹄をめぐって﹂、井上泰至 編﹃近世日本の歴史叙述と対外意識﹄勉誠出版、2016年7月、303-327頁。ISBN 978-4-585-22152-4。 ●田中康二﹁小学教科書の敗戦‥宣長国学の表象をめぐって(その1)﹂﹃皇學館大学紀要﹄第57号、2019年3月、33-82頁。 ●田中康二 著﹁尊王攘夷論と大和魂‥本居宣長から吉田松陰へ﹂、鈴木健一 編﹃明治の教養‥変容する﹁和﹂﹁漢﹂﹁洋﹂﹄勉誠出版、2020年1月、27-50頁。ISBN 978-4-585-29193-0。 辞書類 ●本居宣長記念館 編﹃本居宣長事典﹄東京堂出版、2001年12月。ISBN 4-490-10571-1。 ●日本史用語研究会﹃必携日本史用語﹄︵四訂版︶実教出版、2009年2月。ISBN 978-4-407-31659-9。関連文献[編集]
関連項目[編集]
- 国語学 / 国文学 / 歌学 / 和方医学 / 水戸学
- 国語学者 / 国文学者 / 万葉学者
- 尊皇攘夷 / 明治維新
- 復古神道 / 国家神道 / 廃仏毀釈
- 国粋主義 / 排外主義 / 日本主義
- 日本近世史 / 日本の近世文学史
- 日本の私塾一覧
- 皇學館 / 皇學館大学
- 國學院 / 國學院大學
- 日本近世文学会 / 鈴屋学会
外部リンク[編集]
- 国学関連人物データベース(國學院大學デジタルミュージアム)
- The Kokugaku (Native Studies) School (英語) - スタンフォード哲学百科事典「国学」の項目。