「農林水産大臣」の版間の差分
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| 原語表記 = Minister of Agriculture, Forestry and Fisheries |
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| alt = 坂本哲志 |
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| 現職者 = [[坂本哲志]](第69代) |
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| 所属機関 = [[内閣 (日本)|内閣]] |
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| 担当機関 = [[農林水産省]] |
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[[第一次産業]]従事者が人口の最も多くを占めた[[戦前]]日本において、農相(農林大臣)は現在よりさらに枢要なポストであり、敗戦直後は現下の国難である[[食糧危機]]を乗り越えるため最重要のポストとも目された。近年は[[世界貿易機関|WTO]]の通商交渉や「[[食の安全]]」などを巡って注目されることが多く、とりわけ通商交渉にあたっては国際交渉力に加え、国内の農業団体・農林族議員を押さえ込める政治力が求められる。このため、農水省OBや農林族の有力政治家が任命されることが多いとされる。 |
[[第一次産業]]従事者が人口の最も多くを占めた[[戦前]]日本において、農相(農林大臣)は現在よりさらに枢要なポストであり、敗戦直後は現下の国難である[[食糧危機]]を乗り越えるため最重要のポストとも目された。近年は[[世界貿易機関|WTO]]の通商交渉や「[[食の安全]]」などを巡って注目されることが多く、とりわけ通商交渉にあたっては国際交渉力に加え、国内の農業団体・農林族議員を押さえ込める政治力が求められる。このため、農水省OBや農林族の有力政治家が任命されることが多いとされる。 |
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[[自由民主党 (日本)|自民党]]議員の[[国会議員政策担当秘書|政策秘書]]は﹁自らに有利な計らいを求める業者や団体の数が、他の省庁に比べてはるかに多い。そうした業者や団体は古い体質や体制が維持されたままで、献金を持ち掛ける慣習が続いている﹂と話しており、後述のような大臣の不祥事が相次ぐ原因とされている<ref name=":0">{{Cite web |title=宮下一郎氏辞任でやはり〝鬼門〟の農水相 短命大臣が相次ぐ背景にある﹁業界の体質﹂ |url=https://www.sankei.com/article/20231214-HQLOIOXG7FHGDDKFPGOUHRNRPY/ |website=産経ニュース |date=2023-12-14 |access-date=2023-12-23 |language=ja |first=西村 |last=利也}}</ref>。
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== その他 == |
== その他 == |
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閣僚としての重要性が増す一方で、就任した政治家は就任尚早[[不祥事]]に直面し、職をまっとう出来ず辞任したり、退任後に不幸に見舞われたりしている。このため、[[マスコミュニケーション|マスコミ]]などでは﹁'''[[鬼門]]'''﹂﹁'''呪われたポスト'''﹂と呼ばれている。
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閣僚としての重要性が増す一方で、就任した政治家は就任尚早[[不祥事]]に直面し、職をまっとう出来ず辞任したり、退任後に不幸に見舞われたりしている。このため、[[マスコミュニケーション|マスコミ]]などでは﹁'''[[鬼門]]'''﹂﹁'''呪われたポスト'''﹂と呼ばれている<ref name=":0" />。
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古くは[[片山内閣]]の[[平野力三]]農林大臣が[[西尾末広]][[内閣官房長官]]と対立し、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]の意向も手伝って[[片山哲]][[内閣総理大臣|首相]]から[[罷免]]された後、[[公職追放]]の憂き目に遭った。[[廣川弘禅]]農林大臣は吉田内閣における吉田首相懲罰動議に欠席して[[本会議]]で可決されたため罷免され、[[バカヤロー解散]]による解散総選挙で落選した。最後の農林大臣であり、初代の農林水産大臣である[[福田赳夫内閣 (改造)|福田赳夫改造内閣]]の[[中川一郎]]は退任の5年後、57歳で自殺︵不審死︶している。[[よど号ハイジャック事件]]の人質身代わりとしても知られる[[第2次中曽根内閣]]の[[山村新治郎 (11代目)|山村新治郎]]は離任の8年後に次女に刺殺され、その次女も後に自殺を遂げた。[[第2次中曽根内閣 (第2次改造)|第2次中曽根再改造内閣]]と[[竹下内閣 (改造)|竹下改造内閣]]で農林水産大臣を務めた[[羽田孜]]は、初の非自民政権で2人目の[[内閣総理大臣]]に就任するが、わずか2か月で退任に追い込まれてしまい[[村山内閣]]をもって自民党が政権に参加したため、結果的に自民党の政権復帰を許してしまった。[[第3次中曽根内閣]]で農相を務めた[[加藤六月]]は[[リクルート事件]]で一時謹慎、[[三塚博]]との[[三六戦争]]で敗れ、[[清和政策研究会]]を除名され、自民党を離党した。羽田内閣で再び農相を務めるが、羽田内閣が2か月で総辞職した為、2か月で退任。[[細川内閣]]で農林水産大臣だった[[畑英次郎]]は1994年1月26日には食糧自給をめぐる問題で、[[参議院]]に[[問責決議]]が提出され、一部の[[日本社会党]]議員が造反して賛成票を投じたが、反対多数で否決された。畑への問責決議案の採決は、1955年の自由民主党結党以来、初の非自民閣僚への問責決議案採決の例であった。[[第2次橋本内閣 (改造)|第2次橋本改造内閣]]の農林水産大臣に就任した[[越智伊平]]は直後に[[脳梗塞]]で倒れ、就任してわずか16日で辞任した。[[第1次森内閣]]の農林水産大臣だった[[玉澤徳一郎]]は現職の閣僚でありながら[[第42回衆議院議員総選挙]]で落選し、政界引退後の2019年12月10日に突然銃撃される事件が起き、足を撃たれるが命に別状はなかった。
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古くは[[片山内閣]]の[[平野力三]]農林大臣が[[西尾末広]][[内閣官房長官]]と対立し、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]の意向も手伝って[[片山哲]][[内閣総理大臣|首相]]から[[罷免]]された後、[[公職追放]]の憂き目に遭った。[[廣川弘禅]]農林大臣は吉田内閣における吉田首相懲罰動議に欠席して[[本会議]]で可決されたため罷免され、[[バカヤロー解散]]による解散総選挙で落選した。最後の農林大臣であり、初代の農林水産大臣である[[福田赳夫内閣 (改造)|福田赳夫改造内閣]]の[[中川一郎]]は退任の5年後、57歳で自殺︵不審死︶している。[[よど号ハイジャック事件]]の人質身代わりとしても知られる[[第2次中曽根内閣]]の[[山村新治郎 (11代目)|山村新治郎]]は離任の8年後に次女に刺殺され、その次女も後に自殺を遂げた。[[第2次中曽根内閣 (第2次改造)|第2次中曽根再改造内閣]]と[[竹下内閣 (改造)|竹下改造内閣]]で農林水産大臣を務めた[[羽田孜]]は、初の非自民政権で2人目の[[内閣総理大臣]]に就任するが、わずか2か月で退任に追い込まれてしまい[[村山内閣]]をもって自民党が政権に参加したため、結果的に自民党の政権復帰を許してしまった。[[第3次中曽根内閣]]で農相を務めた[[加藤六月]]は[[リクルート事件]]で一時謹慎、[[三塚博]]との[[三六戦争]]で敗れ、[[清和政策研究会]]を除名され、自民党を離党した。羽田内閣で再び農相を務めるが、羽田内閣が2か月で総辞職した為、2か月で退任。[[細川内閣]]で農林水産大臣だった[[畑英次郎]]は1994年1月26日には食糧自給をめぐる問題で、[[参議院]]に[[問責決議]]が提出され、一部の[[日本社会党]]議員が造反して賛成票を投じたが、反対多数で否決された。畑への問責決議案の採決は、1955年の自由民主党結党以来、初の非自民閣僚への問責決議案採決の例であった。[[第2次橋本内閣 (改造)|第2次橋本改造内閣]]の農林水産大臣に就任した[[越智伊平]]は直後に[[脳梗塞]]で倒れ、就任してわずか16日で辞任した。[[第1次森内閣]]の農林水産大臣だった[[玉澤徳一郎]]は現職の閣僚でありながら[[第42回衆議院議員総選挙]]で落選し、政界引退後の2019年12月10日に突然銃撃される事件が起き、足を撃たれるが命に別状はなかった。
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省庁再編後、[[2001年]]に就任した[[武部勤]]は[[牛海綿状脳症|BSE]]問題を巡る失言などで批判を浴び、翌年の[[内閣改造]]で事実上の更迭、後任の[[大島理森]]は様々な疑惑から事実上更迭された。続く[[亀井善之]]は離任後まもなく病に倒れて死去している。[[2004年]]に就任した[[島村宜伸]]は翌年の[[郵政解散]]直前、[[閣議 (日本)|閣議]]で[[衆議院 |
省庁再編後、[[2001年]]に就任した[[武部勤]]は[[牛海綿状脳症|BSE]]問題を巡る失言などで批判を浴び、翌年の[[内閣改造]]で事実上の更迭、後任の[[大島理森]]は様々な疑惑から事実上更迭された。続く[[亀井善之]]は離任後まもなく病に倒れて死去している。[[2004年]]に就任した[[島村宜伸]]は翌年の[[郵政解散]]直前、[[閣議 (日本)|閣議]]で[[衆議院解散]]に反対して閣議決定への署名を拒否し、辞表を提出したが、[[小泉純一郎]]首相により罷免された︵解散選挙では当選︶。島村の罷免を受け、副大臣から昇格した[[岩永峯一]]も離任後に献金問題を指摘された。[[2005年]]に2度目の就任を果たした[[中川昭一]]︵初代農林水産大臣・中川一郎の長男︶は無難に職務をこなし退任したが、4年後には[[財務大臣 (日本)|財務大臣]]辞任、落選の憂き目を見て、2009年10月に56歳で急死した。
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特に[[2006年]][[9月26日]]に発足した[[第1次安倍内閣]]では農水相の交代が頻繁に起こっており、最初就任した[[松岡利勝]]は[[光熱費|光熱水費]]問題や[[緑資源機構談合事件|緑資源機構談合]]問題を国会で追及され、戦後の閣僚としては初めて在任中に自殺。[[若林正俊]]の臨時代理を経て後任の[[赤城徳彦]]も自身の数々の疑惑により、これが一因で[[第21回参議院議員通常選挙|7月の参院選]]における自民党敗北を招いたとされ、[[2007年]][[8月1日]]に事実上の更迭、2009年の[[第45回衆議院議員総選挙]]は落選した。
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特に[[2006年]][[9月26日]]に発足した[[第1次安倍内閣]]では農水相の交代が頻繁に起こっており、最初就任した[[松岡利勝]]は[[光熱費|光熱水費]]問題や[[緑資源機構談合事件|緑資源機構談合]]問題を国会で追及され、戦後の閣僚としては初めて在任中に自殺。[[若林正俊]]の臨時代理を経て後任の[[赤城徳彦]]も自身の数々の疑惑により、これが一因で[[第21回参議院議員通常選挙|7月の参院選]]における自民党敗北を招いたとされ、[[2007年]][[8月1日]]に事実上の更迭、2009年の[[第45回衆議院議員総選挙]]は落選した。
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そして、 |
そして、若林の[[環境大臣]]の兼任を経て[[8月27日]]に発足した[[第1次安倍内閣 (改造)|安倍改造内閣]]では[[遠藤武彦]]が就任するも、置賜農業共済組合掛金不正受給問題などを追及され、[[9月3日]]に辞任。在任期間8日間という近年では稀に見る異例の事態となった。後任はまたも若林。同一政権下で臨時兼任も含めると3か月余りの間で3度目の農水相就任となった。若林は退任後の[[2010年]][[4月2日]]、[[参議院]]本会議での不正投票問題によって議員辞職に追い込まれた。 |
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[[2008年]]8月、[[太田誠一]]による[[事務所費]]問題も浮上し、在任中に事故米不正転売事件に関する発言が問題視された。[[9月19日]]、事故米の不正転売の責任を明確にするということで、[[福田康夫]]首相に辞表を提出。太田も赤城同様、同選挙で落選した。太田の辞任後は[[内閣官房長官]]の[[町村信孝]]︵町村は同総選挙で小選挙区落選。比例で復活︶が臨時代理を務めていたが、[[麻生内閣]]で農林水産大臣に就任した[[石破茂]]は、この事態に﹁誰から事務引き継ぎするの?﹂と就任時の[[インタビュー]]で皮肉を漏らした。
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[[2008年]]8月、[[太田誠一]]による[[事務所費]]問題も浮上し、在任中に事故米不正転売事件に関する発言が問題視された。[[9月19日]]、事故米の不正転売の責任を明確にするということで、[[福田康夫]]首相に辞表を提出。太田も赤城同様、同選挙で落選した。太田の辞任後は[[内閣官房長官]]の[[町村信孝]]︵町村は同総選挙で小選挙区落選。比例で復活︶が臨時代理を務めていたが、[[麻生内閣]]で農林水産大臣に就任した[[石破茂]]は、この事態に﹁誰から事務引き継ぎするの?﹂と就任時の[[インタビュー]]で皮肉を漏らした。
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[[2009年]]に誕生した[[鳩山由紀夫内閣|鳩山内閣]]の[[赤松広隆]]は翌年の[[2010年日本における口蹄疫の流行|口蹄疫問題]]への対応の遅れで強い批判を浴び、閣僚の大半が残留した6月の[[菅直人 |
[[2009年]]に誕生した[[鳩山由紀夫内閣|鳩山内閣]]の[[赤松広隆]]は翌年の[[2010年日本における口蹄疫の流行|口蹄疫問題]]への対応の遅れで強い批判を浴び、閣僚の大半が残留した6月の[[菅直人内閣]]の誕生に当たって、事実上責任を取る形で退任した。後任として副大臣から昇格した[[山田正彦 (政治家)|山田正彦]]は、職務そのものは無難につとめたものの、[[2010年9月民主党代表選挙]]で[[菅直人]]首相と対立する[[小沢一郎]]候補を支援したこともあり、わずか3か月で退任となった。[[菅直人内閣 (第1次改造)|菅直人第1次改造内閣]]からは[[第1次海部内閣]]でも大臣を務めた[[鹿野道彦]]が職務を無難にこなしたが、中国書記官のスパイ疑惑︵[[李春光事件]]︶に直面してしまい、[[2012年]]6月の[[野田内閣 (第2次改造)|野田第2次改造内閣]]発足に伴い退任した。後任として鳩山・菅内閣で農水副大臣を経験した[[郡司彰]]が大臣に就任し、政権交代までつとめた。同年12月に行われた[[第46回衆議院議員総選挙]]では山田・鹿野両者とも[[比例復活]]できずに落選︵赤松は比例復活で当選︶、その後の[[2013年]]7月に行われた[[第23回参議院議員通常選挙]]では山田・鹿野両者とも[[参議院比例区|比例区]]に出馬したものの落選した。山田は短期間ながら職務そのものは無難にこなし、スパイ疑惑に直面するまでの鹿野が1年以上大臣職務を無難にこなし、後任の郡司も解散総選挙による政権交代で退任となっており、[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]政権に入ってからは不祥事による大臣辞任や大臣辞任後の不幸は減った。
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民主党政権から自民党へ政権が戻り、大臣に就任した[[林芳正]]は鹿野同様1年以上職務を無難にこなしたものの、後任の[[西川公也]]は就任早々数々の不祥事が発覚。[[2014年]]の[[第47回衆議院議員総選挙]]で民主党の[[福田昭夫]]に敗北、現職の閣僚ながら比例復活となり、[[2015年]][[2月23日]]に自身の政治献金問題で引責辞任。前任の林が再登板することとなった。西川は2017年の[[第48回衆議院議員総選挙]]で落選。[[2016年]][[8月3日]]発足の[[第3次安倍内閣 (第2次改造)|第3次安倍第2次改造内閣]]では[[山本有二]]農水相が[[環太平洋パートナーシップ協定|TPP]]法案の採決に関する失言を繰り返し、野党から追及を受けて法案採決拒否に持ち込まれた。また、翌年の第48回総選挙では上記の失言のせいか辛くも[[比例四国ブロック]]の最後の1枠に滑り込む結果となった。続く[[第3次安倍内閣 (第3次改造)|第3次安倍第3次改造内閣]]では、[[齋藤健]]が当選3回ながら農水相に大抜擢。職務を無難にこなしたものの、自民党総裁選をめぐり、﹁石破さんを応援するんだったら辞表を書いてからやれ﹂︵齋藤自身は[[水月会|石破派]]︶と圧力をかけられたと主張し、その後の内閣改造で退任となった。[[第4次安倍内閣 (第1次改造)|第4次安倍第1次改造内閣]]で就任した[[吉川貴盛]]は、在任中に大手鶏卵生産会社[[アキタフーズ]]の元代表から500万を受け取っていた[[鶏卵汚職事件]]が発覚し、体調不良を理由に自民党の役職と自身が所属する[[志帥会|二階派]]の事務総長を辞任し、[[日本の国会議員|衆議院議員]]も辞職した。その後収賄罪で在宅起訴され、[[東京地方裁判所]]で執行猶予付きの懲役刑が言い渡された。
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[[2022年]][[8月10日]]に発足した[[第2次岸田内閣 (第1次改造)|第2次岸田第1次改造内閣]]において農水相として初入閣を果たした[[野村哲郎]]は就任してから約1年強の間、職務を無難にこなしていたが、在任期間も終盤を迎えた[[2023年]][[8月31日]]に首相官邸で行われた会議に出席後にマスコミから取材を受けた際に「それぞれの役所の取り組み状況あるいは、汚染水のその後の評価などで情報交換をした」と述べ、東京電力福島第一原発にたまるALPS処理水について、中国政府などが使う「汚染水」と発言。その後[[岸田文雄]][[内閣総理大臣]]が野村に対し発言の撤回と謝罪を指示し、同夜ぶら下がり取材で発言を撤回し謝罪。2週間後の[[第2次岸田内閣 (第2次改造)|内閣改造]]で退任した。後任の[[宮下一郎]]は自身が所属する自民党安倍派(清和政策研究会)の[[政治資金パーティー収入の裏金問題]]でわずか3カ月で辞任した<ref>{{Cite news |title=「政治資金は適正に処理、総合的に判断」宮下一郎農林水産大臣が辞表提出 安倍派閣僚4人の内の1人 初入閣から在任3か月で交代へ |newspaper=SBC信越放送 |date=2023-12-14 |author= |url=https://topics.smt.docomo.ne.jp/article/sbc21/region/sbc21-893295 |accessdate=2023-12-14}}</ref>。なお、野上・金子・野村の3人は[[2010年日本における口蹄疫の流行|宮崎県での口蹄疫の流行]]が関心事になった[[第22回参議院議員通常選挙|2010年の参院選]]で当選した議員である。 |
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民主党政権から自民党へ政権が戻り、大臣に就任した[[林芳正]]は鹿野同様1年以上職務を無難にこなしたものの、後任の[[西川公也]]は就任早々数々の不祥事が発覚。[[2014年]]の[[第47回衆議院議員総選挙]]で民主党の[[福田昭夫]]に敗北、現職の閣僚ながら比例復活となり、[[2015年]][[2月23日]]に自身の政治献金問題で引責辞任。前任の林が再登板することとなった。西川は2017年の[[第48回衆議院議員総選挙]]で落選。[[2016年]][[8月3日]]発足の[[第3次安倍内閣 (第2次改造)|第3次安倍第2次改造内閣]]では[[山本有二]]農水相が[[環太平洋パートナーシップ協定|TPP]]法案の採決に関する失言を繰り返し、野党から追及を受けて法案採決拒否に持ち込まれた。また、翌 |
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なお、[[日本国憲法]]下において罷免された閣僚は5名であるが、うち3名が農水相である。 |
なお、[[日本国憲法]]下において罷免された閣僚は5名であるが、うち3名が農水相である。 |
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|rowspan="2"|[[早速整爾]]||1925年[[8月2日]]|| rowspan="3" |[[憲政会]] |
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|rowspan="2"|[[第1次若槻内閣]]||[[1926年]][[1月30日]] |
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|[[片山哲]]|| rowspan="4" |[[片山内閣]]||1947年[[5月24日]]<br />臨時代理|| rowspan="5" |[[日本社会党]] |
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|片山哲||1947年[[11月4日]]<br />臨時代理 |
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|[[根本龍太郎]]||[[第3次吉田内閣 (第2次改造)|第3次吉田第2次改造内閣]]||[[1951年]][[7月4日]] |
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|[[赤城宗徳]]||[[第1次岸内閣 (改造)|第1次岸改造内閣]]||1957年[[7月10日]] |
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|rowspan="4"|赤城宗徳||[[第2次池田内閣 (第3次改造)|第2次池田第3次改造内閣]]||[[1963年]]7月18日 |
|rowspan="4"|赤城宗徳||[[第2次池田内閣 (第3次改造)|第2次池田第3次改造内閣]]||[[1963年]]7月18日 |
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|[[堀之内久男]]||[[宇野内閣]]||[[1989年]][[6月3日]] |
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|羽田孜||rowspan="2"|[[羽田内閣]]||[[1994年]][[4月28日]]<br />臨時代理 |
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|'''[[小泉純一郎]]'''||[[2005年]][[8月8日]]<br />内閣総理大臣兼任<!--臨時代理でなく兼任です。官報の人事異動欄で確認済--> |
|'''[[小泉純一郎]]'''||[[2005年]][[8月8日]]<br />内閣総理大臣兼任<!--臨時代理でなく兼任です。官報の人事異動欄で確認済--> |
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|若林正俊||[[2007年]][[8月1日]]<br />環境大臣兼任 |
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|[[林芳正]]||[[第2次安倍内閣]]||[[2012年]][[12月26日]]|| rowspan="16" |自由民主党 |
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|[[野村哲郎]] |
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|[[第2次岸田内閣 (改造)|第2次岸田改造内閣]] |
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|[[2022年]][[8月10日]] |
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2024年7月3日 (水) 00:20時点における最新版
日本 農林水産大臣 Minister of Agriculture, Forestry and Fisheries | |
---|---|
農林水産省ロゴタイプ | |
所属機関 | 内閣 |
担当機関 | 農林水産省 |
任命 | 内閣総理大臣 (岸田文雄) |
根拠法令 | 国家行政組織法 農林水産省設置法 |
前身 | 農林大臣 |
創設 | 1978年(昭和53年)7月5日 |
初代 | 中川一郎 |
略称 | 農水大臣 |
通称 | 農水相、農相 |
職務代行者 | 農林水産副大臣 (勝俣孝明、野中厚) |
ウェブサイト | 農林水産大臣:農林水産省 |
概説[編集]
その他[編集]
閣僚としての重要性が増す一方で、就任した政治家は就任尚早不祥事に直面し、職をまっとう出来ず辞任したり、退任後に不幸に見舞われたりしている。このため、マスコミなどでは﹁鬼門﹂﹁呪われたポスト﹂と呼ばれている[3]。 古くは片山内閣の平野力三農林大臣が西尾末広内閣官房長官と対立し、GHQの意向も手伝って片山哲首相から罷免された後、公職追放の憂き目に遭った。廣川弘禅農林大臣は吉田内閣における吉田首相懲罰動議に欠席して本会議で可決されたため罷免され、バカヤロー解散による解散総選挙で落選した。最後の農林大臣であり、初代の農林水産大臣である福田赳夫改造内閣の中川一郎は退任の5年後、57歳で自殺︵不審死︶している。よど号ハイジャック事件の人質身代わりとしても知られる第2次中曽根内閣の山村新治郎は離任の8年後に次女に刺殺され、その次女も後に自殺を遂げた。第2次中曽根再改造内閣と竹下改造内閣で農林水産大臣を務めた羽田孜は、初の非自民政権で2人目の内閣総理大臣に就任するが、わずか2か月で退任に追い込まれてしまい村山内閣をもって自民党が政権に参加したため、結果的に自民党の政権復帰を許してしまった。第3次中曽根内閣で農相を務めた加藤六月はリクルート事件で一時謹慎、三塚博との三六戦争で敗れ、清和政策研究会を除名され、自民党を離党した。羽田内閣で再び農相を務めるが、羽田内閣が2か月で総辞職した為、2か月で退任。細川内閣で農林水産大臣だった畑英次郎は1994年1月26日には食糧自給をめぐる問題で、参議院に問責決議が提出され、一部の日本社会党議員が造反して賛成票を投じたが、反対多数で否決された。畑への問責決議案の採決は、1955年の自由民主党結党以来、初の非自民閣僚への問責決議案採決の例であった。第2次橋本改造内閣の農林水産大臣に就任した越智伊平は直後に脳梗塞で倒れ、就任してわずか16日で辞任した。第1次森内閣の農林水産大臣だった玉澤徳一郎は現職の閣僚でありながら第42回衆議院議員総選挙で落選し、政界引退後の2019年12月10日に突然銃撃される事件が起き、足を撃たれるが命に別状はなかった。 省庁再編後、2001年に就任した武部勤はBSE問題を巡る失言などで批判を浴び、翌年の内閣改造で事実上の更迭、後任の大島理森は様々な疑惑から事実上更迭された。続く亀井善之は離任後まもなく病に倒れて死去している。2004年に就任した島村宜伸は翌年の郵政解散直前、閣議で衆議院解散に反対して閣議決定への署名を拒否し、辞表を提出したが、小泉純一郎首相により罷免された︵解散選挙では当選︶。島村の罷免を受け、副大臣から昇格した岩永峯一も離任後に献金問題を指摘された。2005年に2度目の就任を果たした中川昭一︵初代農林水産大臣・中川一郎の長男︶は無難に職務をこなし退任したが、4年後には財務大臣辞任、落選の憂き目を見て、2009年10月に56歳で急死した。 特に2006年9月26日に発足した第1次安倍内閣では農水相の交代が頻繁に起こっており、最初就任した松岡利勝は光熱水費問題や緑資源機構談合問題を国会で追及され、戦後の閣僚としては初めて在任中に自殺。若林正俊の臨時代理を経て後任の赤城徳彦も自身の数々の疑惑により、これが一因で7月の参院選における自民党敗北を招いたとされ、2007年8月1日に事実上の更迭、2009年の第45回衆議院議員総選挙は落選した。 そして、若林の環境大臣の兼任を経て8月27日に発足した安倍改造内閣では遠藤武彦が就任するも、置賜農業共済組合掛金不正受給問題などを追及され、9月3日に辞任。在任期間8日間という近年では稀に見る異例の事態となった。後任はまたも若林。同一政権下で臨時兼任も含めると3か月余りの間で3度目の農水相就任となった。若林は退任後の2010年4月2日、参議院本会議での不正投票問題によって議員辞職に追い込まれた。 2008年8月、太田誠一による事務所費問題も浮上し、在任中に事故米不正転売事件に関する発言が問題視された。9月19日、事故米の不正転売の責任を明確にするということで、福田康夫首相に辞表を提出。太田も赤城同様、同選挙で落選した。太田の辞任後は内閣官房長官の町村信孝︵町村は同総選挙で小選挙区落選。比例で復活︶が臨時代理を務めていたが、麻生内閣で農林水産大臣に就任した石破茂は、この事態に﹁誰から事務引き継ぎするの?﹂と就任時のインタビューで皮肉を漏らした。 2009年に誕生した鳩山内閣の赤松広隆は翌年の口蹄疫問題への対応の遅れで強い批判を浴び、閣僚の大半が残留した6月の菅直人内閣の誕生に当たって、事実上責任を取る形で退任した。後任として副大臣から昇格した山田正彦は、職務そのものは無難につとめたものの、2010年9月民主党代表選挙で菅直人首相と対立する小沢一郎候補を支援したこともあり、わずか3か月で退任となった。菅直人第1次改造内閣からは第1次海部内閣でも大臣を務めた鹿野道彦が職務を無難にこなしたが、中国書記官のスパイ疑惑︵李春光事件︶に直面してしまい、2012年6月の野田第2次改造内閣発足に伴い退任した。後任として鳩山・菅内閣で農水副大臣を経験した郡司彰が大臣に就任し、政権交代までつとめた。同年12月に行われた第46回衆議院議員総選挙では山田・鹿野両者とも比例復活できずに落選︵赤松は比例復活で当選︶、その後の2013年7月に行われた第23回参議院議員通常選挙では山田・鹿野両者とも比例区に出馬したものの落選した。山田は短期間ながら職務そのものは無難にこなし、スパイ疑惑に直面するまでの鹿野が1年以上大臣職務を無難にこなし、後任の郡司も解散総選挙による政権交代で退任となっており、民主党政権に入ってからは不祥事による大臣辞任や大臣辞任後の不幸は減った。 民主党政権から自民党へ政権が戻り、大臣に就任した林芳正は鹿野同様1年以上職務を無難にこなしたものの、後任の西川公也は就任早々数々の不祥事が発覚。2014年の第47回衆議院議員総選挙で民主党の福田昭夫に敗北、現職の閣僚ながら比例復活となり、2015年2月23日に自身の政治献金問題で引責辞任。前任の林が再登板することとなった。西川は2017年の第48回衆議院議員総選挙で落選。2016年8月3日発足の第3次安倍第2次改造内閣では山本有二農水相がTPP法案の採決に関する失言を繰り返し、野党から追及を受けて法案採決拒否に持ち込まれた。また、翌年の第48回総選挙では上記の失言のせいか辛くも比例四国ブロックの最後の1枠に滑り込む結果となった。続く第3次安倍第3次改造内閣では、齋藤健が当選3回ながら農水相に大抜擢。職務を無難にこなしたものの、自民党総裁選をめぐり、﹁石破さんを応援するんだったら辞表を書いてからやれ﹂︵齋藤自身は石破派︶と圧力をかけられたと主張し、その後の内閣改造で退任となった。第4次安倍第1次改造内閣で就任した吉川貴盛は、在任中に大手鶏卵生産会社アキタフーズの元代表から500万を受け取っていた鶏卵汚職事件が発覚し、体調不良を理由に自民党の役職と自身が所属する二階派の事務総長を辞任し、衆議院議員も辞職した。その後収賄罪で在宅起訴され、東京地方裁判所で執行猶予付きの懲役刑が言い渡された。 2022年8月10日に発足した第2次岸田第1次改造内閣において農水相として初入閣を果たした野村哲郎は就任してから約1年強の間、職務を無難にこなしていたが、在任期間も終盤を迎えた2023年8月31日に首相官邸で行われた会議に出席後にマスコミから取材を受けた際に﹁それぞれの役所の取り組み状況あるいは、汚染水のその後の評価などで情報交換をした﹂と述べ、東京電力福島第一原発にたまるALPS処理水について、中国政府などが使う﹁汚染水﹂と発言。その後岸田文雄内閣総理大臣が野村に対し発言の撤回と謝罪を指示し、同夜ぶら下がり取材で発言を撤回し謝罪。2週間後の内閣改造で退任した。後任の宮下一郎は自身が所属する自民党安倍派︵清和政策研究会︶の政治資金パーティー収入の裏金問題でわずか3カ月で辞任した[4]。なお、野上・金子・野村の3人は宮崎県での口蹄疫の流行が関心事になった2010年の参院選で当選した議員である。 なお、日本国憲法下において罷免された閣僚は5名であるが、うち3名が農水相である。歴代大臣[編集]
農林大臣[編集]
●辞令のある再任は記載し、辞令のない留任は記載しない。 ●臨時代理は、大臣を欠いた場合のみ記載し、海外出張時等の一時不在代理は記載しない。 ●兼任は、他の大臣が同時に務めることをいい、臨時代理とは異なる。 ●太字は内閣総理大臣経験者。戦前[編集]
農林大臣 | |||||
---|---|---|---|---|---|
代 | 氏名 | 内閣 | 就任日 | 出身党派 | |
1 | 高橋是清 | 加藤高明内閣 | 1925年4月1日 商工大臣兼任 |
立憲政友会 | |
2 | 岡崎邦輔 | 1925年4月17日 | |||
3 | 早速整爾 | 1925年8月2日 | 憲政会 | ||
第1次若槻内閣 | 1926年1月30日 | ||||
4 | 町田忠治 | 1926年6月3日 | |||
5 | 山本悌二郎 | 田中義一内閣 | 1927年4月20日 | 立憲政友会 | |
6 | 町田忠治 | 濱口内閣 | 1929年7月2日 | 立憲民政党 | |
第2次若槻内閣 | 1931年4月14日 | ||||
7 | 山本悌二郎 | 犬養内閣 | 1931年12月13日 | 立憲政友会 | |
8 | 後藤文夫 | 齋藤内閣 | 1932年5月26日 | 貴族院議員 | |
9 | 山崎達之輔 | 岡田内閣 | 1934年7月8日 | 立憲政友会→昭和会 | |
10 | 島田俊雄 | 廣田内閣 | 1936年3月9日 | 立憲政友会 | |
11 | 山崎達之輔 | 林内閣 | 1937年2月2日 | 昭和会 | |
12 | 有馬頼寧 | 第1次近衛内閣 | 1937年6月4日 | 貴族院議員 | |
13 | 櫻内幸雄 | 平沼内閣 | 1939年1月5日 | 立憲民政党 | |
14 | 伍堂卓雄 | 阿部内閣 | 1939年8月30日 | 貴族院議員 | |
15 | 酒井忠正 | 1939年10月16日 | |||
16 | 島田俊雄 | 米内内閣 | 1940年1月16日 | 立憲政友会 | |
17 | 近衛文麿 | 第2次近衛内閣 | 1940年7月22日 臨時代理 |
貴族院議員 | |
18 | 石黒忠篤 | 1940年7月24日 | 農林官僚 | ||
19 | 井野碩哉 | 1941年6月11日 | |||
20 | 山崎達之輔 | 第3次近衛内閣 | 1943年4月20日 | 翼賛政治会 |
※1943年11月1日付で農林省と商工省(商工省から軍需省へ移転しなかった残りの部門)とが統合されて農商省となるが、この農商省は1945年8月26日付で農林省と商工省とに戻る。