河野一郎
河野 一郎 こうの いちろう | |
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1953年12月23日撮影 | |
生年月日 | 1898年6月2日 |
出生地 | 日本神奈川県足柄下郡豊川村(現小田原市) |
没年月日 | 1965年7月8日(67歳没) |
出身校 | 早稲田大学政治経済学部 |
前職 |
朝日新聞社社員 農林大臣秘書官 |
所属政党 |
(立憲政友会→) (無所属→) (翼賛政治会→) (日本自由党→) (無所属→) (自由党→) (分派自由党→) (日本自由党→) (日本民主党→) 自由民主党 |
称号 |
従二位 勲一等旭日桐花大綬章 |
配偶者 | 妻・河野照子 |
子女 |
次男・河野洋平 孫・河野太郎 |
親族 |
父・河野治平 弟・河野謙三 |
内閣 |
第3次池田改造内閣 第1次佐藤内閣 |
在任期間 | 1964年7月18日 - 1965年6月3日 |
初代-第2代 近畿圏整備長官 | |
内閣 |
第2次池田第2次改造内閣 第2次池田第3次改造内閣 第3次池田内閣 |
在任期間 | 1963年7月10日 - 1964年7月18日 |
第10-11代 首都圏整備委員会委員長 | |
内閣 |
第2次池田第2次改造内閣 第2次池田第3次改造内閣 第3次池田内閣 |
在任期間 | 1962年11月2日 - 1964年7月18日 |
第21-22代 建設大臣 | |
内閣 |
第2次池田第2次改造内閣 第2次池田第3次改造内閣 第3次池田内閣 |
在任期間 | 1962年7月18日 - 1964年7月18日 |
第30代 農林大臣 | |
内閣 | 第2次池田第1次改造内閣 |
在任期間 | 1961年7月18日 - 1962年7月18日 |
その他の職歴 | |
第5代 経済企画庁長官 (第1次岸改造内閣) (1957年7月10日 - 1958年6月12日) | |
第14代 行政管理庁長官 (第3次鳩山内閣) (1955年11月22日 - 1956年12月23日) | |
第20-22代 農林大臣 (第1次鳩山内閣、第2次鳩山内閣、第3次鳩山内閣) (1954年12月10日 - 1956年12月23日) | |
衆議院議員 神奈川県第3区 当選回数 7回 (1932年2月21日 - 1946年6月22日[1]) (1952年10月2日 - 1965年7月8日) | |
第4代 自由民主党総務会長 (総裁:岸信介) (1958年 - 1959年) | |
初代 日本自由党幹事長 (1953年 - 1954年) |
来歴[編集]
幼少時代[編集]
1898年、神奈川県足柄下郡豊川村︵現在の小田原市成田︶の豪農・河野家の次男として生まれる。兄は生まれて数か月で夭折している。父・治平︵じへい︶は、豊川村長、郡会議員、神奈川県会議長などを歴任した人物。母・タミは曽我兄弟の出生地である曽我の出身で、タミの父・長谷川勝五郎は若いときに百姓から建設業者に転向し東海道線の山北トンネル工事を請け負った。また衆議院議員の長谷川豊吉は、タミの伯父に当たる。少年時代[編集]
一郎は﹁早く学校に行きたい、行きたい﹂という強い希望をもっていた。そこで母はその希望に同意し、元来一郎は六月二日生まれだが、戸籍の﹁六﹂を﹁三﹂に改ざんして、学校に提出し一年先に小学校に入学している。これが後に問題化し、戸籍法違反の廉で、父は監獄に入った。 小学校を卒業後、神奈川県立小田原中学校︵現‥神奈川県立小田原高等学校︶に入学。中学二年の時に、英語教師の排斥運動を動機としたストライキを起こした。結果的にこの騒動が原因で、一郎を含む首謀者以下十数名がその教師に落第点をつけられ、一年落第させられている。また、当時小田原中の教師であった武田裕吉に﹁トカゲ﹂というあだ名をつけたり、仲間のひとりが黒板の溝に本物のトカゲを入れておどかすなど、田舎中学の生徒の考えつく限りの悪戯をしていた。結局、武田は自分から辞めていったが、結果的に嫌がらせや陰湿なイジメをして追い出す格好となってしまったことに一郎は﹁慙愧の念に堪えない﹂と反省している。 中学を卒業する頃、久原鉱業の全盛時代であり、日本の工業化が非常な勢いで進められていた。一郎はその風潮の感化を受け鉱山学を勉強しようと志し、早稲田大学の理工科を受験するも不合格となり、一年間中央予備校に通う。二度目の受験後、大学から﹁理工科は遺憾ながら点数が少し足りない。ほかの学科なら、何科を志望してもよい﹂という通知を受け取り、早稲田大学政治経済学部政治学科に入学する。1923年︵大正12年︶に同大学を卒業。早稲田大学時代は、弟・謙三とともに競走部の陸上長距離選手として鳴らし、草創期の箱根駅伝で活躍。総合優勝も経験している[3]。社会人時代[編集]
大学卒業後に朝日新聞社の入社試験を受け、一次試験に合格するも二次試験で落とされる。しかし、杉浦重剛の推薦で下村海南のところに紹介状をもって出かけて行ったことが機縁で入社する。 1931年︵昭和6年︶、犬養毅内閣の山本悌二郎農林大臣の秘書官となり、翌1932年︵昭和7年︶、第18回衆議院議員総選挙に神奈川3区から出馬し、当選。当選後は、立憲政友会に所属した。鈴木喜三郎総裁の後継をめぐる党内抗争では、鳩山一郎を担いで奔走したが、中島知久平が優位に立っていた。河野は、久原房之助を擁立して対抗し、政友会は、正統派︵久原派︶と革新派︵中島派︶に分裂するに至る。1942年︵昭和17年︶の翼賛選挙では、非推薦で選挙戦を戦い当選した。戦後[編集]
終戦後、1945年︵昭和20年︶11月に旧政友会正統派の勢力を糾合して、鳩山一郎を総裁とする日本自由党を結党。幹事長として、鳩山内閣の結成に奔走するが、1946年︵昭和21年︶5月4日、鳩山に公職追放令が下り、吉田茂が後継総裁として大命降下をうけ、組閣に取り掛かる。組閣をめぐっては、吉田が旧政党人を軍部に迎合したとみなし、人事について相談しなかったことなどをきっかけとして、不倶戴天の間柄となる。さらに6月20日には、河野自身も公職追放となった。追放中の1948年︵昭和23年︶に政治資金に関する問題で衆議院不当財産取引調査特別委員会で証人喚問された[4]。1951年︵昭和26年︶8月7日に追放解除となり、三木武吉と共に自由党に復党。以降は反吉田派の急先鋒として鳩山政権樹立に向けて奔走するが、1952年︵昭和27年︶9月29日、解散総選挙を目前にして、吉田が鳩山派に打撃を与えるべく、石橋湛山と河野を党から除名した。三木武吉の工作によって、12月に除名取り消しとなる。1953年︵昭和28年︶3月14日、鳩山、三木ら21名と自由党から分党。内閣不信任案に賛成投票し、バカヤロー解散・総選挙へと繋がるきっかけを作った。11月に鳩山、石橋らが自由党に復帰した後も、三木、河野ら8名の代議士[注 1]は日本自由党を結成して、自由党反主流派と改進党の連携を模索し、ついに3派を合同させ日本民主党を結成し、鳩山を総裁とし、吉田内閣を打倒する。 1954年︵昭和29年︶、第1次鳩山内閣で農林大臣に就任し、第2次、第3次鳩山内閣でも農林大臣に留任した。翌1955年︵昭和30年︶、自由民主党結党に参画し、党内で大派閥の河野派を形成した。日ソ交渉[編集]
同年6月3日、ロンドンで日ソの国交回復交渉が始まったが、北方領土の扱いを巡り日ソ両国は衝突し交渉決裂となる。この交渉において2島返還などの譲歩を示していたにもかかわらず拒否された形となったソ連は、﹁漁業制限区域﹂を設定し日本の漁船を一方的に締め出すという報復に出た。水産業界への打撃は大きく、そこで水産業を所管する農林相であった河野に白羽の矢が立った。日ソ漁業条約を結ぶべく、河野はモスクワへ向かった。1956年4月29日、イシコフ漁業相との交渉が始まるが進展は無かった。埒が明かないと踏んだ河野はブルガーニン首相との直接交渉を要請し、受け入れられた。会談で、ブルガーニンは﹁日露戦争で貴国が勝った時には、樺太も取れば、漁業の権益も取った。今度は負けたのだから、こっちのいうことを聞くのが当たり前ではないか﹂と主張し、さらに﹁私の方でいま残っているのは、国後、択捉の問題だけであって、あとは全部、貴国のいい分を聞いているのだから、問題は解決しているのと同じだ﹂と述べた。これに対し河野は ﹁あなたが世界の平和に寄与しようという考えがあるならば、当面の漁業問題が一体なんであろうか。これくらいのことがソ連の総理大臣としてできないのか。それができないならば、あまり偉そうな議論はしない方がよい。﹂ と反論した。ブルガーニンは﹁よくわかった﹂と答え、その場でイシコフに協力を指示し、漁業条約は締結された。また、国交正常化の交渉を7月31日までに開始することでも合意した。調印式を終えて帰国した河野を、羽田空港では数千人が出迎えた[5]。 1956年、日ソ平和条約交渉でフルシチョフ共産党第1書記を向うに渡り合い、同年10月には日ソ共同宣言を成立させ、鳩山首相と共に調印に扱ぎつけた。鳩山引退後の自由民主党総裁公選では岸信介を支持し、石橋湛山に一敗地にまみれるが、岸内閣成立後は主流派となる。1957年︵昭和32年︶の内閣改造では、経済企画庁長官として入閣。第2次岸内閣下では党総務会長に就任。しかし、1959年︵昭和34年︶6月に幹事長就任を岸首相に拒否されたため、反主流派に転ずる。日米安保条約改定では岸内閣に批判的立場を取り、衆議院における強行採決で、河野派は三木派とともに欠席した。 岸退陣後の自民党総裁公選では党人派の結集を画策し、大野伴睦、石井光次郎を擁立するが、官僚派︵旧吉田派︶の池田勇人に敗れる。一時、河野新党[注 2]の結成を目論むが、大野らに翻意を促され、断念。大野の仲介により池田首相に接近をはかり、1961年︵昭和36年︶7月の内閣改造で農林大臣として入閣。1962年︵昭和37年︶7月の改造では建設大臣として、東京オリンピックに向けた道路や施設の整備に辣腕をふるう。建設大臣を2年務めた後、1964年︵昭和39年︶7月の第三次池田内閣では、副総理、東京オリンピック担当の国務大臣に横滑りした。この人事が決まった際、河野は﹁オリンピックについては建設大臣のときにやるべきことはやった。あとは文部大臣の管轄ではないのか﹂と必ずしも歓迎しない反応を新聞記者に示している[6]。 1963年︵昭和38年︶7月には、右翼の野村秋介らに、自宅を焼き討ちされている︵河野一郎邸焼き討ち事件︶。 1964年10月に東京オリンピック終了と共に、池田が病のため退陣表明するに当たっては後継総裁候補の一人に擬せられたが、後継総裁は池田の指名で佐藤栄作に落ち着いた。 1964年11月9日発足の第1次佐藤内閣では、副総理兼体育振興のスポーツ担当大臣[7]を務めたが、1965年︵昭和40年︶6月3日の内閣改造では、閣内残留を拒否。1ヶ月後の7月8日、大動脈瘤破裂のため急死した。享年67。死の床で﹁死んでたまるか﹂と言ったと伝えられ、﹁党人政治家の最期の言葉﹂として広くこれが信じられてきた[注 3]が、河野洋平によると﹁大丈夫だ、死にはしない﹂という穏やかな言葉で家族を安心させようとしたのだという。人物[編集]
新東京国際空港問題との関わり[編集]
人物評[編集]
﹁河野一郎という人物は、肌を接して日常の馬鹿げたことから付き合っていないとなかなか真価は分からない。仲間はとことんまで守りかわいがるが、敵は徹底的にやっつける。地方豪族に特有の一族郎党主義を信条としていた。この中に入り込むと、団結、友情に覆われて、人間が溶かされていく。味方は何でも善、敵は何でも悪というふうになりやすい﹂ - 中曽根康弘[16]その他[編集]
系譜[編集]
●河野氏
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| 杉田湛誓 |
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| 石橋湛山 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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石橋藤左衛門 |
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| 石橋湛一 |
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| 岩井尊記 |
| うめ |
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| 足立正 |
| 足立龍雄 |
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| 足立正晃 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 山梨勝之進 |
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| 啓子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 伊藤忠兵衛 |
| 伊藤恭一 |
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| 伊藤勲 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 本郷房太郎 |
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| 田川平三郎 |
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| 田川秀雄 | ||||||||||||||||||||||||||||
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| 園子 |
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| 河野剛雄 | ||||||||||||||||||||||||||||||
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| 顕子 | ||||||||||||||||||||||||||||
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| 岡本良平 |
| 岡本茂俊 | ||||||||||||||||||||||||||
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| 岡本伝之助 |
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| 岡本達彬 |
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| 岡本経世 |
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| 田川誠一 |
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| 田川秀雄 |
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| 和子 | ||||||||||||||||||||||||||
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これ以外にも加納久朗・麻生太郎・鈴木善幸・宮澤喜一・小川平吉・谷村裕・吉國一郎・岸田文雄・石橋正二郎・美濃部亮吉・濱口儀兵衛・藤山愛一郎・久邇邦昭・昭和天皇・安西正夫・大原總一郎・正田英三郎・濱口雄幸・犬養毅・橋本龍太郎・橋本大二郎・田中角栄・田中直紀・太田誠一・櫻内義雄・福田赳夫・福田康夫・越智隆雄・山崎種二・安倍晋三・松崎昭雄・森永太平・今井善衛・鈴木三郎助・鈴木恭二・盛田昭夫・永野重雄・中曽根康弘・西園寺公望・鮎川義介・豊田章一郎・豊田達郎・清水満昭・武田國男・細川護熙・近衛文麿・北野隆興・中部幾次郎・中部謙吉・中部慶次郎・上野十蔵・永山治・竹下登・小沢一郎・金丸信などと縁戚関係にある。
駅伝成績[編集]
年 | 大会 | 所属 | 区間 | 距離 | 順位 | 記録 | 備考 |
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1920 | 第1回東京箱根間往復大学駅伝競走 | 早稲田大学 | 7区 | 区間3位 | 1時間27分40秒 | ||
1921 | 第2回東京箱根間往復大学駅伝競走 | 早稲田大学 | 4区 | 区間3位 | 1時間19分40秒 | ||
1922 | 第3回東京箱根間往復大学駅伝競走 | 早稲田大学 | 7区 | 区間1位 | 1時間20分55秒 | ||
1923 | 第4回東京箱根間往復大学駅伝競走 | 早稲田大学 | 7区 | 区間2位 | 1時間21分04秒 |
著書[編集]
●﹃私の今議会に於ける重要農村対策要綱﹄全国肥料商協会、1940年。- ﹃肥料﹄︵肥料協会︶2巻5号の別冊附録‥河野会長議会報告集。 ●﹃大東亜共栄圏と日本畜産人の覚悟﹄帝国畜産会︿帝畜叢書 第2輯﹀、1942年。 ●﹃自由党の自由経済政策並その農業政策﹄りべらる社、1946年。 ●﹃今だから話そう﹄春陽堂書店、1958年。 ●春秋会 編﹃ゆたかな農村めざして 河野一郎講演集﹄弘文堂、1962年。 ●﹃明日の日本をつくる﹄知性社、1963年7月。 ●﹃明日の日本をつくる﹄知性アイデァセンター、1963年。 ●﹃日本の将来﹄恒文社、1965年。論説集 ●伝記刊行委員会 編﹃河野一郎自伝﹄徳間書店、1965年。 ●﹃私の履歴書 第25集﹄日本経済新聞社、1965年 ●他は岸信介、福田赳夫・後藤田正晴・田中角栄・中曽根康弘﹃保守政権の担い手﹄日本経済新聞出版社︿日経ビジネス人文庫﹀、2007年5月。ISBN 978-4-532-19373-7。新版評伝[編集]
●﹃河野先生を偲ぶ 河野一郎伝記刊行委員会﹄春秋会、1966年 ●河野洋平﹃子が語る 父・河野一郎﹄恒文社、1966年。各・一周忌出版 ●小枝義人﹃党人河野一郎 最後の十年﹄春風社、2010年。河野洋平監修 ●大宅壮一﹃昭和怪物伝﹄角川書店、1957年、新版・角川文庫 電子出版、2014年より。以下は各一部 ●杉森久英﹃風雲を呼ぶ男﹄時事通信社、1977年。﹁権力への闘争 河野一郎﹂ ●村瀬信一﹃首相になれなかった男たち 井上馨・床次竹二郎・河野一郎﹄吉川弘文館、2014年。第3章出典[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]
関連作品[編集]
映画 ●﹃小説吉田学校﹄、1983年、演‥梅宮辰夫 テレビドラマ ●﹃新幹線をつくった男たち﹄、2004年、演‥金田龍之介 ●﹃いだてん〜東京オリムピック噺〜﹄、2019年大河ドラマ、演‥桐谷健太 モデルとした人物が登場する映画 ●﹃華麗なる一族﹄、1974年、演‥河村弘二 ※役名は大川一郎。 ●﹃金環蝕﹄、1975年、演‥河村弘二 ※役名は広野大悟。 モデルとした人物が登場するテレビドラマ ●﹃華麗なる一族﹄、1974年、演‥河村弘二 ※役名は大川一郎。 ●﹃不毛地帯﹄、1979年、演‥河村弘二 ※役名は大川一郎。 ●﹃華麗なる一族﹄、2007年、演‥西田敏行 ※役名は大川一郎。 ●﹃不毛地帯﹄、2009年、演‥亀石征一郎 ※役名は大川一郎。 ●﹃華麗なる一族﹄、2021年、演‥永島敏行 ※役名は大川一郎。関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 荒敬『河野一郎』 - コトバンク
- 『河野一郎』 - コトバンク
- “第46回国会 衆議院予算委員会第四分科会 第2号 (昭和39年2月18日)”. 国会会議録検索システム. 国立国会図書館 (1964年2月18日). 2020年2月6日閲覧。
公職 | ||
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先代 創設 |
国務大臣(東京オリンピック担当) 1964年 - 1965年 |
次代 最終 |
先代 中村梅吉 |
建設大臣 第21・22代:1962年 - 1964年 |
次代 小山長規 |
先代 保利茂 周東英雄 |
農林大臣 第20・21・22代:1954年 - 1956年 第30代:1961年 - 1962年 |
次代 井出一太郎 重政誠之 |
先代 宇田耕一 |
経済企画庁長官 第5代:1957年 - 1958年 |
次代 三木武夫 |
先代 川島正次郎 |
行政管理庁長官 第14代:1955年 - 1956年 |
次代 大久保留次郎 |
党職 | ||
先代 佐藤栄作 |
自由民主党総務会長 第4代:1958年 - 1959年 |
次代 益谷秀次 |
先代 結成 |
春秋会会長 初代:1956年 - 1965年 |
次代 森清 |
先代 結成 |
日本自由党幹事長 初代:1945年 - 1946年 |
次代 大野伴睦 |
その他の役職 | ||
先代 春日弘 |
日本陸上競技連盟会長 第3代:1965年 |
次代 河野謙三 |
- 河野一郎
- 神奈川県選出の衆議院議員
- 神奈川県選出の衆議院議員 (帝国議会)
- 自由民主党の衆議院議員
- 日本民主党の衆議院議員
- 自由党(日本 1950-1955)の衆議院議員
- 昭和時代戦前の衆議院議員
- 昭和時代戦後の衆議院議員
- 在職中に死去した衆議院議員
- 昭和時代戦後の閣僚
- 行政管理庁長官
- 日本の建設大臣
- 日本の農林大臣
- 経済企画庁長官
- 公営競技
- 公職追放者
- 証人喚問された人物
- 戦前の朝日新聞社の人物
- 成田空港問題に関連する政治家
- 日本の男子長距離走の選手
- 日本陸上競技連盟会長
- 箱根駅伝の人物
- 馬主
- 競輪に関連する人物
- 1964年東京オリンピックの関係者
- 勲一等旭日桐花大綬章受章者
- 私の履歴書の登場人物
- 神奈川県立小田原高等学校出身の人物
- 早稲田大学出身の人物
- 河野治平家
- 神奈川県出身の人物
- 1898年生
- 1965年没