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'''小浜藩'''︵おばまはん︶は、[[若狭国]]一国および[[越前国|越前]][[敦賀郡]]を領した藩。藩庁は[[小浜城 (若狭国)|小浜城]]。
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'''小浜藩'''︵おばまはん︶は、[[若狭国]]一国および[[近江国|近江]][[高島郡 (滋賀県)|高島郡]]の一部、[[越前国|越前]][[敦賀郡]]を領した藩。藩庁は[[小浜城 (若狭国)|小浜城]]。
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== 概要 == |
== 概要 == |
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=== 前史 === |
=== 前史 === |
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[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]後期から[[安土桃山時代]]、若狭は[[丹羽長重]]、次いで[[浅野長政]]が領していた |
[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]後期から[[安土桃山時代]]、若狭は[[丹羽長重]]、次いで[[浅野長政]]が領していた。そして[[関ヶ原の戦い]]前には、[[木下勝俊]]兄弟が入った。木下勝俊は若狭の内、遠敷郡・三方郡で6万5000石を領した。大飯郡2万石︵[[高浜藩]]︶は弟の[[木下利房]]が領していた。[[慶長]]5年︵[[1600年]]︶の関ヶ原の戦いで、勝俊は前哨戦としての[[伏見城の戦い]]の直前に戦地離脱をしたとして、<!-->よく誤解されるが、本当に西軍側に付いたら勝俊の命はそれこそ失われていただろう。</!-->また利房は西軍に与したため、戦後に[[改易]]された。その後、勝俊は歌人・木下長嘯子として名を残した。また利房は[[大坂の陣]]で徳川方に付いたため大名として復活を果たし、[[備中国|備中]][[足守地域|足守]]で大名となった。
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=== 京極家時代 === |
=== 京極家時代 === |
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関ヶ原の戦いの戦功により、小浜には[[近江国|近江]][[大津城|大津]]6万石を領し[[大津城]]主であった |
関ヶ原の戦いの戦功により、小浜には[[近江国|近江]][[大津城|大津]]6万石を領し[[大津城]]主であった[[京極高次]]が[[若狭国|若狭]]一国を与えられ、若狭[[小浜市|小浜]]8万5000石で入ることとなる。高次は関ヶ原の戦いに先立って、小勢をもって[[大津城の戦い|大津城に籠城し]]、西軍の[[立花宗茂]]・[[末次元康|毛利元康]]らの大軍勢と激しい攻防戦を繰り広げた。しかし大砲を天守に打ち込まれるなど西軍の激しい猛攻の前に、大津城は開城を余儀なくされた。武装解除を命じた後に高次自らは[[高野山]][[金剛峯寺]]に入った。ところが、大津城の開城と同日に、関ヶ原の本戦では西軍が敗退していた。戦後の論功行賞で[[徳川家康]]は高次の功績を高く評価し、高次に若狭一国を与えて[[国持大名]]としたのである。高次は名乗りを若狭守と変え、若狭に入った。これが小浜藩の立藩である。
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高次は翌年、近江[[高島郡 (滋賀県)|高島郡]]内において7000石を加増され、合計9万2000石を領する大名となった。慶長14年︵[[1609年]]︶の高次死後、その家督は子の[[京極忠高]]が継ぐ。[[大坂の陣]]の功などによりさらに[[越前国|越前]][[敦賀郡]]一郡全域を加増され、このときに若狭から越前敦賀郡までを一円支配する近世小浜藩の藩領が確定した。
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高次は関ヶ原の戦いで東軍として名乗りを挙げ、小勢をもって大津城に籠城し、西軍の[[立花宗茂]]・[[末次元康|毛利元康]]らの大軍勢と激しい攻防戦を繰り広げた。しかし大砲を天守に打ち込まれるなど西軍の激しい猛攻の前に大津城は開城を余儀なくされた。武装解除を命じた後に高次自らは[[高野山]][[金剛峯寺]]に入った。
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忠高は義母の[[常高院]]と共に、大坂の陣などでは和議交渉で活躍した人物である。[[寛永]]11年︵[[1634年]]︶に[[出雲国|出雲]]・[[隠岐国|隠岐]][[松江藩]]23万5000石へ忠高は移封された。
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ところが高次の善戦により、宗茂ら1万5000人の西軍別働隊は9月15日の関ヶ原本戦に大遅参してしまい西軍が敗退。戦後の論功行賞で家康は高次の功績を高く評価し、高次に若狭国一国を与えて'''国持大名'''としたのである。高次は京極若狭守と名乗りを変え若狭に入った。これが、小浜藩の立藩である。
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=== 酒井家時代 === |
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高次は翌年、近江[[高島郡 (滋賀県)|高島郡]]内において7000石を加増され、合計9万2000石を領する大名となった。慶長14年︵[[1609年]]︶の高次死後、その家督は子の[[京極忠高]]が継ぐ。大坂の役の功などによりさらに'''[[越前国|越前]][[敦賀郡]]'''一郡全域を加増され、このときに'''若狭から越前敦賀郡までを一円支配する近世小浜藩の藩領'''が確定した。
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その後、小浜藩には[[武蔵国|武蔵]][[川越藩]]10万石の藩主だった[[酒井忠勝 (小浜藩主)|酒井忠勝]]が若狭・越前敦賀郡・近江・[[安房国|安房]]の合計11万3500石に加増転封されて小浜藩に入る。寛永13年︵[[1636年]]︶には[[下野国]]内においてさらに1万石を加増され、合計12万3500石を領する、譜代有数の大身大名となる︵近畿では[[彦根藩]][[井伊氏|井伊家]]に次ぐ︶。
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忠勝は[[土井利勝]]らと並ぶ、江戸幕府初期の有名な[[老中]]・[[大老]]を歴任した人物である。将軍[[徳川家光]]より、忠勝は若狭一国の国持大名とされた。譜代大名で国持の格式となったのは忠勝ただ一人である。家光の忠勝に対する感謝の大きさが窺がわれる。しかし国持待遇は忠勝一代で終わった。
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忠勝の後、その家督は四男の[[酒井忠直]]が継ぎ、嫡男の[[酒井忠朝]]は廃嫡された。忠直は[[寛文]]8年︵[[1668年]]︶、兄の子である[[酒井忠国]]に1万石を分与し、[[安房勝山藩]]が成立する。[[天和 (日本)|天和]]2年︵[[1682年]]︶には忠直の次男に越前敦賀郡と近江高島郡のうちで1万石を分与して[[越前国|越前]][[敦賀藩]]︵後期敦賀藩、鞠山藩︶が成立する。また同時に五男・[[酒井忠根]]にも3000石が分与され独立した[[旗本]]となったため、小浜藩の所領は縮小して10万3500石となった。
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忠高は義母の[[常高院]]と共に大坂の役などでは和議交渉で活躍した人物である。[[寛永]]11年([[1634年]])に[[出雲国|出雲]][[隠岐国|隠岐]][[松江藩]]へ23万5000石へ忠高は移封された。 |
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藩政においては、初代藩主・忠勝は町奉行や[[代官]]を設置し、さらに税制の確立にも尽力して藩の支配体制を固めた。しかし[[享保]]20年︵[[1735年]]︶に小浜一帯を大洪水が襲って藩内に大被害をもたらした。しかもそれに連鎖するように飢饉も相次いで、領民は大いに苦しんだ。このため、小浜藩の領民は協力して藩主に窮状を訴えたが、聞き入られなかったため、[[明和]]7年︵[[1770年]]︶に百姓一揆が起こった。藩は何とか財政難打開を図ったが、[[天保]]7年︵[[1836年]]︶には藩に[[冷害]]による飢饉が襲い、遂に財政は火の車となった。
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=== 酒井家時代 === |
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その後、小浜藩には[[武蔵国|武蔵]][[川越藩]]10万石の藩主だった[[酒井忠勝 (若狭国小浜藩主)|酒井忠勝]]が[[若狭国|若狭]]および[[越前国|越前]][[敦賀郡]]および[[近江国|近江]]・[[安房国]]の合計11万3,500石に加増転封されて小浜藩に入る。
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第12代藩主・並びに第14代(最後)の藩主となった[[酒井忠義 (小浜藩主)|酒井忠義]]は、[[幕末]]期の[[京都所司代]]として有名な人物である。忠義は[[井伊直弼]]に協力して[[安政の大獄]]を積極的に京都で推し進め、[[和宮親子内親王|和宮]]降嫁や[[公武合体]]、[[武田耕雲斎]]率いる[[天狗党の乱]]鎮圧などで活躍した。[[慶応]]4年([[1868年]])の[[戊辰戦争]]で、[[酒井忠氏]]は幕府側に与して新政府軍と戦ったが、敗れて降伏した。その後、小浜藩は新政府より北陸道鎮撫使の先鋒を命じられ、奥羽まで転戦した。 |
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寛永13年([[1636年]])には[[下野国]]の内においてさらに1万石を加増され、合計12万3,500石を領する譜代有数の大身大名となる(近畿では彦根井伊家に次ぐ)。 |
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[[明治]]2年︵[[1869年]]︶の[[版籍奉還]]で酒井忠禄︵忠義の再任後の名前︶は小浜[[藩知事]]となり、明治3年︵1870年︶9月に[[鞠山藩]]と合併し鞠山藩知事[[酒井忠経]]が小浜藩知事となる。明治4年︵[[1871年]]︶7月の[[廃藩置県]]で小浜県となる。同年11月には[[敦賀県]]となり、明治9年︵[[1876年]]︶に[[滋賀県]]に編入され、明治14年︵[[1881年]]︶には[[福井県]]に編入された。
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ちなみに忠勝はいうまでもなく、[[土井利勝]]らと並ぶ幕府初期の有名な[[老中]]・[[大老]]を兼任した人物である。将軍・家光より、忠勝は、若狭一国の[[国主|国持大名]]とされた。譜代大名で国持の格式となったのは忠勝ただ一人である。家光の忠勝に対する感謝の大きさが窺がわれる。しかし国持待遇は忠勝一代で終わった。
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なお、﹃[[解体新書]]﹄で有名な[[蘭方医]][[杉田玄白]]は、この小浜藩の藩医であった。杉田の名前を冠した[[杉田玄白記念公立小浜病院]]が、小浜城跡近くに設立されている。
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忠勝の後、その家督は4男の[[酒井忠直]]が継ぎ、嫡男の[[酒井忠朝]]は廃嫡された。忠直は[[寛文]]8年︵[[1668年]]︶、兄の子である[[酒井忠国]]に1万石を分与して[[安房勝山藩]]が成立する。[[天和 (日本)|天和]]2年︵[[1682年]]︶には忠直の次男に越前敦賀郡と近江高島郡の内で1万石を分与して[[越前国|越前]][[敦賀藩]]︵後期敦賀藩、鞠山藩︶が成立する。また同時に五男・[[酒井忠根]]にも3,000石が分与され独立した[[旗本]]となったため、小浜藩の所領は縮小し10万3,500石となった。
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== 歴代藩主 == |
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藩政においては、初代藩主・忠勝は町奉行や[[代官]]を設置し、さらに税制の確立にも尽力して藩の支配体制を固めた。しかし[[享保]]20年︵[[1735年]]︶に小浜一帯を大洪水が襲って藩内に大被害をもたらした。しかもそれに連鎖するように飢饉も相次いで領民は大いに苦しんだ。このため、小浜藩の領民は協力して藩主に窮状を訴えたが、聞き入られなかったため、[[明和]]7年︵[[1770年]]︶に百姓一揆が起こった。藩は何とか財政難打開を図ったが、[[天保]]7年︵[[1836年]]︶には藩に[[冷害]]による飢饉が襲い、遂に財政は火の車となった。
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=== 京極家 === |
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[[外様大名|外様]]、9万2000石→11万3000石。 |
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# [[京極高次]] |
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# [[京極忠高]] |
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=== 酒井家 === |
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第12代藩主・並びに第14代(最後)の藩主となった[[酒井忠義 (若狭国小浜藩主)|酒井忠義]]は、[[幕末]]期の[[京都所司代]]としては有名な人物である。忠義は[[井伊直弼]]に協力して[[安政の大獄]]を積極的に京都で推し進め、[[和宮親子内親王|和宮]]降嫁や[[公武合体]]、[[武田耕雲斎]]率いる[[天狗党の乱]]鎮圧などで活躍した。[[慶応]]4年([[1868年]])の[[戊辰戦争]]で、忠義は幕府側に与して新政府軍と戦ったが、敗れて降伏した。その後、小浜藩は新政府より北陸道鎮撫使の先鋒を命じられ、奥羽まで転戦した。 |
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[[譜代大名|譜代]]、11万3000石→10万3000石。 |
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# [[酒井忠勝 (小浜藩主)|酒井忠勝]] |
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# [[酒井忠直]] |
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# [[酒井忠隆]] |
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# [[酒井忠囿]] |
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# [[酒井忠音]] |
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# [[酒井忠存]] |
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# [[酒井忠用]] |
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# [[酒井忠与]] |
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# [[酒井忠貫]] |
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# [[酒井忠進]] |
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# [[酒井忠順 (小浜藩主)|酒井忠順]] |
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# [[酒井忠義 (小浜藩主)|酒井忠義]] |
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# [[酒井忠氏]] |
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# [[酒井忠義 (小浜藩主)|酒井忠禄]](再任) |
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=== 小浜藩知事 === |
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[[明治]]2年︵[[1869年]]︶の[[版籍奉還]]で酒井忠禄︵忠義の再任後の名前︶は小浜藩知事となり、明治3年︵1870年︶9月に[[鞠山藩]]と合併し鞠山藩知事[[酒井忠経]]が小浜藩知事となる。明治4年︵[[1871年]]︶7月の[[廃藩置県]]で小浜県となる。同年11月には[[敦賀県]]となり、明治9年︵[[1876年]]︶に[[滋賀県]]に編入され、明治14年︵[[1881年]]︶には[[福井県]]に編入されたのである。
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# [[酒井忠義 (小浜藩主)|酒井忠禄]] |
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# [[酒井忠経]](旧[[敦賀藩|鞠山藩]]主、同藩の合併にともない遷任) |
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== 幕末の領地 == |
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ちなみに[[解体新書]]で有名な医師、'''[[杉田玄白]]'''はこの小浜藩の藩医であった。杉田の名前を冠して[[杉田玄白記念公立小浜病院]]が小浜城跡近くに設立されている。 |
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「[[旧高旧領取調帳]]」ではすでに旧[[敦賀藩]]領を含むが、ここでは「[[角川日本地名大辞典]]」(18・福井県、25・滋賀県)の記述によった。 |
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* [[若狭国]]一円 |
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== 歴代藩主 == |
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** [[遠敷郡]] - 122村 |
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=== 京極氏 === |
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** [[大飯郡]] - 73村 |
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{{See also|京極氏}} |
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** [[三方郡]] - 58村 |
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[[外様]]、9万2000石→11万3000石。 |
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* [[越前国]] |
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# [[京極高次]]︵たかつぐ︶従三位。若狭守。参議。
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** [[南条郡]]のうち - 5村 |
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# [[京極忠高]](ただたか)従四位下。左近衛権少将。 |
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** [[今立郡]]のうち - 6村 |
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** [[敦賀郡]]のうち - 38村 |
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* [[近江国]] |
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** [[高島郡 (滋賀県)|高島郡]]のうち - 5村(木津村、辻沢村、河原市村、上古賀村、南船木村)<!--高島郡の項の再編集までここに記載--> |
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== 藩邸 == |
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* [[江戸藩邸]]は、上屋敷が[[昌平橋]]にあった<ref>吉田喜久雄「若狭小浜藩酒井家江戸上屋敷」</ref>。 |
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{{See also|酒井氏}} |
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* 下屋敷は酒井氏が[[川越藩]]主時代に[[矢来町]]にあり<ref>現地史跡説明に﹁[[寛永]]5年︵[[1628年]]︶酒井讃岐守は、徳川家光からこの地を拝領して下屋敷とした﹂とある。</ref>、その後で小浜藩主になった。[[元禄]]年間に、改易となった[[赤穂藩]]の鉄砲洲にあった藩邸を新たに与えられた<ref>﹁一、右内匠頭様御屋敷ハ御近所戸沢上総介殿御預ヶ其後酒井靭負佐殿屋舗御拝領之﹂︵﹃大垣藩戸田氏播州赤穂一巻覚書﹄︶</ref>。しかし浪人や町人の襲撃により建物が破損したり、放火による焼失があったので、願い出て矢来町に戻る<ref>暴徒によって建物から外された裏門は、浅野家の菩提寺である[[泉岳寺]]に移転されており、現在も見ることができる。︵﹃泉岳寺境内案内﹄︶</ref>。[[安政]]4年︵[[1857年]]︶には隣接する大和郡山藩邸が他へ移動したので、同地を加えられている<ref>﹁嘉永慶応 江戸切絵図﹂(尾張屋清七板)</ref>。
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[[譜代]]、11万3000石→10万3000石。 |
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# [[酒井忠勝 (若狭国小浜藩主)|酒井忠勝]]︵ただかつ︶従四位上。[[讃岐国|讃岐]]守。左少将。
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== 脚注 == |
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# [[酒井忠直]]︵ただなお︶従四位下。修理大夫。侍従。
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{{Reflist}} |
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# [[酒井忠隆]](ただたか)従四位下。[[遠江国|遠江]]守。 |
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# [[酒井忠囿]](ただその)従四位下。靭負佐。 |
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# [[酒井忠音]]︵ただしげ︶従四位下。修理大夫。侍従。
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# [[酒井忠存]](ただあきら)従五位下。備後守。 |
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# [[酒井忠用]]︵ただもち︶従四位下。修理大夫。侍従。
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# [[酒井忠与]](ただよし)従四位下。遠江守。 |
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# [[酒井忠貫]](ただつら)従四位下。修理大夫。 |
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# [[酒井忠進]]︵ただゆき︶従四位下。'''若狭守'''。侍従。
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# [[酒井忠順]](ただより)従四位下。修理大夫。 |
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# [[酒井忠義 (若狭国小浜藩主)|酒井忠義]]︵ただあき︶従四位上。'''若狭守'''。修理大夫。少将。
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# [[酒井忠氏]](ただうじ)従四位下。'''若狭守'''。 |
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# [[酒井忠義 (若狭国小浜藩主)|酒井忠禄]](ただとし)従四位上。少将。(酒井忠義の再任) |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
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* [[ |
* [[高木流]] |
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* [[ |
* [[中西派一刀流]] |
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* [[楠葉台場]]-[[鳥羽伏見の戦い]]で小浜藩兵が詰めた。 |
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* [[高木流|高木流槍術]] |
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* [[中西派一刀流|中西派一刀流剣術]] |
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== 外部リンク == |
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*[http://codh.rois.ac.jp/bukan/book/200018823/096/ 小浜(酒井修理大夫忠貫) | 大名家情報 - 武鑑全集] |
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{{s-start}} |
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{{s-bef|before=([[若狭国]])<hr />[[敦賀藩|鞠山藩]]|表記=前}} |
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|years=[[1600年]] - [[1871年]]|years2=小浜藩→小浜県}} |
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{{江戸時代の藩}} |
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[[Category:小浜藩|*]] |
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[[Category:藩]] |
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[[Category:若狭国|藩おはま]] |
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[[Category:越前国の藩|おはま]] |
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[[Category:近江国の藩|おはま]] |
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[[Category:丸亀京極家|藩おはま]] |
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[[Category:小浜酒井家|藩]] |
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[[Category:福井県の歴史]] |
[[Category:福井県の歴史]] |
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[[Category: |
[[Category:17世紀の日本の設立]] |
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[[en:Obama Domain]] |
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[[fr:Domaine d'Obama]] |
2023年11月25日 (土) 22:00時点における版
概要
前史
戦国時代後期から安土桃山時代、若狭は丹羽長重、次いで浅野長政が領していた。そして関ヶ原の戦い前には、木下勝俊兄弟が入った。木下勝俊は若狭の内、遠敷郡・三方郡で6万5000石を領した。大飯郡2万石︵高浜藩︶は弟の木下利房が領していた。慶長5年︵1600年︶の関ヶ原の戦いで、勝俊は前哨戦としての伏見城の戦いの直前に戦地離脱をしたとして、また利房は西軍に与したため、戦後に改易された。その後、勝俊は歌人・木下長嘯子として名を残した。また利房は大坂の陣で徳川方に付いたため大名として復活を果たし、備中足守で大名となった。京極家時代
関ヶ原の戦いの戦功により、小浜には近江大津6万石を領し大津城主であった京極高次が若狭一国を与えられ、若狭小浜8万5000石で入ることとなる。高次は関ヶ原の戦いに先立って、小勢をもって大津城に籠城し、西軍の立花宗茂・毛利元康らの大軍勢と激しい攻防戦を繰り広げた。しかし大砲を天守に打ち込まれるなど西軍の激しい猛攻の前に、大津城は開城を余儀なくされた。武装解除を命じた後に高次自らは高野山金剛峯寺に入った。ところが、大津城の開城と同日に、関ヶ原の本戦では西軍が敗退していた。戦後の論功行賞で徳川家康は高次の功績を高く評価し、高次に若狭一国を与えて国持大名としたのである。高次は名乗りを若狭守と変え、若狭に入った。これが小浜藩の立藩である。 高次は翌年、近江高島郡内において7000石を加増され、合計9万2000石を領する大名となった。慶長14年︵1609年︶の高次死後、その家督は子の京極忠高が継ぐ。大坂の陣の功などによりさらに越前敦賀郡一郡全域を加増され、このときに若狭から越前敦賀郡までを一円支配する近世小浜藩の藩領が確定した。 忠高は義母の常高院と共に、大坂の陣などでは和議交渉で活躍した人物である。寛永11年︵1634年︶に出雲・隠岐松江藩23万5000石へ忠高は移封された。酒井家時代
その後、小浜藩には武蔵川越藩10万石の藩主だった酒井忠勝が若狭・越前敦賀郡・近江・安房の合計11万3500石に加増転封されて小浜藩に入る。寛永13年︵1636年︶には下野国内においてさらに1万石を加増され、合計12万3500石を領する、譜代有数の大身大名となる︵近畿では彦根藩井伊家に次ぐ︶。 忠勝は土井利勝らと並ぶ、江戸幕府初期の有名な老中・大老を歴任した人物である。将軍徳川家光より、忠勝は若狭一国の国持大名とされた。譜代大名で国持の格式となったのは忠勝ただ一人である。家光の忠勝に対する感謝の大きさが窺がわれる。しかし国持待遇は忠勝一代で終わった。 忠勝の後、その家督は四男の酒井忠直が継ぎ、嫡男の酒井忠朝は廃嫡された。忠直は寛文8年︵1668年︶、兄の子である酒井忠国に1万石を分与し、安房勝山藩が成立する。天和2年︵1682年︶には忠直の次男に越前敦賀郡と近江高島郡のうちで1万石を分与して越前敦賀藩︵後期敦賀藩、鞠山藩︶が成立する。また同時に五男・酒井忠根にも3000石が分与され独立した旗本となったため、小浜藩の所領は縮小して10万3500石となった。 藩政においては、初代藩主・忠勝は町奉行や代官を設置し、さらに税制の確立にも尽力して藩の支配体制を固めた。しかし享保20年︵1735年︶に小浜一帯を大洪水が襲って藩内に大被害をもたらした。しかもそれに連鎖するように飢饉も相次いで、領民は大いに苦しんだ。このため、小浜藩の領民は協力して藩主に窮状を訴えたが、聞き入られなかったため、明和7年︵1770年︶に百姓一揆が起こった。藩は何とか財政難打開を図ったが、天保7年︵1836年︶には藩に冷害による飢饉が襲い、遂に財政は火の車となった。 第12代藩主・並びに第14代︵最後︶の藩主となった酒井忠義は、幕末期の京都所司代として有名な人物である。忠義は井伊直弼に協力して安政の大獄を積極的に京都で推し進め、和宮降嫁や公武合体、武田耕雲斎率いる天狗党の乱鎮圧などで活躍した。慶応4年︵1868年︶の戊辰戦争で、酒井忠氏は幕府側に与して新政府軍と戦ったが、敗れて降伏した。その後、小浜藩は新政府より北陸道鎮撫使の先鋒を命じられ、奥羽まで転戦した。 明治2年︵1869年︶の版籍奉還で酒井忠禄︵忠義の再任後の名前︶は小浜藩知事となり、明治3年︵1870年︶9月に鞠山藩と合併し鞠山藩知事酒井忠経が小浜藩知事となる。明治4年︵1871年︶7月の廃藩置県で小浜県となる。同年11月には敦賀県となり、明治9年︵1876年︶に滋賀県に編入され、明治14年︵1881年︶には福井県に編入された。 なお、﹃解体新書﹄で有名な蘭方医杉田玄白は、この小浜藩の藩医であった。杉田の名前を冠した杉田玄白記念公立小浜病院が、小浜城跡近くに設立されている。歴代藩主
京極家
外様、9万2000石→11万3000石。 (一)京極高次 (二)京極忠高酒井家
譜代、11万3000石→10万3000石。 (一)酒井忠勝 (二)酒井忠直 (三)酒井忠隆 (四)酒井忠囿 (五)酒井忠音 (六)酒井忠存 (七)酒井忠用 (八)酒井忠与 (九)酒井忠貫 (十)酒井忠進 (11)酒井忠順 (12)酒井忠義 (13)酒井忠氏 (14)酒井忠禄︵再任︶小浜藩知事
(一)酒井忠禄 (二)酒井忠経︵旧鞠山藩主、同藩の合併にともない遷任︶幕末の領地
﹁旧高旧領取調帳﹂ではすでに旧敦賀藩領を含むが、ここでは﹁角川日本地名大辞典﹂︵18・福井県、25・滋賀県︶の記述によった。藩邸
●江戸藩邸は、上屋敷が昌平橋にあった[1]。 ●下屋敷は酒井氏が川越藩主時代に矢来町にあり[2]、その後で小浜藩主になった。元禄年間に、改易となった赤穂藩の鉄砲洲にあった藩邸を新たに与えられた[3]。しかし浪人や町人の襲撃により建物が破損したり、放火による焼失があったので、願い出て矢来町に戻る[4]。安政4年︵1857年︶には隣接する大和郡山藩邸が他へ移動したので、同地を加えられている[5]。脚注
関連項目
外部リンク
先代 (若狭国) 鞠山藩 |
行政区の変遷 1600年 - 1871年 (小浜藩→小浜県) |
次代 敦賀県 |