清
- 大清帝国
- 大淸國
ᡩᠠᡳ᠌ᠴᡳᠩ
ᡤᡠᡵᡠᠨ -
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←1636年 - 1912年
1917年(張勲復辟)→
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→(国旗) (玉璽[注釈 1]) - 国歌: 鞏金甌
(1911年 - 1912年)清の最大領域︵1820年︶。濃い金色の部分は旧明領で漢人居住地である省と直隷︵中国内地︶、薄い黄色の部分は旗地︵つまり満洲)とモンゴル・ウイグル・チベット等の同君連合地域。︶以上は清の全土。オレンジ色の部分は冊封国、ピンク色の部分はネルチンスク条約で外交紛争のある地域、赤点線は中華人民共和国の今の領土だが、他国との係争地も含む。なお、樺太、台湾も全島が領域内として描かれているが、どちらも全域支配には至っていない。首都 盛京(ムクデン)(1616年-1644年)
順天府(1644年-1912年)通貨 銀両 現在 中華人民共和国
中華民国
ロシア
モンゴル
カザフスタン
キルギス
タジキスタン
満洲の歴史 | |||||||||||||
箕子朝鮮 | 東胡 | 濊貊 沃沮 |
粛慎 | ||||||||||
燕 | 遼西郡 | 遼東郡 | |||||||||||
秦 | 遼西郡 | 遼東郡 | |||||||||||
前漢 | 遼西郡 | 遼東郡 | 衛氏朝鮮 | 匈奴 | |||||||||
漢四郡 | 夫余 | ||||||||||||
後漢 | 遼西郡 | 烏桓 | 鮮卑 | 挹婁 | |||||||||
遼東郡 | 高句麗 | ||||||||||||
玄菟郡 | |||||||||||||
魏 | 昌黎郡 | 公孫度 | |||||||||||
遼東郡 | |||||||||||||
玄菟郡 | |||||||||||||
西晋 | 平州 | ||||||||||||
慕容部 | 宇文部 | ||||||||||||
前燕 | 平州 | ||||||||||||
前秦 | 平州 | ||||||||||||
後燕 | 平州 | ||||||||||||
北燕 | |||||||||||||
北魏 | 営州 | 契丹 | 庫莫奚 | 室韋 | |||||||||
東魏 | 営州 | 勿吉 | |||||||||||
北斉 | 営州 | ||||||||||||
北周 | 営州 | ||||||||||||
隋 | 柳城郡 | 靺鞨 | |||||||||||
燕郡 | |||||||||||||
遼西郡 | |||||||||||||
唐 | 営州 | 松漠都督府 | 饒楽都督府 | 室韋都督府 | 安東都護府 | 渤海国 | 黒水都督府 | 靺鞨 | |||||
五代十国 | 営州 | 契丹 | 渤海国 | 靺鞨 | |||||||||
遼 | 上京道 | 東丹 | 女真 | ||||||||||
中京道 | 定安 | ||||||||||||
東京道 | |||||||||||||
金 | 東京路 | ||||||||||||
上京路 | |||||||||||||
東遼 | 大真国 | ||||||||||||
元 | 遼陽行省 | ||||||||||||
明 | 遼東都司 | 奴児干都指揮使司 | |||||||||||
建州女真 | 海西女真 | 野人女真 | |||||||||||
清 | 満洲 | ||||||||||||
東三省 |
ロマノフ朝 (沿海州/緑ウクライナ/江東六十四屯) | ||||||||||||
中華民国 (東三省) |
極東共和国 ソ連 (極東) | ||||||||||||
満洲国 | |||||||||||||
ソ連占領下の満洲 | |||||||||||||
中華人民共和国 (中国東北部) |
ロシア連邦 (極東連邦管区/極東ロシア) |
北朝鮮 (薪島郡) | |||||||||||
中国朝鮮関係史 | |||||||||||||
Portal:中国 |
国号とその読み方[編集]
歴史[編集]
清の勃興[編集]
清による中国支配[編集]
清の最盛期[編集]
西欧列強の進出と内乱[編集]
先史時代 中石器時代 新石器時代 | |||||||||||
三皇五帝 (古国時代) |
(黄河文明・ 長江文明・ 遼河文明) | ||||||||||
夏 | |||||||||||
殷 | |||||||||||
周(西周) | |||||||||||
周 (東周) |
春秋時代 | ||||||||||
戦国時代 | |||||||||||
秦 | |||||||||||
漢(前漢) | |||||||||||
新 | |||||||||||
漢(後漢) | |||||||||||
呉 (孫呉) |
漢 (蜀漢) |
魏 (曹魏) | |||||||||
晋(西晋) | |||||||||||
晋(東晋) | 十六国 | ||||||||||
宋(劉宋) | 魏(北魏) | ||||||||||
斉(南斉) | |||||||||||
梁 | 魏 (西魏) |
魏 (東魏) | |||||||||
陳 | 梁 (後梁) |
周 (北周) |
斉 (北斉) | ||||||||
隋 | |||||||||||
唐 | |||||||||||
周(武周) | |||||||||||
五代十国 | 契丹 | ||||||||||
宋 (北宋) |
夏 (西夏) |
遼 | |||||||||
宋 (南宋) |
金 | ||||||||||
元 | |||||||||||
明 | 元 (北元) | ||||||||||
明 (南明) |
順 | 後金 | |||||||||
清 | |||||||||||
中華民国 | 満洲 | ||||||||||
中華人民 共和国 |
中華 民国 (台湾) | ||||||||||
モンゴル高原 | |||
獫狁 | 葷粥 | 山戎 | |
戎狄 | |||
月氏 | 匈奴 | 東胡 | |
南匈奴 | |||
丁零 | 鮮卑 | ||
高車 | 柔然 | ||
鉄勒 | 突厥 | ||
東突厥 | |||
回鶻 | |||
黠戛斯 | 達靼 | 契丹 | |
ナイマン | ケレイト | 大遼 | |
(乃蛮) | (客烈亦) | モンゴル | |
モンゴル帝国 | |||
大元(嶺北行省) | |||
北元 | |||
(ハルハ・オイラト) | |||
大清(外藩・外蒙古) | |||
大モンゴル国 | |||
モンゴル人民共和国 | |||
モンゴル国 |
半植民地化・滅亡[編集]
北西部の新疆︵現在の新疆ウイグル自治区︶では、ヤクブ・ベクが清朝領内に自治権を持つ領主を蜂起させ新疆へ侵攻、同地を占領した︵ヤクブ・ベクの乱︶。ロシアも1871年、新疆に派兵しイリ地方を占領した。漢人官僚の陝甘総督左宗棠により、ヤクブ・ベクの乱は鎮圧され、最終的に曽国藩の息子である曽紀沢の手によって、1881年にはロシアとの間で不平等条約のイリ条約を締結した。イリ界約に基づき、イリ地方のうちコルガス川以西はロシアが併合しセミレーチエ州に編入した。カシュガル条約でパミール高原より西をロシアに割譲し︵外西北︶、現在の中国と中央アジア諸国との国境線が形成されていった。これに対し、清は1884年新疆省を設置すると伴に旗人のイリ将軍らの施政権を削り、陝甘総督甘粛新疆巡撫が軍事行政を管轄する事となり内地化された。ロシアは1892年にパミール高原に侵攻しサリコル山以西を条約無しで併合している。 1854年、冊封国暹羅︵シャム︶が朝貢を廃止すると共に不平等条約のボウリング条約を結んだ。1872年、日本の琉球処分により清と薩摩藩の両者に朝貢していた琉球は、日本に合併された。1884年、インドシナ半島の植民地化を進めるフランスに対抗し、対越南︵ベトナム︶宗主権を維持しようとして清仏戦争︵ - 1885年︶が起きたが、清仏天津条約によって冊封国越南はフランスの植民地となった。1886年、緬甸︵ビルマ︶は3度目のイギリス軍の侵略を被り滅亡した。清への臣従を拒む勢力が擡頭した朝鮮に対しては、宗主国としての内政権を揮い壬午事変︵1882年︶、甲申政変︵1884年︶を鎮圧したが、1894年に日本が起こした甲午改革では、鎮圧を企図したものの日清戦争︵ - 1895年︶で敗北し、下関条約によって遼東半島および福建台湾省の割譲と朝鮮が自主国であることを承認させられ、建国以来維持していた李氏朝鮮に対する広範な支配権も失った︵ただし朝鮮・大韓帝国における清領租界は日韓併合後も清国が確保している︶。 ﹁眠れる獅子﹂と言われた清が日本にあえなく敗北する様子を見た欧州列強は、日本が課した巨額の賠償金支払債務に目をつけた。まずフランス共和国、ドイツ帝国、ロシア帝国はいわゆる﹁三国干渉﹂を通じて日本に遼東半島返還を迫るとともに代償として賠償金の大幅な増額を薦めた。この事による清の財政悪化に乗じて欧州列強諸国が対日賠償金への借款供与を申し出て見返りとして租借地などの権益の縄張りを認めさせていったのが、1896年から1899年にかけての勢力分割︵いわゆる﹁瓜分﹂︶であった。満洲からモンゴルをロシア、長江流域をイギリス、山東省をドイツ、広東省・広西省をフランスが勢力圏とした。同じく、イギリスは九龍半島︵香港総督管轄︶と威海衛、フランスが広州湾、ドイツが青島︵膠州湾租借地︶、ロシアが旅順と大連(ダーリニー)︵関東州、極東総督管轄︶を租借地として、それぞれ海軍基地を築いて東アジアの拠点とした。しかもロシアは賄賂をもちい露清密約で東清鉄道附属地を手に入れた。アメリカは南北戦争による国内の混乱から出遅れたため、清国の市場は全ての国に平等に開かれるべきだとして、門戸開放宣言を発しつつ国際共同租界設置に参加した。 李鴻章と左宗棠の海防・塞防論争を契機として、技術面だけの洋務運動に限界が見えてくると、政治面についても議論が活発になり、康有為・梁啓超ら若い知識人が、清も立憲君主制をとり国政の本格的な近代化を目指す変法自強運動を唱え始めた。彼ら変法派は光緒帝と結んで1898年一時的に政権を奪取した︵戊戌の変法︶が、西太后率いる保守派のクーデターに遭って失脚・幽閉された︵戊戌の政変︶。その後、西太后は愛新覚羅溥儁︵保慶帝︶を皇帝として擁立するも、保慶帝の父が義和団の指導者であるため強い反発を受け、3日で廃された。 1899年、外国軍の侵略や治外法権を持ち横暴の目立つキリスト教会・教徒の排撃を掲げる義和団が蜂起し、﹁扶清滅洋﹂をスローガンに掲げて外国人を攻撃したが、次第に略奪を行う暴徒と化した。翌1900年に西太后はこれに乗せられて列強に宣戦布告したが、八カ国連合軍に北京を占領され、外国軍隊の北京駐留を認める北京議定書を結ばされ清の半植民地化は更に進んだ。 その後、西太后の死亡によって清朝政府は漸く近代化改革に踏み切り、1905年に科挙を廃止、六部を解体再編し、1908年欽定憲法大綱を公布して憲法発布・議院開設を約束し、1911年5月には軍機処を廃止して内閣を置いた。しかし、慶親王内閣が﹁皇族内閣﹂と批判されて、清朝は求心力を取り戻せず、漢人の孫文らの革命勢力が中国などにおいて次第に清朝打倒運動を広げた。10月、漢人による武昌での武装蜂起をきっかけに辛亥革命が起こった。モンゴルにおいても、12月に外藩蒙古の中から独立運動がおこった︵モンゴル国︶。ここに清は完全な内部崩壊を迎えた︵但し満洲とチベットでは蜂起が起こっていない︶。 翌1912年1月1日、南京で中華民国臨時政府が樹立された。清朝最後の皇帝宣統帝︵溥儀︶は2月12日、正式に退位し、ここに清は276年の歴史に幕を閉じ、完全に滅亡した。政治[編集]
清の皇帝[編集]
帝室の姓氏[編集]
帝室の姓氏を満洲語でアイシンギョロといい、これを漢語に音写したものが愛新覚羅である。アイシンは﹁金﹂という意味のかつて女真人が興した金朝やヌルハチが興した後金をからとった族名︵ムクン︶、ギョロは父祖の出身地の地名を戴いた姓氏︵ハラ︶で、合わせて﹁金のギョロ一族﹂を表す。満洲人は清代には漢人のように姓氏と名を続けて呼ぶ習慣は無かった。歴代皇帝[編集]
廟号 | 皇帝名(漢文) | 名前(諱) | 在位時期 | 年号 | 備考 |
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太祖 | 天命帝 | ヌルハチ | 1616年 - 1626年 | 天命 | 清の前身である後金の創始者。 |
太宗 | 崇徳帝 | ホンタイジ | 1627年 - 1643年 | 天聡[注釈 3] 崇徳 |
ヌルハチの第8子。後金を清とする。 |
世祖 | 順治帝 | フリン | 1644年 - 1661年 | 順治 | ホンタイジの第9子。 |
聖祖 | 康熙帝 | ヒョワンイエイ | 1662年 - 1722年 | 康熙 | 順治帝の第3子。 |
世宗 | 雍正帝 | インジェン | 1723年 - 1735年 | 雍正 | 康熙帝の第4子。 |
高宗 | 乾隆帝 | フンリ | 1736年 - 1795年 | 乾隆 | 雍正帝の第4子。 |
仁宗 | 嘉慶帝 | ヨンヤン | 1796年 - 1820年 | 嘉慶 | 乾隆帝の第15子。 |
宣宗 | 道光帝 | ミンニン | 1821年 - 1850年 | 道光 | 嘉慶帝の第2子。 |
文宗 | 咸豊帝 | イジュ | 1851年 - 1861年 | 咸豊 | 道光帝の第4子。 |
穆宗 | 同治帝 | ヅァイシュン | 1862年 - 1874年 | (祺祥)[注釈 4] 同治 |
咸豊帝の長子。 |
徳宗 | 光緒帝 | ヅァイティヤン | 1875年 - 1908年 | 光緒 | 醇親王奕譞の第2子。道光帝の孫。 |
- | (保慶帝) | プージュン | 1899年 | 保慶 | 端郡王載漪の第2子。道光帝の曾孫。 |
恭宗[注釈 5] | 宣統帝 | プーイー | 1908年 - 1912年 | 宣統[注釈 6] | 醇親王載灃の長子。道光帝の曾孫。 |
系図[編集]
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| 1. 太祖天命帝 | |||||||||||||||||||
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| 2. 太宗崇徳帝 | |||||||||||||||||||
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| 3. 順治帝 | |||||||||||||||||||
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| 4. 康熙帝 | |||||||||||||||||||
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| 5. 雍正帝 | |||||||||||||||||||
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| 6. 乾隆帝 | |||||||||||||||||||
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| 7. 嘉慶帝 | |||||||||||||||||||
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| 8. 道光帝 | |||||||||||||||||||
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| 醇親王奕譞 |
| 9. 咸豊帝 | |||||||||||||||||||||
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醇親王載灃 |
| 11. 光緒帝 |
| 10. 同治帝 |
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12. 宣統帝 |
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清の后妃[編集]
満洲人皇帝は姫君5人を全員モンゴル人の王族に嫁がせるなどモンゴルと親密な関係を保持しており[1]、后妃の選定や降嫁といった通婚は八旗の他、孝荘文皇后に代表されるようにモンゴル王侯との間で行われ、民間の漢人と行われることは決してなかった。
順位 | 称号 | 人数 | 代表的な人物 |
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1 | 皇后 | 1人 | 東太后(咸豊帝の皇后) 隆裕皇太后(光緒帝の皇后) |
2 | 皇貴妃 | 1人 | |
3 | 貴妃 | 2人まで | 西太后(咸豊帝の貴妃) |
4 | 妃 | 4人まで | 孝荘文皇后(ホンタイジの妃) 珍妃(光緒帝の妃) |
5 | 嬪 | 6人まで | |
6 | 貴人 | 12人まで | |
7 | 常在 | 20人まで | |
8 | 答応 | 28人まで |
元号[編集]
皇族の爵位[編集]
●和碩親王︵hošoi cin wang、ホショイ・チン・ワン、ホショしんのう︶ ●世子︵šidzi、シヅ、親王の嗣子︶ ●多羅郡王︵doroi giyūn wang、ドロイ・ギュン・ワン、ドロぐんおう︶ ●長子︵jangdzi、ジャンヅ、郡王の嗣子︶ ●多羅貝勒︵doroi beile、ドロイ・ベイレ︶ ●固山貝子︵gūsai beise、グサイ・ベイセ︶ ●鎮国公︵gurun be dalire gung、グルン・ベ・ダリレ・グン︶ ●輔国公︵gurun de aisilara gung、グルン・デ・アイシララ・グン︶ ●不入八分鎮国公︵jakūn ubu de dosimbuhakū gurun be dalire gung、ジャクン・ウブ・デ・ドシムブハク・グルン・ベ・ダリレ・グン︶ ●不入八分輔国公︵jakūn ubu de dosimbuhakū gurun de aisilara gung、ジャクン・ウブ・デ・ドシムブハク・グルン・デ・アイシララ・グン︶ ●鎮国将軍︵gurun be dalire janggin、グルン・ベ・ダリレ・ジャンギン︶ ●輔国将軍︵gurun de aisilara janggin、グルン・デ・アイシララ・ジャンギン︶ ●奉国将軍︵gurun be tuwakiyara janggin、グルン・ベ・トゥワキャラ・ジャンギン︶ ●奉恩将軍︵kesi be tuwakiyara janggin、ケシ・ベ・トゥワキャラ・ジャンギン︶ 清朝皇族の爵位は通常1代ごとに降下する。特に功績がなければ親王の子は郡王、郡王の子は貝勒というように爵位が下がっていく。しかし、特に功績が大きかった皇族は世襲が認められ、爵位が降下しないことから鉄帽子王と呼ばれた。 ●礼親王︵doronggo cin wang︶家 - ヌルハチの第2子・ダイシャン︵代善︶が祖。 ●睿親王︵mergen cin wang︶家 - ヌルハチの第14子・ドルゴン︵多爾袞︶が祖。 ●豫親王︵erke cin wang︶家 - ヌルハチの第15子・ドド︵多鐸︶が祖。 ●粛親王︵fafungga cin wang︶家 - ホンタイジの長子・ホーゲ︵豪格︶が祖。清末に善耆、川島芳子父娘が出る。 ●承沢親王︵kesingge cin wang︶家 - ホンタイジの第5子・ショセ︵碩塞︶が祖。後に荘親王家と改称。 ●鄭親王︵ujen cin wang︶家 - ヌルハチの弟シュルガチの子・ジルガラン︵済爾哈朗︶が祖。西太后の政敵粛順、鄭親王端華兄弟が出る。 ●克勤郡王︵kicehe giyūn wang︶家 - ダイシャンの長子ヨト︵岳託︶が祖。 ●順承郡王︵dahashūn giyūn wang︶家 - ダイシャンの子サハリャン︵薩哈璘︶の第2子勒克徳渾が祖。 これらの8家は建国にあたって特に功績が大きかったために他の皇族とは別格とされ、八大王家と呼ばれた。睿親王家はドルゴンが皇位を簒奪しようとしたとして廃絶されていたが、乾隆年間にドルゴンが名誉回復したために再興された。ドルゴンに連座して同母弟ドドも郡王に落とされていたが、同様に乾隆年間の名誉回復により親王家に戻された。 清の中期、末期には以下の4家も功績があったとして世襲が認められ、最終的には世襲王家は12家となった。 ●怡親王︵urgun cin wang︶家 - 康熙帝の第13子・胤祥が祖。 ●恭親王︵gungnecuke cin wang︶家 - 道光帝の第6子・奕訢が祖。 ●醇親王︵hatan cin wang︶家 - 道光帝の第7子・奕譞が祖。奕譞の子が光緒帝、孫が宣統帝となる。 ●慶親王︵fengšen cin wang︶家 - 乾隆帝の第17子・永璘が祖。永璘の孫奕劻が清末に軍機大臣として活躍し、世襲王家とされた。官制[編集]
清初期、康熙帝の治世までは未だ部族合議制的な制度が残り、完全な集権体制の皇帝というわけではなかった。その象徴が議政王大臣会議︵ぎせいおうだいじんかいぎ︶と呼ばれる制度である。この制度は旗王︵八旗の長︶や皇族・宗族の有力者など実力者が選ばれて会議を行い、政治の方針を決めるものである。この中では皇帝も旗王の一人であり、無限の権力が振るえるわけではない。 それと平行して置かれていたものが明から引き継いだ内閣制度である。ホンタイジ時代には内三院︵bithe i ilan yamun︶と呼ばれており、行政機関の一つに過ぎず、議政王大臣会議の決定に従うものであった。しかし漢文化を愛する順治帝により、内閣︵dorgi yamun︶に名を改められて最高行政機関となり、議政王大臣会議は軍事を管轄するようになった。 その後、雍正帝は議政王大臣会議に権力を制限される事を嫌って、軍事・行政の両方を総攬する皇帝の諮問機関である軍機処︵coohai nashūn i ba︶を創設して完全なる皇帝独裁体制を整えた。軍機処に権限を奪われた議政王大臣会議は1792年に廃止される。 中央には軍機処の他に六部︵ninggun jurgan︶・内務府︵dorgi baita be uheri kadalara yamun、宮廷諸事︶・宗人府︵uksun be kadalara yamun、皇族・宗族の事務︶・理藩院︵tulergi golo be dasara jurgan、藩部の統括。藩部については後述︶・都察院︵uheri be baicara yamun、官僚の監察︶・通政使司︵dasan be hafumbure yamun、上奏文の検閲︶・大理寺︵beidere be tuwacihiyara yamun、最高裁判所︶がある。 地方は皇帝直属である省と藩部と満洲人の故地である旗地︵満洲︶とに分かれている。満洲と北京周辺を皇帝直轄地として統治したことからこの領域は中国(満洲語‥ドゥリンバイ・グルン、dulimbai gurun)[5] と呼ばれた。満洲人の故地である満洲地方については旗地(八旗の土地)とされ省は置かずに、黒竜江将軍(sahaliyan ula i jiyanggiyūn)・吉林将軍(girin i jiyanggiyūn)・盛京将軍(mukden i jiyanggiyūn)らに軍政を行わせて満洲人の軍事力を弱体化させないようにした。またこの地に対する漢人の移住を禁止して、満洲人が漢人に同化してしまわないようにした。しかし日露戦争後の1907年には黒竜江将軍を黒竜江行省、吉林将軍を吉林省、盛京将軍を奉天省とし、東三省総督を新設、しかも華北から大量の漢人農民を移民させている。
満漢偶数官制[編集]
清の政治は圧倒的多数である漢人を少数派である満洲人がどうやって統治していくかに気を配っていた。その政策の主眼となるものが満漢偶数官制と呼ばれるものである。ポストをそれぞれ満洲人・漢人が同数になるように配置していく制度である。これには双方の動向を監視させる意味合いもあった。
清の官吏のポストはそれぞれ満官缺(満洲人だけが就ける。以下同様)・蒙官缺(モンゴル人)・漢軍官缺(八旗に所属する漢人)・漢官缺(八旗に所属しない漢人)と言う風に分けられていた。地方の巡撫・総督は満漢半数であり、その下の知府以下は漢人が多く登用された。
兵制[編集]
清の行政区画[編集]
内地の行政区画[編集]
清の山海関の「内側」である、長城以南の漢人の多い地域は「内地」、「関内」または「漢地」と呼ばれ、明代の「両直十三省」の呼称を受け継いで「直省」と呼ばれていた。内地の行政区画は明代の「省―府(州)―県」の三段階からなる階級体制を受け継いでいる。一番上、一級政区は省で「行省」と俗称された。布政使司と呼ばれていたが、布政使が督撫の属官になっていくにつれて、「布政使司」の名称は省に取って代わられていった。嘉慶年間に『一統志』が編纂された時には「省」は一級政区の正式な称号となっていた。その下、二級政区は府と直隷州があった。(直隷州と違って)府の下にある三級政区である州(散州、属州)の下に県が付くことはなかった。つまり、単式の三級制となっていた。清初年には臨時の役人だった巡撫が布政使に代わって省の長官になった。一部の民族の雑居地や戦略的要地には、新しい政区の「庁」が置かれ、それは省直轄の直隷庁と府の下にある散庁があった。少数の直隷庁の下には県があった。
省/布政使司 (行省) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
道 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
直隷州 | 府 | 直隷庁 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
県 | 散州 | 県 | 散庁 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
行省[編集]
清の経済[編集]
農業の発展と人口爆発[編集]
北宋代に1億を超えたと言われる人口は増減を繰り返し、順治帝期の1651年の戸籍登録人口は約5300万、康熙帝期の1685年には約1億1000万、1700年に1億5000万、乾隆帝期の1765年には2億、1770年から1780年にかけて2億8000万、1790年に3億、19世紀前半のアヘン戦争直前の1833年に4億を突破した︵数字は全て推定︶[11]。 この人口の爆発的増加の最大の理由は新大陸原産の作物トウモロコシ・サツマイモ・落花生などが導入された事にある。これらは水がそれほど豊富でなくとも痩せた土地で育つ作物であり、それまで灌漑が不可能なるがゆえに見放されていた山地に漢人が進出できるようになった。また、当時の農業が労働集約的であり、生産性向上の為に小作人を低賃金で大量に雇った方が利益を得られやすいという観点から、地主階級が貧しい農民の人口が増えることを歓迎していたことも、人口増加の背景となった[12]。溢れる人口は領内だけでは収めきれず、満洲・モンゴル・青海と言った本来漢人の居住地ではない所にも進出し、牧草地や山地を農地に変えていった。更に陸地だけでも収まり切らず、明代から出現していた華人が激増する事になる。 これらの漢人の進出は多くの場合、現地の民族との摩擦を引き起こし、時に現地の民族の経済的没落を招く事になった。これに不満を持ったモンゴル人・苗族などは何度か反乱を起こすが、数の圧力には逆らえず次第に勢力を減退させていった。また鄭一族の降伏により版図に入った台湾にも数多くが進出し、開発が進む一方で原住民達は山間部に追いやられていった。その中で清の故地である満洲は満洲人の保護の意味から漢人の移住を禁止していたが、19世紀末になって、この地方にロシアの圧力がかかってくるようになると領土権の保持と防衛のために禁を解除し、この地も漢人の農地が広がることになる。税制[編集]
清初には税制も明から一条鞭法を引き継いでいたが地丁銀制に切り替えた。これはそれまでが人頭税︵人丁︶・土地税︵地丁︶の二本立てであった税を土地税一本にするものである。それまでは郷紳勢力には免税特権が与えられており、また人頭税逃れのために戸籍に登録しようとしない者も多く、これらの対策のために完全に土地による税制に切り替えたのである。この制度が行われた後には隠す必要が無くなった人々が戸籍に登録されるようになり、前述の人口増加はこれが原因の一端と見られている。それと共に戸籍制度もそれまでの里甲制から変えて、新しく作り直した。 こうした政策によって、清朝中頃までは円滑に、あるいは曲がりなりにも税制は機能したが、アヘン戦争前後より貿易不均衡により清からの銀の流出は著しくなり、これが清国内での銀価格を吊り上げ、反対に銅銭や穀物の相場は相対的に低下した。結果的に、銀納を義務付けられた庶民の納税の負担は上昇して、困窮、清の衰退の主因の一つになった。商業[編集]
明代から引き続いて全国的に手工業が大いに盛んであり、絹織物・綿織物に加えて鉄の加工販売が盛んとなり、増大する人口と農地に必要な農具が大量に作られていた。だが、清朝初期には海禁政策の影響で海外からの銀の流入が止まって、極端なデフレ状態に陥って﹁銀荒穀賤﹂と呼ばれて民衆は勿論、有力者の中にも破綻するものが相次いだ。この傾向は鄭氏政権の崩壊によって海禁政策が緩和されるとともに落ち着くようになる。三藩の乱後は良質な銅銭の普及に力を入れたため、銅銭の信用が増し広く流通するようになり、銅銭の供給量が増えているにもかかわらず対銀レートが高騰する銭貴という状態になった。これは俸給を銀で受け取り、銅銭に換金して生活必需品を購入していた旗人達に打撃を与え後の困窮に繋がる要因の一つとなった。 そして商業も非常に活発となり、それに伴い商業システムの発展が随所に見られる。典舗・当舗と呼ばれる質屋は貸付・預金業を行い、独自に銀と兌換が出来る銀票を発行した。また為替業務を行う票号という機関もあった。これらの中心となっていたのが山西商人︵山西省出身︶・新安商人︵安徽省出身︶と呼ばれる商人の集団で、山西商人などは豊富な資金を背景に皇族とも密接に関わり、政府資金の運用にも関わっていたと言われる。文化[編集]
思想[編集]
厳しい思想統制が行われる中で、考証学と呼ばれる新しい分野が生まれた。 これは聖人の教えを精釈して、忠実な思想を受け継ごうというものである。具体的にはそれまでの主観的に四書五経を読み解いている︵と考えられる︶朱子学や陽明学を批判して、過去の経書に遡って解釈を行うこととなる。そして最も重視されたのが漢代のものである。 考証学では全ての経書に細密な考証が加えられ、その結果、孔子の子孫の家の壁から現れたと言う﹃古文尚書﹄が後に作られた偽作であると判明した。このようにそれまで絶対視されてきた経書にも疑問が投げかけられ、儒教自体が相対化されることになる。 また史書・地理志にも考証学の技法が用いられて、それらの誤脱を見極めて正しい事柄を見極めようとした。この分野では﹃二十二史箚記﹄の著者趙翼が有名である。 しかしこの分野は政府による文字の獄の中で次第に政府を刺激するような物は避けられるようになった。確かに研究の上では非常に大きな成果をもたらしたが、技術のための技術へとなってしまい、純粋な学問となってしまったとの批判がある。日本では学問が浮世離れしていてもごく普通に感じるかもしれないが、中国では学問とは何よりも政治のためのものであって、現実世界に寄与しない学問は無意味であるとの考え方が強い。これらの批判を受けた学者達は﹃春秋公羊伝﹄を経典とした公羊学を行うようになる。中国文学[編集]
美術[編集]
絵画の分野ではイエズス会士ジュゼッペ・カスティリオーネ︵郎世寧︶によってもたらされた遠近法を取り入れた新しい絵画の誕生が見られる。また明初の石濤、八大山人といった明の遺民たちは清に対する抵抗を絵に描き表した。 陶磁器の分野では景徳鎮は陶磁器生産の大工場としての地位を保っており、明代から引き継いで赤絵・染付などの生産が行われた。しかし乾隆以降はこれらは急速に下火になり、質的にも大きく劣ると評価される。 瀋陽にある清の旧王宮は北京と瀋陽の明・清王朝皇宮として世界遺産に登録されている。国際関係[編集]
前期[編集]
明代の1543年にポルトガル人が日本の種子島に漂着して火縄銃と引き換えに日本銀を得るようになるが︵南蛮貿易︶、同時に銀需要の増大した明朝のために、日本銀を中国生糸と交換し[注釈 7]、この利益を得るため1557年にマカオに拠点を設立しており、明皇帝が倭寇撃退のために公布した渡航禁止令の対象からも除外されていた[14]。 清朝はすでに後金時代にモンゴルの諸部族を併合し、朝鮮に朝貢させており、清軍が華南に進むにつれて琉球、マカオのポルトガル人、ベトナム︵安南︶が朝貢してきた。また呉三桂が南明の永暦帝を追って雲南からビルマに入った。しかし三藩の乱や台湾鄭氏政権の抵抗のため、海上からの朝貢は鄭氏が投降するまで本格的に始まらなかった。 その後、広州などを開放して東南アジア諸国や英仏などとの交易を許した。特にタイのアユタヤ王朝は清朝の要請を受けて、タイ米を広東や福建に輸出した。清朝は明朝と違い、厳格な海禁政策は取らなかった。日本の江戸幕府は朝貢してこなかったので外交関係はなかったが、長崎貿易は許されていた。 ただし、日本漂流民の国田兵右衛門ら15人が清国に流れ着いた時は、日本に帰国させている。これは明の遺民が日本に亡命しており、牽制の意味も持っていた。[15][16]欧州との関係についていえば、マカオ経由で入国したイエズス会員らカトリック宣教師が明末以来引き続き北京に滞在し、主に科学技術や芸術技能をもって朝廷に仕えていた。1793年にはイギリスのマカートニー使節団が渡来した。また、オランダ東インド会社も何回か使節団を派遣しているが、1794年から1795年にかけて乾隆帝在位60年を祝う使節団を派遣した。このときの正使は1779年には元出島オランダ商館長でのちに同社総督となったイサーク・ティチングであった[17]。 北辺ではシベリアに進出したロシアがアムール川左岸に到達すると、ネルチンスク条約やキャフタ条約によって清露国境が定められ、ロシアは満洲から追放された。しかし後にロシアはアムール川開発を目指して満洲に進攻することとなる。
後期[編集]
新清史[編集]
清朝を題材にした作品[編集]
小説[編集]
- 『臥虎蔵龍』 (1938年 - 1942年中華民国、著:王度廬)
- 『書剣恩仇録』 (1969年 - 1972年香港、著:金庸) ※映画・TVドラマ化されている。
- 『碧血剣』 (1956年香港、著:金庸) ※TVドラマ化されている。
- 『雪山飛狐』 (1959年香港、著:金庸) ※映画・TVドラマ化されている。
- 『飛狐外伝』 (1960年 - 1961年香港、著:金庸) ※映画・TVドラマ化されている。
- 『鴛鴦刀』 (1961年香港、著:金庸)
- 『鹿鼎記』 (1969年 - 1972年香港、著:金庸)※映画・TVドラマ化されている。
- 『坂の上の雲』 (1968年 - 1972年日本、文藝春秋社刊、著:司馬遼太郎)
- 『韃靼疾風録』 (1984年 - 1987年日本、中公文庫刊、著:司馬遼太郎)
- 『蒼穹の昴』 (1996年日本、講談社刊、著:浅田次郎) ※TVドラマ化されている。
- 『珍妃の井戸』(1997年日本、講談社刊、著:浅田次郎)
- 『中原の虹』 (2006年 - 2007年日本、講談社刊、著:浅田次郎)
- 『マンチュリアン・レポート』 (2010年日本、講談社刊、著:浅田次郎)
漫画[編集]
- 『一輝まんだら』 (1974年 - 1975年日本、講談社・大都社刊、作:手塚治虫) ※未完作品
- 『中華一番!』 (1995年 - 1999年日本、講談社刊、作:小川悦司) ※TVアニメ、実写ドラマ化もされている。
- 『花情曲』 (1991年 - 1998年日本、角川書店刊、作:皇なつき)
映像[編集]
- 『神弓-KAMIYUMI-』 (2011年韓国、監督:キム・ハンミン) ※劇中の満洲人が満洲語を使用している。
- 『天皇・皇后と日清戦争』 (1958年日本、監督:並木鏡太郎)
- 『北京の55日』 (1963年アメリカ、監督:ニコラス・レイ)
- 『少林寺三十六房』 (1978年香港、監督:ラウ・カーリョン)
- 『酔拳シリーズ』 (1978年、1994年香港、監督:ユエン・ウーピン、ラウ・カーリョン)
- 『西太后』 (1984年中華人民共和国、監督:李翰祥)
- 『清朝皇帝』 (1987年中華人民共和国、監督:許鞍華、原作:金庸)
- 『阿片戦争』(1997年中華人民共和国、監督:謝晋)
- 『ラストエンペラー』 (1987年イタリア・イギリス・中国合作、監督:ベルナルド・ベルトルッチ)
- 『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナシリーズ』 (1991年-1997年中華人民共和国、監督:ツイ・ハーク、サモ・ハン・キンポー)
- 『雍正王朝』(1999年中華人民共和国、監督:胡攻、原作:二月河)
- 『康熙王朝』(2001年中華人民共和国、監督:陳家林、原作:二月河)
- 『乾隆王朝』(2003年中華人民共和国、監督:葉大鷹、原作:二月河)
- 『グリーン・デスティニー』 (2000年中国・香港・台湾・アメリカ合作、監督:アン・リー、原作:王度廬)
- 『走向共和』 (2003年中華人民共和国CCTV、監督:チャン・リー)
- 『SPIRIT』 (2006年香港、監督:ロニー・ユー)
- 『孫文の義士団』 (2009年香港・中国合作、監督:テディ・チャン)
- 『蒼穹の昴』 (2010年日本・中国合作、監督:汪俊(ワン・チュン))
- 『馬医』 (2012年韓国、監督:イ・ビョンフン)
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]
●増井経夫 ﹃大清帝国﹄ 講談社学術文庫、2002年、ISBN 406-1595261 ﹃中国の歴史 第7巻 清帝国﹄︵講談社、1974年︶を、改題文庫化 ●宮崎市定 ﹃中国文明の歴史9清帝国の繁栄﹄ 中公文庫、2000年、ISBN 412-2037379 ﹃東洋の歴史 第9巻 清帝国の繁栄﹄︵人物往来社、1967年︶を、改題文庫化 ﹃宮崎市定全集13明 清﹄︵岩波書店、1992年︶に収録。 ●加藤徹﹃貝と羊の中国人﹄2006年。ISBN 9784106101694。関連文献︵近年刊行︶[編集]
●上田信 ﹃中国の歴史09海と帝国-明清時代﹄ 講談社、2005年 ●菊池秀明 ﹃中国の歴史10ラストエンペラーと近代中国-清末中華民国﹄ 講談社、2005年 ●平野聡 ﹃興亡の世界史17大清帝国と中華の混迷﹄ 講談社、2007年/講談社学術文庫、2018年 ●岡田英弘﹃別冊環(16) 清朝とは何か﹄藤原書店、2009年。 ●吉澤誠一郎 ﹃清朝と近代世界 シリーズ中国近現代史①﹄ 岩波新書、2010年-﹁清﹂の後半期 ●並木頼寿・井上裕正 ﹃世界の歴史(19) 中華帝国の危機﹄中央公論社、1997年/中公文庫、2008年-﹁清﹂の後半期 ●石橋崇雄 ﹃大清帝国への道﹄ 講談社学術文庫、2011年-﹁清﹂の前半期 ●寺田隆信 ﹃紫禁城史話-中国皇帝政治の桧舞台﹄ 中公新書、1999年-明清両王朝の皇帝の通史 ●岩井優典﹁明末清初におけるオランダ東インド会社の動向 : 一六五五年の遣清使節を中心に﹂﹃立教史学 : 立教大学大学院文学研究科史学研究室紀要﹄第3号、立教大学大学院文学研究科史学研究室、2012年2月、55-63頁、doi:10.14992/00021033、ISSN 2185-193X、NAID 120007149088。 ●レオナルト・ブリュッセイ﹁東アジアにおけるオランダ東インド会社の盛衰 : 1640-60年代のオランダ商館長日記に関する省察﹂︵PDF︶﹃東京大学史料編纂所研究紀要﹄第29号、東京大学史料編纂所、2019年3月、36-51頁、ISSN 0917-2416、NAID 40022110710。関連項目[編集]
●太子密建 ●香港上海銀行外部リンク[編集]
- 海军公所(簡体中国語)
- 『清』 - コトバンク
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