イラク
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- イラク共和国
- جمهورية العراق(アラビア語)
كۆماری عێراق(クルド語) -
(国旗) (国章) - 国の標語:الله أكبر(アラビア語)
神は偉大なり - 国歌:موطني(アラビア語)
我が祖国 -
公用語 アラビア語、クルド語[注 1] 首都 バグダード[注 2] 最大の都市 バグダード - 政府
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大統領 アブドゥルラティーフ・ラシード 首相 ムハンマド・シヤーア・スーダーニー[1] - 面積
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総計 437,072km2(57位) 水面積率 1.1% - 人口
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総計(2020年) 40,222,503[2]人(36位) 人口密度 92.651[3]人/km2 - GDP(自国通貨表示)
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合計(2020年) 201兆8280億6000万[4]イラク・ディナール - GDP(MER)
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合計(2020年) 1694億8800万[4]ドル(52位) 1人あたり 4,223.218(推計)[4]ドル - GDP(PPP)
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合計(2020年) 3993億7600万[4]ドル(36位) 1人あたり 9,951.455(推計)[4]ドル - 独立
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英国の委任統治からイラク王国として 1932年10月3日 王政廃止、イラク共和国成立 1958年7月14日
通貨 イラク・ディナール(IQD) 時間帯 UTC(+3) (DST:なし) ISO 3166-1 IQ / IRQ ccTLD .iq 国際電話番号 964
概要
チグリス川とユーフラテス川流域を中心とする世界最古の文明メソポタミア文明︵シュメール文明︶を擁した地である[5]。8世紀のアッバース朝は首都をイラクのバグダードに置き[5]、貿易やイスラム教の中心地として栄えた[6]。アッバース朝衰退後の10世紀からは異民族支配を受け、16世紀からはオスマン帝国の属州となった[6]。第一次世界大戦でイギリス軍に占領され、戦後イギリス委任統治領メソポタミアとなった[5]。1932年に独立王国となり、1958年の軍部クーデター﹁7月14日革命﹂で共和制になった[7]。その後もクーデターが相次ぎ、1979年からサダム・フセインの独裁体制となった。クルド人自治問題、イラン・イラク戦争や湾岸戦争の敗北、経済制裁などの難問に強権で対処したが、2003年に米英軍の攻撃を受け、政権は崩壊[6]。2005年10月に国民投票によって新憲法が承認され[5]、以降、民主選挙による政府が樹立された[8]。しばらく治安対策や復興支援のために米軍駐留が続いたが、2011年に米軍が撤収した[5]。 民主化以降の政治体制は議院内閣制であり、議会は一院制で、州ごとの比例代表制および少数派を優先した全国区の比例代表制で選出される。任期は4年。元首である大統領は議会で選出され、大統領の任期も連動して4年である。大統領が任命する首相が行政権を握る[5]。 経済面では北部と北東部および南部で採掘される石油が豊富︵世界5位︶で、石油輸出が財政に占める割合が9割以上である[9][7]。特に近年は原油生産量が急速に上昇している[10]。同時に政府は石油依存体質からの脱却を目指している[9]。 2020年の米国CIAの調査によれば人口は約3887万人で、民族はアラブ人︵シーア派約6割、スンニ派約2割︶、クルド人︵約2割、多くはスンニ派︶、トルクメン人、アッシリア人などから構成される[9]。言語はアラビア語とクルド語が公用語である[6]。 地理としては国土の中心をなすのはチグリス川とユーフラテス川が潤すメソポタミア平原であり、﹁肥沃な三日月地帯﹂の東部を占めている[7]。北はトルコ、東はイラン、西はシリアとヨルダン、南はサウジアラビアとクウェートに接し、南部の一部はペルシア湾︵アラビア湾︶に臨んでいる[5]。国名
正式名称はアラビア語で、جُمْهُوريَّة العِرَاق︵ラテン文字転写は、Jumhūrīyatu l-‘Irāq。読みは、ジュムフーリヤトゥ・ル=イラーク)。通称は、العِرَاقُ︵al-‘Irāq、アル=イラーク)。 公式の英語表記は、Republic of Iraq︵リパブリック・オブ・イラーク )。通称、Iraq︵イラーク)。 日本語の表記は、イラク共和国。通称、イラク。 イラークという地名は伝統的にメソポタミア地方を指す﹁アラブ人のイラーク﹂(al-‘Irāq l-‘Arabī) と、ザグロス山脈周辺を指す﹁ペルシア人のイラーク﹂(al-‘Irāq l-Ajamī) からなるが、現在イラク共和国の一部となっているのは﹁アラブ人のイラーク﹂のみで、﹁ペルシア人のイラーク﹂はイランの一部である。歴史
メソポタミア
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/a9/Tableta_con_trillo.png/250px-Tableta_con_trillo.png)
ペルシアの支配
ギリシャの支配
ペルシアの支配
イスラム帝国
モンゴル帝国
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/85/Bagdad1258.jpg/220px-Bagdad1258.jpg)
サファヴィー朝
16世紀前半にイランに興ったサファヴィー朝は、1514年のチャルディラーンの戦いによってクルド人の帰属をオスマン朝に奪われた。さらにオスマン朝とバグダードの領有を巡って争い、1534年にオスマン朝のスレイマン1世が征服した。 en:Battle of DimDim (1609年 - 1610年)。1616年にサファヴィー朝のアッバース1世とイギリス東インド会社の間で貿易協定が結ばれ、イギリス人ロバート・シャーリーの指導のもとでサファヴィー朝の武器が近代化された。1622年、イングランド・ペルシア連合軍はホルムズ占領に成功し、イングランド王国はペルシャ湾の制海権をポルトガル・スペインから奪取した。1624年にはサファヴィー朝のアッバース1世がバグダードを奪還した。しかし、1629年にアッバース1世が亡くなると急速に弱体化した。オスマン帝国
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/84/1849_Mitchell_Map_of_Turkey_%28_Iraq%2C_Syria%2C_Palestine_%29_-_Geographicus_-_TurkeyAsia-m-1849.jpg/280px-1849_Mitchell_Map_of_Turkey_%28_Iraq%2C_Syria%2C_Palestine_%29_-_Geographicus_-_TurkeyAsia-m-1849.jpg)
イギリス帝国
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/bb/Sykes-Picot.svg/220px-Sykes-Picot.svg.png)
英仏による占領統治
イギリス委任統治領メソポタミア
1921年8月23日に前述の3州をあわせてイギリス委任統治領メソポタミアを成立させて、大戦中のアラブ独立運動の指導者として知られるハーシム家のファイサル・イブン=フサインを国王に据えて王政を布かせた。クウェートは新たに形作られたイラク王国から切り離されたままとなった。 en:Mahmud Barzanji revoltsでクルディスタン王国 (1922年 - 1924年) を一時的に樹立。 1922年10月10日、en:Anglo-Iraqi Treaty (イラク側の批准は1924年)。1923年7月24日、ローザンヌ条約でトルコ共和国との国境が確定し、北クルディスタンが切り離された。1927年10月14日、ババ・グルグルでキルクーク油田を発見。1928年、イギリスとトルコが赤線協定を締結。1929年、イギリスがイラク石油会社 (IPC) を設立。1930年6月30日、en:Anglo-Iraqi Treaty (1930)でイラク石油会社の石油利権を改正。en:Ahmed Barzani revolt (1931年 - 1932年)。王政
アラブ連邦
1958年にはエジプトとシリアによって結成されたアラブ連合共和国に対抗して、同じハーシム家が統治するヨルダンとアラブ連邦を結成した。イラク共和国 (第一共和政)
カーシム政権
イラク共和国 (第二共和政)
第1次バアス党政権 (アル=バクル政権)
1963年2月8日に親エジプト派とバアス党の将校団のクーデターが起り、カーシム政権が倒された (ラマダーン革命)。大統領にはアブドゥッサラーム・アーリフ、首相にはアフマド・ハサン・アル=バクルが就任した。アーリフ兄弟政権
1963年11月18日にアブドゥッサラーム・アーリフ大統領ら親エジプト派の反バアス党クーデターが勃発 (1963年11月イラククーデター)。 1966年4月13日、アブドゥッサラーム・アーリフが航空機事故で死去。後継の大統領にアブドッラフマーン・アーリフが就任。親エジプト派としてナーセルを支持し、1967年にアメリカとの国交を断絶。6月、第三次中東戦争。バアス党政権 (第三共和政)
第2次バアス党政権 (アル=バクル政権)
サッダーム・フセイン政権
1979年7月16日にサッダームが大統領に就任した。就任直後にはクーデターが計画されたが未遂に終わり、同年7月30日までに34人が処刑、約250人が逮捕された[12]。 1980年にイラン・イラク戦争が開戦して1988年まで続けられた。 1990年8月にクウェート侵攻後、1991年に湾岸戦争となり敗北した。バアス党政権崩壊後
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連合国暫定当局(米英共同統治)
イラク暫定政権
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/21/Iraq-patrol.jpg/250px-Iraq-patrol.jpg)
新・イラク共和国︵第四共和政︶
シーア派政権
2005年12月15日に正式な議会と政府を選出するための議会選挙が行われた[13] (en:Iraqi parliamentary election)。2006年3月16日に議会が開会し、2006年4月22日にシーア派政党連合の統一イラク同盟 (UIA) がヌーリー・アル=マーリキーを首相に選出、5月20日に国連安全保障理事会が採択したイラクの再建復興プロセス最終段階となる正式政府が議会に承認されて発足し[13]、イラク共和国として再独立を果たした。これはイラクで初めての民主選挙による政権発足である。2006年12月30日、サッダーム・フセインの死刑執行。 2008年3月にはムクタダー・サドルのマフディー軍と政府軍が戦闘状態となり (バスラの戦い)、シーア派内部の対立が顕在化した。 世俗派の政党連合﹁イラク国民運動﹂を構成するイラク合意戦線は2010年2月20日に第2回総選挙をボイコットすると表明した。これは、イラク合意戦線の選挙立候補者にサッダーム旧政権の支配政党であるバアス党の元党員や旧政権の情報機関、民兵組織のメンバーが含まれているとして選挙参加を禁止されたためである[14]が、後に合意戦線は、ボイコットを撤回した。2010年3月7日に第2回議会選挙が行われた (en:Iraqi parliamentary election)。アッラーウィーの世俗会派イラク国民運動が第1党 (91議席) となり、マーリキー首相の法治国家連合は第2党となった (89議席)。しかし、マーリキーは、選挙に不正があったとしてこの結果を認めなかった。その後司法判断が下され、﹁選挙結果は正当﹂となった。アメリカ軍撤退後
政治
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/f9/Baghdad_Convention_Center_inside.jpg/220px-Baghdad_Convention_Center_inside.jpg)
2005年10月15日の国民投票で承認されたイラク憲法では、県と地域から構成された連邦国家と定義されているが、現在でもクルディスタン地域 (定義上では「自治区」ではなく「連邦構成体」が正しい) を除いて政府から自治権を移譲された県はないため、連邦制自体が全土で浸透していないという。[20]
元首
国家元首の役割を果たすのは共和国大統領および2人の副大統領で構成される大統領評議会である。それぞれ、イラク国民の3大勢力である、スンナ派 (スンニ派)、シーア派、クルド人から各1名ずつが立法府によって選ばれる。大統領は、国民統合の象徴として、儀礼的職務を行う。大統領宮殿位置は北緯33度17分03秒 東経044度15分22秒 / 北緯33.28417度 東経44.25611度に位置している。
行政
行政府の長である首相は、議員の中から議会によって選出される。副首相が2名。その他の閣僚は、大統領評議会に首相・副首相が加わって選任される。現政権の閣僚は37名 (首相・副首相を除く)。
立法
司法
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国家安全保障
2008年におけるイラク人の治安部隊は約60万人。
北部のクルド3県では、クルド人政府が独自の軍事組織をもって治安維持に当たっている。南部ではシーア派系武装組織が治安部隊と断続的に戦闘を行っている。スンニ派地域では米軍の支援を受けた覚醒評議会 (スンニ派) が治安維持に貢献しているとされる。
国際関係
日本との関係
地理
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/f2/Iraq_Topography.png/300px-Iraq_Topography.png)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/7a/Haifa_street%2C_as_seen_from_the_medical_city_hospital_across_the_tigres.jpg/220px-Haifa_street%2C_as_seen_from_the_medical_city_hospital_across_the_tigres.jpg)
動物
砂漠気候を中心とする乾燥した気候、5000年を超える文明の影響により、野生の大型ほ乳類はほとんど分布していない。イラクで最も大きな野生動物はレイヨウ、次いでガゼルである。肉食獣としては、ジャッカル、ハイエナ、キツネが見られる。小型ほ乳類では、ウサギ、コウモリ、トビネズミ、モグラ、ヤマアラシが分布する。 鳥類はティグリス・ユーフラテスを生息地とする水鳥と捕食者が中心である。ウズラ (水鳥でも捕食者でもない)、カモ、ガン、タカ、フクロウ、ワシ、ワタリガラスが代表。植物
ステップに分布する植物のうち、古くから利用されてきたのが地中海岸からイランにかけて分布するマメ科の低木トラガカントゴムノキ Astragalus gummifer である。樹皮から分布される樹脂をアラビアガムとして利用するほか、香料として利用されている。聖書の創世記にはトラガラントゴムノキと考えられる植物が登場する。北東に移動し、降水量が上昇していくにつれ、淡紅色の花を咲かせるオランダフウロ Erodium cicutarium、大輪の花が目立つハンニチバナ科の草、ヨーロッパ原産のムシトリナデシコが見られる。 ティグリス・ユーフラテスの上流から中流にかけてはカンゾウが密生しており、やはり樹液が取引されている。両河川の下流域は湿地帯が広がり、クコ、ハス、パピルス、ヨシが密生する。土手にはハンノキ、ポプラ、ヤナギも見られる。 ザグロス山中に分け入るとバロニアガシ Quercus aegilips が有用。樹皮を採取し、なめし革に用いる。やはり創世記に記述がある。自然の植生ではないが、イラクにおいてもっとも重要な植物はナツメヤシである。戦争や塩害で激減するまではイラクの人口よりもナツメヤシの本数の方が多いとも言われた。地方行政区画
![イラクの地方行政区画](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c1/Iraqi_Governorates_%28numbered%29.png)
18の県 (「州」と呼ぶこともある) に分かれる。
- バグダード県 - 県都バグダード
- サラーフッディーン県 - 県都ティクリート
- ディヤーラー県 - 県都バアクーバ (「バゥクーバ」とも)
- ワーシト県 - 県都クート
- マイサーン県 - 県都アマーラ
- バスラ県 - 県都バスラ
- ジーカール県 - 県都ナーシリーヤ
- ムサンナー県 - 県都サマーワ
- カーディーシーヤ県 - 県都ディーワーニーヤ
- バービル県 - 県都ヒッラ
- カルバラー県 - 県都カルバラー
- ナジャフ県 - 県都ナジャフ
- アンバール県 - 県都ラマーディー
- ニーナワー県 - 県都モースル (「マウシル」とも)
- ドホーク県 - 県都ドホーク
- アルビール県 - 県都アルビール
- キルクーク県 - 県都キルクーク
- スレイマニヤ県 - 県都スレイマニヤ
経済
農業
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/17/Dates_on_date_palm.jpg/150px-Dates_on_date_palm.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/69/Barrages_irakiens.png/300px-Barrages_irakiens.png)
工業
イラクの工業は自給的であり、食品工業、化学工業を中心とする。食品工業は、デーツを原料とする植物油精製のほか、製粉業、精肉業、皮革製造などが中心である。繊維産業も確立している。化学工業は自給に要する原油の精製、及び肥料の生産である。重油の精製量は世界生産の1 %から2 %に達する (2002年時点で1.6 %)。一方、建築材料として用いる日干しレンガ、レンガはいまだに手工業の段階にも達しておらず、組織化されていない個人による生産に依存している。 製鉄、薬品、電機などの製造拠点も存在するが、国内需要を満たしていない。農機具、工作機械、車両などと併せ輸入に頼る。エネルギー
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/d9/Tankers_at_the_Iraqi_Al_Basra_Oil_Terminal_in_the_Northern_Arabian_Gulf.jpg/220px-Tankers_at_the_Iraqi_Al_Basra_Oil_Terminal_in_the_Northern_Arabian_Gulf.jpg)
原油確認埋蔵量は1,120億バレルで、サウジアラビア・イランに次ぐ。米国エネルギー省は埋蔵量の90 %が未開発で、掘られた石油井戸はまだ2,000 本に過ぎないと推定。 2009年時点の総発電量461億kWhの93 %は石油による火力発電でまかなっている。残りの7 %はティグリス・ユーフラテス川上流部に点在する水力発電所から供給された。
イラクの送配電網は1861年にドイツによって建設が始まった。19世紀、イギリスとドイツは現在のイラクがあるメソポタミアへの覇権を競っていた。鉄道と電力網の建設はドイツが、ティグリス・ユーフラテス川における蒸気船の運航はイギリスによって始まった。
貿易
イラクの貿易構造を一言で表すと、原油と石油精製物を輸出し、工業製品を輸入するというものである。2003年時点の輸出額に占める石油関連の比率は91.9 %、同じく輸入額に占める工業製品の割合は93.1 %であるからだ。同年における貿易収支は輸出、輸入とも101億ドルであり、均衡がとれている。
輸出品目別では、原油83.9 %、石油 (原料) 8.0 %、食品5.0 %、石油化学製品1.0 %である。食品に分類されている品目はほとんどがデーツである。輸入品目別では、機械73.1 %、基礎的な工業製品16.1 %、食品5.0 %、化学工業製品1.0 %。
貿易相手国は、輸出がアメリカ合衆国 18.6 %、ロシアとCIS諸国、トルコ、ブラジル、フランス、輸入がアメリカ合衆国 13.6 %、日本、ドイツ、イギリス、フランスとなっている。
イラン・イラク戦争中の1986年時点における貿易構造は、2003年時点とあまり変わっていない。ただし、相違点もある。輸出においては、総輸出額に占める原油の割合が98.1 %と高かったにもかかわらず、採掘から輸送までのインフラが破壊されたことにより、原油の輸出が落ち込んでいた。結果として、12億ドルの貿易赤字を計上していた。製鉄業が未発達であったため、輸入に占める鉄鋼の割合が5.9 %と高かったことも異なる。貿易相手国の顔ぶれは大きく違う。2003年時点では輸出入ともアメリカ合衆国が第一だが、1986年の上位5カ国にアメリカ合衆国は登場しない。輸出相手国はブラジル、日本、スペイン、トルコ、ユーゴスラビアであり、輸入相手国は日本、トルコ、イギリス、西ドイツ、イタリアであった。
交通
国民
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/0e/Iraqi_girl_smiles.jpg/250px-Iraqi_girl_smiles.jpg)
民族
言語
教育
婚姻
通常は婚姻時に改姓することはない(夫婦別姓)が、西欧風に夫の姓に改姓する女性もいる[28]。保健
医療
宗教
イスラム教シーア派
イスラム教スンナ派
スンナ派ではシャーフィイー学派、ハナフィー学派、ハンバル学派、マーリク学派の4法学派が正当派とされている。イラク出身のスンナ派イスラム法学者としては、以下の3人が著名である。 8世紀まで政治・文化の中心であったクーファに生まれたアブー・ハニーファ (Abu Hanifa、699年-767年) は、ハナフィー法学派を創設し、弟子のアブー・ユースフと孫弟子のシャイバーニーの3人によって確立し、今日ではムスリムの信奉する学派のうち最大のものにまで成長した。 バスラのアブー・アル=ハサン・アル=アシュアリー (Abu al-Hasan al-Ash'ari、873年-935年) は、合理主義を標榜したムウタズィラ学派に属していたが、後に離れる。ムウタズィラ派がよくしていたカラーム (弁証) をもちいて論争し、影響力を低下させた。同時に伝統的な信条をもつアシュアリー派を創設した。 ガザーリー (Al-Ghazali、1058年-1111年) は、ペルシア人であったがバグダードのニザーミーヤ学院で教え、イスラーム哲学を発展させた。﹁イスラム史上最も偉大な思想家の一人﹂と呼ばれる。アシュアリー学派、シャーフィイー学派の教えを学び、シーア派のイスマーイール派などを強く批判した。後に、アリストテレスの論理学を受け入れ、イスラーム哲学自体に批判を下していく。 イスラム神秘主義者としてはメディナ生まれのハサン・アル=バスリー (al-Hasan al-Basri、642年-728年) が著名である。バスラに住み、禁欲主義を説いた。神の意志と自らの意志を一致させるための精神修行法を作り上げ、ムウタズィラ派を開く。ムウタズィラ派は合理的ではあったが、彼の精神修行法は神秘主義 (スーフィズム) につながっていった。ヤズィード
ヤジーディー派はイラク北部のヤジーディー民族だけに信じられており、シーア派に加えキリスト教ネストリウス派、ゾロアスター教、呪術信仰が混交している。聖典はコーラン、旧約聖書、新約聖書。自らがマラク・ターウースと呼ぶ堕落天使サタンを神と和解する存在と捉え、サタンをなだめる儀式を行うことから悪魔崇拝者と誤解されることもある。キリスト教
1990年時点のキリスト教人口は約100万人である。最大の分派は5割を占めるローマ・カトリック教会。アッシリア人だけはいずれにも属さずキリストの位格について独自の解釈をもつアッシリア東方教会 (ネストリウス派) に属する。19世紀まではモースルのカルデア教会もネストリウス派に属していたが、ローマ・カトリック教会の布教活動により、東方帰一教会の一つとなった。
マンダ教(サービア教)
サービア教はコーランに登場し、ユダヤ教やキリスト教とともに啓典の民として扱われる歴史のある宗教である。マンダ教はそのサービア教と同一視されてきた。バプテスマのヨハネに付き従い、洗礼を非常に重視するため、水辺を居住地として選ぶ。ティグリス・ユーフラテス両河川のバグダード下流から、ハンマール湖に到る大湿地帯に多い。古代において西洋・東洋に広く伝播したグノーシス主義が原型と考えられている。
ユダヤ教
ユダヤ教徒はバビロニア時代から現在のイラク地方に根を下ろし、10世紀に到るまでユダヤ教学者を多数擁した。イスラエル建国以前は10万人を超える信者が居住していたが、移民のため、1990年時点で、ユダヤ教徒は数百人しか残っていない。
文化
食文化
イラク国民の嗜好品としてもっとも大量に消費されているのが、茶である。国連の統計によると、1983年から1985年の3年間の平均値として国民一人当たり2.63 kgの茶を消費していた。これはカタール、アイルランド、イギリスについで世界第4位である。国が豊かになるにつれて茶の消費量は増えていき、2000年から2002年では、一人当たり2.77 kgを消費し、世界第一位となった。日本茶業中央会の統計によると、2002年から2004年では戦争の影響を被り消費量が2.25 kgと低下しているが、これでも世界第4位である。イランやトルコなど生産地が近く、イラク国内では茶を安価に入手できる。
美術
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細密画、アラビア書道、モスク建築、カルバラーやナジャフなどのシーア派聖地。
音楽
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/9f/Holding_the_risha_pos_1.jpg/150px-Holding_the_risha_pos_1.jpg)
世界遺産
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/8d/Hatra_ruins.jpg/220px-Hatra_ruins.jpg)
祝祭日
日付 | 日本語表記 | 現地語表記 | 備考 |
---|---|---|---|
1月1日 | 元日 | ||
1月6日 | イラク国軍の日 | ||
2月8日 | 第14回ラマダーン革命記念日 | ||
6月30日 | 主権回復記念日 | ||
7月14日 | 建国記念日 | ||
7月17日 | 平和革命記念日 | ||
ヒジュラ暦第1月1日 | イスラム元日 | ||
ヒジュラ暦第3月12日 | マウリド・アン=ナビー | ムハンマドの生誕祭 | |
ヒジュラ暦第10月1日 | イード・アル=フィトル | 断食月明けの祭 | |
ヒジュラ暦第12月10日 | イード・アル=アドハー | 犠牲祭 |
フセイン政権下の祝祭日を示した。
スポーツ
サッカー
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/1f/Younis_Mahmoud_2011.jpg/220px-Younis_Mahmoud_2011.jpg)
著名な出身者
脚注
注釈
出典
参考文献
●池澤夏樹ほか﹃イラクの小さな橋を渡って﹄光文社、 2003年 (ISBN 4334973779) ●大塚和夫ほか (編) ﹃岩波イスラーム辞典﹄岩波書店、2002年 (ISBN 4000802011) ●佐藤次高 (編) ﹃新版世界各国史8西アジア史Iアラブ﹄山川出版社、2002年 (ISBN 4634413809) ●日本イスラム協会ほか (監修) ﹃新イスラム事典﹄平凡社、2002年 (ISBN 4582126332) ●酒井啓子、﹃イラクとアメリカ﹄、岩波書店、2002 (ISBN 4004307961) ●岩佐俊吉、﹃図説熱帯の果樹﹄、養賢堂、2001年、ISBN 4842500786 ●チャールズ・トリップ﹃イラクの歴史﹄大野元裕・岩永尚子・大野美紀・大野元己・根津俊太郎・保苅俊行、明石書店︿世界歴史叢書﹀、2004年。ISBN 978-4-7503-1841-7。OCLC 675958712。 ●Robert B. Clarke, PEOPLES OF THE EARTH, Vol.17 Arab world, Tom Stacey Ltd., 1973 ●Worldmark Encyclopedia of the Nations, Vol.4, Thomson Gale, 2006 (ISBN 1414410891) ●Demographic Yearbook, United Nations, 1990. ●Statistical Yearbook, United Nations, 1988, 1989, 1993, 1997, 2002. ●The Oud 英エクセター大学のDavid ParfittのWebページ関連項目
外部リンク
- 政府
- イラク政府公式サイト (アラビア語)
- 在日イラク大使館 (アラビア語)(英語)
- 日本政府
- 日本外務省 - イラク (日本語)
- イラク委員会 (経済産業省・外務省他8の公的団体による) (日本語)
- 観光
- JTB - イラク観光ガイド (日本語)
- 地球の歩き方 - イラクの旅行・観光ガイド (日本語)
- その他
- JCCME - イラク (日本語)
- "Iraq". The World Factbook (英語). Central Intelligence Agency. (英語)
- イラク - Curlie(英語) (英語)
イラクのウィキメディア地図 (英語)
- 地図 - Google マップ
- 『イラク』 - コトバンク