「双葉山定次」の版間の差分
導入部にはその事物の特筆性を書くべきという方針に基づき加筆。これほどの人物なら「概要」節があってもよさそうな気もします。 |
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* 妻の穐吉澄子(2005年死去)は極端なマスコミ嫌いだったため、双葉山についてのインタビューを拒み続けた。そのため、双葉山の特集を組んだ番組や著書では、澄子の証言は双葉山死去直後に相撲雑誌に書いた手記を除くほか確認できるものは無い<ref>『相撲』62ページから64ページ、「きちょう面で信念に徹した人」。</ref><ref>[[工藤美代子]]は双葉山に関する取材を澄子に試みようと何回か手紙を出したが返事が無く、止む無く断念したという経緯を明かしている([[#工藤1991|工藤(1991)]]、183頁)。</ref>。 |
* 妻の穐吉澄子(2005年死去)は極端なマスコミ嫌いだったため、双葉山についてのインタビューを拒み続けた。そのため、双葉山の特集を組んだ番組や著書では、澄子の証言は双葉山死去直後に相撲雑誌に書いた手記を除くほか確認できるものは無い<ref>『相撲』62ページから64ページ、「きちょう面で信念に徹した人」。</ref><ref>[[工藤美代子]]は双葉山に関する取材を澄子に試みようと何回か手紙を出したが返事が無く、止む無く断念したという経緯を明かしている([[#工藤1991|工藤(1991)]]、183頁)。</ref>。 |
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* 双葉山と澄子の間には長男・経治(1944年生)と長女・博子(1948年生)がいたが、博子は高校時代に病死、経治は双葉山が1965年に福岡県に建てた日蓮宗の |
* 双葉山と澄子の間には長男・経治(1944年生)と長女・博子(1948年生)がいたが、博子は高校時代に病死、経治は双葉山が1965年に福岡県に建てた日蓮宗の[[妙音教会]]という寺<ref>『相撲』2018年1月号126ページ</ref>の[[住職]]になったが、1988年に44歳の若さで死去した。 |
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* 孫娘には元[[宝塚歌劇団]]77期生・双葉美樹(2001年退団)や舞台女優の穐吉次代(後に穐吉美羽に改名)がいるが、双葉山の没後に生まれたため接点はない。 |
* 孫娘には元[[宝塚歌劇団]]77期生・双葉美樹(2001年退団)や舞台女優の穐吉次代(後に穐吉美羽に改名)がいるが、双葉山の没後に生まれたため接点はない。 |
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* 花柳界においても人気は高く、[[新橋 (東京都港区)|新橋]]・[[柳橋 (神田川)|柳橋]]の[[芸者]]は“双葉関の[[貞操]]を守ろう”と﹁さわらぬ連盟﹂なるものを作り、互いに牽制し合っていたといわれる。横綱昇進時はまだ独身だったことや、その童顔もあって﹁[[童貞]]横綱﹂とも呼ばれた<ref>[[池田雅雄]]の証言では、結婚するまで童貞だったという意味ではなく、一度も八百長をしなかったからそう呼ばれたのだという︵[[#工藤1991|工藤(1991)]]、166頁︶。</ref>が、[[栃錦清隆]]が新弟子の頃に春日野の用事で[[料亭]]に双葉山を訪ねたところ、﹁この世にこんな綺麗な人がいるのかと思った﹂ほどの美女を侍らせていたと証言している。
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* 花柳界においても人気は高く、[[新橋 (東京都港区)|新橋]]・[[柳橋 (神田川)|柳橋]]の[[芸者]]は“双葉関の[[貞操]]を守ろう”と﹁さわらぬ連盟﹂なるものを作り、互いに牽制し合っていたといわれる。横綱昇進時はまだ独身だったことや、その童顔もあって﹁[[童貞]]横綱﹂とも呼ばれた<ref>[[池田雅雄]]の証言では、結婚するまで童貞だったという意味ではなく、一度も八百長をしなかったからそう呼ばれたのだという︵[[#工藤1991|工藤(1991)]]、166頁︶。</ref>が、[[栃錦清隆]]が新弟子の頃に春日野の用事で[[料亭]]に双葉山を訪ねたところ、﹁この世にこんな綺麗な人がいるのかと思った﹂ほどの美女を侍らせていたと証言している。
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2023年1月16日 (月) 12:49時点における版
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![]() 双葉山定次(1940年頃) | ||||
基礎情報 | ||||
四股名 | 双葉山 定次 | |||
本名 | 龝吉 定次 | |||
愛称 |
不世出の横綱 相撲の神様 昭和の角聖 立浪三羽烏 無敵 うっちゃり双葉 協会の知恵袋 古今十傑 大鉄傘下の花形力士二人 | |||
生年月日 | 1912年2月9日[1] | |||
没年月日 | 1968年12月16日(56歳没) | |||
出身 |
![]() | |||
身長 | 179cm | |||
体重 | 122kg | |||
BMI | 38.13 | |||
所属部屋 |
立浪部屋 →双葉山相撲道場 | |||
得意技 | 右四つ、寄り、上手投げ | |||
成績 | ||||
現在の番付 | 引退 | |||
最高位 | 第35代横綱 | |||
生涯戦歴 | 348勝116敗1分33休(51場所) | |||
幕内戦歴 | 276勝68敗1分33休(31場所) | |||
優勝 | 幕内最高優勝12回 | |||
データ | ||||
初土俵 | 1927年3月場所[1] | |||
入幕 | 1932年2月場所[1] | |||
引退 | 1945年11月場所[1] | |||
引退後 | 第3代日本相撲協会理事長 | |||
趣味 | 写真[2] | |||
備考 | ||||
金星1個(武藏山武) | ||||
2015年9月7日現在 |
来歴
定次少年の角界入り
1912年2月9日に大分県宇佐郡天津村布津部︵現‥大分県宇佐市下庄︶で生まれる。5歳の時に吹き矢が自身の右目に直撃して負傷し、右目が半失明状態になった[5]。後年、双葉山は著書﹁相撲求道録﹂の中でこの事件について、友達と遊んでいる最中に目を傷めたことは覚えているものの、その原因が吹き矢だったことについてははっきりとした記憶が無いと語っているが、横綱審議委員長を務めた舟橋聖一は﹁誰が吹き矢を拭いたのかを唯一知っていたのは定次少年の父親で、定次少年が吹き矢を吹いた人物を恨んで自身のマイナスになることと、定次自身が傷つかないようにするため、決して名前を出さなかった﹂と分析している[6]。少年時代は成績優秀で普通に進学を目指していたが、父親が営む海運業が失敗して5000円︵現在の2億5000万円相当︶の借金を負い[7]、兄と妹と母親も早くに亡くしている事情から、次男でありながら一家の家計を支えるべく手伝いをしながらたくましく育つ[8]。浪曲研究家の芝清之が作成した﹁双葉山物語﹂では、この海運業の手伝いをしているときに錨の巻上げ作業で右手の小指に重傷を負ったとしている[5]ほか、定次が14歳の頃、乗船していた船が大波を受けて転覆して海に投げ出されたが、たまたま近くを通っていた船に助けられて九死に一生を得た。その後定次は別の業者に雇われることになった[9]。 定次は、相撲の方はそれほど気持ちを入れていたわけではなかったが、初めて出場した相撲大会で畳屋の男と取組むことになった。だが、定次は相撲を取ったことがなかったため相手に食いつかれてしまい動けなくなったところ、見物人から﹁押せ!押せ!﹂の声が聞こえたため、定次は相手を上から押さえつけて倒し、相手はしばらく起き上がれなかったという[9]。このことが地元の新聞に載り、この記事を見た大分県警察部長の双川喜一︵のちに明治大学専務理事︶の世話で立浪部屋に入門、1927年3月場所に初土俵を踏む。 四股名の双葉山は﹁栴檀は双葉より芳し﹂から命名し、入門時に世話になった双川の一字も含まれる[8][10]。双川は大分県に赴任する前、立浪の出身地の富山県で学務部長を務めていて立浪とは昵懇の間柄で、かねてから全国を転勤して回る双川に新弟子を見つけたら入門の世話をするように頼んでいた。そのことから、立浪が弟子勧誘の網を全国に張り巡らせていたことが窺える[8]。誰とやってもちょっとだけ強い
宇佐市で双葉山を研究している市民グループ﹁豊の国宇佐市塾﹂塾長の平田崇英が語るところによると、新弟子時代の双葉山は同期入門だった大八洲晃と午前6時から開始される朝稽古に揃って早起きし、とうとう午前4時から稽古を始めたことで﹁早すぎて眠れない﹂と立浪から苦情が来たという。こうした稽古熱心さから、当時は兄弟子が双葉山に対してかわいがりを加えることも日常茶飯事だったとされており、石を盛ったバケツを持って200回の屈伸を行った後、兄弟子のぶつかり稽古の格好の標的となるといった猛稽古を課されることも珍しくなかったという。それでも入門前に海運業に従事して精神と肉体を鍛えていたこともあって、こうした苦行を力に変えていった[11]。下積み時代の双葉山の指導係だった高浪︵のち旭川幸之焏︶に言わせると﹁相撲っぷりは平凡だった。ただ稽古熱心で、どんなにたたきつけられても、決して弱音を吐いたことがなかった﹂とのことであり、﹁まさかあんな大横綱になるとは…﹂とその出世ぶりに驚いている[8]。入幕以前は目立った力士ではなかったが、成績は4勝2敗︵当時の幕下以下は1場所6番︶が多く、大きく勝ち越すことがない一方で3勝3敗が何度かあって負け越しは無く、春日野や常ノ花[12]から﹁誰とやってもちょっとだけ強い﹂と評されたという。1931年5月場所には19歳3ヶ月で新十両に昇進︵西5枚目︶、この場所で3勝8敗と初めて負け越した。 1932年1月場所は東十両6枚目で迎えるはずだったが、場所前に春秋園事件が発生した。天竜三郎ら脱退力士の主張には共感するものもあり、その勧誘には大いに迷ったが、部屋の女将の﹁主張は良いのだが本当に変えたいことがあるなら内部にいてやるべき﹂との言葉に残留を決意、再編された2月場所の番付で西前頭4枚目と繰り上げ入幕となる。入幕後しばらくは相撲が正攻法すぎて上位を脅かすまでには至らなかったが、足腰は非常に強いため、攻め込まれても簡単には土俵を割らずに土俵際で逆転することが多く﹁うっちゃり双葉﹂と皮肉られていた[1][13][注 2]。﹁相撲が雑で工夫がない﹂という批判も多かったが、若い頃から双葉山を可愛がっていた玉錦三右エ門だけは﹁あれで良いのだ。いまに力がつけば欠点が欠点でなくなる﹂と評価したという[10]。 1935年1月場所には小結に昇進するが4勝6敗1分と負け越し、5月場所も4勝7敗と負け越すなど、この頃までは苦労の連続だった。69連勝
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/73/Nayoroiwa.jpg/250px-Nayoroiwa.jpg)
谷風の連勝との比較
続く5月場所も千秋楽に組まれた玉錦戦との水入りの大相撲を制して13戦全勝とし、5場所連続での全勝優勝を果たす。この記録を受けて、協会から﹁古今に例がない﹂と表彰されたが、本人は﹁これからまだやるんですから、そんなことをしないで下さい﹂と言ったという[15]。この時点で66連勝となり、谷風梶之助の63連勝を約157年ぶりに塗り替えている。なお、谷風が活躍した江戸時代には分・預・休を挟んでいるために純然たる連勝記録ではなかったが︵さらに、幕下力士を相手に五人掛けを行い、5人抜きを果たして1勝に代えられた星が二つ含まれている︶、逆に双葉山が江戸時代の力士であれば、両國との物言い相撲や玉錦との水入りはそれぞれ預と分にされていた可能性もあり、いずれにしても単純比較は難しい。 なお、谷風の連勝記録はそれまで一般に認知されていたわけではなかった。双葉山が谷風の連勝記録を超える63~64連勝を達成した1938年5月場所10・11日目︵5月21・22日︶でも、当時の朝日新聞の記事には全く話題になっていない[16]。ただ、酒井忠正はすでに過去の記録を調査して谷風の63連勝をそれまでの最多連勝記録と認定していたが、﹁この事を︵双葉山に︶話したなら、﹃その為に心を乱し固くなりはせぬか…﹄と、ことさら秘めて独り、心を躍らせていた﹂と述べており、64連勝が達成された日の夜に初めて双葉山に話して成功を祝したところ、﹁表情の少ない彼も流石に嬉しそうだった﹂という[17]。そして酒井は場所後、雑誌﹃相撲﹄に掲載した﹁双葉山と古今先人の比較﹂[18]で、双葉山が谷風の記録を破る﹁未曽有の新記録﹂を樹立したと発表した[注 7]。 それ以来、世間の注目は﹁双葉山の連勝がどこまで伸びるか﹂と﹁誰が双葉山の連勝を止めるか﹂の2点に集まり、﹁双葉よ敗れるな︵負けるな︶!双葉を敗れ︵倒せ︶!﹂という相矛盾する流行語まで生まれた。当時、武藏山は休場続きで、男女ノ川は好不調の波が激しく、衰えたとはいえかつての第一人者である玉錦が連勝を止める本命と思われたが、その玉錦が同年12月に現役のまま急死すると、もはや双葉山の連勝を止める力士はいないとの声が多くなり、なかには100連勝するとの声も出た。70連勝ならずの一番
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/5a/Futabayama_defeated.jpg/300px-Futabayama_defeated.jpg)
安藝ノ海戦の取組後
双葉山は約3年ぶりとなる黒星を喫し、連勝を69で止められたにも関わらず、悔しさや絶望感などを表情に見せることなく普段通り一礼し、東の花道を引き揚げて行った。同じ東方の支度部屋を使っており、この後の結びの一番のために土俵下で控えていた男女ノ川は、取組後に﹁あの男︵双葉山︶は勝っても負けても全く変わらないな﹂と語っているが、支度部屋では﹁あー、クソッ!﹂と叫んだと新聞記事に書かれている。 その日の夜、双葉山は師と仰ぐ安岡正篤に対して﹁イマダモッケイタリエズ︵未だ木鶏たりえず︶﹂と打電した[8]。また、当日は以前から約束していた大分県人会主催の激励会に出席しており、70連勝を阻止された当日の夜だったことで急遽敗戦を慰める会の雰囲気になったが、いつもと変わらない態度で現れた双葉山に列席者は感銘を受けたという。なお、双葉山自身は著書の中で、友人に宛てて打電したもので、友人が共通の師である安岡に取り次いだものと見える、と述べている。 一方の安藝ノ海は、土俵下でこの取組を見ていた後の27代木村庄之助によれば﹁勝ち名乗りを受けるための蹲踞をためらっているように見え、﹃心ここにあらず﹄という表情だった﹂という[21]。この後、安藝ノ海は次の一番で取る鹿嶌洋起市に力水を付け、勝ち残りで控えに座り、結びの一番が終わってから支度部屋へ引き上げた。取組を終えた安藝ノ海は出羽海部屋に帰ろうとしたが、国技館を出た瞬間から双葉山を破った彼を見ようとした多くの群衆に取り囲まれ[22]、部屋へ数分で帰れる時間を1時間以上も要し、部屋へ着いた安藝ノ海の着物はボロボロになった。部屋へ戻ってから師匠の出羽海に報告したが、出羽海は笑顔にならず﹁勝って褒められる力士になるより、負けて騒がれる力士になれ﹂と諭したという。これには、安藝ノ海の入門を世話した藤島︵この時は中耳炎で入院中︶の言葉だとの説もあるが、当時部屋の豆行司だった28代庄之助は、出羽海の付け人をしながらこの時の言葉を聞いたと証言しており、後者の藤島発言説を否定している。- 69連勝の一覧
連勝 | 場所 | 星取 | 決まり手 | 対戦相手 | 備考 | |
---|---|---|---|---|---|---|
敗戦 | 昭和11年1月場所 東前頭2枚目 |
6日目 | ● | 引き落とし | 横綱・玉錦三右エ門 | |
1 | 7日目 | ○ | うっちゃり | 前4・瓊ノ浦勇雄 | ||
2 | 8日目 | ○ | 二枚蹴り | 前5・出羽湊利吉 | ||
3 | 9日目 | ○ | うっちゃり | 小結・綾曻竹藏 | ||
4 | 10日目 | ○ | 下手投げ | 前2・笠置山勝一 | ||
5 | 千秋楽 | ○ | 掬い投げ | 前10・駒ノ里秀雄 | 9勝2敗 優勝は玉錦・11戦全勝 | |
6 | 昭和11年5月場所 東関脇 |
初日 | ○ | 上手投げ | 前12・新海幸藏 | |
7 | 2日目 | ○ | 上手投げ | 前1・両國梶之助 | ||
8 | 3日目 | ○ | 下手投げ | 前2・駒ノ里秀雄 | ||
9 | 4日目 | ○ | 下手投げ | 前3・笠置山勝一 | ||
10 | 5日目 | ○ | 寄り切り | 前1・出羽港利吉 | ||
11 | 6日目 | ○ | 上手投げ | 小結・綾曻竹藏 | ||
12 | 7日目 | ○ | 寄り切り | 前7・玉ノ海梅吉 | ||
13 | 8日目 | ○ | うっちゃり | 関脇・鏡岩善四郎 | ||
14 | 9日目 | ○ | 浴びせ倒し | 横綱・玉錦三右エ門 | 玉錦は前日まで27連勝中(歴代20位の連勝記録) | |
15 | 10日目 | ○ | 掬い投げ | 横綱大関・男女ノ川登三 | ||
16 | 千秋楽 | ○ | うっちゃり | 大関・清水川元吉 | 11戦全勝 優勝(初優勝) | |
17 | 昭和12年1月場所 東大関 |
初日 | ○ | 寄り倒し | 前2・両國梶之助 | 新大関 |
18 | 2日目 | ○ | 寄り切り | 前3・玉ノ海梅吉 | ||
19 | 3日目 | ○ | 突き出し | 小結・和歌嶋三郎 | ||
20 | 4日目 | ○ | 押し倒し | 前1・磐石熊太郎 | ||
21 | 5日目 | ○ | 寄り倒し | 関脇・笠置山勝一 | ||
22 | 6日目 | ○ | 上手投げ | 関脇・出羽湊利吉 | ||
23 | 7日目 | ○ | 寄り切り | 前1・桂川質郎 | ||
24 | 8日目 | ○ | うっちゃり | 大関・鏡岩善四郎 | ||
25 | 9日目 | ○ | 寄り切り | 大関・清水川元吉 | ||
26 | 10日目 | ○ | 寄り倒し | 前2・大邱山高祥 | ||
27 | 千秋楽 | ○ | 上手投げ | 横綱・男女ノ川登三 | 11戦全勝 優勝(2場所連続2度目) | |
28 | 昭和12年5月場所 東大関 |
初日 | ○ | 突き出し | 前4・土州山好一郎 | |
29 | 2日目 | ○ | 腰砕け | 前3・綾川五郎次 | ||
30 | 3日目 | ○ | 上手投げ | 前5・前田山英五郎 | ||
31 | 4日目 | ○ | 上手投げ | 前2・和歌嶋三郎 | ||
32 | 5日目 | ○ | 押し出し | 前2・海光山大五郎 | ||
33 | 6日目 | ○ | 寄り倒し | 前1・九州山義雄 | ||
34 | 7日目 | ○ | 寄り倒し | 前1・五ツ嶋名良男 | ||
35 | 8日目 | ○ | 押し切り | 小結・玉ノ海梅吉 | ||
36 | 9日目 | ○ | 上手投げ | 前5・磐石熊太郎 | ||
37 | 10日目 | ○ | 寄り倒し | 関脇・大邱山高祥 | ||
38 | 11日目 | ○ | 搦み投げ | 大関・清水川元吉 | ||
39 | 12日目 | ○ | 下手投げ | 横綱・玉錦三右エ門 | ||
40 | 千秋楽 | ○ | うっちゃり | 大関・鏡岩善四郎 | 13戦全勝 優勝(3場所連続3度目) 大関を無敗で通過。 | |
41 | 昭和13年1月場所 西横綱 |
初日 | ○ | 寄り切り | 前3・大潮清治郎 | 新横綱 |
42 | 2日目 | ○ | 上手投げ | 小結・九州山義雄 | ||
43 | 3日目 | ○ | 上手投げ | 前2・出羽湊利吉 | ||
44 | 4日目 | ○ | 寄り切り | 前1・磐石熊太郎 | ||
45 | 5日目 | ○ | 寄り切り | 関脇・玉ノ海梅吉 | ||
46 | 6日目 | ○ | 下手投げ | 前1・綾曻竹藏 | ||
47 | 7日目 | ○ | 下手投げ | 小結・前田山英五郎 | ||
48 | 8日目 | ○ | 寄り倒し | 関脇・大邱山高祥 | ||
49 | 9日目 | ○ | 吊り出し | 関脇・両國梶之助 | 双葉山に勇み足ありと物言いがつき、取り直しで決着。 | |
50 | 10日目 | ○ | 押し出し | 大関・鏡岩善四郎 | ||
51 | 11日目 | ○ | 上手投げ | 横綱大関・男女ノ川登三 | ||
52 | 12日目 | ○ | 寄り切り | 前4・笠置山勝一 | ||
53 | 千秋楽 | ○ | 上手投げ | 横綱・玉錦三右エ門 | 13戦全勝 優勝(4場所連続4度目) | |
54 | 昭和13年5月場所 東横綱 |
初日 | ○ | 押し切り | 前4・海光山大五郎 | |
55 | 2日目 | ○ | 寄り切り | 前1・玉ノ海梅吉 | ||
56 | 3日目 | ○ | 寄り倒し | 前2・両國梶之助 | ||
57 | 4日目 | ○ | 掬い投げ | 前2・五ツ嶋名良男 | ||
58 | 5日目 | ○ | 寄り切り | 関脇・磐石熊太郎 | ||
59 | 6日目 | ○ | 寄り切り | 前1・大邱山高祥 | ||
60 | 7日目 | ○ | 下手投げ | 小結・綾曻竹藏 | ||
61 | 8日目 | ○ | 上手投げ | 前4・和歌嶋三郎 | ||
62 | 9日目 | ○ | 吊り出し | 関脇・前田山英五郎 | ||
63 | 10日目 | ○ | 割り出し | 大関・鏡岩善四郎 | ||
64 | 11日目 | ○ | 押し切り | 横綱・武藏山武 | 谷風梶之助を抜いて歴代1位記録。 | |
65 | 12日目 | ○ | 押し出し | 横綱・男女ノ川登三 | ||
66 | 千秋楽 | ○ | 寄り倒し | 横綱・玉錦三右エ門 | 13戦全勝 優勝(5場所連続5度目) | |
67 | 昭和14年1月場所 東横綱 |
初日 | ○ | 寄り倒し | 前6・五ツ嶋名良男 | |
68 | 2日目 | ○ | 突き放し | 前5・龍王山光 | ||
69 | 3日目 | ○ | 上手投げ | 前4・駒ノ里秀雄 | ||
敗戦 | 4日目 | ● | 外掛け | 前3・安藝ノ海節男 | 連勝止まる この場所9勝4敗 |
記録が止まっても強い双葉山
土俵問題と現役引退
時津風一門を形成
璽光尊事件
日本相撲協会理事長として
璽光尊事件での不祥事を起こした双葉山だったが、現役時代の実績に加え、引退後も国民的人気が高いままだったこともあって、1947年10月に異例となる相撲協会理事への就任が決まった。さらに、1950年2月から相撲協会取締を3期に渡って務める。1956年1月からの理事長代理を経て、1957年5月には出羽海理事長の自殺未遂事件を受けて、出羽海の理事長退任・相談役就任と同時に日本相撲協会理事長へ就任した。 相撲人気の回復とともに、その守旧的な体質への批判が国会で取り上げられるほど高まっていた時期に理事長を務めることになり、 (一)相撲協会構成員︵年寄、行司など︶の65歳定年制の実施 (二)部屋別総当り制の実施[5] (三)相撲茶屋の再編と法人化 などの改革に尽力した[1]。協会内では秀ノ山と、後に理事長へ就任する武蔵川を腹心として重用し、外部有識者としては若き時代からの盟友である玉ノ海の意見によく耳を傾けた。年寄・時津風としては鏡里喜代治を横綱に育て上げ、大内山平吉・北葉山英俊・豊山勝男を大関に育てるなど、自身も経験してきた猛稽古によって多くの名力士を育成した。1958年には関取が最高で12人を数え、これは出身部屋の立浪部屋や二所ノ関部屋の10人を上回り、出羽海部屋、高砂部屋の15人に続いた[33]。青ノ里盛の話では、現役引退からかなり経過した1953年にも、自ら廻しを締めて弟子に稽古をつけていたという。弟子の豊山は停年退職後のインタビューで﹁現役の頃、部屋付きの親方衆が﹃押せ﹄﹃投げろ﹄と力士に対してげきを飛ばしているところに、師匠の双葉山関が姿を見せると﹃静かにせい﹄と一喝していた﹂[34]と指導について証言しており﹁師匠から具体的に﹃ああせい、こうせい﹄と言われたことはない。親方がそこにいるのが教えだった。私の成績が悪い時には、師匠自らまわしを締めることもあった。得意の右四つ左上手に組んでくれてね。肌で伝えてやろうということだったのだろう。﹃もっと真剣に気合を入れろ﹄と﹂[35]と振り返っている。武蔵川の﹃回顧録﹄によると﹁全く寡黙の人﹂だったといい、﹁向かい合って話を始めても、話がつまると30分でも1時間でも黙って座っている﹂ほどだという。半面、一度部下に任せた仕事については一切口出しをしないタイプなので、武蔵川にとっては馬が合う上司だったようである[36]。 1960年に行われた日本相撲協会の財団法人化35周年記念式典の際、相撲協会理事長として挨拶状を読み上げることになった。しかし、当日になって挨拶状を渡す役だった秀ノ山が挨拶状を忘れてしまい、慌てて取りに戻っている間、時津風は土俵上で直立不動で待ち続け、当初は失笑が洩れていた館内はやがて静まり、挨拶状を受け取る頃には拍手の渦となった。1962年には相撲界で初めて紫綬褒章を受章した[37]。 ′晩年
相撲協会理事長としての長期にわたる活躍を期待され、なかには還暦土俵入りを期待した者もいたが、晩年は肝炎によって体調を崩す日々が続き、入退院を繰り返した。1968年11月場所では優勝した大鵬︵45連勝中の最中︶に賜杯を授与したが、その直後の同年12月2日に、あたかも死に装束を模したかの様な白のスーツ姿で東京大学医学部附属病院へ再入院し、同年12月16日に劇症肝炎のため、死去[8][38]。56歳没。蔵前国技館で日本相撲協会葬が執り行われた。戒名は﹁霊山院殿法篤日定大居士﹂。没後、従四位勲三等旭日中綬章を追贈された[39]。時津風の没後に開かれた座談会では男女ノ川が﹁理事長、思いがけなかったねえ。ぼくより10歳も若いのに…︵中略︶ぼく自身は55か56で逝っちゃうだろうと予想していたんだが﹂とコメントを残している[40]。 没後、時津風部屋は元横綱鏡里の立田川が継承︵13代時津風︶したが、のちに夫人から﹁部屋は豊山に継がせたい﹂という生前の言葉が明かされた。正式の遺言状はなくその証言に疑義も呈されたが、結局鏡里が身を引く形で元豊山の錦島が14代時津風を襲名した[38]。人物
双葉山の怪力~豪快な上手投げ
右手と右目にハンデがあったためもあるが、左上手投げの強さは常識を超えており、上手は通常なら深く取るにも関わらず、対戦相手を軽々と放り投げた。引退から5年経って参加した花相撲においても、若瀬川泰二を豪快な上手投げで破った。全盛期の形は右四つから左上手を取るという完成された形だった[5]。 斉藤茂太が随筆に記しているところでは、双葉山の場合は左上手からの引きつけが凄まじく強烈なため、相手は利き手である右下手の力をその上から被さる左上手に完全に殺され、何も出来ない状態のまま強烈な上手投げを食らったという。琉球大学で物理学を専攻した経験と、トレーニング理論に関する著書を多数出版している高砂部屋の三段目力士だった一ノ矢充は、﹁︵双葉山は︶腕力を使って相手を投げるのではなく、肩甲骨で相手を押さえて投げる。自分の身体をスパナとして使うから、上手が深いほど相手は浮き上がる。物理学的に考えると納得いく[41]﹂と、その特殊な技術を分析している。 横綱審議委員長を務めたことのある舟橋聖一は双葉山の追悼特集で﹁何と云っても彼の特色は、立上がると同時に左の上手をしっかり取って引きつけ、ほとんど同時に右を差すか、その手をブランとさせる﹃外四つ﹄の体型で、これが彼独特のテクニックであった。︵中略︶﹃よし﹄と見るや、左から上手投げをうちながら、今まで自由にしていた右の差し手を相手の前褌近い部分に持っていくなり、同時に右下手捻りを複合させるのである。相手はほとんど残せなかった。この投げは遠くへは飛ばず、双葉の足の下へくずれるように倒れるのが特徴である﹂と、その取り口を評していた。同時に﹁彼は必ずしも膂力に秀でてはいなかった。腕相撲をやれば、同じ部屋の羽黒山にも名寄岩にも負けた。しかし、土俵へ上がると彼の力は十倍にも二十倍にも活性を加えて作用した﹂とも書き残している[42]。 双葉山は立合いに相手を良く見るが、攻撃はほとんど相手に先行する。武道のやり方としては﹁後の先﹂と言われる作法で、現役時代に﹁うっちゃり双葉﹂と呼ばれていた頃も右四つからの上手投げなどの正攻法の相撲を仕掛けていたが、当時は通用せずに結果的にそのようになってしまった。稽古場での強さも群を抜いており、大関以下を相次いで相手にして相当の番数をこなしても、息が上がることがほとんど無かったという。模範とする土俵態度
どんな相手に対しても同じような態度で臨んだ。力水は一回しかつけず、自ら待ったをかけることはなく、相手力士がかけ声を発すれば制限時間前であっても、一回の仕切りでさえ受けて立った︵一回の仕切りで立った取組でも勝利している︶。後述のように双葉山が土俵上での短い仕切り時間に無駄な動作を嫌って極限まで集中力を高めたためだが、こうした土俵態度も今日まで力士の模範とされている。相撲態度に関しては文句が無かった一方で、横綱土俵入りに関しては男女ノ川と同様に腕を廻して柏手を行ったため、酷評されたことがある。後年にはそういうことは無くなったが、当初は土俵入りの際の力みも目立った。残した不滅の足跡
幕内成績は、31場所で276勝68敗1分33休︵勝率.820︶。春秋園事件での繰上げ入幕のため、通算勝率では他の横綱に一歩譲るが、横綱昇進後は17場所・180勝24敗22休で︵勝率.882[注 17]︶と跳ね上がる。他に優勝12回[8]︵年2場所制での最多、そのうち全勝8回[注 18]︶、5場所連続全勝︵年2場所制で最多︶、関脇1場所、大関2場所は全て全勝で通過︵明治以降唯一︶、69連勝︵相撲の記録が残る1757年以降で最長記録︶など、不滅の足跡を残しており、﹁大横綱﹂と称される事も少なくない。 実力・実績は申し分ない反面、強力なライバルが不在だった面も指摘される。玉錦が全盛期を過ぎており、復活の無いまま最終的には1938年に現役死したこと、戦時中から戦後直後にかけての大相撲を支えた羽黒山とは同部屋のため対戦が無かったこと、さらに、入幕後は一度も双葉山に負けたことが無かった沖ツ海、現役時代に双葉山から金星を2個獲得した豊嶌といった大関獲りを期待された﹁双葉キラー﹂の両者がそれぞれフグ中毒、東京大空襲で現役死するなど、強敵と戦う機会をかなり避けることが出来たのも事実である。戦時中の正横綱だった照國が唯一ライバルと言える場合もあるが、台頭が双葉山の現役後半で、双葉山と年齢的に近い︵3歳差︶武藏山も右肘の故障で低迷、さらに安藝ノ海・鹿嶌洋がその孤高を慰める健闘を見せた以外、この点ではまったく恵まれなかった。エピソード
連勝関連
●昭和以降に大関以上まで昇進した者で、大関時代の成績が全勝︵無敗︶なのは双葉山のみである。また、昭和以降に横綱に昇進した者の中で大関を最短所要場所数で通過したのも双葉山である︵所要2場所︶。 ●年2場所制であった戦前の大相撲では、大阪や名古屋で﹁準場所﹂と呼ばれる場所を開催していた。準場所での成績を含めた場合、1937年6月の大阪関目国技館場所5日目から、1938年6月に西宮球場で行われた準場所3日目に九州山義雄に敗れるまで、87連勝を記録している。当然ながら公式記録では無いものの、双葉山の強さを物語る記録である。 ●﹁大相撲この一番〜“通”が選ぶ思い出の名勝負集﹂によれば、双葉山の70連勝が阻止された際、国技館には座布団だけではなく火鉢まで宙を舞ったと伝えられている。この作の中で宮脇俊三︵取組を父親の宮脇長吉と見ていた︶は、宙を舞った火鉢のことを﹁火の粉をまき散らしながら飛ぶ﹂という表現で事を書き記し、舞った火鉢を﹁焼夷弾﹂とまで表現している。また、歌舞伎俳優で後に横綱審議委員となった六代目澤村田之助も六代目尾上菊五郎に連れられて初めて相撲観戦に行って双葉山の敗戦を目撃している。 ●横綱昇進後に喫した24敗︵うち不戦敗が2つ︶は、安藝ノ海に69連勝を止められた一番を含めて、大半が右側から攻められたものである。右目について
●右目の状態は、入門から入幕の頃にかけては霞んだり物が二重に見えていたが、やがてほとんど見えなくなったといい、疲れたりするとこの右目の影響で、いい左目までものが二重に映ったりすることもあったという。[15]それでも、本人はなまじ見えるよりその方が都合が良かったと語っている。対戦力士側にも、﹁あの人︵双葉山︶は目の前の相手と違うものを見て相撲を取っている﹂といった証言が多く残る。実際、双葉山の右目はやや白濁しており、右目に白い星があった。そのことから相手は神眼だといって恐れたという。 ●右目が失明状態だったことは公表されておらず、 1941年のある日に身延山久遠寺に詣で、望月日顕法主の車椅子を押していて、﹁横綱、右目が悪いのだね﹂と言われた︵日顕は、車椅子を押す力が右に偏ることから気付いたという︶のが、他人から右目のことを指摘された最初だったという[6]。また、櫻錦戦で敗れた時に﹁飛び違い﹂という決まり手だったことから、﹁もしかして双葉山は目が悪いのではないか﹂という噂が広がったという。なお、小坂秀二の著書に引かれた笠置山の談話によると﹁私たちはみんな知っていました。ですから作戦を立てる場合、その目のことは計算に入れていました﹂という[43]。周囲の人々
●妻の穐吉澄子︵2005年死去︶は極端なマスコミ嫌いだったため、双葉山についてのインタビューを拒み続けた。そのため、双葉山の特集を組んだ番組や著書では、澄子の証言は双葉山死去直後に相撲雑誌に書いた手記を除くほか確認できるものは無い[44][45]。 ●双葉山と澄子の間には長男・経治︵1944年生︶と長女・博子︵1948年生︶がいたが、博子は高校時代に病死、経治は双葉山が1965年に福岡県に建てた日蓮宗の妙音教会という寺[46]の住職になったが、1988年に44歳の若さで死去した。 ●孫娘には元宝塚歌劇団77期生・双葉美樹︵2001年退団︶や舞台女優の穐吉次代︵後に穐吉美羽に改名︶がいるが、双葉山の没後に生まれたため接点はない。 ●花柳界においても人気は高く、新橋・柳橋の芸者は“双葉関の貞操を守ろう”と﹁さわらぬ連盟﹂なるものを作り、互いに牽制し合っていたといわれる。横綱昇進時はまだ独身だったことや、その童顔もあって﹁童貞横綱﹂とも呼ばれた[47]が、栃錦清隆が新弟子の頃に春日野の用事で料亭に双葉山を訪ねたところ、﹁この世にこんな綺麗な人がいるのかと思った﹂ほどの美女を侍らせていたと証言している。 ●双葉山の人気を物語るものとして、現在は禁止されている支度部屋への一般人の出入りによって差し入れが届けられたことがある。1943年11月場所のある日、相撲観戦に訪れていた老婆がふぐちりらしき物を差し入れた[48]。数日後には魚屋からスッポンが差し入れられるなど、戦時中ではあったものの、国民的人気のある横綱の食生活は豪華なものだったという[49]。その他
●1943年11月場所7日目の支度部屋では、部屋制度について﹁例えば同系統のものはひとつにして、大きな部屋別というようなものにして、東西対抗にもう少し精彩を与えるというような方法は…﹂と記者から意見された。これに対して﹁自分の弟子だからこそ熱心に面倒も見るし指導も思い切ってできる。これが単に協会の若い者、というようなことになれば、こうした師弟関係というものはどうしても熱を失いやしないかと思う﹂と部屋制度の維持が妥当と訴えた[49]。記事には、双葉山が自身で創設した相撲部屋を﹁道場﹂と呼称した理由について﹁勧進相撲以降、相撲が専門力士の間に飲み残されてきた傾向にあったので、やむを得なかったとはいえ、このように相撲は日本民族とは切っても切れる関係にありながら、﹃近代に至って国民とのつながりは果たしてどうであったか﹄とかえりみるとき、専門力士の間に保存されているのみであって、広く国民の相撲としての存在からははるかに遠いものとなっていたことは否み得ない事実であった﹂としており、太平洋戦争の影響下で軍事意識高揚のために相撲が草の根にまで浸透したことに関しては﹁相撲がようやく、日本民族のものとしても本来の姿を取り戻したとものとして、私は喜びを禁じ得ないものである﹂と喜んでいた[50]。ただし、これは太平洋戦争の最中の談話として双葉山自身が相応しい内容を選んだ結果のものであると留意されたい。 ●少なくとも太平洋戦争の終盤の時期は支度部屋では煙草を吸わない︵当時相撲の支度部屋は喫煙可︶人物であり、1943年11月場所2日目の支度部屋でのそうした様子を報道する記事もあった[25]。 ●1958年に若乃花幹士 (初代)が横綱へ昇進した際、当時は弱小一門だった二所ノ関一門としては玉錦以来の新横綱誕生、かつ二所ノ関一門関係者の中で玉錦の現役時代を詳しく知っている者がいなかったため、双葉山自らが横綱土俵入りの指導を行った。また、明治神宮での横綱推挙式と奉納土俵入りに関しても、玉錦が生前使用していた化粧回しが戦災で焼失して現存していなかったために用意できなかった。そこで、自ら現役時代に使用して戦火を免れた三つ揃いの化粧回しを、若乃花が所属していた花籠部屋へ貸し出して間に合わせたという。 ●2018年9月1日、直弟子の14代時津風の内田勝男が、双葉山が親方時代に愛用していた真鍮製火鉢を寄贈し、双葉山の史料を展示する観光交流施設﹁双葉の里﹂で御披露目式が開かれた[51]。 ●明治時代生まれ最後の横綱である︵1912年︵明治45年︶2月生まれ。約5か月後、明治天皇崩御により大正に改元︶。 ●﹁二葉山﹂を名乗った時期があるように書かれることもあるが、これは下位力士だった時代に誤記されたものである。なお双葉山生家付近に﹁二葉山神社︵ふたばやまじんじゃ︶﹂という神社があり、四股名﹁双葉山﹂の由来ともされている[8]が、これは地元に江戸時代以前から存在していた神社である。 ●現在の大相撲で力士は力水を最初に一度しかつけないが、これは双葉山から始まっている。双葉山以前の時代は仕切り直しのたびに力水を付ける者も多かったが、新弟子の頃に﹁武士にとっての水盃だ﹂と兄弟子から教えられ、死を覚悟しての水盃なら一度付ければ十分だと考えたという話が広く流布しているが、双葉山自身は﹁ただ土俵上であまり無駄なことはするまいと思っただけ﹂と否定している。文献によっては﹁目を疲れさせてはいけないから﹂という意図があったともされている[15]。 ●故郷の宇佐市の名産で、体長約5mmほどの﹁アミ﹂と呼ばれる小さなエビを醤油と砂糖で煮詰め、混ぜご飯にした﹁あみめし﹂で作ったおむすびが好物で、普段は気前の良かった双葉山も﹁あみめし﹂のことになると部屋の衆に分けることをためらうとうすけ︵相撲界でいう﹁ケチ﹂のこと︶ぶりを発揮した[52]。主な成績
通算成績
●通算成績‥348勝116敗33休1分 勝率.750 ●幕内成績‥276勝68敗33休1分 勝率.802 ●横綱成績‥180勝24敗22休 勝率.882 ●現役在位‥51場所 ●幕内在位‥31場所 ●横綱在位‥17場所 ●大関在位‥2場所 ●三役在位‥2場所︵関脇1場所、小結1場所︶連勝記録
双葉山の最多連勝記録は、史上最長の69連勝である︵1936年1月場所7日目‐1939年1月場所3日目︶。下記に、双葉山のその他の連勝記録を記す︵20連勝以上対象︶。回数 | 連勝数 | 期間 | 止めた力士 | 備考 | 決まり手 |
---|---|---|---|---|---|
1 | 69 | 1936年1月場所7日目〜1939年1月場所3日目 | 安藝ノ海 | 1936年5月場所〜1938年5月場所5場所連続全勝優勝[注 19] | 外掛け |
2 | 29 | 1939年1月場所10日目[注 20]〜1940年1月場所10日目 | 五ツ嶋 | 1939年5月場所全勝優勝 | はたき込み |
3 | 21 | 1942年1月場所6日目〜1942年5月場所11日目 | 清美川 | 外掛け | |
4 | 36 | 1942年5月場所千秋楽〜1944年1月場所5日目 | 松ノ里 | 1943年1月場所〜5月場所2場所連続全勝優勝 | 渡し込み |
- 上記の通り、20連勝以上4回、30連勝以上2回記録している。
各段優勝
- 幕内最高優勝:12回(1936年5月場所、1937年1月場所、同年5月場所、1938年1月場所、同年5月場所、1939年5月場所、1940年1月場所、1941年1月場所、1942年1月場所、同年5月場所、1943年1月場所、同年5月場所)
- 全勝優勝:8回(大鵬と並んで歴代2位)
- 連覇:5連覇(1936年5月場所‐1938年5月場所、全て全勝優勝)※当時年2場所制
場所別成績
春場所 | 三月場所 | 夏場所 | 秋場所 | |||
---|---|---|---|---|---|---|
1927年 (昭和2年) |
x | (前相撲) | 番付外 3–3 |
東序ノ口27枚目 4–2 |
||
1928年 (昭和3年) |
東序ノ口9枚目 5–1 |
西序二段34枚目 3–3 |
東序二段16枚目 3–3 |
東序二段16枚目 4–2 |
||
1929年 (昭和4年) |
東三段目33枚目 3–3 |
東三段目33枚目 5–1 |
西三段目7枚目 4–2 |
西三段目7枚目 3–3 |
||
1930年 (昭和5年) |
西幕下24枚目 4–2 |
西幕下24枚目 3–3 |
東幕下4枚目 4–2 |
東幕下4枚目 3–3 |
||
1931年 (昭和6年) |
西幕下3枚目 6–1 |
西幕下3枚目 5–2 |
西十両5枚目 3–8 |
西十両5枚目 7–4 |
||
1932年 (昭和7年) |
西前頭4枚目 5–3 |
西前頭4枚目 8–2 |
東前頭2枚目 6–5 |
東前頭2枚目 0–0–11[注 21] |
||
1933年 (昭和8年) |
東前頭5枚目 9–2 |
x | 東前頭2枚目 4–7 |
x | ||
1934年 (昭和9年) |
西前頭4枚目 6–5 |
x | 西前頭筆頭 6–5 |
x | ||
1935年 (昭和10年) |
東小結 4–6[53] |
x | 東前頭筆頭 4–7 |
x | ||
1936年 (昭和11年) |
東前頭3枚目 9–2 ★ |
x | 西関脇 11–0 |
x | ||
1937年 (昭和12年) |
東大関 11–0 |
x | 東大関 13–0 |
x | ||
1938年 (昭和13年) |
西横綱 13–0 |
x | 東横綱 13–0 |
x | ||
1939年 (昭和14年) |
東横綱 9–4 |
x | 東横綱 15–0 |
x | ||
1940年 (昭和15年) |
東横綱 14–1 |
x | 東横綱 7–5–3[注 22] |
x | ||
1941年 (昭和16年) |
西横綱 14–1 |
x | 西横綱 13–2 |
x | ||
1942年 (昭和17年) |
東横綱 14–1 |
x | 東横綱 13–2 |
x | ||
1943年 (昭和18年) |
西横綱 15–0 |
x | 東横綱 15–0 |
x | ||
1944年 (昭和19年) |
西横綱 11–4 |
x | 東張出横綱 9–1 |
東張出横綱 4–3–3[注 23] |
||
1945年 (昭和20年) |
x | x | 西張出横綱 1–0–6[注 24] |
西横綱 引退 0–0–10 |
||
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 休場 十両 幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口 幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列) |
- 1932年1月番付(春秋園事件で興行中止)では十両東6枚目。
主な力士との幕内対戦成績
力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
安藝ノ海節男 | 9 | 1 | 東富士欽壹 | 0 | 1 | 五ツ嶋奈良男 | 5 | 2 |
鏡岩善四郎 | 10 | 1 | 汐ノ海運右エ門 | 1 | 1 | 清水川元吉 | 5 | 4 |
玉錦三右エ門 | 4 | 6 | 照國万藏 | 2 | 3 | 能代潟錦作 | 3 | 2 |
前田山英五郎 | 7 | 1 | 増位山大志郎 | 5 | 2 | 男女ノ川登三 | 10 | 5 |
武藏山武 | 2 | 4 | 鹿嶌洋起市 | 7 | 2 | 櫻錦利一 | 5 | 2 |
豊嶌雅男 | 5 | 2 |
著書
●﹃相撲求道録﹄ 黎明書房︵1956年︶ ●﹃横綱の品格﹄ ベースボール・マガジン社新書006 ベースボール・マガジン社 ISBN 978-4-583-10075-3 ﹃相撲求道録﹄に加筆、改筆を加えたもの。巻頭言を大鵬が、帯を貴乃花が執筆している。 ●﹃新版 横綱の品格﹄ ベースボール・マガジン社 ISBN 978-4-583-11145-2 2018年3月に上製本として復刊。大鵬の巻頭言は巻末に移り、貴乃花の帯の推薦文はなくなった。関連書籍
●工藤美代子﹃一人さみしき双葉山﹄ちくま文庫、1991年3月。ISBN 978-4-480-02516-6。関連楽曲
●﹃双葉山﹄︵唄‥細川たかし 作詞‥高橋直人 作曲‥あらい玉英︶ - 1998年8月22日参考文献
●ベースボール・マガジン社刊 ﹃相撲﹄ 創業70周年特別企画シリーズ①︵別冊夏季号︶︵2016年︶ ●ベースボールマガジン社刊﹃大相撲名門列伝シリーズ(4) 立浪部屋﹄︵2017年︶ ●ベースボール・マガジン社﹃大相撲名門列伝シリーズ(5) 時津風部屋﹄︵2018年︶脚注
注釈
出典
関連項目
- 横綱一覧
- 連勝記録 (大相撲)
- 古今十傑
- 時津風部屋
- 玉錦三右エ門
- 羽黒山政司
- スポーツ無敗記録一覧
- 大邱山高祥 - 双葉山と仲の良かった力士で、二人で「大鉄傘下の花形力士二人」と称された。
- 垣添徹 - テレビドラマで少年時代の双葉山を演じた経験のある力士