「ジョン・レノン」の版間の差分
m編集の要約なし |
編集の要約なし |
||
4行目: | 4行目: | ||
| honorific_suffix = {{post-nominals|country=GBR|size=100%|MBE}} |
| honorific_suffix = {{post-nominals|country=GBR|size=100%|MBE}} |
||
| 画像 = John Lennon at the Ed Sullivan Show in 1964 (cropped).jpg |
| 画像 = John Lennon at the Ed Sullivan Show in 1964 (cropped).jpg |
||
| 画像説明 = [[1964年]]に[[エド・サリヴァン・ショー]]に出演した際に撮影 |
| 画像説明 = [[1964年]]に[[エド・サリヴァン・ショー]]に出演した際に撮影<br />[[File:Firma de John Lennon.svg|center|frameless|upright]] |
||
| 画像サイズ = 200px |
| 画像サイズ = 200px |
||
| 画像補正 = |
| 画像補正 = |
||
54行目: | 54行目: | ||
}} |
}} |
||
[[ファイル:John Lennon en zijn echtgenote Yoko Ono op huwelijksreis in Amsterdam hielden pe, Bestanddeelnr 922-2301.jpg|サムネイル|ジョン・レノン、妻のオノ·ヨーコ(1969年)]] |
[[ファイル:John Lennon en zijn echtgenote Yoko Ono op huwelijksreis in Amsterdam hielden pe, Bestanddeelnr 922-2301.jpg|サムネイル|ジョン・レノン、妻のオノ·ヨーコ(1969年)]] |
||
[[File:Firma de John Lennon.svg|thumb|280px|ジョン・レノンのサイン]] |
|||
'''ジョン・ウィンストン・オノ・レノン'''({{Lang-en|''John Winston Ono Lennon''}}、[[1940年]][[10月9日]] - [[1980年]][[12月8日]]){{Efn|出生名は'''ジョン・ウィンストン・レノン'''であるが、ヨーコとの結婚に際し改名した。}}は、[[イギリス]]出身の[[シンガーソングライター]]・[[ギタリスト]]・[[キーボーディスト]]・[[平和運動]]家。[[ビートルズ]]を創設したリーダーで、[[ボーカル]]、[[ギター]]などを担当するとともに、[[ポール・マッカートニー]]と「[[レノン=マッカートニー]]」として多くの楽曲を制作した{{Efn|『[[ギネス・ワールド・レコーズ]]』では、もっとも成功したソングライティングチームの一人として、「[[ヒットチャート|チャート]]1位の曲が[[アメリカ合衆国|米国]]で盟友のポール・マッカートニーが32曲、レノンが26曲 (共作は23曲)、英国チャートでレノンが29曲、マッカートニーが28曲 (共作が25曲)」と紹介されている。}}。1965年には[[大英帝国勲章|MBE・大英帝国第5級勲位]]を受章した{{Efn|のちに英国の[[ベトナム戦争]]支持への反対を理由に返上した。}}。 |
'''ジョン・ウィンストン・オノ・レノン'''({{Lang-en|''John Winston Ono Lennon''}}、[[1940年]][[10月9日]] - [[1980年]][[12月8日]]){{Efn|出生名は'''ジョン・ウィンストン・レノン'''であるが、ヨーコとの結婚に際し改名した。}}は、[[イギリス]]出身の[[シンガーソングライター]]・[[ギタリスト]]・[[キーボーディスト]]・[[平和運動]]家。[[ビートルズ]]を創設したリーダーで、[[ボーカル]]、[[ギター]]などを担当するとともに、[[ポール・マッカートニー]]と「[[レノン=マッカートニー]]」として多くの楽曲を制作した{{Efn|『[[ギネス・ワールド・レコーズ]]』では、もっとも成功したソングライティングチームの一人として、「[[ヒットチャート|チャート]]1位の曲が[[アメリカ合衆国|米国]]で盟友のポール・マッカートニーが32曲、レノンが26曲 (共作は23曲)、英国チャートでレノンが29曲、マッカートニーが28曲 (共作が25曲)」と紹介されている。}}。1965年には[[大英帝国勲章|MBE・大英帝国第5級勲位]]を受章した{{Efn|のちに英国の[[ベトナム戦争]]支持への反対を理由に返上した。}}。 |
||
2024年5月14日 (火) 12:35時点における版
ジョン・レノン MBE | |
---|---|
基本情報 | |
出生名 | ジョン・ウィンストン・レノン |
別名 | |
生誕 | 1940年10月9日 |
出身地 | イングランド マージーサイド州リヴァプール |
死没 | |
学歴 | リヴァプール・カレッジ・オブ・アート卒業 |
ジャンル | |
職業 | |
担当楽器 | |
活動期間 | |
レーベル | |
配偶者 | |
著名な家族 | |
共同作業者 | |
公式サイト | ジョン・レノン 公式サイト |
生涯
ビートルズデビュー以前
幼年期
1940年10月9日18時30分、第二次世界大戦のドイツによる空襲下に置かれたマージーサイド州リヴァプールで誕生する。アイルランド系であった父のアルフレッド・フレディ・レノン︵1912年 - 1976年︶は労働者階級で商船の乗組員[8]として航海中であり、イングランド人であった母のジュリア・スタンリーは他の男性と同棲していたため、母親の長姉で﹁ミミ伯母﹂と呼ばれた中流階級であるメアリー︵1903年 - 1991年︶夫婦に育てられる。ファーストネーム︵ジョン︶は、父方の祖父のジョン・ジャック・レノン[9]、さらにミドルネーム︵ウィンストン︶は、当時のイギリスの首相のウィンストン・チャーチルにちなむ[9]。また、スコットランド人の血も引いている[10]。少年時代
レノンは1952年9月、グラマー・スクールのクオリー・バンク校に入学した。父親代わりだったミミの夫・ジョージ︵1903年 - 1955年︶が1955年に死去した。 レノンのティーンエイジャー時代のイギリスでは、ロニー・ドネガンの﹁ロック・アイランド・ライン﹂が1956年に大ヒットとなり、スキッフル・ブームが起きた[12]。さらに1956年、エルヴィス・プレスリーの﹁ハートブレイク・ホテル﹂を聴き、ロックンロールに衝撃を受けたレノンは、初めてのギターとなるギャロトーン・チャンピオンを新聞の通信販売で購入した。この頃、母が近くに住んでいることを知ったレノンは、彼女の家へ通うようになった。夫・フレッドからバンジョーのコードを教わっていたジュリアは、レノンにバンジョーのコードをいくつか教え音楽に関心を向けさせた。 1957年、第1作にあたる﹁ハロー・リトル・ガール﹂[注釈 5]を作曲する。当時からギター、ヴォーカルを担当していた。ポール、ジョージとの出会い
3月、クオリー・バンク校で、級友たちとスキッフルバンド﹁クオリーメン﹂を結成した。レノン以外のメンバーが定着しないまま活動を続けていた7月6日、演奏のためウールトンのセント・ピーターズ教会に赴いた際、共通の友人たるアイヴァン・ボーンにポール・マッカートニーを紹介される[注釈 6]。10月18日にマッカートニーをクオリーメンに加入させる。バンド活動と並行して、エルヴィス・プレスリー、チャック・ベリー、バディ・ホリー、ジーン・ヴィンセントなどアメリカのロックンロールに夢中になった。またレノンは、自分が大きな影響を受けた一人として、ルー・クリスティをあげている[13]。1958年2月、マッカートニーからジョージ・ハリスンを紹介されたレノンは、間も無く彼のギター演奏技術を評価し、クオリーメンに採用した。母の死
1958年7月15日、非番の警察官が運転する車が母・ジュリアをはねて死亡させる事件が起こった[注釈 7]。母・ジュリアの死はレノンに大きく影響し、すでに︵1956年、14歳のとき︶母を乳癌で亡くしていたマッカートニーとの友情を固めた。 1958年9月、レノンはクオリー・バンクを卒業後、同校校長の取り計らいで美術専門学校であるリヴァプール・カレッジ・オブ・アート ︵Liverpool College of Art︶に入学する。そこで最初の妻となるシンシア・パウエルと出会った。1959年1月、クオリーメンのメンバーはレノン、マッカートニー、ハリスンの3人だけになった。ハンブルク時代
このころからリヴァプールだけでなく、西ドイツハンブルクのクラブなどでも演奏活動を始めている。この頃、レノンはハンブルクの楽器店でデビュー時まで使用することとなるエレキギターリッケンバッカー・325を購入。1960年1月、レノンの説得により、リヴァプール・カレッジ・オブ・アートでの友人、スチュアート・サトクリフがメンバーに加わりヘフナーNo.333を用いてベースを担当した。レノンを含めたメンバーはハンブルク滞在中に薬物、酒、性交、ロックンロールを楽しんでいた[14]。従ってボブ・ディランがビートルズに薬物を教えたという俗説は誤りである。バンド名も﹁クオリーメン﹂から﹁ジョニー&ザ・ムーン・ドッグス﹂や﹁ザ・シルヴァー・ビートルズ﹂と名乗るようになり8月﹁ビートルズ﹂になりピート・ベストが加入した。 1961年4月、サトクリフはハンブルク滞在中に脱退し、画家を目指した。レノンは、すぐにマッカートニーを説得してベーシストに転向させた[注釈 8]。またレノンはこのとき、加入を申し出たクラウス・フォアマンを不採用とした。なお、サトクリフは恋人とハンブルクに残るがまもなく21歳で脳出血のため死去した。6月、ドイツで活動していたイギリス人歌手トニー・シェリダンのバック・バンドとして﹁マイ・ボニー﹂などの曲を録音した。ビートルズ時代
ブライアン・エプスタインとの出会い
1961年12月、ビートルズは﹁マイ・ボニー﹂を買いにきた客からビートルズを知ったレコード店経営者のブライアン・エプスタインとマネージメント契約を結び[15]、ロンドンのレコード会社への営業活動を始めた。1962年1月1日に、デッカ・レコードの審査を受け不合格となるが、6月にEMIパーロフォンと契約を結ぶ。8月16日にベストが解雇され、以前からビートルズと親しく交流していた﹁ロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズ﹂のドラマーであるリンゴ・スターが8月18日に加入した。10月5日、ビートルズとしてレコード・デビューを果たした。最初の結婚
シンシア・パウエルと1962年8月23日に結婚[15]。しかしシンシアの存在は、数年間隠されていた[16]。キリスト発言
ジョンとヨーコ‥ベトナム反戦運動
ビートルズ解散後
1970年代
ビートルズが存続中の1970年2月、メンバーのハリスンも参加した﹃インスタント・カーマ﹄は、﹃レット・イット・ビー﹄とほぼ同時期に発表され、米英でトップ5ヒットとなりゴールドディスクを獲得した。 1970年4月10日、マッカートニーが脱退したことでビートルズが事実上解散した後アメリカ合衆国のアーサー・ヤノフ博士が提唱した精神療法である原初療法を受けた。約半年後、ビートルズのメンバーであったリンゴ・スター︵ドラムス︶、クラウス・フォアマン︵ベース︶、ゲストにビリー・プレストンを迎え、アルバム﹃ジョンの魂﹄を発表した︵米6位、英8位︶。﹁マザー﹂がシングルとして発表された。 1971年6月、アルバム﹃イマジン﹄の制作を開始した︵発表は10月︶。ここではジョージ・ハリスン︵ギター︶、アラン・ホワイト︵ドラムス︶、ジム・ケルトナー︵ドラムス︶、キング・カーティス︵サキソフォーン︶らが参加した。米国1位、英国1位、日本1位︵オリコン総合チャート︶と大ヒットを記録した。9月、レノンは活動の拠点をアメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨークに移し、グリニッジ・ヴィレッジのアパートで生活を始めた。ここでジェリー・ルービンやアビー・ホフマン、ボビー・シールら多くの反体制活動家やミュージシャンと知り合い、政治活動︵公務員に対して禁止されている政治活動の行動類型︶に積極的に参加した。レノンはルービン、ホフマン、シールらの印象が、自分のそれと同様に、マス・メディアによって悪く歪曲されていることを知った。大麻所持で通常よりも重い10年間の禁固刑を受けた反体制活動家ジョン・シンクレアの救済公演への出演、アッティカ刑務所の入所者家族のための慈善公演︵ともに1971年12月︶なども行った。ジョンは、公式に特定の政党を支持したことは一度もなかったが、﹁人々に力を、民衆に権力を﹂と主張しアメリカ国内でデモ行進をした。大統領リチャード・ニクソンはロナルド・レーガンと同じく、50年代にマッカーシーの赤狩りに協力したような政治家だった。ニクソン時代のFBI長官ジョン・エドガー・フーヴァーとFBIによる監視については、レノンの死後に関係者の訴訟により膨大な量の調査報告書が公開されている[20]。このような理由から、レノンの大麻不法所持による逮捕歴を理由としたアメリカへの再入国禁止処分について再延長の手続きをとり続けた[注釈 9]。 1971年6月にはパーティーでマイルス・デイヴィスと会い、一対一のバスケット・ボールを楽しんだ。この様子は、動画サイトに残っている。1972年2月に、テレビ番組﹁マイク・ダグラス・ショー﹂に出演し、少年時代から敬愛するチャック・ベリーと共に﹁メンフィス・テネシー﹂と﹁ジョニー・B・グッド﹂を演奏した。5月にワシントン・スクエアの教会で慈善公演に出演した。6月発表の次作﹁サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ﹂は︵ニューヨークのローカル・バンドのエレファンツ・メモリーがバックを務めた︶、刑務所での暴動、人種問題や性差問題、北アイルランド紛争、アメリカ合衆国のグリーンカードについて歌い、アルバム・ジャケットに裸踊りをするリチャード・ニクソンと毛沢東の合成写真を使用した。1972年8月30日、レノンはエレファンツ・メモリーとともに、精神発達遅滞児童を援助する2回の慈善公演﹁ワン・トウ・ワン﹂をニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで行い、スティーヴィー・ワンダーと﹁平和を我等に﹂を共演したほか、ビートルズ時代の﹁カム・トゥゲザー﹂を披露した。同公演の模様は﹁ライヴ・イン・ニューヨーク・シティ﹂として1986年に発売された。9月に筋ジストロフィーの患者のためのテレビ番組に出演した。1980年代
約5年間の活動休止を経て、1980年に現役復帰を果たす。友人のデヴィッド・ピールのアルバム﹃ジョン・レノン・フォー・プレジデント﹄に作曲で全面参加した。80年6月にはバミューダ諸島で、8月にはスタジオで新曲の録音を開始した。ジョンはB-52's、リーナ・ラヴィッチ、現代音楽のメレディス・モンクらに興味を持っており、B-52sの﹁ロック・ロブスター﹂を気に入っていたという。ショーンが、偶然友達の家で観た映画﹃イエローサブマリン﹄の中でレノンを見つけ、﹁パパは本当にビートルズだったの?﹂と発した一言に触発されたとする説があるが、本人は否定している。11月、レノンはオノとの共作名義でアルバム﹃ダブル・ファンタジー﹄︵米1位・英1位・日1位︶を発表する。このアルバムは全世界で500万枚以上を売り上げ、﹁スターティング・オーヴァー﹂︵米1位・英1位︶、﹁ウーマン﹂︵米1位・英1位︶、﹁ウォッチング・ザ・ホイールズ﹂︵米9位︶などの大ヒット曲を生んだ[注釈 10]。音楽性の発展
ビートルズ時代
1960年代、ビートルズはポップ・カルチャー、ロック・ミュージック、ロックを目指す若者たちに大きな影響をもたらし、音楽と若者文化の発展に大きく貢献した。レノンが単独あるいは中心となって書いた曲は、内省的であり、一人称で書かれた個人的な内容であることも多い。レノンのこうした作風と、マッカートニーの明るい作風は、ビートルズの楽曲に多様性をもたらしていた。 ビートルズ初期におけるレノン=マッカートニーの共作においては﹁シー・ラヴズ・ユー﹂﹁抱きしめたい﹂﹁エイト・デイズ・ア・ウィーク﹂などにおける開放感のあるメロディーを生み出した。 ビートルズ初の大ヒット曲﹁プリーズ・プリーズ・ミー﹂のほか、﹁涙の乗車券﹂﹁アイ・フィール・ファイン﹂﹁ア・ハード・デイズ・ナイト﹂﹁ヘルプ!﹂は実質的にはレノンが書いた曲である。マッカートニー作の﹁ミッシェル﹂などで聴かれる感傷的で哀愁漂うメロディーは、彼の楽天的なメロディーに、レノンの性格や音楽性が陰影をつけ、曲に哀愁感をもたらした[25]。 ビートルズ中期には、薬物とインド音楽の影響を受け、幻想的でサイケデリック色の強い作品を制作した。﹁アイ・アム・ザ・ウォルラス﹂﹁ストロベリー・フィールズ・フォーエバー﹂﹁トゥモロー・ネバー・ノウズ﹂﹁ア・デイ・イン・ザ・ライフ﹂﹁ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ﹂などは多くのアーティストに影響を与えた当時の傑作群と言える。 1967年6月、ビートルズは世界初の衛星中継テレビ番組に出演した。全世界で4億人が見たとも言われるこの番組で﹁愛こそはすべて﹂を披露。原題の“All You Need Is Love”はビートルズやレノンを語るときの代名詞ともなった。 後期は単独作が増やし、﹁グッド・ナイト﹂﹁アクロス・ザ・ユニヴァース﹂﹁ビコーズ﹂のような美しいメロディーを持つ曲や、﹁ヤー・ブルース﹂﹁カム・トゥゲザー﹂﹁ドント・レット・ミー・ダウン﹂のようなブルース・ロックの曲を発表した。ソロ時代
こうしたビートルズ時代に比べ、ソロではより簡潔な和声の進行と、個性的な歌詞に特徴づけられる曲調へと変化し、﹁マザー﹂﹁コールド・ターキー﹂﹁真実が欲しい﹂のような曲を発表している。そして、﹁インスタント・カーマ﹂のようなロカビリー・ヴォイスが特徴のロックも制作した。 また﹁ラヴ﹂のような美しいメロディーの曲や、ビートルズ時代の﹁ストロベリー・フィールズ・フォーエバー﹂﹁ジュリア﹂のように繊細なメロディーで、かつ個性的な和声進行を示す独特の曲調は、同時期︵1967 - 1968年︶ に原曲が書かれたとされる﹁ジェラス・ガイ﹂へと発展した。 さらにエルトン・ジョンとの﹁ルーシー・イン・ザ・スカイ~﹂の間奏部分や、﹁インテューイション﹂︵1973︶における本格的なレゲエの導入へと至った。1980年のインタビューではレゲエのリズムを共演ミュージシャンに説明することを要したとの発言がある[26]。﹁心の壁、愛の橋﹂の﹁愛を生き抜こう﹂ではビートルズの﹁ハッピネス・イズ・ア・ウォーム・ガン﹂の通作形式[27]を踏襲した楽曲構成を行った。 わずか15分で書かれたといわれる﹁ウーマン﹂は、単純ながら、最終部で半音階上昇などカデンツ︵終止形、コード・パターン︶にテクニックが使用された楽曲となった。曲の着想はビートルズ時代の﹁ガール﹂を発展させたとレノンが1980年のインタビューで述べている[26]。編曲・プロデュース
﹁レット・イット・ビー﹂をプロデュースしたフィル・スペクターを高く評価したレノンは、ビートルズ末期のシングル﹁インスタント・カーマ﹂とソロ前期の﹁ジョンの魂﹂﹁イマジン﹂でスペクターを起用した。スペクターは、ストリングスや多数の楽器を何層にも重ねた﹁ウォール・オブ・サウンド﹂︵Wall of Sound: 音の壁︶とも形容される厚い音による編曲で知られている。しかし、両作品ともアレンジはそれとは異なり、レノンの目指す簡潔な音作りがなされた[26]。 ソロ後期の﹁マインド・ゲームス﹂﹁心の壁、愛の橋﹂﹁ロックンロール﹂、復帰後の﹁ダブル・ファンタジー﹂では、セルフ・プロデュース︵﹁ロックンロール﹂では一部をフィル・スペクターが担当、﹁ダブル・ファンタジー﹂はジャック・ダグラス、ヨーコが共同プロデュース︶により共演者に敬意を払いながらセッションの中でアレンジを組み立てていった[28]。これが、共演者の敬意を得ていたという多くの発言︵デヴィッド・スピノザ、トニー・レヴィンなど︶がある[29]。﹁マインド・ゲームス﹂に参加したスピノザによれば、レノンはスタジオミュージシャンを使って基本ラインを録音したあと、レノン自身のギター、スライドギターなどによる音を緻密に重ねてオーケストレーションを造り出し[30]、大人向けのロックを創造した[31]。ビートルズ以来の作曲語法となったベースのクリシェ[32]、分散和音的なアプローチも取り入れている。﹁心の壁、愛の橋﹂ではストリングス、ホーンも多用した編曲を行った。 また、エコーを効かせた﹁インスタント・カーマ﹂﹁マザー﹂﹁愛の不毛﹂﹁スターティング・オーヴァー﹂などの作品は、レノン自身が中音域における豊かな声質の再現、倍音の効果を意識していたことがうかがえる[33]。ポール・マッカートニーとの関係
ビートルズ解散直後の二人の確執はファンやマスコミにも知られていた。解散から数年間、互いの楽曲中で中傷しあったり[注釈 11]、ニューヨークを訪れたマッカートニーがレノンに電話して口論を始めるなど深い確執が存在した。しかしビートルズのアラン・クレインとのマネージメント問題、アップル・コアの管理など一連の訴訟が解決に向かう1970年代半ばになると、ウィングスがアメリカを訪れた際にマッカートニーがレノンを訪問するなど親交を取り戻すようになった。また1974年にはスティーヴィー・ワンダーらとともにジャム・セッションを行い、﹁スタンド・バイ・ミー﹂や﹁ルシール﹂などロックンロールの名曲を一緒に演奏したテープも残されている。現在では、マッカートニーはビートルズの楽曲を歌う際にレノンのパートを担当したり、レノンのソロ曲をカバーしている。 マッカートニーがレノンの自宅を訪れたある日、テレビ番組の出演者が冗談で﹁﹃サタデー・ナイト・ライヴ﹄にビートルズを出演させるとしたらいくら払う?﹂﹁一流クラスの標準ギャラで3200ドル﹂という話をした。これを観た2人は喜び、意気投合した。実現はしなかったが、マッカートニーは﹁昔に戻れたみたいでとても嬉しかった﹂と述べている。 またレノンは﹁ポールの悪口を言っていいのは俺だけだ。他の奴が言うのは許さない﹂と発言した。ハリー・ニルソンや秘書・メイ・パンにでさえ、マッカートニーの悪口を言うことは許さなかったという。またレノンが死去した1980年12月8日には、取材にて﹁人生のうちで2回、すばらしい選択をした。ポールとヨーコだ。それはとてもよい選択だった﹂[34]と述べている。他のミュージシャンへの影響
ロック界でもっとも影響力のあったミュージシャンの一人として知られる。レノンが影響を与えたミュージシャンとして、ビートルズの同僚マッカートニーとハリスン、ニール・ヤング、70年代に共演したエルトン・ジョン、デヴィッド・ボウイ、ハリー・ニルソン、クイーンらが挙げられる[35]。ほかにもラズベリーズ、ELO、10cc、デヴィッド・ピールら、影響を受けたミュージシャンは数知れない。 反ビートルズだったパンクスたちもレノンから刺激を受けている。ジョン・ライドンは﹁労働者階級の英雄﹂を聴いて﹁この怒りと悔しさは本物だと生まれて初めて感じた。ピストルズの方向性が決まった﹂と語っている。同曲をカバーしたグリーンデイのビリー・ジョー・アームストロングはジョンから﹁真実とは何かを学んだ﹂と述べている。クラッシュのジョー・ストラマーは﹁彼が遺したものの一つは、夢見ることを許されなかった人々に扉を開いたことだ。僕らは永遠に新たな天才が登場するたびにあの天才と比較し続けるだろう﹂と評している。 ジャクソン・ブラウンはローリングストーン誌によると﹁彼はつねに真実を語った﹂と賛辞を送っている[36]。U2の代表作の一つ﹁Sunday Bloody Sunday﹂はレノンの同名曲に因んだものである。Nowhere誌の中で、元ポリスのスティングは﹁我々のようなロックミュージシャンが何ごとかを言えるのはジョンのおかげである﹂と語ったと報じている。リアム・ギャラガーは﹁もしもジョン・レノンに会えたら舐め回してやる﹂と述べている。 1995年のレノンのトリビュート・アルバム﹃Working Class Hero﹄のライナーノーツはTimes誌の記事を紹介し、﹁聞き手と非常に親密で個人的な関係を築く希有なミュージシャン﹂﹁複雑なリズム、コード進行によってロックの限界を拡張し、その発展に貢献した﹂と評した。また、ヴォーカルの二重録音にヒントを得たエフェクターの一種のフランジャー開発への貢献、ボーカルの電気処理を導入したことでも知られる。日本との関わり
ビートルズとして来日した1966年以降、妻のオノと頻繁に訪日していた。アルバム﹃ジョンの魂﹄発表直後の1971年1月13日から21日に訪日した際、同作を日本語で﹁しぶいアルバム﹂と表現し、俳句の影響を示唆した[37]。軽井沢
音楽活動休止中の1977年から1979年には、家族と毎年訪日した。レノンは小野家の別荘があった長野県軽井沢を中心に過ごし、東京や京都、箱根などにも足を運んだ︵合計約9か月︵うち6ヶ月近くが軽井沢︶︶[38]。 軽井沢の町を自転車で走行したり、行きつけのパン屋や喫茶店、付近の景勝地に立ち寄った時の様子などは、写真に多く残されている。なかには森の中でギターの弾き語りをする様子まで収められている。これらの写真の多くは、当時レノン一家のプライベート・アシスタントであった写真家の西丸文也によるものであった。 古くから数多くの外国人や著名人を滞在客として迎え入れてきた軽井沢では、町でレノン一家を見かけるのもごく日常的な光景として受け入れられ、干渉されることもなかったため、その心地よい空間は彼らに安息を与えた。レノンはその気候風土から軽井沢を故郷の英国リヴァプール郊外と重ね合わせていたようで[39]、滞在中﹁この辺りに土地を買って軽井沢で暮らしたい﹂とも口にしていたという[40]。 軽井沢における定宿は万平ホテル旧館2階であった。ホテル併設のカフェにはレノン直伝のロイヤルミルクティーがあり、ホテル内の記念館にはレノンのサインを始め、欲しがったといわれるピアノなどが収められている[注釈 12]。またレノンは、1979年に訪れた喫茶店に眼鏡とたばこ、ライターを置き忘れている。店はそれらを保管していたが、レノンは1980年に死去した。 レノンがエルヴィス・プレスリーの訃報を知ったのも、軽井沢に滞在中のことであった。そのとき各国メディアの特派員が軽井沢に飛び、レノン夫妻を訪ねたが、2人は﹁コメントが流れることで日本での楽しい生活が壊される恐れがある﹂として言及を避けたと、当時のサンケイスポーツは紙面で報じている[注釈 13][41]。交友関係
日本人の知己としては、ビートルズとして訪日時にともに取材を受けた加山雄三︵初対面で、いきなりジョンが加山の後ろから目隠しをして加山を驚かせた︶、ニューヨークのレノン夫妻のもとで過ごした時期のある横尾忠則[42]、訪日時に食事をともにした内田裕也・樹木希林夫妻、シンコーミュージック︵当時︶の星加ルミ子らが挙げられる。また、音楽評論家の湯川れい子とレノン夫妻の交流は広く知られ、1980年12月5日にも、FM東京で取材を受けている[43]。写真家の篠山紀信は、アルバム﹃ダブル・ファンタジー﹄﹃ミルク・アンド・ハニー﹄のカバー写真を撮影している。なお、ビートルズ訪日時にメンバー全員とすき焼きを食べたエピソードで知られる加山雄三は、オノを通じてレノンと遠戚であることが後に判明している。 また、古美術商・木村東介の誘いで夫妻で歌舞伎隅田川を観劇し、終幕でレノンが感涙したという逸話もある。その際に歌舞伎役者中村歌右衛門の楽屋を訪れたことが縁となり、レノンは1975年に行われた歌右衛門の英国公演を支援している[42]。売り上げ
日本での売り上げで、シングルでは﹁マザー﹂﹁イマジン﹂﹁スターティング・オーヴァー﹂﹁ラヴ﹂が上位を占める。アルバムは﹁イマジン﹂のほかもオリコン総合チャートで﹁ジョンの魂﹂が5位、﹁マインド・ゲームズ﹂が6位、﹁ダブル・ファンタジー﹂が2位︵単日では1位︶、﹁ミルク・アンド・ハニー﹂が3位と洋楽アーティストの中でも有数の人気を誇っている。シングルとアルバムの合計で、オリコン誌では210万枚以上に達している。死亡事件
ディスコグラフィ
オリジナル・アルバム
●﹃未完成作品第1番 トゥー・ヴァージンズ﹄ - Unfinished Music No. 1: Two Virgins︵1968︶ ●﹃未完成作品第2番 ライフ・ウィズ・ザ・ライオンズ﹄ - Unfinished Music No. 2: Life with the Lions︵1969︶ ●﹃ウェディング・アルバム﹄ - Wedding Album︵1969︶ ●﹃ジョンの魂﹄ - John Lennon/Plastic Ono Band︵1970︶ ●﹃イマジン﹄ - Imagine︵1971︶ ●﹃サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ﹄ - Sometime In New York City (with Yoko Ono)︵1972︶ ●﹃マインド・ゲームス﹄ - Mind Games︵1973︶﹁邦題‥ヌートピア宣言﹂ ●﹃心の壁、愛の橋﹄ - Walls And Bridges︵1974︶ ●﹃ロックン・ロール﹄ - Rock 'n' Roll︵1975︶ ●﹃ダブル・ファンタジー﹄ - Double Fantasy (with Yoko Ono)︵1980︶ ●﹃ミルク・アンド・ハニー﹄ - Milk And Honey (with Yoko Ono)︵1984︶シングル
●﹁平和を我等に﹂ - "Give Peace A Chance"︵1969︶ ●﹁コールド・ターキー﹂ - "Cold Turkey"︵1969︶ ●﹁インスタント・カーマ﹂ - "Instant Karma (We All Shine On)"︵1970︶ ●﹁マザー﹂ - "Mother"︵1970︶ ●﹁パワー・トゥ・ザ・ピープル﹂ - "Power To The People"︵1971︶ ●﹁イマジン﹂ - "Imagine"︵1971︶ ●﹁ハッピー・クリスマス︵戦争は終った︶﹂ - "Happy Xmas"︵1971︶ ●﹁女は世界の奴隷か!﹂ - "Woman Is The Nigger Of The World"︵1972︶ ●﹁マインド・ゲームス﹂ - "Mind Games"︵1973︶ ●﹁真夜中を突っ走れ﹂ - "Whatever Gets You Thru The Night"︵1974︶ ●﹁夢の夢﹂ - "#9 Dream"︵1974︶ ●﹁スタンド・バイ・ミー﹂ - "Stand By Me"︵1975︶ ●"Ya Ya"︵1975︶ ●﹁スターティング・オーヴァー﹂ - "(Just Like) Starting Over"︵1980︶ ●﹁ウーマン﹂ - "Woman"︵1981︶ ●﹁ウォッチング・ザ・ホイールズ﹂ - "Watching The Wheels"︵1981︶ ●"I Saw Her Standing There"︵1981︶ ●﹁ラヴ﹂ - "Love"︵1982︶ ●﹁ノーバディ・トールド・ミー﹂ - "Nobody Told Me"︵1984︶ ●"Borrowed Time"︵1984︶ ●﹁アイム・ステッピング・アウト﹂ - "I'm Stepping Out"︵1984︶ ●﹁エヴリ・マン・ハズ・ア・ウーマン﹂ - "Every Man Has A Woman Who Loves Him"︵1984︶ ●﹁ジェラス・ガイ﹂ - "Jealous Guy"︵1985︶映像作品
フィクション
●ジョン・レノンの 僕の戦争 - How I Won The War︵1967年︶音楽ビデオ・クリップ集
●ジョン・レノン・ビデオ・コレクション - THE JOHN LENNON VIDEO COLLECTION ●レノン・レジェンド - LENNON LEGEND︵2003年︶ライヴ演奏
●スウィート・トロント - SWEET TORONTO ●ジョン・レノン・ライヴ - LIVE IN NEW YORK CITY︵1986年︶ ●ワン・トゥ・ワン - ONE TO ONEドキュメンタリー・記録
●イマジンージョン・レノンー - IMAGINE: JOHN LENNON︵1988年︶ ●ザ・ビートルズ・アンド・ビヨンド - THE BEATLES AND BEYOND ●ギミ・サム・トゥルース - GIMME SOME TRUTH︵2000年︶ ●JOHN&YOKO ザ・ディック・キャベット・ショー ●ジョン&ヨーコ イン マイク・ダグラス ショー - The Mike Douglas Show with John Lennon & Yoko Ono ●ジョン・レノン&オノ・ヨーコ イヤー・オブ・ピース ︵2002年︶ ●PEACE BED アメリカVSジョン・レノン - THE U.S. VS JOHN LENNON︵2006年︶ ●クラシック・アルバムズ メイキング・オブ・﹃ジョンの魂﹄ - ︵2008年︶ ●ジョン・レノン,ニューヨーク︵2010年︶ ●ジョン・レノン~音楽で世界を変えた男の真実~ - Looking for Lennon︵2018年︶[50]ジョン・レノンを題材とした作品
映画 ●﹃僕たちの時間﹄︵1991年︶ ●﹃バック・ビート﹄︵1994年︶ ●﹃ジョン・レノン/青春のビートルズ﹄︵2000年︶ ●﹃ジョン・レノンを撃った男﹄︵2007年︶ ●﹃チャプター27﹄︵2007年︶ ●﹃ノーウェアボーイ ひとりぼっちのあいつ﹄︵2009年︶ テレビドラマ ●﹃ジョン・レノンの魂〜アーティストへの脱皮 苦悩の時代〜﹄︵Lennon Naked︶︵2010年︶書籍
自著
●﹃絵本ジョン・レノンセンス﹄ 片岡義男、加藤直訳 晶文社 1975年12月 のち筑摩書房︵ちくま文庫︶2011年 のち晶文社 新版 2013年11月 - In His Own Write︵1964年︶ ●﹃らりるれレノン ジョン・レノン・ナンセンス作品集﹄ 佐藤良明訳 筑摩書房 2002年12月 - A Spaniard in the Works︵1965年︶ ●﹃空に書く ジョン・レノン自伝&作品集﹄森田義信訳 筑摩書房 2002年12月 - Skywriting by Word of Mouth︵1986年︶ ●﹃Aiジョン・レノンが見た日本﹄︵序‥オノ・ヨーコ︶筑摩書房︵ちくま文庫︶2001年12月 - Ai: Japan Through John Lennon's Eyes: A Personal Sketchbook︵1992年︶ ●﹃リアル・ラヴ ショーンのために描いた絵﹄︵序‥オノ・ヨーコ︶徳間書店 2000年5月 - Real Love: The Drawings for Sean︵1999年︶ ●﹃ザ・ビートルズ・アンソロジー﹄ザ・ビートルズ・クラブ、島田陽子訳 リットーミュージック 2000年9月 - The Beatles Anthology︵2000年︶インタビュー
●ヤーン・ウェナー著 片岡義男訳﹃ビートルズ革命﹄ 草思社 1972年4月 のち改題﹃回想するジョン・レノン : ジョン・レノンの告白﹄新版 1974年6月 のち改題﹃レノン・リメンバーズ﹄︵序‥オノ・ヨーコ︶同社 2001年7月 - Lennon Remembers: The Full Rolling Stone Interviews from 1970︵2000年︶ ●アンディ・ピーブルズ著 北山修訳﹃All that John Lennon﹄中央公論新社 1981年2月 のち改題文庫版﹃ジョン・レノン ラスト・インタビュー﹄同社︵中公文庫︶2001年11月 - Lennon Tapes Paperback︵1981年︶ ●﹃ジョン・レノン PLAYBOYインタビュー﹄PLAYBOY編集部編 集英社 1981年3月 のち全貌版 デービッド・シェフ著 石田泰子訳﹃ジョンとヨーコ ラストインタビュー : Love & peace﹄同社 1990年11月 - The Playboy Interviews With John Lennon and Yoko Ono︵1981年︶ ●﹃ジョン・レノン 音楽と思想を語る 精選インタビュー1964-1980﹄ ジェフ・バーガー編 DU BOOKS 2018年3月 Lennon on Lennon: Conversations with John Lennon︵2016年︶第三者による伝記
●シンシア・レノン著 江口大行、シャーロット・デューク共訳﹃素顔のジョン・レノン : 瓦解へのプレリュード﹄ シンコーミュージック・エンタテイメント 1981年4月 - A Twist of Lennon︵1980年︶ ●レイ・コールマン著 岡山徹訳﹃ジョン・レノン﹄ 音楽之友社 1986年8月 - John Winston Lennon Volume 1 1940-66︵1984年︶ ●トニー・ブラッドマン著 坂本真理訳﹃ジョン・レノン : 愛こそはすべて﹄︵解説‥片岡義男︶佑学社 1987年11月 ●ケヴィン・ホウレット、マーク・ルイソン著 中江昌彦訳 ﹃ジョン・レノン IN MY LIFE﹄ 日本放送出版協会 1991年11月 ●マイケル・ホワイト著 乾侑美子訳﹃ジョン・レノン ﹄ 偕成社︵伝記 世界の作曲家12︶1999年4月 ●レイ・コールマン著 岡山徹訳﹃ジョン・レノン﹄ 音楽之友社 2002年5月 - Lennon: The Definitive Biography : Anniversary Edition︵2000年︶ ●ジェフリー・ジュリアーノ著 遠藤梓訳﹃ジョン・レノン : アメリカでの日々﹄ WAVE出版 2003年11月 - Lennon in America: 1971-1980, Based in Part on the Lost Lennon Diaries︵2001年︶ ●シンシア・レノン著 吉野由樹訳﹃ジョン・レノンに恋して﹄ 河出書房新社 2007年3月 - JOHN︵2005年︶ ●メイ・パン著 山川真理訳﹃ジョン・レノン ロスト・ウィークエンド *: ﹃Instamatic Karma﹄ 河出書房新社 2008年11月 ●ジョナサン・コット著 栩木玲子訳﹃忘れがたき日々 : ジョン・レノン、オノ・ヨーコと過ごして﹄ 岩波書店 2015年12月主な使用楽器
アコースティック・ギター
ギブソン・J-200 アルバム﹃ザ・ビートルズ﹄のレコーディング・セッションからメインに使われた。ジョージも使用しており、ジョージが所有していたものを借りたという説があるが、ジョンとジョージがこのギターを同時に持っている写真が確認されている。 フラマス・12弦ギター 映画﹃ヘルプ!4人はアイドル﹄の﹁悲しみはぶっとばせ﹂演奏シーンにも登場したギター。 マーティン・D-28 2台の所有が写真で確認され、1台目はポールと同時期のもので67年製、もう1台は解散後に入手したものであろう1950年代中期から後期のものである。エレクトリック・ギター
ヘフナー・クラブ40︵Hofner Club40︶ レノンが初めて入手したエレキギター。1959年製。ショートスケール。1959年にレノンが伯母のミミと一緒にリバプールのフランク・ヘッシー楽器店に行き、分割払いで購入した。2台目のリッケンバッカー・325を手に入れると、レノンはクラブ40をしばらくマッカートニーに貸したあとに売却した。 リッケンバッカー・325︵Rickenbacker 325︶︵1本目︶ レノンが初めて入手したリッケンバッカーのギター。1958年製。ショートスケール。元々、購入当時はナチュラルカラー︵リッケンバッカー社でのカラー・ネームは﹁メイプル・グロー﹂︶で、コフマン・ヴァイブローラがつけられていた︵のちにビグスビーB5・トレモロユニットに交換︶。トゥーツ・シールマンスをハンブルク巡業で見て影響されて購入した。1962年後半には黒色の塗装を施し、1964年までメインギターとして使用した。その後2本目のリッケンバッカー・325を導入してから、一度も表舞台へ出ることがなかったため、﹁エド・サリヴァン・ショー﹂の収録現場で盗難にあったとの説が長い間語られていた。しかし近年になり、レノンが保管し続けていたことが判明。1970年代初頭に黒から、元のナチュラル塗装へ戻すリペアが施されていた。ピックガードもオリジナルは1964年時点ですでに損傷していたためか、白いアクリル製のものに交換されていた。この状態で、2000年10月9日から2010年9月30日まで、さいたまスーパーアリーナ内に存在したジョン・レノン・ミュージアムにて展示されていた。 また、2002年にはリッケンバッカー社から同作の仕様を再現した﹁リッケンバッカー325C58﹂︵Cシリーズ︶が発売された。当時の仕様を再現するため、日本でビートルズ使用楽器をおもに扱っているギター・ショップ﹁with﹂で修復を担当する大金直樹に依頼。大金がジョン・レノン・ミュージアムに何度か通い、その調査のメモを参考に再現された。現在は生産を終了している。 リッケンバッカー・325︵Rickenbacker 325︶︵2本目︶ 2本目のリッケンバッカーのギター。1964年のアメリカツアー中にレノンが入手した。当初はハリスンの360-12と同様、赤色系のぼかし︵リッケンバッカー社でのカラー・ネームは﹁ファイア・グロー﹂︶だったが、レノンが黒色︵ジェット・グロー︶を希望したため、急いでリフィニッシュされた後、マイアミでの﹁エド・サリヴァン・ショー﹂出演時より使用した。1本目の325よりもボディは薄くなっており、台形のブリッジにトレモロアームがついているなど、細かい点で仕様が異なる。ネックは、3ピース・メープル・ネック。1964年のクリスマスショーの最中にレノンが落としてしまったためネックが破損する。1965年末までメインギターとして使用された。1967年の﹃サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド﹄の録音中にスタジオ内に置かれている写真が残されているものの、実際に使用されたかどうかは不明。 1本目のリッケンバッカー・325とともに、ジョン・レノン・ミュージアムに展示されていた。裏から見ると、ネック裏の傷がはっきり見て取れる。また、ビートルズの1965年のイギリス公演のセットリスト︵曲名は略記してある︶が書かれた小さな紙が、向かって左のカッタウェイ側面にテープで貼られたままになっている。 リッケンバッカー・325︵Rickenbacker 325︶︵3本目︶ 1965年、マッカートニーに贈られた4001ベースと同時に、リッケンバッカー社よりイギリス代理店のローズ・モーリス社を通じて提供されたもの。当時のヨーロッパ市場での市販品で、欧州でのモデル名は1996となっている。仕様は基本的に2本目に準じるが、カラーが4001ベースやハリスンの360-12と同じファイア・グロー︵チェリー・サンバースト︶で、ボディの左側にfホールが開けられている。1965年のイギリス公演で2本目と併用された。使われなくなった1966年以降、スターに譲渡された。 リッケンバッカー・325-12︵Rickenbacker 325-12︶ ジョンが、リッケンバッカー社に特注した、325の12弦タイプ。1964年製ブラックカラー︵リッケンバッカー社でのカラー・ネームは﹁ジェット・グロー﹂。 本来、325など末尾に5がつくモデルはトレモロ・アームつきだが、このギターが製作された時期はまだそれが徹底されておらず、このギターもアームがついていないにもかかわらず325-12に分類されている。1964年より、末尾に5がつくモデルはアームつきであることが徹底されたため、320-12と改番された。 現在はオノが所有。 ギブソン・J-160E︵1本目︶ 1962年9月にジョージと一緒に購入したエレクトリック・ギター。ボディ・カラーはサンバースト。ボディ・シェイプはJ-45と同じだが、ネックのジョイント位置が異なり、ボディ内部の構造も異なる。J-45がXブレイシングに対してJ-160Eがラダーブレイシングとなる。ヘッドシェイブは大型でインレイも入りJ-45とはまったく違う、糸巻きもJ-45が三連に対し独立型になる、糸巻のツマミ部分もコブが2つあるタイプ。 ボディ・トップはハウリング防止のため、合板を使用している。そのため生音で鳴らした場合、通常のアコースティック・ギターより鳴りが抑えられ音量も小さいが、J-160Eでしか出せない独特の生音であり、ビートルズ・サウンドの大きな構成要素となっている。 カヴァーのないP-90ピック・アップがフィンガーボードの付け根の所に付けられており、そこから音を拾ってアンプなどへ出力する。この音もまた初期ビートルズ・サウンドを生み出している要素である。1963年末に紛失。当時は盗難説と破損説があり、レノンはこれが盗まれたと発言していたが、ハリスンは﹁運搬中のトラックの荷台からケースごと落下しバラバラになった﹂と発言していた。実際には盗難されており、アメリカ合衆国カリフォルニア州在住の男性が中古店に転売されていたこのギターを購入していた。2015年にこのギターは発見され、ビートルズ専門家の鑑定の結果、レノンが使用していた現物であると正式に認定された。その後オークションにかけられ、約3億円で落札された。最近の調査で、現在ハリスンの遺族が保管するハリスンのJ-160Eは、元々購入時にはレノンのものであったことがシリアル・ナンバーから判明した。この2本はまったく同じ仕様であったため、いつの間にか互いのギターを取り違えて使っていたようである。 ギブソン・J-160E︵2本目︶ 2本目のJ-160Eは1本目とは若干仕様が異なる。大きな違いはサウンドホール周りのリング、1台目がワンリングに対して2台目はツーリング、ブリッジも1台目が木製に対して2台目が黒いプラスチック製になる。 レノンが生涯愛したギターである。1966年にはピック・アップがサウンド・ホール後方に移設される。1967年には波形のサイケデリック・ペイントが施されるが、1968年にはエピフォン・カジノらとともに塗装を剥がされ、ピック・アップの位置も復元される。ピック・ガードも形状の異なる新たなものが取りつけられた。1969年のベッド・インのときには、ボディにレノンとオノの似顔絵イラストが描かれていた。﹁ジョン・レノン・ミュージアム﹂にそのときの状態のレプリカが展示されていた。実物はアメリカ合衆国オハイオ州クリーヴランドにあるロックの殿堂に展示されている。 フェンダー・ストラトキャスター ボディ・カラーは、ソニック・ブルー。主に﹃ラバー・ソウル﹄の録音作業で、ヴォックスAC30に繋いで使用された。映画﹃イマジン﹄など、アルバム﹃イマジン﹄制作風景を納めたフィルムにおいて、ハリスンが使用している、ネックを50年代製のメイプル・フィンガーボードのものに交換されたモデル︵さらにリフィニッシュして﹁コンサート・フォー・バングラデシュ﹂で使用︶のボディとアッセンブリが、それと同一品とする説がある。1980年のフォト・セッションで、当時の新品であった赤いザ・ストラトを弾いているものがある。 エピフォン・カジノ 以前から同器を使用していたマッカートニーに勧められ、ハリスンとともに1965年に購入。ハリスンのものとは色合いや仕様︵トレモロアームの有無など︶で若干の違いがある。同年の﹃ラバー・ソウル﹄録音作業において使用し始め、1966年からはハリスンと共に公演でのメインギターとしても用いた。日本公演でも本器が使用された。 元々のボディ・カラーは黄色味がかったサンバーストであったが、1967年の﹁サージェント・ペパーズ〜﹂の録音中に、ボディ裏面を白く塗装している。同年の﹁愛こそはすべて﹂を披露した衛星中継リハーサルにて、ハリスンがこのギターを使用している︵本番では自身のストラトキャスターを使用︶。翌1968年の﹁ヘイ・ブルドッグ﹂録音直後にボディのサンバースト塗装をはがして木の地肌を露出させたナチュラル仕上げにする。このころビートルズのメンバーは、ギターの塗装をはがすことによる音質の変化に期待していたようで、ハリスンのカジノとマッカートニーのリッケンバッカー4001Sも塗装をはがしナチュラル仕上げを施している。同時に、リアピックアップのヴォリューム・ノブを、標準のゴールドからブラックに差し替えた。﹁ゲット・バック・セッション﹂および﹁ルーフトップ・コンサート﹂でも使用した。1971年の﹁イマジン﹂完成後にレノンはレスポールを使用し始め、その後は本器を大切に保管していた。 ブリッジ・サドルは現行の仕様とは異なり、プラスティック樹脂を使用している。そのため、音が若干柔らかめになっている。 ジョン・レノン・ミュージアムに、ブラックノブとともに展示されていた。 ギブソン・レスポール・ジュニア 1971年、ニューヨークに移住してから入手。当時レノンは、ボブ・マーリーをはじめとしたレゲエに心酔しており、同じモデルを使用していたマーリーにならって本器を入手した。ギブソンJ-160Eやエピフォン・カジノと同じくP-90ピック・アップを搭載しており、レノンのギター・サウンドにおける指向が窺える。フロントに、ギブソンES-150用のオールドタイプのピック・アップ︵通称チャーリー・クリスチャンPU︶を追加、PUセレクターの増設、ブリッジとテイルピースの交換を施し、より実用性を高めている。カラーは、当初サンバーストだったが、チェリー・レッドにリフィニッシュされた。アルバム﹃サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ﹄録音や、1972年のTV番組﹃マイク・ダグラス・ショー﹄出演時に使用されたが、1972年8月30日にニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで行われた慈善公演﹁ワン・トゥ・ワン﹂での使用がもっとも有名である。 ジョン・レノン・ミュージアムに展示されていた。 また、実物を再現したシグネイチャー・モデルが発売されており、福山雅治やASIAN KUNG-FU GENERATIONの後藤正文らが愛用している。アンプ
ヴォックス・AC30︵VOX AC30︶ ビートルズ・デビュー前から初期まで︵中期ではフェンダーなどのアンプと併用︶の録音においてもっともよく使用されたアンプ。真空管を使用しているため独特な粘りのある音で、個々のギターの特徴と混じり合って音を出す。公演でも使用されることはあったが出力が低いため、当時のSR︵PA︶システムでは巨大な会場での演奏には向かなかった。 ヴォックス・AC50︵VOX AC50︶ ヴォックス・スーパー・ビートル︵VOX SUPER BEATLE、VOX AC100、VOX AC200︶ 公演においてほとんど演奏が聞こえないという問題に対処するため、出力の低いAC30などのアンプに代わって、ビートルズの公演のためにヴォックスが開発した大型で高出力のスタックアンプ。100Wのものと200Wのものがあり真空管を使用し粘りのある音が特徴である。ヴォリュームを最高にして使用しているようで、その分、アンプの持つ音より箱鳴りの音の方が大きく聞こえる。1966年の日本公演の1日目と2回目公演でAC100を使用。現在は生産停止。 フェンダー・ツインリヴァーブ おもにビートルズ中期以降に使用。中期ではヴォックス社との契約上の理由から、公演や映像では登場しないが、録音ではフェンダー社製アンプも使用されていた。ビートルズ活動末期に撮影された映画﹃レット・イット・ビー﹄にて使用されている様子を確認できる。レノンは、フェンダー・ベースVIを接続して演奏していた。その他
ホーナー・ブルース・ハープ︵M.HOHNER BLUES HARP︶ いくつかの書籍などにホーナー・マリンバンドと書かれていることがあるが、レノンが所有していたのはブルース・ハープ。﹁ブルース・ハープ﹂は10穴ハーモニカの総称ではなく、ホーナー社の10穴ハーモニカの機種名のひとつ。 レノン50回目の誕生記念に愛用品の展示会が行われたとき、なぜかマリンバンドと紹介されていたが、そこにあったのは3本の﹁M.HOHNER BLUES HARP﹂と刻印されたハープで﹁MARINE BAND﹂と刻印されたハープではなかった。同カタログ本にもブルース・ハープの写真にマリンバンドと間違いで紹介されている。初期によく使っていたCのブルースハープは、ハンブルクの楽器店で万引きしたもの。 ホーナー・クロモニカ︵M.HOHNER Chromonica 具体的なモデル名は不詳︶ ﹁ラヴ・ミードゥ﹂や﹁プリーズ・プリーズ・ミー﹂においてはブルース・ハープではなくホーナー社製のクロマチック・ハーモニカを使用している。これは、ブルース・ハープなどの10穴ハーモニカでは、出すのに高度な技術を必要とする音がフレーズ中に含まれるため、すべての音階を一本でカヴァーできるクロマチック・ハーモニカを曲によって使用していたものと思われる。レノン自身もBBC出演時。司会者とのやり取りのなかで、10穴ハーモニカを﹁ハープ﹂、クロマチック・ハーモニカを﹁ハーモニカ﹂と呼んで区別している。 ●ジョン・レノン使用ギター︵本人モデルと仕様が似たもの︶レノンが最初に入手したギター(叔母のミミに買ってもらった)で、マッカートニーと出会った日に使用されたギターである。写真はレノンのものとほぼ同一の仕様だがテールピースの形状が異なる。現物はジョン・レノン・ミュージアムにて展示
購入時の325はメイプル・グローだが、後に黒く塗った。
64年製(ジョン使用の2台目)の復刻。
1964年製
塗装を剥がす前の仕様に近く、ピックガードのEマークも現行のものと異なり、レノンのものと同様にフラットなタイプ。
レヴォリューションモデル。塗装を剥がした状態のレプリカモデル。
写真のはその仕様を復刻したモデル。
脚注
注釈
出典
外部リンク
- Official John Lennon website, courtesy of Yoko Ono and EMI/Capitol Records
- ジョン・レノン - UNIVERSAL MUSIC JAPAN
- ジョン・レノン (johnlennon) - Facebook
- ジョン・レノン - Discogs
- 命日コム ジョンレノンのページ - ウェイバックマシン(2013年6月15日アーカイブ分)
- ビートルズのメンバー
- ジョン・レノン
- 小野英二郎家
- ヒッピー・ムーブメント
- イングランドのシンガーソングライター
- イングランドのロック歌手
- ロックンロール・ミュージシャン
- イギリスのロック・ギタリスト
- イングランドのピアニスト
- リズムギタリスト
- ロックの殿堂入りの人物
- グラミー賞受賞者
- ブリット・アワード受賞者
- 大英帝国勲章受章者
- 反戦運動家
- 平和運動家
- イングランドの平和主義者
- アメリカ合衆国の平和主義者
- アメリカ合衆国のフェミニスト
- フェミニスト・ミュージシャン
- イングランドのフェミニスト
- 男性のフェミニスト
- 殺人被害者
- 在アメリカ合衆国イギリス人
- アイルランド系イギリス人
- スコットランド系イングランド人
- リヴァプール出身の人物
- 1940年生
- 1980年没