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{{基礎情報 軍人 |
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| 氏名 = 辻 政信 |
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| 没年月日 = [[1961年]]以降消息不明 |
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| 画像説明 = 辻 政信参謀(中佐の頃) |
| 画像説明 = 辻 政信参謀(中佐の頃) |
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| 渾名 = 「作戦の神様」<br />「第三次世界大戦さえ起こしかねない男」 |
| 渾名 = 「作戦の神様」<br />「[[第三次世界大戦]]さえ起こしかねない男」 |
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| 死没地 = |
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| 所属組織 = {{IJARMY}} |
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| 軍歴 = [[1924年]] - [[1945年]] |
| 軍歴 = [[1924年]] - [[1945年]] |
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| 最終階級 = [[ファイル:帝國陸軍の階級―襟章―大佐.svg|40px]] [[陸軍大佐]] |
| 最終階級 = [[ファイル:帝國陸軍の階級―襟章―大佐.svg|40px]] [[大佐|陸軍大佐]] |
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| 除隊後 = [[著述業]]<br />[[衆議院議員]]<br />[[参議院議員]] |
| 除隊後 = [[著述業]]<br />[[衆議院|衆議院議員]]<br />[[参議院|参議院議員]] |
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| 墓所 = |
| 墓所 = |
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{{政治家 |
{{政治家 |
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|人名 = 辻 政信 |
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|各国語表記 = つじ まさのぶ |
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|国略称 = {{JPN}} |
|国略称 = {{JPN}} |
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|出身校 = [[陸軍大学校]]卒業 |
|出身校 = [[陸軍大学校]]卒業 |
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|前職 = 陸軍軍人([[大本営]]陸軍部参謀) |
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|現職 = |
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|所属政党 = ([[自由党 (日本 1950-1955)|自由党]]→)<br />([[自由民主党 (日本)|自由民主党]]→)<br />([[無所属クラブ]]→)<br />([[第二院クラブ]]→)<br />無所属 |
|所属政党 = ([[自由党 (日本 1950-1955)|自由党]]→)<br />([[自由民主党 (日本)|自由民主党]]→)<br />([[無所属クラブ]]→)<br />([[第二院クラブ]]→)<br />無所属 |
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|国旗 = JPN |
|国旗 = JPN |
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|職名 = [[参議院議員]] |
|職名 = [[参議院|参議院議員]] |
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|選挙区 = [[全国区]] |
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|国旗2 = JPN |
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'''辻 政信'''︵つじ まさのぶ、[[1902年]]︵[[明治]]35年︶[[10月11日]] - [[1961年]]︵[[昭和]]36年︶以降消息不明︶は、[[日本]]の[[陸軍軍人]]、[[政治家]]。[[陸軍士官学校 (日本)|陸士]]36期首席・[[陸軍大学校|陸大]]43期恩賜。軍人としての最終[[軍隊の階級|階級]]は[[陸軍大佐]]。
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'''辻 政信'''︵つじ まさのぶ、[[1902年]]︵[[明治]]35年︶[[10月11日]] - [[1961年]]︵[[昭和]]36年︶以降消息不明︶は、[[日本]]の[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[軍人]]、[[政治家]]。[[陸軍士官学校 (日本)|陸士]]36期首席・[[陸軍大学校|陸大]]43期[[恩賜の軍刀|恩賜]]。軍人としての最終[[軍隊の階級|階級]]は[[大佐|陸軍大佐]]。
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[[ノモンハン事件]]、[[太平洋戦争]]中の[[マレー作戦]]、[[ポートモレスビー作戦]]、[[ガダルカナル島の戦い]]などを[[参謀]]として指導した。 |
[[ノモンハン事件]]、[[太平洋戦争]]中の[[マレー作戦]]、[[ポートモレスビー作戦]]、[[ガダルカナル島の戦い]]などを[[参謀]]として指導した。 |
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[[作戦|軍事作戦]]指導では「作戦の神様」「軍の神様」と讃えられた<ref name="高松宮四206">[[#高松宮四|高松宮日記4巻]]、206-207頁(1942年4月6日記事)</ref>。 |
[[作戦|軍事作戦]]指導では「作戦の神様」「軍の神様」と当時においては讃えられていた<ref name="高松宮四206">[[#高松宮四|高松宮日記4巻]]、206-207頁(1942年4月6日記事)</ref>。 |
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その一方で、非人道的残虐事件を巻き起こした指揮系統を無視した現場での独善的な指導<ref>[[シンガポール華僑粛清事件]]、[[バターン死の行進]]。</ref>、部下への責任押し付け、自決の強要、戦後の[[戦争犯罪|戦犯]]追及からの逃亡などについて批判がある<ref name=":0">{{Cite book |和書 |last= |first= |author= |
その一方で、非人道的残虐事件を巻き起こした指揮系統を無視した現場での独善的な指導<ref>[[シンガポール華僑粛清事件]]、[[バターン死の行進]]。</ref>、部下への責任押し付け、自決の強要、戦後の[[戦争犯罪|戦犯]]追及からの逃亡などについて批判がある<ref name=":0">{{Cite book |和書 |last= |first= |author=半藤一利|authorlink=半藤一利|coauthors= |year=2007|title=昭和陸海軍の失敗―彼らはなぜ国家を破滅の淵に追いやったのか |publisher=[[文藝春秋]] |pages={{要ページ番号|date=2015年9月}} |id= |isbn= 4166606107 }}</ref><ref>{{Cite book |和書 |author=生出寿|authorlink=生出寿 |year=1993 |title=悪魔的作戦参謀辻政信 稀代の風雲児の罪と罰 |publisher=[[潮書房光人新社|光人社]] |series=光人社NF文庫 |pages={{要ページ番号|date=2015年9月}} |isbn=4-7698-2029-1}}</ref>。
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敗戦後は数年間を国内外で潜伏したのち戦記を上梓し、ベストセラーとなった。政治家に転身し[[衆議院|衆議院議員]](4期)、[[参議院|参議院議員]](1期)を歴任した。参議院議員在任中の[[1961年]](昭和36年)4月に視察先の[[ラオス]]の[[ジャール平原]]で行方不明となり、[[1968年]](昭和43年)[[7月20日]]に死亡宣告がなされた。 |
敗戦後は数年間を国内外で潜伏したのち戦記を上梓し、ベストセラーとなった。反共、反米、自衛独立を唱える政治団体の自衛同盟を結成後に、政治家に転身し[[衆議院|衆議院議員]]︵4期︶、[[参議院|参議院議員]]︵1期︶を歴任した。参議院議員在任中の[[1961年]]︵昭和36年︶4月に視察先の[[ラオス]]の[[ジャール平原]]で行方不明となり、[[1968年]]︵昭和43年︶[[7月20日]]に死亡宣告がなされた。
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== 生涯 == |
== 生涯 == |
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=== 幼年学校、士官学校と陸軍大学校 === |
=== 幼年学校、士官学校と陸軍大学校 === |
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[[石川県]][[江沼郡]][[東谷奥村]]今立(現在の[[加賀市]][[山中温泉]])で4人兄弟の3男として生まれた。父の亀吉は炭焼きで生計を立てており、集落の中でも比較的裕福な家庭であった。[[加賀市立山中中学校|山中高等小学校]]から苦学の末、[[1918年]]([[大正]]7年)、[[名古屋陸軍地方幼年学校]]に入学し、首席で卒業した。[[陸軍中央幼年学校]]では[[西竹一]]らが同期にあたる。陸幼を経て[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]] (陸士)(36期) に入学し、予科二年間を終了後には[[士官候補生]]として[[金沢市|金沢]]を[[衛戍]]地とする[[歩兵第7連隊]](辻の原隊となる)に6カ月配属され、その後本科へと進み[[1924年]](大正13年)7月に陸士を卒業した。幼年学校と同様に士官学校も首席で卒業しており、[[銀時計#恩賜の銀時計|恩賜の銀時計]]を拝受している。[[見習士官]]として歩兵第7連隊に戻り、3カ月後に[[歩兵]][[少尉]]に任官した。[[1927年]]([[昭和]]2年)10月に[[中尉]]に進級し、[[1928年]](昭和3年)に[[陸軍大学校]](43期)に入学、[[1931年]](昭和6年)11月に卒業した。陸大卒業席次は3位(首席は[[天野正一]]、次席は[[島村矩康]])であり、[[恩賜の軍刀]]を拝受した。陸大での同期には[[秩父宮雍仁親王]]がいる。 |
[[石川県]][[江沼郡]][[東谷奥村]]今立︵現在の[[加賀市]][[山中温泉]]︶で4人兄弟の3男として生まれた。父の亀吉は炭焼きで生計を立てており、集落の中でも比較的裕福な家庭であった。[[加賀市立山中中学校|山中高等小学校]]から苦学の末、[[1918年]]︵[[大正]]7年︶、[[名古屋陸軍地方幼年学校]]に50人中、24位で入学<ref>前田 啓介﹁第2章 炭焼きの子に生まれて﹂[https://www.audible.co.jp/pd/B0D1GCY8ZK ﹃辻政信の真実 失踪60年﹄]小学館、17分</ref>し、首席で卒業した。[[陸軍中央幼年学校]]では[[西竹一]]らが同期にあたる。陸幼を経て[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]] ︵陸士︶︵36期︶ に入学し、予科二年間を終了後には[[士官候補生]]として[[金沢市|金沢]]を[[衛戍]]地とする[[歩兵第7連隊]]︵辻の原隊となる︶に6カ月配属され、その後本科へと進み[[1924年]]︵大正13年︶7月に陸士を卒業した。幼年学校と同様に士官学校も首席で卒業しており、[[銀時計#恩賜の銀時計|恩賜の銀時計]]を拝受している。[[見習士官]]として歩兵第7連隊に戻り、3カ月後に[[歩兵]][[少尉]]に任官した。[[1927年]]︵[[昭和]]2年︶10月に[[中尉]]に進級し、[[1928年]]︵昭和3年︶に[[陸軍大学校]]︵43期︶に入学、[[1931年]]︵昭和6年︶11月に卒業した。陸大卒業席次は3位︵首席は[[天野正一]]、次席は[[島村矩康]]︶であり、[[恩賜の軍刀]]を拝受した。陸大での同期には[[秩父宮雍仁親王]]がいる。
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辻が歩兵第7連隊に戻ってからしばらくして、[[中華民国]]の[[上海市|上海]]において[[第一次上海事変]]が発生した。歩兵第7連隊を隷下に置く[[第9師団 (日本軍)|第9師団]]も動員され、辻は第7連隊第二中隊長として上海に出征、負傷。翌年5月に[[上海停戦協定]]が調印され部隊が日本に帰還した後には、師団を代表して実戦の様子を[[偕行社]]で演説し、新聞でも辻の名が報じられている。同年9月には[[参謀本部]]付となり、編成班で勤務した<ref name=":1">{{Harvnb|秦|2005|p=|pp=103-104|loc=第1部 主要陸海軍人の履歴-陸軍-辻政信}}</ref>。 |
辻が歩兵第7連隊に戻ってからしばらくして、[[中華民国]]の[[上海市|上海]]において[[第一次上海事変]]が発生した。歩兵第7連隊を隷下に置く[[第9師団 (日本軍)|第9師団]]も動員され、辻は第7連隊第二中隊長として上海に出征、負傷。翌年5月に[[上海停戦協定]]が調印され部隊が日本に帰還した後には、師団を代表して実戦の様子を[[偕行社]]で演説し、新聞でも辻の名が報じられている。同年9月には[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]付となり、編成班で勤務した<ref name=":1">{{Harvnb|秦|2005|p=|pp=103-104|loc=第1部 主要陸海軍人の履歴-陸軍-辻政信}}</ref>。
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=== 参謀本部への転出と陸軍士官学校事件 === |
=== 参謀本部への転出と陸軍士官学校事件 === |
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{{Main|陸軍士官学校事件}} |
{{Main|陸軍士官学校事件}} |
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編成および[[動員]]を担当する第一課において当時課長を務めていたのは[[東條英機]]大佐であった。辻は[[1933年]]︵昭和8年︶8月に大尉に進級し、12月に参謀本部部員となり、第一部第三課に転じた<ref name=":1" />。[[1934年]]9月になると、士官学校の幹事︵副校長︶に転じていた東條の誘いを受けて陸士本科の生徒隊中隊長に任命された。この人事は栄転である[[モスクワ]][[駐在武官]]職を断っての決断であり、また老大尉が多い生徒隊中隊長を陸大卒のいわゆる天保銭組が務めるのは前例がなかった。澄宮︵後の[[三笠宮崇仁親王]]︶が陸士本科に入学する予定であったことが関係しているとみられる。実際に澄宮は辻が中隊長を務める第一中隊に配属された。辻は演習で自ら生徒とともに泥まみれになるなど指導に力を入れたため生徒間での人気は非常に高かった<ref>{{Cite book |和書 |last= |first= |author= |
編成および[[動員]]を担当する第一課において当時課長を務めていたのは[[東條英機]]大佐であった。辻は[[1933年]]︵昭和8年︶8月に大尉に進級し、12月に参謀本部部員となり、第一部第三課に転じた<ref name=":1" />。[[1934年]]9月になると、士官学校の幹事︵副校長︶に転じていた東條の誘いを受けて陸士本科の生徒隊中隊長に任命された。この人事は栄転である[[モスクワ]][[駐在武官]]職を断っての決断であり、また老大尉が多い生徒隊中隊長を陸大卒のいわゆる天保銭組が務めるのは前例がなかった。澄宮︵後の[[三笠宮崇仁親王]]︶が陸士本科に入学する予定であったことが関係しているとみられる。実際に澄宮は辻が中隊長を務める第一中隊に配属された。辻は演習で自ら生徒とともに泥まみれになるなど指導に力を入れたため生徒間での人気は非常に高かった<ref>{{Cite book |和書 |last= |first= |author=高宮太平|authorlink=高宮太平 |coauthors= |year= 2010|title= 軍国太平記|publisher=[[中央公論]] |page= |id= |isbn=4122051118 |quote= }}{{要ページ番号|date=2015年9月}}</ref>。
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当時の士官学校は1932年(昭和7年)に発生した[[五・一五事件]]の影響もあって、軍部による国家革新を目指す[[国家社会主義]]思想が広まっていた。そのリーダー格であった第二中隊の[[武藤与一]]候補生は、[[皇道派]]に属する陸大の[[村中孝次]]大尉や[[磯部浅一]]一等主計とも接触しており、さらに陸士第一中隊の[[佐藤勝朗]]候補生にも声をかけた。佐藤から報告を受けた辻は生徒隊長の[[北野憲造]]に報告した上で、佐藤には内偵を命じた。佐藤、武藤と数名の候補生は磯部浅一、[[西田税]]、村中孝次らを訪問し、しばらくして村中大尉らは青年将校と士官学校生徒による[[クーデター]]計画を打ち明けた。この情報を得た辻は参謀本部の[[片倉衷]]少佐および[[憲兵 (日本軍)|憲兵司令部]]の[[塚本誠]]大尉に通報した。さらに辻は塚本とともに陸軍次官・[[橋本虎之助]]中将の官舎へとおもむき、容疑者の摘発を強く主張した。 |
当時の士官学校は1932年(昭和7年)に発生した[[五・一五事件]]の影響もあって、軍部による国家革新を目指す[[国家社会主義]]思想が広まっていた。そのリーダー格であった第二中隊の[[武藤与一]]候補生は、[[皇道派]]に属する陸大の[[村中孝次]]大尉や[[磯部浅一]]一等主計とも接触しており、さらに陸士第一中隊の[[佐藤勝朗]]候補生にも声をかけた。佐藤から報告を受けた辻は生徒隊長の[[北野憲造]]に報告した上で、佐藤には内偵を命じた。佐藤、武藤と数名の候補生は磯部浅一、[[西田税]]、村中孝次らを訪問し、しばらくして村中大尉らは青年将校と士官学校生徒による[[クーデター]]計画を打ち明けた。この情報を得た辻は参謀本部の[[片倉衷]]少佐および[[憲兵 (日本軍)|憲兵司令部]]の[[塚本誠]]大尉に通報した。さらに辻は塚本とともに陸軍次官・[[橋本虎之助]]中将の官舎へとおもむき、容疑者の摘発を強く主張した。 |
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憲兵隊は村中孝次大尉、磯部浅一一等主計、[[片岡太郎]]中尉らを逮捕し、佐藤、武藤候補生らも[[軍法会議]]にかけられることになった。辻がスパイとして利用した佐藤を含め、陸士生徒5名が[[退学|退校]]処分をうけ、青年将校らには不起訴、停職処分がくだされた。辻には重禁錮30日の処分がくだされ、その後、水戸の[[歩兵第2連隊]]付となった<ref name="takahashi">{{Cite book |和書 |last= |first= |author= |
憲兵隊は村中孝次大尉、磯部浅一一等主計、[[片岡太郎]]中尉らを逮捕し、佐藤、武藤候補生らも[[軍法会議]]にかけられることになった。辻がスパイとして利用した佐藤を含め、陸士生徒5名が[[退学|退校]]処分をうけ、青年将校らには不起訴、停職処分がくだされた。辻には重禁錮30日の処分がくだされ、その後、水戸の[[歩兵第2連隊]]付となった<ref name="takahashi">{{Cite book |和書 |last= |first= |author=高橋正衛|authorlink=高橋正衛 |coauthors= |year= 1994|title= 二・二六事件―﹁昭和維新﹂の思想と行動|publisher=[[中央公論]] |page= |id= |isbn=4122051118 |quote= }}{{要ページ番号|date=2015年9月}}</ref>。
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村中らのクーデター計画は具体性に乏しいものであったことが後の憲兵隊による調査で判明した。村中と磯部はこの事件が[[陸軍省#軍務局|軍務局長]]・[[永田鉄山]]と辻らによるでっちあげであると主張し、辻、片倉、塚本を[[誣告罪]]で告訴した。さらに2人は事件の経緯を書いた「[[粛軍に関する意見書]]」を配布したことで免官される。この陸軍士官学校事件、[[真崎甚三郎]]大将の[[教育総監]]罷免、[[相沢事件]]を経て統制派と皇道派の対立は頂点に達し[[二・二六事件]]の発生につながることになった<ref name="takahashi" />。 |
村中らのクーデター計画は具体性に乏しいものであったことが後の憲兵隊による調査で判明した。村中と磯部はこの事件が[[陸軍省#軍務局|軍務局長]]・[[永田鉄山]]と辻らによるでっちあげであると主張し、辻、片倉、塚本を[[誣告罪]]で告訴した。さらに2人は事件の経緯を書いた「[[粛軍に関する意見書]]」を配布したことで免官される。この陸軍士官学校事件、[[真崎甚三郎]]大将の[[教育総監]]罷免、[[相沢事件]]を経て統制派と皇道派の対立は頂点に達し[[二・二六事件]]の発生につながることになった<ref name="takahashi" />。 |
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=== 関東軍への転出 === |
=== 関東軍への転出 === |
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二・二六事件後の[[1936年]]︵昭和11年︶4月に、片倉衷少佐の{{読み仮名|斡旋|あっせん}}によって[[関東軍]]参謀部付となった。[[兵站]]を担当する第三課に配属され、[[満州事変]]の経過や戦術を詳細に解析している。[[満州国協和会]]の基本理念を固めるために上京した際には、当時[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]で戦争指導課長を務めていた[[石原莞爾]]と面会、満蒙についての理念を石原から教示された。石原との出会いは辻にとって衝撃的だったようで、これ以降、生涯にわたる石原崇拝が始まり、辻は石原のことを﹁導師﹂と呼び人生最大の尊敬を向けることになる。9月、[[植田謙吉]]大将︵関東軍司令官︶と[[板垣征四郎]]中将︵関東軍参謀長︶の名で、﹁満州帝国協和会の根本精神﹂なる声明がパンフレットとして、石原信奉者であった辻の筆により出された。法令により直接に規定する根拠がないのに協和会を[[日本共産党|共産党]]のように政府をも指導する機関と規定し、さらに関東軍司令官を“哲人”と書き、大問題となった。これに抗議して当時の満州国総務庁長・[[大達茂雄]]も辞任し、関東軍もパンフレットを必死に回収した騒動があった<ref>{{Cite book |和書 |author= |
二・二六事件後の[[1936年]]︵昭和11年︶4月に、片倉衷少佐の{{読み仮名|斡旋|あっせん}}によって[[関東軍]]参謀部付となった。[[兵站]]を担当する第三課に配属され、[[満州事変]]の経過や戦術を詳細に解析している。[[満州国協和会]]の基本理念を固めるために上京した際には、当時[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]で戦争指導課長を務めていた[[石原莞爾]]と面会、満蒙についての理念を石原から教示された。石原との出会いは辻にとって衝撃的だったようで、これ以降、生涯にわたる石原崇拝が始まり、辻は石原のことを﹁導師﹂と呼び人生最大の尊敬を向けることになる。9月、[[植田謙吉]]大将︵関東軍司令官︶と[[板垣征四郎]]中将︵関東軍参謀長︶の名で、﹁満州帝国協和会の根本精神﹂なる声明がパンフレットとして、石原信奉者であった辻の筆により出された。法令により直接に規定する根拠がないのに協和会を[[日本共産党|共産党]]のように政府をも指導する機関と規定し、さらに関東軍司令官を“哲人”と書き、大問題となった。これに抗議して当時の満州国総務庁長・[[大達茂雄]]も辞任し、関東軍もパンフレットを必死に回収した騒動があった<ref>{{Cite book |和書 |author=古海忠之|authorlink=古海忠之|year=1978 |title= 忘れ得ぬ満州国|publisher= 経済往来社|page= 147|id={{全国書誌番号|78018855}} }}</ref>。
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[[1937年]](昭和12年)5月には満州事変後に[[奉天]]郊外の寺に安置されたまま弔われていなかった[[張作霖]]の葬儀を協和会の名で執り行っている。同年7月7日に発生した[[盧溝橋事件]]をきっかけとして[[国民革命軍]]と[[支那駐屯軍]]との間に戦闘が発生すると、辻は関東軍の参謀長・東條英機や高級参謀・片倉衷らに同調して戦線拡大を主張した。この際、作戦主任の[[池田純久]]中佐に対しては、自らが爆撃機に乗って中国軍を爆撃すると申し出、この独断専行に驚いた池田がそのようなことをすれば戦闘機を用いてお前の飛行機を撃ち落とすと話したためこれを断念している。7月末には支那駐屯軍への転出を自薦し、8月に新たに編成された[[北支那方面軍]]参謀となった。上下を問わず不良軍人狩りを実施し綱紀粛正に努め、兵士や平民から「今様[[水戸黄門]]」と評された。また、[[汪兆銘政権]]への秘密工作を実行した。しかし、上司である北支那方面軍高級参謀の[[下山琢磨]]大佐と以前トラブルを起こしていた経緯があり、11月に関東軍作戦参謀に転じた。[[1938年]](昭和13年)3月に少佐に進級した。 |
[[1937年]](昭和12年)5月には満州事変後に[[奉天]]郊外の寺に安置されたまま弔われていなかった[[張作霖]]の葬儀を協和会の名で執り行っている。同年7月7日に発生した[[盧溝橋事件]]をきっかけとして[[国民革命軍]]と[[支那駐屯軍]]との間に戦闘が発生すると、辻は関東軍の参謀長・東條英機や高級参謀・片倉衷らに同調して戦線拡大を主張した。この際、作戦主任の[[池田純久]]中佐に対しては、自らが爆撃機に乗って中国軍を爆撃すると申し出、この独断専行に驚いた池田がそのようなことをすれば戦闘機を用いてお前の飛行機を撃ち落とすと話したためこれを断念している。7月末には支那駐屯軍への転出を自薦し、8月に新たに編成された[[北支那方面軍]]参謀となった。上下を問わず不良軍人狩りを実施し綱紀粛正に努め、兵士や平民から「今様[[水戸黄門]]」と評された。また、[[汪兆銘政権]]への秘密工作を実行した。しかし、上司である北支那方面軍高級参謀の[[下山琢磨]]大佐と以前トラブルを起こしていた経緯があり、11月に関東軍作戦参謀に転じた。[[1938年]](昭和13年)3月に少佐に進級した。 |
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[[ハイラル区|ハイラル]]に駐屯する[[第23師団 (日本軍)|第23師団]]は要綱に従って直ちに部隊を増派し、衝突は拡大した。外蒙古を実質植民地としていた[[ソビエト連邦]]でも[[ゲオルギー・ジューコフ]]中将が第57軍団長に任命され、紛争箇所に派遣された。関東軍司令部では紛争の拡大を決定し、外蒙古のタムスク航空基地の空爆を計画した。これを察知した東京の参謀本部は[[電報]]で中止を指令したが、辻はカンジュル廟とハロンアルシャン付近を相手空軍が越境爆撃している以上、外蒙古のタムスク航空基地爆撃を行うことは認められるとしてこの電報を握りつぶし、作戦続行を知らせる返電を行っている。この電報の決裁書では、課長、参謀長および軍司令官の欄に辻の印が押され、代理とサインされていた。参謀長および軍司令官には代理の規定が存在せず、辻の行動は明らかに[[陸軍刑法]]第37条の擅権の罪<ref>第三十七条 司令官権外ノ事ニ於テ已ムコトヲ得サル理由ナクシテ擅ニ軍隊ヲ進退シタルトキハ死刑又ハ無期若ハ七年以上ノ禁錮ニ処ス</ref> に該当する重罪であった。紛争はジューコフによる攻勢によってソ連軍優位に進み、8月31日に日本軍は係争地域から撤退、9月16日に日ソ間で停戦協定が成立した。 |
[[ハイラル区|ハイラル]]に駐屯する[[第23師団 (日本軍)|第23師団]]は要綱に従って直ちに部隊を増派し、衝突は拡大した。外蒙古を実質植民地としていた[[ソビエト連邦]]でも[[ゲオルギー・ジューコフ]]中将が第57軍団長に任命され、紛争箇所に派遣された。関東軍司令部では紛争の拡大を決定し、外蒙古のタムスク航空基地の空爆を計画した。これを察知した東京の参謀本部は[[電報]]で中止を指令したが、辻はカンジュル廟とハロンアルシャン付近を相手空軍が越境爆撃している以上、外蒙古のタムスク航空基地爆撃を行うことは認められるとしてこの電報を握りつぶし、作戦続行を知らせる返電を行っている。この電報の決裁書では、課長、参謀長および軍司令官の欄に辻の印が押され、代理とサインされていた。参謀長および軍司令官には代理の規定が存在せず、辻の行動は明らかに[[陸軍刑法]]第37条の擅権の罪<ref>第三十七条 司令官権外ノ事ニ於テ已ムコトヲ得サル理由ナクシテ擅ニ軍隊ヲ進退シタルトキハ死刑又ハ無期若ハ七年以上ノ禁錮ニ処ス</ref> に該当する重罪であった。紛争はジューコフによる攻勢によってソ連軍優位に進み、8月31日に日本軍は係争地域から撤退、9月16日に日ソ間で停戦協定が成立した。 |
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ノモンハン事件の和平交渉は12月7日から25日までソ連の[[チタ]]で、続いて翌年1月7日から30日まではハルビンで行われた。1月30日には全ての交渉が終わり署名を残すのみとなっていたが、ソ連・蒙古代表団は合意を覆して1月30日に帰国してしまった。当時、満州国代表団に補佐官として加わっていた[[北川四郎]]は、当初﹁ロシア人は全く信用ができぬ﹂と憤慨していたが、会議において満州国代表を務めた外交部政務司長の[[亀山一二]]から戦後になり、辻が[[白系ロシア人]]を使って、会議が合意した場合、ソ連代表ボグダーノフ少将と外蒙古代表ヂャムサロンを殺害すると脅したことが原因であると聞いている<ref>{{Cite book |和書 |
ノモンハン事件の和平交渉は12月7日から25日までソ連の[[チタ]]で、続いて翌年1月7日から30日まではハルビンで行われた。1月30日には全ての交渉が終わり署名を残すのみとなっていたが、ソ連・蒙古代表団は合意を覆して1月30日に帰国してしまった。当時、満州国代表団に補佐官として加わっていた[[北川四郎]]は、当初﹁ロシア人は全く信用ができぬ﹂と憤慨していたが、会議において満州国代表を務めた外交部政務司長の[[亀山一二]]から戦後になり、辻が[[白系ロシア人]]を使って、会議が合意した場合、ソ連代表ボグダーノフ少将と外蒙古代表ヂャムサロンを殺害すると脅したことが原因であると聞いている<ref>{{Cite book |和書 |author=北川四郎|authorlink=北川四郎|coauthors= |year=1979 |title=ノモンハン 元満州国外交官の証言 |publisher=[[現代史出版会]] |page=147 |id= |isbn= |quote= }}</ref>。
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戦後、辻は﹁戦争は |
戦後、辻は﹁戦争は敗けたと感じたものが、敗けたのである﹂﹁外交もまた、敗けたと思うものが、敗けるのである﹂と記している<ref>{{Cite book |和書 |author=辻政信 |authorlink=辻政信 |coauthors= |year= 1950|title=ノモンハン |publisher= [[亜東書房]]|page= |id= |isbn= |quote= }}{{要ページ番号|date=2015年9月}}</ref>。
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ノモンハン事件では第23師団捜索隊長[[井置栄一]]中佐や歩兵第七十二連隊長[[酒井美喜雄]]大佐など、辻によって自殺を強要された将校がいた<ref>{{Cite journal |和書 |author = [[村上兵衛]] |title = 地獄からの使者辻政信 |date = 1956-05 |publisher = [[中央公論新社]] |journal = [[中央公論]] |ref = harv}}{{要ページ番号|date=2015年9月}}</ref>。 |
ノモンハン事件では第23師団捜索隊長[[井置栄一]]中佐や歩兵第七十二連隊長[[酒井美喜雄]]大佐など、辻によって自殺を強要された将校がいた<ref>{{Cite journal |和書 |author = [[村上兵衛]] |title = 地獄からの使者辻政信 |date = 1956-05 |publisher = [[中央公論新社]] |journal = [[中央公論]] |ref = harv}}{{要ページ番号|date=2015年9月}}</ref>。 |
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辻は捕虜交換によって戻ってきた将校たちにも自殺を強要した<ref name="kojima">{{Cite book |和書 |author= |
辻は捕虜交換によって戻ってきた将校たちにも自殺を強要した<ref name="kojima">{{Cite book |和書 |author=児島襄|authorlink=児島襄|year=1975|title= 参謀︵上︶|publisher= [[文藝春秋]] |page=54 |id= |isbn=4167141035 |quote= }}</ref><ref>{{Cite book |和書 |author=田中克彦|authorlink=田中克彦 |year=2009 |title= ノモンハン戦争 モンゴルと満州国|publisher= [[岩波新書]]|page=222 |id= |isbn=978-4-00-431191-1 |quote= }}</ref>。
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[[大谷敬二郎]]も、捕虜から帰還した将兵に辻が自殺を強要していたとの噂があったと述べている<ref>{{Cite journal |和書 |author = [[大谷敬二郎]] |title = 捕虜 |date = 1978年 |publisher = [[図書出版社]] |journal = |ref = harv}}{{要ページ番号|date=2015年9月}}</ref>。 |
[[大谷敬二郎]]も、捕虜から帰還した将兵に辻が自殺を強要していたとの噂があったと述べている<ref>{{Cite journal |和書 |author = [[大谷敬二郎]] |title = 捕虜 |date = 1978年 |publisher = [[図書出版社]] |journal = |ref = harv}}{{要ページ番号|date=2015年9月}}</ref>。 |
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=== マレー作戦とシンガポール華僑粛清事件 === |
=== マレー作戦とシンガポール華僑粛清事件 === |
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[[太平洋戦争]]開戦後は[[マレー作戦]]で第5師団の先頭に立って直接作戦指導を行い、敵軍戦車を奪取して敵軍陣地突入を行った。作戦参謀としての任務を |
[[太平洋戦争]]開戦後は[[マレー作戦]]で第5師団の先頭に立って直接作戦指導を行い、敵軍戦車を奪取して敵軍陣地突入を行った。作戦参謀としての任務を逸脱し第一線で命令系統を無視して指揮をとることもあったという。敵の抵抗が激しかったカンバルを視察した際は第一線の小隊長がタコツボで小さくなっているのを見て、側にいた上等兵に、この小隊長はダメだ、お前が小隊長をやれと言って、当の上等兵を驚かせたと言う。さらに軍司令部に戻って増兵を要求し、それが容れられないと怒って、参謀をやめると言って引っ込んでしまったようだとされる<ref>{{Cite book|和書|title=人間の記録 マレー戦・後編|date=1977-10-10|publisher=︵株︶現代史出版会|page=273-274|author=御田 重宝}}</ref>。[[第25軍 (日本軍)|第25軍]]司令官・[[山下奉文]]中将は辻とそりが合わず、マレー作戦中の日記において、﹁'''この男、矢張り我意強く、小才に長じ、所謂こすき男にして、国家の大をなすに足らざる小人なり。使用上注意すべき男也'''﹂と辻を厳しく批判している<ref>{{Cite web|author=丸山淳一|date=2021-12-08|url=https://www.yomiuri.co.jp/column/japanesehistory/20211206-OYT8T50052/|title=日米開戦80年…いくつもの誤解や読み違い、重ねた揚げ句の﹁真珠湾﹂だった|publisher=[[読売新聞]]オンライン|accessdate=2023-08-21}}</ref> 。また、市川支隊一千人をタイ国軍に変装させてクアラカンサルまで大突破を図るという作戦に立案したが、上陸の合図を送るはずだった現地外交官が日にちを誤り、計画通り上陸できず、この作戦は不発に終わった。
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本作戦において辻は、[[紀元節]]、[[天長節]]、[[陸軍記念日]]などの記念日に拠点を占領する日が来るような実情を無視した作戦計画を立て作戦部隊の混乱を招いている{{efn|[[逓信省]]は、「シンガポール陥落」の記念切手を1942年2月16日に発行しているが、紀元節(2月11日)に陥落することを期待して切手が準備されていた<ref>{{Cite book |和書 |author= |
本作戦において辻は、[[紀元節]]、[[天長節]]、[[陸軍記念日]]などの記念日に拠点を占領する日が来るような実情を無視した作戦計画を立て作戦部隊の混乱を招いている{{efn|[[逓信省]]は、「シンガポール陥落」の記念切手を1942年2月16日に発行しているが、紀元節(2月11日)に陥落することを期待して切手が準備されていた<ref>{{Cite book |和書 |author= 山口修|authorlink=山口修 (歴史学者)|year=1985|title=日本記念切手物語 |volume=戦前編 |publisher=日本郵趣出版 |pages={{要ページ番号|date=2015年9月}} |id={{全国書誌番号|86003319}} }}</ref>}}。 |
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[[シンガポールの戦い]]で英軍を破りシンガポールを占領した日本軍は、市内の華僑20万人の一斉検問をおこない、この中から抗日分子であると判断した者を大量に処刑した︵[[シンガポール華僑粛清事件]]︶が、この敵性華僑剔出処断案は、作戦主任参謀の辻と[[朝枝繁春]]が起草し山下司令官が決裁したもの |
[[シンガポールの戦い]]で英軍を破りシンガポールを占領した日本軍は、市内の華僑20万人の一斉検問をおこない、この中から抗日分子であると判断した者を大量に処刑した︵[[シンガポール華僑粛清事件]]︶が、この敵性華僑剔出処断案は、作戦主任参謀の辻と[[朝枝繁春]]が起草し山下司令官が決裁したものと、多くの者から考えられている。これらはいわば状況証拠による判断で、確実に決定的といえるものはない。[[河村参郎]]はその遺著で、辻から華僑処分が必要な理由の説明を受けたこと<ref name=":3" />や、自らが命じられて行わせたシンガポールでの華僑虐殺について、当時の司令部での勢いから当然としながらも軍参謀長が信念をもって軍議を指導していればと嘆いており<ref name=":3">{{Cite book|和書|title=十三階段を上る|date=1952-4-20|publisher=亜東書房|page=|author=河村 参郎|pages=164-165,69,165}}</ref>、自らは元々の軍議に立合っていないが、山下の強硬な主張でなければ参謀らの強い主張に引き摺られた可能性を匂わせている。一方、元NHKプロデューサーの中田整一は、自身が角田房子から引継いだ資料の中に、西村琢磨︵やはりシンガポールの華僑虐殺で処刑されている︶の教誨師であった浅井堅教が書いた手記があり、それによるものとして、辻が馬奈木軍参謀副長の承認を得て虐殺命令を出し、その兵を実際に指揮したのは辻と林参謀だと、西村が浅井に語ったとしている<ref>{{Cite book|和書 |title=最後の戦犯死刑囚 西村琢磨中将とある教誨師の記録 |date=2011-5-16 |publisher=平凡社 |page=150 |author=中田 整一}}</ref>。この中田の著書でも、西村が軍議などをどこまで実際に見たものであるかは、はっきりとしない。
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しかし、現場の実行段階においては、警備本部で嘱託として勤務した[[篠崎護]]や現地の陸軍将校らが、辻が虐殺を強く指導していたことを証言している<ref>{{Harvnb|田々宮|1986|pp={{要ページ番号|date=2015年9月}}}}</ref><ref name="OnishiP70">{{Harvnb|大西|1977|p=70}}</ref><ref>{{Cite book |和書 |author=篠崎護|authorlink=篠崎護 |year=1976 |title=シンガポール占領秘録―戦争とその人間像 |publisher=[[原書房]] |pages={{要ページ番号|date=2015年9月}} }}</ref>。辻参謀が現場を訪れて「シンガポールの人口を半分にするつもりでやれ」と檄を飛ばすなどしたという(もっともこれも、河村参郎が家族宛てに書き残した書面によれば、師団に軍参謀一人ずつを虐殺実施監督に付けることが決められ<ref name=":3" />、シンガポールではたまたま辻が配属された市内担当の昭南警備隊で司令官クラスの戦犯死刑者を出した結果、辻の言動ばかりが取上げられることになった面が強く、もともとの虐殺提唱者が必ずしも彼とは限らない。)。 |
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⚫ | 戦後のイギリスによる戦犯裁判において、虐殺を命令した山下(フィリピンで勾留、1946年2月23日処刑)、辻(逃亡)、朝枝([[シベリア抑留]])は何れも裁判に |
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「抗日分子」の選別は、事前に取り決めた名簿に照合する方法で厳密に行われていたわけではなく、潜在的な敵性分子をあらかじめ多量に始末しておくこと、粛清する人数そのものが目的化されていたため、その結果、外見や人相からそれらしい人物を適当に選び出し、多数の無関係のシンガポール華僑が殺害された<ref>{{Cite book |和書 |author=林博史|authorlink=林博史 |year=2007 |title=シンガポール華僑粛清 |publisher=[[高文研]] |pages=218-219 |isbn=978-4-87498-386-7}}</ref>。辻の起案した命令に対して、[[河村参郎]][[昭南警備隊]]司令官などの指揮官たちは、短期間に大量の市民から敵性華人を選り分けるのは不可能であると上層部に抗弁し<ref name="OnishiP70" />、河村はその後も虐殺中止するように進言したというが、結局実行せざるをえなかった<ref>{{Harvnb|大西|1977|pp=73-74}}</ref><ref>{{Cite book |和書 |author=河村参郎|authorlink=河村参郎 |year=1952 |title=十三階段を上る |publisher=亜東書房 |page=166 |doi=10.11501/1659774 |id={{全国書誌番号|52005101}} }}</ref>。 |
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⚫ | 戦後のイギリスによる戦犯裁判において、虐殺を命令したとみられる山下(フィリピンで勾留、1946年2月23日処刑)、現地将兵らに虐殺実行を迫っていたとされる辻(逃亡)、朝枝([[シベリア抑留]])は何れも裁判に出ることはなく、虐殺には反対でその進言しようとした[[河村参郎]]司令官と、やはり虐殺に反対した[[大石正幸]]隊長の2名が現地指揮官として虐殺の責任をとらされる形で戦犯として処刑された。上層部の命令の記録は残されておらず、河村等は自身らは虐殺には反対であったことや上官からの命令であることを主張したが、実行責任者として、その罪は許されなかった<ref name="OnishiP70" />。終戦時にバンコクにいた辻は逃亡し行方をくらませており、戦後、潜伏から再び姿を現わしたのは両名とも処刑された後だった<ref>{{Harvnb|杉森|1982|p=133}}</ref>。戦後、河村の遺著が『十三階段を上る』として出版されたとき、辻は序文を寄せたが、辻をシンガポール虐殺の責任者と疑う元憲兵の大谷敬二郎はこれを無神経と非難している<ref>{{Cite book|和書|title=戦争犯罪|date=1975-1-1|publisher=新人物往来社|page=187-188|author=大谷 敬二郎}}</ref>。もっとも、辻はタイで逃亡するにあたって、都合の悪いことは全て自分の責任ということにしてよいと周りの者に語っていたとも言われている{{要出典|date=2022年12月}}。 |
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マレー作戦終了後の[[1942年]](昭和17年)3月に辻は参謀本部作戦課に呼び戻され作戦班長となった。 |
マレー作戦終了後の[[1942年]](昭和17年)3月に辻は参謀本部作戦課に呼び戻され作戦班長となった。 |
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=== フィリピン |
=== フィリピン バターンにおける虐殺 === |
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[[フィリピンの戦い (1941-1942年)|フィリピン戦線]]を担当していた[[本間雅晴]]中将率いる[[第14方面軍 (日本軍)|第14軍]]は、[[マニラ]]占領後に[[バターン半島]]にこもる米比軍の追撃をおこなった。しかしジャングルの悪環境や情報不足によって攻撃は一時頓挫し、東京の[[大本営]]では一部参謀を左遷し、さらに辻を戦闘指導の名目で派遣した。[[4月3日]]に開始された第二次総攻撃によって、米比軍は4月9日に降伏し、[[コレヒドール島]]を残すのみとなった。 |
[[フィリピンの戦い (1941-1942年)|フィリピン戦線]]を担当していた[[本間雅晴]]中将率いる[[第14方面軍 (日本軍)|第14軍]]は、[[マニラ]]占領後に[[バターン半島]]にこもる米比軍の追撃をおこなった。しかしジャングルの悪環境や情報不足によって攻撃は一時頓挫し、東京の[[大本営]]では一部参謀を左遷し、さらに辻を戦闘指導の名目で派遣した。[[4月3日]]に開始された第二次総攻撃によって、米比軍は4月9日に降伏し、[[コレヒドール島]]を残すのみとなった。 |
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4月9日に米比軍指揮官[[エドワード・P・キング]]中将が降伏を部隊に命じて以降、米比軍兵士が続々と投降し始めたが、そのような中、連隊や兵団に﹁米比軍投降者を一律に射殺すべしという大本営命令を伝達する﹂との命令が[[第65旅団 (日本軍)|第65旅団]]司令部から電話で伝達された。この命令を信じ、第百二十二連隊のように虐殺を実行に移した部隊もあった。ところが大本営はこのような命令を下達しておらず、本間中将も全く関知していなかった |
4月9日に米比軍指揮官[[エドワード・P・キング]]中将が降伏を部隊に命じて以降、米比軍兵士が続々と投降し始めたが、そのような中、連隊や兵団に﹁米比軍投降者を一律に射殺すべしという大本営命令を伝達する﹂との命令が[[第65旅団 (日本軍)|第65旅団]]司令部から電話で伝達された。この命令を信じ、第百二十二連隊のように虐殺を実行に移した部隊もあった。ところが大本営はこのような命令を下達しておらず、本間中将も全く関知していなかったともいう。当時、[[歩兵第141連隊]]長であった[[今井武夫]]は、第65旅団司令部の高級参謀・松永梅一中佐からその命令を電話で伝えられた。松永の談によると、辻が口頭でその命令を伝達して歩いていたとのことである<ref name="Imai2009">{{Cite book |和書 |author=今井武夫|authorlink=今井武夫 |coauthors=高橋久志、今井貞夫︵監修︶ |year=2009 |title=日中和平工作 回想と証言 1937-1947 |publisher=[[みすず書房]] |pages=157-158 |isbn=978-4-622-07438-0}}</ref>。一方で、キング中将が行ったバターンのみの降伏に対し、フィリピン全土の降伏を望んでいた本間中将にとっては、既にバターン攻略に予定を遥かにこえる日数がかかっており、早急にこれらの降伏兵を片付ける必要があったのであり、辻はうまく逃亡できたため其の責任を押し付けられることになっただけとも、辻にも実際にそれなりの責任があったとも言われる。
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日本軍によってバターンから移動中の多くの米軍人が |
日本軍によってバターンから移動中あるいはその後の収容所においても、多くの米軍人が劣悪な待遇や暴行を受け、極度の疲労・衰弱から、あるいは処刑されて死亡した[[バターン死の行進]]に関連した虐待・虐殺は、戦後、逃亡した辻ではなく、[[本間雅晴]]司令官などが戦犯として処刑されることで、その責任を負うこととなった<ref>トーランド (1970) 2巻「五部 失われた希望 3 バターンを埋める捕虜」「4 死の行進」241頁-256頁、347頁</ref>。 |
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=== ポートモレスビー作戦=== |
=== ポートモレスビー作戦=== |
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海軍からの要請を受け陸軍は新たに[[第17軍 (日本軍)|第十七軍]]を編成し[[ニューギニア島]]南岸の[[ポートモレスビー]]攻略に当たらせることになった︵[[ポートモレスビー作戦]]︶。補給上の見地からポートモレスビー占領は困難であると見ていた大本営では、十七軍に対して作戦研究を命じたが、十七軍に命令を交付するため[[ミンダナオ島]][[ダバオ]]に到着した辻は、直ちに作戦を実施するよう指導した。田中作戦部長はこの辻の独断専行を疑問視したが、服部作戦課長は現地にいる辻を信頼しこれを追認した<ref>{{Cite book |和書 |author= |
海軍からの要請を受け陸軍は新たに[[第17軍 (日本軍)|第十七軍]]を編成し[[ニューギニア島]]南岸の[[ポートモレスビー]]攻略に当たらせることになった︵[[ポートモレスビー作戦]]︶。補給上の見地からポートモレスビー占領は困難であると見ていた大本営では、十七軍に対して作戦研究を命じたが、十七軍に命令を交付するため[[ミンダナオ島]][[ダバオ]]に到着した辻は、直ちに作戦を実施するよう指導した。田中作戦部長はこの辻の独断専行を疑問視したが、服部作戦課長は現地にいる辻を信頼しこれを追認した<ref>{{Cite book |和書 |author= 亀井宏|authorlink=亀井宏|year=1987 |title=ガダルカナル戦記 |publisher=[[潮書房光人新社|光人社]] |pages={{要ページ番号|date=2015年9月}} |isbn=4-7698-0341-9}}</ref>。ニューギニア島北岸の[[ブナ]]から島を縦断するオーエン・スタンリー山脈を超えポートモレスビーに至る侵攻作戦は完全な失敗に終わった。辻自身は駆逐艦[[朝凪 (駆逐艦)|朝凪]]に便乗してブナ視察にむかったが、到着直前に空襲を受けて朝凪は損傷、辻も頭部に戦傷を負った<ref>[[#高松宮四|高松宮日記4巻]]、331-332頁(1942年7月28日記事)</ref>。
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=== ガダルカナル島の戦い === |
=== ガダルカナル島の戦い === |
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これ以後、日本軍はガ島の戦いと[[ラビの戦い]](ニューギニア作戦)の二正面作戦を実施する。 |
これ以後、日本軍はガ島の戦いと[[ラビの戦い]](ニューギニア作戦)の二正面作戦を実施する。 |
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ガダルカナル島攻防戦でも実情を無視した攻撃を強行したのは辻の責任であるとする説によると、ガダルカナル島での作戦の過程では現地指揮官の[[川口清健]]少将と対立し、参謀本部作戦参謀の立場を利用して川口を罷免させようとした。辻が攻撃しようとしていた場所は、既に川口が一度総攻撃を行った場所であって、再度の総攻撃でも失敗する確率はきわめて高いと思われた。しかも、総攻撃の日時は、海軍の都合で夜間に艦隊が島の周辺海域に突入できる[[月齢]]と一致させるために、戦闘準備には無理が生じ、[[熱帯雨林|ジャングル]]の中を通る険しい道路によって大砲などもほとんど輸送できず、結局小銃での攻撃に頼るのみであった<ref name="五味川純平">{{Cite book |和書 |author= |
ガダルカナル島攻防戦でも実情を無視した攻撃を強行したのは辻の責任であるとする説によると、ガダルカナル島での作戦の過程では現地指揮官の[[川口清健]]少将と対立し、参謀本部作戦参謀の立場を利用して川口を罷免させようとした。辻が攻撃しようとしていた場所は、既に川口が一度総攻撃を行った場所であって、再度の総攻撃でも失敗する確率はきわめて高いと思われた。しかも、総攻撃の日時は、海軍の都合で夜間に艦隊が島の周辺海域に突入できる[[月齢]]と一致させるために、戦闘準備には無理が生じ、[[熱帯雨林|ジャングル]]の中を通る険しい道路によって大砲などもほとんど輸送できず、結局小銃での攻撃に頼るのみであった<ref name="五味川純平">{{Cite book |和書 |author=五味川純平|authorlink=五味川純平|year= |title=ガダルカナル |publisher=[[文藝春秋]] |series=[[文春文庫]] |pages={{要ページ番号|date=2015年9月}} |id={{全国書誌番号|83051563}} }}</ref>。この条件では作戦の失敗も当然である。
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また、川口少将は、ラバウルから偵察機が米軍の上空を撮影した航空写真の分析から、米軍の防衛が以前より遥かに強化されていることを知り、正面よりも東側からの攻撃を辻に具申した。しかし、辻は、この重要な情報を無視して、川口少将は攻撃部隊長から罷免され、予定通りの攻撃は死傷率40パーセントの大敗となった<ref name="ReferenceB">「太平洋戦争 日本の敗因 2 ガダルカナル 学ばざる軍隊」角川文庫 p.198-199 203-210</ref>。 |
また、川口少将は、ラバウルから偵察機が米軍の上空を撮影した航空写真の分析から、米軍の防衛が以前より遥かに強化されていることを知り、正面よりも東側からの攻撃を辻に具申した。しかし、辻は、この重要な情報を無視して、川口少将は攻撃部隊長から罷免され、予定通りの攻撃は死傷率40パーセントの大敗となった<ref name="ReferenceB">「太平洋戦争 日本の敗因 2 ガダルカナル 学ばざる軍隊」角川文庫 p.198-199 203-210</ref>。 |
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もっとも、日本海軍も第四水雷戦隊(旗艦、駆逐艦「[[秋月 (駆逐艦)|秋月]]」)の護衛下で重火器弾薬を搭載した高速輸送船6隻をガダルカナル島に送り込んだが、米軍機の空襲で輸送船3隻(笹子丸、九州丸、吾妻山丸)を喪失<ref>[[#ガダルカナル(辻1975)]]129-131頁では、揚陸日10月11日、輸送船団6隻全滅となっているが誤認。</ref>。ガ島に揚陸した軍需品も米軍機動部隊の空襲と艦艇による砲撃で焼き払われてしまった。 |
もっとも、日本海軍も第四水雷戦隊(旗艦、駆逐艦「[[秋月 (駆逐艦)|秋月]]」)の護衛下で重火器弾薬を搭載した高速輸送船6隻をガダルカナル島に送り込んだが、米軍機の空襲で輸送船3隻(笹子丸、九州丸、吾妻山丸)を喪失<ref>[[#ガダルカナル(辻1975)]]129-131頁では、揚陸日10月11日、輸送船団6隻全滅となっているが誤認。</ref>。ガ島に揚陸した軍需品も米軍機動部隊の空襲と艦艇による砲撃で焼き払われてしまった。 |
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アメリカ軍が占領した[[ホニアラ国際空港|ヘンダーソン飛行場]]への総攻撃失敗を体験した兵士達は、辻に報告を行い、攻撃方法の改善策を進言した。彼等は辻ならば直ぐに全軍に情報を伝え迅速に対応策を練るだろうと期待していたが、辻は同期の多数の指揮官の戦死などの報告を聞き、呆然としたまま迅速な対応をとることが出来なかった。結局ガダルカナル戦で辻は、重度の[[マラリア]]にかかり、駆逐艦輸送作戦([[鼠輸送]])のため到着した駆逐艦「[[陽炎 (陽炎型駆逐艦)|陽炎]]」に便乗(11月8日)<ref>[[#ガダルカナル(辻1975)]]178-180頁『救いの駆逐艦』</ref>。途中撤退している<ref>{{Cite book |和書 |author= |
アメリカ軍が占領した[[ホニアラ国際空港|ヘンダーソン飛行場]]への総攻撃失敗を体験した兵士達は、辻に報告を行い、攻撃方法の改善策を進言した。彼等は辻ならば直ぐに全軍に情報を伝え迅速に対応策を練るだろうと期待していたが、辻は同期の多数の指揮官の戦死などの報告を聞き、呆然としたまま迅速な対応をとることが出来なかった。結局ガダルカナル戦で辻は、重度の[[マラリア]]にかかり、駆逐艦輸送作戦([[鼠輸送]])のため到着した駆逐艦「[[陽炎 (陽炎型駆逐艦)|陽炎]]」に便乗(11月8日)<ref>[[#ガダルカナル(辻1975)]]178-180頁『救いの駆逐艦』</ref>。途中撤退している<ref>{{Cite book |和書 |author=亀井宏|authorlink=亀井宏|year= |title=ガダルカナル戦記|publisher=光人社NF文庫、講談社文庫 |page= |id= |isbn= |quote= }}{{要ページ番号|date=2015年9月}}</ref>{{refnest|[[#高松宮六|高松宮日記6巻]]、58頁(1943年2月28日記事)<ref group="注釈">辻中佐ノ話(十七、十一、二五)「ガダルカナル」島ノ皈リ40℃カラノ熱アリ。フラ〱トシテヤツト大発カラ駆逐艦ニ引キ上ゲラレテ士官室ニイツタラ、[[おにぎり|握リ飯]]ト[[サケ|塩鮭]]ガ一人分アツテ誰モ居ラナカツタガ、ソレヲ食ツタ時ノ甘サ。翌朝ノ朝食デ[[ゴボウ|ごぼう]]ノ煮付ガ出タガ、之ガ一ヶ月目ノ野菜。「ラボール」ニ皈ツテ「[[刺身|サシミ]]」ヲ食ツタ味ハ忘レラレズ。「トラツク」ニツイテ、夜爆撃ヲ音ヲ聞カズニフト目覚メタ未ダ爆撃ニ来ヌカト思ツタ。東京ニ来テ足ラヌ〱ト云フガ、之ハ段違ヒノモノガアルト感ジタ。/「ガ」島ハ餓島ナリト云フモノアリ。海軍設営隊トカ一木支隊ノ残員トカ銃モナニモナキモノ、「ジャングル」ニヒソミテ揚陸スル糧食ヲサラツテ行ク。之ヲケシカラヌトモ云ヘヌデハナイカ。(以下略)</ref>}}。 |
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11月25日、[[大本営]]でガ島戦の体験談を語った<ref>[[#高松宮五|高松宮日記5巻]]、243-244頁(1942年11月25日記事)</ref>。辻は「2~3個師団を潰してもガダルカナル島に増援兵力をおくるべき」と主張したが、大本営はガダルカナル島からの撤退を考えはじめていた{{refnest|[[#高松宮五|高松宮日記5巻]]、256頁(1942年11月28日記事)<ref group="注釈">(前略)◎陸軍辻中佐ハ初メカラノ関係上、二~三ヶ師団ハツブシテモヤルト云ツテヰルモ、ドウモ戦術ノ法則ニ合ハヌ作戦トハ十分ニ承知シテヰルノデ、井本中佐モ愈〃トナレバ中央デ「ガ」島作戦ハ打切リト云フコトヲ命令シ、三万位ノ兵ヲ見殺モ大ナル見地ヨリスレバ止ムナシトスラ考フル〔ニ〕至レリ。(以下略)</ref>}}<ref>[[#高松宮五|高松宮日記5巻]]、367-369頁(1942年12月26日記事)</ref>。 |
11月25日、[[大本営]]でガ島戦の体験談を語った<ref>[[#高松宮五|高松宮日記5巻]]、243-244頁(1942年11月25日記事)</ref>。辻は「2~3個師団を潰してもガダルカナル島に増援兵力をおくるべき」と主張したが、大本営はガダルカナル島からの撤退を考えはじめていた{{refnest|[[#高松宮五|高松宮日記5巻]]、256頁(1942年11月28日記事)<ref group="注釈">(前略)◎陸軍辻中佐ハ初メカラノ関係上、二~三ヶ師団ハツブシテモヤルト云ツテヰルモ、ドウモ戦術ノ法則ニ合ハヌ作戦トハ十分ニ承知シテヰルノデ、井本中佐モ愈〃トナレバ中央デ「ガ」島作戦ハ打切リト云フコトヲ命令シ、三万位ノ兵ヲ見殺モ大ナル見地ヨリスレバ止ムナシトスラ考フル〔ニ〕至レリ。(以下略)</ref>}}<ref>[[#高松宮五|高松宮日記5巻]]、367-369頁(1942年12月26日記事)</ref>。 |
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=== 終戦 === |
=== 終戦 === |
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[[第18方面軍 (日本軍)|第18方面軍]]高級参謀としてバンコクにおいて終戦を迎えた辻は、8月14日に方面軍司令官の[[中村明人]]中将に﹁国家百年の為﹂潜伏することを願い出て、これを許可された。辻に対してはイギリスが戦犯容疑で追及を行うことが自明であったため、方面軍幕僚内でもこの決定に不満を持つものもいたが、中村司令官は辻を擁護し、イギリスの問い合わせに対しては﹁辻は敗戦の責任を感じ自殺するため離脱した。山中において一人命を断ったとみられる﹂と虚偽の説明をおこなった<ref>{{Cite book |和書 |author= |
[[第18方面軍 (日本軍)|第18方面軍]]高級参謀としてバンコクにおいて終戦を迎えた辻は、8月14日に方面軍司令官の[[中村明人]]中将に﹁国家百年の為﹂潜伏することを願い出て、これを許可された。辻に対してはイギリスが戦犯容疑で追及を行うことが自明であったため、方面軍幕僚内でもこの決定に不満を持つものもいたが、中村司令官は辻を擁護し、イギリスの問い合わせに対しては﹁辻は敗戦の責任を感じ自殺するため離脱した。山中において一人命を断ったとみられる﹂と虚偽の説明をおこなった<ref>{{Cite book |和書 |author=高山信武|authorlink=高山信武 |year=1999 |title=二人の参謀―服部卓四郎と辻政信 |publisher芙蓉書房 |pages={{要ページ番号|date=2020年8月}} |isbn=4-8295-0234-7}}</ref>。
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辻は数名の青年将校とともに青木憲信と名乗って日本人僧侶に変装しタイ国内に潜伏した。元軍人が僧侶に変装しているとの情報を得たイギリスが捜索を強化すると、辻はバンコクにおける中華民国代表部に赴いて日中平和の為働きたいと大見得を切り、この助けにより1945年11月に仏印ヴェンチャン、ユエ経由でハノイに渡り、さらにここから飛行機で重慶へと向かった。 |
辻は数名の青年将校とともに青木憲信と名乗って日本人僧侶に変装しタイ国内に潜伏した。元軍人が僧侶に変装しているとの情報を得たイギリスが捜索を強化すると、辻はバンコクにおける中華民国代表部に赴いて日中平和の為働きたいと大見得を切り、この助けにより1945年11月に仏印ヴェンチャン、ユエ経由でハノイに渡り、さらにここから飛行機で重慶へと向かった。 |
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[[1949年]](昭和24年)には[[渡辺渡 (陸軍軍人)|渡辺渡]]や[[児玉誉士夫]]のもとに身を寄せている。 |
[[1949年]](昭和24年)には[[渡辺渡 (陸軍軍人)|渡辺渡]]や[[児玉誉士夫]]のもとに身を寄せている。 |
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⚫ | 辻は[[1949年]](昭和24年)夏より、[[1950年]](昭和25年)1月までは奥多摩の西多摩郡古里村字小丹波の隠れ家で暮らしていた。ここに辻を連れてきて匿ったのは、[[飛田東山]]である。辻は飛田の援助を受けながら隠遁生活を送り、この半年間、この家で『潜行三千里』を書いた。 |
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国内潜伏については上記のように言われているが、いずれも風説の域を出ない。しかしはっきりと固有名詞の出る発表があった。それは次の通り。 |
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⚫ | 辻は[[1949年]](昭和24年)夏より、[[1950年]](昭和25年)1月までは奥多摩の西多摩郡古里村字小丹波の隠れ家で暮らしていた。ここに辻を連れてきて匿ったのは、飛田東山である。辻は飛田の援助を受けながら隠遁生活を送り、この半年間、この家で『潜行三千里』を書いた。 |
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その後[[1950年]](昭和25年)6月に台湾経由で[[インドシナ半島]]に渡り中国国民党のための工作を行ったが、工作は一度きりで断った<ref name="arima"/>。 |
その後[[1950年]](昭和25年)6月に台湾経由で[[インドシナ半島]]に渡り中国国民党のための工作を行ったが、工作は一度きりで断った<ref name="arima"/>。 |
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=== 文筆家として === |
=== 文筆家として === |
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1950年(昭和25年 |
1950年︵昭和25年︶1月、辻は戦犯指定から逃れ、再び世に姿を現すことになった。﹃[[サンデー毎日]]﹄に逃走潜伏中の記録﹃潜行三千里﹄を連載。これが単行本となって同年度のベストセラーとなる<ref>{{Cite book |和書 |author=世相風俗観察会 |title=増補新版 現代世相風俗史年表 昭和20年︵1945︶-平成20年︵2008︶|publisher=河出書房新社 |year=2003-11-07 |page=36 |isbn=9784309225043}}</ref>。同時に﹃十五対一﹄もベストテン入りしている。
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旧軍人グループとの繋がりで反共陣営に参画。著書を次々出版しベストセラー作家としての知名度を確立した。 |
旧軍人グループとの繋がりで反共陣営に参画。著書を次々出版しベストセラー作家としての知名度を確立した。 |
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辻はその後、印税などで裕福になっていく。アメリカの束縛から離れた辻は『第三次世界大戦アメリカ必負論』とそれに基づくアメリカ駐在軍全面撤退論を唱えはじめ、やがて[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]や[[CIA]]などの情報機関から疎まれるようになってゆく。アメリカは[[公職追放令]]違反で辻を追及しようとしたが、占領が終わろうとしていた時期だったためか具体的な対応は取れなかった<ref name="arima"/>。 |
辻はその後、印税などで裕福になっていく。アメリカの束縛から離れた辻は『第三次世界大戦アメリカ必負論』とそれに基づくアメリカ駐在軍全面撤退論を唱えはじめ、やがて[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]や[[CIA]]などの情報機関から疎まれるようになってゆく。アメリカは[[公職追放令]]違反で辻を追及しようとしたが、占領が終わろうとしていた時期だったためか具体的な対応は取られなかった<ref name="arima"/>。 |
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=== 政治家として === |
=== 政治家として === |
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追放解除後の[[1952年]]︵昭和27年︶に[[石川県第1区 (中選挙区)|旧石川1区]]から[[衆議院議員]]に初当選。[[自由党 (日本 1950-1955)|自由党]]を経て[[自由民主党 (日本)|自由民主党]][[鳩山一郎|鳩山派]]、[[二日会|石橋派]]に所属。
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追放解除後の[[1952年]]︵昭和27年︶に[[石川県第1区 (中選挙区)|旧石川1区]]から[[衆議院議員]]に初当選。[[自由党 (日本 1950-1955)|自由党]]を経て[[自由民主党 (日本)|自由民主党]][[鳩山一郎|鳩山派]]、[[二日会|石橋派]]に所属。辻が石橋派に属した理由としては、石橋が﹁来る者は拒まず、去る者は追わず﹂の態度で派閥を運営したこと<ref>[[中島政希]]﹁石橋派の変遷――石橋湛山をめぐる政治家たち﹂﹃自由思想﹄第153号、2019年、71頁</ref>や、辻の元上官であった[[磯谷廉介]]が戦中から石橋と懇意であり、磯谷が石橋に辻を紹介した可能性が指摘されている<ref>[[鈴村裕輔]]﹁自民党石橋派の盛衰 石橋湛山と辻政信の関係を
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踏まえつつ」『国際日本学』第19号、2022年、68頁</ref>。 |
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[[石橋内閣]]時代に外遊をし、エジプトの[[ガマール・アブドゥル=ナーセル]]、ユーゴスラビアの[[ヨシップ・ブロズ・チトー]]、中国の[[周恩来]]、インドの[[ジャワハルラール・ネルー]]と会談している。 |
[[石橋内閣]]時代に外遊をし、エジプトの[[ガマール・アブドゥル=ナーセル]]、ユーゴスラビアの[[ヨシップ・ブロズ・チトー]]、中国の[[周恩来]]、インドの[[ジャワハルラール・ネルー]]と会談している。 |
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[[1961年]](昭和36年)、辻は参議院に対して[[東南アジア]]の視察を目的として40日間の休暇を申請し、4月4日に公用[[旅券]]で日本を出発した<ref name="ラオスの霧18">[[#ラオスの霧]]18頁</ref>。辻は[[ベトナム民主共和国|北ベトナム]]で[[ホー・チ・ミン]]に会うことを望んでいた<ref>[[#ラオスの霧]]37、49頁</ref><ref name="hayase">{{Cite journal |和書 |last= |first= |author=[[早瀬利之]] |title= ラオスに消えた「辻政信」は「池田勇人首相」の"密使"だった | date=2021年5月20日| publisher=[[新潮社]] | journal=[[週刊新潮]] | page=122-126 }}</ref>。予定では1カ月程度の日程であったが5月半ばになっても帰国しないため、家族の依頼により[[外務省]]は現地公館に対して調査を指令している。辻はラオス入りを支援した旧日本軍兵士・現地軍将校によって4月21日に目撃されたのを最後に消息を絶った<ref>[[#ラオスの霧]]28-34頁</ref>。その後の調査によって、仏教の僧侶に扮してラオス北部の[[ジャール平原]]へ単身向かったことが判明している<ref name="ラオスの霧18"/>。 |
[[1961年]](昭和36年)、辻は参議院に対して[[東南アジア]]の視察を目的として40日間の休暇を申請し、4月4日に公用[[旅券]]で日本を出発した<ref name="ラオスの霧18">[[#ラオスの霧]]18頁</ref>。辻は[[ベトナム民主共和国|北ベトナム]]で[[ホー・チ・ミン]]に会うことを望んでいた<ref>[[#ラオスの霧]]37、49頁</ref><ref name="hayase">{{Cite journal |和書 |last= |first= |author=[[早瀬利之]] |title= ラオスに消えた「辻政信」は「池田勇人首相」の"密使"だった | date=2021年5月20日| publisher=[[新潮社]] | journal=[[週刊新潮]] | page=122-126 }}</ref>。予定では1カ月程度の日程であったが5月半ばになっても帰国しないため、家族の依頼により[[外務省]]は現地公館に対して調査を指令している。辻はラオス入りを支援した旧日本軍兵士・現地軍将校によって4月21日に目撃されたのを最後に消息を絶った<ref>[[#ラオスの霧]]28-34頁</ref>。その後の調査によって、仏教の僧侶に扮してラオス北部の[[ジャール平原]]へ単身向かったことが判明している<ref name="ラオスの霧18"/>。 |
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失踪の真相を巡ってさまざまな説が主張された。虎か毒蛇に襲われ死亡した<ref>[[#ラオスの霧]]94頁</ref>、アジアの政治に介入するのを恐れた[[アメリカ中央情報局|CIA]]が暗殺した<ref name="ラオスの霧26">[[#ラオスの霧]]26頁</ref>、ベトナムで反共義勇軍で戦った<ref>[[#ラオスの霧]]93、98-101頁</ref>、[[キューバ]]で首相[[フィデル・カストロ]]の支援工作をしている<ref name="ラオスの霧26"/>、ジャール平原からハノイに向かう旧ソ連の飛行機に乗ったが墜落した<ref name="sengo">[[三好徹]]﹃戦後人物誌﹄文春文庫 1986年 ISBN 4167121115 145頁</ref>、エジプトの大統領ナセルの軍事顧問となった、などがある。辻の[[失踪]]については、[[1962年]]︵昭和37年︶5月4日の参議院[[議院運営委員会]]で報告・議論がなされている<ref>{{Cite web |
失踪の真相を巡ってさまざまな説が主張された。そもそもラオスに向かった理由も判然としない。現地の少数民族の独立活動を支援しようとしたという説の他、朝枝繁晴が、敗戦後に中国に逃れ蒋介石に匿われて重慶にいた頃にタイ・ラオス・ミャンマーの黄金の三角地帯からアヘンを仕入れ隠匿していたので、それを回収して中国で売り選挙資金を得るつもりだったのではないかとの推理を、半藤一利に語った<ref>{{Cite book|和書 |title=昭和史の人間学 |date=2023-1-20 |publisher=文藝春秋 |page=138 |author=半藤一利}}</ref>ように、何らかの旧日本軍の隠匿物資を回収しようとしたという説等がある。最終的に死んだものとし、その原因も、虎か毒蛇に襲われ死亡した<ref>[[#ラオスの霧]]94頁</ref>、アジアの政治に介入するのを恐れた[[アメリカ中央情報局|CIA]]が暗殺した<ref name="ラオスの霧26">[[#ラオスの霧]]26頁</ref>、ベトナムで反共義勇軍で戦った<ref>[[#ラオスの霧]]93、98-101頁</ref>、[[キューバ]]で首相[[フィデル・カストロ]]の支援工作をしている<ref name="ラオスの霧26"/>、ジャール平原からハノイに向かう旧ソ連の飛行機に乗ったが墜落した<ref name="sengo">[[三好徹]]﹃戦後人物誌﹄文春文庫 1986年 ISBN 4167121115 145頁</ref>、エジプトの大統領ナセルの軍事顧問となった、などがある。辻の[[失踪]]については、[[1962年]]︵昭和37年︶5月4日の参議院[[議院運営委員会]]で報告・議論がなされている<ref>{{Cite web|和書|date=1962-05-04 |url=https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=104014024X02119620504 |title=﹁議員辻政信君に関する件﹂]第40回国会 議院運営委員会 第21号 |publisher=参議院 |accessdate=2020-08-01}}</ref>。
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辻がラオスで消息を絶ってから9年後の1970年(昭和45年)4月13日付の『[[朝日新聞]]』で辻の消息に関する記事が掲載された<ref>[[#ラオスの霧]]102頁</ref>。従軍カメラマンの楊光宇<ref group="注釈">天文学者の[[楊光宇]]とは別人。</ref> による証言によると、1961年4月に辻は[[パテート・ラーオ]]に捕らえられ、「中国語なら少しわかる」という辻の申し出により、中立派軍からカンカイの司令部にいた従軍カメラマン楊が通訳にかり出された<ref>[[#ラオスの霧]]103頁</ref>。 |
辻がラオスで消息を絶ってから9年後の1970年(昭和45年)4月13日付の『[[朝日新聞]]』で辻の消息に関する記事が掲載された<ref>[[#ラオスの霧]]102頁</ref>。従軍カメラマンの楊光宇<ref group="注釈">天文学者の[[楊光宇]]とは別人。</ref> による証言によると、1961年4月に辻は[[パテート・ラーオ|パテト・ラオ]]に捕らえられ、「中国語なら少しわかる」という辻の申し出により、中立派軍からカンカイの司令部にいた従軍カメラマン楊が通訳にかり出された<ref>[[#ラオスの霧]]103頁</ref>。 |
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6月頃に楊は、脱走しビエンチャンへ向かうのに協力して欲しいと辻から報酬を引き換えに持ちかけられたが、ほどなく軍の命令により[[北京]]へ写真の研修に向かい、1962年3月にラオスへ戻った<ref name="ラオスの霧104">[[#ラオスの霧]]104-105頁</ref>。カンカイには既に辻の姿はなく、パテート・ラーオの司令官や兵士からは「辻は逃げた」、「楊が北京に向ってから1ヶ月ほど経って姿が見えなくなった」などと言われた<ref name="ラオスの霧104"/>。楊は「結局、1965年まで私は中立派軍にいました。辻さんの行方はついにわかりませんでした。これは私の意見ですが、変装したということが、スパイ容疑を決定的にしたようです。ひそかに処刑されたのだ、と思います」と述べている<ref>[http://www.mekong.ne.jp/database/person/tsujimasanobu/19700413.htm 『“私は辻政信氏の通訳だった” ラオスの中国人が証言 パテト・ラオ 9年前、尋問に立会う』朝日新聞1970年4月13日]</ref>。ラオスで現地調査を行った[[三木公平]]は、辻は僧衣をつけていたことや軍歴・経歴からスパイと疑われ、[[フランス軍]]将校の関与により[[処刑]]されたという証言を得ている<ref>[[#ラオスの霧]]203-206頁</ref>。 |
6月頃に楊は、脱走しビエンチャンへ向かうのに協力して欲しいと辻から報酬を引き換えに持ちかけられたが、ほどなく軍の命令により[[北京]]へ写真の研修に向かい、1962年3月にラオスへ戻った<ref name="ラオスの霧104">[[#ラオスの霧]]104-105頁</ref>。カンカイには既に辻の姿はなく、パテート・ラーオの司令官や兵士からは「辻は逃げた」、「楊が北京に向ってから1ヶ月ほど経って姿が見えなくなった」などと言われた<ref name="ラオスの霧104"/>。楊は「結局、1965年まで私は中立派軍にいました。辻さんの行方はついにわかりませんでした。これは私の意見ですが、変装したということが、スパイ容疑を決定的にしたようです。ひそかに処刑されたのだ、と思います」と述べている<ref>[http://www.mekong.ne.jp/database/person/tsujimasanobu/19700413.htm 『“私は辻政信氏の通訳だった” ラオスの中国人が証言 パテト・ラオ 9年前、尋問に立会う』朝日新聞1970年4月13日]</ref>。ラオスで現地調査を行った[[三木公平]]は、辻は僧衣をつけていたことや軍歴・経歴からスパイと疑われ、[[フランス軍]]将校の関与により[[処刑]]されたという証言を得ている<ref>[[#ラオスの霧]]203-206頁</ref>。 |
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== CIA極秘文書 == |
== CIA極秘文書 == |
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[[2005年]]に機密解除・公開された、アメリカ[[中央情報局]](CIA)の文書には『[[服部卓四郎]]ファイル』や『辻政信ファイル』が存在する。[[有馬哲夫]]はファイル解析の結果、辻の『潜行三千里』の記述は「おおむね事実」であるという。辻の大陸での行動は中国国民党からの報告がCIA文書となって残っているので、辻の活動はその文書から確認できるという<ref>{{Harvnb|有馬|2010|loc= |
[[2005年]]に機密解除・公開された、アメリカ[[中央情報局]](CIA)の文書には『[[服部卓四郎]]ファイル』や『辻政信ファイル』が存在する。[[有馬哲夫]]はファイル解析の結果、辻の『潜行三千里』の記述は「おおむね事実」であるという。辻の大陸での行動は中国国民党からの報告がCIA文書となって残っているので、辻の活動はその文書から確認できるという<ref>{{Harvnb|有馬|2010|loc=§第六章 第三次世界大戦アメリカ必敗論を説いた男――辻政信ファイル}}</ref>。 |
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[[アメリカ国立公文書記録管理局|アメリカ国立公文書館]]で2005年から2006年に解禁されたCIAの機密文書によると、CIAを始めとするアメリカの情報機関は[[第二次世界大戦後|戦後]]、辻らに接近したという<ref>[http://www.archives.gov/iwg/declassified-records/rg-263-cia-records/second-release-name-files.html CIA Records - Name Files]</ref>。しかし、辻を「政治においても情報工作においても性格と経験のなさから無価値である」「機会があるならばためらいもせずに[[第三次世界大戦]]を起こすような男」([[1954年]]の文書)と酷評している。 |
[[アメリカ国立公文書記録管理局|アメリカ国立公文書館]]で2005年から2006年に解禁されたCIAの機密文書によると、CIAを始めとするアメリカの情報機関は[[第二次世界大戦後|戦後]]、辻らに接近したという<ref>[http://www.archives.gov/iwg/declassified-records/rg-263-cia-records/second-release-name-files.html CIA Records - Name Files]</ref>。しかし、辻を「政治においても情報工作においても性格と経験のなさから無価値である」「機会があるならばためらいもせずに[[第三次世界大戦]]を起こすような男」([[1954年]]の文書)と酷評している。 |
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上司への直言の例として、[[ガダルカナル島の戦い|ガダルカナル島攻防戦]]を巡る駆逐艦の輸送問題([[鼠輸送]])で作戦が失敗したとき、辻は陸軍参謀本部で激怒、参謀総長[[杉山元]]陸軍大将は[[昭和天皇]]に海軍の輸送失敗(12月11日、第二水雷戦隊司令官[[田中頼三]]少将指揮。旗艦[[照月 (駆逐艦)|照月]]沈没){{refnest|[[#高松宮五|高松宮日記5巻]]、311頁(1942年12月11日記事)}}を、陸軍側の視点から詳細に説明している{{refnest|[[#高松宮五|高松宮日記5巻]]、335-336頁(1942年12月18日記事)<ref group="注釈">◎参謀総長「ガ」島作戦ニツキ奏上。海軍デ輸送ヲヨクヤラヌト云フ現地電報ニツイテ申上ゲタ。駆逐艦ヲ擱坐揚陸スルナント云フコトヲ申上ゲタラシク、侍従武官カラソンナ計画アリヤト聞イテキタ。現地電ハ十一日夜ノ駆逐艦ドラム缶輸送モ駆逐艦ガ遠クカラ周章トシテ投ゲ出シタノデ、一二〇〇缶中二五〇ヨリトレナカツタ等アリ。辻中佐<ruby><rb>ノ</rb><rt>ママ</rt></ruby>「カン〱」ニナツテルノデ、ソンナコトマデ奏上シタ。(以下略)</ref>}}。 |
上司への直言の例として、[[ガダルカナル島の戦い|ガダルカナル島攻防戦]]を巡る駆逐艦の輸送問題([[鼠輸送]])で作戦が失敗したとき、辻は陸軍参謀本部で激怒、参謀総長[[杉山元]]陸軍大将は[[昭和天皇]]に海軍の輸送失敗(12月11日、第二水雷戦隊司令官[[田中頼三]]少将指揮。旗艦[[照月 (駆逐艦)|照月]]沈没){{refnest|[[#高松宮五|高松宮日記5巻]]、311頁(1942年12月11日記事)}}を、陸軍側の視点から詳細に説明している{{refnest|[[#高松宮五|高松宮日記5巻]]、335-336頁(1942年12月18日記事)<ref group="注釈">◎参謀総長「ガ」島作戦ニツキ奏上。海軍デ輸送ヲヨクヤラヌト云フ現地電報ニツイテ申上ゲタ。駆逐艦ヲ擱坐揚陸スルナント云フコトヲ申上ゲタラシク、侍従武官カラソンナ計画アリヤト聞イテキタ。現地電ハ十一日夜ノ駆逐艦ドラム缶輸送モ駆逐艦ガ遠クカラ周章トシテ投ゲ出シタノデ、一二〇〇缶中二五〇ヨリトレナカツタ等アリ。辻中佐<ruby><rb>ノ</rb><rt>ママ</rt></ruby>「カン〱」ニナツテルノデ、ソンナコトマデ奏上シタ。(以下略)</ref>}}。 |
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平等主義に徹し、正義感が強かったとされる例では、[[1942年]]([[昭和]]17年)7月23日、[[ポートモレスビー作戦]]にともない[[チューク諸島|トラック島泊地]]に出張<ref name="辻(ガ島1975)30">[[#ガダルカナル(辻1975)]]30-32頁</ref>。海軍専用料亭([[小松 (料亭)#トラック・パイン|料亭小松]])で[[第四艦隊 (日本海軍)#第四艦隊(三代目)|第四艦隊]]司令長官[[井上成美]]中将の歓待を受けた際、海軍側の好意を感じつつも、[[芸者]]達を見て『しかしそれはあまりにも第一線の様相とかけはなれた情緒であった。』と回想している<ref name="辻(ガ島1975)30"/>。またトラック泊地海軍宿舎の便所や湯殿がコンクリート造りだったことに対して『このセメントでトーチカを作っていたら、あんなみじめな敗け方はしなかった』と評した<ref name="辻(ガ島1975)30"/>。同年9月下旬<ref group="注釈">辻の回想では9月24日だが、実際は9月27日だったとも。</ref>、[[ガダルカナルの戦い]]に関連して[[チューク諸島|トラック島泊地]]に停泊していた[[連合艦隊]]旗艦の[[大和型戦艦]]1番艦「[[大和 (戦艦)|大和]]」へ連合艦隊司令長官[[山本五十六]]大将を訪ねたとき、物資統制にもかかわらず山海の珍味が食卓に並んでいたのを見て不快に思い「海軍はゼイタクですね」と皮肉を述べた<ref name="辻(ガ島1975)104">[[#ガダルカナル(辻1975)]]104-105頁</ref>。直後、辻は海軍側から山本長官の心遣いであることを知らされ「{{読み仮名|下司|げす}}の心をもって、元帥の真意を |
平等主義に徹し、正義感が強かったとされる例では、[[1942年]]([[昭和]]17年)7月23日、[[ポートモレスビー作戦]]にともない[[チューク諸島|トラック島泊地]]に出張<ref name="辻(ガ島1975)30">[[#ガダルカナル(辻1975)]]30-32頁</ref>。海軍専用料亭([[小松 (料亭)#トラック・パイン|料亭小松]])で[[第四艦隊 (日本海軍)#第四艦隊(三代目)|第四艦隊]]司令長官[[井上成美]]中将の歓待を受けた際、海軍側の好意を感じつつも、[[芸者]]達を見て『しかしそれはあまりにも第一線の様相とかけはなれた情緒であった。』と回想している<ref name="辻(ガ島1975)30"/>。またトラック泊地海軍宿舎の便所や湯殿がコンクリート造りだったことに対して『このセメントでトーチカを作っていたら、あんなみじめな敗け方はしなかった』と評した<ref name="辻(ガ島1975)30"/>。同年9月下旬<ref group="注釈">辻の回想では9月24日だが、実際は9月27日だったとも。</ref>、[[ガダルカナルの戦い]]に関連して[[チューク諸島|トラック島泊地]]に停泊していた[[連合艦隊]]旗艦の[[大和型戦艦]]1番艦「[[大和 (戦艦)|大和]]」へ連合艦隊司令長官[[山本五十六]]大将を訪ねたとき、物資統制にもかかわらず山海の珍味が食卓に並んでいたのを見て不快に思い「海軍はゼイタクですね」と皮肉を述べた<ref name="辻(ガ島1975)104">[[#ガダルカナル(辻1975)]]104-105頁</ref>。直後、辻は海軍側から山本長官の心遣いであることを知らされ「{{読み仮名|下司|げす}}の心をもって、元帥の真意を忖度しえなかった、恥ずかしさ。穴があったら入りたい気持ちであった」と回想<ref name="辻(ガ島1975)104"/>。山本の態度から日本海軍と日本陸軍の統率を比較して「[[下剋上]]の悪風が敗れたる陸軍に無かったと主張することはできないが、さらに一歩考えねばならぬことは、幕僚にわがままを許すのは、上官の罪ではなかろうか。」と反省した<ref name="辻(ガ島1975)104"/>。 |
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平等主義・正義感の他の例として、ノモンハンにおいて負傷した兵士を置き去りにして退却する友軍を叱咤し、自ら最前線に進み負傷した兵士を背負って戻ってきた<ref>{{Harvnb|半藤|保坂|2008|p=182}}</ref> ともいう。辻は、連隊長・[[須見新一郎]]が第一線で[[ビール]](実際はビール瓶に入った水)を飲んでいるのを目撃した際に義憤にかられて階級を無視して連隊長を怒鳴りつけたとしている<ref>辻政信『ノモンハン』</ref>。 |
平等主義・正義感の他の例として、ノモンハンにおいて負傷した兵士を置き去りにして退却する友軍を叱咤し、自ら最前線に進み負傷した兵士を背負って戻ってきた<ref>{{Harvnb|半藤|保坂|2008|p=182}}</ref> ともいう。辻は、連隊長・[[須見新一郎]]が第一線で[[ビール]](実際はビール瓶に入った水)を飲んでいるのを目撃した際に義憤にかられて階級を無視して連隊長を怒鳴りつけたとしている<ref>辻政信『ノモンハン』</ref>。 |
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戦後には、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]から「[[第三次世界大戦]]さえ起こしかねない男」と危険視された<ref>{{Harvnb|有馬|2010|p={{要ページ番号|date=2015年9月}}}}</ref>。 |
戦後には、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]から「[[第三次世界大戦]]さえ起こしかねない男」と危険視された<ref>{{Harvnb|有馬|2010|p={{要ページ番号|date=2015年9月}}}}</ref>。 |
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[[内灘闘争]]では応援にかけつけた写真が残っている<ref>{{Cite web|和書|title=“負の遺産”にも価値 井出明さん 旅の記録を出版:北陸中日新聞Web |url=https://www.chunichi.co.jp/article/34776 |website=中日新聞Web |access-date=2022-12-03 |language=ja |publisher=[[中日新聞社]] |date=2018-09-01}}</ref>。辻先生が来たと皆の意気が上がったが、夜になると「寒くなるから皆さん下がって下さい」と皆を座り込みから遠ざけ、辻を信用した皆は言うとおりにした。辻は新聞記者も遠ざけ、単身米軍の高官と話をして戻ってきた。そのまま寝ていたが、翌朝に砲撃が始まった。流石に砲弾の下に誰も行けない状態で、ここで辻は「始まってしまっては仕方ない。私は国会で闘争を続けます」と帰っていった<ref>『真実について』、清水幾太郎、和光社、1953、P201-202</ref>。 |
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⚫ | [[半藤一利]]は[[牟田口廉也]](無理の多いインパール作戦で多くの日本兵の犠牲者を出した)と辻を比して「少なくとも牟田口は自分の責任を口にしていたが、辻は自分の責任を全く考えていない」と2人を対照化している。半藤は戦後、議員となった辻を取材した際、目の前に「絶対悪というものが出現存在する気配にとらわれた」と感想を記している<ref>半藤一利『ノモンハンの夏』{{要ページ番号|date=2015年9月}}</ref><ref>{{Cite book |和書 |last= |first= |author= |
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[[半藤一利]]は[[牟田口廉也]]︵無理の多いインパール作戦で多くの日本兵の犠牲者を出した︶と辻を比して﹁少なくとも牟田口は自分の責任を口にしていたが、辻は自分の責任を全く考えていない﹂と2人を対照化している。半藤は戦後、議員となった辻を取材した際、目の前に﹁絶対悪というものが出現存在する気配にとらわれた﹂と感想を記している<ref>半藤一利﹃ノモンハンの夏﹄{{要ページ番号|date=2015年9月}}</ref><ref>{{Cite book |和書 |last= |first= |author=半藤一利|authorlink=半藤一利|coauthors= |year=2007|title=昭和陸海軍の失敗―彼らはなぜ国家を破滅の淵に追いやったのか |publisher=[[文藝春秋]] |pages={{要ページ番号|date=2015年9月}} |id= |isbn= 4166606107}}</ref>。これについて、辻の次男である辻毅は、半藤は父に1回しか会っていないとし﹁しかも、5分、10分ですよ。それで父の何が分かると言うのでしょうか﹂と半藤を批判している<ref name="maeda">{{Cite book |和書 |author=前田啓介|authorlink=前田啓介|year=2021|title= 辻政信の真実 失踪60年 伝説の作戦参謀の謎を追う|publisher= [[小学館]] |page=14 |id= |isbn=9784098254019 |quote= }}</ref>。
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その一方で、辻と接した軍人たち、辻の出身地の人々などには、辻の軍事功績や人柄を支持し、敬愛した人々が多く存在した<ref>{{Cite book |和書 |author=中所豊 |year=1948 |title=日本軍閥秘史 裁かれる日まで |publisher=中華國際新聞社 |pages={{要ページ番号|date=2015年9月}} }}</ref>。終戦後30年を経た昭和54年(1979年)に、辻の出身地である[[加賀市]][[山中温泉]]に辻の銅像が建立されている。 |
その一方で、辻と接した軍人たち、辻の出身地の人々などには、辻の軍事功績や人柄を支持し、敬愛した人々が多く存在した<ref>{{Cite book |和書 |author=中所豊 |year=1948 |title=日本軍閥秘史 裁かれる日まで |publisher=中華國際新聞社 |pages={{要ページ番号|date=2015年9月}} }}</ref>。終戦後30年を経た昭和54年(1979年)に、辻の出身地である[[加賀市]][[山中温泉]]に辻の銅像が建立されている。 |
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== 親族 == |
== 親族 == |
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長女の英子は、辻と同じく[[陸軍士官学校]]出身であった[[衆議院議員]][[堀内一雄]]の子息[[堀内光雄]] |
長女の英子は、辻と同じく[[陸軍士官学校]]出身であった[[衆議院議員]][[堀内一雄]]の子息[[堀内光雄]]([[富士急行]][[株式会社]]のオーナー。後に[[衆議院議員]])と結婚<ref name="堀内英子さん死去(故堀内光雄元通産相の妻)">[http://www.jiji.com/jc/article?k=2017030800961&g=obt 堀内英子さん死去(故堀内光雄元通産相の妻)] [[時事通信]] (2017年3月8日16:53) 2017年3月13日閲覧。</ref> し、その間の子(辻の孫)が[[堀内光一郎]]([[富士急行]][[株式会社]]の代表取締役社長。[[衆議院議員]][[堀内詔子]]の夫)である<ref name="ReferenceA"/>。光一郎と詔子の子息(辻の曽孫)の堀内基光は[[みずほ銀行]]勤務で、秋篠宮[[佳子内親王]]との交際が週刊誌に報じられた<ref>デイリー新潮2017年6月1日</ref>が、母詔子は交際の事実を否定している。 |
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二女の美登子は[[植村甲午郎]]の二男・泰久([[仙台放送]]社長)の妻<ref>『閨閥』佐藤朝奏、立風書房、1981年、p84</ref>。 |
二女の美登子は[[植村甲午郎]]の二男・泰久([[仙台放送]]第4代社長)の妻<ref>『閨閥』佐藤朝奏、立風書房、1981年、p84</ref>。 |
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== 著書 == |
== 著書 == |
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* 『シンガポール -運命の転機-』([[東西南北社]]、1952年) |
* 『シンガポール -運命の転機-』([[東西南北社]]、1952年) |
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* 『潜行三千里』(1950年 2008年に[[毎日ワンズ]]より新装再版)『動乱の眼 アジア・アラブの指導者と語る』(共に[[毎日新聞社]]、1958年) |
* 『潜行三千里』(1950年 2008年に[[毎日ワンズ]]より新装再版)『動乱の眼 アジア・アラブの指導者と語る』(共に[[毎日新聞社]]、1958年) |
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* 『ノモンハン秘史』 - 家族に宛てた遺書を公開([[毎日ワンズ]]、2009年) |
* 『ノモンハン秘史』 - 家族に宛てた遺書を公開([[毎日ワンズ]]、2009年)その後、[[2022年]][[7月8日]]に、毎日ワンズより「ノモンハン秘史[完全版]」が出版されている。 |
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=== 手記 === |
=== 手記 === |
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﹃[[週刊新潮]]﹄2006年2月23日号<ref>{{Cite journal |和書 |title=﹁元参謀﹁辻政信﹂が失踪直前に残した﹃未発表手記﹄ |journal=[[週刊新潮]] |issue=2006年2月23日号|publisher=新潮社 |pages=48-50}}</ref> で、辻が失踪直前に次男に託した手記の存在が明らかになった。ノート6冊に及ぶ手記には、陸軍参謀本部や関東軍での生活など自らの半生が詳細に綴られているといい、専門家による分析が待たれている。
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﹃[[週刊新潮]]﹄2006年2月23日号<ref>{{Cite journal |和書 |title=﹁元参謀﹁辻政信﹂が失踪直前に残した﹃未発表手記﹄ |journal=[[週刊新潮]] |issue=2006年2月23日号|publisher=新潮社 |pages=48-50}}</ref> で、辻が失踪直前に次男に託した手記の存在が明らかになった。題名は﹁ノモンハンの罪人と呼ばれて﹂。ノート6冊に及ぶ手記には、陸軍参謀本部や関東軍での生活など自らの半生が詳細に綴られているといい、専門家による分析が待たれている。
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なお、辻の遺書は『ノモンハン秘史』([[毎日ワンズ]]、2009年)として公刊された。 |
なお、辻の遺書は『ノモンハン秘史』([[毎日ワンズ]]、2009年)として公刊された。 |
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* [[安彦良和]]の長編漫画『[[虹色のトロツキー]]』では、ノモンハン事件をきっかけに辻が日ソの全面戦争を目論み、またこの事件前に、対ソ戦争計画について、辻と師匠の[[石原莞爾]]とがさまざまな謀議を重ねていたことが描かれている。 |
* [[安彦良和]]の長編漫画『[[虹色のトロツキー]]』では、ノモンハン事件をきっかけに辻が日ソの全面戦争を目論み、またこの事件前に、対ソ戦争計画について、辻と師匠の[[石原莞爾]]とがさまざまな謀議を重ねていたことが描かれている。 |
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* [[かわぐちかいじ]]の長編漫画『[[ジパング (漫画)|ジパング]]』では、[[チューク諸島|トラック]]を来訪し[[統帥権]]を盾に半ば強引に連合艦隊首脳の了承を得た後、架空の登場人物である草加拓海海軍少佐と会見し、日本の敗北と60年後の戦闘艦「みらい」の存在を知ることになっている。その後、作品上では[[大本営]]に[[ガダルカナル島]]からの撤退命令を具申する決意をし、ガダルカナルからの撤退を史実より半年早く実現させる。 |
* [[かわぐちかいじ]]の長編漫画『[[ジパング (漫画)|ジパング]]』では、[[チューク諸島|トラック]]を来訪し[[統帥権]]を盾に半ば強引に連合艦隊首脳の了承を得た後、架空の登場人物である草加拓海海軍少佐と会見し、日本の敗北と60年後の戦闘艦「みらい」の存在を知ることになっている。その後、作品上では[[大本営]]に[[ガダルカナル島]]からの撤退命令を具申する決意をし、ガダルカナルからの撤退を史実より半年早く実現させる。 |
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*『[[昭和天皇物語]]』([[2017年]] から[[小学館]]『[[ビッグコミックオリジナル]]』連載、作画 [[能條純一]]:原作 [[半藤一利]]「昭和史」、脚本:[[永福一成]]、監修:志波秀宇) |
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==辻政信を演じた人物== |
==辻政信を演じた人物== |
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{{参照方法|section=1|date=2012年5月}} |
{{参照方法|section=1|date=2012年5月}} |
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<!-- ウィキペディア推奨スタイル、著者五十音順。ここでは異なる2箇所以上を本文から参照されているものを列挙 --> |
<!-- ウィキペディア推奨スタイル、著者五十音順。ここでは異なる2箇所以上を本文から参照されているものを列挙 --> |
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* {{Cite book |和書 |author= |
* {{Cite book |和書 |author=有馬哲夫|authorlink=有馬哲夫 |year=2010 |title=大本営参謀は戦後何と戦ったのか |publisher=[[新潮社]] |series=[[新潮新書]] |isbn=978-4-10-610400-8 |ref={{SfnRef|有馬|2010}} }} |
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* 今井貞夫 監修高橋久志『幻の日中和平工作 軍人今井武夫の生涯』中央公論事業出版 ISBN 9784895142946 |
* 今井貞夫 監修高橋久志『幻の日中和平工作 軍人今井武夫の生涯』中央公論事業出版 ISBN 9784895142946 |
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* 生出寿『「政治家」辻政信の最後 - 失踪「元大本営参謀」波瀾の生涯』光人社 ISBN 4769804989 |
* 生出寿『「政治家」辻政信の最後 - 失踪「元大本営参謀」波瀾の生涯』光人社 ISBN 4769804989 |
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* {{Cite book|和書|author= |
* {{Cite book|和書|author=大西覚|authorlink=大西覚|year = 1977| title = 秘録昭南華僑粛清事件|publisher = 金剛出版|date = 1977-4 |id={{全国書誌番号|77032906}} |ref= {{SfnRef|大西|1977}} }} |
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* [[河田宏]]『満州建国大学物語 - 時代を引き受けようとした若者たち』原書房 ISBN 9784562035267 |
* [[河田宏]]『満州建国大学物語 - 時代を引き受けようとした若者たち』原書房 ISBN 9784562035267 |
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* {{Cite book |和書 |author= |
* {{Cite book |和書 |author=杉森久英|authorlink=杉森久英 |year=1982 |title=参謀・辻政信 |publisher= [[河出書房新社]] |series=[[河出文庫]] |id={{全国書誌番号|82046894}} |ref={{SfnRef|杉森|1982}} }} |
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* {{Cite book|和書|author= |
* {{Cite book|和書|author=杉田一次|authorlink=杉田一次 |year = 1987 |title = 情報なき戦争指導|publisher = 原書房 |ref= {{SfnRef|杉田|1987}} }} |
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* {{Cite book|和書|author=高松宮宣仁親王|authorlink=高松宮宣仁親王 |editor=細川護貞ほか|editor-link=細川護貞|title=高松宮日記 第四巻 {{small|昭和十七年 一月~九月}}|publisher=中央公論社|date=1996-07|origyear=|ISBN=4-12-403394-X|ref=高松宮四}} |
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* {{Cite book|和書|author=高松宮宣仁親王|editor=細川護貞ほか|title=高松宮日記 第五巻 {{small|昭和十七年 十月~一月}}|publisher=中央公論社|date=1997-03|origyear=|ISBN=4-12-403395-8|ref=高松宮五}} |
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* {{Cite book|和書|author=高松宮宣仁親王|editor=細川護貞ほか|title=高松宮日記 第六巻 {{small|昭和十八年 二月~九月}}|publisher=中央公論社|date=1997-03|origyear=|ISBN=4-12-403396-6|ref=高松宮六}} |
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* {{Cite book |和書 |author=田々宮英太郎|authorlink=田々宮英太郎 |year=1986 |title=参謀辻政信・伝奇 |publisher=芙蓉書房 |id={{全国書誌番号|86060346}} |ref={{SfnRef|田々宮|1986}} }} |
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* 田々宮英太郎『権謀に憑かれた参謀辻政信 - 太平洋戦争の舞台裏』 芙蓉書房出版、1999年 ISBN 9784829502327 |
* 田々宮英太郎『権謀に憑かれた参謀辻政信 - 太平洋戦争の舞台裏』 芙蓉書房出版、1999年 ISBN 9784829502327 |
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* {{Cite book|和書|author='''辻政信'''|chapter=|title=ガダルカナル|publisher=[[養徳社]]|year=1951|month=4|origyear=|ISBN=|ref=ガダルカナル(辻1951)}} |
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* 橋本哲男『辻政信と七人の僧 - 奇才参謀と部下たちの潜行三千里』光人社NF文庫 ISBN 4769820658 |
* 橋本哲男『辻政信と七人の僧 - 奇才参謀と部下たちの潜行三千里』光人社NF文庫 ISBN 4769820658 |
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* [[秦郁彦]]『日本陸海軍総合事典 第2版』東京大学出版会、2005年。 |
* [[秦郁彦]]『日本陸海軍総合事典 第2版』東京大学出版会、2005年。 |
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* {{Cite book |和書 |author1=半藤一利|authorlink1=半藤一利|author2=保坂正康|authorlink2=保坂正康|year=2008 |title=昭和の名将と愚将 |publisher=[[文藝春秋]] |series=[[文春新書]] |isbn=978-4-16-660618-4 |ref={{SfnRef|半藤|保坂|2008}} }} |
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* {{Cite book|和書|author=防衛研|year = 1966|editor = 防衛庁防衛研修所戦史室|title = マレー進攻作戦|publisher = 朝雲新聞社|series= 戦史叢書|ref= harv}} |
* {{Cite book|和書|author=防衛研|year = 1966|editor = 防衛庁防衛研修所戦史室|title = マレー進攻作戦|publisher = 朝雲新聞社|series= 戦史叢書|ref= harv}} |
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* {{Cite book|和書|author=三木公平|authorlink=三木公平|year=1985|month=9|title=参謀辻政信 ラオスの霧に消ゆ|publisher=波書房|isbn=4-8164-1193-3|ref=ラオスの霧}} |
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* {{Cite book|和書|author=辻政信|year=2020|month=8|title=ノモンハン秘史 〔完全版〕|publisher=毎日ワンズ|isbn=978-4-909447-11-1}} |
* {{Cite book|和書|author=辻政信|year=2020|month=8|title=ノモンハン秘史 〔完全版〕|publisher=毎日ワンズ|isbn=978-4-909447-11-1}} |
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* 前田啓介『辻政信の真実』小学館、2021年。ISBN 978-4-09-825401-9 |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
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* [[これだけ読めば戦は勝てる]] |
* [[これだけ読めば戦は勝てる]] |
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{{旧石川1区選出衆議院議員(1947-1993)}} |
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{{旧全国選出参議院議員 |
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{{Normdaten}} |
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[[Category:昭和時代の参議院議員]] |
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[[Category:石川県選出の衆議院議員]] |
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[[Category:日本民主党の衆議院議員]] |
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[[Category:自由民主党の衆議院議員]] |
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[[Category:昭和時代戦後の衆議院議員]] |
[[Category:昭和時代戦後の衆議院議員]] |
2024年5月31日 (金) 11:57時点における最新版
辻 政信参謀(中佐の頃) | |
渾名 |
「作戦の神様」 「第三次世界大戦さえ起こしかねない男」 |
生誕 |
1902年10月11日 日本・石川県江沼郡東谷奥村今立 |
死没 | 1961年以降消息不明 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1924年 - 1945年 |
最終階級 | 陸軍大佐 |
除隊後 |
著述業 衆議院議員 参議院議員 |
辻 政信 つじ まさのぶ | |
---|---|
出身校 | 陸軍大学校卒業 |
前職 | 陸軍軍人(大本営陸軍部参謀) |
所属政党 |
(自由党→) (自由民主党→) (無所属クラブ→) (第二院クラブ→) 無所属 |
親族 |
長男・辻徹[1] 長女・堀内英子[2] 娘婿・堀内光雄 孫・堀内光一郎(富士急行社長)[3] |
選挙区 | 全国区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1959年6月2日 - 1965年6月1日[注釈 1] |
選挙区 | 石川県第1区 |
当選回数 | 4回 |
在任期間 | 1952年10月2日 - 1959年4月30日 |