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ファイル:Nihonbashi 12.jpg|'''[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]'''。ここは徳川家康が1603年3月に江戸で[[江戸幕府]]を開いた時に真っ先に[[町割]]を整備した場所で、「江戸本町」とも呼ばれた。家康の全国道路網整備計画で[[五街道]]の起点とされ交通・物流の要所となり全国から人々・物品が集まる地となってゆくことに。家康は同年4月にここの川に木造の太鼓橋をかけさせ「[[日本橋 (東京都中央区の橋)|日本橋]]」と名付け、それがここの地名ともなり、その川の名は「日本橋川」となった。江戸時代、金貨や銀貨の製造組織である[[金座]]や[[銀座 (歴史)|銀座]]が置かれ、[[両替商]]も、また薬問屋なども集まり、現在も銀行や製薬会社などが集まる。現在もいくつもの重要な国道の起点で<ref group="注釈">[[国道1号]](旧東海道)・[[国道4号]]([[日光街道]]・[[奥州街道]])、[[国道6号]]([[水戸街道]])・[[国道14号]]([[千葉街道]])・[[国道15号]]・[[国道17号]]([[中山道]])・[[国道20号]]([[甲州街道]])の起点。</ref>、[[道路元標]]の設置場所。2040年に高速道路を地下化する計画が進行中<ref group="注釈">[[1964年東京オリンピック]]準備で[[首都高速道路|首都高]]整備計画を立てた人たちがこの付近の景観を台無しにしてしまい、橋から人々の足も遠のいた。悪景観は周辺の街づくりへの悪影響も大きいので、2040年に高速道路を地下化する計画が進行中。</ref>。
ファイル:Nihonbashi 12.jpg|'''[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]'''。1603年3月、 徳川家康が[[江戸幕府]]を開いた時に、 真っ先に[[町割]]を整備した場所で、「江戸本町」とも呼ばれた。家康の全国道路網整備計画で[[五街道]]の起点とされ交通・物流の要所となり全国から人々・物品が集まる地となってゆくことに。家康は同年4月にここの川に木造の太鼓橋をかけさせ「[[日本橋 (東京都中央区の橋)|日本橋]]」と名付け、それがここの地名ともなり、その川の名は「日本橋川」となった。江戸時代、金貨や銀貨の製造組織である[[金座]]や[[銀座 (歴史)|銀座]]が置かれ、[[両替商]]も、また薬問屋なども集まり、現在も銀行や製薬会社などが集まる。現在もいくつもの重要な国道の起点で<ref group="注釈">[[国道1号]](旧東海道)・[[国道4号]]([[日光街道]]・[[奥州街道]])、[[国道6号]]([[水戸街道]])・[[国道14号]]([[千葉街道]])・[[国道15号]]・[[国道17号]]([[中山道]])・[[国道20号]]([[甲州街道]])の起点。</ref>、[[道路元標]]の設置場所。2040年に高速道路を地下化する計画が進行中<ref group="注釈">[[1964年東京オリンピック]]準備で[[首都高速道路|首都高]]整備計画を立てた人たちがこの付近の景観を台無しにしてしまい、橋から人々の足も遠のいた。悪景観は周辺の街づくりへの悪影響も大きいので、2040年に高速道路を地下化する計画が進行中。</ref>。
ファイル:EdoCastleMoatWallBuilding.jpg|'''[[江戸城]]'''の内堀の内側は現在 [[皇居]]や公園([[北の丸公園]]ほか)として用いられている。
ファイル:EdoCastleMoatWallBuilding.jpg|'''[[江戸城]]'''の内堀の内側は現在 [[皇居]]や公園([[北の丸公園]]ほか)として用いられている。
ファイル:Onagi River Aerial photograph 1984.jpg|江戸時代に西の[[隅田川]]から東の[[旧中川]]を直線で結ぶようにつくられ、江戸の水運網の一部だった'''[[小名木川]]'''は現在も変わらぬ姿をとどめている。資源の運搬に使われるほか、現代的な遊覧船も行き交う。
ファイル:Onagi River Aerial photograph 1984.jpg|江戸時代に西の[[隅田川]]から東の[[旧中川]]を直線で結ぶようにつくられ、江戸の水運網の一部だった'''[[小名木川]]'''は現在も変わらぬ姿をとどめている。資源の運搬に使われるほか、現代的な遊覧船も行き交う。
2024年5月18日 (土) 07:21時点における版
この項目では、都市・地名としての東京について説明しています。
地方公共団体としての東京については「東京都 」をご覧ください。
東京都のうち、特別区が置かれている地域については「東京都区部 」をご覧ください。
かつて東京都区部を管轄していた自治体については「東京市 」をご覧ください。
その他については「東京 (曖昧さ回避) 」をご覧ください。
沿革
都市・江戸
名 称 の 上 で は 江 戸 は 東 京 の ﹁ 前 史 ﹂ に あ た り は す る が 、 現 在 の 東 京 の 基 本 構 造 は ﹁ 江 戸 ﹂ の 基 本 構 造 が そ の ま ま 踏 襲 さ れ て い る た め 、 こ の 記 事 で も 概 略 を 解 説 す る 。
1 7 2 7 年 に 西 欧 で 出 版 さ れ た 江 戸 の 地 図
江 戸 は 鎌 倉 幕 府 の 歴 史 書 ﹃ 吾 妻 鏡 ﹄ が 史 料 で の 初 見 で 、 平 安 時 代 後 半 に 発 生 し た 地 名 で あ る 。
平 安 時 代 中 期 の 段 階 に お い て は 東 京 都 心 は 武 蔵 国 豊 島 郡 桜 田 郷 と い う 地 名 で あ り 、 ま だ 江 戸 の 名 前 は 見 え な い が 、 後 に 同 豊 島 郡 に 江 戸 郷 の 記 載 が 見 ら れ る よ う に な り 、 こ の 街 が 江 戸 と 称 さ れ る よ う に な っ た 。
後 に 秩 父 の 秩 父 氏 か ら 分 家 し た 江 戸 氏 に よ っ て 豊 島 郡 江 戸 郷 を 中 心 と し た こ の 地 は 治 め ら れ る 事 と な っ た 。 江 戸 氏 は 後 に 江 戸 城 が 築 城 さ れ る 土 地 に 館 を 置 い て い る 。
太 田 氏 が 江 戸 氏 を 現 在 の 東 京 都 世 田 谷 区 喜 多 見 ま で 追 い 出 し た あ と 、 太 田 道 灌 が 江 戸 氏 の 館 の 跡 に 江 戸 城 を 築 城 。 江 戸 に 城 下 町 を 構 築 す る 。
こ の こ ろ か ら 江 戸 は 規 模 が 大 き く な り 、 鎌 倉 街 道 か ら 商 人 が 出 入 り し て 江 戸 湾 か ら は 商 船 が 入 港 し た た め 市 場 も 開 か れ た 。
江 戸 氏 の 時 代 に は 武 蔵 国 の 中 で も 府 中 な ど と 比 べ て 小 さ な 街 で あ っ た が 、 太 田 氏 の 時 代 に 現 在 に 続 く 大 都 市 と し て の 基 礎 が つ く ら れ る 事 に な る 。
大 永 4 年 ︵ 1 5 2 4 年 に は 、 扇 谷 上 杉 氏 を 破 っ た 後 北 条 氏 の 北 条 氏 綱 の 支 配 下 と な る 。
天 正 18 年 ︵ 1 5 9 0 年 ︶ 、 豊 臣 秀 吉 の 小 田 原 攻 め ︵ 小 田 原 征 伐 ︶ の 際 に 江 戸 城 が 開 城 。 江 戸 は 後 北 条 氏 の 支 配 下 か ら 外 れ 、 秀 吉 の 命 令 に よ っ て 江 戸 城 に 徳 川 家 康 が 入 る 。
明 治 以 降 の 東 京 に 大 き く 影 響 を 与 え た 江 戸 の 街 の 構 築 は 、 太 田 氏 や 後 北 条 氏 か ら 江 戸 を 受 け 継 い だ 徳 川 家 康 に よ る 新 た な 構 想 に 基 づ い て い る 。 徳 川 家 康 が 入 っ た 当 時 の 江 戸 は 太 田 道 灌 以 来 の 城 下 町 で は あ っ た が 、 後 北 条 氏 の 支 配 下 を 通 じ て 鎌 倉 や 小 田 原 と 比 べ る と 規 模 の 小 さ い 寂 れ た 都 市 で 、 幕 府 の 拠 点 と し て 発 展 さ せ る 上 で 大 幅 な 土 地 造 成 が 必 要 と な っ た 。
豊 臣 秀 吉 に 命 令 さ れ 小 田 原 攻 め に 参 加 し た 諸 大 名 は 、 ︵ そ れ ま で の 日 本 に ほ と ん ど 例 が な か っ た ︶ 小 田 原 城 の 壮 大 な 総 構 え ︵ 従 来 の よ う に 戦 乱 時 に 城 と 主 君 ば か り を 護 り 、 商 家 や 民 家 は 見 捨 て て し ま う 、 と い う や り か た で は な く 、 商 家 や 民 家 ま で 含 め て 地 域 ︵ 経 済 ︶ 全 体 を 堀 や 城 壁 で 護 る し く み ︶ や 、 海 際 の 土 地 で も 川 か ら 真 水 を 引 き 入 れ 飲 料 水 と し て 用 い る 巧 み な 水 道 技 術 ︵ 小 田 原 早 川 上 水 ︶ を 目 の 当 た り に し た ︵ 目 撃 者 の ひ と り に 徳 川 家 康 も い た ︶ 。 総 が ま え と い う 発 想 や し く み を 目 の 当 た り に し た 豊 臣 秀 吉 は 、 後 に 大 阪 城 を 構 築 す る 時 に 商 家 ・ 民 家 も 囲 む 巨 大 な 外 堀 と い う 形 で 取 り 入 れ た 。
徳 川 家 康 が 築 い た 江 戸 城 の ま わ り に は ︵ 小 田 原 城 の 総 構 え や 、 大 阪 城 の 巨 大 な 堀 を 参 考 に し つ つ ︶ 巨 大 な 外 堀 お よ び 内 堀 が 渦 巻 状 ︵ ﹁ の ﹂ の 字 状 ︶ に 作 ら れ て お り 、 南 北 ・ 東 西 に 水 路 が 張 り 巡 ら さ れ 、 内 海 ︵ 東 京 湾 ︶ や 利 根 川 に ま で 通 じ る 水 路 が 整 備 さ れ 、 水 運 に よ っ て 各 地 か ら 江 戸 へ の 物 資 供 給 お よ び 江 戸 内 の 物 流 を 支 え 、 ま た 重 要 な 交 通 イ ン フ ラ で あ っ た 。
江 戸 は 江 戸 湾 に 面 し て い て 、 特 に 海 寄 り の 場 所 で は 井 戸 を 掘 っ て も 塩 気 の あ る 水 が 出 て し ま い 飲 料 水 に は 適 さ な か っ た 。 ︵ こ れ は ち ょ う ど 小 田 原 城 や そ の 城 下 町 が 海 の 近 く に あ り 、 井 戸 水 が 塩 水 に な り 飲 料 水 と し て 使 え な か っ た の と 同 じ で あ っ た 。 ︶ 徳 川 家 康 は 江 戸 に 、 小 田 原 の 早 川 上 水 と 同 じ よ う に 川 か ら 真 水 を 引 く 水 道 を 作 る こ と に し 、 ︵ 高 低 差 等 、 さ ま ざ ま な 条 件 を 考 慮 し ︶ 多 摩 川 か ら 水 を 引 く こ と を 命 じ 、 多 数 の 人 々 が 参 加 し た 壮 絶 な 工 事 の 末 に 玉 川 上 水 が 引 か れ た の で あ る 。
こ う し た 骨 格 と な る イ ン フ ラ は 徳 川 の 治 世 か ら 現 在 の 東 京 ま で 、 基 本 的 に は あ ま り 変 わ ら ず 継 承 さ れ て い る 。 内 堀 は 現 在 も 皇 居 の 周 辺 を と り か こ み 、 侵 入 者 を 防 ぐ 機 能 を 果 た し て い る 。 水 路 ・ 運 河 は 現 在 も 多 く が 残 っ て お り 、 例 え ば 小 名 木 川 は 隅 田 川 と ︵ 旧 ︶ 中 川 を 東 西 に 結 ぶ 大 き な 水 路 ︵ 運 河 ︶ で あ る が 、 昭 和 時 代 も 重 要 な 物 流 イ ン フ ラ で あ っ た の で あ り 、 現 在 で も 運 河 沿 い の 工 場 に 様 々 な 資 源 物 資 を 運 ぶ の に 使 わ れ て い る し 、 観 光 ・ 遊 覧 船 も 行 き 来 し て い る 。 江 戸 城 の お 堀 は 1 9 6 4 年 の オ リ ン ピ ッ ク に あ わ せ て 都 心 に 高 速 道 路 を 通 そ う と し た 時 に も 道 路 を 物 理 的 に 通 す た め の 貴 重 な 空 間 と し て 利 用 さ れ た の で あ り 、 つ ま り 時 代 を 経 て 船 が 自 動 車 に 変 わ り は し た が 、 都 市 の 交 通 を 支 え る 役 割 を 果 た し た の で あ る 。 ま た 、 玉 川 上 水 は 今 も 東 京 の 水 道 局 の 現 役 の 水 道 施 設 と し て 活 用 さ れ て い る 。
東 京 と い う 都 市 が 比 較 的 う ま く 発 展 し て き た の は 、 こ の 都 市 を 太 田 氏 や 後 北 条 氏 の 街 か ら 大 改 造 し て 構 想 し た 徳 川 家 康 の 先 見 性 、 大 胆 な 構 想 力 と 細 や か な 配 慮 に よ る と こ ろ が 大 き い [ 注 釈 6 ] 。
ま た 江 戸 の 各 場 所 に 付 け ら れ た 名 称 、 例 え ば 坂 の 名 称 、 丘 ︵ 山 ︶ の 名 称 、 町 の 名 前 等 々 等 々 は 、 そ の 多 く が 現 在 の 東 京 に い た る ま で 用 い ら れ 続 け て い る 。 江 戸 時 代 に 作 ら れ た 切 絵 図 ︵ 区 割 し た 地 図 。 市 街 図 ︶ に 書 か れ て い る 地 名 ・ 町 名 ・ 横 丁 名 等 の 多 く が 現 在 ま で 継 承 さ れ て い る 。
﹃ 熈 代 勝 覧 ﹄ ︵ き だ い し ょ う ら ん ︶ は 、 文 化 2 年 ︵ 1 8 0 5 年 ︶ の 江 戸 日 本 橋 を 描 い た 絵 巻 。 作 者 は 不 明 。 縦 4 3 . 7 c m 、 横 1 2 . 3 2 2 m の 長 大 な 絵 巻 で 、 日 本 橋 通 に 連 な る 問 屋 街 と そ こ を 行 き 交 う 人 物 が 克 明 に 描 か れ て い る 。 1 9 9 9 年 に ド イ ツ で 発 見 さ れ 、 文 化 文 政 期 の 江 戸 の 文 化 を 知 る 上 で 貴 重 な 史 料 と し て 注 目 さ れ た 。 ︵ ベ ル リ ン 国 立 ア ジ ア 美 術 館 蔵 ︶
江 戸 時 代 末 期 に 、 愛 宕 山 ︵ = 現 在 も 東 京 の 港 区 に あ る 小 山 ︶ か ら 眺 め た 、 江 戸 の 街 々 に 広 が る 屋 敷 の 数 々 。 ︵ 1 8 6 5 年 ~ 1 8 6 6 年 頃 撮 影 ︶ 。 細 部 を 拡 大 し て 見 た い 場 合 は 、 こ の 写 真 を ク リ ッ ク を し た り 、 拡 大 ︵ + ︶ 記 号 を 押 す 。
ギャラリー
江 戸 の 地 図 。 1 8 4 4 - 1 8 4 8 年 。 こ の 地 図 は 北 が 上 で は な く 、 西 辺 り が 上 に な っ て い る こ と に は 注 意 。
東京の誕生と沿革
東京都
日 本 の 首 都 で あ り 、 47 の 都 道 府 県 の う ち の ひ と つ 。 日 中 戦 争 ・ 太 平 洋 戦 争 が 開 戦 す る と 、 戦 時 統 制 の 一 環 と し て 、 1 9 4 3 年 、 東 京 都 制 が 内 務 省 主 導 で 施 行 さ れ た 。 こ れ に よ り 、 東 京 府 と 東 京 市 は 廃 止 さ れ 、 代 わ っ て 旧 東 京 府 内 の 区 域 を 以 て 、 東 京 都 が 設 置 さ れ た 。 旧 東 京 市 内 に あ っ た 区 は 、 東 京 都 の 直 轄 と な り 、 他 の 市 町 村 が 行 使 で き る 権 限 ・ 権 能 の 一 部 は 、 東 京 市 か ら 東 京 都 に 移 管 さ れ た 。 従 っ て 、 東 京 都 は 、 他 の 府 県 同 様 、 広 域 行 政 機 関 で あ り つ つ も 、 旧 東 京 市 内 に あ っ て は 、 市 役 所 と し て の 機 能 も 果 た す こ と と な っ た 。
東 京 都 制 は 、 戦 後 の 地 方 自 治 法 施 行 に よ っ て 廃 止 さ れ た が 、 旧 東 京 市 内 の 区 は 特 別 区 ︵ 東 京 都 区 部 ︶ と し て 定 義 さ れ 、 引 き 続 き 、 他 の 市 町 村 に 比 べ 、 行 使 で き る 権 限 が 制 限 さ れ る こ と に な っ た 。 よ っ て 、 東 京 都 制 は 若 干 の 変 更 を 加 え ら れ つ つ も 、 広 域 自 治 体 と 基 礎 自 治 体 の 機 能 を 一 部 併 せ 持 つ と い う 基 本 的 な 構 造 は 変 わ っ て い な い 。
東 京 府 の 後 裔 と し て の 東 京 都
東 京 都 は 、 府 県 制 時 代 の 東 京 府 の 性 格 を 有 す る 。 東 京 府 の 行 政 区 域 を 受 け 継 い だ た め 、 多 摩 地 域 や 伊 豆 諸 島 ・ 小 笠 原 諸 島 ま で の 広 大 な 海 域 ・ 島 嶼 ︵ と う し ょ ︶ も 含 ま れ る 。 府 県 制 か ら 都 制 へ 移 行 し た 1 9 4 3 年 ︵ 昭 和 18 年 ︶ ま で 、 東 京 府 に は 東 京 市 ・ 八 王 子 市 ・ 立 川 市 の 3 市 が あ っ た が 、 都 制 施 行 と 共 に 東 京 市 が 23 区 へ 解 体 さ れ た た め 、 東 京 都 の 市 は 八 王 子 市 と 立 川 市 の 2 市 に 減 っ た 。 そ の 後 、 新 憲 法 施 行 に 伴 い 地 方 自 治 法 が 施 行 さ れ 、 東 京 都 三 多 摩 地 区 に は 2 市 以 外 に も 多 く の 市 が 誕 生 し た 。
東 京 市 の 後 裔 と し て の 東 京 都
東 京 都 は 、 東 京 市 と 東 京 府 が 合 併 し て 成 立 し た こ と に よ り 、 公 的 に 旧 東 京 市 地 域 を 管 轄 す る 地 方 自 治 体 と し て 位 置 づ け ら れ て お り 、 旧 東 京 市 域 に は 、 東 京 都 長 官 ︵ の ち 東 京 都 知 事 ︶ が 直 接 施 政 す る た め の 組 織 と し て 特 別 区 が 設 置 さ れ た 。
東京都区部
東 京 都 区 部 は 、 東 京 都 域 の お お む ね 東 半 を 占 め る 23 の 特 別 区 か ら 構 成 さ れ る 地 域 で 、 1 9 4 3 年 7 月 1 日 に 廃 止 さ れ た 旧 東 京 市 域 と ほ ぼ 同 じ 範 囲 で あ る 。 区 の 数 は 廃 止 時 は 35 区 で あ っ た が 、 1 9 4 7 年 3 月 15 日 に 22 区 に 再 編 さ れ 、 同 年 8 月 1 日 に 1 区 を 分 増 し て 23 区 と な っ た 。
統 計 な ど で 東 京 都 区 部 を ﹁ 東 京 ﹂ と い う 一 つ の 都 市 と し て 扱 う 場 合 も あ る が 、 東 京 市 が 廃 止 さ れ て 以 降 、 東 京 都 区 部 を 一 体 と し て 管 轄 す る 地 方 自 治 体 は 存 在 し な い ︵ 行 政 ・ 立 法 ・ 司 法 の 三 権 の う ち 司 法 以 外 の 二 権 が あ る な ど 、 個 々 の 区 が 市 と 同 等 の 扱 い を さ れ て い る 。 し か も 政 令 指 定 都 市 で は な く 、 海 外 ラ ン キ ン グ に お い て も ﹁ 東 京 都 ﹂ と し て 区 別 さ れ る ︶ 。
ま た 、 東 京 都 区 部 ︵ 総 称 ‥ 東 京 ︶ は 東 京 都 の 都 庁 所 在 地 と し て 認 識 さ れ る 。 都 庁 所 在 地 は ﹁ す べ て の 市 町 村 を 記 載 す る ﹂ と い う 規 則 が あ る た め 、 千 代 田 区 時 代 と 同 様 に 東 京 の 都 庁 所 在 地 と し て ﹁ 新 宿 区 ﹂ と 記 載 す る こ と が で き な い [ 2 3 ] 。 な お 、 条 例 上 の 都 庁 の 住 居 表 示 は ﹁ 東 京 都 新 宿 区 西 新 宿 二 丁 目 ﹂ と な っ て い る ︵ 東 京 都 庁 の 位 置 を 定 め る 条 例 ︶ 。
東京圏
東 京 圏 は 、 東 京 都 区 部 を 中 心 と す る 都 市 圏 で あ る 。 前 身 [ 2 4 ] は 京 浜 葉 大 都 市 圏 と し て 東 京 都 、 神 奈 川 県 、 千 葉 県 を 主 な 東 京 の 都 市 圏 と し て 定 め ら れ て い た 。 そ の 後 、 都 市 圏 の 拡 大 に よ り 埼 玉 県 及 び 茨 城 県 を 含 め た 区 域 を 東 京 圏 と 呼 ぶ よ う に な る 。 法 令 上 は 、 東 京 都 、 神 奈 川 県 、 千 葉 県 、 埼 玉 県 及 び 茨 城 県 の 都 県 域 の う ち 、 東 京 都 区 部 及 び こ れ と 社 会 的 経 済 的 に 一 体 で あ る ﹁ 多 極 分 散 型 国 土 形 成 促 進 法 施 行 令 ﹂ 第 6 条 で 定 め る 広 域 を い う [ 2 5 ] 。 こ こ で は 様 々 な 法 令 が 引 用 さ れ て い る た め 難 解 で あ る が 、 ま と め る と 次 の 区 域 と な る 。
● 首 都 圏 整 備 法 第 2 条 第 3 項 に 規 定 す る ﹁ 既 成 市 街 地 ﹂ は 全 域
● 同 条 第 4 項 に 規 定 す る ﹁ 近 郊 整 備 地 帯 ﹂ も 全 域
● 同 条 第 5 項 に 規 定 す る ﹁ 都 市 開 発 区 域 ﹂
● 茨 城 県 土 浦 市 、 つ く ば 市 、 か す み が う ら 市 、 稲 敷 郡 阿 見 町 の ﹁ 都 市 開 発 区 域 ﹂
● 埼 玉 県 熊 谷 市 ︵ 旧 妻 沼 町 、 旧 大 里 町 、 旧 江 南 町 の 区 域 を 除 く ︶ 、 埼 玉 県 深 谷 市 ︵ 旧 岡 部 町 、 旧 川 本 町 、 旧 花 園 町 の 区 域 を 除 く ︶ の ﹁ 都 市 開 発 区 域 ﹂
具 体 的 に は 、 国 土 交 通 省 が 告 示 し た も の が 分 か り や す い [ 2 6 ] 。
国 土 交 通 省 で は 首 都 圏 整 備 法 に 基 づ き 、 毎 年 ﹁ 首 都 圏 整 備 に 関 す る 年 次 報 告 ﹂ を 国 会 に 提 出 し て い る が 、 そ こ で は 東 京 圏 を ﹁ 東 京 都 、 神 奈 川 県 、 千 葉 県 、 埼 玉 県 ﹂ と 定 義 し て い る 。 東 京 圏 の 人 口 は 、 3 0 0 0 万 人 を 超 え て お り 、 人 口 は 、 2 位 の ジ ャ カ ル タ ( 2 4 0 0 万 人 程 度 ) と 大 き く 差 を つ け て い る 。 世 界 1 位 、 仮 に 圏 民 全 員 が 、 日 本 人 だ と し た ら 、 4 人 に 1 人 が 、 東 京 圏 民 と な る 。
な お 、 首 相 官 邸 に よ る 国 家 戦 略 特 別 区 域 に お け る 東 京 圏 [ 2 7 ] は 東 京 都 ・ 神 奈 川 県 ・ 千 葉 市 ・ 成 田 市 と な っ て お り 、 区 分 け に よ っ て は 埼 玉 県 、 茨 城 県 を 含 ま な い 場 合 が 稀 に あ る 。
東京地方
「東京地方 」は、主として天気予報における用語であり、東京都から島嶼部を除いた区域を指す。
東京府
1 8 6 8 年 ︵ 慶 応 4 年 / 明 治 元 年 ︶ に は じ め て 設 置 さ れ 、 1 9 4 3 年 ま で 存 続 し た 。 1 8 6 8 年 に 発 せ ら れ た ﹁ 江 戸 ヲ 称 シ テ 東 京 ト 為 ス ノ 詔 書 ﹂ に よ り 、 そ れ ま で の 江 戸 府 を 改 名 す る 形 で 発 足 。 江 戸 市 域 を 引 き 継 い で 発 足 し た た め 、 そ の 範 囲 は 、 の ち の 東 京 15 区 と ほ ぼ 同 じ 範 囲 に 限 ら れ て い た が 、 1 8 7 8 年 に 静 岡 県 か ら 伊 豆 諸 島 を 、 1 8 8 0 年 に 内 務 省 か ら 小 笠 原 諸 島 を 、 1 8 9 3 年 に 神 奈 川 県 か ら 多 摩 地 域 を 引 き 継 ぎ 、 こ の 多 摩 地 域 の 引 き 継 ぎ に よ っ て 、 現 代 の 東 京 都 と ほ ぼ 同 じ 範 囲 に ま で 拡 大 し た 。
ギャラリー
東京府章
東京府役所(1930年代)
東京府時代の
五反田 ・
大崎 あたりの地図(
1925年 )
東京市
東京市がおおまかに分かる地図。中心の黄色に囲まれた所に東京市の15区がある。その周りを5つの郡が取り囲む。 3時の方向から反時計回りに *南葛飾郡 (紫色) *南足立郡 (オレンジ色) *北豊島郡 (緑色) *豊多摩郡 (青紫色) *北多摩郡 (青緑色) *荏原郡 (サーモン色)
1 8 8 9 年 ︵ 明 治 22 年 ︶ か ら 1 9 4 3 年 ︵ 昭 和 18 年 ︶ ま で 存 続 。 1 9 0 6 年 ︵ 明 治 39 年 ︶ に 人 口 が 初 め て 2 0 0 万 人 を 突 破 。 関 東 大 震 災 に よ っ て 人 口 が 増 加 し た 周 辺 の 町 村 を 1 9 2 3 年 ︵ 大 正 12 年 ︶ に 合 併 。
︵ 旧 ︶ 道 路 法 施 行 令 第 8 条 の 1 に よ り 、 日 本 橋 の 中 央 に 東 京 市 道 路 元 標 が 置 か れ た [ 注 釈 9 ] 。
東 京 府 は 、 他 の 府 県 と 同 様 、 1 8 7 4 年 に 導 入 し た 大 区 小 区 制 が 定 着 せ ず 、 代 わ っ て 1 8 7 8 年 に 成 立 し た 郡 区 町 村 編 制 法 に よ っ て 、 中 心 部 に 区 を 、 そ れ 以 外 の 郊 外 に は 町 村 を 置 い た 。 こ の と き 中 心 部 に 置 か れ た の が 東 京 15 区 で あ り 、 そ の 範 囲 は 、 概 ね 旧 朱 引 内 に 相 当 し て い た が 、 一 部 の 範 囲 に は 変 更 が 加 え ら れ て い る 。 そ の 後 、 1 8 8 9 年 の 市 制 特 例 施 行 に よ り 、 東 京 府 は 、 東 京 15 区 の 区 域 を 以 て 東 京 市 を 成 立 さ せ た 。 し か し 、 東 京 市 は 、 東 京 府 知 事 が 東 京 市 長 を 兼 務 し 、 独 自 の 市 役 所 も 置 か れ ず 、 他 方 で そ れ ま で の 東 京 15 区 に は そ れ ま で の 区 役 所 や 区 議 会 が 存 続 す る な ど 、 変 則 的 な 市 制 と な っ て い た 。 他 の 一 般 市 に 比 べ て 都 市 化 が 進 ん で い な が ら 、 他 の 一 般 市 に 比 べ て 権 限 が 大 幅 に 制 限 さ れ た こ の 市 制 特 例 は 、 東 京 市 ︵ 東 京 15 区 ︶ 側 ・ 市 民 側 か ら の 評 判 も 悪 く 、 1 8 9 8 年 に は 一 般 市 制 が 東 京 市 に も 施 行 さ れ 、 独 自 の 市 役 所 や 独 自 の 東 京 市 長 も 誕 生 す る こ と と な っ た 。
そ の 後 、 1 9 2 3 年 の 関 東 大 震 災 な ど を 経 る と 、 東 京 市 に 隣 接 す る 東 京 府 下 の 町 村 へ の 人 口 流 出 が 加 速 し た 。 1 9 3 2 年 に は こ う し た 隣 接 町 村 を 合 併 し 、 い わ ゆ る 大 東 京 市 が 成 立 、 東 京 市 に は 東 京 35 区 が 置 か れ る こ と と な っ た 。 ま た 、 1 9 3 6 年 に は 砧 村 ・ 千 歳 村 が 世 田 谷 区 に 編 入 さ れ 、 こ れ を 以 て 、 東 京 市 は 現 代 の 東 京 都 区 部 と ほ ぼ 同 じ 範 囲 と な っ た 。
東 京 市 発 足 後 、 東 京 市 を 東 京 府 と 合 併 さ せ る ﹁ 東 京 都 制 ﹂ の 構 想 が 度 々 政 府 や 議 会 で 論 じ ら れ る こ と は あ っ た が 、 明 治 ・ 大 正 期 に あ っ て は 、 具 体 的 に そ の 構 想 が 進 展 す る こ と は な か っ た 。 し か し 、 前 述 の と お り 戦 時 統 制 の た め と し て 、 1 9 4 3 年 に 東 京 都 制 が 施 行 さ れ 、 東 京 府 お よ び 東 京 市 は 東 京 都 に 移 行 し た 。
こ の よ う に し て 東 京 市 は 消 滅 し た が 、 東 京 市 に 一 般 市 制 が 施 行 さ れ た 10 月 1 日 が 都 民 の 日 と し て 記 念 日 と な っ て い た り 、 現 在 の 東 京 都 章 が 東 京 市 章 を 引 き 継 い で い た り と 、 現 在 の 東 京 都 の ア イ デ ン テ ィ テ ィ の ル ー ツ と な っ て い る 。
ギャラリー
東京市の市標
東京市
道路元標 は日本橋の真ん中に設置された(ただし写真は移設後)
1923年の関東大震災直後の日本橋
その他の範囲
鉄道における「東京」 → 東京駅(千代田区丸の内)を指し示している。
道路標識上の「東京」 → 日本橋(中央区日本橋室町)を指し示している。
都庁所在地の「東京」 → 東京都特別区(旧東京市 )を指し示している。(こちら を参照)
気象観測における「東京」 → 気象庁 本庁舎からほど近い地点(千代田区北の丸公園 )を指し示している。[28]
航空における「東京」 → 基本的に東京国際空港 (大田区 )を指し示しているものの、成田国際空港 (千葉県 成田市 )と併せて東京と括るケースもある。
都市としてかかえる課題、都市政策や都市計画
明治維新後の課題と都市政策
明 治 維 新 以 降 、 人 口 の 東 京 流 入 は 続 き [ 2 9 ] 、 都 市 基 盤 が 十 分 に 整 備 さ れ な い ま ま で あ っ た の で 、 東 京 で は 貧 民 状 態 が 起 き た り 伝 染 病 が 発 生 し た り し 、 1 8 8 6 年 に は 東 京 で コ レ ラ が 大 流 行 し た [ 2 9 ] 。 森 鴎 外 や 片 山 潜 ら は 公 衆 衛 生 や 水 道 問 題 を 訴 え る よ う に な り 、 よ う や く 1 8 9 2 年 に な っ て 近 代 的 な 上 水 道 工 事 に 着 手 、 1 8 9 8 年 に 使 用 開 始 [ 2 9 ] 。 下 水 道 工 事 は 1 9 1 3 年 に な っ て 着 手 、 1 9 2 1 年 に 使 用 開 始 [ 2 9 ] 。 東 京 へ の 人 口 集 中 、 人 口 増 は と ど ま る と こ ろ な く 続 き 、 貧 困 状 態 と 混 乱 状 態 は 郊 外 へ と 拡 大 し て い っ た [ 2 9 ] 。 と こ ろ が こ れ に 対 処 す る た め の 都 市 政 策 は 対 症 療 法 的 な 道 路 建 設 と 貧 民 救 済 に と ど ま っ た の で 、 土 地 や 住 民 に 合 致 し た 都 市 計 画 や 住 宅 建 設 が 行 え な か っ た [ 2 9 ] 。 都 市 計 画 法 と 市 街 地 建 築 物 法 が 制 定 さ れ た の は 、 よ う や く 1 9 1 9 年 に な っ て か ら の こ と で [ 2 9 ] 、 こ れ は 1 9 2 3 年 の 関 東 大 震 災 の 復 興 に 活 用 さ れ た も の の [ 2 9 ] 、 計 画 主 体 が 内 務 大 臣 に あ り 、 あ ま り 機 能 的 な 都 市 政 策 で は な か っ た [ 2 9 ] 。 都 市 の 持 つ 自 治 的 な 活 力 を 行 政 に 活 用 で き ず 、 ひ た す ら ﹁ 上 意 下 達 ﹂ の 都 市 建 設 を し よ う と し た の が 東 京 府 政 で あ る 、 と 北 村 嘉 行 は 指 摘 し た [ 2 9 ] 。
近 年 の 東 京 が 都 市 と し て か か え る 課 題
高 い 犯 罪 遭 遇 率
東 京 は 、 日 本 の 中 で は 比 較 的 危 険 な 場 所 で あ る 。 治 安 と い う 観 点 で 考 察 す る 場 合 、 重 要 な の は 犯 罪 遭 遇 率 で あ る [ 3 0 ] が 、 東 京 は 、 47 の 都 道 府 県 の 中 で 犯 罪 遭 遇 率 ︵ 犯 罪 に 巻 き 込 ま れ る 確 率 ︶ が ワ ー ス ト 2 位 と な っ て い る [ 3 0 ] 。 東 京 の 住 人 は 、 1 1 8 - 1 1 9 人 に 1 人 と い う 高 い 割 合 で 何 ら か の 刑 法 犯 罪 に 遭 遇 し て い る ︵ = 刑 法 犯 罪 の 被 害 者 に な っ て い る ︶ [ 3 0 ] 。
過密状態、通勤ラッシュ、感染症の発生源化
東京の通勤ラッシュ 。
東 京 は 過 密 状 態 に あ る 。 人 口 密 度 は 2 0 2 0 年 4 月 時 点 の デ ー タ で 6 , 3 8 1 人 / k m 2 で [ 3 1 ] 、 日 本 で 最 も 高 い 。
都 心 に 通 勤 ・ 通 学 す る 人 々 は 、 往 々 に し て 通 勤 ラ ッ シ ュ に 遭 遇 す る こ と に な る 。 特 に 高 度 経 済 成 長 期 に は 3 0 0 % ほ ど あ っ た 乗 車 率 は 、 近 年 [ い つ ? ] で は 輸 送 力 増 強 や 時 差 通 勤 、 労 働 人 口 の 減 少 な ど の 影 響 に よ っ て 2 0 0 9 年 度 以 降 は 平 均 混 雑 率 が 1 7 0 % と な っ た [ 要 出 典 ] 。 朝 に は 、 乗 客 が 列 車 に 乗 り 切 れ ず 、 駅 員 が 乗 客 を 列 車 の 中 に 押 し 込 む 状 態 が 続 く 。
ま た 、 感 染 症 の 問 題 は 江 戸 時 代 の 安 政 期 に 狐 狼 狸 ︵ コ ロ リ ︶ が 流 行 し た と き か ら こ の 都 市 に 付 き ま と っ て い る 問 題 で あ り つ づ け て い る 。 2 0 2 0 年 の 新 型 コ ロ ナ ウ ィ ル ス の パ ン デ ミ ッ ク が 起 き る と 、 日 本 の 中 で も 東 京 で の 感 染 状 況 が 突 出 し て 悪 い 状 態 に な り 、 厳 戒 態 勢 を 敷 か ざ る を 得 な く な り 、 東 京 は 以 前 の 活 気 を 失 っ た 。 東 京 の 感 染 率 ︵ 10 万 人 当 た り の 感 染 率 ︶ は 47 都 道 府 県 の 中 で 最 も 高 い ︵ 2 0 2 0 年 7 月 時 点 の 統 計 ︶ [ 注 釈 1 0 ] 。 7 月 に は 新 宿 の ホ ス ト ク ラ ブ や [ 3 2 ] 、 劇 場 で ク ラ ス タ ー を 発 生 さ せ た [ 3 3 ] 。 ど ち ら の 施 設 も 、 感 染 症 対 策 を 十 分 に と っ て い な か っ た こ と が 指 摘 さ れ て い る [ 3 2 ] [ 3 3 ] 。 7 月 16 日 に は 国 会 に 東 京 大 学 先 端 科 学 技 術 研 究 セ ン タ ー の 児 玉 龍 彦 名 誉 教 授 が 招 致 さ れ 、 東 京 が 新 型 コ ロ ナ ウ イ ル ス の エ ピ セ ン タ ー ︵ 感 染 の 発 生 地 、 震 源 地 ︶ と 化 し つ つ あ る 、 と 指 摘 し 、 東 京 発 の 感 染 の さ ら な る 拡 大 に 警 鐘 を 鳴 ら し た [ 3 4 ] 。
そ の 他 に も 、 東 京 は 都 市 と し て 緑 ︵ 樹 木 ︶ の 割 合 が 他 の 諸 都 市 と 比 べ て 極 端 に 低 す ぎ る 問 題 も あ る 。 樹 木 の 率 は 英 語 で ﹁ p e r c e n t a g e o f ( p u b l i c ) g r e e n [ 3 5 ] ﹂ と 言 い 、 都 市 計 画 に 携 わ る 人 々 の 間 で は 世 界 各 国 で 重 視 さ れ て い る 概 念 で あ る 。 都 政 で は こ れ を 分 か り や す く ﹁ み ど り 率 ﹂ と 表 現 し 、 行 政 的 な 課 題 と し て 対 処 中 [ 3 6 ] 。 こ の 他 に も 東 京 は 課 題 が 山 積 状 態 で あ る [ 注 釈 1 1 ] 。
東 京 の 都 市 問 題 や 都 市 政 策 に 関 す る 研 究 の 歴 史
日 本 で は 戦 後 の 1 9 6 0 年 代 に 高 度 経 済 成 長 と と も に 、 特 に 東 京 が 最 大 の 焦 点 と な る 大 都 市 問 題 が 大 き な 問 題 と し て 浮 上 し [ 3 8 ] 、 学 問 の 世 界 で は 都 市 社 会 学 の 重 要 の 課 題 に な り [ 3 8 ] 、 行 政 の 世 界 で は 1 9 6 2 年 の 全 国 総 合 開 発 計 画 に お い て 東 京 な ど の 過 密 ・ 過 集 積 が 解 決 す べ き 問 題 と な り [ 3 8 ] 、 1 9 6 9 年 の 新 全 国 総 合 開 発 計 画 に 向 け て 、 経 済 学 や 建 築 学 の 専 門 家 も 参 加 し 議 論 が 深 ま っ て い っ た [ 3 8 ] [ 注 釈 1 2 ] 。
1 9 7 0 年 代 に は 学 術 界 で は や や 言 及 が 減 っ た [ 3 8 ] [ 注 釈 1 3 ] 。 1 9 8 0 年 代 に な る こ ろ か ら 再 び 東 京 の 都 市 問 題 に 関 す る 議 論 は 急 増 し 、 特 に 財 政 学 の 専 門 家 か ら の 発 言 が 増 え 、 ま た 行 政 担 当 者 の 執 筆 に よ る も の や 労 働 組 合 も 参 加 し た も の な ど 、 都 市 行 政 の 実 務 者 に よ る 研 究 が 増 え た [ 3 8 ] 。
な お 1 9 6 0 年 - 1 9 7 0 年 代 あ た り か ら 諸 外 国 に お け る 都 市 問 題 研 究 の 紹 介 や 、 文 献 類 の 日 本 語 へ の 翻 訳 が 行 わ れ る よ う に な り [ 3 8 ] ︵ た と え ば フ ー バ ー 、 バ ー ノ ン 共 著 ﹃ 大 都 市 の 解 剖 ﹄ 東 京 大 学 出 版 会 、 1 9 6 5 年 [ 注 釈 1 4 ] 、 R ・ バ ー ノ ン 著 ﹃ 都 市 問 題 と は 何 か ﹄ 鹿 島 出 版 会 、 1 9 7 1 年 [ 注 釈 1 5 ] ︶ 、 そ の 知 見 や 手 法 が 日 本 人 に も 知 ら れ 活 用 さ れ る こ と に も 繋 が っ て ゆ き 東 京 の 都 市 問 題 の 考 察 ・ 分 析 に も 活 か さ れ て ゆ く こ と に な っ た 。
ギャラリー
日 本 橋 。 1 6 0 3 年 3 月 、 徳 川 家 康 が 江 戸 幕 府 を 開 い た 時 に 、 真 っ 先 に 町 割 を 整 備 し た 場 所 で 、 ﹁ 江 戸 本 町 ﹂ と も 呼 ば れ た 。 家 康 の 全 国 道 路 網 整 備 計 画 で 五 街 道 の 起 点 と さ れ 交 通 ・ 物 流 の 要 所 と な り 全 国 か ら 人 々 ・ 物 品 が 集 ま る 地 と な っ て ゆ く こ と に 。 家 康 は 同 年 4 月 に こ こ の 川 に 木 造 の 太 鼓 橋 を か け さ せ ﹁ 日 本 橋 ﹂ と 名 付 け 、 そ れ が こ こ の 地 名 と も な り 、 そ の 川 の 名 は ﹁ 日 本 橋 川 ﹂ と な っ た 。 江 戸 時 代 、 金 貨 や 銀 貨 の 製 造 組 織 で あ る 金 座 や 銀 座 が 置 か れ 、 両 替 商 も 、 ま た 薬 問 屋 な ど も 集 ま り 、 現 在 も 銀 行 や 製 薬 会 社 な ど が 集 ま る 。 現 在 も い く つ も の 重 要 な 国 道 の 起 点 で [ 注 釈 1 6 ] 、 道 路 元 標 の 設 置 場 所 。 2 0 4 0 年 に 高 速 道 路 を 地 下 化 す る 計 画 が 進 行 中 [ 注 釈 1 7 ] 。
江戸城 の内堀の内側は現在
皇居 や公園(
北の丸公園 ほか)として用いられている。
江戸時代に西の
隅田川 から東の
旧中川 を直線で結ぶようにつくられ、江戸の水運網の一部だった
小名木川 は現在も変わらぬ姿をとどめている。資源の運搬に使われるほか、現代的な遊覧船も行き交う。
玉 川 上 水 。 江 戸 時 代 か ら 続 く 東 京 の 上 水 道 。 江 戸 の 飲 料 水 不 足 を 解 消 す る た め 幕 府 の 命 で 庄 右 衛 門 ・ 清 右 衛 門 兄 弟 ︵ 玉 川 兄 弟 ︶ が 工 事 を 請 負 い 、 人 生 を か け て 、 そ し て 自 分 の 財 産 を 売 っ て ま で 工 事 を 進 め 完 成 さ せ た 。 玉 川 上 水 は 江 戸 っ 子 の 自 慢 で 、 現 在 で も 水 源 の 3 分 の 1 ほ ど を 支 え る 重 要 な イ ン フ ラ で あ る 。 ま た 、 玉 川 上 水 沿 い の 小 道 の 多 く は 都 民 の 憩 い の 空 間 に な っ て い る ︵ 写 真 は 羽 村 市 付 近 ︶ 。
幕 末 に 江 戸 幕 府 が 異 国 船 対 策 で 大 砲 ・ 砲 台 を 設 置 す る た め に 作 っ た 要 塞 が ﹁ 台 場 ﹂ で あ り 、 そ の 遺 構 の 周 辺 に ﹁ お 台 場 ﹂ が 発 展 。 写 真 は お 台 場 か ら 見 た 風 景 。 左 下 の 海 面 に 台 場 ︵ = 要 塞 ︶ が 見 え 、 レ イ ン ボ ー ブ リ ッ ジ の 向 こ う 側 に は 港 区 の ビ ル 群 や 東 京 タ ワ ー が 見 え る 。
国 会 議 事 堂 。 1 9 3 6 年 竣 工 。 日 本 の 国 会 は 東 京 で 開 か れ て い る 。 ま た 、 国 会 議 事 堂 の 周 辺 に は 主 要 な 政 党 の 本 部 が あ る 。
東 京 駅 。 日 本 に お け る 中 央 駅 。 1 9 1 4 年 開 業 。 赤 レ ン ガ の 歴 史 的 な 建 造 物 。 多 く の 新 幹 線 の 起 点 で あ り 、 中 長 距 離 列 車 の 拠 点 で あ る 。
上 野 駅 。 東 北 方 面 の 人 々 に と っ て 、 1 9 9 1 年 ま で ﹁ 東 京 の 玄 関 ﹂ で あ り 、 ま た 故 郷 へ 帰 る た め の 駅 で も あ っ た 。 1 9 7 7 年 の 演 歌 ﹃ 津 軽 海 峡 ・ 冬 景 色 ﹄ の 歌 詞 も 当 駅 発 の 夜 行 列 車 の 描 写 か ら 始 ま る 。
東 京 国 際 空 港 。 所 在 地 か ら ﹁ 羽 田 空 港 ﹂ と も 呼 ば れ て い る 。 東 京 の 空 の 玄 関 口 。
東京スカイツリー 。
墨田区 押上 にある電波塔で、展望台や商業施設なども併設する日本で一番高い塔。
新宿の高層ビル群越しに富士山を望む。
東京都庁舎 (
新宿区 )。無料の展望台もあり、観光客も多数訪れる。
秋葉原 。江戸時代は下級武士の屋敷が集まっていた。今日では日本人には
電気街 として有名だが、欧米人にはむしろジャパニーズ・
アニメ のファンがアニメグッズを買える場所として有名である。
浅 草 浅 草 寺 。 江 戸 に 入 っ た 徳 川 家 康 は 天 正 18 年 ︵ 1 5 9 0 年 ︶ に 浅 草 寺 を 祈 願 所 と し 寺 領 を 与 え た 。 明 暦 の 大 火 ︵ 1 6 5 7 年 ︶ の 後 、 浅 草 寺 裏 に 吉 原 遊 廓 が 移 転 し て き た 。 現 在 、 浅 草 は 東 京 の 下 町 の 一 部 。
江戸東京博物館 (墨田区)。江戸と東京、そこでの人々の暮らし等々について紹介する。
東京都内の区市町村で最も人口が多い
世田谷区 。区内の多くは閑静な
住宅街 である。
東京の西部、
福生市 (ふっさ)で1940年ころから建設された
横田飛行場 は戦後はアメリカ空軍基地や自衛隊基地として使われ、周囲にはアメリカ兵向けの店などが並ぶ。
東 京 西 部 、 八 王 子 市 に あ る 高 尾 山 。 標 高 5 9 9 m で 、 年 間 登 山 者 ︵ 訪 問 者 ︶ 数 は 2 6 0 万 人 以 上 。 歴 史 あ る 霊 場 で 神 社 仏 閣 な ど も 多 数 あ り 、 ミ シ ュ ラ ン ガ イ ド で 三 つ 星 ︵ 最 高 ラ ン ク ︶ と 評 価 さ れ 外 国 人 観 光 客 に も 人 気 が あ る 。
その他
和 文 通 話 表 で 、 ﹁ と ﹂ を 送 る 際 に ﹁ 東 京 の ト ﹂ と 言 う 。
ま た 、 名 字 に も ﹁ 東 京 ﹂ が 存 在 し て お り 、 東 京 奠 都 に よ っ て 地 名 が 江 戸 か ら 東 京 へ 変 わ っ た 際 、 名 字 を 変 え た と 考 え ら れ て い る 。
脚注
注釈
(一) ^ 東 京 奠 都 の 曖 昧 ・ 複 雑 な 経 緯 を 考 慮 し て ﹁ 日 本 の 事 実 上 の 首 都 ﹂ と も 。 詳 細 は 後 述
(二) ^ 学 術 界 で は 通 常 、 江 戸 時 代 当 時 の こ の 状 態 を ﹁ 複 都 制 ﹂ と は 表 現 し な い 。 皆 が こ の 表 現 を 避 け た が る 。 も ち ろ ん 後 ろ に ﹁ 的 ﹂ を 足 し て ﹁ 複 都 制 的 ﹂ と し て し ま え ば 日 本 語 的 に は 可 能 だ が 、 ﹁ 複 都 制 ﹂ と い う 言 葉 を 含 め て 説 明 す る と 余 計 な 議 論 を 招 き か ね な い 。
(三) ^ 首 都 を 移 転 す る こ と を ﹁ 遷 都 ︵ せ ん と ︶ ﹂ と 言 う が 、 こ の 場 合 、 遷 都 で は な く 、 あ く ま で ﹁ 奠 都 ︵ て ん と ︶ ﹂ と 呼 ば れ る 。
(四) ^ ﹁ 首 都 ﹂ に 関 し て は 、 様 々 な 辞 典 類 ・ 事 典 類 に そ う 記 述 さ れ て い る [ 4 ] [ 5 ] 。 た だ し 直 接 的 に 首 都 が 東 京 都 で あ る こ と を 宣 言 し た 法 令 は 現 存 し な い 。 詳 細 は ﹁ 日 本 の 首 都 ﹂ も 参 照
(五) ^ そ も そ も 、 江 戸 に 江 戸 幕 府 が 置 か れ た と き も 、 将 軍 に よ っ て ﹁ 江 戸 を 首 都 と 定 め る ﹂ と い っ た 内 容 の 法 令 が 特 に 出 さ れ た わ け で は な か っ た が 、 明 治 の 東 京 奠 都 に 関 し て も 、 天 皇 か ら 遷 都 の 詔 書 が 発 せ ら れ て い な い 唯 一 の 例 と な っ た 。
(六) ^ 世 界 の 様 々 な 都 市 の 歴 史 を 辿 る と 、 初 期 設 計 で 誤 っ た た め に 、 発 展 と と も に 物 流 や 衛 生 な ど の 面 で 大 き な 困 難 に 見 舞 わ れ 、 場 当 た り 的 な 対 策 も や が て 手 づ ま り に な り 、 つ い に は 別 に 都 市 を 作 り 直 し 、 以 前 の 街 並 み が 半 ば 放 棄 さ れ て し ま う よ う な 事 例 も 多 々 あ る ︵ 例 え ば エ デ ィ ン バ ラ な ど が そ う で あ る ︶ 。 江 戸 - 東 京 が そ う い う 展 開 を 免 れ た の は 、 徳 川 家 康 の 基 本 構 想 が 優 れ て い た お か げ で あ る 。 地 形 を 見 極 め た 上 で 、 場 所 を 決 定 す る 能 力 も 高 か っ た 。 こ こ に は 戦 国 時 代 の 武 将 と し て 数 々 の 戦 に よ っ て 育 ま れ た 地 理 に 対 す る 洞 察 力 が あ る 。 ま た 織 田 信 長 、 羽 柴 秀 吉 ら に よ っ て 累 積 的 に 蓄 積 さ れ て き た 土 木 の ノ ウ ハ ウ も あ っ た 。 ま た 、 羽 柴 秀 吉 の 家 臣 ら が 小 田 原 攻 め の 時 に 吸 収 し た 北 条 一 族 の ノ ウ ハ ウ も 生 き て い る 。 江 戸 城 の 堀 は 、 羽 柴 秀 吉 ︵ 豊 臣 秀 吉 ︶ が 、 北 条 氏 の 総 構 え を 参 考 に し つ つ 大 阪 城 で 作 っ た 堀 を 、 さ ら に 強 化 ・ 発 展 さ せ た も の で あ る 。 ま た 江 戸 の 土 木 工 事 を 実 際 に 担 っ た の は 、 各 地 の 大 名 や そ の 家 来 た ち で あ り 、 彼 ら が 誇 り を か け て 土 木 技 術 を 競 い 合 っ た 結 果 、 当 時 の 日 本 の 最 高 の 技 術 を 結 集 す る 形 で 江 戸 の 基 本 が で き た わ け で あ る 。
(七) ^ ﹁ 世 界 1 位 ﹂ と い う の は 、 あ く ま で 横 浜 市 ・ さ い た ま 市 ・ 千 葉 市 な ど の 存 在 や そ の 数 字 も 加 え た も の で あ る 。 東 京 単 独 で は 、 そ う で は な い 。
(八) ^ 世 界 の 都 市 圏 人 口 の 順 位 を 参 照 。
(九) ^ 昭 和 47 年 に 日 本 橋 北 詰 ﹁ 元 標 の 広 場 ﹂ ( 3 5 . 6 8 4 4 0 7 ° N 1 3 9 . 7 7 4 3 8 3 ° E ) に 移 設 。 ﹁ 東 京 市 道 路 元 標 ﹂ と 書 か れ て い る 。
(十) ^ 西 村 康 稔 新 型 コ ロ ナ 対 策 大 臣 の 国 会 7 月 15 日 に お け る フ リ ッ プ を 提 示 し て の 解 説 で も 、 具 体 的 な 数 字 を 示 し つ つ 、 東 京 の 10 万 人 あ た り の 感 染 率 は 最 も 高 い と の 説 明 が な さ れ た 。
(11) ^ 東 京 の 都 市 開 発 や 都 市 計 画 に 関 与 し て い る 企 業 の 中 の 大 手 で あ る 森 ビ ル は 、 自 社 の サ イ ト で 以 下 の 問 題 点 を 指 摘 し て い る [ 3 7 ] 。
● 国 際 的 な 地 位 の 低 下
● 地 震 リ ス ク
● 緑 の 喪 失
● 過 酷 な 通 勤
● 交 通 渋 滞
● 狭 く 短 命 で 高 額 な 住 宅
● 雑 然 と し た 景 観
(12) ^ 東 京 の 都 市 問 題 ・ 都 市 政 策 ・ 都 市 計 画 に か か わ る 、 当 時 出 版 さ れ た 学 術 書 と し て は た と え ば 以 下 の も の が あ る ︵ 出 典 ‥ 北 村 嘉 行 ﹁ 首 都 東 京 に 見 る 都 市 問 題 と 都 市 政 策 ﹂ ︶ 。
● 岩 井 弘 融 ・ 加 藤 一 郎 ・ 柴 田 徳 衛 ・ 八 十 島 義 之 助 ﹃ 都 市 問 題 講 座 ﹄ I ~ V I I 有 斐 閣 1 9 6 0 年 〜 1 9 6 5 年
● 佐 藤 武 夫 ・ 西 山 卯 三 編 ﹃ 都 市 問 題 - そ の 現 状 と 展 望 ﹄ 新 日 本 選 書 、 1 9 6 9 年
(13) ^
1 9 7 0 年 代 の 学 術 書 と し て は 以 下 の よ う な も の が あ る ︵ 出 典 ‥ 北 村 嘉 行 ﹁ 首 都 東 京 に 見 る 都 市 問 題 と 都 市 政 策 ﹂ ︶
● ﹃ 現 代 都 市 政 策 ﹄ I ~ XI 、 岩 波 書 店 1 9 7 2 ~ 1 9 7 3 年
● 磯 村 英 一 ・ 倉 沢 進 ﹃ 日 本 の 都 市 政 策 ﹄ 鹿 島 出 版 会 、 1 9 7 3 年
● 柴 田 徳 衛 ﹃ 日 本 の 都 市 政 策 ﹄ 有 斐 閣 選 書 3 6 7 、 1 9 7 8 年 I S B N 9 7 8 - 4 6 4 1 0 8 1 9 0 1
● 小 宮 昌 平 ・ 古 田 秀 夫 ﹃ 東 京 問 題 ﹄ 大 月 書 店 、 1 9 7 9 年 I S B N 9 7 8 - 4 2 7 2 3 3 0 0 3 4
(14) ^ A S I N B 0 0 0 J A D D W 8
(15) ^ A S I N B 0 0 0 J 9 P 5 Z W
(16) ^ 国 道 1 号 ︵ 旧 東 海 道 ︶ ・ 国 道 4 号 ︵ 日 光 街 道 ・ 奥 州 街 道 ︶ 、 国 道 6 号 ︵ 水 戸 街 道 ︶ ・ 国 道 14 号 ︵ 千 葉 街 道 ︶ ・ 国 道 15 号 ・ 国 道 17 号 ︵ 中 山 道 ︶ ・ 国 道 20 号 ︵ 甲 州 街 道 ︶ の 起 点 。
(17) ^ 1 9 6 4 年 東 京 オ リ ン ピ ッ ク 準 備 で 首 都 高 整 備 計 画 を 立 て た 人 た ち が こ の 付 近 の 景 観 を 台 無 し に し て し ま い 、 橋 か ら 人 々 の 足 も 遠 の い た 。 悪 景 観 は 周 辺 の 街 づ く り へ の 悪 影 響 も 大 き い の で 、 2 0 4 0 年 に 高 速 道 路 を 地 下 化 す る 計 画 が 進 行 中 。
出典
関連項目
外部リンク
行政
観光