醍醐天皇
表示
醍醐天皇 | |
---|---|
元号 | 寛平、昌泰、延喜、延長 |
時代 | 平安時代 |
先代 | 宇多天皇 |
次代 | 朱雀天皇 |
誕生 | 885年2月6日 |
崩御 |
930年10月23日 右近衛府 |
陵所 | 後山科陵 |
諱 | 維城、敦仁 |
別称 | 延喜帝 |
父親 | 宇多天皇 |
母親 | 藤原胤子 |
中宮 | 藤原穏子 |
女御 |
源和子 藤原和香子 |
更衣 |
源封子 藤原鮮子 源周子 他多数 |
子女 |
克明親王 保明親王 重明親王 兼明親王 寛明親王(朱雀天皇) 成明親王(村上天皇) 源高明 宣子内親王 恭子内親王 慶子内親王 勤子内親王 雅子内親王 靖子内親王 康子内親王 韶子内親王 斉子内親王 他多数 |
皇居 | 平安宮 |
醍醐天皇︵だいごてんのう、元慶9年1月18日︵885年2月6日︶- 延長8年9月29日︵930年10月23日︶︶は、平安時代の第60代天皇︵在位‥寛平9年7月13日︵897年8月14日︶- 延長8年9月22日︵930年10月16日︶︶。はじめの諱は維城︵これざね[要出典]︶、のちに敦仁︵あつぎみ・あつひと︶に改めた。
系譜
宇多天皇の第一皇子。母は内大臣藤原高藤の女藤原胤子。養母は父の正妃藤原温子︵関白太政大臣基経の女︶。20人に近い女御・更衣をかかえ、保明親王︵文献彦太子︶・代明親王・重明親王︵吏部王︶・源高明︵臣籍降下︶・兼明親王︵前中書王︶・寛明親王︵朱雀天皇︶・成明親王︵村上天皇︶をはじめ、36人の子女をもうけた。系図
|
|
| |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
54 仁明天皇 |
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| |||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| ||||||||||||||||||||||||||||
55 文徳天皇 |
|
|
|
|
| 58 光孝天皇 |
| 人康親王 |
| ||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| |||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
| |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
56 清和天皇 |
| 惟喬親王 |
| 59 宇多天皇 |
| 藤原基経妻 |
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| |||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| |||||||||||||||||||||||||||
57 陽成天皇 |
| 貞純親王 |
|
|
|
|
|
| 真寂法親王 (斉世親王) |
| 敦実親王 |
| |||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| |||||||||||||||||||
源清蔭 〔陽成源氏〕 |
| 源経基 〔清和源氏〕 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| 源雅信 〔宇多源氏〕 |
| |||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| |||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| ||||||||||||||||||||||||||||||||
60 醍醐天皇 |
|
| |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
| |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
略歴
元慶9年︵885年︶1月18日、源定省の長男・源維城として生まれる。仁和3年︵887年︶、父の皇籍復帰・即位︵宇多天皇︶に伴い、皇族に列することになった。寛平元年︵889年︶12月28日に親王宣下、同2年︵890年︶12月17日に敦仁に改名。同5年︵893年︶4月2日に立太子。同9年︵897年︶7月3日に元服し、同日践祚、同月13日に即位。父帝の訓示を受けて藤原時平・菅原道真を左右大臣とし、政務を任せる。その治世は34年の長きにわたり、摂関を置かずに形式上は親政を行ったため、後世﹁延喜の治﹂と崇められた。
しかし昌泰4年︵901年︶、時平の讒言を聞き菅原道真を大宰権帥に貶めた昌泰の変は、聖代の瑕と評されることもあった。近年では、この事件は天皇と時平による宇多上皇の政治力排除のための行動であったと考えられている。また、同年に時平の妹である藤原穏子︵後に中宮︶が女御に立っており、宇多上皇が採ってきた藤原氏に対する抑制政策を転換していることも変と関係していると考えられている。時平も初めての荘園整理令を発布したりして政治の刷新に意欲的であり、国史﹃日本三代実録﹄を完成させ、また律令政治の基本法である延喜格式の撰修に取り掛かったりしたが、完成に至らぬまま死去。弟の藤原忠平らがその志を継いで延長5年︵927年︶に完成した。
天皇はまた和歌の振興に留意し、延喜5年︵905年︶、﹃古今和歌集﹄撰進を紀貫之らに命じた。自身も和歌に堪能で、勅撰集に43首入る。家集﹃延喜御集﹄もある。20巻にわたる33年間の宸記﹃延喜御記﹄は諸書に引かれている逸文のほかは現存せず、村上天皇の御記と併せて﹃延喜天暦御記抄﹄とよばれて伝わる。
天皇ははじめ、中宮藤原穏子との間に儲けた長子保明親王を東宮の座に据えたが、早世。そのためその子慶頼王を皇太孫としたが、やはり夭折した。一連の不幸は菅原道真の怨霊の仕業と噂され、延喜23年︵923年︶になって、天皇は道真を左遷した詔を破棄し、右大臣に復し贈位を行い、その慰霊に努めた。
延長8年︵930年︶の清涼殿落雷事件以降体調を崩し、9月22日、病篤きによって皇太子寛明親王に譲位。その7日後の29日に崩御。宝算46。翌月10日、山城国宇治郡山科陵︵醍醐寺の北、笠取山の西、小野寺の下︶に土葬された。