柴田家門
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経歴[編集]
●萩城下平安古︵現在の山口県萩市平安古東区︶に柴田英佐︵えいすけ︶の長男として出生。同郷に田中義一、藤井幸槌がいる。 ●1882年︵明治15年︶に上京し、大学予備門︵第一高等中学校、現在の東京大学教養学部︶を経て、東京帝国大学法科大学︵現在の東京大学法学部︶に進学。 ●1890年 - 同大学卒業後、内閣書記官、法制局参事官、行政裁判所評定官等を務める。 ●1898年 - 第2次山縣内閣の内務省地方局長を務める。 ●1901年 - 第1次桂内閣の内閣書記官長に就任。 ●1903年7月15日 - 貴族院勅選議員となる[1]。 ●1908年 - 第2次桂内閣の内閣書記官長に就任。 ●1911年 ●5月5日 - 拓殖局総裁に就任し内閣書記官長を兼任する[2]。 ●8月30日 - 拓殖局総裁、内閣書記官長を辞任[3]。 ●1912年 - 第3次桂内閣の文部大臣に就任。退任後も貴族院議員を務め、臨時教育会議[4]の委員を務める。 ●1919年 - 死去。墓所は東京都港区の青山霊園にある。栄典・授章・授賞[編集]
位階 ●1891年︵明治24年︶11月28日 - 従七位[5] ●1895年︵明治28年︶11月20日 - 従六位[6] ●1897年︵明治30年︶10月30日 - 正六位[7] ●1899年︵明治32年︶4月7日 - 正五位[8] ●1902年︵明治35年︶12月10日 - 従四位[9] ●1906年︵明治39年︶1月20日 - 正四位[10] ●1911年︵明治44年︶7月20日 - 従三位[11] 勲章等 ●1895年︵明治28年︶10月31日 - 勲六等単光旭日章[12] ●1902年︵明治35年︶12月26日 - 勲三等旭日中綬章[13] ●1906年︵明治39年︶4月1日 - 勲二等旭日重光章[14]・明治三十七八年従軍記章[15] ●1911年︵明治44年︶6月13日 - 勲一等旭日大綬章 ●1912年︵大正元年︶8月1日 - 韓国併合記念章[16] ●1915年︵大正4年︶11月10日 - 大礼記念章︵大正︶[17]脚注[編集]
(一)^ ﹃官報﹄第6011号、明治36年7月16日。
(二)^ ﹃官報﹄第8359号、明治44年5月6日。
(三)^ ﹃官報﹄第8459号、明治44年8月31日。
(四)^ 文部科学省・学制百年史
(五)^ ﹃官報﹄第2529号﹁叙任及辞令﹂1891年12月3日。
(六)^ ﹃官報﹄第3721号﹁叙任及辞令﹂1895年11月21日。
(七)^ ﹃官報﹄第4302号﹁叙任及辞令﹂1897年11月1日。
(八)^ ﹃官報﹄第4729号﹁叙任及辞令﹂1899年4月11日。
(九)^ ﹃官報﹄第5833号﹁叙任及辞令﹂1902年12月11日。
(十)^ ﹃官報﹄第6766号﹁叙任及辞令﹂1906年1月22日。
(11)^ ﹃官報﹄第8424号﹁叙任及辞令﹂1911年7月21日。
(12)^ ﹃官報﹄第3704号﹁叙任及辞令﹂1895年11月1日。
(13)^ ﹃官報﹄第5848号﹁叙任及辞令﹂1902年12月29日。
(14)^ ﹃官報﹄号外﹁叙任及辞令﹂1907年3月31日。
(15)^ ﹃官報﹄第7578号・付録﹁辞令﹂1908年9月28日。
(16)^ ﹃官報﹄第205号・付録﹁辞令﹂1913年4月9日。
(17)^ ﹃官報﹄第1310号・付録﹁辞令﹂1916年12月13日。
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
公職 | ||
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先代 桂太郎 |
拓殖局総裁 1911年 |
次代 元田肇 |