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1965年8月27日にビートルズはロサンゼルスの[[エルヴィス・プレスリー]]宅に招かれた{{Sfn|Harry|2000a|p=283-4}}。プレスリーのマネージャーである[[トム・パーカー (マネージャー)|トム・パーカー]]大佐がエプスタインと「極秘の打ち合わせを行なう」という名目だったが、プレスリー宅周辺には人々が集まった。 |
1965年8月27日にビートルズはロサンゼルスの[[エルヴィス・プレスリー]]宅に招かれた{{Sfn|Harry|2000a|p=283-4}}。プレスリーのマネージャーである[[トム・パーカー (マネージャー)|トム・パーカー]]大佐がエプスタインと「極秘の打ち合わせを行なう」という名目だったが、プレスリー宅周辺には人々が集まった。 |
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面会に際してメンバーはバカだと思われないように装いながらも、心を躍らせて部屋に入った。部屋でプレスリーは{{要校閲範囲|date=2023年10月8日 (日) 23:15 (UTC)|テレビを見ながらベースを練習し |
面会に際してメンバーはバカだと思われないように装いながらも、心を躍らせて部屋に入った。部屋でプレスリーは{{要校閲範囲|date=2023年10月8日 (日) 23:15 (UTC)|テレビを見ながらベースを練習してくつろいでいた}}。﹁本物のエルヴィスだ﹂と感激したメンバーは呆然としてしまい、プレスリーが﹁ずっとそうやって僕を見てるだけなら僕はもう寝るよ?せっかく演奏ができると思って待ってたのに﹂と声をかけたことから、即興演奏が始まった。プレスリーはベースを演奏し、レノンとハリスンはギター、マッカートニーはピアノを演奏した。スターはドラムキットが無かったので演奏せずビリヤードやサッカーを楽しんでいたという。
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この会見はビートルズのメンバー達や関係者達の証言の食い違いがあり、様々な諸説がある。ビートルズの友人でもある記者のクリス・ハッチンスによれば、レノンがプレスリー宅のラウンジに入った時、テーブルランプの「リンドン・B・ジョンソン大統領と共に」というメッセージが刻まれたワゴンの模型を見つけた。その瞬間レノンは大統領を侮辱する態度をとり、プレスリーは困って苦笑いしていたという。(1965年にジョンソンがベトナム戦争を進めたため、レノンはジョンソンを嫌っていたからとハッチンスは語っている)プレスリーの妻だったプリシラは「ビートルズが入ってきたとき、エルヴィスはソファでリラックスしながらテレビを見ていました。両者とも最初は多少の沈黙とぎこちない会話の後、エルヴィスがベースを取り出してチャーリー・リッチの曲を弾き始めました。突然、ビートルズとエルヴィスのジャムセッションが始まりました」と語っている。 |
この会見はビートルズのメンバー達や関係者達の証言の食い違いがあり、様々な諸説がある。ビートルズの友人でもある記者のクリス・ハッチンスによれば、レノンがプレスリー宅のラウンジに入った時、テーブルランプの「リンドン・B・ジョンソン大統領と共に」というメッセージが刻まれたワゴンの模型を見つけた。その瞬間レノンは大統領を侮辱する態度をとり、プレスリーは困って苦笑いしていたという。(1965年にジョンソンがベトナム戦争を進めたため、レノンはジョンソンを嫌っていたからとハッチンスは語っている)プレスリーの妻だったプリシラは「ビートルズが入ってきたとき、エルヴィスはソファでリラックスしながらテレビを見ていました。両者とも最初は多少の沈黙とぎこちない会話の後、エルヴィスがベースを取り出してチャーリー・リッチの曲を弾き始めました。突然、ビートルズとエルヴィスのジャムセッションが始まりました」と語っている。 |
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1966年3月、コラムニストのモーリン・グリーブによるレノンのインタビュー記事が「{{仮リンク|ロンドン・イブニング・スタンダード|en|Evening Standard}}」誌に掲載された。この記事の一部がアメリカ公演間際に、アメリカのティーン雑誌「デイトブック」に転載された。元の記事は紙面にして2頁という量{{Sfn|Beatles|2000|p=225}}だったが、デイトブックはその中の1行である「[[キリスト発言|ビートルズはキリストより有名だ]]」という発言を抽出して掲載した。 |
1966年3月、コラムニストのモーリン・グリーブによるレノンのインタビュー記事が「{{仮リンク|ロンドン・イブニング・スタンダード|en|Evening Standard}}」誌に掲載された。この記事の一部がアメリカ公演間際に、アメリカのティーン雑誌「デイトブック」に転載された。元の記事は紙面にして2頁という量{{Sfn|Beatles|2000|p=225}}だったが、デイトブックはその中の1行である「[[キリスト発言|ビートルズはキリストより有名だ]]」という発言を抽出して掲載した。 |
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これが﹁ |
これが﹁イエスを冒瀆した﹂とアメリカで解釈され、ビートルズのレコード、プロマイドやポスターといったグッズなどが組織的に破棄、焼却されるという事態に発展。特にキリスト教信仰が盛んなアメリカ南部で大きな騒動となり、殺害予告もなされるに至った{{Sfn|Beatles|2000|p=225}}。この事態に対し、エプスタインはツアー前に声明を発し﹁その解釈が誤解で、ジョン・レノンは神や宗教に対して真摯な態度の人間である。しかし現在の若者にはビートルズの方が影響力がある、と言いたかったのだ﹂という旨を述べた。またアメリカ各地のプロモーターに対してコンサートを中止しても構わないと告げたが、キャンセルを申し出たプロモーターはいなかった{{Sfn|Beatles|2000|p=225}}。公演前にレノンが釈明会見を行ったが騒動は続き、[[バイブル・ベルト]]{{Sfn|Beatles|2000|p=225}}に着いた頃には乗っているバスの窓が群集に叩かれるなど危険な事態が生じた。アメリカツアーは予定通り行われた<ref>{{Cite web2 |author=JORDAN RUNTAGH |title=ジョン・レノンの﹁キリストより有名﹂発言論争の真実 |url=https://rollingstonejapan.com/articles/detail/26495/ |website=Rolling Stone Japan |publisher=CCCミュージックラボ株式会社 |date=2016-09-04 |accessdate=2020-02-08 }}</ref> が満員にならない会場も多かった。
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==== ローマ教皇庁の赦免 ==== |
==== ローマ教皇庁の赦免 ==== |
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しかしそうした歓待の一方で、日本武道館で初めてポップ・ミュージックを演奏することを批判する者も存在した。[[右翼]]団体、[[大日本愛国党]]総裁の[[赤尾敏]]をはじめとした街宣車や﹁Beatles Go Home﹂と書かれた横断幕の前で街頭演説をする者が現れ{{Sfn|Beatles|2000|p=215}}<ref>ビデオ版﹃ザ・ビートルズ・アンソロジー﹄に収録の記録映像。</ref>、さらに実際にビートルズ側に対して脅迫を行う者もいた{{Sfn|Beatles|2000|p=216}}。このため[[警視庁]]は大規模な警備体制を取り、会場内においても1万人の観客に対して3千人の警官を配備して監視を行った{{Sfn|Beatles|2000|p=216}}。[[TBSテレビ]]﹁[[時事放談]]﹂においては[[細川隆元]]と[[小汀利得]]の両司会者が﹁乞食芸人ごときのバンドの公演をするのなら武道館ではなく、[[夢の島]]でやれ!!﹂と抗議したほどであり、このことを知ったビートルズファンの視聴者らがTBSのスタジオに集まり、この2名に対して逆抗議を起こす騒ぎとなった<ref>[https://www.j-cast.com/tv/2018/07/31335064.html ビートルズ批判では元祖大炎上! 日曜朝の名物番組﹁時事放談﹂が44年の歴史に幕]︵J-CASTニュース︶</ref>。また、中・高校生のファンも多数いたが、[[明治]]・[[大正]]生まれの年長世代から見ればロック音楽はまだ不良の音楽という印象にしか過ぎないため、中にはこの公演を見学した生徒に対しては停・退学などの厳しい処分を科すという学校も私立校を中心にあった<ref>[https://labola.jp/blog/user/8388/889395 THE BEATLES!!]︵リオネル︶</ref>
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しかしそうした歓待の一方で、日本武道館で初めてポップ・ミュージックを演奏することを批判する者も存在した。[[右翼]]団体、[[大日本愛国党]]総裁の[[赤尾敏]]をはじめとした街宣車や﹁Beatles Go Home﹂と書かれた横断幕の前で街頭演説をする者が現れ{{Sfn|Beatles|2000|p=215}}<ref>ビデオ版﹃ザ・ビートルズ・アンソロジー﹄に収録の記録映像。</ref>、さらに実際にビートルズ側に対して脅迫を行う者もいた{{Sfn|Beatles|2000|p=216}}。このため[[警視庁]]は大規模な警備体制を取り、会場内においても1万人の観客に対して3千人の警官を配備して監視を行った{{Sfn|Beatles|2000|p=216}}。[[TBSテレビ]]﹁[[時事放談]]﹂においては[[細川隆元]]と[[小汀利得]]の両司会者が﹁乞食芸人ごときのバンドの公演をするのなら武道館ではなく、[[夢の島]]でやれ!!﹂と抗議したほどであり、このことを知ったビートルズファンの視聴者らがTBSのスタジオに集まり、この2名に対して逆抗議を起こす騒ぎとなった<ref>[https://www.j-cast.com/tv/2018/07/31335064.html ビートルズ批判では元祖大炎上! 日曜朝の名物番組﹁時事放談﹂が44年の歴史に幕]︵J-CASTニュース︶</ref>。また、中・高校生のファンも多数いたが、[[明治]]・[[大正]]生まれの年長世代から見ればロック音楽はまだ不良の音楽という印象にしか過ぎないため、中にはこの公演を見学した生徒に対しては停・退学などの厳しい処分を科すという学校も私立校を中心にあった<ref>[https://labola.jp/blog/user/8388/889395 THE BEATLES!!]︵リオネル︶</ref>
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またファンが殺到することによる混乱を避けるためにビートルズ側の行動も著しく制限され、分刻みのスケジュール管理、および日中の[[ヒルトン]]ホテルからの外出禁止などの措置がとられたが、その代わりに29日には[[東芝音楽工業]]の計らいで日本の若手アーティストの代表として[[加山雄三]]がホテルを訪問をした他、「[[ミュージック・ライフ]]」の取材を受けた。またメンバーは行動制限をかいくぐって7月1日の朝に[[皇居]]に、そして昼間に[[表参道]]と[[青山 (東京都港区)|青山]]に買い物に出かけている。その後には着物屋や土産屋が訪問販売をしている。 |
またファンが殺到することによる混乱を避けるためにビートルズ側の行動も著しく制限され、分刻みのスケジュール管理、および日中の[[ヒルトン]]ホテルからの外出禁止などの措置がとられたが、その代わりに29日には[[東芝音楽工業]]の計らいで日本の若手アーティストの代表として[[加山雄三]]がホテルを訪問をした他、「[[ミュージック・ライフ]]」の取材を受けた。またメンバーは行動制限をかいくぐって7月1日の朝に[[皇居]]に、そして昼間に[[表参道]]と[[青山 (東京都港区)|青山]]に買い物に出かけている。その後には着物屋や土産屋が訪問販売をしている。レノンはこの時に[[福助人形]]や[[ソニー]]のテレビを購入している。 |
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コンサート自体はマイク・スタンドの不備などの問題は生じたものの、事故や暴動などの問題は生じなかった。むしろ厳重な警備もあって(アリーナにはチケットが割り振られず警備員のみが配置され、観客は立ち上がったり近づいたりすることが許されていなかった{{Sfn|Beatles|2000|p=216}})会場が静かで自分達の演奏が聞こえたので、メンバーは最初のステージで自分達の音が合っていないことに気づいてショックを受けた。ハリスンは最初のステージ後、「今日の『[[恋をするなら (ビートルズの曲)|恋をするなら]]』は、ぼくがこれまでやってきたなかで最低だったよ」、「最近のツアーでぼくたちの演奏はこんなものなんだよ」と発言している。これを受けてビートルズとツアーメンバーは、次のステージまでに急いで改善の努力をした{{Sfn|Beatles|2000|p=216}}。その結果、演奏は回を重ねるほどに改善していった。 |
コンサート自体はマイク・スタンドの不備などの問題は生じたものの、事故や暴動などの問題は生じなかった。むしろ厳重な警備もあって(アリーナにはチケットが割り振られず警備員のみが配置され、観客は立ち上がったり近づいたりすることが許されていなかった{{Sfn|Beatles|2000|p=216}})会場が静かで自分達の演奏が聞こえたので、メンバーは最初のステージで自分達の音が合っていないことに気づいてショックを受けた。ハリスンは最初のステージ後、「今日の『[[恋をするなら (ビートルズの曲)|恋をするなら]]』は、ぼくがこれまでやってきたなかで最低だったよ」、「最近のツアーでぼくたちの演奏はこんなものなんだよ」と発言している。これを受けてビートルズとツアーメンバーは、次のステージまでに急いで改善の努力をした{{Sfn|Beatles|2000|p=216}}。その結果、演奏は回を重ねるほどに改善していった。 |
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==== フィリピン事件 ==== |
==== フィリピン事件 ==== |
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1966年7月3日に羽田空港を発つと[[香港]]に行き、2時間30分程の滞在中に取材を受けた後 |
1966年7月3日に羽田空港を発つと[[香港]]に行き、2時間30分程の滞在中に取材を受けた。その後[[キャセイパシフィック]]の[[コンベア880]]型機に乗り換えてマニラに到着した。7月4日に[[アラネタ・コロシアム]]{{Sfn|Beatles|2000|p=218}}にて公演を2回行ない、計10万人を動員。7月5日に離比した<ref group="注釈">﹃ザ・ビートルズ・アンソロジー﹄︵日本語版︶p.219のニール・アスピノールの発言。ただし、同p.220でハリスンは﹁20万人ぐらい居たのではないか﹂と発言している。</ref>。
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4日のコンサートの前に[[イメルダ・マルコス]]による歓迎 |
4日のコンサートの前に[[イメルダ・マルコス]]による歓迎会が[[マラカニアン宮殿|大統領官邸]]でとり行われることになったが、コンサートの前の時間が滅多に無い自由時間だったため、{{Sfn|Beatles|2000|p=219}}ビートルズ側はこの出席を辞退した︵ニール・アスピノールによれば{{Sfn|Beatles|2000|p=219}}エプスタインが事前に欠席する意向を伝達していた︶。それにもかかわらずフィリピンのテレビ局は官邸からの生中継で﹁もうすぐビートルズが到着する﹂と放送し、フィリピンのプロモーターは出席を要請し続けた{{Sfn|Beatles|2000|p=219}}が、結局エプスタインは要請を断り続けた。メンバーは歓迎会の存在すら知らないまま休養した後、会場に向かった。この無断欠席は次第に大騒動となり、当日深夜にエプスタインがテレビに出演して謝罪文を代読した。
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5日になってこの出来事は新聞やテレビで報道され、ビートルズの欠席を知ったフィリピン国民は怒りをあらわにした。 |
5日になってこの出来事は新聞やテレビで報道され、ビートルズの欠席を知ったフィリピン国民は怒りをあらわにした。出国しようとしているビートルズは空港などで多数の市民に取り囲まれたばかりでなく、警官や兵士までがメンバーに敵意を向けるという事態に発展する{{Sfn|Beatles|2000|p=220}}。ロードマネージャーが小突かれたり足蹴にされたり、離陸許可がなかなか出ない中、税務長官により法外な所得税が課されてしまった。結局コンサートの収入をすべて当局に支払い{{Sfn|Beatles|2000|p=220}}、フィリピンを離れることができた。
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後にメンバーおよび関係者は事件について{{Sfn|Beatles|2000|pp=217-221}}﹁スタッフのマル・エヴァンスが死を覚悟する発言を口にした。この一件によってエプスタインが体調を崩した。あんな狂った場所には二度と行きたくない﹂と述べている。後の1986年にマルコス夫妻が失脚した際も、そのことに肯定的な発言がある。 |
後にメンバーおよび関係者は事件について{{Sfn|Beatles|2000|pp=217-221}}﹁スタッフのマル・エヴァンスが死を覚悟する発言を口にした。この一件によってエプスタインが体調を崩した。あんな狂った場所には二度と行きたくない﹂と述べている。後の1986年にマルコス夫妻が失脚した際も、そのことに肯定的な発言がある。アスピノールは﹁この事件はビートルズからツアーへの意欲を奪った一因﹂と述べている{{Sfn|Beatles|2000|p=221}}。
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=== レコーディング・アーティストへの移行 === |
=== レコーディング・アーティストへの移行 === |
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これまでのビートルズの世界各国を巡るコンサート活動は、1966年8月29日の[[サンフランシスコ]]・[[キャンドルスティック・パーク]]でのコンサートを以て終了した{{Sfn|Beatles|2000|pp=228-229}}<ref group="注釈">テレビ出演時のライブ演奏や[[ゲット・バック・セッション]]の一環として行なわれた[[ルーフトップ・コンサート]]などは除く。</ref>。 |
これまでのビートルズの世界各国を巡るコンサート活動は、1966年8月29日の[[サンフランシスコ]]・[[キャンドルスティック・パーク]]でのコンサートを以て終了した{{Sfn|Beatles|2000|pp=228-229}}<ref group="注釈">テレビ出演時のライブ演奏や[[ゲット・バック・セッション]]の一環として行なわれた[[ルーフトップ・コンサート]]などは除く。</ref>。 |
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1965年の段階でスター{{Sfn|Beatles|2000|p=163}}やハリスン{{Sfn|Beatles|2000|p=199}}はスケジュールの過酷さに不満が募ってきていたと発言しており、メンバーの体調 |
1965年の段階でスター{{Sfn|Beatles|2000|p=163}}やハリスン{{Sfn|Beatles|2000|p=199}}はスケジュールの過酷さに不満が募ってきていたと発言しており、メンバーの体調や私生活の破綻が懸念されるようになっていく。加えてメンバーがコンサート自体の出来に不満を感じ始める様になっていた。当時は演奏者が自分やバンドの演奏音を確認する為のモニターシステムが備わっておらず<ref>ビデオ版﹃ザ・ビートルズ・アンソロジー﹄に収録されたライブ映像より</ref>、[[Public Address|PA]]も満足なものが無かったため、観客に演奏が届きにくかった。1965年8月15日のシェイ・スタジアム公演を含むアメリカツアーでは、スタジアム公演の為に特注の100[[ワット]]のアンプが用意されたが、それ以前は30ワットを使っている{{Sfn|Beatles|2000|p=184}}{{Refnest|group="注釈"|ちなみに、世界で最も大きな音量を出すバンドとして1973年にギネス・ブックに掲載された[[ディープ・パープル]]のPAは、最大25600ワットの出力が可能だった{{Sfn|三木|1977|pp=208-209}}。}}。こういった機材面の問題に加え、観客が音楽を聴いていないこともメンバーは不満に感じ始めており{{Sfn|Beatles|2000|p=227}}特にレノンはこの状況について、ビートルズのコンサートは音楽とは関係無いと発言している{{Sfn|Beatles|2000|p=229}}。
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さらにツアーの続行はメンバーや関係者の身の安全にも影響を及ぼした。日本公演では、武道館での演奏への一部の反発や、ファンの殺到による危険防止から大掛かりな身辺警護が実施され{{Sfn|Beatles|2000|p=216}}、日中にほとんどホテルから外出できなかった。さらにその後の[[#フィリピン事件|フィリピンでの出来事]]や[[#レノンのキリスト発言|8月のアメリカでの騒動]]では、人命をも脅かす事件が連続して起こっている。こうした一連の出来事によってメンバーたちの鬱憤が増大の一途を辿り{{Sfn|Beatles|2000|p=226}}、コンサート活動の終了に至った。エプスタインはフィリピン公演の後に立ち寄ったインドでハリスンに﹁来年もツアーをやるの?﹂と質問され、﹁1967年はツアーを行わない﹂と回答している{{Sfn|Beatles|2000|p=229}}。さらに1967年8月にエプスタインが急死してマネージメントの構造自体が変質した︵詳細は[[アップル・コア]]を参照︶ことも、公演活動の再開を遠ざけた。
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さらにツアーの続行はメンバーや関係者の身の安全にも影響を及ぼした。日本公演では、武道館での演奏への一部の反発や、ファンの殺到による危険防止から大掛かりな身辺警護が実施され{{Sfn|Beatles|2000|p=216}}、日中にほとんどホテルから外出できなかった。さらにその後の[[#フィリピン事件|フィリピンでの出来事]]や[[#レノンのキリスト発言|8月のアメリカでの騒動]]では、人命をも脅かす事件が連続して起こっている。こうした一連の出来事によってメンバーたちの鬱憤が増大の一途を辿り{{Sfn|Beatles|2000|p=226}}、コンサート活動の終了に至った。エプスタインはフィリピン公演の後に立ち寄ったインドでハリスンに﹁来年もツアーをやるの?﹂と質問され、﹁1967年はツアーを行わない﹂と回答している{{Sfn|Beatles|2000|p=229}}。さらに1967年8月にエプスタインが急死してマネージメントの構造自体が変質した︵詳細は[[アップル・コア]]を参照︶ことも、公演活動の再開を遠ざけた。
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2023年11月6日 (月) 05:05時点における版
ビートルズ | |
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![]() 写真左からジョン・レノン、リンゴ・スター、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスン。1965年撮影。 | |
基本情報 | |
別名 |
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出身地 |
![]() |
ジャンル | |
活動期間 | 1960年 - 1970年 |
レーベル | |
共同作業者 | |
公式サイト | thebeatles.com |
旧メンバー |
バンド名の由来
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/33/The_Beatles_logo.svg/190px-The_Beatles_logo.svg.png)
メンバー
基本的担当パートを太字表記名前 | プロフィール | 担当 | 在籍期間 |
---|---|---|---|
ジョン・レノン (英語: John Lennon) |
1940年10月9日 - 1980年12月8日(40歳没)![]() |
ボーカル リズムギター リードギター キーボード ハーモニカ ベース |
1960年 - 1970年 |
ポール・マッカートニー (英語: Paul McCartney) |
1942年6月18日(82歳)![]() |
ボーカル ベース リズムギター リードギター キーボード ドラムス |
1960年 - 1970年 |
ジョージ・ハリスン (英語: George Harrison) |
1943年2月25日[注釈 11] - 2001年11月29日(58歳没)![]() |
リードギター ボーカル リズムギター シタール キーボード ベース |
1960年 - 1970年 |
リンゴ・スター (英語: Ringo Starr) |
1940年7月7日(84歳)![]() |
ドラムス パーカッション ボーカル |
1962年 - 1970年 |
名前 | プロフィール | 担当 | 在籍期間 |
---|---|---|---|
ピート・ベスト (英語: Pete Best) |
1941年11月24日(82歳)![]() |
ドラムス ボーカル |
1960年 - 1962年 |
スチュアート・サトクリフ (英語: Stuart Sutcliffe) |
1940年6月23日 - 1962年4月10日(21歳没)![]() |
ベース ボーカル |
1960年 - 1961年 |
チャス・ニュービー (英語: Chas Newby) |
1941年6月18日 - 2023年5月22日(81歳没)![]() |
ベース | 1960年 |
ノーマン・チャップマン (英語: Norman Chapman) |
1937年 - 1995年7月(58歳没)[15] | ドラムス | 1960年 |
トミー・ムーア (英語: Tommy Moore) |
1931年9月12日 - 1981年9月29日(50歳没)![]() |
ドラムス | 1960年 |
名前 | プロフィール | 担当 | 在籍期間 |
---|---|---|---|
ジミー・ニコル (英語: Jimmie Nicol) |
1939年8月3日(84歳) -![]() |
ドラムス[注釈 12] | 1964年 |
基本編成
1962年10月のデビュー時点では﹁ギター×2、ベース、ドラムス﹂という編成であった。これは1961年に﹁ギター×3、ベース、ドラムス﹂という編成で行われた2度目のハンブルク巡業の終了後、ベースを担当していたサトクリフが脱退して4人となり、当時ギター担当だったマッカートニーがベースに転向して確立した[17]。さらにデビュー直前の1962年8月にドラマーがベストからスターに交代、この編成は解散の時期まで続いた。また、最初の2枚のアルバムは2トラックレコーダーのみで録音であり、原則この編成で一発録りを行なった。3作目の﹃ハード・デイズ・ナイト﹄からは4トラックが導入されて多重録音が可能になったが直ぐには使用されず、5作目のアルバム﹃ヘルプ!﹄のレコーディングから﹁ドラムス・ベース・リズムギター﹂﹁リードギター﹂﹁ボーカル﹂の順に録ることが増えた[18]。 中期から後期にかけての楽曲では、マッカートニーが主に自作曲でギターやピアノを演奏することも増え、レノンやハリスンがベースを弾くパターンも増えた[注釈 14] 他、1968年のアルバム﹃ザ・ビートルズ (ホワイト・アルバム)﹄のレコーディング・セッション時の一時的なスターの脱退[19][注釈 15] もあり、﹁バック・イン・ザ・U.S.S.R.﹂、﹁ディア・プルーデンス﹂はマッカートニーがドラムスを演奏している[注釈 16]。その他にも曲によってはメンバー各々がパーカッションを演奏していることもある。リードギターは基本的にハリスンが担当しているが、曲によってはレノンもしくはマッカートニーが担当することもある。レノンはリードギターを﹁ユー・キャント・ドゥ・ザット﹂、﹁ゲット・バック﹂、﹁アイ・ウォント・ユー﹂﹁レボリューション﹂などで担当。マッカートニーは﹁涙の乗車券﹂のフェイド・アウトの部分、﹁タックスマン﹂の間奏部とラスト部分、﹁バック・イン・ザ・U.S.S.R.﹂などでリードギターを担当している。﹁ジ・エンド﹂の間奏部分はマッカートニー→ハリスン→レノンの順にリレーする形でギターソロを演奏している[注釈 17]。リード・ボーカル
4人全員がいずれかの曲でリード・ボーカルを担当している[注釈 18]。リード・ボーカルは基本的に作詞作曲した本人が担当しているが、初期の﹁シー・ラヴズ・ユー﹂﹁抱きしめたい﹂などのレノンとマッカートニーによる共作曲はレノンとマッカートニーの2人でリード・ボーカルを担当している[注釈 19]。ハリスンは﹁タックスマン﹂、﹁ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス﹂、﹁サムシング﹂、﹁ヒア・カムズ・ザ・サン﹂など、スターは﹁イエロー・サブマリン﹂、﹁ウィズ・ア・リトル・ヘルプ・フロム・マイ・フレンズ﹂、﹁オクトパス・ガーデン﹂などでリード・ボーカルを担当している。曲ごとに使用された楽器
楽曲によってはギターやベース以外の楽器も使用されており、メンバー自身が担当した作品と、外部から参加した演奏者がセッションした作品がある。メンバー自身が担当した最も初期の例では、デビューシングルの﹁ラヴ・ミー・ドゥ﹂から3曲連続でレノン[23][注釈 20] がハーモニカを演奏。キーボードにおいては、マッカートニーが﹁マーサ・マイ・ディア﹂、﹁レディ・マドンナ﹂、﹁ヘイ・ジュード﹂、﹁レット・イット・ビー﹂、レノン作の﹁セクシー・セディー﹂などでピアノを担当している[注釈 21]。また﹃ミスター・ムーンライト﹄、﹃ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ﹄ではハモンドオルガンを、﹁ストロベリー・フィールズ・フォーエバー﹂ではイントロのメロトロンをマッカートニーが演奏している。レノンは度々オルガンやエレクトリックピアノといった電子鍵盤楽器を担当しており、また1965年8月15日に開催されたシェイ・スタジアム・コンサートで披露された﹁アイム・ダウン﹂では原曲同様、VOXのオルガンを演奏している。﹁ノルウェーの森﹂から使用されるようになったシタールはハリスンが1965年頃に友人の勧めで聴いたラヴィ・シャンカルのレコードがきっかけとなって興味を持ち、ロンドンの店で購入して使用した。1966年秋にはハリスンが自らインドに出向きシャンカルから直接の指導を受けている[18][注釈 22]。また、﹁ゲッティング・ベター﹂や﹁アクロス・ザ・ユニバース﹂でのタンブーラ、﹁ストロベリー・フィールズ・フォーエバー﹂でのツィターなどもハリスンが自ら担当している。﹁ヘルター・スケルター﹂ではレノンがサックスを担当している。モーグ・シンセサイザーはアルバム﹃アビイ・ロード﹄のセッション時にハリスンが導入[24]。当時は特注品のモジュラー・システムしか存在しなかったが、﹁ヒア・カムズ・ザ・サン﹂や﹁ビコーズ﹂でハリスンが演奏。マッカートニーも﹁マックスウェルズ・シルヴァー・ハンマー﹂で、レノンが﹁アイ・ウォント・ユー﹂で演奏している。 外部ミュージシャンの例では、セッション・ドラマーのアンディ・ホワイトが、デビュー曲となった﹁ラヴ・ミー・ドゥ﹂のレコーディングに参加している。ただし、これはプロデューサーのジョージ・マーティンの判断によるもの[25]である。メンバーの意向による参加ミュージシャンの例では、クラシック音楽の分野から﹁イエスタデイ﹂で弦楽四重奏、﹁エリナー・リグビー﹂で弦楽八重奏、﹁ペニー・レイン﹂ではピッコロ・トランペットのソロにデヴィッド・メイスンが招かれている。同じロックやポップスの分野では﹁ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス﹂でリードギターを担当したエリック・クラプトンや、﹁レボリューション﹂でエレクトリックピアノを弾いたニッキー・ホプキンスが挙げられる。プロデューサーのジョージ・マーティンは﹁イン・マイ・ライフ﹂、﹁グッド・デイ・サンシャイン﹂、﹁ラヴリー・リタ﹂などの間奏でピアノを、﹁ベイビー・イッツ・ユー﹂ではチェレスタ、﹁サン・キング﹂ではオルガンを弾いている。また、ローリング・ストーンズのブライアン・ジョーンズは﹁ユー・ノウ・マイ・ネーム﹂のレコーディングにサックスで参加。アルバム﹃レット・イット・ビー﹄のセッションにはビリー・プレストンがエレクトリックピアノやハモンドオルガンで参加している。ただし、外部から参加したミュージシャンはプレストンを除きレコードのクレジットには記載されていない。利き手
メンバー4人のうちマッカートニーとスターは左利きである。マッカートニーは左利きだと述べている[26]。スターは文字を書く時以外は左利きだと述べている[27][28]。 マッカートニーは、ベースやギターの左利き用の物の使用や︵ただし、ドラムのみは右利き用のセッティングで叩いている︶、文字を左手で書いている写真・映像がある。作詞作曲
オリジナル曲はすべてメンバーが作詞作曲しており、最も多いクレジットはレノンとマッカートニーの共作名義である﹁レノン=マッカートニー﹂で、ビートルズナンバー213曲の内、144曲が﹁レノン=マッカートニー﹂名義になっている。それ以外のビートルズの公式発表曲︵オリジナル曲︶には、名前の並びが逆の﹁マッカートニー=レノン﹂作品8曲、﹁ジョン・レノン・アンド・ポール・マッカートニー﹂が13曲[注釈 23]、ハリスンの作品22曲、スターの作品2曲、レノン=マッカートニーとスターの共作1曲、全員の共作2曲が含まれている。未発表曲集﹃ザ・ビートルズ・アンソロジー﹄には、レノンとハリスンの共作、マッカートニーとハリスンの共作の作品も収録されている。デビュー直前までの経歴
クオリーメン結成からビートルズへの改名まで
1957年3月、レノンがスキッフル・バンド﹁クオリーメン﹂を結成する。同年7月6日、ウールトンのセント・ピーターズ教会が開催したガーデン・パーティーでのクオリーメンのコンサートをマッカートニーが観た。マッカートニーは共通の友人であるアイヴァン・ボーン[注釈 24]に紹介されレノンに面会した。マッカートニーはギターを弾きながらエディ・コクランの﹁トゥエンティ・フライト・ロック﹂、ジーン・ヴィンセントの﹁ビー・バップ・ア・ルーラ﹂、それにリトル・リチャードのメドレーを歌った[30]。マッカートニーが歌詞を完璧に覚えていること[31] に加え、トランペットやピアノも演奏出来ることにレノンは感心してクオリーメンに勧誘し、翌日にマッカートニーは参加すると返答した[32]。 翌1958年2月6日、マッカートニーの紹介でハリスンがクオリーメンのオーディションを受ける。﹁ローンチー﹂を完璧に弾きこなしたことと、2人よりも多くのコードを知っていたことでレノンに認められ、バンドに加わる[33]。1959年になると他のメンバーは次第に辞めていき、1月にはバンドのメンバーはレノン、マッカートニー、ハリスンの3人だけになる。 同年10月、バンド名を﹁ジョニー&ザ・ムーンドッグス﹂とする。1960年1月、サトクリフがレノンに誘われバンドに加入しベーシストになる[注釈 25]。同年4月、レノンとサトクリフがバンド名はビートルズではどうかと提案するが、興行側のブライアン・キャスが改名を要請。交渉してバンド名を﹁ロング・ジョン&シルヴァー・ビートルズ﹂とする[注釈 26]。ビートルズへの改名以後
1960年5月、ロンドンの音楽関係者であるラリー・バーンズが担当する新しいソロシンガー[注釈 27] のバックバンドを務めるオーディションにエントリーする。参加を約束していたドラマーは来られなくなったが、キャス&カサノヴァズのジョニー・ハッチンソンが代役でドラムスを担当して合格する。この後、シンガーに決定したジョニー・ジェントルのバック・バンドとしてスコットランドにツアーに出る。この時、レノンは﹁ロング・ジョン﹂、マッカートニーは﹁ポール・ラモーン﹂、ハリスンは﹁カール・ハリスン﹂、サトクリフは﹁スチュアート・ド・スタール﹂とそれぞれが芸名を付けていた[34]。このツアーではトニー・ムーアというドラマーが参加し、ツアー終了後もしばらく在籍していたが、やがて脱退する[注釈 28]。 8月、アラン・ウィリアムス[注釈 29] を通じて西ドイツのハンブルクでの仕事が入ったが、5人編成のバンドを希望してきたため、新たなドラマーが必要となる。この時、シルヴァー・ビートルズが出演していたカスバ・クラブの経営者の息子ピート・ベストがドラムスをやっていたので、メンバーとして誘い入れる。この編成で最初のハンブルク巡業に向かい﹁インドラ﹂というクラブで毎日6〜8時間の演奏を行う。当初はおとなしい演奏に終始したため評判が悪かったが、マネージャーのアドバイスもあってショー・アップを心がけ、長時間のステージで演奏も上達したことにより、次第に人気を獲得していった[35]。 1か月後﹁カイザーケラー﹂に移動。﹁デリー&ザ・シニアーズ﹂や、リンゴ・スターがドラムスを務める﹁ロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズ﹂と交代で出演することになり、この時にスターと知己が生まれる。またこの頃、ベストがステージを休むことが数回あったため、スターが代役としてビートルズでドラムスを叩く機会があった。さらに、この頃アストリッド・キルヒャー[注釈 30]が友人とともに客として店に来るようになり、程なくサトクリフと恋仲となる。 写真家を目指していたアストリットによって、この頃のビートルズの写真が撮影され、それが後に﹃ザ・ビートルズ・アンソロジー﹄などの文献に収録された。同時期にアストリットの友人で、後にイラストレーター、ミュージシャンとしてメンバーと関わるクラウス・フォアマンとも親交を結ぶ。ハンブルクでクラブ演奏を始めて3か月後、カイザーケラーより格上の﹁ザ・トップテン・クラブ﹂からの出演依頼が来たのと時期を同じくして、ハリスンが満17歳で就労年齢制限に抵触していることが発覚して強制送還となり、さらに宿舎にしている映画館の出火を理由にマッカートニーとベストも強制送還となり、残されたレノンも自力で帰国。サトクリフだけはアストリットに援助されしばらくハンブルクに滞在した。![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/a2/TheCavern_Club.jpg/230px-TheCavern_Club.jpg)
4人のビートルズ誕生
2度目のハンブルク巡業が終わった時点でサトクリフが脱退。アストリットと婚約してハンブルクに残ることになる。マッカートニーがギターからベースに担当を替え、4人組のビートルズが誕生する。 帰国後の8月、レノンの級友だったビル・ハリーが音楽新聞﹁マージー・ビート﹂を発刊。レノンの書いた文章が載るようになった。そこで、マッカートニーのソロアルバム﹁フレイミング・パイ﹂の名前の元となった文章も掲載された。 12月10日、リヴァプールでレコード店﹁NEMS﹂を営んでいたブライアン・エプスタインがマネージャーになることが決まる。このエプスタインの営業活動により、1962年1月1日にデッカ・レコードのオーディションを受けるが、不合格となる。 その後もライブ活動を続ける傍ら、エプスタインが各レコード会社に営業を続ける。4月から3度目のハンブルク巡業を開始し、11日からスター・クラブに出演。その前日の[38]4月10日、サトクリフが脳内出血により死去する。6月、EMI傘下のパーロフォン所属プロデューサーのジョージ・マーティンによるオーディションが打診される。6月6日に行われたオーディションを受けてデビューが決まった後の8月15日、ベストが解雇される[注釈 33]。 直後にスターが加入し、9月からEMIでレコーディング・セッションが行われる。この時はスターの他に、マーティンがオファーしたドラマーのアンディ・ホワイトが参加している。また、エンジニアとして参加したノーマン・スミスは、この後﹃ラバー・ソウル﹄までチーフ・エンジニアを務めることになる。ハンブルクでの録音
ザ・トップテン・クラブでは、ビートルズはトニー・シェリダンのバック演奏も担当した。1961年6月22、23日、1962年5月24日、この縁でシェリダンのバックバンドとしてレコーディングに参加︵ビートルズのポリドール・セッションを参照︶。レコード会社は﹁トニー・シェリダン&ザ・ビート・ブラザーズ﹂と、バンド名を変えて発売[注釈 34]。﹁マイ・ボニー﹂などの他、シェリダン抜きでレノンのボーカルの﹁いい娘じゃないか﹂、インストゥルメンタルナンバーのビートルズのオリジナル曲﹁クライ・フォー・ア・シャドウ﹂もレコーディングされた[注釈 35]。デビュー以降の経歴
デビュー
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/3a/The_Beatles_and_Lill-Babs_1963.jpg/230px-The_Beatles_and_Lill-Babs_1963.jpg)
世界進出
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/61/The_Beatles_arrive_at_JFK_Airport.jpg/230px-The_Beatles_arrive_at_JFK_Airport.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/56/Beatles_with_Ed_Sullivan.jpg/230px-Beatles_with_Ed_Sullivan.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/04/Paul%2C_George_%26_John.png/230px-Paul%2C_George_%26_John.png)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/61/Eiga-Joho-1966-January-2.png/230px-Eiga-Joho-1966-January-2.png)
野球場でのコンサート
1964年の全米ツアーは1か月に24都市を回るという強行スケジュールであり、加えてレコーディングや映画撮影、テレビ出演などもあってメンバーの疲労も非常に激しいものとなった[56]。そのため、1965年の全米ツアーは日程が大幅に短縮され、2週間で10都市を回るスケジュールとなった。その代わりにコンサート会場として、何万人もの観客を一度に集めることができる野球場を使うことになった。1965年8月15日にニューヨークのシェイ・スタジアムにおいて開催されたコンサートの観客人数は55,600人に上っている。これは当時としては世界最大の観客動員数であり、またビートルズが開催した全てのコンサートの中でも最大数である[57]。 1965年の全米ツアーのみならず、翌1966年の全米ツアーでも多くの野球場が使用された[注釈 45]。ただし、こういった大規模な野外コンサートに対して、メンバーは音響面や観客との距離といった点で不満を抱いており[57]、これがビートルズのツアー中止の一因となった︵詳細は#レコーディング・アーティストへの移行を参照︶。これ以後、野球場・サッカー場といったスポーツ競技場での大規模コンサートは一般化していき[注釈 46]、日本でも1968年8月12日にザ・タイガースによる後楽園球場でのコンサートが開催されて以降、スポーツ競技場でのコンサートが開催されるようになる。また、スポーツ競技場以外でも1969年のウッド・ストックや1970年のワイト島フェスティバル1970といった大規模野外コンサートが行われるようになる。エルヴィス・プレスリーとの面会
1965年8月27日にビートルズはロサンゼルスのエルヴィス・プレスリー宅に招かれた[58]。プレスリーのマネージャーであるトム・パーカー大佐がエプスタインと﹁極秘の打ち合わせを行なう﹂という名目だったが、プレスリー宅周辺には人々が集まった。 面会に際してメンバーはバカだと思われないように装いながらも、心を躍らせて部屋に入った。部屋でプレスリーはテレビを見ながらベースを練習してくつろいでいた[要校閲]。﹁本物のエルヴィスだ﹂と感激したメンバーは呆然としてしまい、プレスリーが﹁ずっとそうやって僕を見てるだけなら僕はもう寝るよ?せっかく演奏ができると思って待ってたのに﹂と声をかけたことから、即興演奏が始まった。プレスリーはベースを演奏し、レノンとハリスンはギター、マッカートニーはピアノを演奏した。スターはドラムキットが無かったので演奏せずビリヤードやサッカーを楽しんでいたという。 この会見はビートルズのメンバー達や関係者達の証言の食い違いがあり、様々な諸説がある。ビートルズの友人でもある記者のクリス・ハッチンスによれば、レノンがプレスリー宅のラウンジに入った時、テーブルランプの﹁リンドン・B・ジョンソン大統領と共に﹂というメッセージが刻まれたワゴンの模型を見つけた。その瞬間レノンは大統領を侮辱する態度をとり、プレスリーは困って苦笑いしていたという。︵1965年にジョンソンがベトナム戦争を進めたため、レノンはジョンソンを嫌っていたからとハッチンスは語っている︶プレスリーの妻だったプリシラは﹁ビートルズが入ってきたとき、エルヴィスはソファでリラックスしながらテレビを見ていました。両者とも最初は多少の沈黙とぎこちない会話の後、エルヴィスがベースを取り出してチャーリー・リッチの曲を弾き始めました。突然、ビートルズとエルヴィスのジャムセッションが始まりました﹂と語っている。 ビートルズの広報担当者でもあるトニー・バロウによると﹁プレスリーとビートルズは奇妙な沈黙が多く、いくつかぎこちない会話をした。最初に口を開いたのはジョンで、最近はなぜ映画でソフトなバラードばかりを歌ってるの?ロックンロールはどうしたのと質問していた。会話は上手くいかなかったが、プレスリーが楽器を用意し、素晴らしいセッションが始まった。彼等が演奏した全ての曲は覚えてないが、その内の1つはI Feel Fineだったことは覚えている。リンゴは木製家具を叩いてバックビートを鳴らしていた。それは素晴らしいセッションだった﹂と語っている。 プレスリーはビートルズの曲も歌い﹁君たちのレコードは全部持ってるよ﹂と言った。対してレノンは﹁僕はあなたのレコードは1枚も持ってないけどね﹂と発言したのでその場が凍りついた。これはレノン流の過激なジョークだったといわれている。この会見は成功したとは言えないものだったが、ビートルズは忘れられない夜だったと語っている。プレスリーのロードマネジャーであるジョー・エスポジートによれば、﹁プレスリーは面会の後もビートルズに敬意を払っていた﹂と語っている。レノンはプレスリーの取り巻きに﹁エルヴィスがいなければ今の自分はいない﹂と伝えるよう頼んだという。しかし後の1970年に、反米精神に満ちたヒッピーのドラッグカルチャーの問題などで、混沌としているアメリカを危惧したプレスリーは、ニクソン大統領にアメリカを救うのに協力したいと手紙を出した。ヒッピーに支持されていた、LSDなどのビートルズのドラッグの音楽や過激なドラッグの発言、反アメリカ的な発言や共産主義的な思想など、若者に悪影響を及ぼしているとプレスリーは懸念していた。ビートルズの中でも特にジョンレノンがアメリカに悪影響で要注意人物と考えていたという。プレスリーはビートルズを一時期マークしていた。しかしプレスリーは麻薬取締局のバッジを取得した後、ニクソンとの関係も次第に無くなっていき、ビートルズの曲をコンサートで歌ったりもしている。 この面会は当時の音楽界において最も注目すべきものだったが、会話は録音されていない。これはパーカー大佐の要請ではなく、エプスタインがプレスリー側へ気を利かせ会話録音を一切許可しなかったからである。レノンのキリスト発言
1966年3月、コラムニストのモーリン・グリーブによるレノンのインタビュー記事が﹁ロンドン・イブニング・スタンダード﹂誌に掲載された。この記事の一部がアメリカ公演間際に、アメリカのティーン雑誌﹁デイトブック﹂に転載された。元の記事は紙面にして2頁という量[59]だったが、デイトブックはその中の1行である﹁ビートルズはキリストより有名だ﹂という発言を抽出して掲載した。 これが﹁イエスを冒瀆した﹂とアメリカで解釈され、ビートルズのレコード、プロマイドやポスターといったグッズなどが組織的に破棄、焼却されるという事態に発展。特にキリスト教信仰が盛んなアメリカ南部で大きな騒動となり、殺害予告もなされるに至った[59]。この事態に対し、エプスタインはツアー前に声明を発し﹁その解釈が誤解で、ジョン・レノンは神や宗教に対して真摯な態度の人間である。しかし現在の若者にはビートルズの方が影響力がある、と言いたかったのだ﹂という旨を述べた。またアメリカ各地のプロモーターに対してコンサートを中止しても構わないと告げたが、キャンセルを申し出たプロモーターはいなかった[59]。公演前にレノンが釈明会見を行ったが騒動は続き、バイブル・ベルト[59]に着いた頃には乗っているバスの窓が群集に叩かれるなど危険な事態が生じた。アメリカツアーは予定通り行われた[60] が満員にならない会場も多かった。ローマ教皇庁の赦免
事件から42年を経た2008年11月、ヴァチカンの公式新聞﹁オッセルヴァトーレ・ロマーノ﹂は、ローマ教皇庁がレノンの発言を赦したという声明を発表した。この記事は、1966年に発表されたものを再度掲載したものである。﹁予想外の成功を手にした若者が﹃豪語しただけ﹄に過ぎない﹂というのがローマ教皇庁の見解である。なお、この年はアルバム﹃ザ・ビートルズ (ホワイト・アルバム)﹄40周年記念の年にあたり、ビートルズを称賛する内容で締めくくられている[61][62]。 2010年4月にも、ビートルズ解散40年に合わせ、同紙はビートルズを称賛する記事を掲載した[63]。日本公演
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![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/d4/Nippon_Budoukan_AGE_Ibamoto_3.png/230px-Nippon_Budoukan_AGE_Ibamoto_3.png)
フィリピン事件
1966年7月3日に羽田空港を発つと香港に行き、2時間30分程の滞在中に取材を受けた。その後キャセイパシフィックのコンベア880型機に乗り換えてマニラに到着した。7月4日にアラネタ・コロシアム[66]にて公演を2回行ない、計10万人を動員。7月5日に離比した[注釈 48]。 4日のコンサートの前にイメルダ・マルコスによる歓迎会が大統領官邸でとり行われることになったが、コンサートの前の時間が滅多に無い自由時間だったため、[76]ビートルズ側はこの出席を辞退した︵ニール・アスピノールによれば[76]エプスタインが事前に欠席する意向を伝達していた︶。それにもかかわらずフィリピンのテレビ局は官邸からの生中継で﹁もうすぐビートルズが到着する﹂と放送し、フィリピンのプロモーターは出席を要請し続けた[76]が、結局エプスタインは要請を断り続けた。メンバーは歓迎会の存在すら知らないまま休養した後、会場に向かった。この無断欠席は次第に大騒動となり、当日深夜にエプスタインがテレビに出演して謝罪文を代読した。 5日になってこの出来事は新聞やテレビで報道され、ビートルズの欠席を知ったフィリピン国民は怒りをあらわにした。出国しようとしているビートルズは空港などで多数の市民に取り囲まれたばかりでなく、警官や兵士までがメンバーに敵意を向けるという事態に発展する[77]。ロードマネージャーが小突かれたり足蹴にされたり、離陸許可がなかなか出ない中、税務長官により法外な所得税が課されてしまった。結局コンサートの収入をすべて当局に支払い[77]、フィリピンを離れることができた。 後にメンバーおよび関係者は事件について[78]﹁スタッフのマル・エヴァンスが死を覚悟する発言を口にした。この一件によってエプスタインが体調を崩した。あんな狂った場所には二度と行きたくない﹂と述べている。後の1986年にマルコス夫妻が失脚した際も、そのことに肯定的な発言がある。アスピノールは﹁この事件はビートルズからツアーへの意欲を奪った一因﹂と述べている[79]。レコーディング・アーティストへの移行
これまでのビートルズの世界各国を巡るコンサート活動は、1966年8月29日のサンフランシスコ・キャンドルスティック・パークでのコンサートを以て終了した[80][注釈 49]。 1965年の段階でスター[81]やハリスン[82]はスケジュールの過酷さに不満が募ってきていたと発言しており、メンバーの体調や私生活の破綻が懸念されるようになっていく。加えてメンバーがコンサート自体の出来に不満を感じ始める様になっていた。当時は演奏者が自分やバンドの演奏音を確認する為のモニターシステムが備わっておらず[83]、PAも満足なものが無かったため、観客に演奏が届きにくかった。1965年8月15日のシェイ・スタジアム公演を含むアメリカツアーでは、スタジアム公演の為に特注の100ワットのアンプが用意されたが、それ以前は30ワットを使っている[84][注釈 50]。こういった機材面の問題に加え、観客が音楽を聴いていないこともメンバーは不満に感じ始めており[86]特にレノンはこの状況について、ビートルズのコンサートは音楽とは関係無いと発言している[87]。 さらにツアーの続行はメンバーや関係者の身の安全にも影響を及ぼした。日本公演では、武道館での演奏への一部の反発や、ファンの殺到による危険防止から大掛かりな身辺警護が実施され[68]、日中にほとんどホテルから外出できなかった。さらにその後のフィリピンでの出来事や8月のアメリカでの騒動では、人命をも脅かす事件が連続して起こっている。こうした一連の出来事によってメンバーたちの鬱憤が増大の一途を辿り[88]、コンサート活動の終了に至った。エプスタインはフィリピン公演の後に立ち寄ったインドでハリスンに﹁来年もツアーをやるの?﹂と質問され、﹁1967年はツアーを行わない﹂と回答している[87]。さらに1967年8月にエプスタインが急死してマネージメントの構造自体が変質した︵詳細はアップル・コアを参照︶ことも、公演活動の再開を遠ざけた。 こうした反面、ビートルズはスタジオでの創作活動に意欲を振り向け始め、コンサートでは再現困難な作品も作り始めていた。すでに1965年の﹁ひとりぼっちのあいつ﹂や1966年の﹁ペイパーバック・ライター﹂など、ボーカル・ハーモニーのライブ再現が難しい[89] 曲が発表されていたが、コンサート活動の終了後、初めて発売した1967年のオリジナル・アルバム﹃サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド﹄は制作に半年[90]を費やし[注釈 51]、コンサートでの再現を想定していないスタジオワークの技術が多く使用された[92]。サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンドからホワイト・アルバムまで
1966年9月、レノンは映画﹃ジョン・レノンの 僕の戦争﹄の撮影のためスペインに向かい、この撮影の休憩時間を使って﹁ストロベリー・フィールズ・フォーエバー﹂が書かれた[93]。ほぼ同時期にハリスンはインド音楽の研究のためインドに行き、ラヴィ・シャンカルに対面している[18]。11月、ジョン・ダンバー[注釈 52] の招待[94]でレノンがインディカ・ギャラリーに赴き、オノ・ヨーコに出会う。 同月、ツアー終了後初めてアビー・ロード・スタジオに集合し﹁ストロベリー・フィールズ・フォーエバー﹂﹁ホエン・アイム・シックスティ・フォー﹂﹁ペニー・レイン﹂などを録音。これらの曲は当初、次のアルバムに収録する予定だったが[95]、キャピトル側がシングルの早期発売を要請してきたため[40]、この内の2曲を先行してシングル発売することになった。 1967年2月、﹁ストロベリー・フィールズ・フォーエバー﹂と﹁ペニー・レイン﹂が両A面シングルとして発売。レコーディングは引き続き行われ、6月1日にはイギリスでアルバム﹃サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド﹄が発売される。このアルバムは当時のポピュラー音楽界の枠を超えて多大な文化的影響を与えたと言われている。同月25日、3億人が視聴した[96]世界同時衛星中継番組﹃われらの世界﹄に出演し、﹁愛こそはすべて﹂を披露する。同曲は7月にシングル発売された。 8月にハリスンがサンフランシスコに行き、ヘイト・アシュベリーでヒッピーらと交流を持つが、ドラッグ・カルチャーに対して否定的な結論に至り、逆にシタールの習得の際に触れたインドの瞑想に深く関る様になる[97]。このハリスンの発案により、8月24日、妻の出産で出席出来なかったスターを除く3人がロンドンのヒルトン・ホテルで行われたマハリシ・マヘーシュ・ヨーギーのレクチャーに参加。続けてウェールズのバンガーでのセミナーに参加する。しかし27日にエプスタインが急死したため、4人はセミナーを辞去してロンドンに戻る。エプスタインの死によってビートルズのマネージメントの不備が明らかになり、アップル・コア設立が企図される[98]。 9月[99]からテレビ映画﹃マジカル・ミステリー・ツアー﹄の撮影が行われ、年末にBBCで放映される。同作のサウンドトラックは、11月にアメリカでコンピレーション形式のLP盤[注釈 53]、12月にイギリスでEP盤が発売される。 1968年1月、ハリスンがインドのボンベイで﹃不思議の壁﹄を録音。同名映画のサウンドトラックで11月に発売された。その後メンバー全員でリシケーシュのマハリシ・マヘーシュ・ヨーギーの講義に参加。その間にニール・アスピノールとデレク・テイラーの主導でアップル・コアの設立準備を行う[100]。5月、ニューヨークでレノンとマッカートニーがアップル・コア設立の記者会見を行う。7月[101]、アニメーション映画﹃イエロー・サブマリン﹄を公開。 8月、レノンと妻のシンシアの関係がオノ・ヨーコにより険悪になったことから、夫妻の息子であるジュリアンにマッカートニーが伝えたいと思ったメッセージが元になった[102]シングル﹃ヘイ・ジュード﹄が発売される。11月、初の2枚組アルバム﹃ザ・ビートルズ (ホワイト・アルバム)﹄が発売[注釈 54]。アップル・コア
レット・イット・ビーからアビイ・ロードまで
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/3e/Abbey_Rd_Studios.jpg/220px-Abbey_Rd_Studios.jpg)
アルバム﹃レット・イット・ビー﹄と﹃アビイ・ロード﹄
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/25/3_Savile_Row.jpg/220px-3_Savile_Row.jpg)
解散
1970年4月10日、マッカートニーはイギリスのタブロイド紙﹃デイリー・ミラー﹄でビートルズから脱退することを発表した。同年9月に﹁ハリスンがクラウス・フォアマンを加入させベース担当にする﹂との噂が立ったこともあり、マッカートニーは12月30日にロンドン高等裁判所にアップル社と他の3人のメンバーを被告として、ビートルズの解散とアップル社における共同経営関係の解消を求める訴えを起こした。 翌年1971年3月12日、裁判所はマッカートニーの訴えを認め他の3人は上告を断念、この時点でビートルズの解散が法的に決定された︵詳細はビートルズの解散問題に記載︶。 1971年に発売されたレノンのアルバム﹃イマジン﹄収録の﹁ハウ・ドゥ・ユー・スリープ?﹂のように、レノンとマッカートニーはお互いのソロ作品の中で互いを非難をしている。本曲のレコーディングにはハリスンも参加し、歌詞の中では﹁イエスタデイ﹂、マッカートニーのソロ曲﹁アナザー・デイ﹂までもを持ち出し辛辣に皮肉っている。 しかし緊迫した関係は次第に雪解けへと向かい、1980年のインタビューでレノンは﹁3人には親愛を抱いてるよ。3人が自分の人生の一部を占めてることは事実さ﹂[112]﹁人生で二度大きな選択をした。一度目はポール・マッカートニーで二度目はオノ・ヨーコだ。一緒に仕事をしたいと思ったのはこの二人しかいない。二人ともとても良い選択だったと思うよ﹂と述べている[113][出典無効]。またハリスンも後にビートルズに対して肯定的な意見を述べているほか、マッカートニーも﹁問題が発生してるかどうかとは別に、4人の結束は常に固い[112]﹂と述べている。 なお、スターのみは、解散以後も他の3人のメンバーとの良好な関係を保ち続け、レノン、マッカートニー、ハリスンと共にスターのソロアルバムのレコーディングに参加している。1973年リリースのアルバム﹃リンゴ﹄ではアルバム上だけではあったが4人が同じ新作アルバムの中で演奏、レノンが提供した楽曲﹁アイム・ザ・グレーテスト﹂ではレノン、ハリスン、スターが演奏に参加している[注釈 57]。解散後
1970年代
1971年8月、ハリスン主催のチャリティーコンサート﹁バングラデシュ・コンサート﹂がニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで開催、主催者のハリスンの他、スターも参加した。そのライブ・アルバムは翌年の1972年にリリースされ、第15回グラミー賞の年間最優秀アルバム賞を獲得している。 1973年、アップル・レコードより2枚組ベストアルバム﹃ザ・ビートルズ1962年〜1966年﹄︵赤盤︶と﹃ザ・ビートルズ1967年〜1970年﹄︵青盤︶がリリース。赤盤がビルボードのアルバムチャートで3位、青盤が1位を獲得した。日本のオリコンでは赤盤が7月9日付けで1位、1973年度の洋楽年間チャート1位となっている[注釈 58]。 またこの年は世界各国でビートルズのリバイバルブームが起こり、﹃タイム﹄や﹃ニューズウィーク﹄などでビートルズが取り上げられた[115]。更に同年11月にリリースされたスターのアルバム﹃リンゴ﹄では、他の3人が楽曲提供を行ったほか、レコーディングに参加したことでも話題となった。1980年代
1980年12月8日︵米国東部時間︶レノンがニューヨークの自宅前で射殺された。 翌年1981年にハリスンが発表したレノンの追悼曲﹁過ぎ去りし日々﹂にはスターがドラムス、マッカートニー率いるバンド、ウイングスのメンバーがコーラスとして参加。本曲はレノンの死後初めて他メンバーが共演した作品となった[注釈 59]。 1985年、﹃ギネス・ワールド・レコーズ﹄が﹁世界でのビートルズのレコード、テープの総売り上げが10億枚以上﹂と認定した[注釈 60]。 1987年2月26日、ビートルズの作品がCD化され正式にリリースされた[注釈 61][116]。同年3月9日、﹁レノン=マッカートニー﹂がアメリカの﹁ソングライターの殿堂﹂に選ばれた。本来はアメリカ国内のソングライターに対するもので、アメリカ人以外の作曲家としては初の殿堂入りとなった。1990年代
1995年、﹃ザ・ビートルズ・アンソロジー﹄のプロジェクトが開始、同年11月、プロジェクトの一環でコンピレーションアルバム﹃ザ・ビートルズ・アンソロジー1﹄が発売された。本作にはレノンが遺した未発表のデモテープを元に製作された新曲﹁フリー・アズ・ア・バード﹂や、デビュー前から1964年頃にかけての未発表曲やデモ音源、別テイクが収録され、ビルボードのアルバム・チャートで3週連続1位を獲得している[注釈 62]。翌1996年には﹃ザ・ビートルズ・アンソロジー2﹄、﹃ザ・ビートルズ・アンソロジー3﹄が発売された 1999年にはアニメ映画﹃イエロー・サブマリン﹄のDVDがサウンドを5.1ch化され再発されたほか、映画で使用された楽曲に最新のリミックスなどを施した初のリミックスアルバム﹃イエロー・サブマリン 〜ソングトラック〜﹄が発売された。2000年代
2000年10月、﹃ザ・ビートルズ・アンソロジー﹄の書籍版が出版。同年11月、米ビルボードと英ミュージック・ウィークで1位になった27曲を収録したベストアルバム﹃ザ・ビートルズ1﹄が発売。世界34か国で1位を獲得した。 2001年11月29日、ハリスンが脳腫瘍と肺癌のため死去。2003年11月、アルバム﹃レット・イット・ビー...ネイキッド﹄が発売。ゲット・バック・セッションで録音された音源に最新のリミックスとリマスタリングを施し、﹃レット・イット・ビー﹄でマッカートニーが不満を表明していた[117]フィル・スペクターによるオーケストラなどの追加部分が削除された。 2006年11月、人気ミュージカルシルク・ドゥ・ソレイユのサウンドトラックとして、リミックスアルバム﹃LOVE﹄がリリース。2007年1月、イギリスでビートルズのアルバム・ジャケット画を使用した切手が発売[118]。 2009年9月9日、イギリス盤オリジナル・アルバム12作と米編集﹃マジカル・ミステリー・ツアー﹄、﹃パスト・マスターズ﹄のCDが新たにリマスタリングされたステレオ音源で世界同時発売。同日CD BOX﹃ザ・ビートルズ BOX﹄︵これらステレオ音源をまとめたもの︶に、CD BOX﹃ザ・ビートルズ MONO BOX﹄も発売された[119]。後者には﹃ザ・ビートルズ﹄までのオリジナルアルバムのモノラル音源と2枚組の﹃モノ・マスターズ﹄[注釈 63] が収録されている。ステレオ・アルバム・ボックスをUSBメモリに収録した﹃ザ・ビートルズ USB BOX﹄も発売された。このボックスにはオーディオCDのスペックをしのぐFLAC 44.1Khz 24 bitで収録された音源の他、CDブックレット、ボーナスDVDをデータ化したものも収録されている[120][121]。2010年代
2010年、オリジナル作品のiTunesでのデジタル配信が解禁となる。﹃LOVE﹄も2011年2月に配信され、同時にアルバムで1位を獲得した。 2011年6月、﹃ザ・ビートルズ・アンソロジー﹄のリマスター版が配信開始。2013年11月11日﹃オン・エア〜ライヴ・アット・ザ・BBC Vol.2﹄が世界同時発売。2014年1月27日、ビートルズ訪米50周年のトリビュート・コンサート﹃The Night That Changed America: A Grammy Salute To The Beatles﹄を開催。ラストではマッカートニーとスターが﹁ウィズ・ア・リトル・ヘルプ・フロム・マイ・フレンズ﹂と﹁ヘイ・ジュード﹂で共演し会場を熱狂させた[122]。 2015年11月6日にはリミックスが施された﹃ザ・ビートルズ1﹄が、ミュージック・ビデオ集のDVD&Blu-rayとのセットで再発売された[123]。 2016年3月8日、ビートルズのほとんどの楽曲をプロデュースし﹁5人目のビートルズ﹂とも称されたマーティンが死去。6月17日にmoraで全アルバムのリマスター版と﹃LOVE﹄、﹃アンソロジー﹄、﹃アンソロジー・ハイライト﹄が解禁された。 2017年5月27日、﹃サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド﹄の発売50周年を記念したボックスが発売[124]。 日本では2017年11月18日〜2018年1月28日の日程で﹁ビートルズ展﹂が開催され、武道館公演のプログラムなどのほか日本初公開アイテムを含む約400点を展示されている[125]。 2018年11月9日、﹃ザ・ビートルズ﹄の発売50周年を記念したボックスが発売[126]。 2019年9月27日、﹃アビイ・ロード﹄の発売50周年を記念したボックスが発売。翌10月4日付の全英アルバムチャートで1位を獲得し、1970年1月31日以来の1位奪還を果たした[127]。2020年代
2021年10月15日、﹃レット・イット・ビー﹄スペシャル・エディションが発売[128]。 2021年11月25日、ドキュメンタリー映画﹃ザ・ビートルズ: Get Back﹄がDisney+で配信開始[129]。 2022年1月28日、ライブ・アルバム﹃Get Back (The Rooftop Performance)﹄が各種ストリーミングサービスで配信開始[130]。このアルバムはライブの音声のみ収録され、警察などの音声はカットされている。同年2月9日から5日間限定でルーフトップ・コンサートを劇場公開用に編集した﹃ザ・ビートルズ: Get Back (Rooftop Performance)﹄を全国のIMAXシアターで上映され[131]、後にアンコール上映も行なわれた[132]。 2023年11月2日、レノンが遺した未発表楽曲﹁ナウ・アンド・ゼン﹂に生前のハリスン、そして新たにマッカートニーとスターらがオーバーダビングを加えたうえで、最新の技術でミックスを行い﹁ビートルズ最後の新曲﹂として発売することが決定した。 また、11月10日、ベスト・アルバム﹃ザ・ビートルズ1962年〜1966年﹄︵通称﹁赤盤﹂︶、﹃ザ・ビートルズ1967年〜1970年﹄︵通称﹁青盤﹂︶の2枚が2023年の最新エディションとして再発されることも決定した。両アルバムとも新曲を含む楽曲を追加、スペシャルエディションで発売されたリミックス音源はそのままに、その他は最新リミックスを施した全曲ミックス音源で再発売される[133][134]。ディスコグラフィ
オリジナル・アルバム
●﹁マジカル・ミステリー・ツアー﹂は当該項目を参照。発売日 | 邦題 | 原題 | 最高位 |
---|---|---|---|
1963年3月22日 | プリーズ・プリーズ・ミー | Please Please Me | 1 |
1963年11月22日 | ウィズ・ザ・ビートルズ | With The Beatles | 1 |
1964年7月10日 | ハード・デイズ・ナイト | A Hard Day's Night | 1 |
1964年12月4日 | ビートルズ・フォー・セール | Beatles For Sale | 1 |
1965年8月6日 | ヘルプ! | Help! | 1 |
1965年12月3日 | ラバー・ソウル | Rubber Soul | 1 |
1966年8月5日 | リボルバー | Revolver | 1 |
1967年6月1日 | サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド | Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band | 1 |
1968年11月22日 | ザ・ビートルズ (ホワイト・アルバム) | The Beatles | 1 |
1969年1月13日 | イエロー・サブマリン | Yellow Submarine | 3 |
1969年9月26日 | アビイ・ロード | Abbey Road | 1 |
1970年5月8日 | レット・イット・ビー | Let It Be | 1 |
シングル(イギリス盤)
評価と影響
音楽的評価と影響
自作自演
ビートルズのレパートリーは、オリジナル曲と既製のロック・ポップス曲のカバーとが有るが、活動期間中にイギリスで発売された22枚のシングルは全てメンバーの自作曲である。チャック・ベリーなど自作自演のロックミュージシャンは以前から存在したが、1962年頃の音楽産業界の主流ではなかった。当時はプロデューサーと版権業者と音楽作家の連携︵ティンパンアレイ方式︶が行われており、ジョージ・マーティンもその慣習をビートルズに伝えている[140]。ビートルズ以前に数多くの全英チャート1位を獲得したバンド﹁クリフ・リチャード&シャドウズ﹂なども、その多くが外部の作家の作品で、ディッキー・プライドやビリー・フューリーといった当時の人気歌手も同様だった。ビートルズも、当初はマーティンの発案で外部の作家による﹁ハウ・ドゥ・ユー・ドゥ・イット﹂をデビュー・シングルとする予定だったが、メンバーは自作曲のシングル発売を頑として主張し[140]、結果として同じ日にレコーディングされた自作曲﹁ラヴ・ミー・ドゥ﹂でデビューした。自作自演は以降のイギリスの音楽産業界に次第に浸透していくことになる。代表的な例が、ビートルズより少し後にデビューしたローリング・ストーンズであり、キース・リチャーズとミック・ジャガーがそれまでの既成曲優先から方向を変えて自作自演するようになったのは、ビートルズのメンバーから作曲について直にアドバイスされたからだった[141]。イギリスとアメリカの音楽産業の構図の変化
ビートルズのデビューおよびイギリスでの活動は、イギリスの音楽産業そのものにも変化をもたらしている。ホリーズに在籍していたグラハム・ナッシュは[137]﹁ビートルズ以前のイギリスの芸能界はロンドンが中心で、地方とは分け隔てられた状態だった。それをリヴァプールのバンドであるビートルズが突破して市場の勢力が一変し、その結果、マンチェスターのバンドであるホリーズにもチャンスが巡ってきた﹂と述べている。 次の変化はアメリカで起こっている。1963年まで、イギリスのポップ・グループの曲がアメリカのビルボード・シングル・チャートで1位になったのはトルネイドースの﹁テルスター﹂が唯一の例で、それも2作目以降はヒットを持続させていなかった。しかし1964年初頭、キャピトルが初めてリリースしたビートルズのシングル﹃抱きしめたい﹄がビルボードで1位となった後、4月4日には上位5曲をビートルズが占め、翌週の11日にはビートルズの曲14曲が100位以内にチャート入りするという事態が生じた[142]。このビートルズの人気によって障壁が打ち破られ[143]、この後、イギリスの多くのバンドがアメリカに進出を始める。ローリング・ストーンズやアニマルズ、キンクス、デイヴ・クラーク・ファイヴ、ハーマンズ・ハーミッツ、ザ・フー、ピーター&ゴードンなどが進出したこれらの一連の流れは、﹁ブリティッシュ・インヴェイジョン﹂と呼ばれている[143]。この状況に対し、ファン層が異なっていた[144]モータウンを除いて、当時のアメリカ側の音楽関係者の多くは対応策を迫られ、状況の分析と打開に向けて動き始めることになった[145]。ビートルズへの影響
ビートルズ自身は自分たちは﹁多くの音楽その他の事象に影響されている﹂と述べている[注釈 66]。 1950年代に活躍した先駆的ミュージシャン達には、メンバー各人がアマチュア時代から影響を受けたと述べており、中でもエルヴィス・プレスリー、リトル・リチャード、チャック・ベリーの3人が挙げられている。特にチャック・ベリーは、音楽も歌詞の内容も評価が高い[148]。 一方、エルヴィス・プレスリーとリトル・リチャードは音楽に加えてスター、アイドルとしての要素にも憧れていたと述べている。ただし、プレスリーについては、レノン[148]もマッカートニー[12]も1stアルバム﹃エルヴィス・プレスリー登場!﹄の頃については高く評価しているものの、除隊後の作品は興味を持てない︵マッカートニーの発言[149]︶と述べている。レノンはプレスリーとの対談において、﹁昔のスタイルに戻るつもりはないのか﹂と進言している。 それ以外にもカール・パーキンス、ジェリー・リー・ルイス、チェット・アトキンス、ファッツ・ドミノ、ジーン・ヴィンセント、バディ・ホリー、エディ・コクランらの影響があったと述べている。なおビル・ヘイリーの﹁ロック・アラウンド・ザ・クロック﹂に対する評価は分かれていて、マッカートニー[149]とハリスン[150]とスター[151]が気に入っているのに対し、レノンは﹁印象は余り強くなかった﹂と述べている[152]。 デビュー後の早い時期に影響を受けたのはボブ・ディランで、1964年1月のフランス公演の際に現地のDJから﹃フリーホイーリン・ボブ・ディラン﹄を手に入れ、それ以来ずっと聴き続けた[45]。同年に行われた2回目のアメリカツアーで本人に面会した時は、全員がディランのデビュー・アルバム﹃ボブ・ディラン﹄を持っていた。特にレノンは強く傾倒しており、1965年に発表された﹁悲しみはぶっとばせ﹂を自分のディラン時代の作品だと述べている[153]。 ﹁ノルウェーの森﹂を始め、ビートルズにインド音楽の影響が表れたのは、ハリスンがラヴィ・シャンカルのレコードに影響されたことがきっかけとなっている。さらに前述の通り、﹃サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド﹄はザ・ビーチ・ボーイズの﹃ペット・サウンズ﹄の影響を受けている[154]。ジョージ・マーティンの功績
1962年6月6日、ジョージ・マーティンはビートルズのパーロフォンでのオーディションを担当。同年10月に発売されたデビュー・シングル﹃ラヴ・ミー・ドゥ﹄から、最後に録音されたオリジナル・アルバム﹃アビイ・ロード﹄までのプロデュースを担当し、音楽性に大きな影響を与えた。デビューに際しては選曲でビートルズのメンバーと意見を異にしたが、シングル﹃プリーズ・プリーズ・ミー﹄以降はメンバーのオリジナル曲を優先してシングル化している。マーティンは当初メンバーのうち誰か1人をメイン・ボーカルに設定するつもりだった。当時の人気バンド﹁クリフ・リチャード&ザ・シャドウズ﹂などに代表される様に、この頃は﹁ボーカリスト&バックコーラス﹂、または﹁リード・ボーカル・ウィズ・バックバンド﹂という形式が多かったためで、マーティンも第2のクリフ・リチャードと成り得るスターを1名作り出そうとしていた[40]。しかし結局、マーティンはビートルズにこの形式を導入せず、曲によってボーカル担当が異なるスタイルを取り入れた。クラシック楽器の使い方をメンバーにレクチャーするといった役目も担っている。1966年8月のツアー中止以降の、スタジオ・ワークを重視した時期には、﹁ストロベリー・フィールズ・フォーエバー﹂のテンポと調が異なる2テイクを1つに編集したり、アルバム﹃サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド﹄に収録された﹁ビーイング・フォー・ザ・ベネフィット・オブ・ミスター・カイト﹂のオルガン録音でのテープ編集を手がけている[40]。なお、発売順としては最後となったアルバム﹃レット・イット・ビー﹄は、最終的にフィル・スペクターが完成させたが、1969年1月からトゥイッケナム・スタジオで開始されたゲット・バック・セッションにはジョージ・マーティンが参加し[109]、テスト盤として制作されたアルバム﹃ゲット・バック﹄も、ジョージ・マーティンがグリン・ジョンズと共同プロデュースしている[111]。ブライアン・エプスタインの功績
リヴァプールのNEMSレコード店[注釈 67] の責任者だったブライアン・エプスタインは、1961年に地元のバンドであるビートルズの存在を知り、12月にマネージメント契約を締結した[注釈 68]。 当時のイギリスの音楽界はロンドンが中心であり、地方都市を拠点とするローカル・バンドがレコードをリリースしたり、全国ツアーを行うといった活動は、基本的に行われていなかった[注釈 69] が、エプスタインはロンドンにあるレコード会社を廻ってビートルズを売り込み始めた。この売り込みに対して大手レコード会社のデッカ・レコードがオーディションに応じているが、これはエプスタインが大手レコード店NEMSの責任者であることが影響していた[155]。1962年1月に受けたデッカのオーディションは不合格になるが、エプスタインは引き続きレコード会社を廻って売り込みを続け、その結果ジョージ・マーティンによるパーロフォンでのオーディションを受けることになる。 レコードデビュー後は、﹃エド・サリヴァン・ショー﹄の出演契約締結などでアメリカへの進出を実現させ、ビートルズの世界進出に営業面で貢献している。1966年8月のコンサート活動終了後も、1968年に公開されたアニメーション映画﹃イエロー・サブマリン﹄の制作契約を結んでいる[101]。批判と公的な抑圧
ビートルズを筆頭とするロック/ポップ・グループの流行については、1963年当時から批判が存在した。特にビートルマニアと称されたファンの一部が、真夜中にも関らずビートルズが宿泊するホテルの周囲を4,000人ほどで取り囲んで喚声を上げたりするといった騒動がタイムズ誌などで報道されている。日本でも、最初の映画の公開時に、地方上映を待てない100人以上の未成年のファンが、保護者の承諾を得ないまま上京して警察に補導されている[156]。 風紀の乱れ、青少年への悪影響といった不当な批判が増大していき、母国イギリスでは1965年のMBE勲章の叙勲時にその批判が顕在化した。ビートルズへの叙勲に抗議する形で勲章を返却する者も現れ[157]、この時は863個の勲章が返却された[158]。同1965年、イスラエルはビートルズの公演を拒否した[注釈 70]。 さらにアメリカではレノンのキリスト発言に対する批判、日本では来日前に正力松太郎の﹁ベートルスとかペートルスとかいう連中﹂発言や、細川隆元と小汀利得による﹁薄汚い西洋の連中に貴重な外貨を使うな﹂発言[159] など、不当な批判や抑圧があった。 またソビエト連邦や東ドイツを中心とした共産主義国家は、ロック音楽を﹁資本主義による精神汚染﹂とみなし、ソ連ではそのレコード発売には政府からの許可が下りなかった[注釈 71]。また、当時中華人民共和国などの一党独裁国家や、大韓民国や北朝鮮などのアジアの発展途上国ではビートルズは話題にすらならず、コンサートで立寄ることどころかレコードが売られたことさえなかった。映像作品
ビートルズ側が制作した作品
解散前にビートルズ側が制作した映像作品は5本ある。この内、ブライアン・エプスタインがユナイテッド・アーティスツと契約した劇場用映画が﹃ハード・デイズ・ナイト﹄︵1964年︶、﹃ヘルプ!4人はアイドル﹄︵1965年︶、およびエプスタインの死後に制作・公開されたアニメ﹃イエロー・サブマリン﹄︵1968年︶の3本である[101]。テレビ映画﹃マジカル・ミステリー・ツアー﹄はマッカートニー主導で1967年に制作され[160]、同年暮れにBBCで放映された。 ドキュメンタリー映画﹃レット・イット・ビー﹄は1969年に撮影されたが、公開は翌1970年となった。1980年代にVHSやレーザーディスクが発売された[161]。 2020年現在、﹃レット・イット・ビー﹄を除く4本の作品については、DVDやBlu-ray Discが発売されている。ドキュメンタリー作品
1966年にBBC Oneで前年のシェイ・スタジアム公演の模様を収録したドキュメンタリー﹃THE BEATLES/シェアスタジアム﹄が放送された。1967年にアメリカでABCでのテレビ放送や劇場公開が行われた。 1982年に記録映画﹃コンプリート・ビートルズ﹄︵1982年︶が米MGMの制作で公開され、その後ビデオソフトとしてリリースされた。 1995年には計11時間におよぶ公式ドキュメンタリー﹃ザ・ビートルズ・アンソロジー﹄が制作され、2曲の新曲、未発表曲、アウトテイクを集めたアルバムと共に発表された。 2004年には初期のアメリカ公演の模様を収録した﹃ザ・ビートルズ ファースト U.S.ヴィジット﹄が発表されている。 関係者のドキュメンタリーも作られており、2012年には映画﹃プロデューサー ジョージ・マーティン〜ビートルズを完成させた男〜﹄が、2013年にはビートルズのマネージメント・スタッフの一人でデビュー前からの知己でもあったフリーダ・ケリーを主人公にした映画﹃愛しのフリーダ﹄が公開されている。 2016年9月22日には、コンサート活動時代を中心にした公式ドキュメンタリー映画﹃ザ・ビートルズ〜EIGHT DAYS A WEEK - The Touring Years﹄が公開された。 2021年11月25日、ディズニー配給の公式ドキュメンタリー映画﹃ザ・ビートルズ:Get Back﹄がDisney+で独占配信された[162][163]。2020年制作の﹃ミーティング・ザ・ビートルズ・イン・インド︵Meeting the Beatles in India︶﹄が、2022年9月23日に日本で公開された[164]。2023年1月27日、KDDI、WOWOW配給の﹃ミスタームーンライト 1966 ザ・ビートルズ武道館公演 みんなで見た夢﹄が劇場公開された[165]。 なお、1988年に公開されたレノンの伝記映画﹃イマジン﹄は、一部にビートルズ時代の映像が収録されている。ビートルズを題材にした映画
スチュアート・サトクリフのビートルズでの活動とアストリットとの関係と死を描いた映画﹃バック・ビート﹄が1994年に公開された。2000年には、レノンの半生とクオリーメン結成からビートルズがアメリカを席捲するまでを描いたテレビ映画﹃ジョン・レノン/青春のビートルズ﹄、1976年にウイングスの全米ツアーが開始したマッカートニーがレノンの家を訪れたというエピソードを元にしたテレビ映画﹃ザ・ビートルズ 1976 ダコタ・ハウスにて﹄が放送された。 2011年にはリアム・ギャラガーの企画で、マイケル・ウィンターボトムが監督するビートルズ映画の制作が発表された[166] が、その後続報がなく公開もされていない。 2014年には、世界中のファンが﹁自分にとってのビートルズ﹂を語る﹃ビートルズと私﹄︵セス・スワースキー監督︶が発売された。 2019年にはビートルズが消えてしまった世界で、唯一ビートルズの存在を覚えているシンガーソングライターの活躍と苦悩を描いた﹃イエスタデイ﹄が公開された[167]。プロモーション映像
ライブ活動終了後のビートルズは、新曲のプロモーション用にイメージ映像を撮影してテレビで放送するという方法を取り始めた。﹁ストロベリー・フィールズ・フォーエバー﹂や﹁ペニー・レイン﹂などのプロモーション・ビデオ映像が作られ、ライブによるプロモーションの代替手段として取り扱われる。マッカートニー主導で制作されたテレビ映画﹃マジカル・ミステリー・ツアー﹄は、娯楽作品としての評判は芳しくなかったが、﹃ザ・ビートルズ・アンソロジー﹄において、ハリスンが冗談交じりに﹁MTVは僕らの発明さ﹂と語っているように、芸術映画・音楽映像作品としては評価する向きもあり、スティーヴン・スピルバーグなどが、映画学校の学生時代に同作に注目していたと述べている[99]。ビートルズ作品の著作権
ビートルズのメンバーによる楽曲の著作権の多くは、以下の経緯で所有者が何度も変わっている。最初の2作品
ノーザン・ソングス
エプスタインはこのヒットを機に、ビートルズ自身の音楽出版社を設立することを決め、1963年2月22日に﹃ノーザン・ソングス社が設立された[170]。同社はビートルズのオリジナル楽曲の著作権を管理するために立ち上げられたジェイムズ︵DJM︶とレノン、マッカートニー、エプスタイン︵NEMSエンタープライズ︶による合弁会社であった[170]。しかし、同社がビートルズと行った著作権契約は、当時メンバーとエプスタインが著作権に関する充分な知識を持っていなかったこともあり[170]、利益分配比はDJMが5割、レノン、マッカートニー、NEMS合わせて5割と、ビートルズにとって不利なものであった[171][172]。また同社の議決権株式はDJM︵ジェイムズとチャールズ・シルヴァー︶が51%と過半数を握り、マッカートニーが20%、レノンが19〜20%、エプスタインが9〜10%という比率で分けられていたため、契約内容の修正も困難であった[170]。 後にマッカートニーは﹁MOJO﹂誌2005年9月号のインタビューにおいて、このときのノーザン・ソングス社の契約について﹁ジョンと僕は騙されたんだ、絶対にね。︵中略︶僕らは奴隷契約書に署名させられたわけさ﹂と発言している[170]。 1965年2月にノーザン・ソングスは税金対策の為に500万株をロンドン証券取引所に公開。1967年のブライアン・エプスタインの死後は弟のクライブ・エプスタインが取締役を引き継いだ。ハリソングス
ATV
1969年6月、ジェイムズはすでにノーザン・ソングスの株を数パーセント所有していたATV社に自身が持っていた株を売却。残りの株を巡ってビートルズとATVで争いが始まったが、ビートルズはこれに敗れ、ノーザン・ソングスの筆頭株主はATVとなった[注釈 72]。そしてこの時のビートルズのビジネスマネージャーだったアレン・クラインはビートルズの持ち株をジェイムズの倍の値段でATVに売却し、決着をつけた。これにより多くのビートルズ楽曲の著作権は作者であるビートルズの元を離れた。 1970年4月10日にマッカートニーがビートルズ脱退を表明し、ビートルズは解散することとなるが、このATVによるノーザン・ソングス買収とそれにまつわる金銭問題はその要因の一つとなった[173]。 また、1971年にマッカートニーが発表したシングル﹃アナザー・デイ﹄は表記上は妻リンダ・マッカートニーとの共作となっており、同年にレノンが発表したシングル﹃ハッピー・クリスマス︵戦争は終った︶﹄も妻オノ・ヨーコとの共作となっているが、このアーティスト名の表記変更はATVとの権利問題のためでもあった[174]。マイケル・ジャクソン
1985年、ノーザン・ソングスの持ち主であるATVが売りに出され、当時27歳のマイケル・ジャクソンが約4750万ドルで購入した。これ以降、ジャクソンがビートルズの版権を所有することになった。1995年12月、ソニーのアメリカ合衆国での音楽出版部門とジャクソンのATVミュージックパブリッシングが合併して誕生した﹁ソニーATVミュージックパブリッシング﹂に版権が移った。ジャクソンはその版権から株式持ち分に基づく配当として収益を受けるという形になった。ちなみに、マイケルに版権ビジネスを教えたのはマッカートニーだと言われている[175]。その後
2009年6月25日にマイケル・ジャクソンが死去した後、版権を巡って様々な報道がなされている[176][177]。 2017年1月、マッカートニーはニューヨーク裁判所にソニーATVミュージック・パブリッシングに対して、楽曲著作権の返還を求める訴訟[注釈 73]を起こし、7月に訴訟が和解に達した[178]。 なお、EMI傘下のアードモア&ビーチウッド・パブリッシングが所有していた﹁ラヴ・ミー・ドゥ﹂﹁P.S.アイ・ラヴ・ユー﹂の2曲は、1978年からマッカートニーのMPLコミュニケイションズが保有している。また﹁プリーズ・プリーズ・ミー﹂﹁アスク・ミー・ホワイ﹂の2曲は、ジェイムズがノーザンソングスに移管せず、DJMで管理し続け[179]、1986年にポリグラム社に売却され、さらに1999年にユニバーサル・ミュージックが買収し、所有している[179]。﹁ペニー・レイン﹂は、ATVを一時所有していたオーストラリアの大富豪ロバート・ホームズ・ア・コートがマイケル・ジャクソンに売却する際、この曲が好きだった娘のキャサリンにプレゼントするためにカタログから除外した。このため、現在はキャサリン・ホームズ・ア・コートが個人で保有している[180][181]。日本におけるファンクラブ
公認ファンクラブ
●レッツ・ゴー・ビートルズ(LGB) - 1965年3月設立。公認期間1965年3月~1966年6月 ●ビートルズ・ファン・クラブ(BFC) - 1965年1月設立。公認期間1966年7月~1972年3月 ●ザ・ビートルズ・クラブ(BCC) - 1966年設立。現在の公認ファンクラブ。旧ビートルズ・シネ・クラブ。その他のファンクラブ
●コンプリート・ビートルズ・ファン・クラブ(CBFC) ●イモータル・ビートルズ・ファン・クラブ(IBFC) ●東京ビートルズ・ファン・クラブ(TBFC)脚注
注釈
出典
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