「硫黄島 (東京都)」の版間の差分
152行目: | 152行目: | ||
== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
||
*[[石原俊 (社会学者)|石原俊]]「[http://soc.meijigakuin.ac.jp/gakka/wp-content/uploads/2011/04/MSR15掲載原稿.pdf そこに社会があった――硫黄島の地上戦と<島民>たち]」『Mobile Society Review 未来心理』15号、NTTドコモ・モバイル社会研究所、2009年 |
*[[石原俊 (社会学者)|石原俊]]「[http://soc.meijigakuin.ac.jp/gakka/wp-content/uploads/2011/04/MSR15掲載原稿.pdf そこに社会があった――硫黄島の地上戦と<島民>たち]」『Mobile Society Review 未来心理』15号、NTTドコモ・モバイル社会研究所、2009年 |
||
*[[石原俊 (社会学者)|石原俊]]『<群島>の歴史社会学――小笠原諸島・硫黄島、日本・アメリカ、そして太平洋世界』弘文堂(現代社会学ライブラリー 12)、2013年 |
*[[石原俊 (社会学者)|石原俊]]『<群島>の歴史社会学――小笠原諸島・硫黄島、日本・アメリカ、そして太平洋世界』[[弘文堂]](現代社会学ライブラリー 12)、2013年 ISBN 9784335501333 |
||
*{{Cite web |year=2007 |date=2007-06-18 |url=http://www.gsi.go.jp/WNEW/PRESS-RELEASE/2007-0618.html |title=硫黄島の呼称を「いおうじま」から「いおうとう」へ変更 |publisher=[[国土地理院]] |accessdate=2012-06-16|ref=harv}} |
*{{Cite web |year=2007 |date=2007-06-18 |url=http://www.gsi.go.jp/WNEW/PRESS-RELEASE/2007-0618.html |title=硫黄島の呼称を「いおうじま」から「いおうとう」へ変更 |publisher=[[国土地理院]] |accessdate=2012-06-16|ref=harv}} |
||
*{{Cite web |year=2007 |date=2007-01-12 |url=http://www.jma.go.jp/jma/press/0701/12a/yochiren070112.pdf |title=人工衛星データを用いた硫黄島の地殻変動の調査結果について |format=PDF |publisher=[[気象庁]] |author=防災科学技術研究所、国土地理院、宇宙航空研究開発機構、気象庁 |accessdate=2012-06-16 |ref=harv}} - [http://www.gsi.go.jp/WNEW/PRESS-RELEASE/2007-0618.html 気象庁の報道発表(2007-01-12)ページ] |
*{{Cite web |year=2007 |date=2007-01-12 |url=http://www.jma.go.jp/jma/press/0701/12a/yochiren070112.pdf |title=人工衛星データを用いた硫黄島の地殻変動の調査結果について |format=PDF |publisher=[[気象庁]] |author=防災科学技術研究所、国土地理院、宇宙航空研究開発機構、気象庁 |accessdate=2012-06-16 |ref=harv}} - [http://www.gsi.go.jp/WNEW/PRESS-RELEASE/2007-0618.html 気象庁の報道発表(2007-01-12)ページ] |
2014年8月9日 (土) 05:30時点における版
硫黄島 | |
---|---|
![]() 衛星写真 | |
所在地 |
![]() |
所在海域 | 太平洋(フィリピン海) |
座標 | 北緯24度45分29秒 東経141度17分14秒 / 北緯24.75806度 東経141.28722度 |
面積 | 23.16 km² |
海岸線長 | 約22 km |
最高標高 | 169 m |
最高峰 | 摺鉢山(パイプ山) |
![]() |
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/93/Mount_Suribachi%2C_Iwo_Jima.jpg/280px-Mount_Suribachi%2C_Iwo_Jima.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/18/Iwo_jima_location_map.png)
地形
父島からは300 km、本州、グアム島、南鳥島、沖縄本島から、それぞれ1,200 kmから1,300 km程度のほぼ等距離に位置する。島の大半は標高100 m前後の台地状の比較的なだらかな地形であるが、島の最南端に位置する最高所︵標高169 m︶の摺鉢山︵パイプ山︶は、その名の通り﹁すり鉢﹂を伏せたような形状をしている。活火山の火山島であり、地熱が高く、島の至る所で温泉︵硫黄泉︶が湧き出し、噴出する硫黄ガス︵二酸化硫黄等︶により、硫黄独特の臭いが立ち込めている。数千年前の海底火山の活動で海底に火山砕屑物が堆積し、それが隆起して誕生した島であり、過去数百年間の平均で、世界的にも珍しい年間約25cmもの速度で、現在も急速な隆起活動が続いている。島西方にある釜岩はかつては一つの独立した島であったが、この急速な隆起活動により現在は硫黄島と地続きとなっている。 火山噴火予知連絡会は宇宙航空研究開発機構との共同により、陸域観測技術衛星﹁だいち﹂の合成開口レーダーを用いた硫黄島観測データ︵2006年11月11日と12月27日分︶を解析した[1]。それによれば、11月11日観測時と比べて島が20 cm隆起[注 1]しており、硫黄島南東部にて数cmの隆起が確認された[1][注 2]。 硫黄島の南北には、それぞれ北硫黄島と南硫黄島があり、この三島で火山列島︵硫黄列島︶を構成する。三島とも同じ造りの海底火山の島であり、その体積は富士山を遥かに凌ぐ。島名について
島名は、島の至るところで見られる成分の硫黄に由来する。 硫黄島の呼称は、戦前は島民と主に陸軍の間では﹁いおうとう﹂、海軍の一部の間と明治時代作成の海図では﹁いおうじま﹂としていた。アメリカ合衆国ではこの海図の表記に従い﹁Iwo Jima︵イオージマ︶﹂とし、終戦後、同島は米軍の統治下にあったことから﹁Iwo Jima﹂と呼称されていた。1968年に同島の施政権が日本国に返還された際に国土地理院発行の地形図上の呼称は﹁いおうとう﹂に戻されたが、1982年の地形図改訂の際に小笠原村は同島の呼称を﹁いおうじま﹂と東京都に報告、都ではこれに基づき﹁いおうじま﹂と公報したため、地形図においても﹁いおうじま﹂と呼称されるようになった。各報道機関でも同島を﹁いおうじま﹂と報道したことにより、2007年までは﹁いおうじま﹂と呼ばれることが多かった。 硫黄島の呼称を﹁いおうとう﹂に統一するようにという要望は、旧島民およびその子孫などの間から古くからあった。この要望に応え、2007年3月に小笠原村議会では、第1回議会定例会の最終日に、同島の呼称を﹁いおうとう﹂に統一する﹁硫黄島の呼称に関する決議案﹂を提出し採択された。これにより、小笠原村は地名の修正を国土地理院へ要望した[2]。 2007年6月18日、国土地理院および海上保安庁海洋情報部︵海図の作成を担当[3]︶にて構成される﹁地名等の統一に関する連絡協議会﹂は﹁硫黄島﹂の呼称を﹁いおうじま﹂から﹁いおうとう﹂に変更する同日協議された結果を発表した[2]。また、併せて北硫黄島は﹁きたいおうとう﹂に、南硫黄島は﹁みなみいおうとう﹂にそれぞれ変更された[2]。これにより火山︵硫黄︶列島の三島とも﹁島﹂の公式呼称はこれまでの﹁じま﹂から﹁とう﹂となった。国土地理院では、2007年9月発行の地形図から、ついで海上保安庁の発行する海図でも﹁いおうとう﹂が正式な表記となっている。 この変更直前まで国土地理院、海上保安庁の他、日本放送協会 (NHK) でも﹁いおうじま﹂としていたが、小笠原村役場と﹃日本の島ガイドSHIMADAS﹄を発行する財団法人日本離島センターでは﹁いおうとう﹂としていた。 アメリカの資料においても、一部はこの変更に追従して﹁Iwo To︵イオートー︶﹂と改められており、JTWCの台風進路予想図などはその一例である。一方、﹁Iwo Jima︵イオージマ︶﹂は第二次世界大戦中最大の激戦だった記念地としてアメリカでも特に有名であるため、﹁Iwo Jima﹂の名称に特別な感情をもつ者もアメリカ海兵隊の関係者を中心に多くおり、退役軍人組織のひとつである﹁ベテランズ・オブ・フォーリン・ウォーズ﹂はこの変更に不快感を示した。改名反対の声明を出した団体もあるという[4]。歴史
●1543年、ベルナルド・デ・ラ・トーレ (Bernardo de la Torre) 船長のスペイン船サン・ファン・デ・レトラン (San Juan de Letran) が発見した。 ●1779年にはジェームズ・クック率いるレゾリューションおよびディスカヴァリーにより、サルファーアイランドと命名された。 ●1887年、東京府による探査が行われた。 ●1889年6月、父島の住民田中栄次郎が、父島で建造した帆船南洋丸にて十余名とともに、鮫漁と硫黄採取を目的として入植し、硫黄島の開拓が開始された。︵記録に残る初めての日本人の入植︶ ●1891年9月9日、勅令により日本領土に編入。島名を﹁硫黄島﹂とし、東京府小笠原島庁所属とする[5]。 ●1892年、本格的に硫黄採掘事業が開始された。 ●1923年、島嶼町村制が施行され、東京府小笠原支庁硫黄島村となった。 ●1940年4月、普通町村制に移行。当時の人口は1,051人。硫黄島村は1952年のサンフランシスコ講和条約で米国領となるまで続いた。︵なお、戦前の硫黄島は京橋区だったとする資料があるが、誤りである。︶ ●1943年6月、島内調査を実施。硫黄島村の人口は192戸1,018人︵男533人、女485人︶。 ●1944年、大本営はマリアナ諸島の防備強化と合わせて小笠原諸島の防備強化を開始し、陸軍部隊︵﹁伊支隊﹂指揮官‥厚地兼彦大佐、4,883名︶と海軍部隊︵﹁硫黄島警備隊﹂指揮官‥和智恒蔵中佐、1,362名︶が硫黄島に進出した。この段階では島民も在島していたが、陸海軍部隊は上記要塞地帯に指定された島南部に展開したため、少数の島民が部隊に行商に出かけるほかは、部隊と島民の接触は少なかった。 ●1944年5月22日、参謀本部は、小笠原防備をさらに増強することを目的として第109師団を創設。栗林忠道中将を師団長に任命し、栗林中将は6月8日に硫黄島に着任した。 ●1944年6月15日、アメリカ軍はサイパン島上陸とあわせて硫黄島を空襲。翌日の空襲と合わせて島内の各部落はほぼ焼失した。 ●1944年6月下旬、その後も空襲と艦砲射撃が続いたため、島民に対しては父島経由で内地へ疎開する命令が内示され、3回︵7月1日、7月12日、7月14日︶に分けて島民の疎開が行われた。軍に軍属として徴用された者︵約230名︶を除く全島民が硫黄島を離れ、島民が生活を営んだ硫黄島村の歴史は幕を閉じた。 ●1945年2月から3月にかけて行われた硫黄島の戦いで、日本軍が2万129人が戦死し、米軍は2万8686人の戦死傷者︵戦死6,821名・戦傷2万1865名︶を出す大激戦が繰り広げられた。そして3月17日、硫黄島は米軍に占領された。摺鉢山に米軍海兵隊によって星条旗を掲げる際に撮った写真は、米バージニア州アーリントン国立墓地︵米国の戦没者専用墓地︶にある﹁合衆国海兵隊記念碑﹂のモデルにもなっている。戦前の硫黄島
戦後の硫黄島
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/cf/Suribachiyama_stereo.jpg/350px-Suribachiyama_stereo.jpg)
硫黄島航空基地
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/b0/Iwo_Jima_Airport_Control_Tower.jpg/200px-Iwo_Jima_Airport_Control_Tower.jpg)
旧島民の帰島問題
既述した通り、原則として基地に勤務する自衛隊員及び建設業者等の関係者以外の上陸は禁止されているが、戦没者の慰霊祭が現地で開催される際等には、旧島民や遺族、それに戦没者の遺族等の上陸が許可されている。 慰霊祭のときは、小笠原諸島父島から、小笠原海運の貨客船﹁おがさわら丸﹂で島へ向かい、船積みの小型ボートで島に上陸するか、航空自衛隊機を使用して来島することになる。また、遺族からの要望で2007年3月6日の慰霊訪問以降は、民間旅客機によるチャーター便が運航されることになった。2007年の訪問では、JALがMD-90型旅客機を運用してチャーター便運航を実施したが、燃料補給が不可能なことから燃料を往復分積みこんだため、110名前後しか搭乗できなかった。 現在、一部の旧島民および遺族は日本政府に対して基地敷地の一部返還と帰島を求めているが、政府ならびに防衛省はこの要望に反応を示していない。このため、未だ島民の帰島は実現していない。 なお、映画﹃硫黄島からの手紙﹄の一部シーンは島内で撮影されたが、これはアメリカ国防総省から防衛庁︵当時︶を通しての東京都の特別許可によるものである。戦没者の遺骨帰還事業
硫黄島の戦い#遺骨収容・帰還作業も参照。 引き続き硫黄島の戦いによる日本人戦没者の遺骨を収容、本土へ帰還させる課題が残されている。本土へ帰還した遺骨は現時点で約8千柱で、1万3千柱余りの遺骨は未だ硫黄島内地下に埋もれ残されたままである[11]。予算確保の問題と作業員人員確保の問題、埋葬地等の特定作業、既述した通り無数に埋まる不発弾へ対処、噴出する高温・有毒な硫黄ガスへの対処等で、その収容作業は困難を極める作業となっている。 これまでの収容作業は、主に硫黄島協会や戦没者遺族等のNPO法人やボランティア等の手で行われていたが、2010年度国家予算では滑走路部分の遺骨収容のための予算が初めて1億円を超えて計上され、2010年8月10日には菅直人首相の指示により、政府による﹁硫黄島からの遺骨帰還のための特命チーム﹂が設置された。今後はこれまでの遺族、関係者の証言等に加え、米国での資料調査により情報収集を行い、収容作業におけるNPO法人やボランティアからの協力の拡充、自衛隊との協力体制の拡充をし、自衛隊基地施設下をも含む全島における面的調査を強化することとしている。また、遺族者等の慰霊等のための渡航機会の拡充、インターネット等を活用した遺留品の公開を実施して戦争の悲惨さを広く知らしめるとともに、将来は硫黄島以外の戦域での遺骨帰還作業実施も予定されている。 なお、硫黄島で戦死した米軍兵の遺体の大半は、硫黄島の戦い後暫くは摺鉢山山麓を中心に墓地を造成し、柩一台一台の上に十字架を立てて手厚く埋葬されたが、現在は全てが米国本土へと帰還を果たしている。通信
郵便番号は小笠原村内で父島・母島以外に振られた共通番号である﹁100-2100﹂である[12][13]。ただし、全域が基地に指定されていて一般住民が存在しない特殊性から、日本郵便より﹁交通困難地﹂に指定されている[10]ため、この島への宅配便・郵便物は通常の硫黄島の住所を記載しても届かない。物資や郵便物は海上自衛隊の場合は厚木航空基地[12]、航空自衛隊の場合は入間基地[13]に気付となり、そこからは自衛隊内部での搬入扱いとなる。 固定電話は引かれており、自衛隊基地の外線1回線が公開されている[12][13]。これによると、硫黄島の市外局番は04998、市内局番は4、加入者番号は1xxxである。まず、市外局番04998は小笠原MAの局番であり、MAのエリア内と重なる小笠原村内であれば市内通話扱いとなる。ただし、収容局は隣接する父島でも母島でもなく、東京本土にある﹁新立川﹂である[14]。ここには航空自衛隊立川分屯基地や陸上自衛隊立川駐屯地がある。次に、市内局番4が硫黄島に割り当てられた番号であり、ここからが村内の父島︵2︶や母島︵3︶とは別となる。 2013年現在、島内に携帯電話基地局は存在せず、また周辺からの電波も届かないため、島内で通常の携帯電話は圏外となる。移動通信は衛星を使ったサービスに限られる。 アマチュア無線局が運用されることがある。脚注
注釈
出典
参考文献
●石原俊﹁そこに社会があった――硫黄島の地上戦と<島民>たち﹂﹃Mobile Society Review 未来心理﹄15号、NTTドコモ・モバイル社会研究所、2009年 ●石原俊﹃<群島>の歴史社会学――小笠原諸島・硫黄島、日本・アメリカ、そして太平洋世界﹄弘文堂︵現代社会学ライブラリー12︶、2013年 ISBN 9784335501333 ●“硫黄島の呼称を﹁いおうじま﹂から﹁いおうとう﹂へ変更”. 国土地理院 (2007年6月18日). 2012年6月16日閲覧。 ●防災科学技術研究所、国土地理院、宇宙航空研究開発機構、気象庁 (2007年1月12日). “人工衛星データを用いた硫黄島の地殻変動の調査結果について” (PDF). 気象庁. 2012年6月16日閲覧。 - 気象庁の報道発表(2007-01-12)ページ関連項目
- 北硫黄島
- 南硫黄島
- 小笠原諸島
- 火山列島
- 新硫黄島
- 硫黄島通信所(在日米軍施設)
- 硫黄島の戦い
- 硫黄島の星条旗
- イオー・ジマ(アメリカ海軍艦艇)
- 硫黄島ロランC主局
- 硫黄島の砂 - 1949年に製作されたアメリカ映画
- 硫黄島 (映画) - 1959年に製作された日活の映画で、宇野重吉監督、大坂志郎主演
- 父親たちの星条旗 - アメリカ側の視点から捉えた硫黄島の戦いを描いた映画作品
- 硫黄島からの手紙 - 日本側の視点から捉えた硫黄島の戦いを描いた映画作品
- 遠い島 (テレビ番組) - 朝日放送制作・77年度ギャラクシー大賞受賞、日米両国の遺族や元兵士の取材を基に製作
- 2009年7月22日の日食
- 硫黄島 - その他の硫黄島
- 勝村政信 - 母が旧島民