ソ連対日参戦
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ソ連対日参戦 | |
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樺太の真岡町(ホルムスク)に進駐するソ連軍、避難する日本人居留民も見える | |
戦争:太平洋戦争[1] | |
年月日:1945年8月8日 - 同年9月2日[1] | |
場所:満洲、朝鮮半島北部、千島列島、樺太等[1]。 | |
結果:ソ連側の勝利、日本の降伏。ソ連軍は満洲国や朝鮮北部を制圧し、また南樺太や千島列島も占領した[1]。 | |
交戦勢力 | |
ソビエト連邦 モンゴル 陝甘寧辺区 |
大日本帝国 満洲国 蒙古聯合自治政府 |
指導者・指揮官 | |
ヨシフ・スターリン アレクサンドル・ヴァシレフスキー キリル・メレツコフ アファナシー・ベロボロドフ ニコライ・クルイロフ イワン・チスチャコフ マクシム・プルカエフ ニコライ・クズネツォフ レオンチー・チェレミソフ アレクセイ・グネチコ ロディオン・マリノフスキー アレクサンドル・ルチンスキー アンドレイ・クラフチェンコ イッサ・プリーエフ イワン・ユマシェフ ホルローギーン・チョイバルサン ジャミヤンギーン・ルハグヴァスレン 毛沢東 朱徳 彭徳懐 |
鈴木貫太郎 山田乙三 喜多誠一 池谷半二郎 清水規矩 後宮淳 飯田祥二郎 本郷義夫 上村幹男 櫛淵鍹一 根本博 樋口季一郎 峯木十一郎 堤不夾貴 愛新覚羅溥儀 張景恵 デムチュクドンロブ 李守信 |
戦力 | |
兵員 1,577,725[2] 火砲・迫撃砲 26,137[2] 戦車・自走砲 5,556[2] 航空機 3,446[2] |
兵員 満州 700,000[3] 千島・樺太 96,000[4] 火砲 1,000[3] 戦車 150[3] 航空機 150[3] |
損害 | |
戦死 22,694人[5] 戦傷 40,377人[5] ソ連側主張 8,200人戦死[1] |
戦死 33,900人(満州・千島・樺太合計)[4] 戦傷 不明 シベリア抑留 570,000人以上[6] 内70,000人死亡[6] 民間人犠牲 130,000人(戦後に死亡や行方不明になった者も含む)[7] ソ連側主張 80,000人戦死[1] |
背景[編集]
国際情勢[編集]
情報認識[編集]
6月に大本営の第五課課長白木末政大佐は新京において、状況の切迫性を当時の関東軍総参謀長に説得したところ、﹁東京では初秋の候はほとんど絶対的に危機だとし、今にもソ軍が出てくるようにみているようだが、そのように決め付けるものでもあるまい﹂と反論したと言われており、ソ連軍の攻勢をある程度予期していながらも、重大な警戒感は持っていなかった[要出典]。 関東軍の部隊が南方戦線へと徴用されていた為、満洲の長い国境を防衛出来るだけの十分な戦力は既に失われていたが、中立条約を信じ切っていた関東軍や満洲国の要人等は、その家族を空襲に遭っている日本から満洲へ連れて来ていた[14]。 関東軍第一課︵作戦課︶においては、参謀本部の情勢認識よりも遥かに楽観視していた。当時の関東軍は少しでも戦力の差を埋めるために、陣地の増設と武器資材の蓄積を急ぎ、基礎訓練を続けていたが、﹁極東ソ連軍の後方補給の準備は10月に及ぶ﹂と考えていた。つまり、関東軍作戦課においては、1945年︵昭和20年︶の夏に厳戒態勢で望むものの、ドイツとの戦いで受けた損害の補填を行うソ連軍は、早くとも9月以降、さらには翌年に持ち越すこともありうると判断していたのだった[15]。 関東軍の前線部隊においては、ソ連軍の動きについて情報を得ており、第三方面軍作戦参謀の回想によれば、ソ連軍が満ソ国境三方面において兵力が拡充され、作戦準備が活発に行われていることを察知、特に東方面においては火砲少なくとも200門以上が配備されており、ソ連軍の侵攻は必至であると考えられていた。そのため8月3日、直通電話によって関東軍作戦課の作戦班長草地貞吾参謀に情勢判断を求めたところ、﹁関東軍においてソ連が今直ちに攻勢を取り得ない体勢にあり、参戦は9月以降になるであろうとの見解である﹂と回答があった。その旨は関東軍全体に明示されたが、8月9日早朝、草地参謀から﹁みごとに奇襲されたよ﹂との電話があった、と語られている。 さらに第四軍司令官上村幹男中将は、情勢分析に非常に熱心であり、7月ころから絶えず北および西方面における情報を収集し、独自に総合研究したところ、8月3日にソ連軍の対日作戦の準備は終了し、その数日中に侵攻する可能性が高いと判断したため、第四軍は直ちに対応戦備を整え始めた。また8月4日に関東軍総参謀長がハイラル方面に出張中と知り、帰還途上のチチハル飛行場に着陸を要請し、直接面談することを申し入れて見解を伝えたものの、総参謀長は第四軍としての独自の対応については賛同したが、関東軍全体としての対応は考えていないと伝えた[16]。そこで上村軍司令官は部下の軍参謀長を西︵ハイラル︶方面、作戦主任参謀を北方面に急派してソ連軍の侵攻について警告し、侵攻が始まったら計画通りに敵を拒止するように伝えた[16]。 また、事前に満洲の辺境を視察していた参謀本部作戦課の朝枝繁春中佐も、4月の段階でソ連の侵攻を看破しており、戦力増強を唱え続けたその結果として、5月30日になって作戦課が対ソ作戦準備命令を出した[17]。しかし、それを受けた関東軍が作戦計画を策定したのは7月に入ってからであり、その内容である後退持久戦準備の終了が9月末を予定していたことなどから、関東軍首脳の楽観視が準備を遅らせるのに大きく影響していた[18]。 他方、北海道・樺太・千島方面を管轄していた第五方面軍は、アッツ島玉砕やキスカ撤退により千島への圧力が増大したことから、同地域における対米戦備の充実を志向、樺太においても国境付近より南部の要地の防備を勧めていた。が、1945年︵昭和20年︶5月9日、大本営から﹁対米作戦中蘇国参戦セル場合ニ於ケル北東方面対蘇作戦計画要領﹂で対ソ作戦準備を指示され、再び対ソ作戦に転換する。このため、陸上国境を接する樺太の重要性が認識されるが、兵力が限られていたことから、北海道本島を優先、たとえソ連軍が侵攻してきたとしても兵力は増強しないこととした。 しかし、上記のような戦略転換にもかかわらず、国境方面へ充当する兵力量が定まらないなど、実際の施策は停滞していた。千島においては既に制海権が危機に瀕していることから、北千島では現状の兵力を維持、中千島兵力は南千島への抽出が図られた。 樺太において、陸軍の部隊の主力となっていたのは第88師団であった。同師団は偵察等での状況把握や、ソ連軍東送の情報から8月攻勢は必至と判断、方面軍に報告すると共に師団の対ソ転換を上申したが、現体勢に変化なしという方面軍の回答を得たのみだった。 対ソ作戦計画が整えられ、各連隊長以下島内の主要幹部に対ソ転換が告げられたのは、8月6・7日の豊原での会議においてのことであった。千島においては、前記の大本営からの要領でも、地理的な関係もあり対米戦が重視されていたが、島嶼戦を前提とした陣地構築がなされていたため、仮想敵の変更は、それほど大きな影響を与えなかった。作戦の概要[編集]
ソ連軍[編集]
ソ連の有利を生み出したのは数ではなく、訓練と装備、そして戦術だった[19]。 ソ連戦史によれば、対ソ防衛戦におけるソ連軍の攻勢作戦の概要としては、第一にシベリア鉄道による鉄道輸送を用いて圧倒的な兵力を準備し、第二にその集中した膨大な戦力を秘匿しつつ、満洲地方に対して東西北からの三方面軍に編成して分進合撃を行い、第三に作戦発動とともに急襲を加え、速戦即決の目的を達することがあげられる。微視的に看れば、ソ連軍は西方面においては左翼一部を除いて大部分は遭遇戦の方式でもって日本軍を撃滅しようとし、一方東方面においては徹底的な陣地攻撃の方式をとっている。北方面は東西の戦局を見極めながらの攻撃という支援的な作戦であった。北樺太及びカムチャツカ方面では、開戦の初期は防衛にあたり、満洲国における主作戦の進展次第で、南樺太および千島列島への進攻を行なうこととした。 当初ソ連軍の満洲侵攻作戦計画は同方向の攻勢軸に大兵力を集中投入する伝統的な突破戦略であり、攻撃方向は北満の牡丹江・チチハル方面へと向けられていた。しかし満洲北東部に配置された関東軍の強固な要塞地帯の妨害が予想され、突破後の関東軍主力の殲滅を考慮した場合、北満からの単調な攻勢は日本軍主力を取り逃がす危険性があった。そこで極東ソ連軍総司令官ワシレフスキー元帥のもとで、3個の正面軍︵ザバイカル・第1極東・第2極東︶が編成され、新たな対日作戦計画が立案された。ソ連軍首脳部は、独ソ戦の経験に基づいた迂回機動による包囲と縦深侵攻を組み合わせた戦略を新たに採用し、3方向からの新たな攻勢戦略を立案。3方面から満洲内部に向けて進撃し、第1極東正面軍とザバイカル正面軍が東西両端から新京・吉林付近で合流し、関東軍を南北に分断、第2極東正面軍と共に北に残された関東軍部隊を巨大な包囲網の中で殲滅する。ソ連極東軍が擁する唯一の機械化軍である第6親衛戦車軍は大興安嶺と砂漠地帯が立ちはだかる北西・西部正面のザバイカル正面軍に配置された。北東・東部正面は関東軍主力と要塞群が密集しており、関東軍の意表をついた縦深侵攻を実現させるためにも、あえて戦車・機械化部隊の進撃が困難と予測される西正面に投入されることとなった。最高総司令部の構想では、これらの機械化兵力は日本軍の孤立した抵抗拠点の全てを迂回し、迅速に砂漠地帯を横断して、日本側が脅威を認識する前に大興安嶺の峠道を制圧することになっていた[20]。満洲での作戦に備え赤軍の軍事機構は極端に特殊化されていた[20]。どの狙撃師団︵歩兵師団︶も独立戦車旅団一個、自走砲連隊一個、砲兵連隊2個を持ち、縦深の突破と追撃用の先遣隊を編成することが可能となっていた[20]。西部からの戦略的突破を担当する第6親衛戦車軍も再編され、2個戦車軍団のうち1個が機械化軍団に置き換えられ、2個自走砲旅団、2個軽野砲旅団に支援部隊が加わり、戦車・自走砲1019両を擁した[20]。この編成は独ソ戦時の戦車軍よりも、1946年に編成された機械化軍や1941年の機械化軍団に近かった[20]。最高総司令部は戦後の理想的な軍隊を編成する場として満洲を選び、のちの標準となる様々な新しい組織と概念を試験しようとしていた[20]。満洲での作戦は、その後何十年にもわたってソ連陸軍で研究されるほどの機動戦の傑作となった[20]。 ソ連軍が快進撃できた背景には、戦闘力が圧倒的に劣っていた関東軍が、防衛困難な満州の2/3を放棄して戦線を集約したこともあった[6]。そのため、﹁関東軍は臨機応変に後退し、避難民撤退の時間稼ぎをしながら、持久戦を展開した。ソ連軍は、8月13日に牡丹江を占領したが、15日の時点では、満洲の主要都市は陥落していなかった﹂と評する意見もロシア側にある[2]。 南樺太および千島列島への進攻に関してはソ連海軍、特に太平洋艦隊は艦艇不足であった。このため事前にレンドリースの一環としてアラスカにおいてアメリカとソ連の合同で艦艇の貸与と乗組員の訓練を行うフラ計画が実行された[21]。戦闘序列[編集]
日本軍[編集]
ソ連軍﹁大祖国戦争の歴史﹂︵第5巻、548-549ページ︶に記載されているように: 関東軍の部隊と編隊には、機関短銃、対戦車銃、ロケット砲はまったくなく、大口径砲の予備はほとんどありませんでした︵歩兵師団と砲兵連隊と師団の一部としての旅団では、ほとんど, 75mm砲があった場合関東軍[編集]
関東軍は満洲防衛の為、ソ連との国境に14の永久要塞を建設していた。 (一)東寧要塞…アジア最大の地下要塞。東寧重砲兵連隊が配置された。 (二)綏芬河要塞 (三)半截河要塞 (四)虎頭要塞…シベリア鉄道を視認する戦略上の要衝にあり、東西約10km・南北約4kmの規模を誇る。試製四十一糎榴弾砲、九〇式二十四糎列車加農を筆頭に大口径長射程重砲が配備された。 (五)霍爾莫津要塞 (六)璦琿要塞 (七)黒河要塞 (八)海拉爾要塞…ハイラル市を取り囲むように、周囲の山に陣地が築かれ、最大3万人が収容できる大陸屈指の要塞であった。西部防衛の要 (九)五家子要塞 (十)鹿鳴台要塞 (11)観月台要塞 (12)廟嶺要塞 (13)法別拉要塞 (14)鳳翔要塞 関東軍の作戦構想とは、兵力不足を補うため満洲の2/3を放棄、要塞群の密集する東部・北部でソ連軍を阻止し、逐次的な抗戦と段階的な後退行動によって敵部隊を消耗させつつ、居留民150万人のうち110万人が居住する新京と大連間を走る連京線と新京から図們を走る﹁京図線﹂を結ぶ防衛線に主力を後退配置して、ソ連軍を食い止めるとする作戦計画というものであった[6]。 また満洲各地で広く遊撃戦を行い、できる限りソ連軍の戦力を破砕する。ただし一部の前進を阻止遅滞させるための玉砕的な戦闘も予想しうる。後退の際には適時交通要所や重要施設は破壊して、敵の行動を妨害する、というものだった。日本軍は満洲の地形を最大限に利用し防衛計画を立てた[19]。 満洲の農業と工業の大半は平野部に集中し、三方から囲む山岳と森林が天然の要害となっていた[19]。特に西部の大興安嶺は標高900メートルに達し、わずかな峠道も湿地帯で覆われ、機械化兵力の通行に適していなかった[19]。 全部隊兵力の比率は日満軍1に対して、赤軍は1.15であり単純な兵員数に大きな差はなかった[19]。ただ戦車と砲の数はソ連が圧倒的であり、日本軍は満洲の天然の要害を活かして、兵器面での劣勢を相殺した[19]。西部が通行不能な地形なため、日本軍は東部、北部、北西の鉄道沿線と国境要塞線に戦力を集中し、第1方面軍だけが縦深的防御態勢をとっていた。 西部の海拉爾要塞が純粋な防衛拠点なのにたいし、東部の虎頭・綏芬河・東寧要塞は反撃用の攻勢拠点としての機能も有していた。東部の三要塞には砲兵部隊が重点的に配置され、虎頭・綏芬河・東寧のラインが主力決戦用の攻勢拠点として整備された。鹿鳴台・五家子・観月台要塞は間隙部の防衛とソ連軍の攻勢を阻止し日本軍の反撃を支援する攻防両面の機能を兼ね備えていた。 西部正面の海拉爾要塞は東部での反撃が完了するまで西部のソ連軍攻勢を抑止することが求められた。北部・西部は東部での決戦が完了するまで守勢に徹し、東部での作戦が完了次第、撤退を開始、ソ連軍主力を山岳部に誘導し東部の日本軍主力と合流した上で撃破作戦に移行する。日本軍の要塞陣地は単純な防御施設にとどまらず、敵を効果的に分断、撃破する機動戦用の戦略拠点として機能した。 戦術理論として一定の合理性を持つ作戦であったものの、当時の情勢と関東軍の準備状況などからは遊撃戦の展開や段階的な後退は非常に実行が困難な作戦であった。西正面のソ連軍の機甲部隊に対しては、第44軍︵3個師団基幹︶と第108師団を配備したに過ぎず、またこれらの部隊も火力・機動力ともに機甲部隊に対しては不足しており、実戦では各個撃破される危険性が高かった。 奇襲を受けた関東軍であったが、国境の要塞線などで激しい抵抗を見せて、8月13日までは戦線を守り抜いた[22]。こうして一部戦線ではソ連軍の足止めに成功していたものの、ソ連軍機械化部隊の進撃速度は早く、大本営や関東軍は主力の防衛線を﹁連京線﹂と﹁京図線﹂を結ぶ複廓陣地からさらに後退した通化周辺とするよう命令を出した。しかし、その命令を聞いた第3方面軍司令官後宮淳大将は、﹁居留民を見捨てることなど関東軍の面目が許さない﹂﹁軍は居留民と共に生き居留民と共に死ぬ﹂と述べて撤退を拒否、隷下の第30軍に﹁新京を死守してほしい。本官は奉天を死守する﹂と命じるなど、現場での作戦方針の不徹底もあった[6]。第五方面軍[編集]
第88師団︵樺太︶においては、対米戦に対応していた時期から、第88師団は樺太を真逢と久春内を結ぶ線で二分、それぞれで自活しつつ来攻する敵の殲滅にあたることとし、やむをえない場合に持久戦に移ることとし、同時に北海道との連絡維持を任務としていた。北部では八方山の陣地を軸とし、その西方山地や東方の軍道(東軍道または栗山道)沿いに北上、侵攻軍の翼に反撃、ツンドラ地帯内か西方山地に圧迫撃滅を図るものであり、南部では上陸阻止を第一としていた。 目標が対ソ戦に切り替わると、以北で小林大佐指揮下の歩兵第125連隊が八方山の複郭陣地などを活用し持久戦にあたり、南進阻止を企図するとした。以南の地域では東半部を歩兵第306連隊西半部に歩兵第25連隊をおき、師団主力は国境ソ連軍の邀撃にはあたらないとする旨が伝えられた。また、豊原地区司令部により、1945年3月25・26日には邦人7688名を地区特設警備隊要員として召集、教育しており、住民を利用したゲリラ戦をも想定していたともいえる。 第91師団︵北千島︶においては、他の島嶼と同じく北千島においても水際直接配備が当初は主であったが、戦訓から持久戦による出血強要へと方針が転換された。しかし陣地構築の困難さから、砲兵については水際に重点が置かれた。極力水際で打撃を与えつつ、神出鬼没の奇襲で前進を遅滞させるという村上大隊の戦闘計画に掲げられた任務は、その好例といえよう。全体の布陣は二転三転したが、最終的には幌筵海峡重視の配備となっていた。防御に徹した教育訓練がなされたことや、徹底した自給自足により栄養不良患者をほとんど出さなかったのも特徴である。 第7師団の主力は北海道東部にあり (本部: 帯広)、歩兵第27連隊と歩兵第28連隊はそれぞれ釧路と北見にあった。ソ連軍が国後島と北見、稚内と根室に上陸した場合、予備連隊として使用できるのは歩兵第26連隊のみであった。第42師団と宗谷要塞駐屯軍も、北海道北部と宗谷地域に配備された。[23]戦闘序列[編集]
関東軍総司令官 山田乙三 大将︵14期︶ ●第一方面軍‥司令官 喜多誠一 大将︵19期︶ ●第3軍 ●第5軍 ●直轄部隊 ●第三方面軍‥司令官 後宮淳 大将︵17期︶ ●第30軍 ●第44軍 ●直轄部隊 ●第4軍 ●第34軍 ●関東軍航空部隊 ●戦闘飛行部隊 ●教育飛行部隊︵独立第101教育飛行団︶ ●陸軍士官学校満洲派遣隊 兵員約70万︵詳細な個別師団・部隊の兵員数は不明︶、火砲約1,000門︵歩兵砲・山砲などすべてを含む︶、戦車約200両、航空機約350機︵うち戦闘機は65機。練習機なども含む︶ 第五方面軍 樋口季一郎 中将 ●南樺太 ●第88師団‥司令官 峯木十一郎 中将 ●千島列島 ●第91師団‥司令官 堤不夾貴 中将 ●第89師団‥司令官 小川権之助 中将 ●北海道 ●第7師団‥司令官 鯉登行一 中将 ●第42師団‥司令官 佐野虎太 中将 ●第1飛行師団‥司令官 佐藤正一 中将 ●内蒙古 ●駐蒙軍 ‥司令官 根本博 中将[24]居留民への措置[編集]
関東軍はソ連攻撃時の満洲居留民に対する方針について検討を先送りして具体的な対策を決めていなかった。しかし、関東軍が居留民退避に対して無関心であったということではなく、ソ連による中立条約破棄通告があったときには、関東軍司令部は各省の首脳や開拓団の代表者を招集し﹁近く予想されるソ連の侵攻に対する準備﹂を議題として長時間の討議を行っている。その席で開拓団はおおむね楽観的で﹁満洲は我ら墳墓の地、移るとすれば天国のみ﹂とか﹁ソ連の侵攻に対しては、老若婦女子も剣を持って起ち、軍と運命をともにすることを光栄とする﹂などの意見が出されて、関東軍より提案のあった退避には消極的であった。開拓団は関東軍が南方への動員で兵力の実態が無くなっていることを知らず、また、関東軍もその点は隠していた。関東軍はその後も居留民に日本本土への退避を促したが、日本本土は空襲が開始されていたのに加え、満洲は食料などの物資が豊富であり、積極的に退避する居留民は少なかった[25]。 大蔵省から派遣され満州国総務庁次長となった古海忠之は、関東軍はソ連軍の進攻は8月終わりか9月と見ていたとした上で、ハバロフスク抑留中に東部国境の軍参謀長が漏らした話として、ソ連軍進攻直前のころ現地作戦会議で関東軍司令部のある参謀が開拓民の引揚げをすれば軍の機密が漏れるため見殺しもやむなしとの述べ、そのまま放置することになったと聞いたことを、証言している[26]。一般には、満洲の在留邦人全体で百数十万人で、満洲開拓団は終戦時成年男子47,000人が根こそぎ動員で徴兵されていなくなり、高齢者・女性・児童中心に223,000人が残っていたとされる[27]。 状況悪化にともない、満洲開拓総局は開拓団に対する非常措置を地方に連絡していたが、多くの居留民、開拓団は悪化していく状況を深刻にとらえていなかったとされる[28]。そして、実際には8月12日に至っても︵役場から︶開拓団民側には通常の招集令状が届いていたとの証言もある[29]。国境近くに住む者の中には、国境警備部隊の減少に気付き、不審を抱いて財産を処分して開戦前に日本に引き揚げて助かった者もいたと言う[30]が、極めて幸運な事例であったと言える。 防衛研修所戦史室 ︵現在の防衛省防衛研究所戦史部の前身︶は、その﹃戦史叢書﹄で、ソ連侵攻時、引き揚げ命令が出ても、一部の開拓総局と開拓団が軍隊の後退守勢を理解せず、退避をよしとしなかったのだとする説を唱えている。その原因としては、当時の多くの開拓団と開拓総局の人々の、無敵と謳われた関東軍に対する過度の信頼と情報の不足を大きな要因だとする見解[31]がある。対して、関東軍作戦参謀草地貞吾大佐は、戦後の回想録で﹁なぜ関東軍は居留民保護に兵力を出さなかったか、より速やかに後退したかと糺されれば、作戦任務の要請であったと答えるばかりである﹂と述べており[32]、この発言は事実上関東軍には初めから居留民の退避に意を払うつもりがなかったことを示している。 もともと関東軍はソ連軍進攻の際には防衛線を朝鮮国境近くの通化まで下げて防衛する予定であった。そこで8月9日にソ連参戦の情報が入ると各地の関東軍関係者はいっせいにあらかじめ定められていた地域への撤退を開始した。その際、多くの目撃者証言からは、①関東軍将兵・軍属及びその家族、②満洲に派遣されていた日本政府役人及びその家族、③満鉄及び満州電々等の国策企業関係者の順で避難が行われ、また、それぞれがスムーズに行われるよう、意図的に秘密裡に行われたことが明確になっている。とくに関東軍軍人の場合、しばしば自身の家族さらには大量の家財を日本を目指して真っ先に避難させ、非難の対象となった。 満洲国の首都新京の場合は、満洲国と日本政府の関係者、関東軍、満洲鉄道などが集まって対策会議が開催され、軍からは新京防衛戦のため居留民の速やかな退避の要求があり、政府関係者からは﹁新京陥落まで家族と踏みとどまる﹂などの意見が出され、最終的には満洲鉄道が避難のための臨時列車を出し、8月10日午後6時を一便として﹁居留民﹂﹁政府関係者﹂﹁軍﹂の順で新京から退避することが決定されたと当時の軍関係者からは主張される[33]。それによれば、状況が切迫する中で、老人、妊婦、病人が優先される以外については駅に到着次第順に列車に詰め込まれるという状況になって、﹁居留民﹂﹁政府関係者﹂﹁軍﹂の順は最初から崩れてしまったといい、結局、避難列車第一便も大きく遅延し、8月11日1‥40に新京を出発、この後も2時間おきに列車が出発したが、故障続発で避難は捗らなかったという[34]。 これについて、関東軍参謀の草地は民間人には連絡が行き届かず遅れたのだとも語っている。が、当初は駅に軍人・軍属の家族ばかりが大量の運べるだけの荷物等を持って脱出していること[35]、末端の町村役場などでいち早く住民連絡等の通知を受けたという証言や記録がないことから、軍関係者が自身らの家族・財産を優先的に逃すため、意図的に一般邦人には秘密裏に進められ、彼らの脱出については無視ないし後回しにされたと見る向きも多い。例えば、僻地にあったのではないかと思われる変電所の家族に関し、そこの子供の証言として、10日には軍人にトラックに乗せられて出発し、証言中の日にちは不明確であるが平陽駅についてみると、軍属とその家族、女性・子供が集まっており、彼らや満洲電々・満鉄関係者らとその家族とともに、3日がかりで15日に牡丹江駅に到着︵したがって、証言が正しければ平陽駅出発については12日︶したとするものがある[29]。 古海忠之によれば、8月9日午前2時に総務庁の各地出先から連絡が入り、同日7時頃関東軍司令官から総務長官に満州国首脳者と大きな特殊会社の首脳は翌10日午後10時の列車で通化に移動することを申し渡され、ついで臨時国務院会議や参議府会議で皇帝以下首脳の移動が決まり、10日午後10時の列車が遅れて11日未明に発車したという[26]。古海は中央政府の移動については士気にかかわるとして反対していたところ、11日になって初めて﹁関東軍の家族なら命令すればすぐ出発できるのでそうした措置をとった﹂との釈明のもと、まず関東軍の軍人家族が、ついで満鉄社員の家族が既に疎開を済ませたことを関東軍の原参謀から告げられ、今度は満州国官吏の家族も疎開させるから準備するよう伝えられたという[26]。 ソ連軍進攻にあたって関東軍の通化移転は決められていて、ただ、その通化の司令部移転のための設備が完成していなかったこと、新京が首都であることから士気にかかわるとして寧ろ日本人官吏や満洲官僚の抗戦意見が強かったこと、また、とくに若手将校らの中には3kmほど南にある南嶺︵10日に作戦課と後方輸送担当部門がいったん移動したものの、こちらも通信設備がなく、防空対策も不十分であることが明らかになり、翌11日には新京に戻ってきている[13]。︶を拠点に抗戦しようという意見もあったことから、紆余曲折があって遅れたものの、新京の場合も他とほぼ同様に、まず関東軍将兵や軍属及びその家族、国策企業関係者の順で避難がひそかに実施されたことが、軍関係者以外の証言からは明らかになっている[36]。 辺境の居留民である開拓団については、これらに加えて、第一線の部隊もソ連軍進入が始まるとその対応のために救出や保護の余力がなく、ほとんどの辺境の居留民は無事に撤退することはできなかった。奥地の開拓団といっても、その地区の監督官庁や匪賊襲撃に備えて関東軍現地部隊と日頃から連絡をとっていたり電話を備えている例も多く、一部は現地警察や心ある現地部隊本部から連絡を受けた例もあった。しかし、興安のように関東軍関係者が連絡もなくいち早く逃走していたケース[37]も多かった。 国境付近の居留民の多くは、いわゆる﹁根こそぎ動員﹂によって、かなりの戦闘力を失っており、死に物狂いでの逃避行のなかで戦ったが、侵攻してきたソ連軍や暴徒と化した満洲民、匪賊などによる暴行・略奪・虐殺︵葛根廟事件など︶が相次ぎ[38][39]、庇護を失った住民を救うため、国境警察隊員・鉄路警備隊員などが乏しい装備でソ連軍に立ち向かい鋒鏑に倒れるといった悲壮な状況も各地で見られることとなった[40]。︵ただし、﹁根こそぎ動員﹂といっても、いわば、その途上の段階であり、また、重労働である農作業を行う必要もあってそれなりの青壮年男性も残っていて、通常は銃程度は有し、軽機関銃で武装している集団すらまま在った[41]。︶悲劇のなかには、ソ連軍の包囲を受けて集団自決した事例や︵麻山事件・佐渡開拓団跡事件︶、弾薬処分時の爆発に避難民が巻き込まれる東安駅爆破事件もあった。また第一線から逃れることができた居留民も飢餓・疾患・疲労で多くの人々が途上で生き別れ・脱落することとなり、収容所に送られ、孤児や満洲人・漢人の妻となる人々も出た。 当時満洲国の首都新京だけでも約14万人の日本人市民が居留していたが、8月11日未明から正午までに18本の列車が新京を後にし3万8000人が脱出した。3万8000人の内訳は ●軍人関係家族 2万0310人 ●大使館関係家族 750人 ●満鉄関係家族 1万6700人 ●民間人家族 240人 この一行の中にいた関東軍総司令官山田乙三夫人と供の者は平壌に向かい、さらに平壌からは飛行機を使い8月21日には無事日本に帰り着いている[42]。 当時新京在住の藤原ていはその著作で、現地で気象台にあたる役所に勤めていた夫である新田次郎が、9日夜ひっそりと役所に呼び出され、軍の家族はすでに移動しており、政府職員の家族もこれについで同じ行動をとることを告げられ、深夜の内に駅に集まるよう指示されて集合し、翌朝、同僚らの他にも政府関係者とみられる者らといち早く列車で脱出したことを述べている[43]。当時、満洲電々公社にいた草野辰男は国境近くの町にいたため、事態をいち早く知って9日には自主的に他の公社員らとともに脱出しようとしていたが、同日夜には軍人や県公署員の家族は既にいなくなっていたと証言している[44]。また、新京の満洲電々公社にいた高橋数一は、10日に関東軍からの通達として1/3は従来業務を続け、1/3は現地防衛隊、1/3は関東軍にそれぞれ招集する予定が伝えられ、当日だけでも赤紙がさらにいっそう乱発されて﹁根こそぎ動員﹂が続けられたが、その後計画が変更され、11日になって、関東軍総司令部が通化に移ることに決まったので、軍支援業務をその地で行えるよう、満洲電々関係者は翌日12日に移動するよう告げられたことを証言している[44]。実際に、12日夜に新京の軍属関係者の家族がひそかに移動していっせいに姿を消したとの邦人住民の証言がある[36]。満洲重工業開発株式会社総裁の高碕達之助も、11日に関東軍総司令部は通化に行くことになり既に移り出していること、後方支援に必要な民間事業の関係者もそれに続くよう指示されたこと、その他の民間人はそれぞれいずれかに疎開することになったこと、しかし、一般の人々の殆どがそれについては知らなかったことを証言している[44]。また、高碕は、各地で在郷軍人の召集は続き、鉄嶺では14日に最後の召集があったことも証言している。 新京の関東軍主力は11日通化に移動を開始、山田乙三総司令官ら首脳は11日ないし12日に通化省大栗子に到着。13日満州国の張景恵総理は新京を無防備都市とするよう、残っていた秦彦三郎関東軍参謀長に要請したが拒否される。同日、最後に残っていた秦彦三郎関東軍参謀長・草地貞吾作戦主任参謀らが通化に飛行機で到着した。ところが、翌14日彼らはまた新京に戻って来る。これについて、通化では通信設備等が完成していず指揮もろくにとれなかった為また新京に戻らざるを得なかったのだとして司令部の不手際だとする説や、主に関東軍関係者からの14日に玉音放送があることを聞いて電波の届きにくい山岳地帯にある通化を避け玉音放送を聞くために新京に戻っただけだと主張する説等がある。実際には、満州電々の武部九郎が満州国総務長官であった兄の武部六蔵から聞いた話として、既に14日には大本営から連絡の参謀が通化に来て司令部一同は終戦となることを知って新京に戻ってきたものであることを証言している[45]。この説によれば、設備が整わず不便な通化を避けて、はじめから居を新京に戻すつもりで帰ってきたことになる。これに対し、さらに元関東軍関係者からは、関東軍4課の原善四郎課長補佐は傍受していた海外放送や同盟通信を通して、満州国総務長官の武部六蔵は満洲国通信社を通してそれぞれ知ったもので、さらに、関東軍2課の野原中佐がやはり満洲国通信社を通してポツダム宣言受諾を知って山田司令官らを通化から呼び戻したとする主張がある[13]。これによれば、草地参謀が、確認のためと麾下部隊を納得させるために松村参謀副長を大本営にあらためて出張させるよう山田司令官に提案して、これが実施されたという。 関東軍第5練習飛行隊の二ノ宮清准尉ら10人が、ソ連軍に一撃を加えるために、10機の練習機で特攻出撃した﹁神州不滅特別攻撃隊﹂がある。特攻機には特攻隊員の婚約者の女性2人も同乗しており、特攻隊員10人と婚約者2人はソ連軍戦車部隊に特攻し戦死した[46]。 関東軍は、兵力不足で防衛困難な満州の2/3を実質放棄し、邦人居留民150万人の73%が居住している、新京と大連間を走る﹁連京線﹂と新京から図們を走る﹁京図線﹂結ぶ線を最終防衛線とし、戦線を集約しながら各戦域で敢闘して一部でソ連軍の進撃速度を遅らせ、居留民の避難の時間稼ぎをしたが、防衛線外にいた居留民は戦禍に巻き込まれることとなり、150万人の居留民のうち3万人が戦闘に巻き込まれて死亡し、戦後に餓死・病死したり行方不明になったものも含めると13万人が帰らぬ人となった[7]。それでも、満洲からは朝鮮半島経由も含めて約135万人が戦後に日本本土に帰国することができた[47]。結果的に多くの居留民を避難させることに成功したとして、関東軍に対し、上記のようなロシア側の評価もあるとされる[2]。経過[編集]
初動[編集]
西正面の状況[編集]
ソ連軍ではザバイカル正面軍、関東軍では第3方面軍がこの地域を担当していた。日本軍の9個師団・3個独混旅団・2個独立戦車旅団基幹に対し、ソ連軍は狙撃28個・騎兵5個・戦車2個・自動車化2個の各師団、戦車・機械化旅団等18個という大兵力であった。関東軍の要塞地帯と主力部隊及び国境守備隊は東部・北東正面に重点配置され、西部・北西正面の守りは手薄だった。方面軍主力は、最初から国境のはるか後方にあり、開戦後は新京-奉天地区に兵力を集中しこの方面でソ連軍を迎撃する準備をしていたため、西正面に機械化戦力を重点配置していたソ連軍の一方的な侵攻を許してしまった。逆にソ連軍から見ると日本軍の抵抗を受けることなく順調に進撃した。第6親衛戦車軍はわずか3日で450キロも進撃した。同軍の先鋒はヴォルコフ中将の第9親衛機械化軍団が務めたが、アメリカ製のシャーマン戦車が湿地帯の峠道に足をとられ、第5親衛戦車軍団のT34部隊が代わりに先導役を務めた。第39軍の側面援護の下、第6親衛戦車軍は満洲西部から迂回しつつ、鉄道沿線の日本軍を殲滅していった。8月15日までに第6親衛戦車軍は大興安嶺を突破し、第3方面軍の残存部隊を掃討しつつ満洲の中央渓谷に突入した。
一方第3方面軍は既存の築城による抵抗を行い、ゲリラ戦を適時に行うことを作戦計画に加えたが、これを実現することは、訓練、遊撃拠点などの点で困難であり、また機甲部隊に抵抗するための火力が全く不十分であった。同方面軍は8月10日朝に方面軍の主力である第30軍を鉄道沿線に集結させて、担当地域に分割し、ゲリラ戦を実施しつつソ連軍を邀撃しつつも、第108師団は後退させることを考えた。このように方面軍総司令部が関東軍の意図に反して部隊を後退させなかったのは、居留民保護を重視することの姿勢であったと後に第3方面軍作戦参謀によって語られている。関東軍総司令部はこの決戦方式で挑めば一度で戦闘力を消耗してしまうと危惧し、不同意であった。ソ連軍の進行が大規模であったため、総司令部は朝鮮半島の防衛を考慮に入れた段階的な後退を行わねばならないことになっていた。前線では苦戦を強いられており、第44軍では8月10日に新京に向かって後退するために8月12日に本格的に後退行動を開始し、西正面から進行したソ連の主力である第6親衛戦車軍は各所で日本軍と遭遇してこれを破砕、撃破していた。ソ連軍の機甲部隊に対して第2航空軍(原田宇一郎中将)がひとり立ち向かい12日からは連日攻撃に向かった。攻撃機の中には全弾打ち尽くした後、敵戦車群に体当たり攻撃を行ったものは相当数に上った。ソ連進攻当時国境線に布陣していたのは第107師団で、ソ連第39軍の猛攻を一手に引き受けることとなった。師団主力が迎撃態勢をとっていた最中、第44軍から、新京付近に後退せよとの命令を受け、12日から撤退を開始するも既に退路は遮断されていた。ソ連軍に包囲された第107師団は北部の山岳地帯で持久戦闘を展開、終戦を知ることもなく包囲下で健闘を続け、8月25日からは南下した第221狙撃師団と遭遇、このソ連軍を撃退した。関東軍参謀2名の命令により停戦したのは29日のことであった。ソ連・モンゴル軍は外蒙古から内蒙古へと侵攻し、多倫・張家口へと進撃、関東軍と支那派遣軍の連絡線を遮断した。ザバイカル正面軍は西方から関東軍総司令部の置かれた新京へと猛進撃し、8月15日には間近にまで迫り北東部・東部で奮戦する関東軍の連絡線を断ちつつあった。
東正面の状況[編集]
北正面の状況[編集]
北朝鮮の状況[編集]
南樺太および千島の概況[編集]
南樺太の戦闘[編集]
千島列島の状況と戦闘[編集]
ポツダム宣言受諾後の戦闘[編集]
前線部隊の状況[編集]
在留邦人の状況[編集]
満洲の兵力の大半は南方へ移転、昭和20年春からの﹁根こそぎ動員﹂により壮年男子が召集されていたので、開拓団には老人、女性、子供ばかりが残され、僻地の開拓団にはソ連参戦も日本敗戦も伝わらなかった[39]。また、日ソ開戦前に関東軍が主力を北朝鮮方面に後退させたので、ソ満国境附近の日本人開拓移民は戦場に取り残され、混乱の中で多数の犠牲者や孤児が出ることになった[9]。大半の開拓移民や居留民は荷馬車に荷を積み徒歩で都市部に向かう途上、ソ連軍や現地の暴徒の襲撃を受け、戦死あるいは自決、病死、栄養失調死も多かった[39]。 ソ連軍首脳部は日本軍と日本人に対する非人道的な行為を戒めていたが、それはソ連軍の現地部隊にはしばしば無視され、正当な理由のない発砲・略奪・強姦・車両奪取などが堂々と行われていた[70]。また推定50万人の避難民が発生し、飢餓と寒さで衰弱していった。関東軍は当時、武装解除が行われており、具体的な対応手段は完全に封殺され失われていた。︵その一方で、本来この地域の支配権を持つこととされた国民党軍とソ連の支援を受けた八路軍との間で角逐が起き、日本人の中からもそれらを利用し利用されるような形で政治的争いに参加あるいは反乱を起こし、その結果として通化事件、千山事件のような日本人虐殺事件も起きている。︶ 避難する日本人集団もある程度の武装を持つケースも多かったものの、しばしば無抵抗であっても日本人避難民の集団に対し、ソ連軍が爆撃や機銃掃射を浴びせるケースがみられた。さらに逃げる在留邦人を、匪賊ばかりか時には一般の現地の農民が暴徒となって襲撃し、略奪あるいは虐殺して死者の衣服まで奪い取って行く事件が多発した。 8月14日に起きた葛根廟事件では、避難していく千人を超える避難民に対しソ連軍戦車が数度にわたって機銃掃射を浴びせた後、戦車や自動車から降りてきたソ連兵は生死を確かめて射殺あるいは銃剣で刺殺していった。ソ連兵の中には女性兵士もいたが、彼女らも女・子どもが多い避難民を射撃していったとされる。なおも生き残った者も、多くが家族らを道連れに自決した。さらに残った子どもらには地元民に引取られる者もいて、後に見る残留孤児の問題につながっている。家族ごと生き延びても、暴民に子どもが拉致され売り飛ばされたケースもあった[71]。 吉林省扶余県の開拓団の事例では、親しかった中国人が暴徒襲撃の情報を教えてくれたので、竹槍などで武装して戦ったが、中国人暴徒の数は2000人にも及び、婦女子以下自決して272名が死んだという[72]。そのほか、敦化事件、牡丹江事件、麻山事件などが起こった。 このような逼迫した状況下で関東軍の現地責任者は、一刻も早くこの現状下に鑑み現地での状況を東京に逐次伝え、ソ連に対してこのような事態を一刻も早く改善するようにと外交的交渉を早く進展するようにと求めることが限界であった。この時点で本来なら関東軍を指揮督戦して励ます筈の上層部はすでに航空機等で本土にいち早く退避しており、満洲国に残された現地の責任者等は、このような現地状況を日本政府に電報を使用して再三に渡って送り続けた。一方日本政府は連絡船などによる内地向け乗船に満洲からの避難民を優先するようにと本土より打電をして取り計らっていた。[要出典] このとき内地に戻ることができず現地に留まった在留邦人は中国残留日本人と呼ばれており、日中両国の政府やNPOによる日本への帰国や帰国後の支援などにより問題の解決が図られているが、終戦から70年がたった後でも完全な解決には至っていないのが現状である。また、樺太では在樺コリアンの問題が残っている。 関東州を含めた在満洲日本人居留民は155万~160万人、その約14%にあたる27万人が開拓民であり、うち7万8500人が死亡した。これは日本人死亡者17万6千人の45%にあたる[39][38]。題材とした作品[編集]
﹃人間の條件﹄ ●監督‥小林正樹 ●出演‥仲代達矢, 佐田啓二ほか ●1959年・日本、モノクロ 本作品の第四部と第五部はソ連対日参戦を描いている。 ﹃樺太1945年夏 氷雪の門﹄ 1974年・日本、終戦後も電話交換作業を続けるために留まった女性交換手が、ソ連軍が迫る中自決した真岡郵便電信局事件を描いた作品。なお、公開時にモスクワ放送が名指しで﹁非友好的な作品﹂と批判するなど、国際問題になった。 ﹃満州帝国崩壊 〜ソビエト進軍1945〜﹄ ●監督‥ユーリ・イヴァンチュク ●出演‥ヴァレンチナ・グルシナ, ヤナ・ドラズ、ヴィクトル・ネズナノフほか ●1982年・ソビエト、87分・カラー 満洲への侵攻を赤軍の視点で描いた作品。T-34-85など当時の兵器も実物が登場する。ただし、日本軍の描写には不自然な点が多い。 ﹃ラストエンペラー﹄ 1987年・イタリア/ 中華人民共和国/ イギリス、中盤で愛新覚羅溥儀一行がソ連軍部隊に拘束される過程が描かれる。 ﹃大地の子﹄ 1987年〜1991年・日本、山崎豊子原作の小説・テレビドラマ。冒頭、ソ連参戦により関東軍と共に逃避行を繰り広げる満蒙開拓団が、ソ連軍に虐殺されるシーンがある。 ﹃霧の火 樺太・真岡郵便局に散った九人の乙女たち﹄ 2008年・日本、日本テレビ製作の単発ドラマ。真岡郵便電信局事件を描いた作品。脚注[編集]
参考文献[編集]
●伊藤正徳﹃帝国陸軍の最後︿第5﹀終末篇﹄文藝春秋新社、1961年。ASIN B000JBM30U。 ●防衛庁防衛研修所戦史室﹃戦史叢書 北東方面陸軍作戦 <2> 千島・樺太・北海道の防衛﹄朝雲新聞社︵昭和46年3月31日発行︶ ●防衛庁防衛研修所戦史室﹃戦史叢書 関東軍 <2> 関特演・終戦時の対ソ戦﹄朝雲新聞社︵昭和49年6月28日発行︶ ●金子俊男﹃樺太一九四五年夏 -樺太終戦記録-﹄(1974年4月28日第4刷) ●秦郁彦編﹃日本陸海軍総合辞典﹄東京大学出版会︵1996年9月10日第4版︶ ●角田房子﹃墓標なき八万の死者 満蒙開拓団の壊滅﹄中公文庫 ISBN 412200313X ●半藤, 一利 (2002). ソ連が満洲に侵攻した夏. 文春文庫. ISBN 978-4-16-748311-1 ●中山隆志﹃一九四五年夏最後の日ソ戦﹄中公文庫、2001年 改版2022年 ●賽世平 (2013). “1945年日本北海道险被苏军占领始末” (中国語). 舰载武器 (4). ISSN 1671-3273. ●吉田裕﹃日本軍兵士―アジア・太平洋戦争の現実﹄中央公論新社、2017年。ISBN 978-4121024657。 ●﹃暗い青春の日々﹄朝日新聞社︿女たちの太平洋戦争﹀、1991年。ISBN 4022563648。関連項目[編集]
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外部リンク[編集]
- 満州、東満の部隊と抑留記 兵隊三ヶ月 捕虜三年 - ウェイバックマシン(2009年6月1日アーカイブ分)